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思い出作品の部屋☆ 思13「角川文庫100万部表彰」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」新書版の地上編の十巻が完結したのは1988年9月でしたが、この間にファンクラブが結集されたり、第一回の体験ツアーが行なわれたりして、「宇宙皇子」の人気は一気に頂点へ向かって行きましたが、そんな中でじっとしていられなかったのは、テレビ時代からわたしと縁の深かった徳間書店です。「宇宙皇子」の第六巻が発売される直前に、若い人に向けた小説である「エプリル・シャワー物語」を出版しました。しかも時を置かずにサイン会まで用意して、小説の舞台になっている横浜の港が見える丘公園にある「大佛次郎文学記念館」へ読者を集めて映像化に向けたキャンペンを行ったりしてきたのです。これは角川書店には大変刺戟になったように思われます。勿論あの頃の私はそんなことまで考える余裕はありません。仕事の依頼を嬉しく頂いて、やれる限りのことをしようとしていただけです。しかし時をへて今日まで時代を重ねてくると、これまで見えなかった世の中の経緯がいろいろと見えてくるものです。あの頃のことを思うと、徳間書店が私に青春小説を書かせてきたことはかなり刺激的であったようにおもえるようになりました。それから二年もしない「宇宙皇子」の天上編の第三巻目を前にして1986年10月に、徳間書店の青春小説に釘をさすように、角川書店は地上編の宇宙皇子を文庫化して発売し始めたのです。これまでの新書版よりも廉価で手に入れられるようということもあったのか、それとも表紙のイラストが新しくなっていたためか、第一巻から大変な売れ行きになりました。


 それから暫くして1987年(昭和62年)12月にまだ文庫の六巻目を出したあたりだったのですが、角川書店からある案内状が届きました。これまで私の図書で文庫版になったものが、大変早いペースで100万部を突破したので表彰したいということです。文京区の高級レストランに招待されて、角川春樹社長から表彰されました。


こんなに早く100万部を達成した人はいないということのようで、大変嬉しい報告でしたが私にはまったく見当がつかないお話でした。


 社長自ら感謝状と、賞金が渡され、記念のブロンズ像が渡され、


                                    「角川感謝状」1.jpg       


         「宇宙皇子100万部突破表彰謝礼」1.jpg 「宇宙皇子100万部突破表彰銅像」1.jpg


 社長はまだ出版界の様子に慣れていない私のために、図書の奥付に記されている、版数・・・つまり何版となっているかということについての、ほとんどの人に知られていないからくりと言うことについて教えて下さいました。


 あの版数が必ずしも正確なものではなく、会社によってはやたらに多い版数を刻んであるものがあるけれども、それは本来の実際の売れ行きとはならないものが多いということです。私が関係した図書の場合にも、十版を越えるものがあるのですが、その出版社では千部売れても一版と数えれば、十版といっても結局は一万部ということになりますが、角川書店の場合は、五万部で一版と数えるというのです。当然ですがこういう計算だと、二十版というと十万部ということになります。


 それを伺ってから、奥付の版数によってその図書の判断をすることには、いささか問題があるということを知りました。


 こんなことが縁になって、社長からは毎月軽井沢の別荘へ招待されて、さまざまな方との出会いも作って頂きましたが、社長が大事にしていた神仏への祭りにも参加させて頂きました。


 年が変わって1988年(昭和62年)になると天上編の宇宙皇子は三月に第七巻目「めぐり逢い、輪舞」が、第八巻目「落葉帰根の詩」が五月に、第九巻「さらば、いとしの客人」が六月、第十巻目「珍(うず)皇子(みこ)よ」が九月に発売になりました。


社長はまだ出版界の様子に慣れていない私のために、図書の奥付に記されている、版数・・・つまり何版となっているかということについての、ほとんどの人に知られていないからくりと言うことについて教えて下さいました。


 あの版数が必ずしも正確なものではなく、会社によってはやたらに多い版数を刻んであるものがあるけれども、それは本来の実際の売れ行きとはならないものが多いということです。私が関係した図書の場合にも、十版を越えるものがあるのですが、その出版社では千部売れても一版と数えれば、十版といっても結局は一万部ということになりますが、角川書店の場合は、五万部で一版と数えるというのです。当然ですがこういう計算だと、二十版というと十万部ということになります。


 それを伺ってから、奥付の版数によってその図書の判断をすることには、いささか問題があるということを知りました。


 こんなことが縁になって、社長からは毎月軽井沢の別荘へ招待されて、さまざまな方との出会いも作って頂きましたが、社長が大事にしていた神仏への祭りにも参加させて頂きました。


 年が変わって1988年(昭和62年)になると天上編の宇宙皇子は三月に第七巻目「めぐり逢い、輪舞」が、第八巻目「落葉帰根の詩」が五月に、第九巻「さらば、いとしの客人」が六月、第十巻目「珍(うず)皇子(みこ)よ」が九月に発売になりました。


      「天上編・7」1.jpg 「天上編・8」1.jpg 「天上編・9」1.jpg 「天上編・10」1.jpg 


 同じように地上編宇宙皇子の文庫も七巻目が三月に、八巻目が八月に、九巻目が六月に、十巻目が七月に発売されて完結しました。


      「天上編文庫・7」1.jpg 「天上編文庫・8」1.jpg 「天上編文庫・9」1.jpg 「天上編文庫10」1.jpg 


 この七巻、八巻、九巻、十巻という宇宙皇子は、天上編ということで一つのシリーズが完結することになったのですが、その十巻目の作品については、私には生涯忘れることの出来ない別れとの遭遇をすることになってしまったのです。話が長くなってしまいますが、私が大学を出て間もなく、就職をあきらめて作家を目指したいと申し出た時のことです。作家の世界の厳しさを熟知していた父の怒りをかってしまって、家を出なくてはならなくなってしまったことがありました。それから十数年という間口もきいてくれない断絶状態があったのですが、長いこと絶遠状態にあった父も「宇宙戦艦ヤマト」のヒットや「宇宙皇子」のヒットという私の活躍を知って、ようやくかつての勘気を解いてくれ始めたころのこと、非常に元気はつらつとしていたはずだった父も喉頭癌を患って次第に体調を崩してしまい、やがて気持ちの張りを失ってしまって記憶障害が始まり、私の親友が院長である病院へ入って貰っていたのですが、次第に記憶は薄れて体調も衰えていってしまいました。


この本については、宇宙皇子が苦闘しながら、やっと自分の父と思われる天上の神と出会うのですが、その宮殿へようやくたどり着いて、彼が生まれたいきさつについて聞き出したかったのですが、必死で宮殿内へ飛び込んでいこうとする宇宙皇子に対して、父たる神は厳しく「まだ早い」と言って突き放されて地上へと戻されてしまうのです。


私にとっては、この別れこそが、実の父との別れの光景と重なり合っていたのです。


1989年(平成元年)2月3日。父は喉頭がんを患って療養中の医院で体調を崩し、一気に回復不能状態になってしまい、ほとんど言葉もかわせない状態になって鬼籍の人となってしまいました。いろいろな行き違いはありましたが、ようやくこれまでの親子関係を取り戻したばかりだというのに、その絆を断ち切るように天界へ向かって行ってしまった父の姿を見ていると、いよいよ納棺という時は天界の父に会いに行った宇宙皇子が、門前で突き放されて、また苦界の現世に戻されてしまいましたが、そんな宇宙皇子と同じような気持ちになってしまって、出版されて間もないあの天上編十巻目「珍皇子よ」の本を棺に収めながら、涙を禁じ得ずに兄弟たちに囲まれながら号泣しつづけてしまったのでした。


 


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