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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の三 [趣味・カルチャー]

      第一章 「卓越した指導者であるために」(三)


        為政者の課題・「罪人放免の温情の意味」


 今回は弘仁四年。(八一三)のことです。


嵯峨天皇即位から四年後のことで、まだ為政にかかわってからそれほどたってはいません。三十歳になるかどうかという年齢です。


 


天皇は何事につけても即断しておられますが、時には慎重に判断をされることもあるようです。それは異国人に対しての法というものの扱いということでした。これまでの決まりというものを、無視してしまうということはありませんでしたが、この頃になると、日本もただの島国として、独自な生き方をしていればいいと言ってはいられないことが起こりつつあったのです。


天皇は法というものについては慎重に判断さていたのです。


これまで前の法がきちんと正しく行われているかどうかということについて、考えてみる必要があると考えていらっしゃったのです。


そのために起こったことについては、早急に結論を出してしまうようなことはせずに、慎重に対処していらっしゃいました。


為政者・嵯峨天皇


弘仁四年(八一三)三月十八日のことです


発生した問題とは


 弘仁四年(八一三)三月十八日のことです。


肥前国から不気味な報告が飛び込んできたのです。


佐賀県の町におかれた軍団である、基肆団(きいだん)(佐賀県三養基山町に置かれた軍団)校尉貞弓(こういさだゆみ)によりますと、新羅(しらぎ)人百十人が五艘の船に乗って、小近島(おちかとう)(五島列島の東部)に着岸すると、島民と戦い、島民は新羅人九人を打ち殺し、百一人を捕虜にしたというのです。


また別の日、新羅人一清(いっせい)らが、同国人清漢巴(せいかんは)らが聖朝(せいちょう)(日本国)から新羅へ帰国したと言っていますが、朝廷は新羅人らを訊問して、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は慣例によって処理せよと指示いたしました。


ところが文人政治家として、これまでの権力志向の天皇とはかなり考え方の違う発想をされる嵯峨天皇だったために、直ぐにその日の決定に対して、公卿からある申し出が行われたのです。 


為政者はどう対処したのか 


 「過罪を赦すことは、天皇の深い思い遣りがあってのことであり、罪人が悔い改め反省するならば、自首や違法状態の解消が何年にもわたって延期されることがあるでしょうか。しかし恩赦が出されても、自首しない者がおり、赦後・赦前の犯罪かどうかについて、追究することなく多くは、いい加減なまま赦しています。これは日限を立てるべきなのに立てないことによります。そしてこれが悪事をなす契機となっているのです。そこで、伏して先の日限を立てている以外の継続犯(犯罪が過去のものとなっても、その状態が続く場合、犯罪が続いているとみること)・状態犯(犯罪が行われた後法の侵害は続くが、法益の侵害が発生したことで終了するもの)で、恩赦の対象となった犯罪に関しては、恩赦布告後三百六十日以内に自首するものとし、この期限を経過した後は赦の対象としないよう要望いたします」(日本後紀) 


 それに対して天王は、新羅人たちは尋問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例より処置せよと指示された。


 政治というものは実に難しいものです。


天皇は対外的なことに話が広がらないようにということで、新羅に対する扱いが厳しくならないことを考えて指示をしたのですが、その一方で彼らと戦った島民たちについての扱いが、うやむやにしてしまうのはよくないとおっしゃるのです。


天皇のおっしゃる通り、このところ長い親交関係にある渤海(ぼっかい)国との交流に分け入ってくる、新羅国に対する警戒心もあって、襲ってきた者たちの処理によっては不測の事態が起こることもあるということから、穏便な処置で済ませたのですが、彼らに立ち向かって戦った島民も、同じように穏便な処置をしてしまうことにしてしまうと、これまでの法が守られないようになってしまうというのです。


公卿たちからは、朝廷を揺るぎない安定した状態にしておかなくてはならないと進言してきたのです。つまり新羅国の立場を忖度して行った処理だったのですが、公卿からは国内の罪人に対しての恩赦のあり方については一考を要するのではないかという問題が持ち出されたのです。


新羅と戦ったのだからと恩赦の対象にしてしまったら、これまでもかなり守られていない恩赦という法が、ますます守られなくなるというのが趣旨でした。この天皇と公卿(くぎょう)との発言について、現代の受け止め方としてはどう考えればいいのでしょうか。


