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言霊謎解きの部屋☆ 言23「ひとくち言霊」(花郎(ファラン)) [テレビ]

  
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弥勒菩薩(みろくぼさつ)というものは、実に不可思議な魅力を持った仏像です。その半跏思惟像には、なぜか魔力があって、向き合うものを虜にしてしまいます。

弥勒菩薩というものは、実に不可思議な魅力を持った仏像です。日本にも数体あるその半跏思惟像には、なぜか魔力があって、向き合うものを虜にしてしまいます。わたくしは京都広隆寺のそれを拝見しましたが、その前に置かれた長椅子には、熱心な方が座って、仏像と対面して見つめたまま動こうとしませんでした。

わが国では聖徳太子の時代に、お隣の新羅国にはこの弥勒菩薩を信仰する者の中に、「花郎(ふぁらん)」という集団がありました。ところがこの集団は、当時の貴族の青年たちで、それがすべて大変なイケメンであったと言われています。

この弥勒信仰というのは、わが国では聖徳太子の時代に、朝鮮半島の新羅国あたりから入ってきた宗教で、釈尊の入寂後五十六億七千万年後に現世へ下生して、民を救済すると言われている未来仏です。

何だか、現代にも登場してきそうな集団です。

ひょっとすると、イケメンの韓流スターに夢中になっている、ご婦人たちがいるという報道がもたらされていますが、どうもこの韓流スターたちは、「花郎」の流れなのではないかと思ったりしているのですが・・・。


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アニメと音楽の部屋☆ ア38「横山光輝氏との出会い」 [テレビ]

 

 青春時代の若者たちを描く「エースを狙え!」を書いた後であったこともあって、東京ムービー(現TMS)から色合いのまったく違うアクション物・・・しかもつい最近までSFアクションから遠ざかりたいと思っていた私にとっては、正直な気持ちではあまり燃えて来る作業ではありませんでしたが、兎に角久しぶりに「銀河鉄道999」と共に楽しめる作品に出合えたということもあって、「鉄人28号」の執筆という依頼は、気分転換ということもありましたし、このところつづいている気を張る仕事から解放されて、あまり負担にならない形で作業に入れるということもあって作業を受け入れることになりました。

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これまでも1963年にテレビ化されているものの、それからすでに17年もたった今回の1980年のリメイクということになるので、その時代の差が表現できるようにという希望から、主題歌の作詞もして下さいという依頼もありました。つまり番組が目指す方向が前のものとは大幅に違うということを感じ取って貰いたいという制作会社の要望もあったところから、番組のメインライターとして指名された私が、主題歌にも新しい「鉄人28号」であることを印象付けるために作詞も書いて欲しいということになったのでしょう。そこで私は「太陽の使者鉄人28号」という主題歌を作詞しましたが、楽曲もかなり現代的なエイトビートになっていてかなり現代的になりました。

表向き時代が変わりつつあるということは気が付かないものですが、世の中に起こる様々な事件は、新たな時代を生むために動き出しているものが、事件という形で飛び出してくるのかもしれません。私はそういうことに敏感であったこともあって、世の中はこれまでとは違ったものを求め始めているという風に捉えていましたが、ひょっとすると横山光輝氏もそんな何かを感じ取っていらっしゃったのかもしれません。本来なら原作の方向を変えてしまうかもしれない主題歌の趣向から前のものとは大変わりしてしまうことを、快く承知して下さいました。そんなことがあってから、私は脚本の執筆作業にかかる時、思わず原作者の経歴を辿ってみたくなって略歴を辿ってみたのですが、彼の年齢を知ってびっくりしました。何と横山氏の生年月日が2日違いの1934年6月18日だったのです。性格も星座が暗示するように、ほとんど私と同じような「ふたご座」の特性である発想や感性をお持ちではないかと考えるようになったのです。脚本の執筆はかなりハイピッチで進んでいきました。

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 脚本の執筆は順調でしたが、その途中から頭から離れなくなっていたのは、横山光輝氏の作家としての足跡ということでした。それで作業の合間に彼のコミック作家としての足跡を辿ってみたりするようになっていたのです。SF作家としてスタートしながら、「伊賀の影丸」「魔法使いサリー」「コメットさん」「バビル2世」といった若年用の作品を書きながら、いつか作家が年を経ると、「三国志」というこれまでとはまるで異質な歴史物を書く作家に変身していました。もうそれも執筆し始めてから10年近くたっているのです。私はこの変身ぶりにも惹かれるようになったのです。そしていつか私も、同じような変身をするかもしれないというような想像をしていたのでした。

はじめはその意外な方向転換が一寸意外に思えました。通常では若い時に「鉄人28号」と言うロボットを、SF感覚で登場させてヒットさせているのですから、それから後も完全にそういったSF作家としての道を辿っていくはずなのですが、それから10年したところで、思いがけず中国の戦国時代を描く史書の「三国史」をコミックとして書き始め、見事にそれも人気作品として成長させているのです。彼はSF作家としてスタート彼の生年月日を改めて確かめてみたことがきっかけでした。

横山光輝氏は29歳という若い時に「鉄人28号」というSFロボットアクションを書いて人気作家となりながら、10年という年月を経てから1971年・・・37歳頃から、思い切ってこれまでとはまったく方向の違う「三国志」という歴史大河作品を執筆し始めているのです。きっとその頃の時代の空気を察知した結果であったかもしれません。兎に角思いきった変身をしたものだなと思いました。考えてみると当時は第二次オイルショックの影響で、時代は混乱状態にあった佐藤栄作内閣の末期でしたが、それから彼が書きつづけた10年間はまさに時代の混乱期であったわけで、それには中国古代の戦乱の中での歴史展開は、日本人にとっても大変興味深い話であったということができます。横山氏はそうした混迷する日本の時代背景を重ね合わせるようにして、波乱万丈の古代中国の国盗り物語を書いていたに違いありません。

