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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の二 [趣味・カルチャー]

      第一章 「卓越した指導者であるために」(二)


        為政者の課題・「状況に応じた指導をすること」


 まだブログは始まったばかりですから、はじめてお付き合いする方もいらっしゃると思いますので、今回のシリーズについての概要についてもう一度説明しておきたいと思います。


 今回のブログのシリーズは、弘仁(こうにん)元年(八〇九)から天長(てんちょう)承和(じょうわ)十五年(八四二)にわたるほぼ三十年間は、政局も安定し、平安文化も華を開いたといわれていた時代


を扱う、探段のための素材です。


為政の責任者であった嵯峨天皇と民・百姓が見つめて暮らしていた現実というものが、どんなものであったのかを辿っていると、なぜか我々が現在見つめて暮らしている現実と、重なり合うところが妙に多いということに気が付きました。同じ国の、同じ人々によって記録された生活の喜怒哀楽の姿は、本質的に古代も現代もないということを実感させられたのです。


 そこで・・・、ようやく自由になる時間を獲得された方々に、閑談の素材となる読み物として、提案をしたいと思って始めることにしたブログです。


本来は全体を編年体で書いた方が理解し易いとは思ったのですが、今回は取り上げた問題の年代が、前後することが多々あると思います。それは章ごとに設定したテーマが決めてあるためなのです。


取り上げた素材に秘められている問題に、現代の問題として考えて頂きながら、楽しんで頂こうという試みが秘められているのです。


一話一話をその頃の現実として受け止めて下さい。


そこで今回取り上げたのは、弘仁二年。(八一一)嵯峨天皇にとって即位から二年目のお話です 


為政者・嵯峨天皇


弘仁二年(八一一)二月十四日のこと


発生した問題とは


政庁が動き始めた時、嵯峨天皇がすぐに直面させられたのが、飛鳥・平城時代から引き続いている厄介な問題の一つであった、陸奥(みちのく)国一帯に勢力を持つ蝦夷(えみし)という民族との抗争問題でしたが、は改めて慌ただしく平城天皇から譲位され為政を受け持つことにさせられた時のことを思い出していました。


発生した問題とは


 平城天皇は即位してからわずか五年弱という短期間の治世でしたが、桓武天皇の信任が厚かった藤原の南家を背景にした実力者の伊予親王による、天皇に対する呪詛という事件が起こったのです。それを知った藤原の北家を中心にした政庁の中には、不穏な空気が漂い始めて、天皇は皇太子であった弟の神野新王に、後を頼まなくてはならなくなってしまったのです。


 親王は直ぐには受け入れませんでした。その間に補佐に動いてくれていたのが、北家の実力者である内麻呂の子の真夏・冬嗣という兄弟でした。二人は神野親王に被害が及ばないようにと庇いつづけてくれたこともあって、政庁の空気が治まりつつあり、ついに大同四年(809)の四月に譲位という形で為政を受け継ぐことになったのです。嵯峨天皇はまだ二十五、六歳という若さでした。


 主力となった藤原北家の後押しがあったこともあって、政庁での手足を受け持って動いてくれるのに助けられて、為政の責任者としての務めを果たすことができるようになりました。


それだけに天皇は周囲への気配りもなかなか大変でした。兎に角古代の天皇の中でも学識経験者の中でも、かなり政治家としての見識の高い英邁の士として評価の高い天皇です。様々ことでの気遣いがあったと思われるのですが、国を率いる者として実に先進的な発想で災害に対処されましたが、ようやく動き出した時に、ぶち当たったのが


、飛鳥・平城時代から引き続いている厄介な問題の一つであった、陸奥(みちのく)国一帯に勢力を持つ蝦夷(えみし)という民族との抗争問題だったのです。


 その鎮圧や防御のための砦の建設、騒動鎮圧のために財を費やしますし、武器の調達や兵士の多くの兵士を送ったりしなければなりませんでしたから、平安京とはかなり離れた遠隔の地である陸奥国での騒動を鎮めるためには、使う費用は大変な負担になる問題です。これまでの天皇はそれらの民族に対して、兎に角力による屈服をさせようと試みてきているのです。


政庁が動き出して間もなく起こった大きな問題でしたが、文人としての資質をお持ちであった異色の政治家であった天皇は、基本的にそうした異質な民族との問題を、ただ単に朝廷と対峙する相手を大きな力で抑え込んでしまおうと考えることはしませんでした。


彼等との間にある問題について、何が摩擦の原因なのかを知ろうとしていらっしゃったのです。しかしそれにしては、まだあまりにも為政に関わってから日が浅すぎます。天皇は暫く葛藤しなくてはなりませんでした。


正月に行われた朝議の席で太政官たちにこうおっしゃったのです。


 「諸国へ移送した蝦夷(えみし)らは、官が支給する公粮により生活をしている。そこで蝦夷らの子供たちにまで公粮を支給せよ。ただし孫には支給しない」(日本後紀)


 そして更に、


「状況に応じて適切な指導をすることが為政の要諦であり、時勢を考慮して良策を立てることが、済民のために本来なすべきことである。朕の目指す飾り気がなく人情に厚い政治は、未だ全国に及んでいないが、滅び絶えたものを再興しようとの思いは、常に胸中に切ないものとしてある」(日本後紀)


