☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 追記 1 [趣味・カルチャー]
「日本書紀」上(中央公論社)
「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)
「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)
「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)
「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)
「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)
「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)
「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)
「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)
「女官通解 新訂」浅井虎夫 (講談社学術文庫)
「官職要解 新訂」和田英松 (講談社学術文庫)
「古今著聞集」日本古典文学大系 (岩波書店)
「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)
「四字熟語の辞典」真藤建志郎 (日本実業出版社)
「四字熟語辞典」田部井文雄編 (大修館書店)
「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所 (三省堂)
「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)
「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)
「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)
「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書
房)
「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)
「嵯峨王朝史 新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)
「遣唐使全航海」上田雄(草思社)
「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)
「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)
「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)
「日本古代人名辞典」第一巻(吉川弘文館)
「日本古代人名辞典」第三巻(吉川弘文館)
「日本古代人名辞典」第四巻(吉川弘文館)
「日本古代人名辞典」第六巻(吉川弘文館)
「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)
「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)
「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)
「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)
「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑4 [趣味・カルチャー]
「神仏にも守護神?」
古代では神も仏も神として認識されていましたから、基本的には神仏混交ということになります。しかし現代人にとっては違和感があるかもしれませんが、日本では基本的に神仏混交という習慣を今も続行していることを考えられます。そんなことから、もっと不思議なことがあるのに気が付きました。
寺院にも守護神があって守っているのです。
日本の伝統の宝庫である皇居も、守護神を置いてその安泰を祈っています。今回はその代表的な見本というものを紹介したいと思っています。
平安京が誕生した頃、京の守護のために最澄が創建したという比叡山延暦寺がありますが、この寺を守るために琵琶湖畔にある日吉大社があるのです。ここでは山王の猿が大事に飼育されていますが、神の使いであるという考えによるものです。
この神の使いの猿が、京都御所にも活かされているのをご存じでしたか。この猿を木彫りにして鬼門にしているところに飾っているところがあるのです。
神は絶対的な存在ですから、彼らを守護するなどということは笑止千万と言うことになりそうですが、どうも実際にはそんなものの存在を無視できないものがあるようです。京都御所にはその鬼門である東北の角には「猿が辻」いうところがありますが、その守護には日吉大社の山王の猿がいます。
京都御所の鬼門に当る猿が辻の猿・・・日吉大社の木彫りの猿が、御幣を持って飾られています。
機会がありましたら御所の東北の角・・・つまり鬼門へ廻ってみてきませんか。これの基となっている日吉大社では、山王の猿を実際に飼っているのですが、何度もここへお参りしていた後白河法皇は、自宅近くに新日吉神社を建てて、その本殿前の左右に日吉大社の神の使いである猿を彫刻にして祀ってあります。いちいちお参りに大津にまで通うことが出来な
くなったのか、じれったくなったのか、自宅の直ぐ裏手に新日吉神社を建立してしまったのでした。
平安時代においては、こうした信仰が浸透していたわけですが、それだけ政争も激しかったのでしょう。京都ではこの他にも、修学院離宮の近くに、赤山禅院というところがあるのですが、猿の彫刻が屋根に挙げられて存在しているようです。別の面から京都を探るきっかけにでもなると面白いですね。
かつて高野山へ行った時のことなのですが、その地に住んでいらっしゃる方から、「ここへ来て荒神社へ行かないというのは、手抜きになりますよ」と注意されたことがあって、早速足を延ばして「荒神社」へ出向きました。つまり高野山を開いた空海は、この高野山を守るために鬼門に当るところに「荒神社」というものを創建したというのです。
それを言われて思い出したのが、同じ空海が中國から戻って間もなく、京都西北にある古刹神護寺で修行しましたが、やがて空海はこの寺の守護のために平岡八幡宮を創建いたしました。
現在の皇居である江戸城には、日枝神社がありますが、これは日吉神社の霊力が協力であることを知った徳川家康の希望で、京都の日吉大社と同じ神・・・つまり大津の日枝山から勧請した大山咋神を祀っているのです。
何処をとっても風水の思想が、現代でも大事にされえいるということがお判り頂けたのではないでしょうか。こんな智識でも旅行なさった時に発揮されれば、ただの観光ではない発見の旅にもなるのではないでしょうか。
本日は意外にも古代のお話をしているようでありながら、現代のお話にもなっているのではないかと思います。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の七 [趣味・カルチャー]
第一章「卓越した指導者といわれるために」(七)
為政者の課題・「評価は天が決める」
今回は承和八年(八四一)のことです。
王朝を率いてから十四年もの間、政庁をひきいていらっしゃった嵯峨天皇は、かつての経験から朝廷に騒乱が起る原因となる、後継をきちんとした決まりに従うということがなかったことから、次は我が子ではなく同じ桓武天皇の子であった大伴親王に譲位なさったのです。それからは太上天皇として政庁から退かれたのですが、それから十年は淳和天皇の為政となりましたが、やがて彼は嵯峨太上天皇との約束どおり、皇太子として協力してこられた太上天皇の第一子である正良親王へ譲位して、政庁から退かれたのです。
その時から仁明天皇の施政の時代となり、もうすでに七年が経過しています。
嵯峨太上天皇も正確ではありませんが、即位された時が八〇九年で二十四・五歳といわれていましたから、それから考えると五十七歳前後になっていて、この頃は体調を崩し気味でしたが、時に応じて訪ねてくる仁明天皇を相手に、政庁での問題については報告を受けながら指示を与えていたように思えます。しかし英邁の為政者も、いよいよ晩年の時を迎えているように思えます。一体、太上天皇の気構えはどのような状態だったのでしょうか。
為政者・仁明天皇
承和八年(八四一)三月二十八日のこと
発生した問題とは
仁明天皇を取り巻く環境はかなり騒がしく、厳しいものがありました。
嵯峨太上天皇とご縁の深かった空海が興した、高野山金剛峰寺が、定額寺として認められて、真言密教の修行の場として活動し始めましたが、この頃は日照りが続く上に風害があって、政庁は出羽国の百姓二万六百六十八人の税について、一年間免除しましたのですが、信濃国が言ってきたのは、地震が起って、一夜の間に雷鳴のような音がおよそ九十四度も聞こえ、墻や建物が倒壊して、公私ともに損害を被ったといいます。農民は勿論のこと町に住む民も、暮らしには厳しいものがあったのです。
神仏に頼ろうとする政庁の思いは勿論ですが、ついに強い神霊を期待して、古の神功皇后の霊に頼ったりもいたしました。ところがそのうちに、宮中にものの怪などという、得体の知れない怪物が現れたりするようになるのです。
一気に不安が高まる中で、今度は日照りがつづき、更に激しい風雨に見舞われてしまって、そのために洪水が起こって家屋を流されてしまうという被害が、続出してしまうのです。
やがて天皇は災害がつづくのをご覧になってこうおっしゃいました.