私は1974年・・・40歳の時に「宇宙戦艦ヤマト」を書きましたが、一方でSF作品とはまったく違った、映像用ではない歴史物の作品のメモを作り始めていたのです。まだその頃は何らかの形にしようというような当てもありません。ただ勝手にそんなことについて、興味のある情報があればノートに書き止めるようにしていただけでしたが、それはやがて1984年・・・50歳の時に具体化できる機会に巡り合うことになりました。とにかく「鉄人28号」を書く時には、まだ何ねっも先の仕事の予定などが見えているはずはありません。しかし横山光輝氏の足跡を辿っていると、ひょっとして私も同じような変身をする時がやってくるかもしれないという、勝手な予感をしたりしていたにすぎません。まだこの頃には、それを実現させるという気配もありません。彼と同じような足跡を辿りそうだとは思っていても、果たして同じような足跡が辿れるかどうか判りません。彼はすでに成人を対象にした「三国志」という歴史物の作品でヒットを飛ばして執筆をつづけているのです。これから「宇宙戦艦ヤマト」につづいて「鉄人28号」に取り掛かろうとしている私は、まだ彼がすでに辿ってきたような足跡を辿るには、まだかなり道のりのへだたりがあるかもしれません。彼はかつてこうした少年物のSFアクションを書きながら、やがて年齢に見合った作品である歴史物の世界に挑戦するようになるのです。同時代に生まれて、ほとんど同じような発想をするふたご座生まれの横山氏とは、コミックと脚本という表現の場の違いがあるものの、何もかも同じようなペースで変身を遂げることはないとしても、やがて私もある時突然彼と同じような道を辿るかも知れないと思ったりしながら、番組の執筆をつづけていったのでした。

しかしそれから数年後のことです。横山光輝氏と直接出会うことになるのです。

しかもこの「鉄人28号」のスタッフのほとんどの人が、私がはじめて横山氏と対面する機会となったある番組の主力スタッフとなって活躍してくれることになるのです。人間関係というものは実に面白いものですね。

それはまたその時になったらお話することにいたします。


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アニメと音楽の部屋☆ ア37「マリンスノーの伝説余聞」 [テレビ]

 

1980年の記録をみますと一月に「宇宙戦艦ヤマトⅢ」の打ち合わせが始まって間もなく、「マリンスノーの伝説」の打ち合わせが始まっています。ハワイでの打ち合わせを終えて帰国して間もなく、「宇宙戦艦ヤマトⅢ」の打ち合わせが始まる前の間隙をぬってのことでした。どうしてそんなことをと思われるかもしれませんが、これにはかねてからの計画にあったのです。

今回制作を行うのは「宇宙戦艦ヤマトⅠ」のスタートのために頑張ってくれた、広岡氏を中心とした、岡プロダクションのスタッフたちに対しての西崎氏の扱いが、あまりにも非情で理解できないでいたことがきっかけでした。そんなある日のこと松本零士氏から、これまでの努力に対して報いたいので彼らに作品を作るきっかけを与えて上げたいので、是非脚本で協力して欲しいという依頼があったのです。番組が企画されて基本的な制作の手順の打ち合わせをした時以来、親しく出会うことはほとんどなくなってしまいましたが、出会った時からの大変お付き合いのしやすい人たちでしたから、その後の仕事に関しては、作業の進行状況を西崎氏に報告があって、それに対して彼からの指示を受けていく姿を遠目に見ているだけでした。ところがそれから暫くして、松本零士氏と著作権問題で問題が発生し始めると、西崎氏のスタッフに対する言動に、険しいものがあるのに気が付くようになったのです。どうも松本零士氏の指示が出ているらしいことに対して、彼らが西崎氏の許可を得にやってくると、どうしてもその返答には険しいものになりがちになってきていました。スタッフは西崎、松本氏の対立のはざまにあって、かなり苦しんだのではないかと思うのですが、それでも作業ということでは直接松本氏と出会って行われることが多いためでしょうか、どうしても西崎氏をカリカリとさせてしまうような松本氏の意向を中継することが多くなり、その度にスタッフは突き放されて困惑して戻るようなことが多くなっていったように思います。

これまでに彼らに関しては、あの「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」・・・つまり、私にとっても最後の「ヤマト」となる作品でしたが、彼らはそのイベントについても動員されて、必死で働きました。しかし西崎氏はそれに対してもまったく関心がなく、映画は大当たりしたのですから、わずかずつでも彼らの働きに対して、「ありがとう」といってヒット記念に慰労金を渡してやるべきではないかという私の説得にも応じなかったのです。西崎氏の松本氏に対する思いが、飛んでもないところに飛び火してしまったのだと思うと、気の毒でなりませんでしたので、今回のことに関しては直ぐに賛成しました。そのうち機会を見て企画を実行しましょうという松本氏の提案に、約束してあったのです。それがついに「ヤマトⅢ」の準備のためにハワイへ行った後、急遽実行に移すことになったのでした。

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なかなかスタッフのすべての紹介をすることができませんが、代表としてメインスタッフのみなさんの紹介はしておこうと思います。当然ですがこれらの人々と打ち合わせが行われていきましたので、紹介しておきたいと思います。

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私はあくまでも純粋に彼等の「ヤマト愛」ゆえに、どんな扱いを受けても最後まで付き合おうという純粋な思いに感動して、私なりに何かしてあげたいという気持で協力することにしたのですが、これを機会に松本氏の西崎氏に対する怒りはピークに達してしまったようでした。しかし・・・それでも次の「ヤマト」に関しては、手を引くことができずに、複雑な気持ちでかかわっていたに違いありません。それにしてもその途中で松本氏から、海中に生息する生命体のデザイン変更などがあるので、その度に修正しなくてはなりません。勿論その度に脚本にも訂正をしていかなくてはなりませんでしたが、スタッフの努力に対する恩返しになるという思いがありましたから、みなさん他に仕事をしている中での計画でしたから、作業的のはかなりきつかったのではないかと思うのですが、誰もため息をつくようなことはありませんでした。放送中にも人気が沸騰してきてしまったために、松本氏に対する非難があるのですが、人気が爆発するとどうしようもない状況が起こるものです。しかしそんな状態にあっても、今回の企画に関しては、本人の言いだしたことが始まりだとしても、兎に角さまざまな仕事の間隙を縫って何度か修正もした上で台本は出来上がりました。

