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告知と放談の部屋☆ 放80「意地悪な自問の襲来」 [趣味・カルチャー]

  

脚本家としての作業から離れて活字の世界に没頭していると、時々休息している時などに気になるのは放送界のことです。これまで長いこと夢中で番組の好不調に気遣いながら、必死で脚本を書いつづけて来たのですから、その思い出多い世界での作業の記憶を、一切払拭してしまうということが出来るわけはありません。しかしそんな記憶をある日から突然断ち切って、活字の世界という不慣れな成果での一歩を踏みしめて歩き始めたところなのです。活字に集中している日常から神経を止めて休息することにすると、つい先ごろまで活動していた世界の空気が流れ込んでくるのです。


「超獣機神ダンクーガ」のスタート原案構成脚本は協力できたものの、それから後はすべて総監督就任した奥田氏にお任せして、若い脚本家の弟子に任せきりにしました。一人は「宇宙戦艦ヤマト」制作の末端で働いていた関係から弟子入りを志願してきた若者で、のちにゲームの「ファイナルファンタジー」でヒットした寺田憲史。もう一人はその後輩で「プラレス3四郎」から弟子となった、のちの「ポケモン」でヒットした武上純希です。何とか私の期待に応えて、それぞれ頑張ってくれていると思うのですが、それまで何度も名称を変えることになっていた番組のタイトルも、どうやら「超獣機神ダンクーガ」ということに決まったようでした。二人の新人脚本家を相手に総監督の奥田誠治氏は頑張ってくれているようですが、葦プロの担当であるK氏と旭通のK氏も何とか時代の要求に応えて、何とか目立つ番組にしたいと努力してくれていたようです。


そのお陰で私は「宇宙皇子」の執筆に精を出すことができたのですが、そんな間にも、番組関係者から作業の進行が判るようにという資料が送られてきます。


          「獣戦機ダイガン・スタッフ」1.jpg 「獣戦機ダイガン・構成表」1.JPG 「超獣機神ダンクーガ」1.jpg


しかしそれを改めて眺めていると、テレビの仕事を断って小説を書くために没頭していることについて、思わず斬鬼の念に駆られてしまいます。もう番組のことであれこれと口を出すことはなくなりましたが、それだけにこうした束の間の休憩時間には、ふとこれまで夢中で作業をこなしていた頃のことを、思い出してしまうことがありました。


テレビの仕事を本格的に書き始めた「宇宙戦艦ヤマト」の頃などは、ほとんど家庭生活などというものには気を使えない無茶苦茶なスケジュウルで仕事をこなしましたが、それが終わった頃からは時代の変化もあって、次第に会社の経営にも変化があり、その社員の働き方も変化がありました。忙しいとはいっても土曜日から日曜日などは、放送局をはじめ映像関係会社も休みを取るようになってきましたので、私に連絡してきたり打ち合わせをしに来たりする担当者もお休みということになって、そのお陰で完全に自由な時間を使って拘束を感じないままで脚本を書くことができました。精神的に大変リラックスした状態で作業を進めることができたのです。これまであまり触れあってやれなかった二人の娘を連れて、自宅の周辺の散策や、美術館・博物館・レジャー施設・公園などへ出かけることもできるようになりました。しかし映像時代での基本的な仕事である脚本書きについてはすべて家庭で行ない、原稿ができるとテレビ局の制作部、アニメーションの制作プロダクションの文芸室、特撮制作の文芸室・アフレコのダビング所などへ出かけてツメの作業をすることになるのです。土日を除いてはほとんど家族との楽しめる時間は取れませんでした。


ところがそんな中で1984年の二月からは、同じように自宅での原稿執筆が中心で、放送時代のような毎日忙しなく出かけるということはなくなりました。しかしこれまでとはまったく内容の違った作業になりましたので、その分今回は活字との必死の挌闘をするようになってしまいましたから、またまた家族とゆっくり楽しめる時間などは取れなくなってしまいました。自由にふらふらとしていたら締め切りに間に合わなくなってしまいます。そんなことにならないためには、かなり集中的に書かなくてはなりません。かねてから文芸誌などで知られている作家の生活ぶりは、かなり自分流の生活のリズムを守るために、家族ですらその作家の時間を邪魔することは許されませんでしたし、原稿の締め切りにしてもあってないようなもので、書けないとなれば出版社と激しくやり合いながら、あくまでも自分のペースでやり通していたようです。しかしそんなことが許されたのは戦前の作家のことで、戦後のしかもかなり時を経た昭和、平成時代ともなると、だんだんそういうことでは許されなくなってきています。ある程度はきちんと守らないと出版社からは嫌われてしまうことになってきています。私は映像の世界でも時間の制約の多いテレビの仕事をしていたこともあって、ほとんど決められた時間を外すようなことはしませんでした。私は性格的に几帳面なところがありましたので、人に迷惑をかけることは極力避けたいという気持がありました。そのためにほとんど九割以上きちんと締め切りを守っていたつもりです。そんなわけですから仕事の世界は変わっても締め切りを守ろうとする気持ちはまったく変りません。兎に角三月いっぱいまでには、きちんと編集長に渡したいと思っているのです。


数か月前に身辺に変化が訪れたために、ふと小説を書こうと思っているという心境をS氏に打ち明けたのがきっかけで、その話が次第に急テンポで進み出してしまい、こうして小説の原稿を書くようになったのですが、兎に角慣れない分野での仕事ですから、気を散らしていることもできませんから、これまで生活の基盤であった映像の世界に関してどうしようとするのかということなど、まったく考えてもいませんでした。


しかし冷静になって考えてみると、もし今回の試みが成功しない場合には、また映像の世界・・・つまり放送界へ戻らざるを得なくなってしまうのですが、簡単に復活することができるのだろうか・・・かなり不安な自問の声に襲われてしまったのです。勿論今回小説を書くことについて、わざわざそれを発表してこれまでの映像界にさよならをしたわけではありません。それでも私の動きについては、もう噂として広がってしまっているでしょう。そんな状態になってしまった中で、もし小説への挑戦に失敗してしまったら、「やっぱり古巣へ戻ってきました」などと言って、平気で復帰するなどということができる訳はありません。私自身のプライドもあります。現実にはそんなことがすんなりとできる訳はないのです。それでも現実に放送が予定されている番組を降りたりもしているのです。そのことについては、自然に業界に広がっていくでしょう。活字の世界への転身を試みている以上、やがては出処進退についてはけじめをつけなくてはならなくなると思うようになったのでした。ふと原稿を書く休息時間というその心の隙に分け入ってきた、予想もしない自問のお陰で、やがてはそれにはきちんと応えなくてはならなくなるなと言い聞かせたのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放79「アニメでは成功したが・・・」 [趣味・カルチャー]