現代でもよくある話ですが、特に「恩赦」ということについては、その時の為政者にとって、かかわりがない場合はいいとしても、様々なことでかかわりがあった場合などは、かなり疑問を感じざるを得ないことがあります。


その扱いに関しては、注意していないと、為政者の都合のいい形で利用されてしまうことになってしまいます。


対外的に配慮して行った「配慮」を、国内にも及ぼしてしまうことは為政を率いる者として問題になりそうです。そうかといって対外的に強硬な姿勢を明らかにしてしまったら、いたずらに敵対心を刺激することになってしまうという問題に、突き当たってしまうことになってしまいます。しかしそうかといって侵略して来た者と戦って撃退した島民たちを無視することもできません。


恩赦のあり方については、大変難しい問題ですが、結局すべての者に恩赦を与えるのではなく、これまで法を順守する者についてだけ恩赦を与え、これまで恩赦を与えられながら、自主的に出頭してこない者についてはこれまで通り厳しく処理するということにしたのでした。


同じ法を執行するについて、天皇と公卿の立場や対外的なことと対国内的なこととではどう受け止めるべきなのでしょうか。


実に微妙な問題でした。 


温故知新(up・to・date)でひと言 


天皇は大変度量のある方でしたので、為政の基本の姿勢としては、「恩威並行(おんいへいこう)という立場を維持していらっしゃったのでした。厳しくすることはきちんとした上で、恩賞を与えることにしていらっしゃるのです。基本的に性善説を基本にしていたに違いありません。社会の平穏を脅かす者には、厳しい刑罰を行うということを実行してきましたが、犯罪を起こすに至った事情を知った時には、情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)という配慮をする優しさも発揮されていたのです。


現代でも刑期を終えて釈放されながら、直ぐにまた再犯で投獄されてしまう者がかなりいます。犯罪者のそれぞれの事情について精査したら、その原因が社会情勢によるものなのか、それとも本人の性格によるものなのかがはっきりとしてくるはずです。「強悪強善(きょうあくきょうぜん)ということも言われるほどで、悪の限りを尽くした悪人がひとたび悔い改めると、逆に生まれ変わったほどの善人になるということがあります。敢えて世の決まりから、はみ出て暮らそうとする者もいないわけではありません。しかしその時に被る負担は、あくまでも自己責任です。社会のためだというような言い訳は許されないのではないでしょか。皆が生きやすい世の中であるためには、お互いに護るべき社会規範は守っていかなくてはなりません。昨今は犯罪も極めて個人的な問題から発生するものが多くなっています。その背景には様々な時代の様相が潜んでいるような気がいたします。そんな中でそれらの犯罪者をどう扱ったらいいのか、犯罪を裁く人はそんな問題提起にどう応えるべきなのか、充分に腹積もりを持っている必要がありそうです。


異国についての襲撃を考えながら馬埒殿(うまばどの)騎射を観覧した後で、天皇はこんなことも発言されました。 


「治国の要諦は民を富裕にすることであり、民に貯えがあれば、凶年であっても防ぐことが可能である。この故に、中國古代の聖帝()は九年間治水につとめ、人民が飢えることがなくなり、(いん)(とう)王の時代に七年間、旱害(かんがい)がつづいた


が、民は生業を失わなかったのである。ところで、現今の諸国司らは天皇の委任に背き、不適切な時期に百姓を労役に動員して農繁期に妨害をなし、侵奪のみをもっぱらにして、民を慈しむ気持ちを、持っていない。このため人民は生業を失い、自ずと飢饉に陥っている。格別の災害がないのに、絶えず人民が飢えているとの報告がなされているのである。このため毎年賑給(しんごう)(恵みを与えること)を行い、倉庫はほとんど空尽となってしまった。ここで災害が起これば、どうして(すく)うことが出来ようか。悪しき政治の弊害として、こうなってしまったのである。今後は農業が被損(ひぞん)


したり疾疫(しつえき)以外で朝廷に対し安易に賑給を請願してはならない」(日本後紀)


 政庁を取り巻く環境は、そんなにいい状態ではなかった時のことでした。それを取り除こうとしておられていたのでしょう。


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