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この頃は松本氏も大変な人気作家になってしまっていましたので、なかなか作業が進

まないと、あちこちの仕事先の担当者が大分苦しむようになったようですが、今回のことについてはあくまでも彼の主導で始まったことでもあったことから、かなり作業には協力的であったようです。それでも台本の決定稿が三月後半に仕上がっていますから、その間に何度も打ち合わせが入っていました。つまり松本氏からたびたび海底の生命体の姿を変更するといって、作業を変更しながら進められた記憶があります。それでも台本の決定稿が上ってから三か月してついに記念の作品は完成したのでした。兎に角スタッフが「宇宙戦艦ヤマト」のスタートで苦労してくれたことに報いられたような気がしたのでした。記憶があります。試写が東京現像所で行われたのは七月二十一日になっています。

                                   「マリンスノー・打ち上げ」1.jpg 「マリンスノ-の伝説」1.jpg

  

1980年8月12日。ついにテレビ朝日からスペシャル番組として放送されました。

 スタッフのみなさんご苦労様でした。

 あなた方が「宇宙戦艦ヤマト」の原石を磨き始めた人たちです。

 ご苦労様でした。


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告知と放談の部屋☆ 放59「陰の力を忘れない」 [テレビ]

 

 「ヤマトⅢ」の制作が始まる間隙を縫って、「ヤマト」の原点を作りあげることに貢献したスタッフの努力に報いたいという気持から「マリンスノーの伝説」を制作することになったのですが、同じ頃のある日のこと「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の大ヒットはもちろんのこと、松本零士氏に対する旭日小綬章の祝いをかねての大きなパーテイが開かれることになりました。

 記録によりますと、1980年5月29日とあります。そこはサンシャイン・シテイ・プリンスホテルの天覧の間であったようです。

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                                                              東映大パーテイ

 

 

 

 

丁度東映動画が松本氏の原作である「銀河鉄道999」のテレビ化が決まって制作に掛かっているところだったこともあって、東映が主催したものでした。東映童画のスタッフはもちろんのこと、マスコミ関係、営業関係者が多数招待されていて、大変盛会なパーテイでしたが、兎に角この時の主催者は西崎義展氏のアカデミイではなく、なぜか東映主催であったことに意味があったようです。何といっても「ヤマト」の人気がピークにたっしている時でもありましたから、そのデザインですっかり人気作家になった松本零士氏はその日のパーテイの中心人物でもありました。


 どうやら西崎義展氏は欠席のようで、あたりを見回してもその姿は見当たりません。


 壇上にパーテイの主催者である東映社長の岡田茂代社長が姿を現して、松本氏に対する功績に対する感謝の言葉と、これからも強力をお願いするという通例の挨拶が行なわれたのですが、その途中から社長の挨拶の調子がガラッと変わって、「ヤマト」が決して松本氏の力だけで成功したのではないということを、絶対に忘れてはいけないと厳しく熱っぽい口調で諭して引き下がったのです。ひょっとすると社長は西崎義展氏から、松本氏に対する不満が訴えられていたのかもしれないと思ったほどでした。社長は西崎氏の思いを代弁して、跳ね上がっている松本人気に釘を刺してきたのではないかと思いました。大分お酒が入ってはいたと思うのですが、ここであのような熱のこもった大演説を聞くとは思ってもいませんでしたのでびっくりしてしまいましたが、それから間もなくです。松本氏は社長の演説に促されたのだろうか、マイクへ進み出ると「藤川桂介さん。豊田有恒さん。こちらへおいで下さい」と呼びかけてきたのです。


 会場で出会った友人たちと歓談している最中でしたが、周囲から促されて私と豊田氏は壇上に上がりましたが、そこで松本氏から作品の制作過程での協力に対して、思いがけない感謝の言葉を送られたのでした。まさかこんな形で壇上に呼びあげられるとは思っていませんでしたのでちょっと困惑してしまいましたが、設定デザインで協力してくれた豊田有恒氏も、脚本を担当する私も、どちらかというと陰の協力者であったわけで、こうした形で公に「ヤマト」の制作に貢献した人として紹介されたことは、嬉しい瞬間ではありました。


 確かに「宇宙戦艦ヤマト」というと、どうしても制作者である西崎義展氏とデザインを担当した松本零士氏の二人が、極端にクローズアップされてしまっていて、制作にかかわった人々についてはほとんど陰に回ってしまっていたのです。しかしあの日の岡田社長のスピーチは参加していたさまざまなスタッフの心にも響くものがあったのではないかと思いましたが、散会後ふと冷静になって考えてみると、あの社長の言葉は西崎氏にも聞かせてやりたいと思い始めました。今、「マリンスノーの伝説」の制作にかかわっているのは、まさに「宇宙戦艦ヤマト」の原点を支えたスタッフへの恩返しのつもりなのですから・・・。しかしその言い出しっぺである松本零士氏が、今や時代を代表する作家として持ち上げられてしまっているために、あちこちから持ち込まれる仕事を何でも入れてしまうというので、ほとんど約束どおりに仕上がらず、あちこちに迷惑をかけるような状態になってしまっていたのです。


