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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の二 [趣味・カルチャー]

      第二章「安穏な暮らしを保ちために」(二)


        為政者の課題・「為政者として心がけること」


弘仁九年(八一八)です。嵯峨天皇が即位なさった時から、九年がたっています 


 「去年は旱魃で秋収が損なわれ、現在は日照りで田植えを行うことができなくなってしまった。これは朕の不徳の聖で、百姓に何の罪があろうか。(略)今、天の下す罰を恐れ、内裏正殿を避けて謹慎し、使人を手分けして派遣し、速やかに郡神に奉幣しようと思う。朕と妃の使用する物品および常の食前等は、いずれも削減すべきである。また、左右馬寮で消費する飼料の穀物もすべてしばらことにする。(略)そこでしばらく停止する。そこで左右京職に指示して、道路上の餓死者を収めて埋葬し、飢え苦しむ者には特に物を恵み与えよ。監獄の中には冤罪の者がいると思われるので、役所(ここは刑部省と京職)に今回の処置の趣旨を述べさせた上で釈放せよ。(略)また近ごろ、不順阿天候が続き、浮名も二日照りが十日にもなっている。(略)今月二十六日から二十八日まで三日間、朕と公卿以下百官がもっぱら精進の食事をとり、心を仏門に向けよう。僧綱も精進して転経を行い、朕の平成の思いに副うようにせよ」(日本後紀)


流石にこれまでとは違った対処をなさいます。


 これまで民族の違いから差別的に接してきた皇室と違って、嵯峨天皇は相手を理解するという姿勢を貫いてきていました。


それは天災による被害を受けた者は、これまでの民は勿論のこと、異民族と思われる人々に対しても、まったく差別は行わないということです。大きな組織を率いる者は、如何なることが起こっても、その被害が従う人々には及ばないように心がけながら、葛藤しなくてはならないと思うのですが・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁九年(八一八)九月十日のこと


発生した問題とは


 兎に角平安京は、絶えず襲いかかって来る地震には、畏怖の念を抱くことはあっても、みなそのために苦しくなってしまう暮らしを、何とか凌げるようにならないかと思うものです。


 平安京では地震が起こって、大きな被害を出したばかりだったのですが、九月に入って間もなく、政庁にはまたまた厄介なことが持ち込まれました。


奈良・平安時代の内憂といえば、陸奥(みちのく)国の地域に拠点を持つ蝦夷(えみし)という民族との間に起こった悶着が、未だに解決することが出来ないまま抗争をつづけているというのです。そのために朝廷は大軍を率いて遠征するのですが、そのために莫大に出費してきていますので国の財政はかなり苦しくなっていました。


はじめは抵抗する蝦夷を一掃しようとするばかりを考えていたのですが、平安時代になる頃からは戦いに敗れた蝦夷の中からも、朝廷に従う者たちも現れてきていたのです。そして丁度その頃に、為政の頂点に立たれたのがこれまでの為政者とは発想の違う、文人政治家の天皇だったのです。


期待通り天皇はこれまでの権力者とは違った発想で、蝦夷と向かい合おうとされるようになりました。


つまり彼らをただ排除するのではなく、政庁と彼らとの距離を縮めるための努力をするように指示されたのです。兎に角為政の基本は民を愛して、飢餓・貧困から救うことで葛藤しなくてはならないというのです。


そんなある日のこと、禁苑である神泉苑へ大臣たちを引き連れて遊宴に出かけられた時に、天皇はこんなことをおっしゃいました。


為政者はどう対処したのか


 「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者は物を(すく)うことを何より重視し立派な精神を()み行うものである。朕は日暮れ時まで政務に従い、夜遅くなっても寝ずに努めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では天を動かすことが出来ず、充分な調和を達成できないまま、咎徴(きゅうちょう)(悪いしるし)がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して、転がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。恐らくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのではあるまいか。朕は天が下す刑罰を恐れ心が安まらない。ところで亀甲(きっこう)筮竹(ぜいちく)で占うと、今回の地震は天の咎であることが判った。往時、天平(てんぴょう)年間にこのような異変があり、疫病により国内が衰弊したことがあった。過去のこの異変を忘れてはならず、教訓として役に立たない遠いものではない。百姓が苦しんでいれば、いったい誰と共に君足り得ようか。災難を朕が引き受けることを避ける気持ちはない。周の文王は責を己に帰したというが、まことに仰ぎ慕うに足る。朕のいっていることは、光り輝く太陽のごとく確かなものである。広く遠方にまで告げ、朕の意を知らせよ」(日本後紀)


