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告知と放談の部屋☆ 放62「どうするメインライター!!」 [テレビ]

 

東京六本木の海員ビル大広間で、関係者の顔合わせと打ち合わせが行なわれましたが、思いがけないことで険しい雰囲気になってしまいました。その解決策を何とか考えて出して欲しいという東京ムービーからの要請があったのですが、いつまでも時間をかけているわけにもいきません。番組を提供してくれることになっているバンダイの気持ちを考慮して、何とか解決策を考えなくてはなりません。

苦しい予算でアニメーションを制作しなければならないスタッフは、バンダイという玩具制作の大手である会社の支援を、諦めるわけにはいきません。会社の経済的な事情についてはほとんど私には関係のないことですが、この頃東京ムービーはかなり困難な状態にあったようです。兎に角番組が制作できなくなりそうな空気のまま解散になってしまいましたので、それは一刻も早く修復しなければなりません。

しかし・・・本橋秀之氏が気にしたロボットというのは、確かにフォルムは武骨なものでした。その中心となる「ガイヤー」ももちろんですが、六体のロボットの胴体となる「スフィンクス」、右腕になる「ウラヌス」、左腕になる「タイタン」、右足にあたる「シン」、左足の「ラー」というロボットを制作することにしているのです。この六体の神は合体して、圧倒的な力を持った「ゴッドマーズ」となって、地球を狙う魔王と戦うことになるのです。

                                                「ゴットマーズ・ガイヤー」1.jpg 「ゴッドマーズ・超合金」1.jpg

 

 

 

バンダイにとってはフォルムがスマートかどうかということとはまったく問題外のことで、六体のロボットを合体させて遊ぶ子供たちの興味を、如何にして惹きつけさせられるかが目的であるはずです。それを否定するような発言があったので、たちまち空気は険しくなってしまったのは当然です。バインダイにとっては新しいロボットの開発で、秋からの商戦に挑もうというところだったのです。しかし番組の制作直前で、スポンサーの期待と、制作側の希望にはかなり大きな乖離が生まれてしまったのです。スポンサーはすでに予定したフォルムのロボットで木型を組むところまで作業が進んでいて、今から変更は一切できない状態です。それではアニメーターから飛び出した格好よく動かすという要求には応えられないという返答です。「そんなに嫌なら、番組の提供は止める」という大変な宣言をされてしまうのです。何としても番組を決めなくてはならない営業担当は、なんとか険しくなってしまった空気を鎮めるように、兎に角今問題として出てきたことは、改めて考えますからということでその日の打ち合わせは終わることにしたのでした。兎に角バンダイが退席したところで、解決策を考えて欲しいということが、メインライターの責務として委ねられたのでした。

 

 その日の夜私が考え出した問題の打開案はこうでした。

 

 兎に角バンダイにも都合がいいように、制作するスタッフにも少しは気持ちが晴れるようにという状況を考えた結果、番組の20分間はストーリィが展開できるように、残った5分は思いきりロボットが活躍できるような場にしたのです。これは私にとっても大変話の展開が楽になる形です。恐らくこれでもバンダイにはまだ不満が残るとは思うのですが、何とかこれで番組が制作できるようになったのでした。まだ二十歳前後の若いスタッフにとっては、みなガンダムというスマートなロボットアクションを見せる人気番組を見ていましたので、どうしてもそれと比較して我慢できなくなってしまったのだろうと思いましたが、商戦中心のスポンサーもかなり我慢して下さったに違いありません。しかし兎に角これで番組の制作に入ることができるようになったのでした。

 

 目標は1981年10月2日の放送開始に間に合わせるためには、兎に角スムースに作業を進めなくてはなりません。番組として活動するためには、まだいろいろと詰めなくてはならないことがいろいろありました。「マーズ」という名称はすでにさまざまなことで商標登録されていてテレビでは使用できないために、あれこれと考えた結果「六神合体ゴットマーズ」ということに落ち着き、私と一緒に脚本を書いて貰う脚本家にベテランの城山昇氏、若手の田口成光氏に書いてもらうことになりました。

 

 そこで私はシリーズ物を書く時の慣例によって、各作家への手配を間違いなく手配して貰えるように、これから番組がどんな方向に向けて脚本が書かれていく予定にしているのかということを、文芸部と作家たちが共に承知してらうように、シリーズ構成表を書いて、それぞれが同じ方向に向かって話を進めていけるようにしたのです。

 

 文芸部のO氏と共に話の進行について協議しながら始めたのですが、どの番組を始める時には同じように、あれこれと計算違いがあってそれらを訂正しながら進めなくてはなりません。

                                       「ゴッドマーズ」1.jpg 「ゴットマーズ・構成表」1.jpg

 

 

 

               「ゴットマーズ1・台本」1.jpg 「ゴットマーズ11・AR台本」1.jpg 「ゴットマーズ2・台本」1.jpg 

 

 

 

 

 

 

 番組のストーリー展開についても、ロボットの活躍シーンの描き方を巡ってあれこれと修正しなくてはならなくなり、作画上の訂正もあって、二回目のタイトルは台本とは大分違ったタイトルになってしまいました。

 

この頃は玩具もこれまでと違ったものが喜ばれるようになってきていて、すでに「マジンガーZ」で巨大ロボットを開発していましたが、すでにバンダイはそうしたものから子供が飽きないような工夫をしてきたのです。時代が刻々とこれまでとは違ったものの登場を求めてきているのでしょう。つまり遊ぶ者に工夫して遊ぶ楽しみを生み出せるようなことを生み出したのです。今回はガイヤーという本体に集合することで偉大な神ゴットマーズに変身するのです。やはりそれには、それなりに物語が伴わなくては、伴組としては失敗してしまいます。ロボットの処理は制作スタッフにお任せして、私は物語の構成に勢力を注ぐようになったのでした。急ピッチで「六神合体ゴットマーズ」は、番組のスタートが切れる状況に達したのでした。

 

この頃は東映動画のテレビ版「新竹取物語1000年女王」はテレビ放送と同時に映画版の準備をするようになっていたのですが、これからしばらくはお話の都合上、暫く「ゴットマーズ」の展開についてのお話をしてからの方が、お話を混乱させないで済むと思いますのでご承知下さい。兎に角私にとっても、さまざまな仕事をこなしながら処理していかなくてはない大変な時代だったのです。

 


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アニメと音楽の部屋☆ ア40「GM問題発生!」 [テレビ]