  

既に前にお話したことがありましたが、かつて電通へ就職した大学の後輩から、アクション番組である「月曜日の男」というドラマや特撮の「ウルトラマン」などを書いていた新人脚本家の私に、「北欧に「ムーミン」という作品のテレビ化という話があるのですが、やってみる気はありませんか。もしその気がありましたら、担当部長に逢ってくれませんか」という話があったことから、早速M部長に面接を申し出たのですが、彼は「ウルトラマン」が書けるなら「動画」も書けるでしょうと、大変軽い受け止め方をされて、新しい番組の企画を執筆するように依頼されたのです。そんなことで私はまったく未知の世界へ足を踏み入れることになったのでした。


その頃はまだ「動画」の世界は一般的にあまり高い評価を得ているということもありませんでした。いわゆる子供のための番組といった程度の受け止められ方だったと思います。しかし漫画家の手塚治虫氏が設立した「虫プロ」がその中心で、手塚氏を師として仰ぐアーテイストが集まって作業をしているプロダクションが、一寸は目立った存在であったくらいだったと思います。どうしても作業の中心はあくまでも漫画家が雑誌に書いた作品が中心で、それを映像化するために必要な脚本を書くという作業などは殆ど問題にされない状態だったはずです。そのころはドラマという世界で脚本を書いていた私にとっては、「動画」という世界はまったく未知でしたが、兎に角ドラマの作家とはいっても、少しでも稼げる世界という気持が旺盛な新人作家でもありましたから、興味本位の気持ちで参加してみる気持ちになっていたのでした。電通の指示もあったのでしょうか、「アンデルセン童話」の「親指姫」を素材にした作品を書いてみて下さいといって、虫プロの新人脚本家S氏とH氏がやってきたのです。


仕事の依頼を済ませた後での雑談になると、彼らは「動画」の世界の現状がどういう状態であるのかという話をしてくれたのですが、それはいつからかドラマ作家である私に対する訴えに変わっていったのです。兎に角漫画家が中心になって作られている集団ですから、まだ脚本家という仕事をする人などへの配慮などというものはほとんどなかったようで、脚本家が大事にされるドラマの世界で仕事をしている私に現状を訴えてきたのです。私は二人の冷遇される動画界の脚本家の立場に同情して、現状打破のきっかけを作りたいという気持が高まってしまって、その日から「動画界」で活動をしてみようという気追った気持ちでその一員となったのでした。


やがて数年後には出版社の小学館で、漫画の原作を書くきっかけを与えられた私は、幸運にも「さすらいの太陽」という歌手を目指す少女の生活を描いて大ヒットさせて、やがてテレビ化されることになったのです。私はその原作者として俄かに注目されるようになったのですが、それでこれまでの動画界の差別感を一掃できたかというと飛んでもありませんでした。まだまだそんな状態になるわけではありません。いろいろと紆余曲折あって苦闘しながら、「動画界」という世界に馴染んでそれなりの作品が書けるようになったこともあって、その後「マジンガーZ」「宇宙戦艦ヤマト」「ウルトラセブン」「銀河鉄道999」「六神合体ゴットマーズ」という超ヒット作品と巡り合い、視聴者の支持も獲得することになりました。それらを書いていった脚本家としても注目されるようになりましたが、その後「動画界」自体も時代の進展と同時に「アニメーション」などというハイカラな名称に変わって、今日の隆盛を誇る世界にまでになっていきました。そして脚本家という存在感も、それなりに認識して貰えるようになったのです。それでも放送界へ足を踏み入れた1958年にラジオ番組に参加してから、30年弱という年月を経ると、その主戦場として活躍したアニメーション界での仕事も、じょじょに減ってき始めたところから、新たな活動の場を求めて活字の世界の開拓を始めたのでした。


そんな機会に、幸いにも「宇宙皇子(うつのみこ)」という古代の歴史ロマン作品を執筆することになったのです。しかしこれまで映像の世界で成功したような、実績を上げられるかどかはまったく判りません。かつて「ドラマ」の世界から「動画」界へ転身した時と同じように、まったく未知の世界を切り開いていなくてはならないという、まったく不安な状態に身を置くことになったのです。うまくいくかいかないかはまったく見当もつきません。兎に角「宇宙皇子」という作品をもって活字の世界へ足を踏み入れたのでした。物書きという作業のうち映像の分野では、脚本家としてかなり実績も積み上げてこられましたが、いよいよ初めて本格的に活字の世界へ足を踏み入れたところで、作家としてはどんなことが起こるか判りません。これまで書いてきている何冊かの小説は、こうした世界へ足を踏み込むための習作だったように思います。しかし仕事の世界を変えようとするきっかけのような時ですから、果たしてそれを知った映像のファンたちは私の新天地への転身に興味を持ってくれるのか、それとも拒否の反応になってしまうのか判りません。大変不安になり始めたある日のことです。


 代理店の旭通から連絡があり、新番組の企画に参加して欲しいという依頼がありました。実はようやく活字の世界という新天地に、活躍の場を求めて活動し始めたところだったのに、何と久しぶりにテレビ番組への企画です。気持ちとしては直ぐには承知できませんでした。しかもその内容はどうやらロボット物のような作品にしたいようです。これから挑もうとしている活字の世界とは真逆の世界の話です。


予定では1985年4月に始める予定だということで、もうあまり時間的な余裕はありません。切羽詰まったのは私だけではありませんでした。代理店の旭通の担当である「プラレス3四郎」以来付き合いのあるK氏はもちろんのこと、制作会社も葦プロという新興会社です。総監督に決まっていた奥田誠治氏も早く番組の制作ができる状態にしないと春の放送に間に合わなくなってしまいます。企画書には、「獣戦機ダイカン(仮題)」と書かれていました。


