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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言2 [趣味・カルチャー]

「夜明けの妖精・・・」

 最近は走る人、犬と一緒に歩く人、夜明けを待つようにして町を散策する人をかなり見ます。しかしこの他のことで夜明けを楽しもうとしていらっしゃる方は少ないと思います。

 (…この他のことで・・・)

 昨今はあまり超高層ビルやタワーマンションのようなものが出来過ぎて、視界が遮られてしまうようになってきてしまったので、出来たら広がる農耕地や草原、川に沿った土手あたりへ出て、太陽が昇る夜明けの風景を楽しみたいと提案をしたくなったことがあったのです。

 古代の暮らしの中で体験するといわれれていたことが、現代生活を満喫していては不可能なようなのです。

 昔は・・・もちろん私も生まれていない、はるか昔には背丈のある高い家もありませんでしたから、夜明けの爽やかな光景は家の周辺でも楽しめましたが、昨今は夜明けの妖精、黄昏の妖魔ということを、意識して歩いていらっしゃる方は、ほとんどいらっしゃらないようですね。

そろそろ自由時間も充分に獲得できたでしょう荒、多少古代の人々の楽しんでいたであろう夜明けのロマンを期待しながら、近くの公園でも散歩なさってはどうでしょう。

まだ明けきらない夜明けあたりの時間に歩いていると、その清冽な光の中から妖精と出会うかもしれないということです。

しかし夜明けだけは理解して頂けるとしても、最近は黄昏の妖魔といっても、そんなものが現れるとは誰も思ったりはしないでしょう。とてもそんなことを受け入れる環境ではなくなってしまっています。照明器具が進化した現代では、街はすっかり不夜城のように明るくなってしまっていますから、止むを得ないのかもしれません。

兎に角町を明るくすることは、犯罪を防ぐためにもいいことです。しかし私は闇を楽しめるようにもなって欲しいと思ったりするのです。

そんな時は月の明かりだけで充分ではありませんか。そうでなければ、とても妖魔と出会うことは不可能でしょう。

夜明けの妖精。黄昏の妖魔との出会いを可能にするためには、まず朝は早起きをして、夜から朝に変わる微妙な時を狙って散策をしてみましょう。

光の満ちた朝を迎える訳でもなく、そうかといって夜のつづきという訳でもない、兎に角朝でもなく夜でもない曖昧な時間でないと出会えないのです。

この曖昧な時間こそが、妖精と妖魔に許されている、異世界から現世へ現れる機会なのです。

昨今は、何もかもが激しく変化してきていますが、取り分け地球の温暖化をはじめとした自然環境の変化は激しいものがあります。古代のように明でも暗でもない、微妙に時が移って行く瞬間が消滅してしまいました。そのために朝の妖精はかろうじて現れて来られるとしても、昼と夜の境に現れる、昼でもなく夜でもない不気味な時間・・・つまり黄昏に現れるという妖魔は、明らかに登場する機会を失ってしまったように思えます。

世の中というのは、妖精と妖魔のどちらかが偏ってしまったら、かえっておかしなものになってしまいます。そのどちらもが現れる自然環境があって成り立っていたはずです。

 学者の研究によれば、朝のその微妙な時間の表現を、「かれたれ」といったといいます。それに対して夕刻の微妙な時間を、「たそかれ」といったと説明しています。つまり「あの人は誰なのか」と、思わず聞いてしまうほど、はっきりとしない状態を表しているのです。現代使われている「黄昏」などは、この「たそかれ」から起こったということなのでしょう。

 現代は明か暗、白か黒か、生か死か、正か悪かというように、とにかくはっきりしたことを求める風潮にあります。

 しかし・・・。

 夜でも、朝でもない、昼でも夜でもないという、実に微妙に時が変化していく瞬間を失ってしまっていいでしょうか。絵を書くにしても中間色というものがあるでしょう。それを失ってしまったら、どんなに味気ないものになってしまうものか・・・。

かつてアニメーションは色を混ぜて別の色を作るということが出来ない特殊な画材であったために、原色を重ねるしか表現できないという不利があったために、かなり批判をされたことがありましたが、最近はその点もデジタル画法の進化で、すっかり表現が美しく表せるようになりました。しかしその分、なぜか味気なくなったという声もかなり聞きます。

この際中間色という白でも黒でもない微妙な色合いや、時の移り変わりである微妙な季節の変化についてもじっくり考えてみませんか。


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