そのことについては、親しくお付き合いしているものとして気になっていましたので、なぜ仕事の配分を裁いてくれる、秘書なりマネージャーなりを雇わないのかと聞いたことがあったのです。矢張り彼には彼なりに若い頃の遺体経験があってのことだったのです。仕事を処理するために雇った秘書に、稼いだ資金を持ち逃げされてしまうという事件があったことがあり、それ以来仕事に関してはすべて自分で裁くようになっていたというのです。理由を聞くとそれはそれなりに納得できるのですが、しかしいまの状態はとても普通ではありません。このままだと折角積み上げてきたいいイメージを維持することが難しくなりそうです。もう今の状態はとても自分で仕事のマネージメントをさばきながら、仕事も支障なく裁ききれる状態にはなりません。人に迷惑を掛けない範囲で仕事を受けるべきだとは思うのですが、とても今の状態では不可能だと思いました。


営業を考えれば、どうしても当代の人気作家にかかわって貰いたいというのは当然のことでしょう。次へと仕事を受けてしまうので、その分迷惑のかかる人も多くなっているのでした。私は松本氏を反面教師にして仕事の配分を考えるようにしました。


仕事が絶頂期に達した時、その忙しさにかまけて、一緒に作業をする人々に対する思いやりを忘れがちになってしまうということが起こりがちであることを感じました。


陰でその輝きを支えつづけている人たちが存在しているということを、決して忘れてはならないという教訓を得たような気がいたしました。


そんな彼を見ながら、私は彼を反面教師として、自分でやりきれないものに関しては、出るに出られない新人作家たちがやって来ますから、彼らにデビュウする機会を与えてやろうという気持から、すべて仕事は抱え込まないようにはしていました。もうほとんど西崎氏とも出会うこともなくなっていましたから、あちこちから次々と持ち込まれる仕事は自分でやれる範囲で受け入れているのですが、気持ちの乗り方も前とはまったく違っていて、面白いように仕事はさばけていきました。しかし人間というものはわがままなもので、仕事のない時はどんなものでも他の飲んでくれれば、喜んでこなしていったのに、多少余裕ができるようになると、気分的に贅沢なことを望むようにもなります。

 

 

 

 

 

 

これまである困難な意図に向って必死で書いていくという作業をしてきていたことから、その目的を達成できるかどうかと苦闘して書き上げていった生活から離れて、実に楽な作業をしているのではないかという、軽量感に襲われてしまうようになってきていたのです。実に気分よく作業がこなしていけていたのですが、それが却って作家としての充足感を失わせるような気分に襲われてきていたのです。飛び込んでくる依頼については、それらに自分の持っている能力で応えることができるという満足感はありましたが、どうもその一つ一つについての達成感に不満を抱くようになってきてしまったのです。しかしそうはいっても、またそういった作品に巡り合う機会に恵まれるかどうかはまったく判りません。新人時代の頃を思うと、兎に角生活することができるかどうかということが大きな問題でしたが、時間を経るに従って、だんだん生活ができればいいというだけでは満足できなくなってきています。しかしそのために、現在私を支えてくれている人たちへの配慮は、絶対に忘れてはならないと思うようにはなっているのでした。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

            

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言霊謎解きの部屋☆ 言26「ひとくち言霊」(男神と女神) [テレビ]

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古代の歴史にかかわる作業をしていると、どうしても神々との出会いが多くて、いろいろと話題にしたいことが出てきます。

かつて幻視行「月の都・京都」(あなただけの古都遍歴)という本の執筆した時、その中でさまざまな発見をしました。残念ながらその中での発見を、すべて書く訳にはいきませんが一つだけお話してもいいということがあります。

それは朋神(ほうしん)ということなのです。つまり神様は大体男女ペアーになっているということで、これは日本ばかりでなく西洋でも同じようなことがいわれています。もちろん朋神といっても、男女ということもありますし兄弟ということもありますが、日本の神々もみな男女がペアーになっているのです。そのために天照大神が女だとすると、相手となる朋神は男神ということになると思うのですが、通常いわれている天照大神にと朋神となっているのが大日霎貴神(おおひるめむちのかみ)なのですが、そうなるとこの方は女神なので、一寸おかしくなってしまいます。ひょっとするとかつて天照大神は男神であったのではないだろうかということです。本来男神であった天照大神を、女神にしてしまった者がいたに違いないと思うのですが、興味があったら調べてみるのも面白いかもしれません。

取り敢えずこうしたペアーである神々の世界には、みなさんもよく知っていらっしゃるはずの神もいらっしゃるので、是非どんな朋神があるか調べてみるのも一興ですよ。


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アニメと音楽の部屋 ア36「映画・新エースを狙え!」 [テレビ]

 

1979年1月31日・打ち合わせ。

1979年8月20日試写

1979年9月8日公開。

 こんな予定で作業は進んでいきました。

                                                 「新エース・映画進行表」1.jpg

 

大雑把にいうと映画の「エースを狙え!」は、テレビでの「エースを狙え!」の好評を背景にして作られることになったのですが、前作のテレビ版も、今回の映画にしても、同じ1979年に作られたことに意味があります。つまりその時の政治は福田赳夫氏からバトンタッチを受けて、オイルショックの影響を受けながら頑張っていた最中のことで、テレビ版はその前半に登場したものであり、その後半に登場したのが映画であったということです。

 私は前のブログでお話しましたが、大雑把にいって第二次オイルショックの起こった時から終結をする間に、市民生活が徐々に変化していくのに合わせてその市民感覚も次第に変化をしていくのです。それは前のブログで大平内閣の二年間の間に、社会現象としてどんなことが起こっていたかを書いておきましたが、その中で新しがりであったり、ワンパターンを嫌ってダサいといって忌避したり、新しがりやでナウイなどといって持て囃したりするのですが、そういったことは特に若い人に顕著に表れてきます。それはテレビや映画に対する反応として表れてきます。つまり時代の背景がどんなものであったのかということを知っておくと、どうしてそんな反応が現れて来るのかということが呑み込めるからです。

