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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の一 [趣味・カルチャー]

     第二章「安穏な暮らしを保つために」(一 


       為政者の課題・「戦力の不足を知る」


今回は嵯峨天皇が大同四年(八〇九年)に無理矢理平城天皇から譲位されて、践祚(せんそ)されてから間もなくのことです。まだ皇太子神野親王から天皇に変わられたばかりで年齢もまだ二十三・四歳という若さで


 ようやく平安京を統治し始めたばかりだというのに、とんでもない事に遭遇させられてしまいます。


為政者・嵯峨天皇


弘仁元年(八一〇)九月七日のこと


発生した問題


 平城太上天皇は、突然何の前触れもなく、平城旧京への還都をすると指示されました。あまりにも突然の発表です。しかも坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)紀田上(きのたがみ)たちを造宮使に任じてきたのです。


引退して平城太上天皇となって、平城京で悠然とお暮しかと思っていた平安京の政庁の公卿たちは、あまりにも突然のことで、その真意がまったく理解できないでいました。ところがその指示はすでに動き始めていたのです。


 嵯峨天皇が践祚したばかりだというのに、何をさせようとしているのだろうか。


 事態の進行に疑念を持つ平安京側はその真意を糾そうとしたのですが、それに対して平城上皇は朝廷軍を招集して動き始めたのです。


事件というのはこういうことで始まったのです。


嵯峨天皇としては践祚なさって、ようやくこれからどう平安京を建設していこうかということを、真剣に取りかからなくてはならないといった時です。



これはあくまでも、尚侍(ないしのすけ)となって宮中に権力を振るっている藤原薬子にせがまれて行ったことに違いありません。何もかもが準備もない戦いの始まりでしたが、為政の道筋を糺したいという若い嵯峨天皇の迅速な決断と、それに従った将軍の迅速な統率力で要所の警備を固めた上で少ない兵士を動かしました。


そして更に天皇に呼応した空海は、弟子たちと共に高雄山寺に立てこもり、真言密教による鎮護国家の熱によって後押しをした結果でしょうか、大戦になりかけた事変は、わずか七日という短日のうちに鎮静化してしまったのでした。


しかしこれで政庁のあり方は糾せたのですが、天皇には心にかかる問題を残してしまいました。


ご自身の在位中に、皇太子とした者は絶対に悲劇的な立場には追いやらないと、密かに心に刻んでいたはずなのですが、事件に関与はしていないということは判っていても、高岳(たかおか)親王は上皇の御子であったために連座させられて廃太子とされ、第一皇子である阿保(あぼ)親王も大宰府へ左遷されることを、認めざるを得なくなってしまったのです。


高岳は直ちに春宮を出て、宮中からも去っていかれます。そんな姿をご覧になっていらっしゃった天皇は、心に誓っていたことを違えてしまったと、心中深く痛みとして沈潜していったのでした。


 (いつか救ってやらなくてはならぬ)


 声なき声がそう叫んでいるのでした。


 天皇は直ちに新たな皇太子として、天皇の異母弟であり、中務卿で三品の位を持つ大伴(おおとも)親王を、皇太子として指名しました。それは祖霊桓武天皇の描かれた嫡子による皇統の継承という理想からは遠のいてしまうことになってしまいましたが、いました。それでも若い天皇は祖霊の思いは必ず新たな皇統に活かさなくてはならないと決心していたのでした。


九月十九日。年号も大同五年(八一〇)に弘仁と改められると、仁の気持ちを広めたいという、思いの溢れた年号の元で、民と共に生きようとするのです。若き文人政治家は、さまざまな問題を秘めながらも新たな平安朝の建設に立ち向かったのでした。


為政者はどう対処したのか


 事変は「薬子の変」と呼ばれて、受けて立つ政庁には、当初狼狽がありましたが、天皇は迅速な指揮と的確な判断で、上皇の復権を阻み平安京を守ることができました。


 事件を知った時、政庁ではあまりにも予想外であったこともあって当初狼狽がありましたが、結束して平城上皇と薬子の無謀な企みを排除して、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻したのでした。


それは協力してくれた国々にとっても同じで、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻しましたが、間もなく、播磨(はりま)国から万一の時の備えについて、次のような提言があったのです。


 「これまで勲位を頂いた者を健児に起用することになっているのですが、国内の勲位の人は死亡あるいは逃亡していて、現在存在している者は老人や病人が多く、軍事の役には立たなくなってしまっているために、この際白丁(はくちょう)(公の資格を一切持たない無位無官の一般男子)を徴発して、欠員に充てることを要望いたします」(日本後紀)


万一の事変が起こった時に、戦う兵士に事欠くというのです。それは平城天皇の頃から財政の引き締めを行ってきたために、いざという時の兵が、集められなくなってしまっているということだったのです。


 まさにこのようなことは現代の問題としても、考えておく必要があるのではないかと思えます。


いたずらに兵力を蓄えることではなく、そのようなことをしなくてもいい環境を作らなくてはならないのではないかということは周知のことなのですが・・・。


最近は永世中立を建前にしてきた北欧の国々も、万一のために国を守るということのための心構えをしておかなくてはならないという方針を立てて、NATOへの加入を申請しました。我が国についても、周辺の環境が極めて緊張したものとなっています。最近は俄かに軍備に関しての費用を上積みしなくてはならないのではないかという議論が盛んになってきていますが、ロシアによるウクライナ攻撃、北朝鮮の挑発する軍備の拡張、中国の海域の拡大など、日本を取り巻く環境は、かなり激しく危険な状態になりつつあります。もうこれからの国際関係には、無関心という訳にはいかなくなってしまいましたね。


 島国であるための国際関係の難しさを感じます。兎に角舵取りをする指導者の英知が、真摯に問われる時代になってきていることを実感します。


温故知新(up・to・date)でひと言


 兵力を充実して、万一のことが勃発した時の対処をどうするのかという問題ではなく、現代の問題としては、やはり暮らしを優先するか、護りを重視するかという問題にぶつかってしまいます。そのどちらを選ぶとしても、予算というものが伴います。それは平安時代も現代もありません。しかし現代では備えるという理由で軍事費が年々肥大化しています。この問題については、簡単に無視できないものがあるのではないでしょうか。しかしそうかといって、平安時代のように、ただ軍事費を縮小すればいいという訳にはいきません。軍事費を縮小するべきか、それとも福祉の充実によって暮らしを豊かにすることを優先すべきか大きな課題になります。現代ではそうした暮らしの安穏を維持するためには、様々な国かからの挑戦に、どう立ち向かうのかということについて、慎重に考えなくてはなりません。戦う能力を備えることと、国民の暮しの安定を図るという問題は、古代と違った現代の至難な課題です。


 日本自体の経済がどんな状態にあるのかということも考えながら、どう経済を上手く利用して行けるかということを、じっくり考える必要がありそうですね。


昔から「殷鑑不遠(いんかんふえん)ということが云われています。身近な失敗例を自分の戒めとせよという譬えです。また自分の戒めとなるものは近くにあることでもあります。徒に規模を拡大したり戦力を増やしたりするのではなく、自分の私欲や私情、つまり我儘を抑えて、社会の規範、歴偽に従って行動しましょうという「克己復礼(こっきふくれい)という言葉を思い出して、地道に地歩を固めていきましょう。「巣林一枝(そうりんいっし)という言葉もあります。軍事を豊かにするのか、暮らしを豊かにすべきか。鳥は深い林の中に巣を作っても、たった一本の枝を使うに過ぎないという言葉を思い出しながら、じっくりと考えて欲しいものです。


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