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アニメと音楽の部 ア51「脚本家とコミック作家の関係」 [テレビ]

 

 時代の変化に伴った困難な問題が次々と持ち込まれる時に動画部長として動かなくてはなりませんでしたが、私は後輩の脚本家たちと会議を開いて、同じ悩みを抱える同志たちの生活を守るために、それぞれの立場に理解しながら協会の基本的な規約を守って貰う努力をしていくように働きかけていきました。幸い部会の会議に参加してくれる脚本家は、ベテラン、新人を問わずに、寺島あき子理事と私のやり抜こうとしている訴えに共感して、協力を約束してくれてさまざまな団体との協議について理解してくれました。そうした気分の盛り上がりを無視できないと思って、わたしは会議を終えた後には必ず協会近くの六本木の喫茶店へ移動して現在のそれぞれの環境について気さくに話してもらうように努めました。脚本家たちにたまっている不満のガス抜きをしようと心掛けていました。当時は私も多少稼げる作家になっていましたので、その日の費用はすべて自費で賄っていました。少しでも後輩のために負担を掛けずに貢献したいという思いからでした。しかし私自身の仕事の激務もありましたが、初代の部長を務めてくれた辻真先氏のように、かなり激しい時代の変化を長期間務めることは無理だと考えて、私が動画へ飛び込むきっかけとなった時から星山博之氏と共にいろいろと業界の知識を注入してくれた鈴木良武氏に、次の部長を託して交替いたしました。

それからもますますアニメーション脚本家の生活の周辺には、これまでとは違った立場の変化が訪れてきていました。その大きな問題は、脚本家とコミック作家の立場に大きな変化が起こって来ていたということです。テレビ番組のアニメーション番組が視聴者に喜ばれて、放送界でも無視できない人気を得るようになってくると、それまでアニメーション番組の進行に関して、かなり脚本家の立場が優遇される時代があったのですが、その立場に変化が起こり始めてきていたのです。既に何度か書いたように思うのですが、動画と呼ばれていた頃からアニメーションという現代的な表記で呼ばれるようになったこの頃ともなると、漫画家もコミック作家と呼ばれるようになってきていて、その立場を強いものにしてきていました。時代の進化というものは恐ろしいもので、それまでは紙の文化かラジオによる電波の文化しか存在しなかった世界に、テレビという分野が加わってきたことでそれまで紙の文化として存在するしかなかった漫画の世界は、テレビという映像文化を支える中心素材として存在するようになってきていたのです。

 当然ですがさまざまな分野からアニメーション番組の原作となるコミックが創作されるようになると、自然に業界における立場も強くなっていきます。そしてかつての動画界ではあまり存在感のなかった脚本家が、影像の世界ではやっと漫画家よりも優位な立場でいられるようになってきていたのも束の間で、時代が進むに従って再びテレビという新しい文化の発展で、コミック作家が原作者としての立場を強固にしていくようになっていきました。今ではコミック作家も自分の書いた作品を、勝手に脚本家にいじられたくないという気持があって、かなり厳しい姿勢でいることが多くなっていると聞いています。こうなってくると業界としては脚本家にばかり気を使ってばかりはいられなくなります。読者の激増によって原作者はもちろんのこと、そうしたコミック作家の作品を利用して商売をするさまざまな業種が増えていきます。そうなればアニメーション業界も、その気遣いは脚本家よりもコミック作家の方に傾いていってしまいます。脚本家の動画部会が原稿料のアップを訴えても、なかなか叶えられなくなってしまいます。動画部長はそのためにかなり努力しなくてなりませんが、先方の訴えもこれまでと同じで、兎に角番組の制作費が限られているので、脚本家だけに料金のアップはできないという返答が繰り返されてしまいます。つい最近協会から送られてきた作家の基本料金を見ても、当時とそれほど変わっていない状態を知りました。

私が動画部長を退く頃も放送界にも色々と変化が激しく起こってきていましたが、今はコロナ騒ぎに翻弄されてしまっています。アニメーションというサブカルチャーの浸透に従って、これまで文芸作品がテレビ化されることが多かったドラマ番組に、コミックの原作を使った作品が次々と制作されるようになってきましたが、アニメーションがさまざまな世界での中心的な存在になっていくのに従って、放送界では文芸作品には背を向けてコミックを原作とした作品を探して映像化することが多くなってきています。

こんな状態になってくると、それに伴って起こってくるのは印税ということでは原作者の権利主張が強くなっていきます。テレビ化されたアニメーション作品が商品として発売されるようになると、そこに新たな印税が派生しますが、これまでのように脚本家が権利として自然に受け取るということについてもかなり影響が出てきます。社会全般に経済が衰退したりするようなことが起こると、たちまち新人脚本家などに印税を放棄してくれれば仕事を発注するなどということで迫ってくる事業者も現れてきたりするようです。つまり制作会社もそれまで予算を出してくれていた放送局が、グッズなどの制作販売を独自にはじめて独占してしまって、制作会社が印税を見込んで番組を制作するようなことができなくなってしまうようになってきてしまったのです。脚本家もしっかりと実力を貯えておかないと業界では通用しなくなってします。

兎に角現在はコミック作家の絶頂期という時代がやって来ました。脚本家優位という時代はあっという間に過ぎ去ってしまいました。脚本家も原作者としての立場を尊重して、その原作を如何に活かしきりながら、独自の能力を発揮できるかを工夫しなくてはなりません。精一杯原作の魅力をよりよく発揮して、その作品の魅力を更に高揚できるように心がけたり、仮に弱点が感じられた時などはそれを排除できる工夫についての話し合いを排除してはいけません。私の親しい脚本家は、あるベテラン作家の作品の弱点を取り上げてそれを強引に自分流に変えてしまおうとしたために、原作者の怒りをかってしまって、結局番組から降ろされてしまいました。あまり馬鹿正直すぎて原作の欠陥を取り上げて、了解を得ないまま自己流で変えようとしたためです。兎に角原作者が魅力のポイントだというところがあったら、それを徹底的に生かしながら、弱点があったらそれについての話し合いをして了解を得乍ら改良の方法を工夫していかなくてはなりません。時代が変化していくうちに、人々の思考も変化していきますし、感性に関しても変化していきます。そのために原作を書く人も世代交代して時代を引っ張っていく人が変わっていきましたし、影像で力を発揮してきた脚本家にも世代交代だけでない時代の感性を発揮できなくてはなりません。お互いに能力を発揮し合って、素晴らしい作品が生まれてくるようにしたいものです。