 為政に取り組む思いを話したのでした。


しかしまだこの頃は蝦夷との抗争が絶えず、そのための指示が度々行われなくてはならなかったのです。


為政者はどう対処したのか


三月になると天皇は、陸奥出羽按察使文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)、陸奥守佐伯清岑(さえききよしみね)・陸奥介坂上(さかがみ)(たか)(かい)・鎮守将軍佐伯耳麻呂(さえきみみまろ)・副将軍物部足継(もののべあしつぐ)らに次のような指示をいたしました。


 「二月五日の報告によると、『陸奥出羽両国の兵を併せて、二万六千人を動員して、爾薩体(にさちて)弊伊(へい)二村を征討することをご承認願います』とある。


要求した人数どおり動員して征討を行い、討滅を期せ。軍の力でのちに問題を遺さないようにせよ。


また三月九日の報告によると、兵士一万人を減員したという。将軍らは事情をよく考慮して報告をしたのであろうが、勦討(そうとう)作戦を進めるにあたっては多数の兵員が必要であるから兵士の減員には及ばない。将軍らはこの事をよく承知して、力を併せ意を同じくして作戦を完了せよ。


戦闘過程では、出羽守大伴今人が計略を立て、勇敢な浮囚三百余人を率いて敵の不意を打ち、雪中を進行して爾薩体の蝦夷六十余人を殺した。今人の軍功はすぐに知れわたり名は長く伝わった。又この今人は以前備□守に任じられたとき、河原広法と協議して、山を穿ち岩を破って大渠(だいきょ)を開設した。百姓は工事の意図が判らず、はじめ嗷々(ごうごう)たる非難の声を上げていたが、完成するとその利益を受けるようになり、やがて褒め称えて伴渠(ばんきょ)といった。古代中国で灌漑水路を開いた西門豹(せいもんひょう)であってもこれ以上のことはできなかったであろう」(日本後紀)


天皇は指揮のあり方を指示するばかりでなく、実践の指揮についても指示をしたりしています。その間にも為政についての指示もしなくてはなりません。


 「青麦を刈り、馬の飼料とすることは久しい以前から禁止している。ところで、今聞くところによると、『京や村里の百姓は収穫の時期ではないのに、麦を売却して非常時を切り抜けるための資としている』という。(まぐさ)として売却して得る収益は、実を収穫した場合の倍となる。秣として売却するほうが民に利益となるのであるから、どうして禁制する必要があろうか。今後は永く秣として売却することを許せ」(日本後紀)


 何でも禁止ではなく、苦境を突破するためには民の知恵でやれることは許可しようという大所高所の判断をしていらっしゃいます。天皇には更に解決しなくてはならない問題が控えていたからです。


 為政者にはどうにもならない、天災に対する対応についての指示もしなくてはなりませんでしたが、それ以上に気になっていたのは、異民族との抗争をどう収めようかということだったのです。正に現代社会が抱えている、異民族に対することについて、何を提起しようとしているのでしょか。


 現代の日本にはすでに様々な形で、異民族が入って来て共に暮らすようになってきています。それにロシアの侵略から逃れてきたウクライナの非難民という問題まで抱え込んでいます。平安時代からの提起とは言いながら、嵯峨天皇が取り上げようとしていらっしゃる異民族との接触の仕方については、決して無視できないものがあるように思われるのです。その典型的な問題の一つは「差別」ということです。古代に起こる蝦夷と朝廷の紛争にも似ていて、相手に対する理解に欠落するものがあるように思われるのです。


それぞれの人にはそれぞれの暮らし方、考え方、置かれた社会的な立場というものがあって、なかなか一律に片づけることが困難な時代になっています。すでに現代は異民族であっても共に生きていかなくてはならない時代になってきていのです。それぞれの人が、それぞれの人の生き方を理解し合い、受け止め合っていく努力が必要な時代になってきているということです。


古来すでに国内問題として、異質な民族との問題と直面することがあったということです。


 現代ではすべてが複雑化してきていますから、それだけに解決するためには、これまで以上に知恵と配慮が必要になります。しかも世界にはそうした異民族問題を国内に抱え込んでいる国がいくつもあり、その紛争からの難民問題に支援をするうちに、どうかかわるべきかで苦境に立たなくてはならないことがないとは言えません 


温故知新(up・to・date)でひと言


 


少しでもそうした状況を解消するために、「円転滑脱(えんてんかつだつ)ということが云われていたことがありました。物事が円く転がるように、自由自在に変化しながら物事が滞らないように、スムーズに進行できるように心がけていたのです。中でも為政者たちは、その指導によって、「千里同風(せんりどうふう)・・つまり千里の遠くまで同じ風が吹くという平和な状態であることを願ったものです。過日港区「八芳苑」で行われたアメリカ大統領バイデン氏の歓迎会の茶席にもこの掛け軸が掛けられていましたね。それは現代に生きる者すべての願いかもしれません。しかしそれには先ず、歴史の先人が指摘するように、お互いがお互いを理解し合うということが出発点となるように思われるのです。ただその時の都合で取り敢えず解決してしまうのではなく、真に解決に迎える第一歩としての前進を心掛けなくてはならないと思います。そのためには「階前万里(かいぜんばんり)というように、みなが目を見開き、心を開いて振る舞う心構えで、問題が何処にあるのかということを真剣に考えなくてはならないでしょう。それぞれが責任ある行動をする時であるように思われます。


 


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