「天平勝宝四年謄勅符によれば、『先に寺の周辺での殺生を禁止したが、今聞くところによると、時間がかなり経ち、禁制がほとんど行われていないので、もし違反者がいれば違勅罪とする』とあるが、春秋に猟をし魚を釣ることが行われていても仕方なく、殺生の止むのをひたすら待つだけの状態である。しかし、寺の周辺や精舎の前は固より仏教の悟りの土地であり、漁猟の地ではない。聞くところによれば、有力者が法を憚ることなく、国司・講師が監督していないのにつけ込んで、寺内で馬を走らせ、仏前で鳥を屠るような濫りがわしいことが、数えきれないほどだという。災いの兆しは必ずしも点が下さず、民が自ら招く者である。はなはだ嘆かわしいことである。重ねて五畿内・七道諸国に命じて、寺の周囲二里内における殺生を厳しく禁止し、もし違反者がいれば、六位以下の者には違勅の罪を科し五位以上の者は名前を言上書。阿り、見過ごすことのないようにせよ」(続日本後紀)
この後は、「直により、大和国添上郡の春日大神(春日大社)の山内に「おける狩猟と木帰を、透谷の軍司に命じて、特に厳しく禁止させた。
そんなところへ大宰府から連絡があって、新羅人張宝高が先年十二月に、馬の鞍を献進してきたというのです。宝高は新羅王の臣下です。そのような者による安易な貢進は古来の法に背いているというので、礼をもって辞退し、早急に返却せよと指示されました。
彼らが持参してきた物品は、民間での売買を許せと指示します。
人々が不適切な購入により、競って家産を傾けるようなことのないようにせよ。また手厚く処遇し、帰国に要する食料を、従前の例に倣い支給せよと指示いたしました。
同じ頃病床の嵯峨太上天皇は、これまでの自らの為政について、天帝がどのような評価を下そうとしているのだろうかと、思い巡らしていらっしゃったのです。
見舞いに現れた今上が、官民共に太上天皇の積み上げて来られた為政を評価して、ひたすら回復を祈っていると伝えるのですが、太上天皇からは、
「朕の評価は天帝がお決めになられる」
そうお答えになられただけでした。
為政者はどう対処したのか
「優れた人物が規範を定めると、天の意向に従って事が運び、天は手本となるものを弘め、人の行動によって感応するものである。朕は徳が少なく愚かであるが、謹んで行為に就き、己を虚しくして励み、日々に慎み、古の聖君子の治国の道を追求し、先代の民を安んじた方針をたどって採り、人に疫病がなく世が安らぎ治まることを期してきた。しかし、朕の誠意は実現せず、咎めのしるしが出現し、大宰府は肥後国阿蘇郡神霊池が、例年ならば水を湛えて水旱が出来しても変化がないのに、今年は四十丈も涸れたと言上してきた。朕は静かにこの災異のしるしをはなはだ恐れるものである。亀卜によると、日照りと疫病の前兆だという。そこで過去の優れた人物に倣い、前代の手本に即して恩恵を施し、この災害を防ごうと思う。旱魃は異常な大規模災害にならないかぎり、日頃の努力より対処できるものである。灌漑用の池を修理し水不足にならないようにすべきである。また、大宰府管内は西日本の鎮めの地域であるだけでなく、災異のしるしが出現した土地である。府官人は最大限に慎み、不虞に備えよ。遠方にまで布告し朕の思いを知らせよ」(続日本後記)
そんなある日のこと、日食がありました。それに対して天皇はこうおっしゃいました。
「神霊の感応は、誠意がなくては通じず、帝王の功績は、道理によらなければ、達成することが出来ないものである。五畿内・七道諸国に命じて、国司・講師が相共に斎戒して、管内の諸寺において「金剛般若経」を転読し、朝廷にあっては天皇の寿命が延び、国内で若死の心配がなく、併せて適切な風雨により穀物が豊稔となるようにすべしである」(続日本後紀)
太陽は血のように赤く見えたが、間もなく常態違に戻った。
「この頃ほどよい雨が降らず、農民は農作業を取り止めている。もし神霊に気がしなければ、よき苗を損なう恐れがある。松尾・賀茂・乙訓・貴布禰・垂水・住吉・雨師の神に奉幣して、よき雨を願い、風災を防ぐべきである」(続日本後紀)
天皇は災害に対して、どう備えるべきなのかということで苦悩していましたが、同じ頃為政のすべてを終えて、天帝は太政天皇の生涯に、どんな評価を下さるのだろうかと思い巡らしていました。
様々な形で襲いかかる現代の我々にとって、それはどんな問題提起になっているのでしょうか。
すべてを淡々と受け止めて、その生涯の評価を天帝が下して来るのを受け止めようとしている太上天皇ですが、今為政を預かる天皇は必死で、次々起こる困難を乗り越えようとしています。それはあくまでも天命の評価を受ける時のためにも、まず民・百姓の困難をどう解消してきたのだろうかと真摯に考えるのです。
現代の為政者がすべてこれほどまでに、自らの為政に対しての責任を感じながら責務をこなしていらっしゃるとは思えませんが、せめてこれまでの政治生活について、天帝にその評価を問いかけてみるだけの真摯さを持って頂きたいと思います。しかしそれと同時に、我々はどうでしょうか。生涯を終える時に、天帝からの評価がどうあるのだろうかと考えたりするでしょうか。やはり嵯峨太上天皇の心境に近いのではないでしょうか。すべて一生懸命に生きた結果です。それをどう評価してくれるか、淡々と受け止めるしかないように思えるのです。
災害と必死で戦う我が子今上天皇を思いながら、病床の
嵯峨太上天皇はその時を静かに待っているのでした。
温故知新(up・to・date)でひと言
そんな時こんな言葉を思い出すといいのかなと思ったりしています。「蓋棺事定」という言葉です。生前にやったことについての評価は当てにならないものなので、棺の蓋をした時にはじめて、その人の真の値打ちが決まるということが言われます。あなたは生涯を終える時、天帝からどんな評価が得られると思っていますか。地位も名誉も財産も、所詮自分の思い通りにはならないものだという言葉に、「富貴在天」というものがあります。富や位を手に入れるのは天命によるので、人の思うようにはならないということです。卑近な例として紀州の大富豪が不可思議な死を迎えたという事件がありました。あの富裕ぶりが羨ましいと思ったりしたでしょうか。ほとんどの人は否とお応えになられたでしょう。結果はあまりにも悲惨です。人生の評価を決めるのは天帝です。富を得たり、地位を得たり、名誉を受けたりすることに腐心するよりも、先ず目指すことについて誠心誠意努力して生きましょう。「陰徳陽報」ということも言われます。人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現れてくるということもあります。心澄ませて生きましょう。その結果は最後の最後に決まります。天帝のいい評価が出るように、気持ちを整理して精一杯頑張ってみましょう。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言3 [趣味・カルチャー]
「禁断の木の実に異説」
古代の歴史の中で、いわゆる正史からこぼれてしまいそうになりながら、なぜか忘れられないでいるお話があります。
「非時香菓」というものがそのお話です。
これにはあまりにも涙ぐましい物語が残されていて、いつまでも語り伝えられているのですがご存知だったでしょうか。
現代でもできれば元気で長生きしたいと思っていらっしゃる人は、かなり多いのではないかと思うのですが、古代においては現代人とは比べ物にならないくらいに短命であったためもあって、庶民はそれも天命であると思ってあきらめながらも、出来ることなら少しでも長く生きたいと思っていたに違いありません。
そうなると、何でも思うことは手に入れられると考えている時の権力者にとっては、現在の権勢を維持しておくには、不老だけでなく長寿である必要があると、常に考えつづけていたに違いありません。
勿論われわれ平民であっても、病気で長生きしても楽しむということは出来る訳はありません。人生を楽しむには、まず健康第一でなくてはなりませんから、様々な健康維持のためのサプリメントを取り寄せて飲んでいたりしているということが伝えられたりしています。
長寿・・・特に不老長寿は、万人の願いです。
それは古代人も現代人も変わりがありません。
現代のように医学などの発達のお陰で、長命を願った様々な工夫・研究されていますが、この不老長寿という願いは、日本よりもはるかに古い歴史を誇る中国では、強大な権力を欲しいままに行使してきた秦の始皇帝などは、不老長寿の妙薬が欲しいと願いつづけていたことで知られていました。
ある日。そんな彼のところへ呼び出されたのが徐福という男がいました。
東海の小島に不老長寿の樹の実があるという噂を手に入れると、一刻もじっとしていることができなくなって、徐福に「非時香菓」探し求めてくるようにという使命を申し渡したのです。
徐福は直ちに童の男女三千人と、五穀の種、百種類の工人を伴って船出をしたというのです。始皇帝は直ちにそれを認めました。
不老長寿の樹の実があるという東海の小島は、わりに近くにあると考えていたのでしょう。直ぐにでもそれは手に入れられて帰って来るだろうと考えていたのです。その時こそ不老長寿は約束されることになると、心を躍らせながら待っていることにしたのです。目指して行けば、それほど時を費やさなくても手に入れて戻れるとでも思っていたのでしょう。
始皇帝はその時の徐福の願いについては、まったく疑いもしませんでした。多少は苦労したとしても、童の男女三千人と五穀の種、百種類の工人を伴っていくほど大袈裟な旅をしなくてはならないのでしょうか。しかもあれほど多くの種類の工人たちを連れて行くのは不自然です。皇帝の身近に仕えている要人たちは、ちょっとおかしいと思ったに違いありません。