 

兎に角1981年という年はさまざまことが仕事とかかわりながら起こり、その解決に振り回されたりしてしまってまいりましたが、それだけ忙しい状態であったということは作家として有難いことであったように思います。手塚先生との和解をなし遂げてほっとしたところですが、東京ムービー(現TMS)ですが、「鉄人28号」の仕事で作業をしたスタッフが今度は、同じ横山光輝氏の「マーズ」という作品をテレビ化したいので、協力して欲しいという話が飛び込んでいたのです。出版されている数冊のコミック本を持ってきたプロデウサーA氏と文芸担当のO氏は、それを読んでどんな構成になるかを考えて、企画書にして欲しいという依頼を受けました。

                                 「マーズ・事前打ち合わせ」1.jpg 「マーズ・原作」1.jpg 「マーズ企画案」1.jpg

  

もうこの頃「1000年女王」の映画化については、すでに松本氏との大雑把な構想を聞きましたので、暫くはプロデウサーのY氏とその展開についての打ち合わせをつづけることにしていましたが、原作者は忙し過ぎることから次の作業についての素材が直ぐに出てくることはありませんから、その間に「マーズ」の作業を進めて企画書をまとめて何度か東京ムービーで打ち合わせをした上で、一か月後に六本木の海員ビルの大広間で、スポンサーのバンダイから担当の村上克司氏をはじめ原作者の横山光輝氏、営業担当の片山哲生氏、プロデユウサーの赤川茂氏、文芸担当小野田博之氏、アニメーターの本橋秀之氏、メカニックデザインの亀垣一氏、監督の今沢哲男氏という、スタッフのオールスターが揃ったのでした。はじめての企画打ち合わせから、その日の打ち合わせの記録まで、スケジュウル表にきちんと記録されているのです。

                                                          「マーズ・横山氏と対面」1.jpg

 

 私は一同が揃い始めたところで、横山氏とはじめて対面したのですが、この時が「六神合体ゴットマーズ」の始まりということになるような気になります。そこでこれからしばらくは、「ゴットマーズ」の最終回までの、ほぼ二年間のお話を大雑把にまとめて書くことにさせて頂きます。

 会員ビルでの打ち合わせで、はじめて横山光輝先生とはじめて対面することになったのですが、前回の「鉄人28号」の時にはまったくお会いする機会がなかったので、その日がはじめての対面でしたが、もうすでに私の大雑把なストーリー展開が印刷されて届けてありましたので、横山先生はそれを読んでいらっしゃったのでしょう。ご挨拶を終えると直ぐに今回のシリーズについて話しかけて下さいました。

 「兎に角今回の作品は大分前に書かれたものですから、今回は藤川さんの思うように変えて下さって結構ですので、よろしくお願いいたします」

 大変丁重に原作をいじってくれてもかまわないという許可をしてくれたのです。

 私にとってそれは仕事はじめに大変有難いことでした。

 確かに「マーズ」という作品は1976年から1977年にかけて書かれたものですから、今から5年ぐらい前の作品ですが、もうこの頃の時代は、さまざまなことで変革を求めて動き出していたところです。私と同世代の・・・しかもほとんど誕生日も同じようなかんけいでありましたので、いろいろなことに対する感性もどこか共通するところがありましたので、私の提出した構成を読んで、この際私に任せて、新しい作品として生まれ変わらせてみようと考えて下さったのかもしれません。大変いい雰囲気のまま会議に入ったのですが、タイトルがさまざまな制約があって「六神合体ゴットマーズ」と決まったことが報告されました。そしていよいよ番組内容に入ったのですが、ここでアニメーターの本橋氏から爆弾宣言が跳び出してしまったのでした。

 「こんなロボットでは、まったく動かしようがありません」

 すでに渡されているロボットのデッサンを渡されていた彼は、それについて忌憚のない感想を述べたのですが、バンダイの村上氏ははじめのうちは、彼の訴える理屈を笑って聞いていましたが、今はすっかり若者の人気を独占している「機動戦士ガンダム」を引き合いに出して、六体のロボットが合体するロボットは、「ガンダム」でモビルスーツと呼ばれる兵器として活躍するそれとは、比較にならないほどの武骨なデザインです。しかし番組を提供することになっている玩具制作会社のバンダイは、若いアニメーターの指摘するようなことはまったく考えてもいないのです。秋の商戦に備えて子供のために新しいロボットの楽しみ方を提案するつもりで、新しいロボットを開発してきたのです。本橋氏はそういったバンダイの思惑とはまったく違った視点で批判をしてしまったのでした。年齢差もあってはじめは笑って受け止めていた村上氏も、ついに我慢ができなくなってしまったのでしょう。

 「これでやれないであれば、スポンサーは降りる!」

 激しい言葉で応じてきたのでした。

 対立の原点となったのは、このロボットでした。

 確かにロボっとしては武骨で、人気のガンダムがスマートなデザインで活動するロボットとは比較になりません。和解アニメーターとしては、活動するロボットをスマートに描きたかったのでしょう。商戦に賭けている村上氏の思惑とはまったく相容れません。

このままやらなければ番組の提供は止めると宣言されて、慌ててしまったのは営業担当の片川氏です。その日は何とか大事にしないでことを収めると、会議は険しい雰囲気を残したままになってしまったのでした。

 「何とか穏便に済ませるような形を考えてくれませんか」

 営業担当、制作担当は、苦渋に満ちた様子で訴えてきました。

 実はこの頃東京ムービーには財政的な問題を抱えていて、その助っ人として藤岡豊氏が社長としてはいってきていたのですが、彼は現在日本で行っているアニメづくりには興味がなく、日本にいて指揮を執るというよりはアメリカへ行って独自の作品作りを始めていたのです。社長が日本のアニメーションには無関心とはいっても、兎に角会社を維持していかなくてはなりません。「マーズ」の企画は何としても成功させなくてはならなかったのです。私にとってもスポンサーの許可が出なければ、仕事を失いかねませんが、あのロボットを活かした形で話が組み込めるような形で考え直すことができないと、ただのロボットが動くだけの話になってしまいます。物語の展開に責任を持つ作家としては、ただロボットが動きまわっているという番組にはしたくありません。しかしロボットの形が変更できないという条件を考えると、それを活かしながら物語がある程度視聴者が夢見る世界を描ける設定にしなくてはなりません。兎に角この苦境を妥協するための方策を生み出さなくてはなりませんでした。


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告知と放談の部屋☆ 放61「いろいろな人の協力で・・・」 [テレビ]

                                                          「鉄人28号・アトム同日打ち合わせ」1.jpg

 

 記録によると・・・これは一年前の1980年6月20日に、「鉄人28号」の打ち合わせが行なわれているのですが、なぜかその同じ日の夜に、「新鉄腕アトム」の打ち合わせが行なわれているのです。通常は番組の打ち合わせといえば、昼間のいい時間に行われるはずですが、なぜかこの日「新鉄腕アトム」は夜に打ち合わせを行っているのです。

 なぜ・・・?

