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言霊謎解きの部屋☆ 言34「ひとくち言霊」(東西南北に敵あり) [趣味・カルチャー]

                                        「若菜イラスト」.JPG

 

孤立無援の状態でいることを、よく四面楚歌という言葉で表現されますが、古代においては自ら敵を作っていたとしか思えないのが中国でした。


努力してもどうしても融和することができずに、止むを得ずそのような状態になってしまうというのではなく、あくまでも自国の優位を誇らしく思うが故に、周辺の国々を蔑むしかなく、敢えて四面楚歌状態を作り出していたのが中国であったということなのです。


あくまでも、政治、経済、文化、すべての点で、中国が世界をリードする中心の国なのだという、中華思想に基づいた考え方なのですが、彼らは中国を取り巻く周辺の国を南蛮(なんばん)北狄(ほくてき)東夷(とうい)西戎(せいい)と言って蔑んでおりました。進んでいるのは自国だけで、周辺の国々は、すべてかなり遅れている野蛮な者たちだという考え方から生まれた呼び名であったわけです。


ところがこの中華思想というものは、決して中国の独占物であったわけでもなくて、自国の尊厳というものを大事にしようとする者たちにとっては、中国と同じような立場でその周辺の国を見るようになっていったのです。


 中国にとって南蛮とは、インドシナなどの南方の民族のことを差しましたが、室町、江戸時代の我が日本では、タイ、ルソン、フィリッピン、ジャワなどの南方諸島を指していましたし、中国にとっての北狄(ほくてき)とは、北に位置する匈奴(きょうど)鮮卑(せんぴ)柔然(じゅうぜん)突厥(とっけつ)契丹(きったん)、ウルグアイ、蒙古などの遊牧民族のことを指し、東夷といえば、満州、朝鮮、日本を指していますが、わが国では都のあった京都中心として考えれば、関東、東北の武士を指していました。そして最後に、西戎にあたる民族といえば、中国にとってはチベット、トルコのことですが、わが国にとっては、都から遠く離れた所に住まう民、田舎人のことを指していました。特に京都の人は、荒っぽい東国武士のことを指して、そのように言ったりしていたのですが、江戸の末期には、西洋人を蔑んで、西戎などと呼んだりしていたようですが、結局国も、人も、周辺の存在を蔑むことで、自らの存在の優位を確認しながら満足しているのではないのかと、自戒の思いを込めて考えたのでした。


 自己中はいつの時代にも避けられない問題なのかもしれませんね。


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