現代の動画部長は、これまで以上にいろいろ考えなくてはならないだろうなと思って、ただただ激励するばかりです。

いよいよ時代の進化によって、ライフスタイルにも変化をもたらすようになってきたようです。これまでの意識改革もしなくてはなりません。「プラレス3四郎」はそのきっかけでしたが、つづいて変化の波は次第に高まっていきました。コミック作家と脚本家との関係についても、かなり工夫が必要な時代になってきたように思います。


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アニメと音楽の部屋☆ ア50「放作恊動画部長となる」 [テレビ]

 

私がドラマの世界から誘われて動画界へ飛び込むきっかけとなったのは、前にも書きましたが、「ムーミン」というデンマークの作家トーベヤンソンの書いた、童話のアニメーション化の企画が行なわれた頃のことでした。その時にはじめて動画脚本を書く私のところへやって来てくれたのが、虫プロダクションという漫画家の手塚治虫氏が作った動画制作をする会社で、脚本家を目指していた若手の作家であるS氏とH氏でした。

試し書きということで、「アンデルセン物語」の中にある「親指姫」の脚本を書いて下さいという依頼をしに来られたのです。しかしその話の中で、彼らから当時の動画界の様子を率直に聞かされたのです。まだとてもアニメーションなどというハイカラな名称は存在しないない時代のことです。彼らの話をまとめれば、率直にいうと脚本家という名の者が如何に評価の低い存在に置かれているということでした。兎に角長いこと漫画という紙文化の世界であった頃のことですから、動画の世界では紙の世界で存在する漫画家が中心で、ストーリーをまとめるのもそれを漫画として描くのも漫画家ですから、動画という映像として動く世界の作品とする場合も、兎に角彼らが中心で、その次の権力者といえば所謂演出家かその絵を動くようにするアニメーターが中心ということになります。まだこの時代では脚本家という立場の人の存在感はほとんどありません。お話の整理をするくらいが仕事であったのでしょう。そんなところへドラマの世界から動画の世界へ飛び込んでいったのが私でした。その時若手の脚本化を目指すS氏・H氏と出会って、その頃の位置づけについて実情を知らされた私は、兎に角脚本家という位置づけを高めたいと思うようになりました。「さすらいの太陽」という作品で原作者としての立場になることができた私は、じょじょに脚本家の位置づけを注目させていけるようになったと思っているのですが、1980年から2000年代へ差しかかると、所謂旧世代の生活風習の変化が進み始めると、脚本家にも変化が現れていったように思いました。紙の文化からテレビという電波に乗った世界が注目されるようになると、「マジンガーZ」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」「六神合体ゴットマーズ」「機動戦士ガンダム」というSFアクション番組が、人気を得て注目を浴びるようになり、それを進行するスタッフでも脚本家という立場の者の力は無視できない存在になっていきました。幸いにも脚本家の位置づけを向上させたいと思って努力してきた私は、それらのほとんどの作品のメインライターとして思う存分力を発揮して、脚本家としての存在感を認めて頂いたように思います。

所謂コミック作家たちからもかなり信頼されて、番組の進行を任されて下さるようになったのですが、そんなことのためにかなり脚本家としての立場も変化していったのですが、その間に時代の流もかなり激しく変わりつつありました。そんな中で特に目立ったことといえば、これまで生活の基本であった活字文化から映像文化の時代に変わっていく時代ですから、何かにつけて活字によって表現するよりも、絵画的な形で表現されることが進められてきましたし、そのために日常生活にもかなりこれまでとは違った習慣が生まれてきていました。当然ですがそれを歓迎する人と、戸惑いする人が入り混じっていったのです。

漫画といわれる世界もコミックという表記になっていきましたし、遊びについての世界でもコンピュウターゲームが盛んに開発されていった時代です。動画の脚本を書いてきた脚本家にも、かなり変化が現れてきていました。

そんな頃に放送作家協会の寺島あき子理事から、動画部会の部長になって欲しいという依頼がありました。かなり増えてきている脚本家をまとめて、その権利と暮らしを守るために外部の諸機関との接触をして欲しいということです。これまでは協会の発足以来部長として責任を果たしてこられたT氏の後任として勤めることになったのですが、すべてが順調で上昇機運に乗っていったという前の時代のようなわけにはいきません。私が動画部長に指名された時には新しい問題が次々と起こってきていたのです。つまり日常生活のほとんどのことが、文章によって表記されてきた生活の基本的なものが、絵画的なものに変えられていくので、知識の吸収が不得意な人や高齢の方々などは、戸惑いを感じていたかもしれません。しかし1700年代から1800年代に差し掛かってくると、否応なく時代の変化の波が押し寄せてきましたから、見ただけで何が伝えたいのかということが、簡単に理解できるという簡易さのお陰で、人はそれぞれパフォーマンスによって自己表現するようにもなってきたのです。そんなことからこれまで活字文化の勢いに圧されていた、サブカルチャーとしてあまり評価されていなかった動画の文化も、注目の基になって来ていたのです。これまでは活字文化の勢いに乗ってそれらを原作にした映像作品が制作されるのが一般的であった映像の世界も、一気に注目される作品はコミックを利用して映像化するという潮流になってきていたのです。文芸的な作品もいいのですが、その窮屈さから解放されてコミックによる表現の気安さに楽しみを覚えるようになってきていたのでしょう。つまりサブカルチャーの時代ともてはやされるようになっていったのです。子供が漫画家になりたいといって、親を困らせることが多くなってきました。それを思いとどまらせて欲しいという、親からの説得依頼が次々飛び込んできたものです。兎に角すべての表現や意思の伝達の方法が、文字によるよりも影像的な表現によるものに変化しつつあるようになっていった時代に起こった相談事でした。

私はこれまでの文字による文化が支配する時代に青少年時代を過ごしてきていたということもあって、その生活の仕方についても理解できましたが、影像中心という新しい時代の生活の仕方につても充分に理解はできました。私はそんな中で、所属する日本放送作家協会の動画部会の長に就任したのです。

 脚本家の集団とはいっても、それぞれがそれぞれの生き方に基づいて生きているので、その人達をまとめていくということは至難だと思いましたが、幸いなことに後輩作家たちが協力すると集まってくれたこともありましたので、兎に角脚本家として決めたことはしっかりと守りながら、少しでも生活の安定につながる問題について努力してみようという決心をしました。当時の問題では、脚本家の原稿料を少しでもアップして貰えるようにしてもらうために、動画の制作をする会社の代表と交渉をしなくてはならないという大きな問題と、作品が商品化された場合の印税がきちんと支払われるようにして貰えるようにすることでしたが、時の変化によって放送局からアニメーションの制作会社に対する制作費がかなり引き締められているという状態であるために、新人作家などにはその印税が払わないことを条件にして仕事を発注する会社もあるというのです。少なくともそういった厳しい条件が出されないようにという要求をしなくてはなりませんが、そのためには脚本家自身が自分の姿勢をよほどしっかりとして貰わなくてはなりません。しかしまだ生活が安定しない新人脚本家に、協会の姿勢である権利の主張という問題を納得して貰うという作業は大変なことでした。中には制作会社から印税を要求するならば、仕事を出さないと圧力を掛けられてそのまま先方の言いなりにして作業をする者もあり、協会としての姿勢を徹底して貰うために腐心したこともありました。

