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アニメと音楽の部屋☆ ア29「グランドパレスで苦闘」 [テレビ]

 

事務所が用意した車で送られてくると、そのまま「グランドパレスホテル」の部屋に入って、持参した資料を机上に整えて執筆の準備だけはしましたが、とても直ぐには書く気持ちにはなりません。兎に角直前まで行われていた打ち合わせの気分を整理したいので、ルームサービスで飲み物を取り寄せて一息入れることにしたのでした。

家族旅行を楽しみにして出かけてきたのに、突然父親抜きで出かけることになった娘たちはもちろん家内も見知らぬ事務員の運転で那須まで行かなくなってはならなったので、何とも気持ちがすっきりとしないままであったろうと、気の毒に思えて仕方がありませんでした。

                                             「グランドパレス」.jpg

  

 いつものことですが、オフィスアカデミーの仕事は、どうもこういう時に脚本家のコンデションがどうなっているのかということについての配慮は、ほとんどほとんどありません。それでもそのことについての文句をいう気にはなりません。兎に角現在進行していることはすべてこれから行われる「宇宙戦艦ヤマト」の総決算という、「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の封切りを盛り上げようという西崎氏の思いでもあるのです。しかもそれは私の願いでもあるのですから・・・。

 彼と組んでさまざまな制作にかかわってきましたが、私には私なりに、彼とは違った苦しみを背負いながらようやく一つの終着点に到達したのだなと思うと、兎に角脚本家としての一里塚に到達したという満足感もありました。

 松本零士氏からの深夜の長時間電話が連日連夜かかって、私たちとは違った人たちとの付き合いから得たさまざまな情報がもたらされるようになってきましたので、当然のことですが西崎氏に関する思いがけない人間関係についての情報もかなりあって、その結果、如何に松本氏をはじめ私たちにとってかなり不快なものが多くなってきているということを実に詳細に知らせてくれました。しかし彼からの電話は毎回午前零時から始まって夜が白々と明けてくる朝五時ぐらいまでつづきましたので、私にとっては原稿を書く時間がまったくなくなり、睡眠時間も取れなくなってしまうという状態でしたので、私にとっては痛し痒しという状態であったのですが、今日は少なくとも静かな夜になりそうでした。わずかな時間でしたが、これを機会にまた新しいスタートをすることになるという思いもあって、大変充実感のある時間を過ごしていたのですが、ふと気が付くともう八時になっています。そろそろ作業にかからないといけません。翌朝八時にはドン上野氏が原稿を取りにくることになっているのですから・・・。これまでも約束した締め切りは九割以上遅らすようなことはしないできたという習慣もあって、これから一気に整理して書き出せば何とかなるという計算があるので、脚本の整理をして五時間のラジオドラマとして構成のし直しをしていきました。その作業でかなり時間を取ってしまったこともあって、いざ脚本執筆をしようとした時には、眠気に襲われてしまってどうしようもなくなっていました。そんな時につい思いだしてしまうのは、新人ではじめて、TBSテレビの「月曜日の男」というアクション番組のレギュラー作家として登用して貰った上に、その番組のスタート脚本を任せて貰えた時、ほとんどの作家がそれぞれの番組の脚本を書くために缶詰めになっている「赤坂旅館」へ、私も籠ることになったのですが、兎に角作家としてのデビュウに近い作品を任されたという緊張感のために、時間ばかりが無為に過ぎて行ってしまってまったく話がまとまらなくなり、三十分ドラマですが一週間以上もかかってようやく書き上げたまま、睡魔に侵されて、飯島監督が原稿を受け取りに来た時には、完全に寝込んでいてそのままであったということでした。実はこの一週間、食事もほとんどとらずに頑張っていたということを、飯島氏に報告してくれたのは旅館の女将でした。兎に角気晴らしに出かけることもなく、必死で原稿を書くために格闘していたということまで伝えてくれたので、その話はプロデュウサーの間に広がり、新人としての生真面目ぶりを評価して頂いたのでした。

                                        「月曜日の男・南米ただいま満員」2.jpg 「月曜日の男・熱風地帯」3.jpg

 

 左が苦闘して上げた第一講で、右が修正を加えた決定稿です。五時間ドラマの原稿一筆に苦闘することになった私は、思わず新人時代の苦しかった記憶を思い出してしまったのでした。

もう午前一時になろうとしています。流石に夕刻まであれこれと打ち合わせに体力を消耗していますので、眠気には叶いません。事務所を出る時に西崎氏からはカプセルに入った虎の目だという強壮剤を何本も渡されました。疲れたら飲みなさいと、かつて松本氏にも渡したことがあったのですが、どうせいい加減なものだろうといって二人とも無視していたのですが、流石にこの日は疲れのために眠気に耐えられなくなってきましたので、馬鹿にしていた「虎の目」などという強壮剤などというものを飲んで一気に仕掛かったのでした。それでも疲れと眠気に耐えながら、その度に強壮剤を飲みながら、ついに夢中で原稿は書き上げたのでした。もう約束の時間に近い頃になっていましたが、書き上げた原稿の上にうつ伏せるようにして眠ってしまいました。フロントからの連絡で、ようやく目覚めた私は兎に角分厚い原稿を持ってロビーまで降りて行ったのでした。ドン上野氏は信じられないという顔つきで原稿を受け取ると、その足でオフィスアカデミーへ行ってコピーを取ると、翌日の朝までに山本暎一氏が整理して台本の印刷に入ることになりましたが、ドン上野氏は私の原稿が上っていないと思ってホテルへ行ったというのです。そんな彼の前に私が原稿を持って現れたのでびっくりしてしまったということです。そのことについては翌日の本読みが始まる前に、オフィスアカデミーの秘書から聞かされたのでした。原稿を書き終わった私は昼近くに自宅へ帰ることにしましたが、その日はすっかり疲れが残っていて、寝室に入ると数時間にわたって深い眠りについてしまったのでした。その日は流石に松本零士氏から電話が入りましたが、前日の作業についての話をしたところ、西崎氏から渡された強壮剤「虎の目」についてはよくあんなものを飲みましたねと笑いながら言うと、その日の電話はあっという間に切れたのでした。しかしあの極度の眠気が襲いかかる中で、何とか頑張れたのはあの強壮剤のお陰だったのではないかと思ったりしましたが、しかし数時間の睡眠の後で、オールナイトのリハーサルへ向かう前に、ホテルでの苦闘について報告すると、家内は前に貰ってあった「虎の目」はすでに捨ててしまったわよと笑って言われてしまったのでした。