 映画の「エースを狙え!」は監督として注目はされていたものの、まだそれまで大きな作品にかかわることのなかった出崎統氏が起用されたのですが、その脚本を書くように指名された私は、兎に角彼についてはまったく伝聞で聞いていることしか知りませんでしたが、かなり注目の若手演出家であったことは確かなようです。

 私は「ヤマト」の時でもそうですが、監督としてその映画作品の責任を持ってまとめることになった以上は、その人の意図するところを理解して、どう書けば彼の描きたい世界が思いきって表現できるのだろうかと考えましたが、一旦脚本として纏めたら、それから後の作画、アニメーターとしての表現は、ほとんど監督が自由に任せます。

 アニメーションの場合は、あくまでも脚本はアニメーターの目安となるものをまとめて、後はその責任者の能力に托すしかありません。私は映画「エースを狙え!」については、彼の期待されている才能を思いきり発揮して貰いたいという気持で、何回かの修正稿をまとめて準備稿をあげ、更に出崎氏の希望する形で決定稿を仕上げました。しかしそれからいよいよ作画作業に入ってからは、私がタッチする余地はまったくありませんから、仕上がりまではお任せです。

                                    「新エースを狙え!・映画準備稿」1.jpg 「新エースを狙え!・映画決定稿」1.jpg

 

1979年9月8日公開。

 お陰様でその結果は大好評でした。そして若い人たちはここでこれまでとは違った、新たな監督の誕生・・・新たなスターの誕生を熱狂的に歓迎したのです。まさにこの時代だからこそのことですが、同じようなころには、もう一人のスターが誕生していたのです。つまりこの映画が上映されることになった頃までは、どんなものが主流になっていたでしょうか。もう言うまでもないと思いますが、テレビ版の「エースを狙え!」は「宇宙戦艦ヤマトⅡ」のテレビ版が放送中でしたし、映画の制作が発表されたのは、「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の放送が終わったところでした。

 その間に若い人の意識は次第に変わってきていて、これまでの受け止め方ではない新しいものをかなりはっきりと求め始めていました。兎に角これまでの社会に変化をもとめる気分がかなりはっきりとし始めていたのです。それはすでにテレビ版「エースを狙え!」が始まった頃から始まっていたことなのですが、新たなものの登場に憧れる風潮は時を経るに従ってはっきりとしてきていたのです。その存在はかねてから注物人であったのですが、ようやくその才能に華を咲かせる機会を得て飛び出してきたのが出崎統氏でした。若者の溌溂とした青春群像を通して、新たな時代に飛躍しようとする姿を描いて、新鮮な変化を求める若者たちの喝采を受けました。こんなスターの登場をファンたちは待ちつづけていたのでしょう。つまり若い世代の人は、これまで時代をリードしてきた「宇宙戦艦ヤマト」の主導者西崎義展、松本零士氏ではない、新たな制作者としてのスターを評価していったのです。変化を求める時代の空気に応えて活躍する、新たな時代のリーダーを求め始める若者たちは、そんな中からもう一人のスターを生み出していました。SF作品の主導者として急激に頭角を表してきた富野由悠季氏です。かつて「宇宙戦艦ヤマト」とほとんど同じ時に「機動戦士ガンダム」を率いていたのですが、「ヤマト」の圧倒的な人気に圧されて目立つことはありませんでした。しかし「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の放送が終わると同時に、新たなものの登場を期待する若者たちの欲求に応えて、彼も「機動戦士ガンダム」と共に一気に浮上してきたのでした。テレビ版「エースを狙え!」の映画監督として一気に跳び出して来た出﨑統氏と「機動戦士ガンダム」と共に跳び出してきた富野由悠季氏の登場は、まさに時代が求めつづけていた新たなスターであったのです。こうした変化が何と「宇宙戦艦ヤマトⅢ」を立ち上げようとしていたあたりから始まっていたのです。もう時代は新たなスターを見つけて湧き立ち始めていたのでした。しかしそれにしても、私はなぜかその前あたりから、「ヤマト」への決別を宣告していたことになります。今となって思い返しますと、不可思議な因縁を感じてしまいます。その後私は出崎統氏との作業を通して何度もイベントなどで出会いましたが、そのたびにファンの熱気が新しいスターに熱狂して迎える風景を実感してきました。その後さまざまなコンクールで彼とは一緒に審査員となることがありましたが、そのたびに、また一緒に仕事がしたいですねと言ってくれましたし、私も機会を見つけて是非やりたいものですねと答えていたのですが、とうとうその後で出会う機会はなく過ぎていくうちに、彼は早々と鬼籍の人になってしまいました。冥福を祈りたいと思います。

同じ1979年の「宇宙戦艦ヤマト」の放送の前後に、跳び出して来た二人のニュウスターの富野氏は、現在も健在でいらっしゃるはずです。ここで是非知っておいて頂きたいのは、今回のような変化を求める若者たちの思いの背景には、実は第二次オイルショックという事件の波及という不可抗力なものが生み出したものです。誕生する作品も、誕生するスターも、すべて時代の申し子であることは言うまでもありません。


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アニメと音楽の部屋☆ ア34「はじめての試みでしょう」 [テレビ]

 

1978年6月4日のまだ「宇宙戦艦ヤマトⅡ」のテレビ放送が始まる一寸前のことですが、かねてからそろそろSFアクションとは違った作品を書きたいと思っていたところ、東京ムービー新社(現TMS)から仕事をお願いしたいという連絡があって、早速話を聞きに行きました。

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ヤマトの打ち合わせの合間を縫ってスタッフの顔合わせということになっています。

 企画は日本テレビの代表はY氏で、プロデュウサーは日本テレビからT氏、東京ムービー(TMS)からS氏、文芸担当はO氏、チーフディレクターのO氏、作画監督のH氏、美術監督のK氏、撮影監督のT氏、録音監督のN氏という当時のオールスターともいえるメインスタッフが揃っての顔合わせでしたが、久しぶりに和気あいあいといった雰囲気の中での打ち合わせになりました。