 しかし脚本家にとっての問題は、こういったことの他にも大きな問題が生まれてきていたのです。それは次回にお話することにいたします。


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告知と放談の部屋☆ 放70「サインした子が今は・・・」 [テレビ]

 

 番組は1983年6月5日から1984年2月26日まで放送されましたが、兎に角はじめてお付き合いする「カナメプロダクション」という新興の制作会社のスタッフは、みな若くてやる気満々の清新な集団です。それだけに業界の中ではかなり注目されて、DVDも発売されましたし、番組の進行に従ってさまざまなレコードも発売になったりしましたが、そんな番組制作中のある日のこと、原作者の牛次郎さんから私にお願いがあるとプロデュウサーから連絡がありました。ご子息の「宇宙戦艦ヤマト」への熱愛に応えるために、是非、サインを書いてやって欲しいという依頼でした。かつて「宇宙戦艦ヤマト」を執筆中に、虫プロのベテランアーテイストであったT氏から、そのご子息のためにサインをして頂きたいという依頼を受けたことはありましたが、あれから大分時を経過していた話ではありましたが、番組の原作者からの依頼ですから嫌というはずはありません。私は早速次のような色紙を書いて贈りました。

 

果てしない

宇宙

ドラマチックな

ロマンの海

 

「宇宙戦艦ヤマト」については、そのファンの依頼があった時は、必ず同じ思いを書いて差し上げることにしていましたので、きっとこういうことを書いたはずです。恐らくあの頃幼稚園であったか小学校低学年であったご子息は、今ではきっと五十代後半になっていらっしゃるのではないでしょうか。しかし先年かかわりのあるフェイスブックで、その色紙を今でも大事に保存しているという文面と一緒に色紙の写真と共に投稿された方がありました。何十年もしてサインをしたものと依頼をしたものが、ウェブで多面するなどという、実に珍しい出来事があったのです。あまりの奇遇だったので、バーチャル世界の脅威を感じたり感動したりしたことがありました。お父さんはその後仏門へ入られたことはマスコミの報道で知りましたが、そのご子息が成長して、どういう経過をたどってアニメーションという世界へ入って来られたのかまったく知りませんでしたが、Sという名でフェイスブックへ投稿してきた文面から、大雑把に彼のかかわっている世界がアニメーションであったということを知ったのです。それにしても同じフェイスブックというSNSで対面を果たすという、奇遇な出会いを実現してしまったのです。

「あの時の子が、今は・・・」

そんな思いで時の隔たった時代での再会に感動してしまったのですが、彼は今でもその色紙を大事に保存してくださっていること知って、大変嬉しくなったものです。

間違いなく私の書いた色紙です。

あれから五十年以上も経過して、サインをした者とサインを贈られた者が出会えるという、実に現代的なウェブ空間での対面というお話です。しかし兎に角変化する時代と戦いながら大変活躍していらっしゃるのを知って、改めてかなり時の経過があった上での再会に特別な感動を味わいながら、兎に角Sという彼の筆名だけは忘れずに記憶に留めていようと思ったところでした。いつまでも現役で頑張って欲しいと思っています。

 この話を思い出すたびに、きっと思い出す人がもう一人いらっしゃるのです。

 この方もフェイ氏ブックというウェブ空間で、長い時のへだたりを経過した上での再会を果たしたI氏です。彼とはじめてお会いしたのは、わたしが円谷プロダクションで「ウルトラマン」の脚本を執筆して入る時のこととでしたが、大学で同じ放送研究会で出会った先輩の女性から、幼稚園に通っているお子さんがウルトラマンのファンであるというので、一度撮影を見せて欲しいというお願いをされたのですが、丁度その時私は「ウルトラマン」という番組を執筆中で、円谷一監督の作品の「ミイラの叫び」という特撮の撮影があるというので、東宝のプールのある特撮用の撮影所へご案内をさせて頂いたことがあったのです。科特隊の戦闘機が発進したり、怪獣ドドンゴが現われるシーンの撮影を見て貰ったことがありました。その時にお母さんに連れられて来た幼稚園児が、50数年後にまたフェイスブックで再会を果たすことになったのです。I氏は今や空手道場の館長として多くの弟子を率いる指導者になって活躍していらっしゃるのを知りました。

 お二人とは「プラレス3四郎」「ウルトラマン」という二つの番組にかかわったお陰で、予想もしない再会をすることができたわけで、まさに現代の科学が生み出した奇跡であったかもしれません。放送という世界で長いこと作業をさせて頂いたこともあって、30年ぶり50年ぶりという実に長い長い年月を経て実に珍しい再会をさせて頂いたというお話です。五十年もの年月を経て、不可能と思われる年齢差を越えてフェイスブックというウェブという空間で再会を果たせたことに感謝しなくてはいけないかも知れません。

                                         「プラレス3四郎・DVD2」1.jpg 「ウルトラマン・ミイラの叫び」1.jpg

 

もう一度本来のお話に戻ることにいたします。

 今回の「プラレス3四郎」という番組では、その後のさまざまな仕事で縁を深めた人々との出会いをしていたということです。兎に角制作会社の「カナメプロダクション」は、若いスタッフの集団の新興プロダクションでしたから、業界の古くから実績を積んできている制作会社からはかなり目障りな存在であったのでしょうね。長い実績を誇る会社では、かなり修業をしなくてはなかなか担当することのできない作画監督という年季を要するパートを、若いいのまたむつみさんがやってしまうわけで、いささか妬みがましいものを感じさせていたかもしれません。まだ二十歳前後の若いアーテストであった彼女ですから、とても他の制作会社ではとても考えられないことです。かなり冷たい風当りがあったのではないでしょうか。それは番組の終了時になってはじめて知りました。彼女はアニメーションを辞めて洋画の修業をしたいといい出したというのです。困った社長はその悩みを抱えて拙宅へ相談にやって来られたことがありましたが、やがてそれがきっかけとなって制作することになったのが「ウインダリヤ」という作品でした。