                                            「獣戦機ダイガン企画」1.jpg


 ついこの間まで日本の古代という時代を背景にして、戦乱のために父親を失った農民の子が、権力者への戦いに立ち向かい始めるという話を書いていたところです。そのための緊張感を失いたくありませんでした。これから先の展開にかかわることになる、一巻目の原稿を書くためにすべての生活をそのために没入していたところです。ここでいきなりロボット物に頭を切り替えて、未来向けのSF作品に気持ちを切り替えることは無理であることは明らかです。いくら器用に書きこなす能力を持っているといっても、兎に角気分を古代からいきなり超未来の戦闘物に気持ちを切り替えることは困難です。


 私は現状の状態を説明して引き去ろうとしましたが、これまでの付き合いから、とにかくはじめだけでもかかわって貰いたいという旭通のK氏の懇願もあって、総監督に決まっている奥田誠二氏と共に企画の原案となるものをある程度固めた上で、スタートだけでも脚本をまとめることにしたのでした。それでも何とかスタート台本をまとめたところで、全体的な構成をまとめると同時に、私の弟子となっている若手脚本家に進行を任せることを、K氏にも承知して貰い、私は番組の制作からは暫く退かせて頂いたのでした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言28「ひとくち言霊」(赤飯) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                         「若菜イラスト」.JPG

  

昔は・・・もちろん今でもないとは言えませんが、お祝い事があると、大抵の家ではお赤飯を炊いて祝ったものです。


ちょっと高齢の方であったら、ほとんど抵抗感もなくそういうものなのだと思っているはずですし、おめでたいことでもあれば、自分から今日はお赤飯にしようなどと指示してしまうはずです。そのくらい一般的に浸透している生活習慣だったのですが、昨今はどうして祝う時にお赤飯なのかといった理屈が判らない人も多くなってしまっているためか、それを祝い事がある時に用意するという習慣も次第に過去の遺物となってきてしまっています。高齢者にはちょっと残念な気がして仕方がないいでしょう。生活習慣が変わって、米飯からパン食になったこともあるでしょうね。今日はこの赤飯の原点が、赤米(あかまい)というものだったということをお話したいと思っているのです。


まだ米が、今のように豊かに取れる時代ではなかった古代のことですが、一般的には五穀・・・麦、粟(あわ)、豆、黍(きび)、または稗(ひえ)を常食としていた時代のことです。所謂、米というものはとても庶民の口には入らない貴重品でした。しかし、仮に古代という昔々ではあったとしても、何か喜び事があった時それを素直に表現したいと思ったり、表現してあげようと思ったりしたはずです。そうかといって、特別贅沢などというものが出来るはずはありません。ほとんどの人が農民でしたから、苦心して祝い事をするとしたら、農作業にかかわりのあるものでしかありません。そこで登場してくるのが赤米というものです。


ちょっと話が飛びますが、京都には丹波(たんば)というところがありますね。あの丹波という名称は、丹()の波・・・つまり赤い色の波ということで、赤い稲穂が波打っていたことから起こったものなのです。これこそが赤米の原点なのですが、こんな米が誰にも自由に手にすることができるわけはありません。白米同様こうした貴重な赤米は、滅多なことでは手に入りません。それだからこそ貴重な食べ物だったのですが、農民たちはそれを、本当に祝いたいようなことがあった時のために、わずかに備蓄しておいて食べたというのです。つまり赤米はよほどのことがなかったら口に出来ない食べ物だったのです。そのようなことから一般に祝い事がある時には、大事な赤米を食べるという習慣が出来るようになっていったのです。


やがて農作業の技術進展で、米も作られるようになって、わざわざ赤米を生産しなくても、小豆(あずき)を使って米を赤く染めることも覚えました。そんなことから、祝い事がある時には、赤米ではなく小豆を使って赤くした所謂赤飯を出すことになったのです。赤米が滅多に口には入らない、貴重な食べ物であったことから、それに類似した赤飯を祝い事のある時に食することになったのですが、パン食が浸透してしまった昨今では、とにかく隅っこへ押しやられてしまったお赤飯ですが、せめてその原点の意味ぐらいは、知っておいて欲しいと思って書きました。


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告知と放談の部屋☆ 放78「新たな世界への挑戦」 [趣味・カルチャー]

  

時代が目まぐるしく変わり、生活もさまざまなことで変化してくると、ものの考え方も変化してきます。ああいう「ベテランはいらない」などというような、無茶苦茶なことを言う者は仕事の世界から排除されてしまいましたが、これでいいという訳にはいきません。私はそういった時代の変化が激しくなってきていた時から、これまでアニメーションという世界で中心的な仕事をしてきましたが、年齢を重ねるに従って大変仕事の展開が難しくなるという予感が払拭することができなくなっていました。それでこれまでやりつづけてきたアニメーションの仕事を一旦お休みにして、活字の世界への道を探ろうとし始めたのです。


1984年は2月テレビの仕事から離れて、奈良県の飛鳥へ取材旅行へと出発したのでした。イラストを描くためのイメージを膨らませて貰うためにも、参考になればと思えるポイントを書き上げた資料を基にして、少しでもまとめて史跡を訪ねたいと思っていました。編集長のA氏・イラスト担当のいのまたむつみさん・話のきっかけを作ってくれたS氏と共に旅立ったのでした。


 新しい世界への第一歩をしるすことになる時の、緊張感と躍動感が知らず知らず湧き上がってきます。奈良へついた時にはすでにハイヤーが準備されていましたので、それを駆使して一日八時間も飛鳥古京の主だった史跡を転々と回って、必要な舞台をこの目で確認していったのでした。


                                    「飛鳥史跡歴訪」1.jpg


  


出版の準備としては、兎に角私の原稿が仕上がらないとすべてが動きません。その日から旧藤川家のあの部屋で、夢中になって執筆の作業に入りました。これまでのアニメーションの執筆とは違った作業の始まりで、この日から家族との日常生活は極めて窮屈になってしまいましたが、今思うとよくあの日から娘たちも良く我慢してくれたと思います。


しかし私も映像の仕事から変わる決心を秘めていましたから、気楽に書ける状態ではありません。一応構想は固めてはいたのですが、そのタイトルについても一巻一巻に特色を持たせたいと思って工夫しましたし、その内容についてもあれこれと試行錯誤しながらスタートの話について構想を固めていったのでした。予定では三月末までに脱稿するつもりで六月出版ということですから、兎に角私の執筆が順調に上がらなくてはイラストを描く準備もできなくなってしまいます。