 私にはコミックとして発売になっている「エースを狙え!」が渡され、あらかじめ打ち合わせの前に日本テレビと東京ムービーとの間で打ち合わせが済んでいた設定書はもちろんのこと、声優で決定している一覧表などが渡されました。

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 おおむねスケジュールの確認が行われましたが、メインの私の他に男女一人づつの脚本家が加わるということが発表されて、早速第一話の執筆スケジュールに入ったのですが、そこで東京ムービー側からある提案が行なわれたのです。

 

 横浜の山手へシナリオ・ハンティングにいこうと思うのですがどうですかというのです。そこはラジオ関東との縁ができていたので、度々出かけることもありましたし、大学の友人の家もそこにありましたのでかなり馴染んでいたところです。提案された企てについては大賛成で、早速アニメーション作品としての舞台設定をしてみようということでえらばれた横浜の山手へ出かけることになったのでした。

 

しかしアニメーション番組でシナリオ・ハンティングというのは聞いたことがありません。ドラマの場合では脚本を書く前に想定されるロケ現場などを監督などと一緒に見に行ってみてみるということはよくありました。しかしアニメーションでそんなことをしているとはほとんど聞いたことがありません。私がかかわってきた作品はSFものが多かったということもあって、ほとんど脚本家の想像する世界に委ねられることになってしまいますので、いわゆるシナリオ・ハンティングということなどはまったく行われることもありませんでしたし、そんなことをする必要もありませんでしたが、今回はアニメーションではあるのですが、所謂学園の中のテニス部を舞台にした青春ドラマでしたから、そこで活躍する学生たちもかなり登場します。コミックで書かれているとはいっても、それをそれぞれが読んだ印象で、受け持つ分野を勝手にまとめてしまっては、

 

若い視聴者を満足させられないのではないかという心配から、少しでも現実の女学校の雰囲気をアニメーションで表現してみようという意図から、大変野心的で楽しみだなと思いながら、一寸大袈裟なシナリオ・ハンティングに参加したのでした。しかしあれから20年も経過しています。手元に残された記録が残っていません。そこで今年の夏炎天の中を、久しぶりに横浜山手へ行ってみることにしました。おおむね昔のまま残っている風景を見て嬉しくなりましたが、しかしそれでも時間経過を感じさせる変化はありました。

 

プロダクションの企画としては大変思いきった試みだと思いましたが、確かにアニメーションではかかわるスタッフが様々な分野を受け持つようになっていることもありますから、脚本という目安はあってもそれを読む人によって受け止め方は違ってしまいます。そこに描かれている場がどんなところか、どんな風景なのか、どんな雰囲気のところなのか、そこで動く人々の様子についてもそれを読んだ人の判断にゆだねられることになってしまいます。それぞれがそこに書かれたものからその人なりの判断で作画していくし、動かして行くのではどうしても毎回きちんと整った形で表現することは困難です。そこで少なくともメインスタッフだけでもその想定される学校の周辺の雰囲気を知っておいてもらうことが必要になったのです。

 

山手通りの東のはずれには「港の見える丘公園」があって、眼下には横浜港が広がっています。そこは市民の憩いの場にもなっていますが、ここには山手資料館、作家大佛次郎記念館などの文化施設も整っています。

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 ここから西へ向かうと直ぐに明治時代に作られたゲーテ座の記念館があり、目の前には外国人墓地が広がっています。その間から眺めると都会の広がりが眼下に望めます。

                                「外国人墓地の説明版」1.jpg 「丘から見下ろす都会」(2020・8・27)1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこを通り過ぎると横浜雙葉女学院があり、更にその前を行き過ぎると、今回「エースを狙え!」の舞台となったフェリス女学院があります。それぞれ女学校としての名門校として存在しています。

                        「横浜雙葉学園入口」(2020・8・27)1.jpg 「フェリス女学院入口」(2020・8・27)1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エースを狙え!」のコミックでは西高ということになっているのですが、番組としては、この山手周辺を話の展開の場として設定されていったのですが、近くに存在する対抗戦の南高として設定される横浜雙葉女学院も、お嬢さんたちが通う雰囲気のある名門校として存在しています。「エースを狙え!」の舞台となったフェリス女学院の正門あたりは、目の前の校舎の一部がアーチ状にくりぬかれていてそこを通り抜けると校庭になっていたのですが、残念ながら現在はほとんど昔の面影はなくなっていました。しかしここから「港の見える公園」までの山手通りには明治・大正時代を思わせる洋風の家もあって、どこかに港町の雰囲気を感じさせるところで、女学生たちはこれらの洋風の雰囲気に包まれながら青春時代を謳歌していることになったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 告6「ブログ更新日変更のお知らせ」 [テレビ]

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           「ブログ更新日変更のお知らせ」

ブログ更新日の変更をお知らせいたします。次回は20日が通常の予定日なのですが、三連休にもなりますので、その前の週・・・つまり今週の18日(金曜日)に更新することにいたしました。

 どうぞよろしくお願いいたします。


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アニメと音楽の部屋☆ ア35「テニスブームの発端」 [テレビ]

 

1978年6月24日決定稿。こんな記録が作業の日誌に書き止められていますから、1978年6月4日顔合わせ打ち合せがあってから20日間かけて決定稿に到達しています。

                                                       「新エースを狙え!・顔合わせ」1.jpg

 

 メインライターとしてまずやっておかなくてはならないのは、シリーズをどう運んでいくかを決めておく構成をまとめておかなくてはなりませんが、資料が残っていました。

                                    「新・エースを狙え!」1.jpg  「新・エースを狙え!・内容」1.jpg

 

