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アニメと音楽の部屋☆ ア13「さすらいの太陽・誕生秘話」 [テレビ]

 

 地味な仕事でも着実に積み重ねているうちに、思いがけない好機が突然訪れるものです。勿論これが好機だと宣言してくれるわけではありません。飛び込んでくる仕事の依頼に対しして、興味の持てる仕事なのかどうかを判断して、出来る限り頑張るしかありません。「動画」の脚本を書きながら、ラジオの構成台本、少女漫画の原作を執筆しながら、作家として情熱を掻き立てられるような仕事に巡り合えないものかと思いながら、兎に角必死で持ち込まれる仕事をこなしていました。

その頃のことです。小学館で創刊されるコミック雑誌、「少女コミック」が準備に入った頃から、協力関係にあった編集長のY氏の新しい部下となった新人編集者のA氏が、突然拙宅へ訪ねて来て、学年誌で新人の女性漫画家を起用することになったので、彼女のために企画と原作を書いて欲しいと依頼してきたのです。もちろん喜んで引き受けましたが、ちょうどその頃藤圭子(ふじけいこ)という少女歌手が、「夢は夜ひらく」という歌を歌って歌謡界に登場してくると、とても少女とは思えない低音の歌声とともに、どこか暮らしの厳しさに立ち向かっているかのような、その境遇と立ち向かっている凄さをも感じさせて人気歌手となってしまいました。私にとっても、歌はもちろんでしたが彼女の境遇には大変興味深いものがありました。いつかこの少女をモデルにした話が書きたいと思っていた時のことだったので、一気に原作になる企画案を書き上げて編集のA氏に提出いたしました。ところがそれから間もなくのことです。重役で編集部長であるU氏が、「このようなものは絶対に当るわけがない」と言って、どうしても連載の許可を出してくれないというのです。「申し訳ないのですが、先生にお出で頂いて、直接U部長に企画意図を説明して頂けないでしょうか」新人編集者ではとても重役には歯が立たないというのです。そんな事情を知って協力しないわけにはいきませんし、結果によっては私も、新たな仕事を得ることができるかその機会を失うかという瀬戸際でもあったのです。

なぜ重役は「このようなものは絶対に当るわけがない」と断言するのかを訊きたいと思いました。早速神田須田町の小学館へ出かけて、U部長とお会いすることになったのです。すると部長は穏やかに、なぜ連載許可が出せないのかという理由を説明してくれました。実はしばらく前にコミック界の巨星である手塚治虫先生も、同じような音楽物を書いたことがあったのだが、読者の反応が芳しくなく失敗してしまったというのです。巨星である手塚先生が失敗した音楽物が、当るわけはないというのが編集者としての経験上の知識だったのでした。丁寧なお話でその趣旨もよく判ったのですが、しかしU氏は私の出している連載の企画案の真の狙いを、理解してはいなかったようです。歌手を目指す少女の苦闘物語であると受け止められた重役は、連載は難しいといって承知しませんでした。そこで私は直ちに発想の真意について丁寧に、熱っぽく説明することにいたしました。私にとってこの時が、やろうとしていることを理解してもらうための、必死な訴えを始めた始まりでした。

「これは音楽の世界は扱っていますが、決して音符を扱うお話ではなく、屋台のおでん屋を商う家の少女が、歌手を目指して葛藤していく少女の人生ドラマなのです」

決して音楽そのものを扱うものではなく、どちらかと言えば、一人の少女が目標に向かって必死で努力していく、人生ドラマなのですと熱弁を振るったように思います。

流石に重役は反論のしようがなくなってしまったのでしょう。

「それならやってみて下さい」

根負けしたように連載許可を出してくれたのでした。予定通り「小学四年生」に載せたところ、たちまち大反響になってしまったのですが、間もなく私の期待通り小学館の学年誌といわれる「一年生」から「六年生」まで、すべての学年誌に載せられることになってしまったのです。

 

 

 

 

          「さすらいの太陽」3.jpg 「さすらいの太陽」2.jpg

 

 

 

 

 

     (セル画はバングに制作中に、スタッフから贈られたものです)

 

圧倒的な人気を獲得しましたので、やがてフジテレビでアニメーションとして放送されることになりました。昭和四十六年(1971年)四月八日 PM7:00 フジテレビという記録が新聞で記事になっています。コミック作家の原作ではなく、放送作家による原作作品がアニメ化されたのは、恐らくこれが初めてのものではなかったかと思います。脚本家にもテレビで多くの視聴者を獲得することはできるという、気負いも挫けずに済みました。それだけではなく脚本家としてのプライドも高まったように思います。満足感でいっぱいでした。更に考えることの真の狙いを理解してもらうには、かなり時間と労力を必要とするということをはじめて知ったのでした。脚本もわずかに一本だけ書くに留めることになりましたが、それはその後の原作者と脚本家としての関係を、どうしたほうがいい状態であるのかということを知るいい経験になったのでした。

                        「さすらいの太陽台本」(第三話)1.jpg 「さすらいの太陽第三話」(番組放送記事)1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

グッズもさまざまなものが発売されましたが、そんなことよりも嬉しかったのは、こうした作業に必死になった背後には、あの「新ムーミン」というテレビ番組の脚本を書いた時から、いつか注目される存在になるという、心に秘めたある思いがあったからでした。コミック作家ではない脚本家が、ついに「動画」界に原作者として登場したのです。しかしそれだからと言って、世間の人がみな喝采してくれるようなことはありません。つけ上がったような言動は極力控えるようにしたつもりです。業界のどこかでは、面倒な奴が出てきたとでも思われたのではないでしょうか。

 

私の「荒野独行」の長い孤独な旅は、その時から始まったのでした。しかしそれは私にとって、何か新たな巡り合いがありそうな、大変楽しみな旅でもありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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告知と放談の部屋☆ 放22「葛藤する三十代」 [テレビ]

 

三十代も半ばに差しかかると、これまで味わったことのない環境の変化に振り回され始めることが多くなります。視聴者とかファンという人たちとのかかわりも多くなってきます。人間関係には複雑なものがつきまとうようにもなってきていました。制作者からの扱われ方についても、多少丁重にはなってくるのですが、だからといって作家の思うことが、そのまま受け入れてもらえるというようなところまでにはなっていません。作家としての自尊心が、完全に満たされる状態にはして貰えないものです。