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アニメと音楽の部屋☆ ア28「那須家族旅行中止」 [テレビ]

 

 思い出話をし終えたところで、いよいよ1975年の後半へ向かって進んでいきましたが、このあたりから記憶にはっきりとしてくるものを書くのですが、オフィスアカデミーの繰り出すさまざまな発表と比べると、どうも一致しないことが多くなってしまいます。暫く前から西崎氏が営業中心で動くので、私たちに連絡してくることがそのままになることがほとんどありません。知らない内に変更されていることが多くなっていますので、世間的に発表されていることとは違ったことを書くことになるかもしれませんがご了解下さい。すべては作業の記録を正確にかいておかなかったことが原因です。

 来年になるとこれまでの失敗から、きちんと作業スケジュールを書き留めるようになるのですが、兎に角あとわずかで1975年は終わりますので、すっきりとすると思いますし、記憶に残っていることをもとに列挙することで終わりそうです。

「宇宙戦艦ヤマト」の完結編であると、西崎義展氏も私も気追いこんでいる「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の制作は、前回紹介させて頂いたみなさんが中心となって完成に向っています。それが近づいてくるのに従って、オフィスアカデミーの事務所は、映画公開に向けてその宣伝と準備で大変忙しくなっていました。しかしそんな中でようやく空き時間ができた私は、これまでほとんど一緒に遊ぶことのない家族への奉仕ができそうな雰囲気になりましたので、たまたま親しいフォークソングのデユオで人気のあるダ・カーポから、秋に那須のホテルでコンサートが開かれることになったので、お子さんとご一緒にいらっしゃいませんかというお招きを頂いたのです。勿論大変有難い招待でしたので直ぐにお受けしたのですが、実はその那須の現ロイヤルホテルについては、家族旅行ということの他に私にも忘れることのできない思い出があったのです。かつて円谷プロダクションの「怪奇大作戦」という番組で、那須のホテルのオープンとタイミングを合わせて、タイアップで制作しようということになったのです。現那須ロイヤルホテルの原点となった那須ロイヤルセンターがオープンするというので、円谷プロがタイアップを手インして、そこを利用した「怪奇大作戦」の作品を制作することになって、飯島敏宏監督が決まりました。「ゆきおんな」という作品です。私がその脚本担当に選ばれましたので、監督と同行してシナハン・・・舞台となるロイヤルセンターを調べに行きました。監督と共に撮影に必要な場をチェックして回りましたが、このあたりの環境については、すでに近くの大丸温泉へ個人的な旅行で来たことがあったのでかなり知ってはいたのですが、改めてタイアップということもありましたので、センターの周辺を見ると山の頂に合ったこともあって、その周辺には様々な山が連なっていているのです。そんな風景を見ているうちに、ふと日本で古来言われてきている伝承の「雪女」のことを思い出したのです。実はそれがブロッケン現象というもので生まれるのだということを、かつて「マジンガZ」を書いているうちに詳しく知ったのです。「マジンガーZ」で永井豪氏が考え出したキャラクターでブロッケン伯爵という異色のキャラクターがあったのですが、それが縁で調べてみたところドイツのブロッケン山に起こる光の屈折によって起こるということが判りました。それを知った時からいつかそれをいつか特撮で活かしてみたいと思っていたところだったのです。早速監督に提案して活かしてもらうことになったのでした。

                                      「構想中」2.jpg 「怪奇大作戦・ゆきおんな」1.jpg

 

 ホテルの部屋で起こる怪奇伝承も、部屋に飾られた雪女の絵画が深夜に溶け出すというアイデアもシナハンの最中に考えたもので、事件の鍵として使うことにしました。センターではオープンに備えて芸能部を組織してすでにダンスの特訓をしていました。

かつて強盗を働いて手に入れた宝石を、別れ別れになっている娘に渡すために仕組んだ、ホテルへの招待状から始まる怪奇ミステリーです。兎に角アクションと怪奇現象というロマン作品で評判も良かったものでしたから、私にとっては思い出多いところだったのです。その舞台となった那須であり、撮影現場であったセンターがホテルへとなったというので、久しぶりに家族で行ける年末の旅行だったので、秋の楽しみにしていたところでした。ところがいよいよ出発するという十二月一日のことです。

相変わらず打ち合わせという会議で引っぱり出されることが多かったのですが、たまたま数日間の時間的な余裕ができたので、家族と約束をしていた那須旅行を決行することになりました。ところが出発の日になって、突然西崎氏から大きなイベントが決まったので、事務所へ来て欲しいという電話が入ったのです。家族旅行で那須へ行くところであったと事情を説明して、その日は勘弁して貰いたいというのですが、「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」について大きなイベントになるので、どうしても来てくれないと困るというのです。家族は那須まで事務所の者に送らせるというのです。ここまで言われては、矢張り仕事を優先しなくてはなりません。家族には事情を説明してオフィスアカデミーから送られてきた大型車に乗せられて事務所へ向かったのでした。しかしコンサートはその日の夕刻から始まるというので、西崎氏はそのまま私を事務所前で降ろすと家族を載せたまま那須へ向かって旅立ち、私はそのまま事務所の会議室へ向かうことになってしまったのでした。