兎に角何もかも忘れて原稿の執筆にかからなくてはなりません。


 時代が目まぐるしく変わり、生活もさまざまなことで変化してくるとものの考え方も変化してきます。あの某局のプロデユウサーのように、如何にも新しがって暴言を吐く者も出てきたりして、世間の常識人たちをびっくりさせてしまったりします。しかし私は彼を笑って見過ごすだけで無視してしまえばいいとは思いませんでした。彼があのような遠慮のないことをいってしまうのにはそれなりに根拠があると思って、ああいう発言に至った背景を推理しながら、将来に向けた仕事の展開ということを考えると、決して安閑とはしていられない時代が来ているのだと思うようになっていたのです。これまでアニメーションの世界に中心的な仕事をしてきたということについても、かなり真剣に考えて見なくてはいけないと思うようになっていたのです。仲間の中には実力だけあれば心配はないということを言う勇者もいましたが、果たしてアニメーションの番組を書くことに安住したままでいられるのだろうか。つまりサブカルチャーは所詮サブカルチャーに過ぎないということなのです。日本を代表する文化としてしてはあくまでもサブでなくてはならない存在なのだということなのです。日本そのものであるという本質を追及していったものではないのです。その評価が文化の担い手として厳然と確立されてはいません。そろそろアニメーションは次代の時代の感性を掲げた旗手たちに任せて、前の時代の旗手たちは別のカルチャーへ挑戦することを余儀なくされる時がきていると思ったのです。幸いなことに年齢的にはまだまだ若かったこともありますから、新たな世界に挑戦するにしても、気力も体力も充分に立ち向かえるものがあるのです。


 私は四十歳を越えていますが、影像とは真逆の活字の世界へ挑戦し始めたのでした。


 机の下に毛布を潜ませておいて、疲れたらその毛布を退き釣り出して体にかけて休みますが、ほどほどに頭を休めるとまた執筆をつづけるという繰り返しをしながら書きつづけました。


 これまではじめて書き下ろした「さすらいの太陽」ははじめて小説らしい小説を書いた時は、今思いだすだけでも恥かしくなる経験をしましたが、その後はノベライズ作品を含めて、何冊かのSF作品を文庫で書いてきたお陰で、かなり活字作品を書くということが、脚本を書くということとは大分違った修練になっていたのだと思えました。大分気構えが違っていましたので、それが負担になって苦しくなるということはありませんでした。その分今回は版型も新書版という成人向きの作品になるということで、別に勢いづく気分を味わうようになっていました。


 もう余計なことは一切考えないことにして夢中で書きつづけました。


 ゆっくり階下の部屋で家族と一緒に食事をするということは諦めて、握り飯とみそ汁を運んで来てもらって、執筆の勢いを止めないようにしました。


 お陰様でこうした切羽詰まるような作業をしながら、締め切りをほとんど破った事無く大量の作品を書きこなしてきたこともありましたので、小説だからと言ってまったく進行のペースが崩れるということもありません。


 事件が壬申の乱で主人公の父親が戦死するところから始まるということもあって、さまざまな資料を机の周辺に置いて、直ぐに役立ちようにしておきましたが、かつて設定のイラストが次々と運ばれえきて、それに目をとしながら脚本を執筆していたことになれていましたので、特に面倒と思うようなこともなく過ぎていきます。こうした形での原稿の執筆は、テレビの脚本の執筆していた頃と変わりはありません。編集長と約束した締め切りは絶対にはずさないつもりで作業はしつづけていたのでした。


 時々紹介者であったS氏はやって来て立つ団で気分転換をしてくれましたが、きっとそんなことをしながら私の筆に進み具合を探って、「火の鳥」の制作で関係のある編集長のA氏に報告をしているのかもしれません。時々他の作家たちはこんな風に締め切りを引き延ばすのですよなどと、強引にも約束通りに書かせようとする編集との攻防戦を面白おかしく話してくれたりして、私の緊張を解いてくれたりもしたのでした。


そんなことがあるので、編集長のA氏はまったく「調子はどうですか」などと様子を探るようなこともありませんでしたので、静かに書かせておいてくれたのでした。


来る日も来る日も書斎からほとんど離れずに、編集長と約束した締め切りは絶対にはずさないつもりで書きつづけたのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放77「変化を求める時代と戦えるか」 [テレビ]

  

私がいよいよ「宇宙皇子」の原稿を執筆し始める頃のことでしたが、テレビ界にはついに激震が走っていました。言うまでもなくあの某局のプロデユウサーによる暴言に対して、ついに大手の映画会社の現場から局に対して抗議が持ち込まれたからです。映画といえばベテランのアーテイストが大活躍している世界です。それを否定するかのようなあの発言は絶対に許されるものではありません。ベテランが存在することで、映画界では新人ではとても達成出来ない作品を生み出せてきましたし、新たな担い手を育てることにも貢献している存在です。


「四十過ぎたら現場には必要がない」というあの発言は、許せるわけはありません。


今後某局との付き合いも断たざるを得なくなるという申入れがあったのでしょう。ついに「GUGUガンモ」の担当で登場した部長は、その役職からも離れることになってしまったのでした。しかし私は彼があのような発言をする前から、その頃の時代の激しい変化の様子を見つめながら、その背景にあるものは何なのか、そしてその変化によってこれまで必死で歩いてきた脚本を書くという世界が、これまで通りでいられるのかそれともかなり変化していってしまうのだろうかとかなり不安になっていたのです。あのプロデユウサーの暴言の背後には、時代が秘めている問題が込められているのではないかとも思うようになっていたのです。彼は彼なりに時代についての受け止め方に対する根拠があったに違いないとありません。しかしそれにしても「これからは四十を過ぎたベテランは必要ない」などという暴言は、あまりにも不用意に公言したとしか言いようがありません。たまたまあの頃私が四十歳を越えていたこともあって大変気になったのですが、現実的にこれから先まで仕事をしつづけることが可能であるという保証は得られそうもありません。今のままでは脚本家として生きつづけられそうもないと考えました。業界ではより活力に満ちた、若い人の感性が求められるようになってきています。年齢が高くなるのにつれて、仕事もこれまで通りにやりつづけられなくなると考えるようになっていたのです。年齢を重ねても核という仕事がしつづけられる世界を開拓するつもりもあって努力をしている最中でしたが、そんな時にあの暴言に出くわしてしまったのです。仲間たちはあの暴言を聞いてどう思っていたのだろうかと、訊いてみたかったのです。そしてあのような発言の背景にはどんな問題があるのだろうかと推測していたのです。