いつかいつか現在の状況を払拭するような作品作りができるようになりたいと、密かに願いながら時の流に従った作業をつづけていたのでした。兎に角三十代も半ばに差し掛かる頃になると、いろいろな人と出会うようになると、現在かかわっている仕事の責任者は、私のことをどう評価をして付き合ってくれているのだろうかと考えるようになったりもしました。周辺の人の様子を見ていると、そんな待遇問題に不満を感じて悶着を起こしてしまう人もいますし、制作している作品の内容について、提案した問題点についての修整案が受け入れられないといって、その作業から去ってしまう人もいたりします。私はそんな時どうするだろうかと考えたりしました。恐らく疑問があったら、一応責任者にその問題点を提起してみるでしょう。しかしそれをどうしても納得して貰えない時は、悶着を起こすようなことはしないで、静かに番組から去っていくということにしました。関係する作家がその作業に興味を示さなくなれば、製作者もそれを感じて何もいってこなくなるでしょう。もしその作家が番組制作上絶対に必要だと考えるなら、何とか問題点を解消しようとして接触してくるはずです。もうこのままではいられないという気持ちになったら、兎に角静かに身を退くことにしました。実際にそうした番組もいくつもありました。不満な状態にありながらいつまでも同じような状態で仕事をしていても、いい結果は出せませんしいつかはその責任者とぶつかり、ののしり合うような結果になってしまうものです。兎に角自分の立場を明らかにしておくことが大事なのだと考えるようにもなっていました。いやいやながら変に我慢して作業をしつづけることは、却って精神的にも負担を背負うことになってしまいます。

異世界の人たちと出会ううちに、時代の変化が微妙に起こってきていて、関係している業界にもその影響が及んできているということを感じるようにもなってきていました。そしてそれを実感するようになると、いつからか自分に対する製作者の接し方が変化しつつあるのを感じるようになってきていました。業界での存在が少しづつでも確かなものになりつつあったのかもしれませんし、そうした時代の変化に対して、私という存在が欠かせない存在になっていたのかもしれません。しかし現在かかわってきた「ドラマ」「動画」というジャンルでは、相変わらず原作者という存在が欠かせません。特に「動画」の世界では、絶対的な存在として原作者・・・つまりコミック作家という存在を無視することはできません。その読者の数が圧倒的であったために、視聴率を確実に獲得するためには、彼らを無視してはテレビ番組が成り立たないのです。それは書くことに自信をつけた人にとっては、大変厄介な存在でした。シリーズの方向などを左右するようなことを、強引に処理するようなことをすればたちまち大きな問題になってしまいますし、いくら自信をもって主張しても、原作者との関係を悪化させてしまったら、たちまち作業から立ち去らなくてはならなくなってしまいます。まだ原作者を・・・その前に制作者を納得させる力が備わってきていないということを自覚していないからです。多くの場合は決裂して不快感をいだきながら去ってしまうことになるしかありません。

そういったことを考えると、脚本家が少しづつ実力をつけてきた時の大きな曲がり角だと思うようになりました。つまり気をつけなくてはならない時期なのだということです。

かつてはじめて「動画」とかかわった時に、若手脚本家のS氏、H氏から訴えられた、脚本家に対する評価の低さということの原因が、一部スタッフによる差別感というものが現実にありましたが、その他にも最大の原因になっていることの一つが、原作者という存在であることも間違いありません。脚本家が脚本家としてその存在を尊重して貰えるようになるためには、それらに立ち向かえるだけの力を備えなくてはなりません。

それに気がついた時から、私はある決心をすることにしました。少なくとも「動画」の世界では、原作者の意図していることを無視して脚本家が勝手な方向へ向けてしまえば、反発されることは間違いありません。原作の方向、色合いを変えたい時には、先ず最も脚本家の身近な存在である番組制作者の説得をしておく必要があります。脚本家の代弁者として原作者の説得をしてもらう最も身近な味方なのですから・・・。その時に彼らがどう受け取ってくれるかが問題です。その反応ぶりによって、相手が私のこれまでの作業をどう評価しているのかが判断できます。少なくとも真摯な作業をしつづけていれば、私の提案を頭から拒否するわけはありません。その微妙な反応の仕方から、脚本家に対する評価も判断できると思うようになっていたのです。やはり二十代での作業の積み重ねによって働くようになった勘というものかもしれません。

 「動画」の世界では兎に角コミックを書く原作者が絶対であり、その漫画を映像として動かすアニメーターが現場の権力者なのです。それを承知の上で、製作者がわの思惑を知ったうえで、原作者との意見交換をすることにして、極力いざこざの起こらないようにして作業を進めていくようにしました。あまり焦って思いを遂げようとしては、却ってすべての思いは崩壊させてしまいます。脚本家の思いを通させてくれない時には、自分が原作者になってしまうしかないようです。それは「動画」だけではなくドラマの世界でも同じです。いつか自分が原作者となる日を夢見たりするようになりました。

今は苛立ちがちな厄介な三十代を、いかにして葛藤しながらやり過ごせるかが問題です。時には屈辱にも耐えながら、出会う環境から抜け出していく機会を掴まなくてはなりません。飯沢匡家で出会うさまざまな業種を目指す人々も、同じような体験をしながら実績を積み重ねながら飛躍の機会を狙っているのです。彼らは私にとっては反面教師であったのかもしれませんが、まだまだ私は彼らのように自信を持って自分の進んで行こうとしている道筋を、突っ走ってはいません。そんな中で家庭生活も守らなくてはならないのです。

いつになったら番組を任せて貰って、自分の思うような番組が立ち上げられるのかと、夢を見つづけながら地味な作業をしつづけているのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放21「作家に不利な借金」 [テレビ]

   

赤坂へ住むという、当初の目的であった時代の空気を一早く察知しできるということは間違いなく果たすことはできましたが、交通の利便性ということがあって、出会った人たちが次々と「末広荘」へ訪ねて来てくれるようになって、さまざまなジャンルの会社の若いリーダーたちからも、思いがけない情報がもたらされるようになりました。

 確かに生活するには絶好の場でしたが、何といっても人との交流が広がることで来客の出入りが多くなり、作業をしながら集まってくれる人たちとの融和ということは、精神的には大変役に立ちました。しかしそれにしても、広がっていく人間関係をそつなくこなしていくためには、家庭を持って暮らしながら仕事をこなしていくには狭すぎるアパートです。しかも子供の成長という大きな問題がありました。もうすでに上の子は小学校へ通うようになっていたのです。来客の接待をしながらという落ち着かない環境の中では、満足に面倒が見られません。それでも休みが取れた時には、何とか子供を連れて自然の楽しめるところへ行ったり、時には人の集まる遊園地のようなところへも連れて行ったりもしました。そんな中で新たなところで家庭を営み、仕事に励める拠点を探さなくてはならなくなっているのですが、忙しなく動いている現状だと、あちこち探し廻る時間も思うようにはなりませんし、突き詰めて考えると新しい家を求めたいと思っても、まず必要になるのは資金の問題でした。現在の経済状態ではとても希望は叶えられそうもありません。このままであったらあと何年たったら希望する新天地はいつになったら手に入れられるか見当もつきません。絶望的になることもありました。折角この狭いアパートで我慢しながら、10年もの間頑張ってきたのですから、せめて新たに生活の場を築くのであれば、少しは家族がゆったりとした環境で生活させてやりたいと思うのですが、まだ作家としては確立したとは言い切れない状態の私です。銀行へ大金を借りに行くようなこともできません。こうしてやりたいという気持ちと、そうはできないという現状との狭間で密かに葛藤する日々がつづきました。