深く番組制作にかかわると、それはそれなりに特別な体験をするものです。今回はそういったお話をまとめてお話することになりました。以後のことはその時がきたらお話をいたしますが、「カナメプロ」はその後解散してしまったのでしょうね。連絡が途絶えております。


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アニメと音楽の部屋☆ ア49「プラレス3四郎での出会い」 [テレビ]

 

 時代の変化を求める勢いは、私が敏感に感じていたように1983年になるとテレビで取り上げられる作品にも表れてきます。次第にこれまでその舞台として雰囲気を醸し出してきていた、SFアクションと宇宙という舞台にした作品群はすっかり姿を消して、かなり変化に富んだものが取り上げられるようになっていきました。

お陰様でそれでも私への仕事の依頼は、急激には減りませんでした。しかし持ち込まれる素材については、これまでとはかなり違ってきています。

そんなところへ飛び込んできたのは、「マジンガーZ」以来お付き合いが増えていた旭通信社からの依頼でした。

 プロデユウサーもこれまで担当であったTK氏ではなく、彼に変わって出てきたのは若いYKでした。代理店でも世代交代が進んできたようです。彼の依頼は牛次郎原作ですが、秋田書店で連載中の「プラレス3四郎」という作品のテレビ化という話です。

たしかにこれまでの宇宙を舞台にしたSF作品とはまったく雰囲気の違ったもので、このころ人気が高まっていたプロレスと人形のロボットをコラボした作品で、当時の若者のあいだで興味が高まっていたゲームという楽しみを利用した作品で、少年たちがそれぞれ開発したプロレスラー人形を使って戦うという作品です。

その作品のテレビ化に協力して欲しいという依頼であったのですが、ところがこれまでと違っていたのはあるお願いが伴っていたのです。これまではほとんど東映動画、東京ムービー、エイケンなどという会社としても実績を作ってきていた会社ではなく、若手のアーテストを集めた新興プロダクションの「カナメプロダクション」というところでした。

                                                     「プラレス3四郎・文庫」1.jpg

 

私もまったくかかわりのない、はじめて出合う制作プロダクションです。そして仕事を受けて貰うのにあたって、一つお願いがあるというのです。何事かと思ったら、番組をやるにあたって一人の脚本家志望の若者の面倒を見て欲しいという頼みだったのです。彼はこれまで企画の助手をしながら、脚本を書く機会を狙っていた社員の一人だった武上純希という若者でした。九州の鹿児島から上京して映像の世界での仕事をしようと、さまざまなアシストをしながら機会を得るのを待っていたところでした。

「なんでもいいので、使ってみて下さい」

社長の頼みでもありました。

 私は既に暫く前から若い脚本家の育成に努めてきていたということもあって、その依頼についてはまったく拒否する気持ちもありませんでしたので、弟子として脚本家修業をさせるようにしたのです。つまり「ワンサくん」「宇宙戦艦ヤマト」で田村丸、「まいっちんぐマチコ」で寺田憲史をデビュウさせてきた私は、彼らにつづいた脚本家として、武上純希の弟子入りを認めて、番組に必要な設定資料を集める仕事からやらせることにしました。しかし番組の内容を点検してみると、やはりこれまでかかわってきたさまざまな番組の素材とはかなり違った感性の作品です。確かにその内容は新しい時代に向った作品で、これまでとは違った世界を構築しています。プロレスに夢中になる若者の流行を見事に活かしながら、それを鉄人28号のようにコントローラーを使って、人形ロボットの選手に相手の選手と戦わせるという物語です。

 時代の先端をいく楽しみに乗って書かないと、いい結果は得られないのではないか、そんな不安を感じていました。幸い話の中心は戦いですからその連続を組み立てていくのが身上ですから、これなら私よりもむしろ若手感性に託した方が、いい結果を生むだろうと考えて、なるべく武上に機会を与えていくように心がけていったのでした。

                                    「プラレス3四郎・1」1.jpg 「プラレス3四郎・AR」1.jpg

 

番組のスタート台本を書き上げると、私はむしろプロダクションの若いアーテストとの出会いに興味を持っていました。彼らがこれからのアニメーションという世界をと繰っていくかもしれないという興味もあったからでした。私はさまざまなアーテストと出会うことになるのです。今回の番組の監督をするのはその後ポケモン映画を作る湯山邦彦さんでしたし、作画監督・キャラクターデザインに起用されたのが「異次元童話 ウインダリア」「宇宙皇子」のイラストを担当することになる、二十歳そこそこのいのまたむつみさんでした。

                                               「プラレス3四郎・いのまたむつみ」1.jpg

 

主役とナレーションを担当する声優は、やがて私の原作脚本で主役を演じる古谷徹さんと結婚する間嶋里美さんという人たちですし、プロデユウサーも片岡義朗さん、メカニックデザインを担当する小原渉平さん、豊増隆寛さん美術監督は勝又激さん、音楽は槌田靖識さん、音楽監督は松浦典良さんという、若手バリバリの人たちでで、やがてそれぞれの分野で活躍することになる若いアーテストたちであったのでした。私はいつものようにシリーズ構成表を作って、ドラマの進行予定を示したところで、肝心なはなしの会については脚本を書き、それ以外のところはプロレス風のアクションを武上に書かせていきました。 

 私はあくまでも番組の看板作家のようなもので、私としては兎に角あまり熱中して書くものではないと判断して受けたこともありましたので、若手の武上はドラマの組み立ちは別ですが、次第にその頃の時代の楽しみであるプラレスというスポーツをうまく取り入れて、時代の感性を発揮して器用に書くようになっていきました。

 番組の進行に向けて、DVD・ドラマ編・音楽編のレコードも発売になっていますので、ここで紹介しておきます。

             「プラレス3四郎・DVD1」1.jpg 「プラレス3四郎・DVD3」1.jpg 「プラレス3四郎・テーマ編」1.JPG 「プラレス3四郎・音楽編」1.jpg


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告知と放談の部屋☆ 告8「更新の手違いのお詫び」 [テレビ]

                                                      「素材・原稿執筆中」1.jpg


  17日は更新しないはずでしたが、24日に出すものを誤って発表してしまいました。従って24日は更新いたしません。

次は一月最終の31日に更新いたします。

 

                        藤川桂介


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思い出作品の部屋☆ 思4「銀河創世紀伝と宇宙皇子」 [テレビ]

 

