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☆閑談の部屋とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑5 [趣味・カルチャー]

     「遷都しすぎです」

 何をやるにしても、大がかりになってしまうのが現代です。たとえば首都を東京から京都へ移すなどということがあったら、それこそいろいろなもの、いろいろなことが停滞してしまうことになるでしょう。政治を司る人たちも容易ではないと思います。そんなことを考えながら古代の遷都の跡を訪ねてみたのです。

 私がこれまで、調べたり、その場へ行ってみたりしたところは、大体次のようなところです。大雑把にその場を書き上げてみると、次のようなところです。

飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)長柄豐崎宮(ながらのとよざきみや)藤原京(ふじわらきょう)平城(へいじょう)(きょう)()()(きょう)紫楽宮(しがらきのみや)平城京(へいじょうきょう)長岡京(ながおかきょう)平安京(へいあんきょう)

 といった状態です。

勿論そのほとんどのところは、その元の形を残してはいません。精々大極殿の跡が復元されているだけです。飛鳥から藤原京へ移って、かなり本格的な京が出来たはずなのに、持統天皇(じとうてんのう)文武天皇(もんむてんのう)元明天皇(げんめいてんのう)元正天皇(げんしょうてんのう)という女帝三代を中心に、694年から710年というわずか16年間だけで平城京へ移って行ってしまいます。どうしてあれだけ立派な都を作りながらと思ってしまいます。

その場へ行ってみると、その頃のことが想像できて暫く古代を楽しむことが出来るのですが、それにしてもこんなに絶えず遷都していては、財力も大変ですし、それにかかわる人材、資材も必要ですから馬鹿には出来ないはずです。みな疲れてしまうのではないでしょうか。そんなことを考えていると、どうしてこんなに絶えず遷都をしてきたのだろうかという疑問に突き当たってしまうのです。

それは学者の間でも謎の一つになっているようなのですが、私が一番不思議に思ったのは、聖武天皇の短期間での遷都があまりにも多かったということなのです。

大阪にある難波宮のことなのですが、天武天皇が平城京という京を持ちながら、ここの長柄豐崎宮に遷都してくるのです。ごく近くには海があるので、異国から船でやって来た使者は、目の前の高いところに聳え立つ宮殿を見て感動したかもしれません。ところが間もなく、聖武天皇は恭仁京へ遷都してしまうのです。ところがまたたいして時間もたたないうちに、紫楽宮へ遷都してしまいます。しかし更にびっくりするのは、それから暫くするとまた平城京へ還都してしまうのです。

簡単にいいますと平城京から難波宮。難波宮から恭仁宮。恭仁宮から紫楽宮。紫楽宮からまた平城京というわけです。

 天皇は晩年に、どうしてこのごく近くの地へ転々と遷都を繰り返したのでしょう。

政治的な課題があったのか、地理的経済的理由か、それとも宮殿建設の耐用年数の問題なのか、それとも健康的な理由があったのだろうか。いろいろと原因はあると思われるのですが、そのどれもが決定的なことではなかったようです。それではどうして・・・。あなたもいろいろと推理しながら、史跡探訪を楽しんでみませんか。

 というところで、どうしてと思われる古代のお話の中で、嵯峨天皇の子で仁明天(にんみょうてんのう)がいらっしゃいますが、その子である文徳天皇(もんとくてんのう)の話なのです。ややこしい人脈のお話からいたしましたが、こんなに血統も正しい天皇なのに、どうして元号を度々変えなくてはならなくなってしまったのでしょうかという問題です。

 文徳天皇は850年から857年というわずか7年間という短い統治期間の間に、

 「庚午」「仁寿」「斉衡」「天安」

 絶えず年号を変更しました。

 実は彼の場合にはかなり深刻な問題があったのです。

 彼には第一子として惟喬親王がいるので、彼を皇太子にしたかったのですが、どうしても政庁の実力者である藤原良房が政敵の紀名虎の娘である静子(せいし)だったので許しませんでした。

 何をやっても思うようにはならないことから、年号を変えていい流れでも呼び込みたかったのでしょう。ところが天皇の支えとなるはずの嵯峨天皇の皇后であった嘉智子が、彼の即位と同時に他界してしまって、後ろ盾となる人がいなくなってしまいます。そのために一気にのし上がってきたのが右大臣です。文徳天皇を苦しくさせる原因でした。

しばらくして良房は、嵯峨天皇の娘潔姫との間に産んだ娘明子(あきらけいこ)ついに仁明天王との間に惟仁(これひと)親王を誕生させるのです。良房はその惟仁親王を皇太子としたかったのです。

その詳しい経緯については省きますが、結局文徳天皇は息子を即位させられずに、右大臣の孫を天皇とせざるを得なくなってしまったのです。それが清和天皇誕生前後の政界での出来事でした。

聖武天皇の場合とは別の意味で、為政の内で「そんなことを、どうしてたびたびも・・・」と思わせることをなさった、文徳天皇のお話もしておくことにいたしました。彼はツキを変えようと思ったのでしょうね。

政治の世界には、庶民の判らない様々な問題が潜んでいるのですね。


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