 そんなある日のことです。新聞に衝撃的なニュースが発表されたのです。

 住宅を求める人のために、大きな銀行が低金利で資金を貸してくれるという住宅ローンの広告です。1970年代後半には、「高金利、過酷な取立て、過剰融資(3K)」で、借り手の蒸発や一家離散、自殺等が社会問題化していて、「サラ金地獄」とも呼ばれているような時代でもあったのですが、そんな中では画期的な規格の発表でした。

私と同じようなことで悩んでいるサラリーマンもかなり多かったので、銀行はそうした新たな利用者を吸収しようということもあったのでしょう。建築資金を貸してくれるという新施策を打ち出してきたのです。資金不足を何とか解決できないものかと苦闘していた私にとって、大きな期待となりました。あまりこういうことで動き回るようなことがなかったのですが、新たな拠点を作るためにはどうしても欠かせないものについては解決しなくてはなりません。

某銀行で始まった住宅ローンの申し込みのために、私は決心して出かけて行きました。丸の内の大きな銀行には、すでにサラリーマンと思える背広を着た人々で行列ができていました。

これでうまく資金が貸してもらえれば、目的は意外に早く解決できます。さまざまな夢を見ながら順番を待ちました。

一時間は待っていたように思います。

やがて面接の部屋へ入れました。長いテーブルがいくつも置かれていて、その前にはそれぞれ審査を受けようとする人が並んでいます。やがて審査官の前に進み出ることになりました。

「よろしくお願いいたします」

簡単に挨拶をして椅子に腰を下ろして、審査官の第一声を待ったのですが、やがて彼は私が提出しておいた融資申込書を見やりながら、

「あなたはどこかお勤めでしょうか」

というのです。

「いえ」

 一応参考になる自己紹介は、申請書に書き込んでおいたはずなのですが、変なことを聞くなと思っているとこころへ審査官は、

「お仕事はどんなことをしていらっしゃるんですか」

と訊いてきたのです。

「テレビの脚本を書く、脚本家です」

自信を持って答えましたが、次の瞬間私は衝撃的な返事を聞くことになってしまったのでした。

「そうですか」

審査官は淡々とした口調になると、実にはっきりと、「今回の住宅ローンはお勤めの方に限られていますので、作家の方は融資の対象にはならないのです」といって苦笑してきたのです。

「それでは、私はまったく融資の対象にはならないというのでしょうか」

真剣に詰め寄ったのですがそれは空しい抵抗でした。

審査官の反応はまったく平成に、

「申し訳ありませんが、融資の対象ありませんのでご遠慮頂かなくてはなりません」

突き放すように言うと、申し訳ないというようにちょこんと頭を下げました。

夢を思いきり膨らませていたこともあって、それがあっさり断ち切られてしまった私は、思い足をひきずって帰宅したのでした。

彼らの考えていた融資対象としていた個人は、企業の役職者や実業家、専門職、公務員などある程度の地位と安定収入がある者に限られていたこともあって、この日も支払いが滞らないためにサラリーマンのための住宅ローンだったのです。収入の不安定な作家等は、はじめから対象にはなっていなかったのです。

 文句を言うわけにもいきません。

 作家いう仕事は、彼らが信用しないほど不安定な仕事なのだなと思いました。しかし 何とかしなくては・・・新たな課題を突き付けられたような気がしてきたのでした。

よほど決心してかからなければ、とても新天地を手に入れることはできないと思ったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放20「赤坂、狭く賑やか」 [テレビ]

 

まだ自分の進む方向が定まったわけでもありませんし、現状に満足できる状態にはなっていません。誰にも言えませんが、自分自身にはかなり厳しい課題を課していました。依頼される仕事を間違いなくこなすということはもちろんのこと、大事なのはその仕事の評価を得て、少しでも世の中の人が注目してくれる作家としてその存在感を高めることです。しかしそのことについては、なかなか思うように効果が上がっていません。まだまだ努力を積み重ねながら、勝負する機会に巡り合うのを待つしかないのです。そのためにも、何か特別にすべきことはあるのだろうかとも思うのですが、そんなことができる機会が整っていないようにも思います。今が勝負の時だという機運はまだまだ高まっているとは思えません。まだまだ夢中になって勝負に出られる状況にはありません。

 その間に生活の環境がかなり変わってきていました。そろそろ赤坂の「末広荘」へ住んで十年になりますが、狭いところなのにほとんど何も文句も言わずに我慢してくれている家内や子供の環境ということも考えると、そろそろ環境について真剣に考えなくてはならない時がきています。家族だけならそれでも工夫次第で何とか凌げそうですが、問題なのは私が仕事の関係でできた人間関係を支障なくこなしながら進めていくには、この狭い住まいではとても問題が多くなってきてしまったのです。時代の気分にもよるのでしょうか、赤坂という立ち寄り易いところであったこともあって、みな気楽にやってきてくれるのです。そこでは来客同士が出会って親しくなり、新しい仲間となって交友が生まれるということもあったようですが、家内はその接待にも気を使っていたようで、来客と共に談笑して過ごすことも多かったようでした。その分次第に成長していく子供にかかりきりに慣れない心配がありました。大変賑やかでよかったのですが、子供の教育ということを考えるととてもいい環境とは言えません。そろそろ落ち着いたところで生活させたいということも考えるようになってきていたのです。いつでも誰かが遊びに来ているという賑やかな環境にあるのですが、そんな中で私は原稿を執筆するようになっていたので、ちょっとぐらい騒がしい環境の中でも、あまり神経質にならないで・・・逆に集中力を高めて没頭することができるようになっていたのです。置かれた環境がどんなに厳しくても、それを逆に利用して生活していくという身の処し方を覚えた時かもしれません。

  作家としての生活を確立することと同時に、家庭の安定ということも同時に考えていかなくてはなりません。時にはこれからどう生活設計をしていくのかということを、話し合うこともあるのですが、現状から脱出するためには、兎に角生活を維持していかなくてはなりません。毎週土曜日の夜ともなると、恋人ができた男性たちは、何組も拙宅のアパートへやって来て、当時テレビで人気のあった映画をみんなで鑑賞するようなこともありました。そんな時家内は多少でも茶菓子などを揃えて置いたり、時には近くの中華そば屋からラーメンを取り寄せたり、それこそ時にはアパートの入り口にあった稲毛屋という店から、うな重を取り寄せたりしてあげたりすることありましたので、生活費だけでなく散財することもかなりあったように思います。それでも家内が嫌な顔をしないで、むしろ若い人たちが談笑の場としてくれることを、自分の楽しみのように受け止めてくれていたのが有難いことでした。