 西崎氏から状況の説明があり、決定版を目指す「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の公開を間近にして、それをファンたちにアピールするために、ニッポン放送の協力が得られたというので、オールナイトで公開を押し出すことになったというのです。

 ニッポン放送からは、ドン上野と愛称で呼ばれている人気実力者であるプロデウサーが会議に参加していました。彼についてはすでに私はキリンラジオ劇場で一緒に仕事をしていましたので、特別の緊張感もなく出会えましたが、その日はすでに彼が組んできた大雑把な番組の構成表を中心に行われたのでした。

                                                         「ヤマト・オールナイト・構成」1.jpg

 

 

 

 

  

 結局この日の打ち合わせに私が必要になったのは、この構成の中心に使われる「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」のラジオドラマとしてまとめて欲しいということだったのです。

 

十二月一日の午前一時から放送を始めて午前五時の夜明けまで行うというものです。

 

まさに年末の商戦といえる映画の封切りを狙ったのでしょう。その台本原稿を、翌朝

 

八時までに脱稿して貰って、それを取りに行きますということで、ドン上野氏は帰り、とうとうその日は夕刻すぎまで打ち合わせということが行われて、それから直ちに用意してあるという九段下のグランドホテルへ籠ることになってしまったのでした。

 


 

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アニメと音楽の部屋☆ ア27「完結編ヤマト制作中の思い出 2」 [テレビ]

 

 自分自身がかかわった作業について、ほとんど家内の日常を記した日記風の記録と私自身の記憶に残っている思い出に頼るしかないのが、1974年から1975年のことなのですが、それもいよいよ終わりに近づいてきています。この後あたりに「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」という「宇宙戦艦ヤマト」の完結編に向かう前哨編ともいわれるようになっていた「ヤマトよ永遠に」という作品が公開される時が迫っていました。それが済んだ後からは、私の中に鮮烈な記憶として残っている思い出が沢山あるのですが、いよいよ1975年の後半にあたる頃の話をすることになります。

 私を頼りにして現れた西崎義展氏が、次第に力をつけて動画業界で力をつけ、大手の東映映画の社長である渡辺永徳氏との知己を得てから、次第にその人物像が変わりつつあるので、ブログの休載の時のお話で書いたような、西崎氏の生活の変貌について次第に危険なものを感じ始めていた私は、作業の運びに関していささかきつい申し入れを行ったことがありました。その仔細についてははっきりとした記憶はありませんが、 完結編といわれる映画の「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の打ち合わせがあった時のことです。かなり東映映画の関係者が入ってきていたこともあって、私を含めたこれまでの動画関係者に対する態度が、あまり失礼極まりない態度に終始するようになったので、興奮気味に支持する西崎氏に対して「待ってくれ」と制したことがあったのです。すると彼は突然会議室に集まっていたスタッフに対して、「一寸、全員部屋から出てくれ」と指示をして、私と二人気になったのでした。すると彼は突然態度を豹変させてしおらしくなると、絨毯の敷かれた床に土下座してこれまで行ってきた失礼について赦してくれというのでした。現在ではドラマの世界で注目された「土下座」ですが、これは私の前で、彼が行った第一回目の土下座でした。この後彼は二回も私に土下座することが起こるのですが、それはこれから先にあるのですが、その時は直ぐに「みっともないことをするな」と静止して、失礼については赦してやったことがありました。しかしびっくりしたのは土下座という大袈裟な謝罪の仕方だけでなく、これまでと変わらない横柄な態度に戻って、秘書に対してスタッフに戻るように命じたのですが、何があったのかと戸惑った様子で入ってくるスタッフに対して、西崎氏はまるで藤川は説得したといわんばかりの態度で、これまでとまったく変わらない横柄な態度で作業の打ち合わせを続行したことでした。

 そんなことがあった七月のある日のことです。西崎氏に呼ばれて横須賀の港で会うことになりました。残念ながらこの時の経緯についての記憶は、はっきりしていませんが、出会ったところは横須賀の港に係留中であったヨットでした。それほど大きなものではありませんでしたが、しかし下のキャビンで小宴会はできるくらいのものでしたが、彼はヨットを持ったことを嬉しそうに話すと、早速操縦席へ案内すると私を隣の席に着かせて、船長の席に座った彼は、舵輪を操作し始めて横須賀港から出発したのでした。近くにアメリカ軍の潜水艦が浮上しているといいながら、港内の案内をしながら東京湾へ向かいました。

 どうやらその日は呼んだのは私一人でしたが、彼は終始ご機嫌で操縦してかなり遠くまで出かけるのだという話を饒舌に話してくれたのですが、なぜこの日に私を呼んだのか、あまりその目的ははっきりといたしません。ひょっとするとその暫く前の事務所の打ち合わせ会の時の、私から突き付けられた彼の態度についての抗議に、土下座をするようなことがあったための気分転換を求めて来たのかもしれませんが、一時間ほどの周遊を終えてから船上での食事をしながら、間もなく行われるはずの「ヤマトよ永遠に」の公開に関しての話になって、それを機会に私から松本零士治氏とのことで、考えることを進言したのですが、西崎氏からは兎に角松本氏の我がままぶりについての困惑がかなり聞かされることになってしまいました。私にはこのところ松本氏からの情報がはいっていましたので、二人の言い分を聞いておこうという気持ちで聞いていました。西崎氏は松本氏から私にかなり連絡が入っているということが知られていなかったこともあって、「宇宙戦艦ヤマト」の企画が作られてからここまで進めてきた同志である私に、同意を求めるかのように、このところの人気が爆発していく松本氏の非協力について不満があるということを苦笑しながら訴えてきました。しかしあのビデオの発売以来、松本零士氏からの深夜の長時間電話はこれまでとは違って連日連夜ということになってしまっていたのです。彼には彼の世界が広がっていましたので、その付き合いから得たさまざまな西崎氏についての情報がもたらされるようになっていたのです。思いがけない人間関係についての情報もかなり豊富に入ってくるようになっていましたので、私は今回のことで両者の言い分を聞くことになりましたので、兎に角「宇宙戦艦ヤマト」の仕事をつづける間は、お互いに理解し合わなくては却ってどちらにとってもいいことはないのではないかといって、あまり松本攻撃がエスカレートしないようにたしなめてその日の会談は終わったのでした。結局その日の出会いは、西崎氏の松本零士氏に対しする不満のはけ口を聞いてやるというようなことで終わってしまったのでした。最近はほとんどこうして打ち解けて話をしたり食事をしたりする機会を持てなくなってしまっていましたが、実に久しぶりの打ち解け合った出会いとなったのでした。