 実はその日の昼間のことですが、新しく始まる番組の打ち合わせをしている時に、「新鉄腕アトム」のメインライターに私を決定して、手塚治虫先生に報告したところ、私の参加に拒否という返答があったというのです。それまで私の承諾もあって番組の進行についての協議をしていた一同・・・つまり日本テレビ、原作権を持つ手塚プロ、制作を担当する手塚プロダクションの担当者は、予想もしない手塚先生の返答にびっくりして、急遽、どうすればいいのかと協議をすることになった時の記録です。

 私にはなぜかそのことについての連絡はありませんでしたので、ある日からほとんど番組についての連絡がなくなってしまったのですが、制作現場で何か起こったのだろうと推測して、いちいちどうなっているのかというようなことを、担当プロデユウサーに電話を掛けることもせずにいました。兎に角「鉄人28号」の脚本を執筆したり、他の番組の話を書いたりしていたのです。しかしそれにしてもかなり熱心に番組への参加を依頼してきたのに、それから三か月もたつというのに何も連絡してこないのは普通ではありません。そこでこれまで執筆の依頼をしてきながら、その後何の連絡もこないでいる日本テレビのTプロデユウサーに電話を入れることになったのです

 すでに番組は1980年10月1日にスタートしてしまっていたのです。ここまでくれば私は番組から外されたということは承知していました。しかしなぜそんなことになったのかということを確認したのです。ところが私になんの連絡がなくなった間は、関係者は何とか手塚先生の私についての誤解を解こうと必死で努力してくれていたというのです。それでも先生はどうしても納得してくれないというのです。どうやらその原因は、かつて手塚先生が設立した「虫プロ」が倒産してしまうことになってしまったこととかかわっていたのでした。その張本人であったのが、あの「宇宙戦艦ヤマト」を大爆発させることになった、西崎義展氏だったのですから怒るのも当然でしょう。その時T氏から聞いたことは、私が西崎氏と出会うようになってから次第に彼が変質していくのに合わせて、はっきりとしていった事実であったり、不明なままであった謎であったりしていたものであったり、その後出会わなくなってからはっきりとしてきたことなどでした。

 かつて私が「サンダーマスク」という番組の打ち合わせをしている最中に、突然訪ねて来て話を聞いてくれといって訪ねて来た時、彼は虫プロを退社した後だったといっていましたが、どうもその時のこととがいろいろと関係があったようです。西崎氏は一緒に虫プロに勤めていたYという男性と共に、かなり虫プロにとって打撃になるようなことを起こしたことが原因で退社したということが判ったのです。そのために彼は日本を脱出してフランスへ逃避してしまったといいます。それから間もなく虫プロ倒産という事態に至っていたということでしたが、それから数年経過して騒ぎのほとぼりが冷めたところを見定めて帰国すると、虫プロ時代の同僚であったH氏がプロデユウスしている番組の打ち合わせをしている機会を利用して、脚本を担当していた私に逢いに来たということでやってきたのです。西崎氏ははじめ特撮番組を作りたいといって言っていたのですが、わたしの協力で番組が行なわれるところまでいったというのですが、何が原因であったのか判りませんが、スポンサーとの交渉が不調ということになってしまうのです。西崎氏はそこで突然方向を変えてアニメーション番組を制作したいといいはじめ、協力を求めてきました。その手始めが、手塚治虫先生の「ワンサくん」というキャラクターを使った作品のテレビ作品化でした。ところがそれについても後年判ったことですが、それも「虫プロ」倒産に関係があったらしいのですが、その背景については伝聞意外に詳しくは判りません。今回の「新鉄腕アトムへの藤川桂介の参加拒否事件」の背景には、それらのさまざまな問題が絡み合っていたということがはっきりとしてきました。

私はそれまでの経過についてはまったく判らないまま、西崎氏と付き合いを始め、やがて「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒットに至ったという訳なのです。手塚先生にとってはどうしても許せない西崎義展氏と一緒に仕事をしてきた者などとは、自分の原作にかかわっては欲しくないと思われたに違いありません。

 すでに番組は始まってしまっているというのに、一向に手塚先生の意向は変わりようがありません。依然としてかたくなに藤川を拒否つづけるのですが、番組にかかわる主要な人々は、私の事情を理解してくれていましたので、我慢強く私についての誤解を解くようにと説得をつづけてくれていたのです。年も越えて1981年になって、私が「虫プロ」倒産にはまったく関係はなく、事件については何も知らずに付き合ってきたのだということを、ようやく受け入れて下さった先生は、ようやくその年の5月1日高田馬場で対面するということになったのでした。

私は東映動画の「1000年女王」の映画化に向けた打ち合わせを重ねている最中でしたし、東京ムービー(現TMS)の「マーズ」の企画が持ち込まれていたところでしたが、兎に角悪化した手塚治虫先生との関係を修復しておく必要はありそうです。

                                                                   「手塚氏と和解」1.jpg

 

 

 

 スケジュウル表で手塚治虫氏と食事と書かれていますが、それはまさにこの時の記録です。手塚先生のマネージャーで、手塚プロの社長であったM氏の仲立ちで、ようやく先生と対面を果たしたのでした。

 

 兎に角私はどんな思いで青少年に向けたテレビの番組作りをしてきたのかという、作家としての姿勢についてお話しましたし、西崎氏の生き方について同調するものでもないと説明した上で、最近の彼について疑問に思うことが多くなったということから、すでに次の「ヤマトⅢ」の作業からは退いてしまっているということを真摯に説明いたしました。それで私の誠意は何とか先生に通じたのでしょうか、二時間余りの対話と食事の間に、先生のわだかまりは氷解できたように思います。手塚先生は最後に、「今度私と一緒に仕事をして下さい」と、優しい言葉をかけて下さって、その日の劇的な対面を終えて、また仕事場へ戻られたのでした。それをきっかけにして、今度は直ぐに脚本を執筆して貰おうということになるのですが、もうその頃はすでに番組の制作は終了間近に差しかかっていたのです。番私の最初で最後の作品となった台本は、私の手元には保存されていないのですが、「新鉄腕アトム」組は12月23日に終了してしまうのでした。それにしても手塚先生の誤解を解いてもらうために、私をかばいつづけて下さった皆様には感謝のしようもありませんでした。