 そんなある日のこと、私が小説を書き始めたという噂を聞きつけた同業の友人が電話をかけてきました。やはり昨今のテレビ局の様子や、仕事についての変化についての話に及んだのですが、若い人を対象にした番組がかなり変わろうとしていることから、これからの仕事の組み立てについては、かなり考えないと苦しくなるのではないかと進言したのです。しかし彼は意外にも時代の変化にはまった無関心で、


「実力さえあれば心配ありませんよ」


私の心配に対して自信たっぷりな口調で一蹴してきたのです。


どうやら彼はドラマ界の人との付き合いがあって、その世界の空気に影響を受けているようで、現在彼が頑張っている世界は、時代の要求を一番受けやすい若年用の世界です。結局私の心配は杞憂であるということで終わってしまい、逆に私は励まされて終わりました。しかし私はそれからも某局プロデユウサーの発言の背景には、時代の要求という問題が潜んでいたのではないかと思うのです。果たして彼は変化を求める時代の勢いと戦い抜けると思っているのだろうか・・・どうも彼の楽天主義には同調できませんでした。そして暫く前に、彼の奥さんから受けた相談について思い出していたのです。どうも彼はあまり仕事に夢中になる性格ではないらしく、いつも暮らしに支障を生じるぎりぎりで頑張っているのを誇りに思っている問いのです。時代の変化に敏感な奥さんは、それに備えてもう一寸真剣になって貰いたいので、何とか彼にアドバイスして欲しいと頼まれていたことがあったのです。しかしどうしても彼のプライドが邪魔をして、時代の変化にはほとんど気にする様子がありませんでした。実は同じようなことで相談をしてきた奥さんが別にもあったのです。しかし私は仕事の展開について、今のうちに将来の設計をしておかないと仕事がし難くなりそうだから用心しておくようにと念を押しておいたことがありました。きっと彼らは私のことをかなり心配性であるという風に思ったでしょうね。それにしても同じようにアニメーションの番組にかかわっている脚本家たちは、仕事についての変化が表れてきているという現実をどのような気持ちで受け止めているのだろうか・・・。時代の要求を無視てこのままつき進もうと思っているのだろうか・・・。少なくともベテランといわれる人は、もっと広い範囲の視聴者と勝負できる世界に活路を見つけ出しておかないと、これまで通りのアニメーションの仕事をつづけるのはかなり困難な時代がやって来そうに思えるのですが・・・。


そんな不安もあって、私はカナメプロからの相談があった時、映画への挑戦をしてみないかと提案して、今までよりも広い世代の人を対象にした作品作りをしようとして、「ウインダリア」という映画の素材の開発にかかったのでした。


どうもここまでくると、同業の脚本家でも四十代を越える人には三つのタイプがあって、はじめから実力があればどんな状態に世の中は変わっても、仕事は切れないと言い張っている人がいるかと思うと、大手の番組制作会社と縁が深くなっているという関係があって、たとえ社会の変化が訪れても最低の支援はして貰えると思っている人、そしてもう一つは私のように、まったく自分の判断で新たな進路を決めようとする人ということになるのですが、何といっても若い人を対象にした特撮、アニメーションにかかわって実績を積んできた人にとっては、いろいろな点で窮屈な思いをし始める人があって、出版部門への活路を求めようとして相談してくる人もありました。しかし俄かに転身しようとしても一朝一夕にはその道が開けるわけはありません。兎に角小説として書くための素材を真剣に開発しておく必要があると、アドバイスしてあげるのが精一杯でした。思えば私が「宇宙皇子」の発想をしたのは、テレビ界全体が勢いを失ってしまって新たな転換を模索し始めた頃からのことで、もう八年も前のことなのです。脚本家についても四十歳を越えた人はいらないなどとかなり挑戦的なことを言われ始めた時、私はふたたび彼の発言に反発を感じながらも、物書きとして生き残っていくために、何をしなければならないかということを真摯に考えてみようとし始めたのでした。


「宇宙皇子」はまずそのための第一歩でした。


時代が目まぐるしく変わり、生活もさまざまなことで変化してくると、ものの考え方も変化してきます。将来に向けた仕事の展開ということを考えると、決して安閑とはしていられない時代が来ているのだと思うようになっていたのです。


「実力さえあれば・・・」


そんな自信とプライドに問題はないだろうか。


 時代の変化に敏感過ぎるのも問題ですが、まったく無頓着なのも問題だとつくづく思ったのでした。


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アニメと音楽の部屋☆ ア54「もうベテランはいらない」 [テレビ]

   

 1983年も秋になると、来年春にスタートする番組がどうなるかが決まる秋の番組の編成が決まる時期がきました。これまでかかわってきたアニメーションの世界も、かなり変化が表れてきたようです。番組の様子が変わるのももっともですが、それを支えてきていた視聴者も時を経るに従って大替わりしてきていました。


 どうやら「ゴットマーズ」を愛してくれていた視聴者も、新しい時代に向った番組からは遠ざかって、その次代を担う世代の若い人たちにアニメーションを後押しする主力として存在するようになってきたようです。そういうことに敏感なそれぞれの放送局は、すでにそうした傾向をキャッチしているのか、発表される番組の素材などを見回してもこれまでのものとはかなり雰囲気の違ったものが多くなってきています。そしてそれと同時に、それらの番組を執筆する脚本家も、男性に交じって女性脚本家がかなり参加してくるようにもなっています。つまりこれまで世の中の流れの中心となってきていた人たちに変わって、次代の若者が担い始めてきていたのです。それにつれて視聴者もこれまでの世代の人たちから次の世代の若者たちに変わってきていました。そうなれば彼らの好みも前の人たちとはかなり違ったものなってきていますし、その楽しみ方も変わってくるものです。そんな空気がまん延する中でした。ついにテレビの某局で部長に昇進したプロデュウサーのO氏は、怖いもの知らずといった調子で大胆不敵な発言をしてしまったのです。