 もうこの後からは、「宇宙戦艦ヤマト」の総括編となる「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の公開を前にした準備に追われる日々となるのですが、ここで「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」のにかかわったみなさんに、感謝の言葉を送りたいと思います。

 しかしそれにしても今回もスタッフの中心人物として松本零士氏の名があることはどういうことなのだと思われる方もいらっしゃると思うのですが、それはもう「宇宙戦艦ヤマト」は彼を抜きにしては語れなくなっていたということを証明したのではないでしょうか。西崎氏と松本氏の密かな戦いは、ファンの知らないところで次第に高まっていくのでした。しかしここまで書いてきて、私もようやく作業の日誌のようなものを書いておいた方がいいということに気が付いたようで、この頃をはじめとして数年間についてはかなり日誌が書かれていました。

                                              「スケデユウル表」.JPG 「ヤマト・オールナイト放送」.JPG

 

 これは間もなくブログで書くことになっているオールナイト放送のことが書かれていました。

それではこのへんで、そろそろ「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の完成を楽しみにしながら、回想編の二回を終わろうと思います。お付き合い有難うございました。


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アニメと音楽の部屋☆ ア26「完結編ヤマト制作中の思い出 1」 [テレビ]

 

 目下「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の制作中ですから、その間に作業そのものの話ではなく、これまで作品の制作中に出会った人とのことなどで、思い出すことを書き留めておくことにいたしました。前年の「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の制作から始まった作業があまりにも異常な忙しさのためで、自分の仕事のスケジュウルを書き留めておくことができなかったために、一体1974年から1975年という二年間については、激務がつづいたために何もかも断片的にしか思い出せないでいたところです。西崎氏の必死な思いが独走するために、スタッフと共に過度な作業が次々と課せられたために兎に角夢中でその要求に応えていたので、思い出せることも限られてしまいました。

 そんな間でも寸暇を割いて劇作家の飯沢匡氏のお宅へ伺っていたのですが、その時のことなどについてお話しようと思います。暫く話題にはしてきませんでしたが、おつき合いはずっとつづていて、師匠は私が体験中であった動画の世界とはまったく違う演劇の世界で著名な方でしたし大変博識な方でしたので、お宅へ伺うことで同年の動画の脚本家としてはまったく違った情報を得ることもかなり多かったと思っております。たまたま小説の直木賞の選考が行なわれていた時などは、応接間で話をしている最中に松本清張氏から電話があって、候補になっている某氏についての評価について、情報の交換が行われていたことがありました。たまたまその場にいたことで、話の内容はすべてきいてしまいましたが、いつか小説も書きたいと思っていた私にとっては、その世界に生きることも大変であることを胸の奥に仕舞ったものです。時には師匠の脚本・演出を担当するお芝居の助手として、舞台稽古にお付き合いさせて頂いて、気づいたところを指摘せよと指示されたりすることもありましたが、そんなある日のこと、突然師匠は私に、「今、君はどんな仕事をしているんだ?」と問いかけてきたことがあったのです。それまで仕事としてどんな番組を書いているのかということについて報告をしたことはまったくありませんでしたが、たまたま「宇宙戦艦ヤマト」が評判になっているところでしたので、「このところ暫く動画番組を書いてきています」と答えましたが、たちまちアニメーションについての見解を聞かされることになってしまったのでした。すでに日本のアニメーションについてはかなり厳しいものがあるということは承知していたのですが、兎に角私は、その日本の動画界で勝負を挑んでいる最中です。しかしその日はとても「宇宙戦艦ヤマト」について報告する機会はありませんでした。