そんなことのために月の家賃が整わなくなってしまって、神田で靴屋さんを営んでいる台書き時代からの親友のお父さん、お母さんにお願いして、アパート代を借りに行ったこともありました。ただし原稿料が入ったら直ちにお返しに行ったりしましたが、学生時代からかなり出入りをしていたこともあって、私が実家を飛び出して独力で生活するようになっていたのを熟知していたご両親は、そんな私を理解して下さって支援して下さっていました。今はその友人ご夫婦も、ご両親も他界してしまいましたが、思い出の青春時代の大事な支えとなって下さった人々のことは忘れられません。

 私が独身で住むようになってから、もう14年にもなってしまっていました。町の様子も変わってきていて、しばらく前までは一日、十六日には一ツ木通りには縁日が出て、夕方から家族で楽しむこともできましたが、次第に開発が進んで行くのに従って、ゆったりした雰囲気も失われていきましたし、拠点の「末広荘」にしても、その住民はほとんど変わっていってしまいました。

                                         「赤坂風月堂」1.jpg

上の写真は、赤坂一ツ木通りにあった、「末広荘」近くの和菓子店であった「風月堂」ですが、昔風の和風のお店からこんな現代のお店に変わってしまいました。

 いろいろなことが起る赤坂でしたが、そろそろ生活の環境を変える必要があるということを、真剣に考えるようになっていましたので、寸暇を割いて転地する場を探すことを始めました。しかしなかなかここならいいのではと思うところは、そう簡単に見つかるわけがありません。ここならどうかと思うこともありましたが、とても現在の経済状態では手が出ない高価なもので、ただ引き下がってくるしかありません。

 そんな空しい転地探しが、仕事の合間に行わなくてはなりませんでした。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド29「思わぬ支持者の発見」 [テレビ]

 

地味な作業をつづけていたので、世間的にはほとんど注目をされることもなく、じっと開花する日を期待しながら作業をしているところは、かつて発表した仮想現実作品である「ウルトラセブン」で発表された作品に対して、思いがけない反応が現れたものですからびっくりしたり感激したりすることがありました。作品が放送されていた当時はあまり取り上げられることもなく過ぎてしまっていたために、あまり気にしないようにしていたのですが放送が終わってしまってから、時々ファンという人たちから、拙作「栄光は誰のために」が好きだといって手紙をくれたりすることがあったのですが、もうその時には、番組の色合いがまったく違った方向へ向かっている最中でしたので、わざわざ好きだといって手紙を下さる方には、お礼状を書きましたが、それ以上には殊更騒ぎ立てて取り上げることもなく打ちすぎていました。

 どうしてもテレビ作品については声高に叫ぶファンが出てくるものですが、そのために静かに支持してくれている人たちの声は、どうしても無視されてしまいがちになってしまいます。ところが彼らの中には大袈裟に騒ぎはしないものの、一寸違った形で熱っぽいものを表明してくれる人たちもいるのです。

すでに1968年に番組は終わってしまっているのですが、それから三年もたった1971年のある日のこと、大学の後輩であるM君がある雑誌を送ってくれました。拙作の「栄光は誰のだれのために」を取り上げて、それを素材にして一冊の雑誌にしてくれたものでした。まさかこんなことまでして作品に対しての支持を表明してくれる人がいたとは思ってもいませんでしたからびっくりしましたが、彼らは仲間と共に作品に対する支持を表明することを楽しんで一冊の雑誌にまとめて送ってくれたのです。想像もしていないことでしたので、びっくりしながら感謝をしたものです。

脚本家としては大変嬉しいことではありましたが、若い人がここまで真剣に一つの作品を取り上げて、雑誌まで作り上げるというエネルギーはびっくりするばかりですが、まだ大学生であるということを考えると、こうした雑誌を作るための費用もかかるでしょうし、仮に小遣いを投入するにしても大変なことではないでしょうかと心配したものです。しかしどうも最近は若い人の楽しみ方が、時代の変化によって変わってきているのではないかと気づかされるきっかけにもなったのです。

 作業中ではさまざまな嫌な思いをさせられてしまいましたが、思いもしなかった反応については、った、若くして冥界に旅立たれてしまっている監督の鈴木俊継さんにも報告しておきたいとい思います。

                       「ウルトラセブン・栄光は誰のために」(アマ制作)1.JPG 「ウルトラセブン・栄光は誰のために」2.jpg

 

私はこんなことを知ってから、こうした静かではあるのですが、熱烈なファンが存在することを忘れてはならないと思うようになりました。そしてこうした人々が沢山いてくれることが大事なのだと考えるようにもなったのです。

今は目立たない仕事をしているのですが、その作品が発表されることで、どんなところに、どんな支持者が存在しているかも判らないのです。たとえどんな仕事であっても、決していい加減な気持ちで取り組んではいけないということを強く感じたのでした。M君はこの後で、私の書いた作品であったものの実際に制作されずに終わってしまった作品について、思うことを書いて欲しいということをいってきましたので、下の雑誌のような原稿を書いて応えました。これがファンと作家の交流ということかもしれません。

                 「セブン回想計画」1.jpg 「セブン回想計画・藤川原稿」1.jpg

 

彼らは「ウルトラマン」「ウルトラセブン」でボツとなって制作されなかった拙作作品が大変気になっていたようでしたので、それには作家として率直な思いを書いたように思います。しかしそれにしても、視聴者と作家との距離はこのようにして次第に近くなっていくのではないかなということも感じるようになっていきました。今は大変目立たない仕事をしていますが、そのような作業の中で彼らに注目される作品が生まれているかもしれません。そのようなことを考えるようになったきっかけでした。ご存じの方もかなりいらっしゃると思いますが、これからしばらくして登場する「六神合体ゴッドマーズ」という作品は、お陰様で大変なヒットになりましたが、ファンの支持が驚異的に高まって、ファンの希望によって映画化が決まるという異例の結果を招来しましたが、放送界ではまったくはじめて起こった異例の出来事で今でも語り継がれているファンの勢いでした。今回のようなファンとの交感が、やがては思いがけない大きな運動を起こすきっかけとなったのだと思えてきます。

 現在のように目立たない作業をこつこつと積み重ねていくうちに、作家とファンとの交流が生まれ信頼感が生まれていって、いつか大きな実りを生むことになるという教訓を得たきっかけでした。テレビで発表される作品というものは、こうしたファンの下支えがあって、やがて大きな人気を生み出したりする力になったりするのだということを、心に秘めたお話でした。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド28「スペクトルマン・猿人ゴリ」 [テレビ]

 