案の定です。当時秦は法治国家になっていたこともあって、大変息苦しくなっていたのです。どうも徐福は皇帝の命令をいい機会にして、亡命を図ったのではないかと疑っていたというのです。しかしその程度のことには、始皇帝も気が付いていないはずはないのです。
重臣たちの進言を聞きましたが、そんなことは承知の上で「非時香菓」を手に入れてくるようにという命を下したというのです。彼はこの頃中央集権を確立して西、南、北の国境は固めたのですが、東は海でその向こうは未知の国だったのです。やがてそのあたりも征服してしまえば、周辺ばかりでなく世界をも手に入れることになると考えていたのでしょう。
彼は如何にも徐福の目的には気がついていないふりをして、東の未知の国の情報を得るために、噂で名高い東海の小島にあると言われている不老長寿の妙薬を取って来るようにと指示したのです。もしそれが手に入れられれば、まさに一挙両得ということになるとほくそ笑んでいたのです。
ところが徐福の村では、それ以来始皇帝の希望に応えることもなく、行方不明になったまま帰国しなくなってしまった彼に、怒りを燃やす者が多くなったといいます。
ところが日本の場合ですが、私たちの年齢の者は「修身」という教科書の中で、必ず載っていた話がありました。
不老不死の妙薬を探して来いという、垂仁天皇の命を受けて旅立った田道間守は、もうそんなことがあったということさえも忘れ去ってしまったと思われる、十数年という長い長い月日をへて、やっと神仙国から「非時香菓」という不老不死の木の実を探し出して戻ってきたという話を、役人の美談として紹介されていました。
ところが彼に「非時香菓」を取って来いと命じた崇神天皇は、彼がやっとのことで手に入れた橘の香菓を持って戻ってきた時には、崇神天皇は崩御してしまわれていたのです。田道間守は橘の香菓を天皇の陵に献じて、嘆き悲しんで亡くなってしまったということが、伝えられてきています。
現代では欲しいと思うものは容易に手に入れられる上に、「飽食」という問題さえも抱えている時代でもあります。
足もとから健康を害するような誘惑が、身の回りを取り巻いているということがあるということを、決して忘れてはならないと思います。
余談になるのですが、古代では滅多なことでは食べられないものといえば、天上にある楽園でアダムとイブが、禁ぜられている木の実を食べてしまったという伝説があります。それはリンゴであったということになっているのですが、本当はエデンの園で二人が食べてしまった禁断の木の実は、リンゴではなくアンズだったのではないかという説を言っている人があります。大島正満博士という方だそうですが、旧約時代の聖書聖地付近にはリンゴはなかったというのです。後の画家たちが、アンズとリンゴ間違えて描いたに違いないといっているのです。事例や植物学的な見地から様々な反証があるようですね。
洋の東西を問わず、手に入れることが困難であるといわれながら、いつかそれを手にしたいと夢を見るのが、永遠の命というものかもしれません。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の六 [趣味・カルチャー]
第一章「卓越した指導者といわれるために」(六)
為政者の課題・「民への気遣いはいつも」
今回は弘仁十四年(八二三)のことです。
嵯峨天皇は右大臣の藤原冬嗣を冷然院へ呼び、「朕は位を皇太弟(大伴親王)に譲ろうと思う」(日本後紀)
かねてからの計画を伝えました。
そして間もなく冷然院の正殿に大伴親王をお招きになられると、あれると、手を引きながら、これまでの在位に当った十四年という治世に当った経緯を述べられた後で、こうお話されたのです。
「朕は少ない徳乍ら、十四年間在位してきた。皇太弟と年齢が同じである。朕は人を見る才能がとぼしいとは言え、皇太弟と長年一緒に過ごしてきており、皇太弟が賢明で仁と孝の特に優れていることは、よく判っている。そこで皇位を皇太弟に譲ろうと思いながら、すでに数年となっている。今、かねての志を果そうと思うのであり、よく理解してほしい」
勿論、大伴親王は拒否をするのですが、天皇の真剣さには背けなくなり、ついに第五十三代の淳和天皇となられたのでした。
これは皇統を巡って無用のいさかいをしなくてはならなかった過去を思い出して、今後嵯峨天皇の系列の親王と、大伴親王の系列の親王とで、交代に政庁を率いていってもらおうという、若い時からの決心であり、大伴親王にも承知して貰っていたはずです。彼は直ちに淳和天皇として践祚すると、嵯峨太上天皇の清冽な思いを引きついていくことになられたのです。
まだ嵯峨太政天皇は四十歳を前にしたばかりで、勢いを持ったまま譲位されましたので、政庁にはまったく心配は存在してはいません。新天皇も民への気遣いには、先帝と同じ思いで向き合おうとしていらっしゃったからです。
嵯峨天皇は在位十四年ほどで太上天皇となりましたが、これは皇統を巡って無用のいさかいをなくそうという思いから、今後嵯峨天皇の系列の親王と、大伴親王の系列の親王とで、交代に政庁を率いていってもらおうという、若い時からの決心であり、大伴親王にも承知して貰っていました。彼は直ちに淳和天皇として践祚すると、嵯峨太上天皇の清冽な思いを引きついていかれることになりました。
まだ嵯峨太政天皇は四十歳を前にしたばかりの勢いを持ったままの状態での譲位でしたので、政庁にはまったく心配は存在してはいません。
新天皇も民への気遣いには、先帝と同じ思いで向き合おうとしていらっしゃいました。しかし・・・
為政者・淳和天皇
弘仁十四年(八二三)四月二十七日のこと
発生した問題とは
百姓からの生活が容易ならない状態という訴えがあって、新たな天皇も様々な配慮をしなくてはなりません。救助を与える側、救助を受ける側のそれぞれの思いには、古代も現代もなく、永遠の課題が横たわっているように思えてなりません。
統治する者と統治される者との信頼感・安定感ということでは、現代に生きる我々と政府との信頼感というものは、平安時代のそれとは、かなり距離感があるような気がいたします。
淳和天皇が嵯峨天皇から譲位されて即位されたたばかりのことですが、天皇は年齢的にはすでに三十七歳に達しておりましたので、長いこと嵯峨の皇太子として仕えてきたということもあって、職務をこなすのに不足はない状態なのですが、こうして為政の頂点に立って臣民を率いていくには、まだその気構えが出来ているとはいえません。
かなり学ぶということでは大変熱心な方でしたし、才覚という点ではかなり優れたものをお持ちでしたが、しかし臣民の信頼感ということでは、とても嵯峨太上天皇とは比べようがありませんでした。存在感が違い過ぎるのです。
「詳らかに従前の帝王を見ると、それぞれ事情に因んで名前を立て、時に従って号を変えている。嵯峨太上天皇は、見たり会ったりすれば、利益を与える祥気を漂わせながら、皇位に就き適切な治政を行って、学問や教化を推進し、軍事の功績を上げた。あらゆる場所で人々が嵯峨太上天皇を天子として喜んで推戴し、治政を謳歌する声は全国に聞こえた。物事を成し遂げても誇らず、安住せず、皇位に執着していない。全世界に恩徳を施し、その徳の高いことはどこの国も及ばないほどである。高い身分でありながら、謙遜して人臣と同列につくと仰せになっている」(日本後紀)
天皇は先帝を太上天皇、皇后に太皇太后と呼ぶことにしようと決めました。天皇は民に対しても、官人に対しても、どう向かい合えばいいのかということについて、まだ判らないことも多かったのです。
勿論、先帝を越えた為政者になろうという気概は持っていらっしゃいましたが、即位前には何度か嵯峨太上天皇に問い掛けられたことがありました。
嵯峨太上天皇はこうお応えになられました。
「天地が開闢すると、天子が置かれるようになりましたが、天命を受けて天子となる者は定まっているわけではなく、徳のある者を助けて天子としているのであり、天は賢く才能のある者を天子として選ぶものであります。私は辱くも徳が少ない身ながら天皇として十余年政務を執り、朽ちた手綱で馬を御し、薄氷を踏む思いできました。しかし皇位を陛下(淳和天皇)に譲り、長い間抱いてきた譲位を果たすことができました」(日本後紀)
為政の始まりに当たって、天皇として幾多の山稜へ使いを遣わして即位の報告を行いながら、太上天皇に対してこうお応えしました。
「朝は君主であった人が、夕に人臣となるようなことがありましょうか。誠に人を教諭し俗を正すとなれば礼が伴わなくてはならず、君臣の上下は礼に従わなければ定まらないものです。陛下は皇太子から即位し、天下に君臨して十二年を超えています。人民は陛下の実力を知り、風俗は教化に馴染んでいます」(日本後紀)
すると太上天皇からは、次のような文書が寄せられました。
『天皇として天下を治めるには賢い人の助力を得て平安に治めることができる』
というのです。
確かに嵯峨太上天皇には、藤原冬嗣という有能な太政官をおいて為政を動かしていました。淳和天皇はまだとても太上天皇のようにはいきませんが、親王たちをはじめとして、王・諸臣らの援助によって天下の政事を平安に遂行できると思うので、正しく素直な心でみなの者が朝廷に助力せよと、協力を促したのでした。
為政者はどう対処したのか
天皇は兎に角身近な者たちの協力を訴えましたが、それと同時に平安京の左右京・五畿内の鰥(妻を失った男、夫を失った女)・寡(ひとり者)・孤(両親のない子)・独(助ける者がいない者)で自活できない者たちに物を恵み与え、諸国の飢えている公民に貸し付けてある、借貸稲の未納分はすべて免除するとおっしゃったのでした。敢えてこのようなことを取り上げるのも、現代の為政者に通じる問題が潜んでいるように思えるからなのです。しかし現代のような時代で平安時代と同じようなことをしようとすると、不公平問題とぶつかってしまいます。貧しい家庭とはどんな状態のK家庭にたいして言うのかということについて、きっちりとした基準を決めておかないと、差別的な問題とぶつかってしまいます。