 お陰様でゴットマーズの文庫が爆発的な売れ行きを示したということがあって、集英社からは早速何か小説の文庫で出す企画を頂けないでしょうかという連絡が入りました。

勿論、この頃の世の中は大変経済的に困難な状態であったので、さまざまな業種でその影響をうけているのです。暫く前から私はテレビのシリーズについての話が、これまでのように入ってくる状態ではないと判断していました。現実にテレビ界はオイルショックの影響ですっかり沈滞していて元気がなくなってきているのです。政治を率いる中曽根康弘総理大臣も、これまでの社会改革気分でかなり開放的になって、若者の浮かれ切ったところを引き締め始めていたのです。

 世相として目立つものを摂りあげても、パソコン世代・ロリコン・ネクラ・ネアカ・若者喫茶店離れ・軽薄短小・引き締めと抵抗・小中学でいじめ流行・やらせ・パフォーマンス・ファミコンブーム・新人類時代、プッツン・花キン・朝シャン・個性重視、どれを取り上げても思い出すでしょう。

そのためにこれまで新しがりの若者たちは自由勝手に動きまわろうと、盛んにパフォーマンスを繰り広げるのですが気分だけではどうしようもない厳しい経済状態が浸透してきています。彼らの日常にもかなり変化が訪れてきています。感性も価値観もかなり変化してきていて、旧世代との受け止め方がかなり違ってきていました。かつてのような平穏な暮らしが約束されなくなってきていました。

 コロナショックともいえるような影響で、何かと元気が出ない現代とも似通っているのですが、「ゴットマーズ」が最後の「地球編」をしかかっている頃は、時代的にあまりいい状態はありませんでしたから、これまで活気づいて作業をしつづけて来た私も、その将来に関してあまり手放しで安泰という状態ではなくなってきていたのです。

アニメーションの世界にもかなりこれまでとは違った雰囲気が漂い始めてきています。取り上げられる内容にしても、そこで働くスタッフも、彼らが作り出す作品に集まるファンにしても、その雰囲気はじょじょに変わってきているのです。時代の変化について、かなり真剣に考えておかなくては、いる場がなくなってしまうのではないかと思ったりもしました。そろそろ別の展開も考えなくてはならなくなると考えることが多くなっていたのです。世の中がどこか沈滞している時ですから、そういって空気に影響されて、若い人たちの日常生活に関しての価値観がかなり前の時代とは違ってきています。

 時代の混乱状態を、端的に表している現象です。こんな状態の中で今までのままでいいのか・・・そんな気持ちから、何かテレビの仕事だけではなくやっておくべきことはないかという気持になっていたので、脚本を書く仕事とは別に小説のネタ探しのようなことをし始めていたのです。そんなところへ集英社からのお話が飛び込んできたのです。

 そこで私は暫く前からメモを取り始めていた役行者とその出である少年との話として設定をまとめ始めていたものを出してみようかと考えて、取り敢えず仮のタイトルに「宇宙皇子」とした企画書を持っていったのです。しかしそれだけでは不安であったこともあって、時代的には現代でも通用するように、まん延しているSF風な話も持っていったのです。応接室で二つの企画について私の思い込みにつて説明をしましたが、結局いろいろ話し合った結果、集英社はやはり「ゴットマーズ」の影響もあったのでしょうか、編集長、副編集長もSF物である「銀河創世紀伝」の方を選びました。

 「宇宙皇子」はかなり長編になるということでひっかかったのです。集英社は大変堅実な会社でしたから、三冊以上になる作品は出さないことになっていたのです。かなり長編になると説明をしたこともあって、彼らは残念ながらということで、これまで慣れているSF作品の方を選んだのでした。私はこれまでの仕事とはまったく傾向の違う作品で勝負したいという気持もあったのですが、放送という世界とはまったく違った活字の世界のことです。反対もできないことから、決定を承知して引き下がったのです。

 かつて「さすらいの太陽」を小説として出すことになった時に、あまり意識しすぎて失敗した経験があったこともあって、今回はあれから時間も経ているということもあって、兎に角楽な気持ちで書くことにいたしました。

 一体、読者がどんな反応をしてくるのかも判りません。

 兎に角夢中で書いたような気がします。

 わりに短期間で原稿を仕上げられましたので、早速神田神保町の集英社の編集部へ届けました。兎に角I編集長、A副編集長が読んで、その結果をお知らせするということになったのでした。

暫くして編集部から連絡が入り若手のイラストレーターを選んだので、近々会って欲しいということになりました。その人のお父さんは、童画界の大御所である若菜恵さんだということで、その息子さんである若菜等さんに担当させたいというお話でした。彼とのお話はやがて集英社の応接室で対面した結果、下のような表紙のイラストが完成したのですが、彼との対面をした時のびっくりしたお話は、次回のブログですることにして、兎に角出来上がった「銀河創世紀伝」の一巻目である「聖戦士キリー」を提出したのでした。下の本は完成した本ですが、このイラストを描いた若菜等氏については、次回のブログでお話したいと思いますので、ここでは兎に角集英社文庫が出ることになったということで終わりにしておきたいと思います。

                                                        「銀河創世紀伝1」 1.jpg

 

 「マジンガーZ」「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」「六神合体ゴットマーズ」というヒット作がつづいたために、放送界はすっかりSF作品がアニメ―ション番組を占拠いてしまった状態でしたので、それが何年もつづいたこととファンの価値観や感性というようなものが、じょじょに変化してきています。そんなことをひしと感じるようになっていた私は、将来の見通しに危機感を感じていたので、本当はこれまでとは違った作品を書きたいという思いがあって、日本の古代を背景にした「宇宙皇子」という企画を出したのですが、やはり集英社では「ゴットマーズ」での体験から、発想を切り替えることができなかったのでしょう。どうしても日本の古代という話には乗り切れなかったのです。しかも堅実な社風もあって、ちょっと長い話の展開になるという私の説明を聞いて、そんな小説を出して下手をすると、会社としては大きな赤字を背負うことになってしまうという判断があって、結局無難なSF作品を選択することにしたのでしょう。しかしいずれにしても、私はアニメーションという世界の他に出版界へ進出する切っかけを掴むことになったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放69「ハードロッカーの若菜氏登場」 [テレビ]

 

 編集長の紹介で、集英社の応接室で待っていると、やがてイラスト担当の若菜等氏が登場しました。ところがその時の彼のいでたちに度肝を抜かれてしまいました。挨拶を交わしたのですが、彼は兎に角大変リラックスした様子で、ごく日常的な気軽な姿で現れたのですが、膝小僧が擦り切れたジーパンに、ポロシャツ・腰にはジャラジャラとした金具を巻き付けてぶら下げています。この人がイラストを担当するのかと愕然としてしまいました。