 

   

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告知と放談の部屋☆ 告5「ブログ連続更新のお知らせです」 [テレビ]

                                                          「素材・原稿執筆中」1.jpg

  

          「ブログ連続更新のお知らせです」

 

秋も深まってきましたが、年末を前にして少しでも身辺整理をしようと決心して、これまでの仕事で積み重なってきた保存用の資料を、そろそろ整理しておく時かなと思ったところです。10月に入ってからせっせと作業を進めてきましたが、いささか膨大な数になっていたので、この際思いきって処理をしている最中です。しかしまだもう暫く時間がかかりそうなので、1月25日(日曜日)の更新と11月1日(日曜日)のブログの更新を一緒にさせて頂くことにいたしました。

兎に角長年蓄積していた保存資料の中で不要と思われるものを選択しながらの整理なので、いささか時間がかかります。思い切って整理することにしているのですが、決断を鈍らせるものもあるので困ります。

勝手な判断をいたしましたが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

                                藤川桂介


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アニメと音楽の部屋☆ ア39「1000年女王テレビから映画へ」 [テレビ]

 

私は1979年の「ヤマトⅢ」問題で西崎氏と決別を決心し始めた頃、「銀河鉄道999」「エースを狙え!」という新たな転身のための企画が持ち込まれ始めたのですが、その頃永井豪氏からテレビ番組の企画依頼が飛び込んできたのです。じんプロダクションの池田公男氏という人から特撮作品を作りたいという相談があったそうで、永井氏は特撮番組の経験者であった私に、その企画を依頼してくれたのでした。そこで私は、かねてからいつか特撮を書く素材にしようと考えていた、日本の古典である「竹取物語」を提案したのですが、お陰様で池田氏も永井氏もそれに乗ってくれて、早速企画を煮詰めて制作の準備に入ることになったのでした。ところがそれから半年ほどして、1980年を迎えることになるのですが、何とその1月から松本零士氏もサンケイ新聞で「新竹取物語1000年女王」新聞連載を始めたのでした。ところがそのことについてはまったく気がつきませんでした。私は人形を使った特撮ということで、これまでの脚本の書き方では制作の条件に合いませんから、監督の三上陸男氏から出る注文に応えていかなくてはならないので必死だったのです。とても他のところで行なわれている作業については関心が持てませんでした。松本氏の作業にはまったく気がつかないでいたのです。ところが東映動画は「銀河鉄道999」の後半あたりから、サンケイ新聞に連載中の作品であったその「新竹取物語1000年女王」を、次のテレビシリーズとして決定すると、その脚本家として私を指名してきたのでした。

 内容は別として、そのタイトルを聞かされた時にはちょっとびっくりしました。同じような頃に松本氏も同じようなものを書こうとし始めたのだなと思いましたが、そのテレビシリーズの打ち合わせのために、プロデユウサーと一緒に松本邸へ行って、彼からその構想を聞きましたが、その内容はすでに制作を進めている「Xボンバー」とはまったく違います。しかもこちらが人形特撮作品であるのに対して、今回の企画はアニメーションですから、ジャンルでぶつかることはないということが判ってほっとしたものです。

新番組のスタート台本は至急仕上げなくてはなりません。アニメーションの場合は、制作に時間がかかりますから、かなり前に台本を用意して制作に掛からないと、放送に間に合わなくなってしまいます。すでに一年前に新聞連載は始まっているのですが、アニメーション化をすると同時にその原作数が放送維持を可能にするほど保存されているのか心配になりますが、「銀河鉄道999」の後半に差し掛かった頃から依頼されて「1000年女王」のテレビ化に向けた準備に入って、直ちに原稿を書き始めたのでした。

私は兎に角第一話、第二話を書いて制作に回すことになったのでした。

                                      「1000女王テレビ1」1.jpg  「新竹取物語1000年女王・テレビ台本2」1.jpg

 

 

 

 


「Xボンバー」が放送されることになった10月になって、「新竹取物語1000年女王」の連載がようやくたまったというので、脚本を書く状態になりましたが、それから暫くして人気を博してきた「銀河鉄道999」は、さまざまな思い出を残しながら1981年3月26日に終了したのでした。そして4月17日からは新番組の「新竹取物語1000年女王」がスタートすることになったのでした。


 私もかなり厳しい脚本の執筆スケジュウルをこなさなくてはならなくなってしまいましたが、原作者である松本零士氏は想像できない多忙さに見舞われていることでしょう。テレビ化に当っては、少なくともその設定にかかわるものについては、すべて松本氏が書いてアニメーションの現場へ渡してもらわなくてはなりません。それが滞るとすべての作業が滞ってしまうことになってしまうからです。


 私は兎に角多忙であっても、絶対にその依頼者には迷惑を掛けないという志でいましたから、犠牲にするのは家庭奉仕ということであったかもしれません。人気作家になると、とても想像の出来ないようなスケジュウルを、こなさなくてはならなくなるであろうということは、仕事の手配を人任せにできないという松本氏の性格もあって、大変な状態になるだろうと推察していましたが、そのしわ寄せがやがて私に降りかかってくるとまでは考えていませんでした。


 「宇宙戦艦ヤマト」を始めた頃の松本零士氏は、マイナーな戦記物作家であったはずなのですが、「宇宙戦艦ヤマト」のシリーズが作りつづけられるようになると、その中心的なスタッフとして活躍することになって、その知名度は日増しに高まって、今や押しも押されもしない人気作家となってしまったのでした。その後その作業に対して勲二等綬章をはじめとしてさまざまな賞を受賞する評価もあって、ただの人気作家ではない社会的な評価を得てその地位を確立してしまったのでした。