現代でも生活に困窮する家庭の救済ということの援助が行なわれるようになっては来ていますが、最近になってやっと本格的に動き始めているという状態です。古代との時間を考えると、何という長い時間がかかったものだなと思えたりいたします。
まだまだ為政者と国民との関係ということでは、とても信頼感で繋がってはいないように思えてなりません。
温故知新(up・to・date)でひと言
現代は古代とは比べようもなく、困窮者に対して福祉の手が差し伸べられているように思われるのですが、それでもこの程度では足りないという不満を述べる報道をよく見かけます。国としての規模が大きくなっていることや経済的な規模が広がっている現代だからこそ出てくる不満なのですが、古代で救済される人々との暮らし向きは、とても現代のそれとは比べようもありません。嵯峨天皇、淳和天皇が鰥・寡・孤・独などに救済の手をさしのべたのは、それなりに救助をさしのべる必要に迫られている人々であったはずです。現代のそれらの環境にある人たちとは比べようもありません。もっとその規模を広げて欲しいとは思っても、それまでの追い詰められた環境からすれば、もっと援助して欲しいとはいえなかったでしょう。為政者として人の上に立つ時には、まずこれから共に働くことになる人々に、期待感を持って頂かなくてはなりません。内閣総理大臣にしても、道を究めて、広く道理に通じて全体を公平に見て、正しい判断を下して貰いたいものです。
古い言葉に「達人大観」というものがありますが、それを実践して欲しいし国民の信任を得るためには、ただ権力を誇示するだけでなく、道を究め、広く道理に通じた人は、決して部分に捉われずに、全体を公平に見て正しい判断を下すといいます。多くの人の心を集める「人心収攬」のためには、国民に心ある為政者としての思いを真摯に訴えて欲しいし、「外寛内明」ということを知っておいて頂きたいものです。つまり外部に対しては寛大、寛容に接し、自分自身はよく顧みて、明晰に己を知り、身を慎むということです。どうでしょうか。それがリーダーといわれる人の心構えというものです。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑3 [趣味・カルチャー]
「白塗りに理由あり」
昨今は2017年時代に始まった伝統的で支配的な文化に対する抵抗として起こった、ピーコック時代から今日まで男性も大変身だしなみに気を遣うようになってきました。
今回はその問題については、直接的にはあまり関係がありませんが、それにつて、つい思い出してしまうことがありましたので、平安王朝時代の、公家たちの化粧のことについてお話したいと思います。
薄暗い光の中でも美しく見えるようにという工夫から、白塗りにしていた女性の場合は別として、ほとんどの男性たちが白塗りというのは、どういうことなのでしょうか。
我が国における、男性のピーコック時代の始まりだったのではないのかと考えてしまうのですが、実はこれには深い理由が秘められていたのです。
平安時代の貴族は、湯につかるという習慣がなく、時折サウナ風な蒸気へ当たるだけだったのです。当然ですが不潔なために皮膚病が多かったということが言われています。そして更に、伝染病の一種である痘痕が流行っていて、それが治る時にはアバタが顔面に残ってしまったというのです。それを隠すために白塗りが行われたという現実的な説があります。
現代の俳優さんが、女性であることを表現するために行う白塗りともまったく違った、ごく日常的な問題だったのです。つまりおしゃれとは全く無縁な、現実的な事情によるものだったのでした。
私には当時の食糧事情による影響ではないかと思うことが多いのですが、兎に角現代とは比較にならないほど貧しく、限られた食糧事情のためであったとしか思えませんでした。
調味料といえば塩、酢、醤しかなくて、甘味はありませんでしたから、まさに味気がない食事でした。食べる時にはそれらの調味料を使うしかない上に、塩蔵と乾物の魚で蛋白質、ビタミンAを取るだけで、運動不足です。
しかも近親結婚のために体質が低下していたので、消化吸収が悪くて栄養失調が少なくなかったのではないかと思われるのです。死因に結核や脚気が多かったということを読んだことがあったのですが、その上に体臭があり、それを消すために香が焚かれていたのです。しかし食糧事情がよくなくて、栄養状態が保てないということを考えると精神的にも健康が保てなくなり、極楽往生に憧れて、現世を否定する生き方になりがちです。
更に冬の夜は寒いし照明が暗いので、ものの怪を見てしまうということも起こりがちになってしまいます。
今日の話題である公家の白塗りという状況も、現代の男性のお洒感覚とはまったく違う切羽詰まった日常生活に原因があるということが判って、かなり同情したくなってしまいます。
今考えるとお気の毒としか思えません。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の五 [趣味・カルチャー]
第一章「卓越した指導者となるために」(五)
為政者の課題・「地震の被害と謙虚な反省」
今回は二〇二二年の我々から見ると、実に一二〇〇年も前の平安時代の初期の頃のことです。
弘仁九年(八一八)。嵯峨天皇が即位されてから九年後のことです。
現代では災害の発生については、かなり事前に察知できるようになってきていますが、天災についてはまだまだ正確無比という訳にはいかないようですね。
そんなことを考えると、まだ科学などというものが存在していない平安時代の初期のこととなると、大きな災害が起こった時などは、その被害からの救済ということを考えると、とても想像がつかない困難を招じてしまいます。恐らく政庁は行き届かない事ばかりだったでしょう。
この年の七月のことです
為政者・嵯峨天皇
弘仁九年(八一八)八月十九日のこと
発生した問題とは
大きな地震が襲いかかられて、武蔵、下総、常陸、上野、下野などの関東の国々の山は崩れ、そのために広大な範囲で谷が埋まり、圧死する者が多かったというのです。
中でも百姓はその数が知れないという報告が行われました。
天皇は諸国へ使いを送ってその被害の様子を調べさせ、被害の激しかった者には援助を与えることにしました。
こうした大きな自然災害が起こった時、天皇は被害の様子について、使者から報告を受けると、実に謙虚な思いを述べられます。
「朕は才能がないのに、謹んで皇位につき、民を撫育しようとの気持ちはわずかの間も忘れたことはない。しかし徳化は及ばず生気は盛んにならず、ここに至りはなはだしい咎めの徴が下されてしまった。聞くところによると、『上野國等の地域では、地震による災害で洪水が次々と起こり、人も物も失われている』という。天は広大で人が語れるものではないが、もとより政治に欠陥があるために、天は咎めをもたらしたのである。これによる人民の苦悩は朕の責任であり、徳が薄く厚かましいみずからを、天下に恥じる次第である。静かに今回の咎を思うと、まことに悲しみ傷む気持ちが起こってくる。民が危険な状態にあるとき君一人安楽に過ごし、子が嘆いているとき父が何も心配しないようなことがあろうか。使者を派遣して慰問しようと思う。地震や水害により住宅や生業を失った者には、使者らが現地の役人と調査した上で今年の租調を免除し、公民・俘囚を問うことなく正税を財源に恵み与えよ。建物の修復を援助し、飢えと露宿生活を免れるようにせよ。
圧死者は速やかに収め葬り、できるだけ慈しみ恵みを垂れる気持ちで接し、朕の人民を思う気持ちに副うようにせよ」(日本後紀)
災害が発生した時に、その責任を転嫁できるようなことはまったくない時代のことです。
天から使命を託されて、為政を行う再興責任者と鳴れた天皇は、天から委託された民・百姓の暮らしの安全が守れなかったということで、その責任を自らの至らなさのためだと仰います。これはこれまでのどの天皇にしてもまったく変わりません。天命によって使命を行うものとしての自覚です。
静かに今回の咎のことを思うと、まことに悲しみ痛む気持ちが迫ってきます。
為政者はどう対処したのか
「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者はものを済うことを何より重視し、よく自制して人の希望に従い、徳を修めて立派な精神を践み行うものである。朕は日暮れ時まで政務に従い、夜遅くなっても、寝ずに努めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では天を動かすことができず、充分な調和を達成できないまま、咎徴がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して天がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。おそらくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのであろう。そのため天がこの重大な咎を降し、戒め励まそうとしているのではあるまいか。朕は天の下す刑罰を恐れ心が安まらない。ところで亀甲と筮竹で占うと、今回の地震は天の咎めであることが判った。往時天平年間にこのような異変があり、疫病により国内が衰弊したことがあった。過去のこの異変を忘れてはならず、教訓として役に立たないものではない。百姓が苦しんでいれば、いったい誰と共に君たり得ようか。密かに考えてみるに、仏教の教えは奥深く、慈悲を先とし、教理は優れ、あらゆるものを矜み、教養は深遠ですべてを救済することを目指している。また疫病の災いを祓除することは、前代の書物に記されている。そこで、天下の職に指示して、斎食を設け僧侶を喚び、金光明寺で五日間「金剛般若波羅蜜経」を転読し、併せて禊を行い、災難を除去すべきである」(日本後紀)