兎に角1970年は目立たない仕事でも、こつこつとこなしながら飛躍できる機会を窺うという、大変精神的には解放されない一年を過ごしてきたところでしたが、翌年の一月から放送を予定しているという「スペクトルマン」という番組についての話が持ち込まれてきました。兎に角弱小プロダクションでの特撮ということであったこともあって、作品の制作にはあまり期待感はありませんでしたが、フジテレビとのお付き合いもあって協力要請に対して一応承諾はいたしましたが、すでに気持の中では整理していたジャンルのお話でもありどうしても気持ちが乗ってきませんでした。

 その会社はかつて漫画を描いていたベテランが設立したプロダクションで、拙宅に近いところにあったスタジオは、彼の自宅の庭を開発したところに作られたもので、フジTVBプロデウサーの案内で対面した上で社長と対面をして、制作する作品についてのコンセプトを説明されたのですが、どうも私の考えるSF作品とは大分様子が違うということに気がつきました。予算はかけられなくても、その制作する意欲に期待するものが感じられれば、勝負をしてみたいという意欲も生まれるところでしたが、とてもこれまで世間の注目を集めた円谷作品の時とは比べ物にならないもので、いろいろな点でこれまでかかわってきた作品作りについての意欲が持ち上がってきませんでした。その決定的な気持ちの始まりは、「スペクトルマンー宇宙猿人ゴリ」というタイトルから想像できると思うのですが、最近アメリカのSF映画でヒットした「猿の惑星」の焼き直しものであることがはっきりとしています。とても鮮度の感じられない企画であったし、何といっても新しい作品に取り組むという意欲にも欠けていましたので、何とか準備稿を書くことで協力はしましたが、その後の放送まではほとんど関係しなかったように思います。

                                                     「宇宙猿人ゴリ」1.jpg

  動画と雑誌での漫画の原作提供、ラジオの構成台本で暮らしの生計を立てながら、兎に角現状から飛び出す機会を窺うしかありません。もうしばらくは我慢を強いられる生活を覚悟しなくてはなりませんでした。丁度その頃のことです。松竹の若手俳優の関口宏さんを起用した番組を制作したいという話が、ラジオ関東(現ラジオ日本)から持ち込まれました。「スペクトルマンー猿人ゴリ」と同じように、翌年の1971年の1月

から放送したいというので、その企画を考えたり構成原稿を書いたりしなくてはなりませんでしたので、どことなく慌ただしい年末になりました。

 兎に角私には戻ることが許されない事情があります。跡取りでありながらそれを放棄してまで作家の道を選んできたのですから、苦しいからといって実家を頼って引き返すわけにもいかないのです。この頃の家庭としてはまったく逃げ場のない状況にあったのです。作家としても、一人の人間としても、現状から逃げ出すようなことはできません。

生活のためにもラジオの仕事を捨ててしまうことはできません。この頃ラジオ関東が起用することになった関口さんは、人気歌手の西田佐知子さんとの交際が噂になっていて若手の俳優として人気を得ていた頃ですから、ラジオ局制作であってもそれなりに予算をとって制作しますから構成番組としてはかなり贅沢な番組になったようでした。私への構成本のギャランテイも、かなり恵まれたものがあったことは言うまでもありませんりません。ただし関口宏という若手の人気俳優のスケジュールは充分に取れないということもあって、あまり手間をかけて制作することができないという条件が付いていました。収録にも長時間彼を拘束しては置けないという条件がありましたから、いわゆる音楽を紹介するだけの構成番組では面白くないというスタッフの希望もあって、何とか考え出したのは次第に変化しつつあった時代とういうことを考えて、若い世代の人たちが抱え込んでいる問題を取り上げて、それに若い世代の代表として関口宏が何かしらの解決策を提案しようということになりました。その間に若い人向きの音楽をレコード室の専門家に選んでもらって楽しむ番組にでもなればいいということになったのでした。

 何かについて悩みを抱えている若い人に対して、若手俳優である彼が何らかの問題について彼なりの解決を提案していこうというのが狙いでした。しかし前述しましたように、関口宏さんは忙しいというので、収録に時間をかけることもできません。通常は台本の執筆をする者も立ち会って、ナレーターとの顔合わせをすると同時にどんな雰囲気になるか、その雰囲気を確認することになるのですが、そんなことを確認する余裕がありません。兎に角台本だけをまとめて届けておくということになりました。



                                                   「恋人の部屋」1.jpg 


制作環境もとてもいい環境にはありません。彼の時間が取れた時に、必要な回数を収録するという状態でしたから、私はラジオから流れる放送でその日の出来具合を確認するという状態でした。兎に角タレントからどんな条件が持ち込まれても、何とかそれを解消しながら制作をしなくてはなりません。彼から若者の問題を提起してもらって、それに対して彼らしい回答を引き出すという、当初の目的も彼の多忙さのために不可能ということになってしまいました。問題を抱える青春時代の悩みもそれに対する回答についても、結局すべて私が悩みを書き私が答えを書くということで終始してしまったのでした。こうして脚本家としては、知名度ということではとても満足度のない作業をしつづけていたのですが、そんなところに、思いがけないことがもたらされてきました。

それは次回の稿でお話しようと思います。



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告知と放談の部屋☆ 放19「行く年来る年で再会」 [テレビ]

 

今回は年末に近づきつつある十月も最終日曜日の話題ということを考えて、私がかかわった全国放送になる、「ゆく年くる年」の構成書く本を書いた前後のことをお話ししたいと思います。すでに前回の三島由紀夫さんの市谷自衛隊本部の襲撃事件のお話しの中で、その年の年末の番組である「ゆく年くる年」についてもお話いたしましたが、今回はその「ゆく年くる年」のことについてお話したいと思います。

 私はTBSラジオの報道局からの依頼を受けて、全国放送になる「ゆく年くる年」の構成台本を、二回執筆しているのですが、今回のお話は二回目の作業をした時のことです。残念ながらその記念になる1970年の12月31日の全国放送のTBSラジオの

「ゆく年くる年」の台本が見つかりませんので、その5年前の1965年の放送台本の紹介をしておくことにいたしました。

                                                 「ゆく年くる年・1965」1.jpg 

 

 

 

  

結婚したばかりの年の構成台本ですが、この時は別に問題もなく過ぎたのですが、その後5年という年月を経過するうちに、私は脚本家として大きく揺さぶられていった時期に当ります。円谷プロダクションとの仕事もなくなって間もなくのことでした。

 

番組の冒頭では全国のラジオ局によって、そのあたりの年末の様子をレポートしてもらいながら、全国の年末風景を紹介していくことになっていました。すると間もなく沖縄の放送局を担当するキャスターとして登場してきたのが、あの「ウルトラマン」の企画・脚本を書きまくっていた金城哲夫氏であったのです。あまりにも予想しなかった人の登場でびっくりしました。「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」を境に、脚本家としての作業を捨てて東京から去った彼は、沖縄の放送局でキャスターとして頑張っていたのだということをはじめて知ったのです。兎に角放送中のことですから、彼を呼び出して話をするなどということはできるわけもありません。しかし考えてみると、彼は今回の放送台本を渡された時、私よりも早く構成作家として「藤川桂介」を見てショックを受けていたのではないでしょうか。

