SSブログ

☆閑談とちょっと気になる新言霊の世界☆ 閑7 [趣味・カルチャー]

「感性の復活を!」

「遠くて近い、古代の魅力」

 こんなことを言ったら、

 「いい加減にしてもらいたい。今は超科学の時代ですよ」

 こんな皮肉が跳ね返ってきそうです。

しかしちょっとお待ち下さい。

古代がそれほど現代人とかけ離れた時代なのでしょうか。

 私にはとてもそうは思えないのです。

 たしかに昨今は、我々の昭和でさえも、すでに歴史となったと言われるくらいですから、古代などといったらまったく問題にならないほど遠い過去の時代のことになるかもしれません。

しかしわたしが古代という意味は、若者たちの中で盛んに昭和の感性を懐かしむ対象として取り上げていることとは一寸違うのです。それでは私が問題にしたいことの表面を撫でて楽しむだけで通り過ぎて行ってしまうだけのように思えてなりません。

 昨今は超科学時代がもたらす、その恩恵を享受しているために、いつの間にか、一番大事なものを欠落していってしまっているのではないかと心配になるのです。その先導役が、驚異の進化を遂げている科学というものです。

その影響で何につけてもテンポが速くなり、急き立てられて前へ前へと進んでいかなくてはならなくなりました。そんな時代の勢いに抵抗するように、「スローライフ」とか「癒し」ということなどが盛んに叫ばれるのですが、なかなか大きな声にはなりません。時代のうねりに圧倒されてしまうのです。今のうちに拾い上げておかないと、もう二度とそれを拾い上げることもできなくなってしまうでしょうし、突然出会う機会もなくなってしまうような気がするのです。

しかし・・・こんなことをお話しているうちに、わたしのやろうとしている探し物というのは、超科学時代と古代という、極端に環境の違う時代を重ね合わせるという大胆なことをすることで、より鮮明になってくるような気がしてきたのです。

昨今の世の中の有様を見つめていると、人間が本来持ち合わせていたものを、すべて超科学の魔力に魅せられて、それに委ねてしまったのではないかと思うのです。このままでは早晩、人間が本来神から与えられていた大事なものを、完全に失ってしまった時代がやって来てしまうのかもしれないという、絶望的な時代がやって来てしまうと思うようになったのです。

 古代の人々は、神から与えられたもの・・・それを鍛えることで、自然の驚異にも立ち向かって生きていました。

それこそが「感性」というものです。

 超科学が日進月歩の現代では、生きていく上で、不都合と思われるようなことがあれば、直ちにそれはことごとく払拭され、解決されてしまいます。望むことのほとんどは、ほとんど叶えられてしまいます。しかし古代ではとてもそんなことを期待することができません。彼らは同じ「超」でも、「超自然」の驚異の中で生きていました。起こることのすべては「神」の啓示だと思って謙虚に受け止め、自らの生き方を質して、人として天下に恥じない生き方をしようと務めていました。

科学などというものの手助けを、まったく受けられない古代の人々は、自らの五感によって、圧倒的な勢いで襲いかかってくる障害を、いち早く察知して対処しなくてはなりませんでした。

 天の声の示唆することを、いち早く受け止めて、生活の中で活かしていくには、先ずそれぞれの「感性」を常に研ぎ澄ませていなければ、危険からいち早く逃れることもできません。しかも彼らのほとんどは、教育もろくろく受けられない農民たちなのです。

 古代人は皇族も、貴族も、農民も、それぞれの五感が鈍らないように務め、季節の微妙な変化でさえも、時には優しく、時には鋭く、時には緊張して向き合っていました。互いに生きる仲間への配慮もし合って、共に未知の驚異から逃れ、安全に生き抜く工夫をしあっていたわけです。

 ところが・・・超科学時代の昨今、わたしたちは、そんな鋭い感性を、持ち合わせていると言えるでしょうか。

 ちょっと不安になってしまうのです。

わたしたちは、科学の万能ぶりに魅せられて、自らの感性を磨くことを放棄してしまいました。

便利と言うことは、人間本来の感性と引き換えにして、手に入れるものに過ぎません。

 わたしが敢えて古代を持ち出したのは、まだその感性というものを、大事にしようとしていた昭和という時代に、青春時代を過ごしていたからかもしれません。

超科学時代の現代人には、想像のつかないほどの楽しみもあったし、むしろ日本人として失いたくない、美しいもの時にはあまりにも素朴なものではあっても、温かなものがいくつもあった時代でした。

人間が本来持っていた「感性」というものを、最大限に発揮しながら、暮らしの不便さと戦い、驚異と戦って、困難を克服しながら、未来に夢を描いていました。

 わたしたちは時代の進歩と同時に、神が与えてくれた、感じるという繊細なものを失っていきつつあるのではないでしょうか。

 至れり尽くせりの時代です。

 自分に関することがそんなわけですから、他人のことなどについては、余計に無関心になり、感じ取るなどということがなくなってしまうのかもしれません。時の流れの速さについていくのが精一杯で、とても人のことに気を使っている余裕もないのかもしれません。

これでは自然も、人も、他人がさり気なく発信している情報などには、ほとんど気づかず、関心を持たずに行き過ぎてしまいます。

現代人は、もっぱら超科学の判断だけを受け入れて生きています。

その分、人間が本来持ち合わせていた、感性とか感覚というものは鈍化してきているように思えてなりません。

 昨今、目を背けたくなるような事件が、次から次へと起こっていますが、社会でのことも、家庭内でのことも、人間関係でのことも、すべてについて敏感であった古代人のような、鋭く繊細な感性をもう一度取り戻す努力をし始めなくてはならないのではありませんか。

いや、少しでも古代人のそれに近づけるように、心がけなくてはならないのではありませんか。何もかも便利になって、人間が何もしなくても用が足りる時代になってきています。だからこそ、それに浸りきってしまっていていいのかと、しきりに思う今日この頃なのです。もう一度自然の微妙な変化に、驚いたり、感動したり、喜んだりするような、素朴で繊細な感性を持ち、周囲への気配りも、自然に行えるような社会を取り戻したいものです。

 遊びの感性は磨かれて、次から次へと楽しいことが生み出されて、共有する時代になっていますが、人間として失ってはならない、「心」の「感性」が、さっぱり磨かれていないのではないでしょうか。

もう一度、わたしたちは、古代という時代について、じっくりと考え直してみる必要があるのではないでしょうか。きっとその時、私たちは、先人たちが、何を大事にしてきたのかということにも出会えるし、その息使いにも、出会えるような気がするのです。

 「遠くて近い古代」

 現代とは遥かに遠い古代ではあるのですが、超科学時代の我々に、ちょっと立ち止まって、生き方を点検してみたらどうだろうかと、呼びかけているように思えてならないのです。

        「今こそ、真の(感性)の復活を!」

 新しい時代を生きる人たちに、是非、真剣に考えて頂きたいと思って書きました。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。