国民を率いる責を負っている者として、日ごろの暮らしについても、常に自粛の意識はあるように思えます。
神仏によるその神秘の力による救済にすがるしかありません。
その力を引き出すことは僧に課せられる使命です。
為政者は考えられる手立てを講じようと努力します。
しかし現代についてはどうでしょう。
国民が困難を被っている時に、為政者はどう受け止めていらっしゃるのかと思ったりするようなことがあります。
古代ではほとんどの場合、天皇は自らの評価を厳しく下した上に、様々な被害を被った者たちへの救済を発表しますが、現代の場合は記者会見などでは、
「現代科学でも予知能力を超えるもので、被害が出たことにつきましては、お気の毒としか申し上げようもありません。処理につきましては充分に調査をして対処する所存です」
天災の発生は止むを得ないとしても、そのために起こる二次災害のために大きな被害胃が出たりして、そういうことが起ることが前から指摘されながら、まったく手付かずという状態であったということにつては反省も、通り一遍の欠陥があったことを認めて謝罪するだけです。
恐らく慌てた様子もなく、淡々と被害状況についての報告と、その援助について報告するだけでしょう。
確かに現代科学でもその予知が不可能であることが多いので、とても責める気にもなりません。あとはその救済がどのように処理されていくかが問題になるだけです。
しかし国民の方にも、天災なのだから仕方がないと、納得ししてしまっているのではないでしょうか。関心があるのはその後の救済問題だけです。
科学などの智識もなければ、その発生を事前に察知するようなものは一切持たない、古代の民・百姓と同じ反応になってしまいます。二次被害についても、運が悪くて被害が広がったとしか思わないのでしょう。
兎に角まったく予想もしない天災に襲いかかれてしまったのです。
もっと予知能力を高めるための努力をしてもらうために、働きかけを行いますと、熱心さをアピールするようなリップサービスは、してもいいのではないかと思います。
とても古代の天皇のような、天災を自己責任だと思うような、真剣さが感じられません。
必死に救済を行おうとする働きかけが、その言動からくみ取れるようなものがありません。
被害の大小は別として、そのために被った痛みをどの程度被害者と共有することができるかが、為政を任されている人の存在価値を決めるような気がいたします。
温故知新(up・to・date)でひと言
被害の大小ということはあると思うのですが、古代と現代とでは、その痛みを民と共有しているかどうかということで、大きな差がるように思えてなりません。
関西に起こった西日本豪雨の被害の広がりが予測されながら、宴会など開いていた責任ある議員たちもいたということもありました。
まったく予想される災害に対する緊迫感が感じられません。
決して災害は自らの政治家としての生き方に対する、天の批判なのだというような、思いつめたところなどは感じられません。それだけにこうした災害があった時などは、その対応の仕方に為政者の人間性がはっきりとしてしまうように思われます。
古来天災については「天歩艱難」という言葉があります。時に恵まれず情勢が悪く困難な状態に陥ったのであって、決して為政の誤りであったなどとはいいません。そんな時には、「墜茵落溷」という言葉もあります。人には運不運というものがあるので、それは決して因果応報によるものではないと考えましょうという考え方です。しかし悲惨な目に遭っている人々が出た場合には、「輪写心服」という言葉があるように、為政者はその人々に、自分の思いを正直に吐露して、痛みを共有する気持ちを伝えてあげたいものです。そのお陰でどれだけ救われる人がいるか判りません。そのことはしっかりと心に留めておきたいものです。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言2 [趣味・カルチャー]
「夜明けの妖精・・・」
最近は走る人、犬と一緒に歩く人、夜明けを待つようにして町を散策する人をかなり見ます。しかしこの他のことで夜明けを楽しもうとしていらっしゃる方は少ないと思います。
(…この他のことで・・・)
昨今はあまり超高層ビルやタワーマンションのようなものが出来過ぎて、視界が遮られてしまうようになってきてしまったので、出来たら広がる農耕地や草原、川に沿った土手あたりへ出て、太陽が昇る夜明けの風景を楽しみたいと提案をしたくなったことがあったのです。
古代の暮らしの中で体験するといわれれていたことが、現代生活を満喫していては不可能なようなのです。
昔は・・・もちろん私も生まれていない、はるか昔には背丈のある高い家もありませんでしたから、夜明けの爽やかな光景は家の周辺でも楽しめましたが、昨今は夜明けの妖精、黄昏の妖魔ということを、意識して歩いていらっしゃる方は、ほとんどいらっしゃらないようですね。
そろそろ自由時間も充分に獲得できたでしょう荒、多少古代の人々の楽しんでいたであろう夜明けのロマンを期待しながら、近くの公園でも散歩なさってはどうでしょう。
まだ明けきらない夜明けあたりの時間に歩いていると、その清冽な光の中から妖精と出会うかもしれないということです。
しかし夜明けだけは理解して頂けるとしても、最近は黄昏の妖魔といっても、そんなものが現れるとは誰も思ったりはしないでしょう。とてもそんなことを受け入れる環境ではなくなってしまっています。照明器具が進化した現代では、街はすっかり不夜城のように明るくなってしまっていますから、止むを得ないのかもしれません。
兎に角町を明るくすることは、犯罪を防ぐためにもいいことです。しかし私は闇を楽しめるようにもなって欲しいと思ったりするのです。
そんな時は月の明かりだけで充分ではありませんか。そうでなければ、とても妖魔と出会うことは不可能でしょう。
夜明けの妖精。黄昏の妖魔との出会いを可能にするためには、まず朝は早起きをして、夜から朝に変わる微妙な時を狙って散策をしてみましょう。
光の満ちた朝を迎える訳でもなく、そうかといって夜のつづきという訳でもない、兎に角朝でもなく夜でもない曖昧な時間でないと出会えないのです。
この曖昧な時間こそが、妖精と妖魔に許されている、異世界から現世へ現れる機会なのです。
昨今は、何もかもが激しく変化してきていますが、取り分け地球の温暖化をはじめとした自然環境の変化は激しいものがあります。古代のように明でも暗でもない、微妙に時が移って行く瞬間が消滅してしまいました。そのために朝の妖精はかろうじて現れて来られるとしても、昼と夜の境に現れる、昼でもなく夜でもない不気味な時間・・・つまり黄昏に現れるという妖魔は、明らかに登場する機会を失ってしまったように思えます。
世の中というのは、妖精と妖魔のどちらかが偏ってしまったら、かえっておかしなものになってしまいます。そのどちらもが現れる自然環境があって成り立っていたはずです。
学者の研究によれば、朝のその微妙な時間の表現を、「かれたれ」といったといいます。それに対して夕刻の微妙な時間を、「たそかれ」といったと説明しています。つまり「あの人は誰なのか」と、思わず聞いてしまうほど、はっきりとしない状態を表しているのです。現代使われている「黄昏」などは、この「たそかれ」から起こったということなのでしょう。
現代は明か暗、白か黒か、生か死か、正か悪かというように、とにかくはっきりしたことを求める風潮にあります。
しかし・・・。
夜でも、朝でもない、昼でも夜でもないという、実に微妙に時が変化していく瞬間を失ってしまっていいでしょうか。絵を書くにしても中間色というものがあるでしょう。それを失ってしまったら、どんなに味気ないものになってしまうものか・・・。
かつてアニメーションは色を混ぜて別の色を作るということが出来ない特殊な画材であったために、原色を重ねるしか表現できないという不利があったために、かなり批判をされたことがありましたが、最近はその点もデジタル画法の進化で、すっかり表現が美しく表せるようになりました。しかしその分、なぜか味気なくなったという声もかなり聞きます。
この際中間色という白でも黒でもない微妙な色合いや、時の移り変わりである微妙な季節の変化についてもじっくり考えてみませんか。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の四 [趣味・カルチャー]
第一章 「卓越した指導者であるために」(四)
為政者の課題・「息抜きに射幸心を楽しむ」
今回は弘仁七年(八一六)。嵯峨天皇は即位されてから七年を経過しておられた頃の話です。
これまで天皇は、日常のルーテインはもちろんですが、生き方の姿勢についても変えるようなことをされたことはありません。すべてのことについて、端正な暮らしぶりを貫いていらっしゃいます。
為政に関しては、これまでの朝廷がことごとくその対処に苦慮してきた蝦夷対策も、ただ権力を振りかざして押さえつけようとするのではなく、少しでも彼らを理解してみようという、文人政治家らしい発想で対処し始めていらっしゃったのです。
周辺の方たちも、これまでとはかなり違ったものが感じられるようにはなってきていたのではないでしょうか。
ところがそんなある日のことです。
為政者・嵯峨天皇
弘仁七年(八一六)三月二十七日のこと
発生した問題とは