 私だけでなく男女の脚本家が脚本をまとめる目安にもなるものです。それを作った上に、書き上げた脚本のチェックをして貰ったり、訂正したりで、ようやく仕上がったのが今回の決定稿というものです。これまで書いてきた三日から五週間というペースで決定稿をまとめるというペースから考えると、かなり時間的な余裕をもった形ですが、局も力を入れていることもあって、じっくりと時間をかけて準備をしてスタートしようという気持だったのだと思います。そんな意図もあって横浜山手のシナリオハンティングなどということもやったのですが、実は脚本執筆をする直前のことでしたが、青山学院大学の講堂をテニスコートにして女子プロの試合が行われるということが発表されていたので、メインスタッフで必要なメンバーと一緒にその試合を観戦したらどうかという計らいがあったのです。勿論私もテニスは中学時代からやっていましたし、高校でもキャプテンを務めていた事はあったのですが、プロのゲームは見に行ったこともありませんでしたから、大変いい機会を作って頂きました。相手は誰であったか失念してしまいましたが、その頃全盛時代であったナブラチロワの試合が見られるというので、かなり実戦の迫力ある姿を見届けることができました。果たしてその実戦の迫力が、学園の中のテニスの特訓や、対抗戦などで活かせたかどうかは判りませんが、作品の中で描かれるテニスのプレイする時の表現については、作画をするスタッフには大いに参考になったと思います。スケジュウル表によると、顔合わせから決定稿ができるまでに、一寸時間がかかっていましたが、その間には女子プロの実践を観戦するという、大変参考になる時間を過ごさせてもらったこともあったのです。

                                  「新エースを狙え!・1」1.jpg 「新エースを狙え!・2」1.jpg 「新エースを狙え!・3」1.jpg

                                  「新エースを狙え!・ARⅠ」1.jpg 「新エースを狙え!・AR2」1.jpg 「新エースを狙え!・AR3」1.jpg

 

 

 

 

 

 

ここでコミックを脚本にまとめた台本とアフレコのための台本を、どうして並べて出したのかというと、そこに書かれたタイトルの違いを見て頂きたいからです。恐らくみなさんはこんな形で見ることはないでしょうから、一寸興味も起こるのではないでしょうか。一応脚本を台本としたものは、脚本家と文芸担当でタイトルをつけておくのですが、それを映像化したものをアフレコ用の台本として完成する時には、その内容から判断して視聴者に興味を持って貰えるように、日本テレビ、東京ムービーなどの番組責任者のチェックが行われるので、担当する脚本としてまとめられた台本とはかなり違ったタイトルがつけられていることになるわけです。


 お話は主に話の中心となる西高のテニス部での人間関係・・・厳しい宗方コーチと選手たちの憧れのキャプテンである藤堂孝之。女性選手たちの憧れの的である竜崎麗華。


藤堂孝之と竜崎麗華の関係。そんなところへ入部してくる新入生の丘ひろみに注目する宗方コーチ。これらの人間関係が、西高という校内で、そのテニスコートで厳しい練習を積み重ねられながら、それぞれの青春ドラマが展開していきます。


そんな中で新人であったひろみが宗方コーチの熱血指導で成長していきますが、果たしてひろみには思いを叶える機会が訪れるのでしょうか・・・。

 


しかしやがて宗方コーチには悲劇が・・・。

               「新エースを狙え!・制服の岡ひろみ」.jpg 「新エースを狙え!・藤堂」1.jpg 「新・エースを狙え!・お蝶夫人」1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな話が展開していくのですが、ここで注目して 頂きたいのは                 この頃の世相はどんな様子であったか都いうことなのです。前回のブログで書きましたが、第二次オイルショックが起こってから五年を経過したあたりで、福田赳夫内閣からバトンタッチされた大平正芳内閣の時代ですが、オイルショックの影響がさまざまな方向に影響を及ぼしていくことから、会社の経営も厳しく、その影響で家庭内にもどこか重苦しいものがある上に、つい先ごろまで広がっていた列島改造の勢いに乗って、サラ金に手を出す者が多かったことからその返済に困って悲劇を続出していきます。俄かに経済の引き締めで家庭内にも憂鬱な雰囲気が漂い、若者は鬱積するものを発散させようとして家庭内での暴力を振るうことがあちこちで見られたりします。何か突破口がないかと現状を突破したいという気持から、従来通りのワンパターンを嫌って新しいものに飛びつきます。郊外レストランが盛況になったりして、兎に角何か変化をして欲しいという気分が横溢していきます。そんなところから健康機ブームが起こったりするのですが、それに火をつけたのがテレビの「エースを狙え!」だったのではないでしょうか。

 

 まだその頃はテニスといっても、ごく限られた人のスポーツだったのですが、沢松和子さんがウインブルドンでのダブルス優勝という快挙もあって、俄かに女子テニスに注目が集まりましたが、その後佐藤直子さんの活躍もあって、新しいものに突破口を求める若者たちには刺激的だったに違いありません。男性も女性も同じコートの中で思いきり青春のエネルギーを発散させたに違いありません。その動きはたちまち全国的に広がっていきましたが、特に避暑地として憧れる軽井沢を占拠してしまうような状態になっていきました。その頃のことですが、東映動画の「銀河鉄道999」のスタッフが監督の西沢信孝さんを中心に中軽井沢に宿をとって、夏休にテニスを楽しんだことありましたが、私は山荘から様子を見に行ったこともありました。更に余談になりますが、バレンタインの贈り物に、実物大のテニスラケットのチョコレートがあったのを思い出します。私にとってもさまざまな圧力から解放されていたころのことです。

 

「ヤマト」から次第に遠ざかりながら、「銀河鉄道999」「エースを狙え!」「さすらいの少女ネル」「けっぱれ大ちゃん」「キャプテン」というこれまでと違った作品とお付き合いすることができて、私にとっては大変幸せな日々を送れた頃の思い出でした。