「もう四十歳を越えたアーテストはいらない」


 随分思いきった発言をしたものです。


 このころ局内でも変化があったのでしょうか。これまで私たちもお付き合いがあった番組の制作にかかわってきたプロデウサーたちが、前面から姿を消していったのです。局内での勢力関係に大きな変化があったのでしょうか。


それにしてもあまり無遠慮な発言をしてしまったようです。放送関係者は直接関係がありすぎるために、多少及び腰になっていていたようですが、多少その関係に距離のある映像関係者にはその波紋が広がり始めました。映画の世界ではテレビとは比較にならない長い歴史を経ていますし、そこではさまざまな分野でかなり得意な力を発揮しているベテランが、かなり頑張っているのです。たちまし映画のスタッフから反発に火勝ちたようです。


ところがそんな最中のことでした。東映動画のYプロデウサーから私のところへアニメーション番組の制作に力を貸して欲しいという連絡が入ったのです。しかし私はこれまで経験している作業とは違った本格的な仕事として、「宇宙皇子」という小説の作業にかかろうとしているところなのです。何とかしてこのところの仕事の停滞ぶりから脱出するために、ついに八年間という年月を経て実現する機会を得たところだったのです。それを書き出す前に、確認しておきたいこともありましたのでその準備をし始めていたのです。気持ちが完全に出版の方へむき出しているところだというのに、東映動画からもたらされたのは、何と映像関係者から反発がくすぶり始めている、あの発言をした主である某テレビ局の、しかもあのプロデユウサーが担当する「GUGUガンモ」という作品だったのです。


ひょっとするとO氏の極端な発言は、Y氏が脚本を担当するメインとして私を推薦したことから飛び出した本音であったのではないかと推測したほどです。勿論そこまで考えるのは勘繰りすぎるかも知れませんが、兎に角私のようなベテランが番組制作にかみこんでくることにはかなり抵抗感があったに違いありません。しかし時代の変化ということで言えば、私もかなり前からそのことには実感していることもあって、なるべく番組の制作にはかかわらないでいようと考えていたところです。そんなところへたまたま紹介する人がいて、角川書店で小説を書くことになるところだったのです。


私は先日の発言には反発しているので、親しいY氏の依頼ではあるのですが、受け入れたくないと率直に答えたのです。ところがY氏は腹立たしい思いは理解するけれども、何とかスタートだけでもやって貰いたいといって引き下がらないのです。同じような問答を何度か繰り返しましたが、兎に角スタートの脚本をまとめてくれたら、誰か若手の脚本家に変わって貰ってもいいとまでいってくれるのです。どうやら彼もあまり番組には首を突っ込みたくない様子であることが判りました。問題のプロデユウサーも実績のある私が出て行けば、O氏もそう突っかかることもできないだろうという計算が合ったのかもしれません。兎に角穏便に番組をスタートさせたいという意図がよみとれます。ついにY氏の熱意にほだされた私は、兎に角一回だけは付き合いますということで、仕事を承知しました。


間もなく企画書がファックスで送られてきましたが、細野不二雄原作の「GUGUガンモ」という作品でした。かなり軽いギャグ漫画というもののようです。やはりあえて私がやらなくてもよさそうな原作です。恐らくOプロデユウサーも、これまでの実績から考えてこの番組には向かないと判断して、私の起用には反対していたのかもしれません。私は私で、「動画」と言われる幼児の楽しむサブカルチャーであったものを、成人たちが楽しめるカルチャーとして認めざるを得なくなった「宇宙戦艦ヤマト」で、アニメーションとしてはやり尽くしたという思いがあったのです。そろそろ別の世界での活路を開こうという意気込みに燃え始めていた時のことでした。しばらく前に「プラレス3四郎」で、カナメプロの社長と代理店の旭通の担当であったK氏からも、カナメには新人脚本家がいるので面倒を見てやってくれませんかという依頼があったのを思い出しました。それから彼の力量でこなせる話を書かせながら指導してきたところでしたので、彼を私の弟子として参加させることにしようということを考えたのです。この機会に一人立ちできればいいという思惑もありました。そこで新人脚本家のTを伴って打ち合わせに向うことにしたのでした。


確かな記憶が薄れてしまいましたが、局の狭い会議室のようなところでTを連れて対面しましたが、業界から反発が起こり始めているのを気にしない風に装いながら、実に事務的な打ち合わせをしてきましたが、私はもう二度と会うことはないつもりで、簡単に挨拶すると、それからはほとんど言葉も交わさずに、彼の要求を訊いているだけにしていたのです。すでにTには彼の要求をきちんと聞いておくようにと言ってありましたので、私はほとんどキャラクターにメモを書いたりして真剣には聞いていませんでした。


O氏もかなり私の手前おおへいな口の利き方はできないと思ったのでしょう。脚本の執筆については、いろいろな註文をつけてきましたが、ただ「はい。はい」と聞いていてるだけにして、弟子のTにすべてを託すことにしたのでした。O氏も私が乗っていないのを感じたに違いありません。そのまま簡単に打ち合わせを済ませると、弟子のTに次の脚本を書くように指示を始めたのでした。


実に白けたような雰囲気の打合せはそれで終わりました。


                                            「guguガンモ」1.jpg


約束通りスタートの台本を書きましたので、それからは新たな目標に向かった準備にかかることができるようになりました。いよいよ私自身の進路がかかっている「宇宙皇子」の取材のために、古都飛鳥へ旅立つことにもなりました。


しばらくはテレビの番組とはさよならです。


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告知と放談の部屋☆ 放76「古代作品が受け入れられるか」 [趣味・カルチャー]

  

これまで映像の世界では、視聴者という見えない相手に向って頑張ってきたのですが、結局今回もまた読者という姿の見えない相手を目指して戦わなくてはならなくなりません。すべては角川書店があの企画を承諾してくれるかどうかです。