宮中武徳殿では賭射などといわれる、矢を射る者の優劣を競わせて、その勝者を当てたりするのを楽しむという遊びも行われていたのです。もちろん為政の最高責任者である天皇が、そんなことを主宰されるわけはありません。企画したのは宮中に勤める官人たちなのですが、何とその日は、天皇もそれに便乗してその催しを楽しまれたのです。
これまでの暮らしのあり方を糾してこられた天皇の姿勢を思うと、あまりにも違ったお姿を拝見することになりました。
史実の「日本後記」によりますと、民部・宮内という両省の者が合同で、三百貫という銭を奉献(天皇・太上天皇に対して臣下が飲酒、飲食の宴席を設け、贅を尽くした飲食以下の費用を負担する)して、宴会を終日楽しんだことがあったのです。
ところがその勢いで彼らは、左右近衛の者たちを呼んで射(弓を射ること)を競わせようということになったのです。
当時の武人は走る馬に騎乗して弓を射る騎射と、あるところへ立って的を射る歩射の技術を身に付けることは、大変大事なことでありましたし、魔除けのためにも弓を使いますから、天皇は慣例としてほとんど毎日、豊楽殿や馬埒殿へ出向かれて、射の様子、騎射の様子をご覧になるのが常だったのです。
宮中を守るという務めを果たし、儀式の際に威儀を正すために参列したり、天皇に供奉することも行う左右近衛の者たちなどにとっては、武術の優劣は無視できません。
民部・宮内両省の者はそんな彼らに宴の楽しみとして、射を競わせようとしたのでしょう。もし見事に的を射て勝った者にはその度に酒を振る舞い、銭を与えられたのです。
ちなみにこのころの銭の単位ですが、穴あき銭だと一千文で一貫になるのですが、三百貫というのはかなりの額になります。(江戸時代は九六〇文、明治時代は一〇銭で一貫)
射をやらせる者、射に挑む者、それを見つめる者、みなすっかり寛いでいました。いうまでもありませんが、常にこうした楽しみ方をしているわけではありません。まだ年が明けて間もない三月のことですから、天皇も武人たちの楽しみに乗って楽しまれたのでしょう。
天皇は宮中という厳しい規範の求められるところで、賭弓などということが行われたということで、官衙ではみなびっくりさせられました。
日常は清冽な姿勢を保っていらっしゃる天皇が、なぜそのようなことをさせたのでしょうか。
政庁には処理しなくてはならない問題がいくつもありました。
当時の日本には朝廷の抱える問題として、政庁に随うことになった夷俘(朝廷の支配下に入って、一般農民の生活に同化した蝦夷)といわれる者たちのことや、風雨が不順で農作業が思うようにならない状況がありますし、官人の禄(給料)問題も処理したりしなくてはなりませんでした。そんなところへ、平安京の象徴でもある羅城門が倒壊するなどということが、起こったりもしていたのです。
とても賭弓などを楽しむ余裕などはないはずなのですが、官人たちの申し出に、なぜ天皇は乗ったのでしょうか。もちろん。ただいたずらに臣下の遊びに便乗したわけではありません。政庁には解決をしなければならない問題がいくつもあるのです。その処理については、的確な指示をしていかなくてはなりません。心身ともに疲れるはずです。
天皇はそんなご自分の状態に、一寸緊張感を解放しようとされたに違いありません。
為政者はどう対処したのか
限られた世界でのことですから、宮中で賭弓が楽しまれたという噂が、官衙の中で広がらない訳がありません。
天皇は宮中のことがどう広がっているのかを知ろうとして、数日後に禁苑である神泉苑へ行幸されたのです。
案の定、今度は左右の馬寮の者が銭を四百貫集めて献納して、左右近衛の者に射を競わせて楽しむのに遭遇するのです。
噂の広がり方が、尋常ではなかったのを実感されました。
これなどは正に現代的な問題ということにもなるのではないでしょうか。政治を司る宮中はもちろん政治の中心である内閣府で賭け事が楽しまれたということが判ったら大問題になってしまうでしょう。
まさに今回のような問題は、時代の違いとしか言いようがありません。
内閣総理大臣以下肝心たちは、国民のさまざまな問題解決に腐心しなくてはなりません。その疲れが蓄積していくでしょうが、それをどうやって息抜きをしていくかは、それぞれ責任を持たされている分だけ、負担が蓄積されていくことでしょう。その重圧感を適度に解放しながら、どう政務の激務にかかわっていくか、現代を生きる者の課題でしょう。最近はいささか下火になっていますが、所謂IR法案・・・つまりカジノを含む統合型リゾート施設というものですが、設置されるということの是非について審議されている最中は、ギャンブル依存症ということも浮上して、かなり世間でも騒がしくなっていたことがありましたが、その後副大臣クラスの議員がその拠点を決めることに関して、異国からの働きかけにのって、便宜を図ろうとして摘発されてしまいました。その為もあって、まだ法案は棚上げになってしまっていているようです。平安時代のように、朝廷という規律の厳しいところで暮らす役人たちの息抜きのために、厳しい姿勢を保たれていらっしゃる天皇が、理解をしたということに意味があったと思うのですが、その頃官衙に勤める者の規律が守られないという問題が浮上している頃であったということを考えると、天皇もかなり思い切ったことに理解を示したことになります。
もちろんそれが日常になってしまったら大変ですが・・・現代ではあくまでもギャンブルとそれが行われる地域の経済ということでは、かなり難しい問題がありそうですね。ギャンブル依存症という問題とはまったく別次元のお話になってしまっています。
すでに政府は形を変えて、勝負に金品を掛けるということも公に行っています。射幸心ということでは身近なパチンコをはじめとして、競馬、競輪は言うまでもなく公に認められたものは、それに賭けて利益を得るのを楽しみにできます。つまり楽しみの範囲で許されていることです。しかし現代ではそれを行うことで得る利益を、国家予算にまで組み込んで運営しようということで、大掛かりな賭博場であるカジノを開こうという企画が注目されることになったのですが、これは気分転換という範囲を超えたものになります。息抜きということは判っていても、その勝ち負けの刺激で知らないうちに熱し過ぎてしまって、度を過ぎてしまうことが多々あるのがギャンブルの特徴です。
そのために平穏無事であった日常生活を破綻させてしまうことにもなります。正に古代も現代もない問題です。
度を過ぎると必ず大きな問題に発展してしまいます。
温故知新(up・to・date)でひと言
兎に角賭け事というものは、一度はまってしまうとなかなかきっぱりと区切りをつけることが困難なもののようです。
平安京の政庁の方々は大極殿や朝堂院へ戻れば、為政の責任者として、大小さまざまな社会問題に対して、その処理を速やかに行わなくてはなりません。けじめはつけていたはずです。古くからある四字熟語には、「内憂外患」といった言葉があります。国の内外に心配事が沢山あるということです。仮に賭け事に熱中することがあっても、それはひと時の楽しみであって、決してけじめのつかない状態にはならないように気を付けなくてはなりません。「隠忍自重」という言葉のとおりです。いつまでも浮かれて軽々しい行動などをしないように、慎重に事の処理を行って、すべて臨機応変に処理をしていかなくてはなりません。「融通無碍」という言葉のように、その時の政庁の都合で為政をやってはいけません。
それをさせないように、政治の向かう方向を平静に見つめる我々の視点が必要です。それができるかどうか、敢えて賭け事を取り上げましたが、あくまでもそれは作業を円滑に進めるための気晴らしであって、決してはまり込んで度を過ごしてしまってはならないという、自覚を持つ必要があるように思います。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑2 [趣味・カルチャー]
「政治改革の行方」
昨今は何かにつけて「改革」・・・イノベーションということが叫ばれます。
とにかく大変耳障りがいいものですから、誰も彼も「改革」ということについては特に反対はありません。しかし問題は、改革をした結果どういうところに前とは違った効果が表れているのかということが、評価の対象になるのではないでしょうか。
この改革ということは、決して今に始まったことではなくて、昔高校の日本史の授業などで登場したことがあったのです。思い出すのが、奈良時代から平安時代に変わる過渡期に登場した、光仁天皇の政治改革のことです。
この頃天皇というのは権力者ではありましたが、本当は政治の頂点に存在する、象徴的な存在に過ぎませんでした。
天皇が祭政一致で権力を掌握していた時代は、天武天皇の在世中のことで、その後持統天皇が登場した頃からは次第に祭政一致はなくなり、天皇は祭りごとの中心に勤めを果していますが、政については皇族、貴族に任せていたのです。その為にやがて皇族は政治から離れるようになり、政は貴族によって行われるようになっていったのです。
ところがその頃から、どうも政治の世界は歪み汚れていってしまったように思います。
要職に就いた者は、出身貴族の一族のために利益を図って、その反映と権力を保持しようとしましたし、自分の野心を遂げるために、都合の悪い者は抹殺してしまうという状態にまでなってしまったのです。しかしこの
ような時代が長くつづいていくと、同じ者がいつまでも権力を握っていることになり、どうしても腐っていくのが政治の世界のようです。
奈良時代の末期にはどうにもならない混乱期が訪れて、権力者であった藤原氏もその威光を失っていってしまいます。
その間に一番問題になっていったのが財政的な逼迫という問題です。