 ところがこの数年来不作がつづいています。


 公卿が次のように報告いたしました。


 「年来不作で、百姓が飢饉になっています。官の倉は空尽化して、恵み施すに物がありません。困窮した民は飢えに迫られると、必ず廉恥の精神を忘れてしまいます。私たちは伏して、使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収時に返済させることを要望いたします。こうすれば富者は自分の富を失う心配がなく、貧者は命をまったくする喜びを持つことができましょう」(日本後紀)


 暮らしに対する要求というものは際限がないものです。


 それをどの程度まで引き上げられるのかを、国力の支えられる能力から判断して国民に納得して貰わなくてはなりません。


為政者にその能力があるかどうかは、要求するだけではなく、為政者を選ぶ国民の責務だと思えてなりません。


現代人にとっては、それを行使する機会として「選挙」という機会があるのですが、よほど国民に意思表示をする機会なのだという自覚がないと、なかなか思い通りの政庁は出来ません。


 組織を率いる指導者には、運営していく最中に起こる様々な問題が、あくまでも従って来る人々にその被害が及ばないようにという配慮が求められます。そのためにどんな施策を行っているのかということなどを訴えて、納得していて貰わなくてはなりません。それが困難の突破ということであったら、なおさら従って生きる者は、協力してくれなくてはなりません。しかし時に予期せぬことが起こってしまったために、不都合なことが生じたりした時など、力のない人々の訴えを理解することよりも、自分の立場の困難振りを訴えることに専念してしまう指導者がいるものです。


指揮を執る者は、そこに起こることのすべては、自らの責務と感じて必死に務めることが必要です。それが信頼を得るきっかけとなるということがあるはずです。人智では解決できない天災によって民が苦しんだり、同じ国土に暮らしている者と対立して戦ってしまったりして、ますますその立場を危うくしてしまって、慌てて神仏に助けを願うしかなくなるという過ちに気付かれた天皇は、先ず自らの生きざまを検証しようと考えられたのでしょう。


こうした状況を現代の我々の世界への提言として受け止めるとしたら、どういうことになるでしょうか。


矢張りやろうとすることをただ強行してしまうのではなく、その組織によって救われたり、活かされている人々が沢山いるのだということを、考えなくてはならないということです。彼らがそれで、感謝する気持ちになってくれないと、結局意味のない努力になってしまいます。


為政を行なう者、それに従う者には、微妙な問題があり、その微妙なことを無視して推し進めると、却っていい結果は生まれないということです。そうしたことを知っておくことが組織を運営していくための基本になるということだと思います。仮に障害となるようなことが起こったとしても、お互いに責任の転嫁をし合ってしまっていては、決していい結果は得られないからです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 


それでも組織を率いる者には、どう努力しても恨みを抱く者が現れるかもしれません。しかしそんな時には、四字熟語の「講演遺徳(こうえんいとく)という言葉を思い出してみて下さい。仮に怨みを抱いている者がいたとしても、慈愛と徳をもって接することが大事だということです。悩みごとや問題解決を図ろうと「千思万考(せんしばんこう)」しても、容易には満足な答えは得られないといわれます。いつまで悩んでいても解決はしません。前向きに第一歩を踏み出してみましょう。「息慮凝心(そくりょぎょうしん)という言葉があります。今やるべきことに専念せよという言葉を思い起こして努力しましょう。いつまで悩んでいても解決はしません。前向きに第一歩を踏み出してみましょう。そうしたことの積み重ねが、「修身斉家(しゅうしんせいか)といって、天下国家を治めるには、先ず個人の身の修身からはじめることが統治の始まりだということに気が付くようになるでしょう。何が起こっても狼狽して事に当たらず、釈明のために屁理屈(へりくつ)を述べて逃げるのではなく、ふと古代における為政者の、ひたむきさを思い出してみることが大事なのかもしれません。


 


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