 兎に角営業的に成り立たなくては、日本のアニメ界は成り立たないということは熟知していましたので、正直に業界の大変苦しい状況について説明しました。師匠の論調は厳しいことはすでによく知ってはいたのですが、芸術作品を目指して頑張るチェコの動画作家の作業の様子を訊かされることになってしまったのでした。芸術的な作品作りに苦心しているアーチストのひたむきな様子がよく判りました。しかし今は何といわれても、私は「宇宙戦艦ヤマト」の成果にすべてを賭けているのです。今から方向を変えることはできません。日本の動画の世界にこれまでとは違った勢いが高まりつつあるということを考えると、作品についてのさまざまな批判は胸の奥で受け止めておいて、兎に角最後の作品になるはずの「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の完成を待っていたのでした。そんなところへ西崎氏から音楽の収録をするというので呼び出しを受けて、コロンビアのスタジオへ出向きましたが、ここでみなさんにお話しておきたいのは、作曲の宮川泰氏のことではなく、収録を担当するコロンビアの小暮一雄氏のことについて思いだすことを書いておこうと思います。彼についてはもう大分前から付き合いがあったのですが、「宇宙戦艦ヤマト」の作業で、コロンビヤレコードから担当として派遣されてきたのが彼だったのでびっくりしましたが、一緒に仕事ができるということで大変嬉しいことでした。実は私と彼はフォークソングのduoで人気があるダ・カーポの担当でもあったのですが、私はそのダ・カーポとも大分前から親しくしていたという関係にあったのです。二人と出会ったのは、男性の政敏氏のお兄さんであり音楽の指導者であり、マネージャでもあったS氏が、拙宅へおいでになってから大変意気投合して、ダカーポのさまざまなところで行なわれるコンサートの構成などに協力するようになっていたことがあったのです。「木曽の恋歌」「ひと夏の軽井沢」などという作詞もいたしました。人とのめぐり逢いというものの不可思議な繋がりというものを感じたりしたものです。これから大分後年になってからですが、私が「宇宙皇子」という小説の映画化が行なわれた時にその主題歌を歌ってくれたのはダ・カーポでしたし、その後作曲家のK氏が私の「宇宙皇子」をイメージにしたクラシックの交響絵巻の企画をコロンビヤレコードへ持ち込んだ時に、それを取り上げてくれた担当してくれたプロデュウサーでありディレクターとして頑張ってくれたのが小暮氏でもありました。彼は毎年拙宅行われるマスコミ関係者が30数名集まる忘年会にも若手作曲家と共に参加してくれて、ピアノの演奏などをしてくれたものですが、そんな彼の絶頂期のことでしたが、阿久祐作詩で政敏氏の作曲した、蝶の生涯と恋の終わりを重ねた「てふてふ」という歌の収録を終えて、スタジオから出たところで某局のプロヂュウサーが乗ったバイクにはねられて、あっけなく他界してしまわれたのでした。収録した歌を思うと、別れの悲しい思いが重ねってしまいます。折角、音楽の縁ということでお付き合いをすることになった、作曲家の宮川泰とのお話をしておきたいと思います。しかし今回は音楽の収録中の西崎氏の強引な作業のさせ方についての話は別として、私にとっては忘れられない思い出があるのです。彼とは「ワンサくん」という番組をやった時、「ピンコラ音頭」という歌の作曲をして貰いましたが、その後は「宇宙戦艦ヤマト」での作曲で収録の時には度々スタジオで出会っていましたが、「宇宙戦艦ヤマト」の仕事が終わった後のことでした。私が博報堂から依頼されて、家庭料理に欠かせない調味料の「みつかん酢」を製造する会社の、社歌を作詞して欲しいということで、和歌山県の半田市まで出かけて社長のこれまでの業績や信条についての取材をさせて頂いた上で、社歌を作詞することになりましたが、作曲家を誰にするかという話になった時、思わず指名したのが宮川泰さんだったのでした。彼は気持ちよく引き受けて下さいましたが、「宇宙戦艦ヤマト」以外の仕事で一緒にできたことは忘れられない思い出です。この歌はやがて会社の出勤時に、日本の「みつかん酢」の本社をはじめアメリカにあった支社で、あさの出勤時になると同時に全社に流されていたことがあったのです。一つの仕事を通して出会う人脈というものの出会いというものの不思議については、いつまでも忘れられない思い出になっています。

 映画のスタッフの一人で、東映映画社長の推薦で「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の舛田監督の補佐としてやって来たのが大学の同期生であった吉田達氏でした。彼がそれまで任侠映画の制作を担当していたということについては、それまでまったく知らないでいました。同期とはいっても大学時代には出会ったこともありませんでした。彼は動画界にはまったく知己がなく、映画界にはほとんど知己が無くて心細い状態にあったのですが、仕事をすることになってあっという間にお互いに不足する部分を解消することに役立ちました。交流を通して東映映画のスターたちの撮影所での生活ぶり、ロケ地での宿での暮らしぶりなどについての情報を、明かしてくれたりしたのは収穫であったかもしれません。兎に角思いがけない人との出会いも生まれた日常でした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言18「ひとくち言霊」(ものふともののけ) [テレビ]

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 武士のことを、(もののふ)という呼び方をするということは、ほとんどの方がご存知でしょう。しかしその(もののふ)という呼び方に、不可思議なものを感じていらっしゃるかたは、どのくらいいらっしゃるでしょうか。

 あまり聞きなれない言葉であることだけは確かです。

 雅を謳われる平安時代ですが、一方では魔に魅入られたような、実に恐ろしい時代でもありました。六国史という正式な歴史書の中の「日本後記」の中にも、たびたび天皇や皇太子が執務に向かおうとする途中で、「もののけ」と遭遇して慌てて元の部屋へ戻ってしまうという記録が描かれています。平安時代は氷河期だったのではないかといわれるほどで、食物もそれほど豊富であったともいえないことから、大宮人たちといわれる高貴な人も、市中の貧しい人も、栄養状態は決してよいと言える状態ではありませんでした。食生活も貧しかったということもあって、精神的に病んでいる人も多く、常人には見えないようなものを見てしまったりすることが多かったのかもしれません。

 あなたもご存知の(もののけ・・・物の怪)などという得体の知れない魔物が、あちこちに現れて、時にはそのために命を失う者も少なくありませんでしたが、そこで登場するのが、(もののふ・・・武士)というわけだったわけです。

 戦国女子たちも、せめてこのくらいの雑学は身につけておきたいものですね。


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告知と放談の部屋☆ 放46「二つのヤマト完結編」 [テレビ]

 

すでに「宇宙戦艦ヤマトⅡ」・・・「ヤマトよ永遠に」の脚本執筆が終わっていたこともあって、上原正三氏から東映本社が制作するテレビ朝日の特撮作品である石森章太郎原作による「ロボット110番」という作品に付き合ってくれないかという連絡があったので、快く承諾して書きましたが慣れた特撮であったこともあって、あまり気張らなくても良かったので助かりました。特に後者の作品はかねてから長浜朗氏から依頼されていて、やっと書く機会を得たものだったのですが、結局オフィスアカデミーの仕事のためにその一作だけのお付き合いになってしまったのでした。兎に角「宇宙戦艦ヤマト」に関するイベントに関しての打ち合わせに、絶えず呼び出されます。                                          