それを機会にして大変わりしたのは何と言ってもその仕事の広がりではないでしょうか。


 新番組としての「新竹取物語1000年女王」は、急ピッチで制作されて、1981年4月17日の放送開始に向けたアピールのために、「宇宙戦艦ヤマト」を担当したニッポン放送が、今回もオールナイトのイベントを企画しました。リーダーはこれまで通り、ドン・上野氏です。「Xボンバー」が放送されることになった10月になって、「新竹取物語1000年女王」の連載がようやくたまったというので、脚本を書く状態になりましたが、それから暫くして人気を博してきた「銀河鉄道999」は、さまざまな思い出を残しながら1981年3月26日に終了したのでした。そして4月17日からは新番組の「新竹取物語1000年女王」がスタートすることになったのでした。


 私もかなり厳しい脚本の執筆スケジュウルをこなさなくてはならなくなってしまいましたが、原作者である松本零士氏は想像できない多忙さに見舞われていることでしょう。テレビ化に当っては、少なくともその設定にかかわるものについては、すべて松本氏が書いてアニメーションの現場へ渡してもらわなくてはなりません。それが滞るとすべての作業が滞ってしまうことになってしまうからです。


 私は兎に角多忙であっても、絶対にその依頼者には迷惑を掛けないという志でいましたから、犠牲にするのは家庭奉仕ということであったかもしれません。人気作家になると、とても想像の出来ないようなスケジュウルを、こなさなくてはならなくなるであろうということは、仕事の手配を人任せにできないという松本氏の性格もあって、大変な状態になるだろうと推察していましたが、そのしわ寄せがやがて私に降りかかってくるとまでは考えていませんでした。


 「宇宙戦艦ヤマト」を始めた頃の松本零士氏は、マイナーな戦記物作家であったはずなのですが、「宇宙戦艦ヤマト」のシリーズが作りつづけられるようになると、その中心的なスタッフとして活躍することになって、その知名度は日増しに高まって、今や押しも押されもしない人気作家となってしまったのでした。その後その作業に対して勲二等綬章をはじめとしてさまざまな賞を受賞する評価もあって、ただの人気作家ではない社会的な評価を得てその地位を確立してしまったのでした。


それを機会にして大変わりしたのは何と言ってもその仕事の広がりではないでしょうか。


 新番組としての「新竹取物語1000年女王」は、急ピッチで制作されて、1981年4月17日の放送開始に向けたアピールのために、「宇宙戦艦ヤマト」を担当したニッポン放送が、今回もオールナイトのイベントを企画しました。リーダーはこれまで通り、ドン・上野氏です。

                        「1000年女王・オールナイト構成」1.jpg 「1000年女王・オールナイト決定稿」1.jpg

 テレビ放送の始まる前日、華々しく前夜祭が開かれました。

 

ファンの激増はそのまま営業の世界にも広がっていくのが当然で、そのままさまざまな仕事の依頼が殺到するのですが、松本零士氏にはそうしたことを事前に裁いてくれるマネージャーという者が存在していません。すべて本人が直接面談して決めていきますので、そのほとんどの場合それに対する拒否はありませんでしたから、とにかく頼まれればすべて引き受けることになります。これではやることが増えていくのは当然で、そのためにすべての作業の進行が遅れていくことになってしまうのです。

 時代の寵児となった松本零士氏はその時かかわっているものだけでも、新聞連載。テレビの番組の設定。まだ制作している「宇宙戦艦ヤマト」の設定。それらに関係するグッズのデザインなどということを上げるがけでも、とても常識的な受け止め方はできません。担当する責任者は、みな松本氏から必要なデーターを手に入れることで右往左往しなくてはなりません。私は「宇宙戦艦ヤマト」以来一緒に仕事をする機会があったことから、彼の身辺に起こる変化は、いいこと困ること、さまざまな場で見届けることになったのでした。兎に角かねてからの彼との関係を活かそうということになったのでしょう。プロデウサーは私を同行して松本邸へ出かけることになりましたが、さまざまな仕事の現場から松本氏の仕事が遅れてはかどらないという苦情が飛び込んでくるようになってしまったのです。そして間もなくそのしわ寄せが、私にも降りかかってくることになったのでした。東映動画は早々と社長の指揮で「1000年女王」の映画化を決定すると、担当の横山氏も私もテレビと掛け持ちで受け持ってもらいたいということになってしまったのでした。

テレビ放送の始まる前日、華々しく前夜祭が開かれました。

ファンの激増はそのまま営業の世界にも広がっていくのが当然で、そのままさまざまな仕事の依頼が殺到するのですが、松本零士氏にはそうしたことを事前に裁いてくれるマネージャーという者が存在していません。すべて本人が直接面談して決めていきますので、そのほとんどの場合それに対する拒否はありませんでしたから、とにかく頼まれればすべて引き受けることになります。これではやることが増えていくのは当然で、そのためにすべての作業の進行が遅れていくことになってしまうのです。

 時代の寵児となった松本零士氏はその時かかわっているものだけでも、新聞連載。テレビの番組の設定。まだ制作している「宇宙戦艦ヤマト」の設定。それらに関係するグッズのデザインなどということを上げるがけでも、とても常識的な受け止め方はできません。担当する責任者は、みな松本氏から必要なデーターを手に入れることで右往左往しなくてはなりません。私は「宇宙戦艦ヤマト」以来一緒に仕事をする機会があったことから、彼の身辺に起こる変化は、いいこと困ること、さまざまな場で見届けることになったのでした。兎に角かねてからの彼との関係を活かそうということになったのでしょう。プロデウサーは私を同行して松本邸へ出かけることになりましたが、さまざまな仕事の現場から松本氏の仕事が遅れてはかどらないという苦情が飛び込んでくるようになってしまったのです。そして間もなくそのしわ寄せが、私にも降りかかってくることになったのでした。東映動画は早々と社長の指揮で「1000年女王」の映画化を決定すると、担当の横山氏も私もテレビと掛け持ちで受け持ってもらいたいということになってしまったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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言霊謎解きの部屋☆ 言24「ひとくち言霊」(晴れ着) [テレビ]

                                                                                                          「若菜イラスト」.JPG

 

 

                      「ひとくち言霊」(晴れ着)

 

 

 

 

晴天の日がめっきりと減って、梅雨の季節がやってきました。そんなわけでふと思い出したのが、今回のテーマです。


 普段使われている言葉で、意外にその原点が、思いもかけない、遠いと遠い昔にその原点があるなどということがありますが、今回は「晴れ着」というものを取り上げました。昨今はあまり使われないかもしれませんが、そうかと言って、まったく使われないかというと、決してそうではありません。ごく何事もなく使っていることがあるはずです。旧世代の方はほとんどご存知だと思いますが、改まった時に着る衣服のことを「晴れ着」と言っていました。「晴れがましい」などという言葉もあります。とにかく現代の人は使うかどうか判りませんが、通常とは違った状況を表現する時によく使われてきた言葉です。