 テレビの企画では、時代が要求しているものを敏感に察知して、楽しみながら何か心に残してもらえる話にするのが脚本家です。出版という分野では、これまでの経験がほとんどありませんから、改めて読者がどんなものを待っているのかということを考えても、これで絶対なのだという自信を持つことができません。大雑把にどんなものをやろうとするのかということについては、ある程度充分に編集長には伝えましたが、やがて開かれる最初の編集会議で、A氏がどのようにプレゼンテーションしてくれるのかまったく判りません。もうこの段階からは「宇宙皇子」という作品はA氏の努力次第でどうなるかまったく判りません。もう、私があれこれと想像していたところでどうなるものでもありません。A氏が編集会議で他の担当者たちに、あの企画を納得させることができるかどうかにかかっているのです。どのような結果がもたらされるか判りません。


どちらにしても近々まずS氏に報告されるのを待つしかありません。


 S氏の説明によると、角川書店ではA氏は雑誌部門を担当する編集長ではあるのですが、毎月さまざまな部門の編集長・編集者によって開かれる会議において、それぞれの編集部から来月出版する企画を持った者がやって来て、出版する候補を大雑把に選考して、更に上部の者によって開かれる営業部門の責任者、編集長による会議で生き残らなくてはなりません。しかもその企画の出版が決まるまでには、社長を中心とした重役による会議での選考で決定が確認されなくてはならないというのです。


 それにしてもそれぞれの出版社でも同じような選考が何度も開かれて、その月の数点の出版物が決まっていくのだということを知って、これまでの世界では春と秋にそれぞれの放送局において行われる大きな番組の編成会議に提出された企画が提出されて、番組が編成されることになり、その結果がそれぞれその作品の制作会社に連絡があって、ようやく脚本家には原稿執筆の依頼が来ることになるのですが、かかわり方という点では、今回の出版における場合とは比較にならないものがあるということを実感しました。はじめからその中継経過まで、出版の場合は「あとはお任せ」という訳にはいきません。作家と編集者との連携プレイがどう機能するかがすべてを決するようです。あのA氏はなかなかの頑張り屋ではあるということですが、何度も開かれる編集会議の審査でその難関を突破してくれるだろうか・・・今となっては、素材が古代であるということが、変化しつづける時代の要求に逆行するのではないかという心配があるのですが、敢えてそんな時代を描こうとしている私の企画意図を、会議に参加した関係者が理解してくれるだろうか。暫くはそのことが気がかりではありました。


1983年は本当にさまざまな動きが錯綜していた時代でした。私自身がそのスケジュール表をみると、とても普通の作業ではやりきれないと思うような過密スケジュールになっていました。


       「旧藤川家」1.jpg 「書斎1」1.jpg 「書斎2」1.jpg


当時の旧藤川家の書斎あたりはこんなものでしたが、この書斎で机の下に毛布を置いておいて、眠くなったらそれを引っぱり出してかぶり、目が覚めたらそのまま起き上がって書きつづけるといった状態だったのです。


布団にネル時間はほとんどありませんでした。


 その間に映画の制作に入ったカナメプロのみなさんは、着々と制作を進めていたのでした。私の制作はスタッフがみな若手とはいってもかなりの実力者が揃っていましたし、それにさらに他からも実力者が参加してくれたので、それをどうまとめていくかは、ほとんど監督の湯山邦彦氏に託してあります。「ウインダリア」の制作は順調に進められているようでした。


                                          「ウインダリア設定」1.jpg


 こんな最中に、どういうプロセスがあってそういった結論に達したかはまたあとでお話をするとして、我が宇宙皇子」は編集会議の最期の難関といわれる社長・副社長、各セクションの局長が加わった会議にも、社長の決済が出て出版の許可が出たという知らせがありました。もうこれで「宇宙皇子」の出版は決定的になったようです。


1983年の年末近くのこと、私は狂喜してA編集長の報告を聞きました。


 予定は来年の六月の私の誕生日を目指して作業を行うということになったのでした。


 私は兎に角話の舞台になる飛鳥の地を取材したいという提案をしてあったのですが、この段階になって正式に許可が出て、角川書店にあるトラベルの担当者が私の取材したい史跡のリストに基づいてスケジュウルを決めて手配しておいてくれました。来年の二月に出発するということになりました。「プラレス3四郎」以来の付き合いになったカナメプロの社長から、兎に角いのまたむつみがアニメ界から去らないようにしたいので、何か仕事を与えて貰えないでしょうかというかなり真剣な相談を受けていたこともあって、彼女を「宇宙皇子」のイラストレイターとして使いたいという申入れをしたのです。まだ業界ではほとんど無名に近い彼女でしたが、私はその感性が時代の要求に合うと考えたので、すでに編集長には申し入れて許可を貰っていましたが、彼女を紹介するいい機会になると思って、取材には彼女も同行して貰うことにしました。


 いよいよこれまで温めてきた「宇宙皇子」という作品の企画は動き出したのです。数えてみると、やがてこんな話を書こうかと考えた時から、さまざまな紆余曲折を経験しながら何と八年近くも経過していたのですが、ようやく長い年月を経て念願の小説を書くという状態になったのです。


 これで年末はじっくりと話の展開を含めて考え直してみようという余裕さえも生まれました。ところがそんなところへ、一寸気になる話が飛び込んできたのです。


 秋の番組の編成期に、春スタートになる番組が審議される頃のことですが、某テレビ局の部長が、「新たな時代の到来に向けて、もう四十歳を過ぎたアーティストは作業からは退くべきだ」などと、遠慮のない激しい口調で公言してきたというのです。


 激しい時代の変化を背景にして、思いきったことをいったつもりなのでしょうが、あまりにも配慮のない暴言です。たちまちさまざま文化関係の業界界から、その発言についての抗議の声がくすぶり始めたようです。


 私にとっても四十歳を過ぎた頃のことです。


 時代が大きく変化していこうとしていることは間違いないけれども、時の変化に便乗してかなり勝手なことをいう奴だなと、激しい苛立ちを感じていたところでした。


そんなところへ東映動画のYプロデユウサーから久しぶりに電話があって、春から始まる番組に力を貸してもらいたいという依頼があったのです。それが何ということか、このところ問題発言の原点となっているあの某局の番組だったのです。


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告知と放談の部屋☆ 放75「編集長きたる」 [趣味・カルチャー]

  