                                   「ロボット110番」1.jpg 「グランプリの鷹」1.jpg

 

 それから間もなくのことです。ついに1977年8月6日に東映系劇場で「宇宙戦艦ヤマト」の総集編映画が公開されることになりました。かつて「宇宙戦艦ヤマト1」の完結編と考えてきたものは、あくまでも「宇宙戦艦ヤマト」というタイトルでビデオとして発売することで決着をつけた西崎氏は、今回発表する作品・・・長いこと私が「宇宙戦艦ヤマトⅡ」として書いてきたものが、実はもう一度新たに「宙戦艦ヤマト」を作るというつもりになったのでしょう。西崎氏にとっては今回公開される「ヤマトよ永遠に」が、このあとで公開される「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の前編というつもりであったのでしよう。ビデオで発売された「宇宙戦艦ヤマト」は間違いなく一つの完結編といえるもので、今回公開される「ヤマトよ永遠に」と「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」という前後編は、その第二の完結編ということになるわけで、私は二つの完結作品にかかわることになったのでした。しかしそのことについては、なりきつい言葉で抗議したことがありましたが、松本氏の著作権をめぐる問題については、今回のことで一応決着をつけることにしたつもりであったのでしょう。二人の間でどんな話し合いがあったのかということについてはまったく判りませんが、松本氏から伝えられる電話による情報では、かなり険悪なやり取りがあったように思われます。

                                         「ヤマト1・ヤマトよ永遠に).JPG 「ヤマトよ永遠に」1.jpg


 


テレビ放映中は、残念ながらフジテレビの「世界名作童話」の人気を追い越すことができないままで終わってしまって、どうも不完全燃焼になってしまったのですが、ファンたちにもどこか気持ちが吹っ切れないものを残してしまっていたのでしょう。そんなところへ、テレビの総集編となる映画の決定版として宣伝されたのですから、公開を前にしてファンの期待も時間経過と共に高まっていったと思われます。そんな中で次に制作される「宇宙戦艦ヤマト」の決定版の前哨戦としての「ヤマトよ永遠に」が公開されることになりました。西崎氏はこの頃から、完全に興行の世界で勝負をする決心をしたように思います。世間に広がっていったマスコミ向けの西崎像はかなり意図的に作られたもので、これまで作品の制作にかかわってきた者にとっては大変不本意なことが多かったように思うのですが、彼は東映社長との関係ができてからは、いわば無敵といった勢いを得たように思えます。東映も社運を賭けた映画にそれほどの結果が出なかったこともあって、「宇宙戦艦ヤマト」の異常な人気の高まりには一目置かざるを得なくなってしまったのかもしれません。観客も一説によると徹夜で押しかけたファンは、2万人ともいわれています。しかもその観客は青年層の男女が中心となっていて、これまでの若年層中心という動画世界の観客ではありません。渋谷の東急レッズではあまりの異常な人気の高まりで、午前八時半上映という予定を早めて、早朝四時からとか五時からとかにしなくてはならなくなってしまったというほどだったようです。残念ながら私はすでに次の作品作りにかかっていたので、劇場周辺の異常な雰囲気は味わうこともできませんでした。あとで聞いたことですが、その時の興行成績は16億を超えるのではないかということでしたが、劇場版を作るように勧めたことは決して間違いではなかったと思います。兎に角このあたりの作業に関しては、すでに「ブログ休載の背景 2」で書いておきましたが、ほとんどお話をすることができない状態の大混乱の最中で、あまりにもいろいろなことが次々と起こっていました。残念ながらその一つ一つを克明に思い出すこともできないくらいです。確か「宇宙戦艦ヤマト」のスペシャルという放送があったり、「ヤマトよ永遠に」が公開を前にしてイベントが行われたりしたのですが、あまりにも同じような時間の流れの中で起こりますから何が何だか整理がつきません。1975年の作業記録が書き残せなかったことの大きな証拠です。記憶に残っていたことといえば、フジテレビで放送予定というスペシャル番組の試写をチェックしたところ、空中戦の最中に撃ち落された戦闘機が、海中からまた空を目指して上昇して行った時には、事務所の中で大騒ぎになってしまいました。もう放送までそれほど時間がなく、急遽その編集をし直して、ようやく放送ぎりぎりに間に合わせたという事件がはっきりと思いださせることぐらいです。こんな混乱が残るほどこの頃の作業がとてもまともな状態ではなかったということがお判りになるでしょう。つまり西崎氏は上げ潮に乗って営業展開を進めていったのですが、結局そのしわ寄せが私を含めて松本氏にもスタッフたちにも、想像を越える狂乱状態を押し付けてきていたのです。しかし予想を超える興行成績も収めたことから、私もこれまで気にかかりつづけていた気持ちに決着をつける時が来たと思いました。これでやがて「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の映画に向かった作業にかかれるという自信にもなりましたので、日常生活や子供に関しての面倒はすべて家内に任せて、私はひたすら1978年に放送が予定されている映画の脚本執筆に向かったのでした。しかし「宇宙戦艦ヤマト」の環境が次第にいい雰囲気に変わっていくのに従って、この頃から西崎氏の様子が、微妙にこれ前とは違ったところを発揮するようになってきているのが大変不安になってきていたのでした。彼の言動がかなり強引で厳しくてなってきていたからです。事務所に出入りする人も多くなっていますし、これまでまったく出会ったことのない人とも紹介されたりします。西崎氏はもう次の展開のための準備に入っているようで、トップアーテストたちを次々と面接して契約の交渉をしているようです。訪ねてくる人もさまざまな業種の人の出入りが激しくなっていました。しかし通常脚本家はほとんど原稿を書くことに集中していますから、事務所ではほとんどすれ違うという出会いでしたから、ほとんどその姿を確認するだけでした。彼らについての情報や、新たに現場に採用されている人についての情報と作品の進行状態については、ほとんど原稿を取りに来るオフィスアカデミーのアシスタントプロデウサーから聞く程度でしたが、兎に角、通常の原稿を執筆する状況では考えられない状態で、「宇宙戦艦ヤマト」の完結編ともなる「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の決定稿は脱稿することができたのでした。