政治の中心であった朝廷も肥大化してしまって、ついには天皇家の生活の中心である内裏の維持費までも、ままならない状態がやってきてしまったのです。そこで登場したのが光仁天皇ということなのですが、兎に角混乱を収拾するためには清廉潔白な人ということになって、多少高齢にはなっていましたが有力者たちから押し上げられた方だったのです。
天皇は政治の中心になるところである朝廷が、きちんと機能しなくなっていたのを知っていましたから、先ず肥大化して機能しなくなっているものから整理していくことにしました。
まず朝廷で働く官人の整理です。
つまり役人の整理をすることになって、各省庁からかなりの人を整理していきました。そうなると長いしきたりの中で安住してきた者たちからは、反発を招いたことは間違いありません。しかし光仁天皇は、役人ばかりでなく、ただ権威だからといっていつまでもその頂点に君臨していて、実際には何の活動もしない大学寮の博士・・・今の国立大学の教授のようなものですが、長老だからといって生徒の教育もろくろくやらずにふんぞり返っている者に代って、意欲的な若い教育者を引き上げていったのです。
これなら各界から大絶賛されて評価されることになるだろうと注目していたのですが、しかしそうならないところが世の中の厄介なところですね。
自分たちではどうにもならなくなってしまったのは、光仁天皇に為政を託したからだ。自分たちに不利なことばかり起るのだということになってしまったではないかということになってしまって、改革の象徴であった彼は、たちまち面倒な存在に早変わりしてしまったのです。
一刻も早く天皇の地位から引きずり下ろしてしまおうと動き出します。
まさに古代も現代もありません。政治の世界は進化していないと言うことです。
自分たちの都合で持ち上げておきながら、風向きが変わった途端にたちまち引きずり降ろそうとし始めるのです。
光仁天皇の在位期間は、わずか十一年という短期間で終わってしまいます。その足を引っ張ったのは、何と光仁天皇に政治的な混乱を収拾させようとして即位させた藤原氏そのものだったのです。
古代ではあくまでも天皇は為政の頂点に置いておく飾りのようなものだったと書きましたが、実社会において権力を持っている者たちにとって、都合よく動いてくれなくなった者は、たとえ天皇であったとしても容赦なく退きずり降ろしてしまいます。
まるで現代の政界を見るような気がします。
懸命に為政を糾そうとしてきた人でも、権力者にとって都合が悪くなってしまうと容赦なく引きずりおろしてしまいます。
どうして切実であった財政難が迫っていたというのに、このような結果になってしまうのでしょうか。押し上げた者も引きずり下ろすのも同じ者です。
どうも改革という叫び声は美しく響くのですが、実際に運用されるようになった時、本当に国民のためになったのか、いつの間にかごく一部の権力者が有利になってしまっているのではないのかというようなことを、じっくりと見つめていく必要がありそうです。
そうです。
改革の本質を知って見つめつづけるということこそが、改革を実のあるものとする肝心な作業であるように思えます。時代が改革を求めている時であるからこそ、余計に心にかかっています。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の三 [趣味・カルチャー]
第一章 「卓越した指導者であるために」(三)
為政者の課題・「罪人放免の温情の意味」
今回は弘仁四年。(八一三)のことです。
嵯峨天皇即位から四年後のことで、まだ為政にかかわってからそれほどたってはいません。三十歳になるかどうかという年齢です。
天皇は何事につけても即断しておられますが、時には慎重に判断をされることもあるようです。それは異国人に対しての法というものの扱いということでした。これまでの決まりというものを、無視してしまうということはありませんでしたが、この頃になると、日本もただの島国として、独自な生き方をしていればいいと言ってはいられないことが起こりつつあったのです。
天皇は法というものについては慎重に判断さていたのです。
これまで前の法がきちんと正しく行われているかどうかということについて、考えてみる必要があると考えていらっしゃったのです。
そのために起こったことについては、早急に結論を出してしまうようなことはせずに、慎重に対処していらっしゃいました。
為政者・嵯峨天皇
弘仁四年(八一三)三月十八日のことです
発生した問題とは
弘仁四年(八一三)三月十八日のことです。
肥前国から不気味な報告が飛び込んできたのです。
佐賀県の町におかれた軍団である、基肆団(佐賀県三養基山町に置かれた軍団)の校尉貞弓によりますと、新羅人百十人が五艘の船に乗って、小近島(五島列島の東部)に着岸すると、島民と戦い、島民は新羅人九人を打ち殺し、百一人を捕虜にしたというのです。
また別の日、新羅人一清らが、同国人清漢巴らが聖朝(日本国)から新羅へ帰国したと言っていますが、朝廷は新羅人らを訊問して、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は慣例によって処理せよと指示いたしました。
ところが文人政治家として、これまでの権力志向の天皇とはかなり考え方の違う発想をされる嵯峨天皇だったために、直ぐにその日の決定に対して、公卿からある申し出が行われたのです。
為政者はどう対処したのか
「過罪を赦すことは、天皇の深い思い遣りがあってのことであり、罪人が悔い改め反省するならば、自首や違法状態の解消が何年にもわたって延期されることがあるでしょうか。しかし恩赦が出されても、自首しない者がおり、赦後・赦前の犯罪かどうかについて、追究することなく多くは、いい加減なまま赦しています。これは日限を立てるべきなのに立てないことによります。そしてこれが悪事をなす契機となっているのです。そこで、伏して先の日限を立てている以外の継続犯(犯罪が過去のものとなっても、その状態が続く場合、犯罪が続いているとみること)・状態犯(犯罪が行われた後法の侵害は続くが、法益の侵害が発生したことで終了するもの)で、恩赦の対象となった犯罪に関しては、恩赦布告後三百六十日以内に自首するものとし、この期限を経過した後は赦の対象としないよう要望いたします」(日本後紀)
それに対して天王は、新羅人たちは尋問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例より処置せよと指示された。
政治というものは実に難しいものです。
天皇は対外的なことに話が広がらないようにということで、新羅に対する扱いが厳しくならないことを考えて指示をしたのですが、その一方で彼らと戦った島民たちについての扱いが、うやむやにしてしまうのはよくないとおっしゃるのです。
天皇のおっしゃる通り、このところ長い親交関係にある渤海国との交流に分け入ってくる、新羅国に対する警戒心もあって、襲ってきた者たちの処理によっては不測の事態が起こることもあるということから、穏便な処置で済ませたのですが、彼らに立ち向かって戦った島民も、同じように穏便な処置をしてしまうことにしてしまうと、これまでの法が守られないようになってしまうというのです。
公卿たちからは、朝廷を揺るぎない安定した状態にしておかなくてはならないと進言してきたのです。つまり新羅国の立場を忖度して行った処理だったのですが、公卿からは国内の罪人に対しての恩赦のあり方については一考を要するのではないかという問題が持ち出されたのです。
新羅と戦ったのだからと恩赦の対象にしてしまったら、これまでもかなり守られていない恩赦という法が、ますます守られなくなるというのが趣旨でした。この天皇と公卿との発言について、現代の受け止め方としてはどう考えればいいのでしょうか。
現代でもよくある話ですが、特に「恩赦」ということについては、その時の為政者にとって、かかわりがない場合はいいとしても、様々なことでかかわりがあった場合などは、かなり疑問を感じざるを得ないことがあります。
その扱いに関しては、注意していないと、為政者の都合のいい形で利用されてしまうことになってしまいます。
対外的に配慮して行った「配慮」を、国内にも及ぼしてしまうことは為政を率いる者として問題になりそうです。そうかといって対外的に強硬な姿勢を明らかにしてしまったら、いたずらに敵対心を刺激することになってしまうという問題に、突き当たってしまうことになってしまいます。しかしそうかといって侵略して来た者と戦って撃退した島民たちを無視することもできません。
恩赦のあり方については、大変難しい問題ですが、結局すべての者に恩赦を与えるのではなく、これまで法を順守する者についてだけ恩赦を与え、これまで恩赦を与えられながら、自主的に出頭してこない者についてはこれまで通り厳しく処理するということにしたのでした。
同じ法を執行するについて、天皇と公卿の立場や対外的なことと対国内的なこととではどう受け止めるべきなのでしょうか。
実に微妙な問題でした。
温故知新(up・to・date)でひと言
天皇は大変度量のある方でしたので、為政の基本の姿勢としては、「恩威並行」という立場を維持していらっしゃったのでした。厳しくすることはきちんとした上で、恩賞を与えることにしていらっしゃるのです。基本的に性善説を基本にしていたに違いありません。社会の平穏を脅かす者には、厳しい刑罰を行うということを実行してきましたが、犯罪を起こすに至った事情を知った時には、「情状酌量」という配慮をする優しさも発揮されていたのです。