 新しもの好きな若者が跳び出してきていた時代です。洋楽・・・いわゆるジャズバンドの世界でも、さまざまなバンドが結成されていましたが、そんな中でも極端に跳ねた活動をする激しいハードロックのバンドをやっているということでしたが、彼は話す様子も実に落ち着いていて誠実な印象の若者でした。きっと童画界の大御所である若菜恵氏の子息ということもあって、厳しくしつけられていたのでしょう。きっと編集長たちは、彼のデビュウの機会を頼まれていたのかもしれません。小説が宇宙を背景にして展開するSFアクション作品です。これならきっと彼の登場する作品としては問題がないと考えたのでしょう。一見して突っ張っている若者のように思えるのですが、しかし彼も緊張していたのか大変謙虚で、真面目な態度で私の希望を聞いていました。

大変印象度のいい青年で、私にとっても新しい世界へ踏み出すきっかけとしてもいい出会いになると考えてほっとしたのでした。

 前回紹介した「銀河創世紀伝」の一巻目「聖戦士キリー」が発売になった時、私が読者の反応がどうかと気になっていたのですが、まだあまりはっきりとしたことは聞いていませんでしたが、そんなある日のこと若菜氏から電話が入ったのです。まだ仕事を始めて間もない関係ではあったのですが、はじめて親しく話をすることになりました。彼も大変本の売れ行きについては大変気になっていたようで、近くの書店へ足を運んだというのですが、その時一寸変わったお客がいたのに気が付いたというのです。

あの表紙を飾っていた「聖戦士キリー」という本を十数冊も買っていったというのです。まったく見ず知らずのお客が、どうしてあのようにまとめて買っていくのだろうかと、その様子を観察していたというのですが、やがて支払いを済ませて帰ろうとしているお客に声を掛けたのだそうです。どうもその人は近くのバーを経営している人だというのですが、お客にこのお本を配りたいということだったのです。どうやらこの人は若菜氏の描いたイラストが気に入ったようで、彼と同じ趣味のお客に配りたいというのです。その様子からすると、今でいうニュウハーフであるらしくみせへやってくる同好者に配ってあげたいというのだそうでした。仮にどんな興味の持ちようによる反応であったとしても、大変興味深い話でした。

 私は改めて本を取り上げて、彼の書いてくれたイラストを眺めたのですが、書店のお客の反応に納得したものです。若菜氏の書いた男性像は確かに大変なイケメンで、ニュウハーフの人たちにとっては大変興味ある男性像であったようでした。

私の狙いは決してそうした人に向けた話ではなかったのですが、やはり表紙に描かれた男性像が気にいったのでしょう。これは間違いなく若菜氏の画力の結果です。はじめて出会った時の印象から考えると、とてもキリーのような甘い雰囲気のある男性を想像させませんでした。やはり人は見かけによらないものだということを実感したのでした。

彼の中にああした美形を描く力が秘められていたのでしょう。それはそれで新たな発見をしたなと思ったのでした。しかし私はこの頃、かなりいろいろな世界から仕事をして欲しいという話が持ち込まれていたのですが、小説を書き始めたという噂が広がったのでしょうか、コロンビヤレコードから今回の話の音楽版をレコード化して発売したいという申し出を貰ったのです。こんな素材で音楽物のレコードを制作しようということを考えたりするというのは、一寸考えにくいものですが、これまでとは違った発想でものを作るという革新的な発想をする若手のデレクターとして付き合いが深まっていきましたが、実はそのプロデユウサーであり、チーフデイレクターとなったK氏は、かつて「宇宙戦艦ヤマト」の映画制作にあたって、その音楽を制作する担当として、コロンビヤレコードから送り込まれてきた若手の担当者であった人だったのです。異色の音楽作品とのコラボレーションというということになりますが、小説をネタにして音楽を制作するという狙いでLPが制作されたのですが、それ以来彼とも長い付き合いになり様々仕事をすることになりました。

                                                     「銀河創世記伝・音楽編」1.jpg

 

カバーイラストも当然ですが小説と連動させるという狙いから、若菜氏に作業を依頼しました。

そんなことから打ち合せの最中に彼との個人的なん話を交わす機会が増えてきたのです。矢張り彼も父親の存在感とぶつかり、それから逃れて自由に生きることを考えて、一時は洋画家を目指したようでしたが、画商に利用される生活を知って所謂画家として生きるという夢は諦めて、もっと広い世界での活動を始めたというのでした。

長男でしたが家を出て苦労しながらここまで辿り着いた自分のキャリアとの共通点を感じて、同じ境遇にあった同志としての共感を持ってお付き合いがつづいたのでした。

兎に角集英社三冊で完結させる必要もありましたが、やはりあまり読者の反応は良くなかったのではないかと思います。短期間で打ち切ることになってしまいました。

                                       「若菜等・シャングリアの星」1.jpg 「若菜等・地球へ」1.jpg

 

その後集英社の主催する作家と読者とのパーテイで出会ったりしているうちに、若菜氏の個人的なことについての話も聞く機会がありましたが、お父さんが著名な童画家であっただけに、彼はどうして画業に向わずにハードロッカーになったのか、あの粗野な若菜像はどうして作られていったのかということを知ることになったのです。彼は父親との葛藤から家を飛び出して、一時洋画家を目指したというのですが、そこにもいろいろと問題があって、思い切ってフリーのイラストレーターを目指すようになっていたというのです。なかなか逞しいやる気を持った若者で、さまざまな葛藤をしながら世に出てきたのでした。これから次第に縁が濃くなっていくのですが、機会を別にして若菜美形についてもお話したいと思います。


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言霊謎解きの部屋☆ 言26「ひとくち言霊」(霊山) [テレビ]

                                                                                                                   「若菜イラスト」.JPG  

   

旅行をした時に、よく出会うことですが、ちょっと田舎へ行くと、近くの山に、霊山といわれるところが、必ず存在しているのに気がつくでしょう。

一体、この霊山という名称は、どこから起こったのでしょう。

もちろん有名な修行者が開いて、寺を創建した縁でそんな呼び方をする場合が多いと思いますが、わたしはもっとそれより前のことを考えました。

わたしの小さな頃の、昔のことですが、遊んでいた子供たちは夕方になると、

♪カラスが鳴くからかーえろ

などと歌いながら家へ帰って行ったものです。

カラスばかりでなく、鳥たちは山のほうへ帰って行きました。

最近は開発が進みすぎてしまって、鳥たちが山へ帰っていく光景には出会わなくなってしまいましたが、昔、昔、古代という時代には、人の死後、天国へ送る形としては、水葬、風葬、土葬、火葬、いろいろとありましたが、水葬と共にもっとも古典的な方法としては、風葬につうじることなのですが、鳥葬というものがありました。つまり、死者をあるところに放置しておくのですが、やがてそれを鳥たちがついばんでいくことになります。