 


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思い出作品の部屋☆ 思2「もう一つのさすらいの太陽」 [テレビ]

 

 「ヤマトよ永遠に」で「宇宙戦艦ヤマト1」の結末をつけると同時に、次の結末となる映画の制作が、急ピッチで進められている頃のことです。私への関心も高まっていたこともあったので、それに便乗した出版の企画ですが、かつてフジテレビで放送になった私の原作である「さすらいの太陽」を、小説として書いてくれないかという話が朝日ソノラマからあったのです。しかし私の不慣れが原因で予定された日時には間に合わず・・・つまり当初は「宇宙戦艦ヤマト」が完結編として公開される時を狙ってということだったのですが、オフィスアカデミーの都合もあって、「宇宙戦艦ヤマト」が完結編は劇場での公開ではなくビデオで発売されてしまうということもあって、ようやく昭和52年・・・1977年4月30日に出版されることになってしまったのでした。今回はそのへんの恥かしい事情についてお話しておきたいと思います。

 おそらくこの本のイラストを見た時、こんな小説があったのかと、不思議に思う人が多いのではないでしょうか。しかしこの本は順調であったらもっと早く出版される予定であったのです。それがここまで大幅な出版延期になってしまったのは、あくまでも私の能力不足が原因でした。

                                                         「さすらいの太陽」(小説)1.jpg

 

これは昭和四十五年(1970年)八月から昭和四十六年(1971年)八月まで小学館の学年誌で連載されたものですが、間もなく昭和四十六年(1971年)四月八日から同じ年の九月三十日まで放送されて終わりましたので、いわゆるテレビ放送に合わせて出版したものではなく、「宇宙戦艦ヤマト1」の総集編映画を前にして、いわゆる藤川人気に便乗した依頼だったかもしれません。私としては高校時代から、いつか小説を書こうと思いつづけていたのですが、まだ映像の作業が忙しくてなかなか小説を書くなどという機会は作れませんでしたし、私自身どうしても小説を書こうという気にはなれないでいたのです。勿論、まだ出版社からはそのような話も来ていませんでしたので、「朝日ソノラマ」のI編集長から依頼があった時には、そのために気持ちが高ぶってしまって、異常に感動して執筆を受けたのです。しかし映像の仕事が多くなっていたこともあって、なかなか実際に執筆する状態にはなれないでいたのです。そして今から考えるとまったく汗顔の至りですが、あまりにも小説を書くということを意識しすぎて、まったく書けなくなってしまったのです。締め切りを何度も延長してもらい、ついに半年以上も待たせてしまっていたのです。その責任感に攻め立てられていたこともあって、ある日のこと、大変な夢を見てうなされてしまったのです。今、思い出してもぞっとする夢でした。舌の前面に長い毛が生えてしまって、どう歯でしごいても取れないのです。七転八倒してやっと飛び起きるという状態でした。I氏にそんな状態であることを告白して、兎に角早く脱稿できるように努力すると約束したのです。もう半年以上も経過しているというのに、I氏はあくまでも穏やかで、私の状況を理解して下さり、一年近くも待ってくれたのです。今でもあの時のI氏には申し訳なかったと思うことと、考えられないほど待っていて下さったことに感謝しなくてはならないと思っているのですが、兎に角異分野の作業に取り掛かるということに対しての心構えがまったくなかったといっていいでしょう。いい加減な心構えで取り掛かってはならないという教訓であったと思っています。これをきっかけにして、集英社、角川、講談社、文芸春秋と作業の分野を広げるきっかけとなったのでした。

 Iさん有難う。改めて申し上げたいと思って書きました。

 小学館の学年誌の連載も好調でしたし、テレビも好調でしたが、代理店であった大阪電通と番組の運び方に不満があって強く抗議をしたことがあって、通常番組は延長になることが多かったのですが、ツウ・クール・・・つまり二十六回で打ち切りとなってしまったのでした。これも今思うと、若さゆえに原作者になった時の対処の仕方を知らなかったということが原因でした。何もかもプロ作家としてはじめて経験することばかりでしたが、その後のいい体験になったことは大きな収穫でした。ところがここでもう一つの「さすらいの太陽」の企画書が存在していたということも、お知らせしておこうと思います。東北新社が「さすらいの太陽」を映像化しようとしていたのです。勿論それは実現しないままで終わってしまいましたが・・・。その企画書を紹介しておきましょう。

                     「さすらいの太陽企画書1」1.jpg 「さすらいの太陽企画書2」1.jpg 「さすらいの太陽企画書3」1.jpg

 

 あれから何年も年月をへてからですが、このコミックがインターネットで高値取引されているということを耳にしてびっくりしましたが、それから間もなくコロンビヤレコードからお話があり、DVDで発売したいということになったわけです。そしてそれから間もなく小学館から、読者の希望が多いというので、オンデマン方式によってコミックを発売したいという連絡を頂きました。放送が始まった頃は、まだまだ脚本家としてはようやく第一線へ飛び出し始めたという状態でしたが、幸いにも他の人には経験できないような幸運と失敗を体験することになったのでした。今回は「さすらいの太陽」が世に出たお陰で、さまざまなことが今でも忘れられない思い出になっている、恥かしいお話も含めて披露しておくことにいたしました。


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アニメと音楽の部屋☆ ア25「思いがけないめぐり逢い」 [テレビ]

 