ちょっと意味は違いますが、お出かけの時なども、かつては「よそいき」などと言って、日常とは違った雰囲気で、改まった衣服を身につけたものです。こんな中でも、ひと際意味があったのは、「晴れ着」というものでした。一体、これはどんな意味があったのでしょうか。実はその発祥は古代にあったのです。


 飛鳥時代などで朝廷の大事な儀式が行われる時は、多くの者が集まる必要から晴天の日が選ばれました。この頃よく使われたのが槻の木広場というところですが、現代のように大きな体育館があったわけではありませんから、大事な行事は晴れの日に限って行われたのです。そのために着ていく衣装が晴れ着だったのです。改まった気分になるのももっともですね。それに対して、ごく日常的な時に着る衣装のことを、褻(け)の衣(ころも)と言っておりました。つまり古代の人々は改まった日の晴れ着とごく日常的な褻の衣を使い分けていたのです。現代でも、入社式、入学、卒業式、結婚式、表彰式などなど、改まった気分で出席する時は、晴れ着になることが多いのではありませんか。

 最近は成人式などで晴れ着の着物を着て参列する人も沢山いましたね。「今日は晴れ着で行くわ」などということは言わなくても、同じような意味の衣装を着て行くのではないでしょうか。それらの原点は古代にあったということなどは、ほとんど忘れられているでしょうが、抵抗感なくその風習は引き継がれているのではないかとも思えるのですが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                 

 

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告知と放談の部屋☆ 放60「999原作がありません」 [テレビ]

  

1978年年914日に始まった松本零士原作「銀河鉄道999」も1981326日に113話で終了ということになったのですが、実はこの人気作品の終了間近になって、びっくりするようなことが起こりました。基本的に原作から話を引き出さしてテレビ化していたのですが、三年近く放送をつづけていると思わぬことが起こるものです。これは担当のプロデユウサーも気が付かないでいたようで、まだたっぷりと原作あると思っていたら、ここまできて気が付くと、脚本を書く手がかりとなる原作が使い切ってしまって、残された放送日を考えると、それにあてる作品がないということになったのです。

それに気が付いた横山賢二プロデュウサーから電話があり、事情を説明すると、兎に角

これまで松本氏が書いた作品で出版されているものの中から、999で使えそうな話があったら、それらを利用して話をまとめてくれないかというのです。いくということに兎に角番組の人気がつづくことになれば、原作者にとってはもちろんのこと、それのテレビ化にかかわっている脚本家にとっても安定して書きつづけられるということで、大変有難いことではあるのですが、その原点となる原作がなくなってしまっては困ります。東映動画ではそのために、急遽同じ作家の作品から利用できそうな作品を探し出して穴埋をして下さいということになったのです。

すでに次のシリーズとなるはずの企画の打ち合わせに参加している最中だった私は、急遽手がかりとなる松本作品を探し始めましたが、ようやくある作品を見つけて脚本化したのですが、果たしてどんな作品をヒントにして書いたのかが、今となっては見当が付きません。保存してある当時の台本を探してみたのですが、なぜかその台本の印刷されたものが見当たりません。1981年3月12日放送の「惑星こうもり」という作品が第111回放送のリストとして収録されているのですが、「999」で書いた脚本はすべて印刷されたものが保存されているのですが、なぜかこの台本だけがないのです。そこでこれまで発売されているDVDのリストを辿ってみることにしたのですが、その前の回の109話「メーテルの旅」(全編)110話「メーテルの旅」(後篇)を書いているのですが、なぜかその次の回に放送された「惑星こうもり」という作品の脚本が見つからないのです。恐らくこれが本来の999原作にはない作品なのは間違いありません。その後必死でその原因を追跡してみたところ或ることを発見いたしました。これはオンデマン作品として発売されているようです。つまり視聴者の希望によって制作された作品ですということになっていたので、本来の999台本として印刷されなかったのでしょう。

                                         「999テレビ109・メーテルの旅前編」1.jpg 「999テレビ110・メーテルの旅後編」1.jpg

 

この二本の後で「惑星こうもり」が放送になったのを機会に「銀河鉄道999」の仕事は終わったのですが、実はもうその頃私は次の作品の準備にかかっていたのですが、

「銀河鉄道999」の中にはいくつか思い出に残る作品がありました。その一つがスペシャルとして制作された長時間物で「君は母のごとく愛せるか」という作品です。

丁度あの頃新聞を賑わしていたのは、時代が様々に変化していく中で若者と年配者との気持ちのすれ違いが起こるということが度々あって、あり、新しい時代に生きようとする時代の風潮に揺さぶられていく人々の気持ちを思い浮かべながら、母の子供を思う大きな思いを書きました。私はただのファンタジーではないものを送り出したかったのです。

テレビについての脚本を書き終わると同時に、当時はやりであった映画を下敷きにしたノベライズ本を書きました。松本先生はこうしたもののイラストも描きますから、他の作業もなかなか順調という訳にはいきませんが、こうした作業ではやはり映画版ということで、いい出来のイラストが提供されたようです。

                                                     素材・「銀河鉄道999・映画版」1.jpg

 

 

これは朝日ソノラマ文庫から出版されましたが、兎に角いろいろと思い出すことが多いシリーズでしたが、その中でも忘れられない一作といえば、19781228日に放送された第16話の「蛍の街」という作品でした。これはアニメーションに憧れて、いつかその監督をしてみたいと思って貧困に耐えながら頑張っている少女の話だったのですが、当時の時代の雰囲気を重ね合わせて書きました。

                                    「999ホタルの街・台本」1.jpg 「999ホタルの街・雑誌表紙」1.jpg

 

