「落ち穂ひろい 29」時は平等です [趣味・カルチャー]
先年行われた選挙では、裏金うんぬんとかがかなり取り上げられて、違法な形で豊かな生活をする者にとって、厳しい追及の声が飛び交いました。確かに多くの国民は、決められた法に従って平等な日常生活を送ってきています。
この豊かに恵まれる人と、なぜか恵まれない人という不平等と言うことは、どうしても生まれてしまう事になるのが、この世の定めというものでしょうか。
しかし冷静になって考えていると、日本だけでなく、全ての人にとって平等なことが与えられているのではないかと思うことがあるのです。
それは「時」と言うものです。
それはアメリカの大統領であろうと、中国の総統出有ろうと、日本の総理大臣出有ろうと、そして我々庶民であろうと、間違いなく神が平等に与えてくれているのが「時」というものです。それなのにどうして、彼らと我々との間には、作業についても、暮らしについても、大きな開きが出てきてしまいます。生まれた時から、同じ時の流れを与えられているのに、人間はことごとく暮らしぶりを見てみると、大きな開きが出てきてしまいます。
この世に生まれてきたからには、全ての人は、みな平等である「時」を与えられて生きて行くのですが、どうしてその暮らしぶりについて大きな開きが生まれてしまうのでしょうか。
その問題を簡単に答えるとするのであれば、それぞれの時間の使い方に違いが生まれてきてしまうからのではないでしょうか。
私達にしても、日常生活の中で、全ての時間を有効に活かして生活しているだろうかと考えると、なかなか素晴らしい一日であったとはいえないような時間を過ごすことが多いように思えます。
時の使い方を上手にこなしていく人、下手な人によって、暮らしの充実感には、大きな開きが生まれていってしまっているように思えます。
「時」というものの使い方次第では、その結果については思いがけない大きな開きが出てしまうということです。
もちろんあまり窮屈に考えないで、毎日、毎日の時間を、どのような使い方をしているのか、考え直してもいいのではないでしょうかと、提案しておきます。せっかく神様は全ての人間に対して、「時」という平等なものを与えてくれているのですから。
そうだ。
こんな私の思いつきを読む時間をとらせてしまって、申し訳ない時間を過ごさせてしまいましたね。
どうぞ、ご容赦下さいませ。
藤川桂介
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