その鳥たちは、今も昔も変わりません。

山へ・・・木のあるところへ戻って行くのです。

つまり死者の魂を運んで行くということです。

もうお判りになったでしょう。霊山という言葉の原点というのは、人の魂を運んで行くところが山だったところから、すべての山は聖なる霊山だったはずなのです。

その後修行者によって開かれた山を、霊山と呼ぶようにったものとは違いますが、すでに鳥葬という風習が失せた現代では、もうほとんど考えられない言葉でもあります。どうか、時には、こうした言葉の起源というようなものも追ってみるのも面白いのではありませんか。

 

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アニメと音楽の部屋☆ ア48「GMで藤川杯ゴルフコンペ」 [テレビ]

 

 1982年三月には、長い間原案が完成しないことから苦労しましたが、ついに完成して劇場で公開されました。

                                「1000年女王・映画」1.jpg 「1000年女王・決定稿」1.jpg

 

 このあとで「ゴットマーズ」の「ギシン星編」が番組のノベライズ作品として文庫化されて集英社から発売になり、たちまち売り切れて書店から姿を消してしまいうという人気ぶりをしめしたのもこの頃のことでした。そしていよいよ3クール目に当る「地球編」にかかることになるのです。人気番組として突っ走ってきましたが、いよいよそのシリーズも完結に向って走り出したのです。改めて感慨深いものがあります。特別問題もなく作業は順調に進んでいったのですが、思えば番組が始まった頃は緊張の連続で、スポンサーとの打ち合わせの時に一寸立場の違いが起こってしまったこともあったために、険しい雰囲気が漂ってしまったということもありましたので、それから暫くはスポンサーがどんな反応をするのだろうかと、戦々恐々と言った状態で作業を進めていました。兎に角制作の上層部にあって責任を持たされている者には、通常の番組を担当するのとは違った緊張感が漂っていたものです。まずは視聴者の反応次第ではスポンサーであるバンダイは、番組の提供から降りてしまうかもしれません。そんなことになってしまったら、東京ムービーという会社にとってもその経営状態に、暗雲が立ち込めてしまうことになってしまいます。しかしその緊張感から解放されたのは、2クールの26本のうちで半分である13本が放送されたところまでの反応が、心配するようなことにならずに視聴者の反応も大変いい状態であることが確認できましたので、放送が始まってから間もなく始まった、バンダイにとっての試練の時である玩具製品の商戦が、ある程度成功してくれれば放送の途中で番組が早期に打ち切りになるというような、悲惨な結末にならないで済んだようです。むしろバンダイからの連絡は、2クール26本の制作を延長するということになったのです。それですべての心配はなくなったのかというと、決してそうではありませんでした。シリーズの成果に責任を感じていた私はなおさらでしたが、延長が決まってからの制作に当るスタッフの気持ちの問題です。視聴者の人気が高まり始めると、どうしてもそれに安住して、気持ちが緩み始めてしまうものです。末端のスタッフでもいつか責任感を欠落して、気軽に仕事がきついということをこぼしたりするようになります。兎に角一つの作品の評判がいいということで、長くつづくということは大変有難いことですが、その人気を維持するということは、それなりに大変神経を使う必要があります。同じようなトーンのまま作業をつづけていると、どうしても「馴れ」ということが広がって行って、その分だけ気持ちが緩んでいってしまうという難しいことも起こりがちになることです。つまりいつの間にか緊張感を欠如して、どうしても一寸した問題は、適当に処理して作業を進行させていってしまいがちになるものです。そんなことを発生させないために、「ゴットマーズ」では、すでに二回ほどゴルフでの親睦会を開いたことがありましたが、特に1982年の前半を経過する頃になると、もう間もなく番組の制作が終わるということがはっきりとしてきていますから、あまり気持ちを緩めてしまって緊張感を失ってしまうことになりがちです。そこで今回は、私が藤川杯のカップを寄付することにしてその争奪戦という刺激と楽しみを付け加えたりしました。しかし私のゴルフの実力はといえば、どう考えても凄いとは言えません。兎に角みなさんについていくのが精一杯という状態でした。運動神経はかなりいい方だったとは思うのですが、兎に角仕事が多忙過ぎる時代でしたから、とても練習場へ足を運ぶ時間はほとんどありませんでしたから、実力が延ばせるわけはありません。スコアは120前後で、何とかみなさんについていくのが精一杯でした。それでも関係する人々が、親しく懇親することで、あとわずかな残りの作品をしっかりやり抜きましょうという気持の引き締めには大いに役立ったように思えます。1982年9月8日に、西熱海ゴルフ場でゴットマーズ制作の最期の懇親会が開かれたのでした。下の写真はその時のものです。

                                    「素材・GM藤川杯ゴルフコンペ」1.jpg

 

 この頃のアニメ界には、みなでゴルフかテニスをして楽しむことが広がっていて、参加者はかなり実力を伸ばしている人もいて楽しんだものです。東映動画の「銀河鉄道999」の監督西沢信孝氏を中心としたスタッフは、夏のわずかな休暇を利用して軽井沢の民宿に泊まり、みな思いきりテニスを楽しんでいましたが、東京ムービーはかなりゴルフを楽しむ人が多く、重役の音頭取りでよくプレーを楽しんだようです。今回紹介することにした写真は、ゴットマーズ関係者を中心としたコンペで、長いことGMを引っ張って来られた今沢監督、制作担当の赤沢、文芸担当の小野田、後輩の脚本家田口.そしてなぜか弟子の寺田憲史、日本テレビの担当プロデウサーの姿もあるようです。競技中は楽しむ気分が横溢していましたが、それでもそれぞれは優勝者となる名誉を獲得しようと、真剣にプレーをしたものです。

                                             「Lynxセット」1.jpg

 

 これはその頃手に入れた初心者向きにいいと勧められて買ったLynxというセットですが、もう大分前にゴルフからテニスに変わってしまいましたので、昔の思い出として地下室の物置室に眠りつづけています。

 恐らく現代ではきっと息抜き、懇親の会の楽しみ方も変わってきたでしょうが、ひょっとするとこうしてみなで集まって楽しむというような雰囲気はなくなっているかもしれませんね。コロナの影響もあってビジネスライクに仕事は片づけていくだけで、とてもそう気楽に出会って、密な状態で交流することもできなくなっているかもしれません。