 

 その日はそのまま追わることになりましたが、年が明けてしばらくしたある日のこと、金城氏から拙宅へ電話が入ったのです。

 

電話に出て挨拶を交わしたあとで、彼は率直な思いが伝えてきました。

 

 「藤川ちゃん。まだ頑張っていたのですね」

 

 大真面目な話しぶりでした。

 

 「もちろんですよ。脚本を書くこと以外に生きる道はありませんから・・・」

 

 そんな会話を暫くかわしましたが、兎に角彼が電話をかけてきたのには、私がまだ脚本家として頑張っていたことがショックであったということだったのです。

 

 あの「ウルトラアイ」から私に襲いかかった不愉快な出来事について、すべてを知っていた彼が、思わず率直な気持ちを伝えてきたのでしょう。「ウルトラマン」で大活躍をしたはずの彼も、次の番組になる「ウルトラアイ」から文芸担当も外されてしまって、私が企画からスタートまでを担当することになってしまいまったのです。彼がどうしてはずされたのか、その真相については誰も話してくれませんから、ほとんど判らないままでしたが、何か謎めいた日月を過ごさなくてはなりませんでした。そのうちに番組制作の背後では、かなりの変化が起こっていたのです。それは脚本担当を指示されていた私にとっては大変な関心事なのですが、いくら待っていてもまったく詳しい説明もないまま打ちすぎていくうちに、「ウルトラアイ」は「ウルトラセブン」とタイトルも変更になり、番組の内容もすっかり変わってしまったのです。「ウルトラアイ」での目標であった、家庭家族がみんなで楽しめる番組としようとしていた「闇に光る目」は、思いがけず「ウルトラセブン」の作品として発表され、その後はまったく私が意図していたものとは違った、異質の作品が放送になっていったのです。

 

すべてから外されてしまった金城氏も暗黒であったかかもしれませんが、私にとっても何もかも報告がないままの状態でまさに暗黒の時代でした。彼が電話で最初に発した挨拶のことは、あんな状態に置かれていてよく藤川さんは今日まで頑張りましたねということが言いたかったようです。彼はあの暗黒時代耐えられなくなって故郷の沖縄へ帰ってしまって、今はキャスターに転職してしまっていたのです。恐らく私も脚本家を忘れて、他の仕事に転職してしまっているのではないかと思っていたに違いありません。それなのに年末の特別番組である「ゆく年くる年」の台本を渡されて、その構成作家の名に藤川桂介を見て、かなりショックを受けたに違いありません。彼はあの暗黒に耐えられずに、脚本家の道を諦めてしまったのに、あの同じような暗黒を味わわされたはずの藤川桂介は、全国放送の台本を書いて健在を示していたのだ。しかし彼は私の書いた台本の中で、ごく一部である沖縄のレポートをするだけで登場するという、立場の変化にショックを受けたのかもしれません。

 

かつて頂点に君臨していた彼は、その後味わったさまざまな不遇な苦しみに耐えられずに、書くことを諦めて東京から去ってしまったのです。私はもっと東京で一緒に頑張って欲しかったと伝えましたが、結局その日の電話はお互いに頑張りましょうと言って終わることになってしまったのでしたが、電話をかけてきた時の彼の気持ちを推し量ると、一寸寂しいものを感じていました。

 

それにしても作家を志しながら、どうして頑張り切れなかったのだろうかと考えると、彼と私にはまったく違った環境がありました。金城氏には作家の道を諦めても、帰る故郷がありました。しかし私には何があっても引き返すところがありません。作家になるといって、すべてを放棄して実家を出てきてしまったのですから、何としても物書きとして生き残る決心を貫かなくてはなりません。それが彼と私の差になったのかもしれません。あれこれと考える年末になったのでした。

 

現在の私はこの一年余の間、知名度の低さをどうすれば脱することができるのだろうかと葛藤しつづけているのです。改めて荒野独行を貫きながら、世間のみなさんに認知される脚本家になるにはどんな努力をしなくてはならないのかと、自問しつづけることになってしまったのでした。

                                            

 

 

 


 


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告知と放談の部屋☆ 放18「三島由紀夫事件と約束」 [テレビ]

 

間もなく新天皇の即位という記念すべき日が、数日後に訪れるというのに、わざわざ取り上げることにしたわけではありませんが、今回は予定に従って三島由紀夫事件についてお話をすることにいたしました。

 1970年も半年が過ぎる頃のことでしたが、気分的に脚本家としての生き方について、あれこれと考えることが多いどこか冴えない気分を、何とか持ちこたえて暮らしていた頃のことです。演劇界で活躍する演出家の松浦竹夫さんの誕生パーテイに、大分前からイベントのショウといえる作品で協力して貰っていた、彼の弟子である若手の演出家であるT氏から師匠の誕生パーテイにきませんかと誘われて、新たな出会いに期待しながら出席いたしました。その時松浦さんは、来客から次々と祝福を受けたところで、若い時から親しんできた東北に古くから伝わる生活に根付いた生活の心情を詠った古謡暗唱していらっしゃったことがあって、見事な東北弁でそれを披露されたのです。素晴らしい隠し芸だなと感動したことがありましたが、それから間もなく、彼の親しい作家である三島由紀夫さんがやってこられたのです。松浦さんは三島作品の演劇作品のほとんどを演出していたこともあってたちまち宴は華やぎ、宴の雰囲気は大変盛り上がったことは言うまでもありません。打ち解けた雰囲気の内に宴が過ぎていきましたが、若い演出家のT氏と私が、三島さんに挨拶をする機会が訪れました。

 兎に角相手は当時の人気作家でもあったし、彼の若い時の作品である「灯台」という演劇作品が好きであったこともあったのですが、まさかこのような機会があって、直接挨拶をする機会があるなどということは考えてもいませんでしたから、とてもまともな話はできませんでしたが、間もなく三島さんは来年の正月に自宅で行うパーテイへいらっしゃいと誘って下さったのです。天にも昇る思いになっていたことを思い出します。

 そんなことがあって、精神的に何か冴えない一年を過ごしていた私でしたが、半年後の正月を楽しみにしながら、何か希望のようなものを感じながら生活していたのです。ところがそれから数か月後のことでした。実に衝撃的な事件が起ってしまいました。

 1970年11月25日の事件についてご存じでしょうか。

著名な人気作家である三島由紀夫さんが、盾の会員数名を率いて市ヶ谷にあった陸上自衛隊駐屯地の長官室へ乱入して、そのベランダから事件の発生を知って外に集まって来た八百人の自衛官に対して、失いつつある日本の心を取り戻せと訴え、憲法の改正を訴え、非難の野次を受けながらやがて総監室へ引っ込むと、そこで盾の会の一員である者を介錯人として、切腹自殺をするという大変ショッキングな事件でした。