これまでテレビでは、確かにテレビではあまりSFファンタジー作品を発表しつづけてきてしまいましたから、視聴者は食傷気味になっていたのでしょう。すっかり飽きられてきています。それに楽しめる作品に熱狂してくれる世代もこれまでとは変わってきているのです。みなそっぽを向き始めているのかも知れません。そんな風潮を敏感に感じていましたので、私は現代のSFにも通じるような役行者という超能力者を使って、これまでの歴史上の人物としての捉え方とは違った人物として登場させて、その行者を師として仰ぐ少年を設定することにしました。しかも彼は時代の転換期であった壬申の乱の戦乱によって父を失うという厳しい運命を背負った子です。つまり時代の荒波に揺さぶられている少年を設定したのです。現代という時代の波に揺さぶられている、若者が体感しているような感覚に通じる体験していくようにしておきました。しかしそれでも新しいものに興味を抱く若い人にとってはあまりにも違う世界が舞台です。果たしてそんな作品を角川書店は受けつけてくれるでしょうか。久しぶりに不安がこみ上げてくるのでした。


 さまざまな推測をしているうちに、意外にも早く角川から編集長がやって来るという連絡が入りました。しかしこれまでまったくお付き合いがない出版社です。しかもあの頃は、かなり作品の展開に大胆なことをするということも話題があって、社長の角川春樹氏の意欲的な事業展開にも話題があって注目されていました。発売する小説を素材にして映画化することで、その宣伝も兼ねて書籍も販売促進をするという、他の出版社ではやらない手法で営業をしていました。その最中のことだったのですが、S氏に話をしてから一週間もたたないうちに編集長がやってくるというのです。動きも早いのだなと思ったりもしました。「宇宙皇子」についてはどんな受け止め方をしてくるのだろうかと、多少緊張して待ち構えているとこへ、編集長のA氏は自動車を運転してやって来たのでした。勿論その日はS氏が付き添ってきたのですが、いきなり自己紹介をして落ち着いたところで、乗用車の助手席に乗っていたS氏は、その車内には様々な日用品の小物が雑多に放り込まれているので、それをどけながら座るのに苦労したなどと冗談風に話し出したので、編集長も思わず苦笑してしまい、それをきっかけにしてたちまち砕けた雰囲気になってしまいました。A氏もS氏の冗談めかした社内の机の上の混乱を否定もせずに自ら認めて話す気さくさで、所謂編集として構えたようなところもありませんでした。用心していた私はそんな彼の雰囲気にすっかり緊張感を失っていました。勿論私についてはS氏からレクチャーも済んでいましたので、その日はまずA氏の作業についての説明に大分時間を割くことになりましたが、どうやら現在担当しているのは所謂角川書店でもさまざまなエンターテイメントの雑誌やアニメーションなどを扱う分野が中心で、いわゆる通常の小説が中心ではなく、会社ではどちらかというと傍系の作業になるかもしれません。勿論、小説も出してはいるのですが、あまり世間的に評判になる作品ではないようです。そんなところであの「宇宙皇子」はどういう小説として受け止めて貰えるのだろうかと、多少不安も含めて興味を持っていました。私の希望としてはいわゆる文庫ではなく、親書版という新たに成人向きに起こした判型を狙っていたのです。これまでどうしても若い人を中心とするということで考えると文庫で気安く買える廉価なものが中心となってしまうので、今回はもう一寸大人の人に読んで貰いたいという気持が会って、敢えて判型についての申し入れをしたのです。


 A氏はそれに対して、特別拒否をするようなことがなく、「そうですか。わかりました」といって聞いていてくれました。あらかじめ用意していた「宇宙皇子」の構成表を出して、その内容について、どんな内容のものを、どう展開していきたいのかということを説明していきました。


                            「宇宙皇子構成1」1.jpg 「宇宙皇子構成2」1.jpg


   日本の古代史を背景にした面白さを説明していったのですが、編集長は興味深そうに頷きながら特にそれに対しての反論もなく、私の狙っている世界の魅力というものを聞き止めていこうという様子で、時々感心しように「ああ」とか「ほう」とかという相槌で応じてくれていました。構想についてかなり詳しく説明したように思うのですが、流石に現代の先端をいくような分野の雑誌や、趣味を楽しみ人のための雑誌を手がけているA氏です。本当のところはどうなのでしょうね。かなり興味深く聞いてはくれてはましたが、どこまで理解して訊いてくれていたのか一寸不安になります。やがてA氏は「検討してみます」という返答を残して帰ることになったのでした。


 後に残ったS氏と私はそれから暫くの間、A氏の反応についての分析をしていました。結局どう推理をしたところで、何度も開かれる編集会議であの企画が承諾されなくては、出版という手はずには到達できないという結論になって、その日の話はそれで終わることにしたのでした。A氏との会見の手はずを整えてくれたS氏とは、それまでほとんどお付き合いのあった人ではなかったのですが、なぜかこの日を境にして不思議な連帯感が生まれたような気がしてきたのでした。


 A氏はかなり営業を担当する社長の弟さんの副社長に近い人で、かなり積極的にさまざまな仕事にかかわって頑張っているというので、認められているということなのですが、彼の日常についての噂はかなり常識を超えたものがあるようです。兎に角自家用車を駆使して走り回っているので、いつ自宅へ戻るのかもはっきりとしないほどだといいます。それを証明するように、自動車のトランクにはそのまま車で寝てし待ってもいいように、日用品をすべて積み込んでいるという名物編集長です。


 考えてみると、影像の世界にもそれに近いプロデュウサーがいました。


 東映本社の特撮作品の原作者としても名を知られているH氏で、彼も愛車のトランクに日用品をすべて積み込んで走りまわっていたようです。この頃最前線で仕事をしていた人たちは、みな同じように大変な思いで動きまわっていたのです。しかし今回例に挙げたA氏とHはやはり異例の人として書き止めておいてもいいのではないかと思って書きました。


余談になってしまいましたが、A氏は特に私の説明を聞いて感動したとか、納得したとかいう反応もせずに、「判りました。そのうちお返事いたします」そう言って帰っていったのです。そんな彼の反応の様子から、S氏にはそれほど悪いものではなかったと受け止めたようです。兎に角「宇宙皇子」の運命はA氏に託したのです。結果はどうであろうと、そのうちS氏を通して返答があるはずです。


半分楽しみ、半分心配の気持ちで、その日はS氏とも別れたのでした。 


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