「宇宙戦艦ヤマト」から始まったアニメーションに対する関心の高まりは若者たちの風潮として広がっていたこともあって、私の周辺にはいつかアニメーションの世界で働きたいという若者が沢山集まってきていほどで、アニメーション誌では「蛍の街」を表紙に取り上げたくらいです。しかし憧れの職場であるプロダクションは、どこも同じような状態で、現実はそれほどお勧めできる環境にはなっていなかったのです。悪口でいう3Kという環境が現実で、若者が憧れるほどいい環境ではありませんでした。現実に私のところへ出入りするスタッフも、みな生活ぎりぎりで時間から時間に追われる、せわしない生活をしていたのです。思わずそんな若者を誘って、大きな中華料理屋で食事を奢ってあげたりしたことがありました。そんな生活の環境は、現代であってもそんなに多く環境が改善されたとは思いませんが、自分の憧れる夢の世界で生きようとする人は、今でも少なくありません。「銀河鉄道999」が終了するのを待って、これまで放送に支障の起こらないように、必死で働いてきて来てくれたスタッフを慰労したいということから、プロデユウサーの横山氏は、今や人気作家の頂点に達している松本先生に交渉して、大型バスを契約してもらい一泊の旅行を実現したことがありました。もうその頃には、東映動画で次のシリーズが決まっていたということもあって、先生は提案を拒否することもできなかったのではないでしょうか。スタッフと同じバスに乗って、旅館の広間で行なわれた慰労会に加わったことがあったのでした。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド40「ロスで観光の数日」 [テレビ]

 

かなり長時間になりましたが、施設のさまざまな装置を見て歩き、噂のNASAというとろでの作業が、宇宙への手掛かりを生み出す原点であるということを実感したのでしたが、工場見学を終えたところで広大な敷地を見渡すと、そこには転々とこれまで実際に宇宙へ行った宇宙船、それを打ち上げたロケット、ここで開発された戦闘機などが展示してあって、それを見るだけでもわざわざ日本からアメリカまでやって来て見学できたことは貴重な体験になったと思いました。

 私と永井氏はその貴重な宇宙旅行を成し遂げてきた展示物の前で記念の写真を撮ることにいたしました。

                                                   「NASAで永井豪氏と」1.jpg

 

 私にとって間違いなく宇宙と地球を繋ぐ基地ともいえるNASAは、未来に夢を繋ぐと頃として心に収めてきましたが、それ以上に感動したのはそこへ来るまでの風景が、何と昔からよく見てきた西部劇の風景の舞台が、一瞬のうちにロスアンゼルスという現代の町から、一変してインディアンと政府軍が戦った、まさに西部劇の世界であった大小さまざまな山が連なる風景であったところが、そのまま現代でも広がっているのでびっくりしてしまいました。しかも・・・それが現代生活の華やかな文化を達成している街の背景に存在しているということが脅威でもありました。何世紀も前の西部の町をそのまま同じ地域に持っているのですから、その広大な風土やそうした文化的な遺産を維持しつづけているのを知って、何かアメリカの奥深いものを感じたものでした。

 表はハリウッドの映画産業を中心に、文化の中心地として政界から憧れられている街が広がっているのですが、その裏側には広大な西部劇を思わせる荒野が広がり、その奥に、超未来の科学基地であるNASAという未来を約束する基地があるのです。

 確かに日本とは違ったスケールを感じさせられたのでした。

 その日は今回の視察のお膳立てをして下さった方とも合流して、スピルバーグのお気に入りだというレストランで夕食を楽しみましたが、この頃私は歯槽膿漏であったこともあって、差し出された大きなステーキには噛み切れずに難渋してしまうというみっともないことになってしまったのでした。

 翌日からは息抜きに観光を楽しみましょうということになりました。

みな揃って蝋人形館を見学したり、それぞれ好きなように町を楽しんだりする日もあって私は書店でSF関係の図書を何冊か買ったりしました。中でも私にとってはびっくりすることがあったのは、皆でデズニーランドへ行こうということになったのですが、すでに永井豪氏が連絡してあったようで、デズニーランドのスタッフという若者たちに、「この人があの宇宙戦艦ヤマトを書いた藤川さんです」と紹介したので、彼等は狂喜して寄ってくると、如何にも自慢するようにパスケースに入れたヤマトの絵を見せながら、握手を求めて来たのでした。

「宇宙戦艦ヤマト」はアメリカでも若者を熱狂させていたようでした。

必死で書いてきたものの影響が、アメリカまで広がっているということを知って、大変嬉しい出会いになったのでした。

                                    「Xボンバー・デズニースタッフと」1.jpg 

                      「Xボンバー・ロス」1.jpg 「Xボンバー・チャイニーズ」1.jpg

 

また別の日には三上監督と二人で、かつてのロスの市場を露天の店を除きながら歩いたり、ハリウッドのチャイナタウンの映画街へ行ったりしました。

 兎に角アメリカのスケールを感じる数日間を過ごさせて頂いた記録でした。

 帰国後はまたせっせと脚本を書き、何度も修正稿をまとめるという作業をしながら、「銀河鉄道999」の脚本を書き、「新鉄人28号」を書くというという状態でした。

  「Xボンバー」の制作も進んでいきました。

 永井豪氏も人形のキャラクターはもちろんのこと、宇宙船をはじめメカニックなもののデザインを精力的にまとめながら、雑誌へのコミックとしての原稿をまとめていました。

 放送は1980年10月4日から、フジテレビで放送されるようになりましたが、

せめてその一端でもと思って披露いたします。

 「竹取物語」を下敷きにした宇宙を舞台にしたSF冒険活劇作品です。

                                   「XボンバーDVD・表」1.jpg 「XボンバーDVD・裏」1.jpg

                                 「Xボンバー・銀河シローとラミア」1.jpg  「Xボンバー・ジェネラル黒田とキララ」1.jpg

 

また別の日には三上監督と二人で、かつてのロスの市場を露天の店を除きながら歩いたり、ハリウッドのチャイナタウンの映画街へ行ったりしました。

 兎に角アメリカのスケールを感じる数日間を過ごさせて頂いた記録でした。

 帰国後はまたせっせと脚本を書き、何度も修正稿をまとめるという作業をしながら、「銀河鉄道999」の脚本を書き、「新鉄人28号」を書くというという状態でした。

  「Xボンバー」の制作も進んでいきました。

 永井豪氏も人形のキャラクターはもちろんのこと、宇宙船をはじめメカニックなもののデザインを精力的にまとめながら、雑誌へのコミックとしての原稿をまとめていました。

 放送は1980年10月4日から、フジテレビで放送されるようになりましたが、

せめてその一端でもと思って披露いたします。

 「竹取物語」を下敷きにした宇宙を舞台にしたSF冒険活劇作品です。

                                   「XボンバーDVD・表」1.jpg 「XボンバーDVD・裏」1.jpg

                           「Xボンバー・銀河シローとラミア」1.jpg 「Xボンバー・ジェネラル黒田とキララ」1.jpg

  機会がありましたら、是非DVDが発売されていますので、ご覧いただければ幸いです。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド39「Xボンバーの企画決まる」 [テレビ]