 あの半年前の松浦氏のパーテイへ出席された三島由紀夫氏からは、まったく想像することのできない事件でしたし、自衛隊員の野次の声が渦巻く中で、盾の会の軍服姿で声を涸らして訴えるように演説する彼の姿は、あまりにも傷ましく思えたのでした。彼をあそこまで追いつめていったのは何であったのか、さまざまな見解を述べる方は多いのですが、結局その真相は突き止められたとは言えないままになってしまったのではないでしょうか。兎に角パーテイでの温和な姿で話しかけてくれた姿と、テレビを通して衝撃的な事件を演ずる姿とを直視することになってしまった、大変複雑な心境でいた年末近くのことでした。TBSラジオからその年の「ゆく年くる年」の全国中継となる構成を依頼されたのです。

TBSがキイ局となって、全国のラジオ局をつなげていく構成ですが、各局を巡って各地の年末を紹介していくことになるのですが、その中で東北を紹介するコーナーでは、半年前に松浦竹夫さんの誕生パーテイで彼自身の暗誦で聞かされた、古くから東北に伝わる生活に根付いた様子を詠った詩を、全国放送でやって貰おうと思いました。そこには昔から根付いた暮らしの光景が描かれていたように思うのです。いろいろ難しいことはあったとは思うのですが、三島由紀夫氏が自衛官たちに訴えかけようとした日本の心というものが、そこには込められていたように思えてきます。それはTBSラジオのスタジオで、前もって収録することができました。日本人の心のふるさとともいえる暮らしの風景が、見事な暗誦されて聞く者の心に染みるような気がします。それが見事な東北弁で紹介されたと思いました。

時代が刻々と変化していきながら、人の心にも押し寄せる大きな変化の波は押し寄せつつありました。そんな時に起こった三島由紀夫さんの自衛隊本部襲撃という事件といい、松浦竹夫さんの暗誦する東北の古謡にも、日本人の魂の原点とは何であったのかということが、こめられていたようにも思えてくるような気がしてくるのでした。

新天皇の即位の日が近づきます。そんな時に不謹慎かもしれませんが、日本の将来について考えるということでは、三島事件も決して無駄なお話しにはならなかったのではないでしょうか。

あとは間もなくやって来る「ゆく年くる年」の本番となる12月31日を迎えるだけになりましたが、まだこの時には、その放送を通じて意外な人との再会をすることになるとは、思ってもいないことでした。

   


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アニメと音楽の部屋☆ ア12「社会的な評価の必要」 [テレビ]

 「チビラくん」などといっても、かつての特撮ファンであった人たちにとっては、ほとんど関心外という番組だったのではないでしょうか。それだけに私と若槻文三さんはあまり気張った気持ちにもならずに、兎に角円谷プロダクションというブランドを消さないように頑張ろうという気持ちで作業をしつづけたのですが、やはり仕事を終わって共通する話言えば全盛を極めていた当時の話になってしまいます。あの文芸部から指示されるプロットを二本出すようにという指示についての不満でした。若槻さんもボツになったいくつものプロットが、その後どうなのかということを考えると、大変疑問に思う作品が番組の放送の中にしばしば現れたという不満を告白されたのです。流石にその時はショックでした。私にとっても本格怪獣に関するプロットがすべて外されてしまうという不可思議がつきまとっていたのですが、どうも疑問に思うものが残りつづけていたのを知りました。話題が二人の気にしていたものであったこともあって、酒量も上がったことによる勝手な推理になったかもしれません。この問題についてはこれ以上書かないことにいたします。二人にとってはボツ原稿となったプロットの結末については、ずっと心にかかりつづけていたことであったことは間違いありませんでした。思いきりこんなことを吐き出しながら、大変地味な作業をつづけていたのでした。私にとっては、こうして大人の脚本家と対話をする機会を持っているということは大変精神的な救いになっていましたが、しかしこうして毎週書くということは生活の支えになるということでは大変助かることになるのですが、ほとんど社会人の関心の対象にもならない作品を書いているとうことで、いつまでも安住してしまってはならないという気持ちが、ずっと心につかえていました。いつかもっと社会的に注目される作品にも巡り合いたいし、そうした注目される作品を書く作家になりたいという思いが、日増しに高まりつつあったのでした。


 この頃「新ムーミン」は家庭的な世界での評価を得て、大変人気を得ることになりましたが、やはりこの頃はまだ「動画」という世界はあくまでも若年者用の番組という受け取られ方をしていますから、「かわいいわね」「とてもほのぼのとしていいわ」とはいって下さるのですが、それで社会的に話題になるといった状態にはほとんどなるようなことはありません。兎に角大人が評価する番組としての対象とはならないのです。


 脚本家としては「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」などというドラマ作品で、多少アダルトの評価を得られるようになったものの、それらの作品から遠ざかると同時に、脚本家としての存在についてはほとんど記憶に残らないという状態になっていってしまいます。そんな状態のところに、突然飛び込んできたのが「チビラくん」という番組でした。「新ムーミン」ですら、いい番組であるという評価は受けるものの、


所詮子供の番組としての評価からは抜け出せないでいたのですから、「チビラくん」が論外であるはずはありません。ほとんど評価も得られない子供番組を書きつづけていたのですが、そんな年の夏も終わるころ、日本テレビのプロデウサーN氏から連絡があり、「うちのお父さん」という歌舞伎座テレビ室と共同制作になる、一時間のホームドラマ番組を書いてくれないかという話でした。これまで時代劇の名脇訳を演じつづけてきた大ベテランの進藤英太郎さんが、ホームドラマで主役を演じるという異色の番組でした。兎に角お会いして番組についての意気込みを聞かせて頂いた上で、第三話にあたる話を書くことになりましたが、脇役俳優とはいっても長いこと業界での実績を持っている俳優さんですから、脚本家としてもまだそれほど目立つ状態になってない私に、かなり不安を感じているようなものがあったのでしょう。その言動にはいささかピリピリと胸につかえるような発言がありましたが、兎に角胸の奥へしまって無事に書き終わったのでした。やはり久々にかかわったドラマの世界の作品です。現在かかわっている仮想現実作品の世界とはかけ離れた感性で書かなくてはなりません。兎に角つづいて書こうという気にはなりませんでした。もう気持ちはすでに別の世界へと移りつつあったからでもあったのですが、エンターテイメントの世界では、何といっても知名度ということは欠かせないものです。社会的な評価の認識がそうしたものを決定的にすることになると、つくづく感じさせられる一年でした。兎に角今年は我慢をしなくてはならないと覚悟しましたが、兎に角仕事としては焦点の定まらない作品にタッチすることが多かったように思います。

                     「うちのおとうさん」1.jpg 「謎の円盤UFO」1.jpg

 