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 


 

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告知と放談の部屋☆ 放58「短期政権がつづく中で・・・」 [テレビ]

 

 世界の動きが日本の政治に影響を及ぼすといっても、ある日からきっちりと起こったり、終わったりするものではありませんから、ほぼこんなことのあったあたりからということになりますが、「第二次オイルショック」というお話を書いた時から、お読み頂く皆さんには、当時の日本はどんな内閣が政治を率いていたのかということを知って頂くために、敢えて当時の内閣を紹介しながら、日本の社会状態はどんな様子だったのか、そんなことを考えながら、テレビではどんな作品が登場していたのかということをお考えになると一興かと思います。

 第一次オイルショックが起こったといわれている佐藤政権の1970年から時代と、変化を感じさせる中曽根政権時代の1980年頃は政権がかなり長期になっていますが、この両政権に挟まれた10年間をみると、相次ぐオイルショックの影響で政情不安定であったようで、それぞれ短期で内閣を交代せざるを得ないというということになっています。そうした不安定な時代を体験していくうちに、その時代を生きている市民の感覚は微妙に変化していったはずです。特にアニメーションを楽しむ若い世代の人の心の内には、微妙に時代の空気を吸収していて、その価値観には微妙に変化していったようです。

 

佐藤栄作(1964年・昭和39年)

テレビ・映画・・・「8時だよ!全員集合」「タイガーマスク」「あしたのジョー」「時間ですよ」「みなしごハッチ」(略)

世相・事件・・・太陽族・核家族・かぎっ子・ハッスル・番長・現状肯定型少年・しごき・真面目人間・いざなぎ景気・個人主義・かっこよさ・中流思考・東大紛争・根性世代・サイケ・はれんち・家族中心・スキンシップ・マイカー・風俗反乱・よど号事件・三島由紀夫割腹自殺・ウーマンリブ・脱サラ時代・ベンチャー・全学連暴れる・コンビニ・ファーストフード・(略)

 

田中角栄(1972年・昭和47年)

テレビ・映画・・・「新・ムーミン」「木枯し紋次郎」「マジンガーZ」「科学忍者隊ガッチャマン」(略)

世相・事件・・・無関心世代・あさま山荘事件・同棲時代・エネルギー危機・省エネ・(略)

 

三木武夫(1974年・昭和49年)

テレビ・映画・・・「勝海舟」「アルプスの少女ハイジ」「宇宙戦艦ヤマト」「グレートマジンガ―」「一休さん」(略)

世相・事件・・・公害反省・不況・倒産・自己中心・暴走族・泳げタイ焼きくん・倒産・不況(略)

 

福田赳夫(1976年・昭和51年)

テレビ・映画・・・「キャンデイキャンデイ」「少年徳川家康の少年時代」「赤い

シリーズ」(略)

世相・事件・・・政治不信・ロッキード事件・灰色高官・ジョギングブーム・落ちこぼれ・窓際族・学歴社会・少中学生の自殺(略)

 

大平正夫(1978年・昭和53年)

テレビ・映画・・・「黄金の日々」「銀河鉄道999」「新エースを狙え!」「熱中時代」「夕陽が丘の総理大臣」「ハイカラさんが通る」「3年B組金八先生」「ド根性カエル」など(略)

世相・事件・・・家庭内暴力・サラ金地獄・ディスコブーム・郊外レストラン盛況・新しがり・ダサイ・ナウイ・ワンパターン・インベーダー・中年男性と若い女性・テニスブーム(略)

 

鈴木善幸(1980年・昭和55年)

テレビ・映画・・・「獅子の時代」「明日のジョー」「おれたちひょうきん族」「メゾン一刻」(略)

世相・事件・・・クレーマー世代・校内暴力・家庭内暴力・漫才ブーム・目立ちたがり・IT産業・メイド喫茶(略)

 

伊東正義(1981年・昭和56年)

テレビ・映画・・・「おんな太閤記」「うる星やつら」「Drスランプ」「夢千代日記」「北の国から」「六神合体ゴットマーズ」(略)

世相・事件・・・群がり世代・校内暴力・PC犯罪・宅急便・ぶりっこ・時代の転換期〈略〉

 

中曽根康弘(1982年・昭和57年)

テレビ・映画・・・「鎌田行進曲」「積み木くずし」「科学要塞マクロス」「陽当たり良好」「徳川家康」「欽ドコ」「金曜日の妻たちへ」「プラレス3四郎」「キャッツアイ」「スクールウオーズ」「宇宙皇子」「宮本武蔵」「真田太平記」「タッチ」「ゲゲゲの鬼太郎」「ウインダリア」(略)

世相・事件・・・パソコン世代・ロリコン・ネクラ・ネアカ・引き締めと抵抗・若者喫茶店離れ・軽薄短小・女性雑誌続々創刊・全国で校内暴力多発・おしん始まる・中流思考・働く主婦半数以上・中高年女性の麻薬汚染・一人暮らし老人100万人突破・小中学でいじめ流行・やらせ・パフォーマンス・ファミコンブーム・新人類時代・反原発運動・プッツン・都心地価高騰・三原山爆発・バブル世代・世界株大暴落・国鉄民営化・花キン・朝シャン・個性重視(略)

 

 佐藤、中曽根内閣の政権が長期にわたっていますので、その間の記録がかなり多くな

ってしまいましたが、その間に成立した内閣は、ほとんど第一次オイルショック・第二

次オイルショックの影響のために、目まぐるしく変化していかざるを得ませんでした。

そうした時代の空気はさまざまな形で映画やテレビ番組に反映させた作品が現れたはず

です。私の書いたアニメーション作品も、こうした時代の若い人々の心理的な世界を反

映させていたことは間違いありません。1970年から1980年代の10年間は、忘

れることはできない興味深い時代です。

 

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