 

1980年という年は、実に様々な変化をもたらした年であったと思うのですが、本当はその前の年から始まっているのです。しかし正確には判らないのですが、1979年のスケジュール表を点検してみたところ、この年末近くに打ち合わせがつづいているのです。

                                                         「Xボンバー企画始まり」1.jpg

 

 「宇宙戦艦ヤマトⅢ」の制作のために、メインスタッフと共に、1980年1月1日からハワイで取材するために出発しているのですが、その前にまったく「宇宙戦艦ヤマト」とは違った作品の依頼があって、その企画について打ち合わせをしていたことが判ったのです。1979年の年末近くに、しきりに打ち合わせを積み重ねていたのが記録されています。それはじんプロを率いる池田公雄氏という方が、永井豪氏へ「特撮物がやりたいのだがという相談をしたのが始まりで、永井氏は直ぐに「特撮物」の経験者であった私に企画を考えて貰いたいという連絡をくれたのです。そんなことからスケジュール表には書かれていない打ち合わせが、1979年の中ほどから、永井氏、池田氏と赤坂あたりで対面して、正式に池田氏の要望を聞いて企画にかかったようです。私はかねてから特撮作品で書くことがあったら、是非やってみたいと思っていた日本の古典である「竹取物語」を、SF作品で制作してみたらという提案をしたのです。これには池田氏はもちろんのこと永井氏も大変乗り気になってくれましたので、どんな話になるかを早速書いてみることになったのでした。

作業としては1980年に入ってからが本格的なものになりましたが、兎に角「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」を最後に、「宇宙戦艦ヤマト」からは手を引いてこれまでと違った番組を手がけたいと思い始めていたところです。そんな思いにいち早く飛び込んできたのが、松本零士氏原作の「銀河鉄道999」の執筆依頼でした。更に時を置かずに入ってきたのがテニスを材料に青春時代の物語が展開する「エースを狙え!」の企画が持ち込まれたりしたのです。ところがそんなところへ、「マジンガーZ」以来大変信頼して下さってお付き合いをしていた永井豪氏から声がかかったのです。企画の依頼者池田氏は、それを人形でやりたいというのです。彼は「ゴジラ」の撮影にも参加していた三上陸男氏を、監督として起用するように友人から勧められていたようで、人形特撮の希望は本格的なものだということが判りました。制作するところは彼の率いるコスモプロダクションでということです。雑誌の連載は永井豪氏とダイナミックプロダクションです。企画は池田公男・藤川桂介の共同ということになりました。はじめに永井氏から話を貰った時には、アニメーションの企画をするのだろうと思っていたのですが、それが「特撮作品」を人形でやりたいという話だったので正直びっくりしました。しかしやがて三上氏と対面して、その制作現場となる武蔵村山にあるスタジオを見学しているうちに、これまで経験のない新鮮な作業にすっかり惹きつけられてやる気になってしまいました。これから仕事を受ける時には、「宇宙戦艦ヤマト」とはまったく違ったジャンルのものにしようと考えていたところだったのですが、人形劇でやろうということに興味が持てたことから、多少困難があっても挑戦しようという一同の意欲も生まれていました。何度かの打ち合わせも重ねながら、兎に角一話から三話までの話を決定稿にまでしていったのですが、細かい注文をするのに文句も言わずに応じてくれた私に感謝したと、三上氏は何かに書いていらっしゃいましたが、兎に角人形特撮についてはあれこれ言うほど知識がありませんでしたので、監督の指示を素直に受け止めていたのが正直なところです。何といっても人間が与えられた役を演ずるのとは違うのです。与えられた役を自分で工夫して演じるということにはなりませんから、脚本に書かれた指示に従って、監督が工夫して物言わぬ人形を人間並みに動かそうというのですから、とても通常の作業では纏められません。何度も修正を繰り返しながらやっとある目標に達したのでした。たまたま永井豪氏が親交のあるアメリカのクリントン大統領の要人がいらっしゃったことから、そのコネを使って、アメリカの宇宙開発の先導役を演じている注目のNASAへ行ってみないかということになったのです。

                                         「XボンバーⅠ-3決定稿」1.jpg 「Xボンバー・アメリカ取材」1.jpg 

 

この頃は正に宇宙への興味、関心の高まっている時で、その宇宙基地と地球を結んで行き来するスペースシャトルが、いつ飛ばせるようになるのかと、大変関心が集まっていたところです。NASAは私にとっても大変興味深いところでしたが、兎に角アメリカ本土へ渡るのははじめてです。NASAへの見学もOKとなり、旅行の手はずも池田氏が整えてくれました。池田公男、永井豪、永井泰孝、永井隆兄弟、三上陸男、藤川桂介というメンバーで、1980年5月13日から一週間の予定でアメリカへ向かったのでした。

 アメリカのロスアンゼルスの西部劇に出て来そうな郊外を自動車で飛ばして、NASAへ到着しましたが、丁度その日はスペースシャトルのエンジンテストを行うという大変緊張する日でした。

                  「NASA」1.jpg  「NASA取材スタッフ」1.jpg

 

出迎えてくれた所長の女性と工場の前で記念写真を撮り、やがて正午にシャトルの点火実験が行なわれるという、工場の一室にある所長の部屋へ案内されたのでした。

 そこには巨大なスピーカーがセットされていて、やがて地下で行なわれるシャトルのエンジンテストの様子が中継されてくるのを聞こうというのです。

一同は緊張して耳を澄ませて、地下から送られてくる実験の結果が送られてくる巨大なスピーカーを前にしていたのでした。

 号令と同時に点火スイッチが入って、間もなく地下からゆっくりと轟音が響いて大きくなっていったのでした。

 実験成功です。

 立ち会った一同は思わず大興奮となったのでした。

 いよいよ宇宙基地と地球を往復するスペースシャトルの、エンジン点火は成功したのです。まさに私たちは、あのシャトルの実験成功という記念の時に同席したのでした。

 その後所長は上機嫌で、さまざまな先端科学の武器を開発している工場見学のために案内をしてくれました。そこは写真を撮ることは禁じられていましたが、私はその中に一人しか乗れない小型の偵察機らしいものへ、こっそりシャッターを切ってしまいましたが・・・。その写真だけは公開できません。


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