 当時はさまざまなことで日常に変化が訪れてきている時代でしたが、それでも現代のすさまじい変化の時代からすると、その始まりといった方がいい現象であったかもしれません。じわじわとこれまでとは違った日常が訪れつつあった時代でした。それだけに私たちは、じょじょにそうした時代の波にゆさぶられながら、仕事を進めていかなくてはなりませんでした。やがて出版でも注目されるようになった私は、そんなある日のこと、出版と映像関係者、アーテイスト、一般の人が結集した、ゴルフ大会が藤川主催で開かれることになったのでした。


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アニメと音楽の部屋☆ ア47「機甲艦隊ダイラガー前後」 [テレビ]

 

 これまでは一寸「ゴットマーズ」の話をまとめてお話する都合もあって、いささか時系列の進行と違えて書いてきたのですが、そろそろこの辺でペースを本来の進行に従って書いていくことにいたしました。

1982年あたりからの話にいたしますのでお許しください。

アニメーションの世界にも時の経過とともに、刻々と変化が現れてきていました。かつて「六神合体ゴットマーズ」がスタートする時には、アニメーションの制作陣から飛び出したロボットに対する考え方に疑問を訴えたことがありましたが、もうそのようなことはまったく問題にならない状態が進んできていました。

 それはアニメ界から進められた変化というよりは、玩具制作会社からの要求によって行われたといった方がいいかも知れません。つまり何体もの者ロボットが合体して一体のロボットになるというものが、商品展開の中心となって来ていたのですが、時代はもうそんな状態では玩具を買う人たちも満足しきれなくなってきていたのでしょう。もっとさまざまな部分がそれぞれ単体のロボットとして合体して、巨大なグループとなって動くようなことを考えるようになってきていました。どうやらそれはアメリカで制作された「トランスホーマ」という映画に刺激された玩具制作会社が、いち早くそれを商品展開に取り入れたか宝です。つまりもう「ゴットマーズ」での六体のロボットが合体するというものではなく、もっと多くのロボットが合体することが可能になる者として企画されたのが東映動画ではなく、その本社である東映が企画してその制作を東映動画に依頼してきた「機甲艦隊ダイラガー」という作品でした。その企画が本社のプロデウサーS氏から持ち込まれた時、正直言いって私は一寸判断に戸惑いました。こんなに多くのロボットが合体することになるような脚本を書くといっても、作家としてどうかかわればいいのか混乱してしまったからです。とてもこれまでかかわってきた「ゴットマーズ」で、ストーリー構成に工夫して番組を構成していくということはできそうもありません。今回はそれだけ多くの船が合体するという構想です。企画としては理解できるのですが、これではこれまで通りの話の組み立てを考えることは不可能だと判断したのです。とても二十数分という番組の中で、六神どころではない何十隻もの艦船ロボットを合体させなくてはなりません。これではとても脚本家として腕を振るう余地はないと判断しました。

 大変な時代がやって来ているのだなと思いましたが、これまでの東映との付き合いで断るわけにもいきません。兎に角S氏から差し出された設定書を基にして、物語をどう展開していけばいいのかを考えなくてはなりません。

                                               「ダイラガー・構成表」1.jpg

 

兎に角春から放送を始めたいというので、大変忙しい中である程度は纏めましたが、この頃私は「ゴットマーズ」の3クール「地球編」の作業にかかっていたので、すべてをこのダイラガーにかかり切るわけにはいきません。そこで円谷時代から目をかけてきていたこともあって、「ゴットマーズ」でも城山昇さんと交互に脚本を担当して貰っていましたので、今回も彼に助っ人を依頼して快諾して貰いました。

           「ダイラガーVX」1.jpg 「機甲艦隊ダイラガー主題歌」1.jpg

 

主題歌も決まりました。

                                              「ダイラガー台本2」1.jpg

 

 何とかこれまでの物語を中心とした話の運びから、兎に角かなりの数のロボットが合体する話としての組み立てをして、番組はスタートすることになったのですが、兎に角スタートは私が書きますが、後は「ゴットマーズ」との関係もあって「ダイラガー」に仕事を集中できませんので、円谷プロダクション以来目をかけていた田口成光君に、「ゴットマーズ」と掛け持ちで助っ人を頼んだのでした。

ところがそれから暫くして、Sプロデユウサーから連絡があって、どうも田口君の脚本の上りが遅いというのです。早速その理由を確かめてみようとしたのですが、あまり彼からははっきりとした返事がありませんでした。本人は大変のんびり屋であるという性格であるということもあったので、締め切りに従って原稿を入れることがどうもなかなか難しかったようで、それでも私は若い才能に期待して、兎に角締め切りを守って仕上げてくれるように注意しながらお願いをして終ったのでした。しかしその後判ったのは、「ゴットマーズ」の文芸担当の小野田氏の情報で、田口君はどうやら彼は夜の食事時には必ず酒を楽しむようで、それからはとても仕事にはならずに寝てしまうのも原因の一つであったかもしれないということでした。しかしそれはそれとして、「ダイラガー」は何とかホローして貰わなくては、紹介者としては困ったことになりますので、そこは何とかうまく裁いて進行して貰っていかなくてはなりませんでした。しかし時代の変化と共に、この頃から私のところに弟子入りを志望してやってくる若い作家志望の者がかなりいたのですが、大分前にやってきた私の一番弟子であった田村丸君の後からは、ヤマトの制作現場でブラシという作業をしていた寺田憲史君も二番目の弟子として出入りするようになっていましたが、彼もこれまでの作家志望者としては、一寸違った、どこか田口君とどこか似通ったところのあるタイプの若者でした。しかしこの頃から私は若い脚本家を育てて上げようという気持もありましたので、機会をみてテレビの脚本家として登場させてやろうと考えていました。兎に角私に執筆を依頼する話が殺到してきていまして、とてもすべてを受けることができない状態ということもありましたので、この機会を利用して機会を窺っていたところ、たまたま学研から「まいっちんぐマチコ」という新番組の執筆依頼があったのですが、とてもその依頼を受けることができる状態ではなかったこともあって、私は「宇宙戦艦ヤマト」の作業中に出会った寺田憲史君が脚本家として世に出たいといって弟子入りを志願してきていたので、私に変わって彼を推薦して脚本家としてデビュウさせたのです。その「まいっちんぐマチコ」で、何と寺田君は田口君と出会い二人で交互に執筆していったようでした。

話が横道にそれましたが、「ダイラガー」は無事にスタートを切ることができましたが、

次第にその頃から作家志望の若者も、アニメーションファンも、一寸前の若い人たちとは様子の違うタイプの人たちが出てきているような気がしてきた始まりでした。



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