 この頃になって、現在制作中の解決編になる映画は「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」というタイトルも決まったようです。いよいよ改定稿も決まって制作が急ピッチで行なわれるようになっていきましたので、脚本を担当した私と館俊介氏は久しぶりに執筆という作業から解放されました。

 それにしても思いがけないこということは起こるものです。今回はそんな話です。

1977年春のことですが、東映動画のプロデウサー横山賢二氏から連絡があって、オフィスアカデミーの作業から解放されたわずかな時を狙って、おつき合いで書いた「超獣戦隊バラタック」の「パンダがほしい」という作品の評判がいいので、再放送が決まったという知らせをしてきてくれました。

                                    「バラタック」1.jpg 「氷河戦士ガイスラッガー」1.jpg

 

兎に角オフィスアカデミーの作業でほとんど縛られていましたから、本来なら受けられないはずの仕事でしたが、わざわざ他の人に交じって執筆する機会を作ってくれた彼には、大変感謝する飛び込みの作業でした。この頃東映本社のH氏からから協力して欲しいという要請があって、「氷河戦士ガイスラッガー」の執筆を書きましたが、オフィスアカデミーからの呼び出しがあって、あまり深入りすることができずに失礼してしまったように思います。その間隙を縫うようにして飛び込んできたのが、ニッポン放送からのラジオドラマの執筆依頼でした。実は思いがけないことは起こるものだというのは、この時に起こったのです。

                                                    「野球狂の詩」1.jpg

 

書いたのは水島新司原作の漫画を、数回のラジオドラマにしたものですが、大学を卒業してから実に二十年近くたってからの久しぶりのラジオでの仕事でした。ところがこの録音の日のことです。その日なぜかチーフディレクターのU氏が大変緊張していたのです。実はスポンサーのキリンビールから視察が来るというのです。私も番組を提供するスポンサーの宣伝担当と出会う機会になるというので緊張していたのですが、録音が始まるちょっと前に現れたのが、何と大学時代に放送研究会で一緒に活動していた親友のI氏でした。私もびっくりしてしまいましたが向こうは台本を見て、書いたのが私だと判ったようで、わざわざ出かけてきてくれたようです。卒業以来久しぶりに思いがけない対面となったのでした。お互いに現状を報告し合うことになったのですが、業界の最前線で活躍できていることを祝福したのでした。ところがそんな様子を見て一番ほっとしていたのは、チーフディレクターだったようです。それから暫くキリンはスポンサーとして番組を後押ししてくれたのですから、いい影響があったことは間違いがありません。I氏もそれから間もなく重役となり「キリンシティ」というパブの会社を立ち上げて社長に就任しましたが、この時のニッポン放送のチーフディレクターU氏も、その後「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の映画の前夜祭で、再び私と出会うことになったのでした。

人間関係の出会いで生まれる絆の不可思議というものでしょう。

そんなことをしているうちに、オフィスアカデミーからは、「宇宙戦艦ヤマト」というビデオが発売になりました。

                                                        「宇宙戦艦ヤマト」1.jpg

 

これは明らかに、テレビ放映中残念ながらフジテレビの「世界名作童話」の人気を追い越すことができないままで終わってしまって、私としては不完全燃焼になってしまっていたシリーズを編集し直して、不足するところを足して制作をして所謂総集編として結末をつけたものになっていたはずです。従って私はこれまで、1977年8月6日に東映系劇場で公開される「宇宙戦艦ヤマト」の総集編映画だと思いつづけていたものだったのです。それが今回のビデオで発売という現実を知らされて、大変ショックを受けました。総集編映画の公開についてはどうやら私の勝手な思い込みであったようです。この「宇宙戦艦ヤマト」については、脚本家としての勝負を挑んでいたこともあったので、その結果がはっきりとする劇場での公開は実に待ち遠しいものだったのです。西崎義展氏も「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の成果が期待するほどの結果を上げられなかったという気持ちもありましたから、放送が終わる頃に早々とこの作品を映画化して勝負しようと決心してその制作に向かったのですが、その途中で松本零士氏との軋轢が起こってしまったということがあったために、気持ちが変わってしまったのかもしれません。最初に制作した「宇宙戦艦ヤマト1」は、兎に角今回のような形で完結させてしまって、新たな「宇宙戦艦ヤマト」のスタートから完結までを制作するということを考えたのでしょう。西崎氏から俄かに呼び出されて、次作についての執筆依頼を受けたのは、「宇宙戦艦ヤマト1」の放送が終わってほっとしていたところでした。兎に角暫く休みたいと思っていた私は丁重にお断りをしたのですが、今回は映画監督として著名である舛田利雄氏の原案による作品であり、「宇宙戦艦ヤマト」のこれまでやってきた話を完全な形で制作するのだから、私以外に書ける者はいないではないかと訴えられて、ついに「宇宙戦艦ヤマト」の完結編を書くのだという思いで承諾することになったのでした。その思いの底には、これまでの欲求不満になっている気持ちを払拭したいという気持ちがあったことは間違いありません。休む暇もなく「宇宙戦艦ヤマト1」の完結編を書くつもりで「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の脚本執筆という話を受けることにしたのでした。西崎氏もすでに思いはこれから制作する作品で欲求不満を解消しようとするつもりなのか、これまで松本零士氏が指揮をとって纏めてきていた完結編についてはほとんど関心を示すこともなく、舛田利雄氏の関係でしょうか私の補助をさせるといって、映画畑の脚本家である館俊介氏を紹介してきました。私と交代で書いてくれということのようでした。それからの彼はそのための準備のために忙しく動きまわるようになっていきました。

この頃から松本零士氏からの深夜の電話が、ほとんど毎日のようにかかるようになったのですが、この結末のつけ方について、大変腹立たしい結末で憤懣やる方ないという状態であったのでしょう。せめて私に訴えたくなったに違いありません。午前零時あたりから夜明けまで、彼の話を聞いてあげることになったのでした。


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