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「落ち穂ひろい 28」不得意だったこと [趣味・カルチャー]

  

年末が近づくと、いやでも思い出すのが年越しそばのことです。


 私は多少世に知られたそば屋の長男として生まれたのですが、、父の教育が間違ったのか、跡継ぎのつもりで楽しみにしていたことが、まったく見当違いになってしまった事です。もちろんかなり大きくなるまでは、父の後を継いでそば屋になろうかと考えていたことがあったのですが、どうもこれではまずいなと思うことが、中学校から高校生になる頃になって、これではとても跡継ぎになって活躍することは、無理だなと思うことが発生したのです。


 現代ではあまり流行りませんが、昔はそば屋というと、そばセイロを何段も高く積んで担いで、自転車で注文のあった家まで運んで行くそば屋の店員がかなりいましたし、それを誇らしげに振る舞っていた店員が沢山いました。それが天丼のように重いものをハイ子ででも十個でも積んだお盆を担いで、自転車で注文された家まで運んでいたのですが、私は自転車は乗れるものの、品物を積んだお盆を担いで自転車に乗るということが、どう訓練してもやれませんでした。


 そんなことから店では、釜前と言ってそばをゆでる釜の横にいて、店で食べる人の品を用意したり、出前に行く人の品物を準備して、調理台を担当する父親に渡すという役割を受け持つことにして手伝っていたことがあったのです。横にあるそばをゆでる釜での作業がない時は、目の前にある洗い場を使って、使用済みの丼を洗って、新しく使用できるようにしなくてはなりません。


 通常の場合は高校までは学校から帰って、手伝いをすることが多かったのですが、なんと言っても大変だったのは、大晦日の年越しそばの注文をこなす時が、調理場を担当する父と、よほど呼吸を合わせないと、殺到する注文をこなすことができません。


 大学時代の大晦日は、兄弟姉妹、親戚の者の手伝いも来て、大変な作業をこなしていたのです。


 そんな経験があったことのお陰でしょうか、これまで物書きという仕事を八十才過ぎまで現役でやっていましたが、やがて第一線を引き下がって今日になりましたが、家内が体調不良のために、日常の調理作業が困難になってしまったので、私が父とのコンビで、真似事の調理をやっていた経験を活かして、日常の調理をやるようになりましたが、そんな時にはいつも、父からもっと真剣に調理について、いろいろ手はずについて、もっと学んでおけば良かったのに残念だなと思うことしきりです。


 出前が不得意だった事から、物書きとして暮らしてきましたが、今は昔の経験を活かして、できるだけ家庭での料理を手助けしている日常です。


 年末が近づくと、いつも懐かしく年越しそばで大賑わいであったなと、しみじみ思いだす今日この頃です。


 


         藤川桂介


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八島直美

はじめまして 藤川先生。
学生の頃のお話とても面白かったです。
沢山重ねていた時代が本当にあったのですね。

実家のお蕎麦屋さんで、やっていた料理などは今も生きているのですね。
by 八島直美 (2024-12-31 03:03) 

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