こんな時ですから、思わず笑ってしまうような失敗をしたお話でもしましょう。


久しぶりのことですが、CBSソニーレコード化から訳詩の話が飛び込んできた時のお話です。「謎の円盤UFO」という、SF映画の主題曲に詩をつけて欲しいという依頼があったのです。


これもほとんどご覧になった方はいらっしゃらないでしょうが、兎に角やれることならなんでもやっておこうという気持ちになっていましたから、依頼については直ぐに承知したのですが、この時ソニーの担当から訳詩の条件として、10万円で買い取りにするか、印税受け取りにされますかというのです。ひょっとしてヒットするかもしれないというスケベエ根性が働いて、印税で受け取ることにしたのです。しかしそれからいくら待っても、まったく連絡もなければ印税の振り込みがあったという知らせもありません。結局映画もそれほど受け入れられなかったようで、わりに短期間の上映で終わってしまいました。当然ですが印税が派生するわけもありません。ほとんど動きもないまま、興行も短期間で修了してしまったのでした。やはりはじめから10万円の原稿料をもらっておけばよかったなと後悔しましたがすべては後の祭りでした。

 


とにかく冴えない年というものはこんなもので、兎に角いい思いができることはほとんどありませんでした。こつこつと現状をしくじらないように頑張るしかありません。兎に角気持ちのすっきりとしない日々でした。誰もが知っていて評価をしてもらえるような作品を書くことが、いつになったら叶えられるのだろうか。その日のために地道な作業をつづけなくてはなりません。

とにかく冴えない年というものはこんなもので、兎に角いい思いができることはほとんどありませんでした。こつこつと現状をしくじらないように頑張るしかありません。兎に角気持ちのすっきりとしない日々でした。誰もが知っていて評価をしてもらえるような作品を書くことが、いつになったら叶えられるのだろうか。その日のために地道な作業をつづけなくてはなりません。

 


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ドラマと特撮の部屋☆ ド27「チビラくんと若槻文三さん」 [テレビ]

 

今年はドラマの世界とはさよならして、映像関係については虫プロ関係の動画の世界での作業をしながら、出版の世界では小学館の雑誌では「少女コミック」の少女漫画の原作書き、ラジオ関東(現ラジオ日本)、FM東京での構成台本書き、ビクターレコド・コロンビヤレコードとの作詞・訳詩の仕事・イベント関係の企画構成などという、様々な世界の仕事を通じた世界での付き合いから生まれた人脈が、さまざまな形で私を元気づけてくれてはいました。しかし脚本家としては、今どんな仕事をしているのかと尋ねられても、いわゆる成人の関心事とはなり難い番組がほとんどで、まだとても仕事については誇らしさに欠けるものがありました。兎に角地味な世界での作業をしつづけなくてはなりませんでした。

 そんなある日のこと、円谷プロのあきら社長から仕事の依頼があったのです。

彼は円谷英二さんの三男として知られていますが、これまではほとんど制作にタッチすることはありませんでしたから、私たちが直接出会うことはあまりありませんでしたので、彼がやってきた時にはちょっと奇異な気持ちでしたが、TBSを中心に特撮の円谷プロダクションは人気番組を制作していた時代から、その後の時代の推移によって、仕事の様子に大きな変化が及んできて、一世風靡していた会社は一気に衰運を辿ることになってしまったという事情については、彼から説明されることのほとんどは知っていましたが、その後長男の一さん、次男の亘さんは相次いで亡くなるという不運が見舞うことになり、外部の者にはまったく計り知れない親族間の問題が持ち上がって混乱してしまったことが持ち上がってしまったようです。そこでどんなことが起ったかというユなことは、私たち第三者の立ち入ることでもありませんから、ほとんど噂で知る以外にはまったく判りませんし、特に興味を持つような話でもありませんでしたから、その間のことに関してはお話しできません。

そんな状況の中から、三男のあきら君が社長となって円谷の再建に動き始めたのでした。しかし1970年ともなると、東映をはじめとした多くのプロダクションが、費用のかからない現場処理という特撮が行なわれるようになっていて、すでに予算を食う円谷プロダクションの特撮は忘れられたようになって、仕事の発注も途絶えていました。しかも多くのプロダクションが制作するSFアクション番組が、結構青少年に受け入れられるようになっていたのです。

 あきら社長はこれまでの特撮の円谷という誇りもかなぐり捨てて、縫いぐるみのキャラクターを使った作品で活動しなくてはならなくなったのでした。「チビラくん」というぬいぐるみキャラクターを使って、当時のはやりであった現場処理というお手軽な特撮を駆使して、セットも限られたところだけを固定で作り、毎回使用するといった超安価な製作費で番組を制作することになったのでした。

もう特撮とは縁を切ったと気持ちを整理して、現在の新天地での作業に取り組んでいたところだったのですが、苦闘するあきら社長の訴えを訊いているうちに、あまりにも可哀そうになってしまった私は、放っておくわけにはいかなくなってしまったのでした。

 もう実際に放送になっていた作品をご覧になった方はいらっしゃらないでしょうし、記憶に残っているという人もごく少ないかもしれません。しかしこの頃円谷プロダクションは、かつてのブランドイメージはすっかり地に堕ちたと思われたかもしれません。大阪の朝日放送を拠点として活躍していた若槻文三さんも、「ウルトラセブン」などで縁があったことから、円谷プロの苦境を見ていられなくなって、あきら氏から要請があったことから、参加してくれることになったようでした。

 毎日15分、6回連続で一話が完結するというドラマです。

 1970年3月から始まった円谷プロ制作の日本テレビの番組でした。

                                 「チビラくん第一話台本」1.jpg 「チビラくん第二話台本」1.jpg  

上の脚本は、私が担当した第一週と第二週放送用の脚本ですが、番組のスタートする前に主題となる歌の作詞を依頼されて書きました。「チビラくん」の主題歌は、山上路夫作詞、渋谷毅作曲で、当時の人気スターであった天地聡子さんが歌い、「ガキンコガキ大将」「ポチポチの歌」は私が作詞、広瀬健次郎作曲で、歌は声優の高橋和枝さんと声優の滝口順平さんが歌いました。下の写真はその時のレコードのジャケットですが、今ではほとんど見かけることもありませんね。

          「チビラくん」1.jpg 「チビラくん」2.jpg 「ガキンコ・ガキ大将」1.jpg

 

上の脚本は、私が担当した第一週と第二週放送用の脚本ですが、番組のスタートする前に主題となる歌の作詞を依頼されて書きました。「チビラくん」の主題歌は、山上路夫作詞、渋谷毅作曲で、当時の人気スターであった天地聡子さんが歌い、「ガキンコガキ大将」「ポチポチの歌」は私が作詞、広瀬健次郎作曲で、歌は声優の高橋和枝さんと声優の滝口順平さんが歌いました。下の写真はその時のレコードのジャケットですが、今ではほとんど見かけることもありませんね。


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