現代でも刑期を終えて釈放されながら、直ぐにまた再犯で投獄されてしまう者がかなりいます。犯罪者のそれぞれの事情について精査したら、その原因が社会情勢によるものなのか、それとも本人の性格によるものなのかがはっきりとしてくるはずです。「強悪強善」ということも言われるほどで、悪の限りを尽くした悪人がひとたび悔い改めると、逆に生まれ変わったほどの善人になるということがあります。敢えて世の決まりから、はみ出て暮らそうとする者もいないわけではありません。しかしその時に被る負担は、あくまでも自己責任です。社会のためだというような言い訳は許されないのではないでしょか。皆が生きやすい世の中であるためには、お互いに護るべき社会規範は守っていかなくてはなりません。昨今は犯罪も極めて個人的な問題から発生するものが多くなっています。その背景には様々な時代の様相が潜んでいるような気がいたします。そんな中でそれらの犯罪者をどう扱ったらいいのか、犯罪を裁く人はそんな問題提起にどう応えるべきなのか、充分に腹積もりを持っている必要がありそうです。
異国についての襲撃を考えながら馬埒殿で騎射を観覧した後で、天皇はこんなことも発言されました。
「治国の要諦は民を富裕にすることであり、民に貯えがあれば、凶年であっても防ぐことが可能である。この故に、中國古代の聖帝禹は九年間治水につとめ、人民が飢えることがなくなり、殷の湯王の時代に七年間、旱害がつづいた
が、民は生業を失わなかったのである。ところで、現今の諸国司らは天皇の委任に背き、不適切な時期に百姓を労役に動員して農繁期に妨害をなし、侵奪のみをもっぱらにして、民を慈しむ気持ちを、持っていない。このため人民は生業を失い、自ずと飢饉に陥っている。格別の災害がないのに、絶えず人民が飢えているとの報告がなされているのである。このため毎年賑給(恵みを与えること)を行い、倉庫はほとんど空尽となってしまった。ここで災害が起これば、どうして済うことが出来ようか。悪しき政治の弊害として、こうなってしまったのである。今後は農業が被損
したり疾疫以外で朝廷に対し安易に賑給を請願してはならない」(日本後紀)
政庁を取り巻く環境は、そんなにいい状態ではなかった時のことでした。それを取り除こうとしておられていたのでしょう。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言1 [趣味・カルチャー]
「鬼籍って?」
人は亡くなると鬼籍に入られたといいますが、戸籍の類にそのようなものがあるとは思わない人が多いのではないでしょうか。しかし必ず最後はこの戸籍に登録されることになるようです。
どうも言葉の響きの中に「鬼」などという言葉が入ると、ちょっと怖い気持ちになってしまうのでしょうか。それとも昔から桃太郎の「鬼退治」のような話があったためでしょうか、
どうしてもその「オニ」という語感から怖い怪物というイメージが浮かんできてしまいますが、実はこの「オニ」という言葉には「隠れる」という意味があって、その「オニ」という意味があるのですが、つい亡くなると地獄へ落ちるような意味にとってしまいがちになるので、「鬼籍」へ入ったというといやな気分になってしまいます。
中国などでは、もともと「鬼」というのは死者の霊という意味であったといいます。だから当然この世の人ではなくなったので、「鬼籍」へ登録されることになるということです。
余談になりますが、平安時代の天皇の中に、死んだ後は鬼になるということを信じていらっしゃった方がいらっしゃいました。
第五十三代淳和天皇です。
淳和七年の五月のある日のことです。
天皇はすでに太上天皇となっていらいましたが、後を託した皇太子の恒貞親王を呼んで、死後のことを頼んだ後で、思わぬ話をなさいました。
「私は、人は死ぬと霊は天に上り、空虚となった墳墓には鬼が住み着き、ついには祟りをなし長く災いを残すことになるときいている。死後は骨を砕いて粉にし、山中に散布すべきである」
このように命じられました。
しかし皇太子は「墳墓も宗廟もなくなってしまったら、私たちはどこを仰ぎみたらいいのでしょうか」と問い返しました。
それには太上天皇からは、「わたしは気力を創出し、結論を出すことが出来ない。あなた方は嵯峨太上天皇に奏上して、決めて頂けばよい」
そうおっしゃって、やがて享年五十五歳で昇天されたのでした。
死後は火葬ののちに、遺言通り山へ散骨されたようです。鬼が登場する機会を与えなかったのかもしれません。天上に向われた霊は、綺麗な霊魂となって鬼籍に入られたのかもしれませんね。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の二 [趣味・カルチャー]
第一章 「卓越した指導者であるために」(二)
為政者の課題・「状況に応じた指導をすること」
まだブログは始まったばかりですから、はじめてお付き合いする方もいらっしゃると思いますので、今回のシリーズについての概要についてもう一度説明しておきたいと思います。
今回のブログのシリーズは、弘仁元年(八〇九)から天長・承和十五年(八四二)にわたるほぼ三十年間は、政局も安定し、平安文化も華を開いたといわれていた時代
を扱う、探段のための素材です。
為政の責任者であった嵯峨天皇と民・百姓が見つめて暮らしていた現実というものが、どんなものであったのかを辿っていると、なぜか我々が現在見つめて暮らしている現実と、重なり合うところが妙に多いということに気が付きました。同じ国の、同じ人々によって記録された生活の喜怒哀楽の姿は、本質的に古代も現代もないということを実感させられたのです。
そこで・・・、ようやく自由になる時間を獲得された方々に、閑談の素材となる読み物として、提案をしたいと思って始めることにしたブログです。
本来は全体を編年体で書いた方が理解し易いとは思ったのですが、今回は取り上げた問題の年代が、前後することが多々あると思います。それは章ごとに設定したテーマが決めてあるためなのです。
取り上げた素材に秘められている問題に、現代の問題として考えて頂きながら、楽しんで頂こうという試みが秘められているのです。
一話一話をその頃の現実として受け止めて下さい。
そこで今回取り上げたのは、弘仁二年。(八一一)嵯峨天皇にとって即位から二年目のお話です
為政者・嵯峨天皇
弘仁二年(八一一)二月十四日のこと
発生した問題とは
政庁が動き始めた時、嵯峨天皇がすぐに直面させられたのが、飛鳥・平城時代から引き続いている厄介な問題の一つであった、陸奥国一帯に勢力を持つ蝦夷という民族との抗争問題でしたが、天皇は改めて慌ただしく平城天皇から譲位されて為政を受け持つことにさせられた時のことを思い出していました。
平城天皇は即位してからわずか五年弱という短期間の治世でしたが、桓武天皇の信任が厚かった藤原の南家を背景にした実力者の伊予親王による、天皇に対する呪詛という事件が起こったのです。それを知った藤原の北家を中心にした政庁の中には、不穏な空気が漂い始めて、天皇は皇太子であった弟の神野新王に、後を頼まなくてはならなくなってしまったのです。
親王は直ぐには受け入れませんでした。その間に補佐に動いてくれていたのが、北家の実力者である内麻呂の子の真夏・冬嗣という兄弟でした。二人は神野親王に被害が及ばないようにと庇いつづけてくれたこともあって、政庁の空気が治まりつつあり、ついに大同四年(809)の四月に譲位という形で為政を受け継ぐことになったのです。嵯峨天皇はまだ二十五、六歳という若さでした。
主力となった藤原北家の後押しがあったこともあって、政庁での手足を受け持って動いてくれるのに助けられて、為政の責任者としての務めを果たすことができるようになりました。
それだけに天皇は周囲への気配りもなかなか大変でした。兎に角古代の天皇の中でも学識経験者の中でも、かなり政治家としての見識の高い英邁の士として評価の高い天皇です。様々ことでの気遣いがあったと思われるのですが、国を率いる者として実に先進的な発想で災害に対処されましたが、ようやく動き出した時に、ぶち当たったのが
、飛鳥・平城時代から引き続いている厄介な問題の一つであった、陸奥国一帯に勢力を持つ蝦夷という民族との抗争問題だったのです。
その鎮圧や防御のための砦の建設、騒動鎮圧のために財を費やしますし、武器の調達や兵士の多くの兵士を送ったりしなければなりませんでしたから、平安京とはかなり離れた遠隔の地である陸奥国での騒動を鎮めるためには、使う費用は大変な負担になる問題です。これまでの天皇はそれらの民族に対して、兎に角力による屈服をさせようと試みてきているのです。
政庁が動き出して間もなく起こった大きな問題でしたが、文人としての資質をお持ちであった異色の政治家であった天皇は、基本的にそうした異質な民族との問題を、ただ単に朝廷と対峙する相手を大きな力で抑え込んでしまおうと考えることはしませんでした。
彼等との間にある問題について、何が摩擦の原因なのかを知ろうとしていらっしゃったのです。しかしそれにしては、まだあまりにも為政に関わってから日が浅すぎます。天皇は暫く葛藤しなくてはなりませんでした。
正月に行われた朝議の席で太政官たちにこうおっしゃったのです。
「諸国へ移送した蝦夷らは、官が支給する公粮により生活をしている。そこで蝦夷らの子供たちにまで公粮を支給せよ。ただし孫には支給しない」(日本後紀)
そして更に、
「状況に応じて適切な指導をすることが為政の要諦であり、時勢を考慮して良策を立てることが、済民のために本来なすべきことである。朕の目指す飾り気がなく人情に厚い政治は、未だ全国に及んでいないが、滅び絶えたものを再興しようとの思いは、常に胸中に切ないものとしてある」(日本後紀)
為政に取り組む思いを話したのでした。
しかしまだこの頃は蝦夷との抗争が絶えず、そのための指示が度々行われなくてはならなかったのです。
為政者はどう対処したのか
三月になると天皇は、陸奥出羽按察使文室綿麻呂、陸奥守佐伯清岑・陸奥介坂上鷹養・鎮守将軍佐伯耳麻呂・副将軍物部足継らに次のような指示をいたしました。
「二月五日の報告によると、『陸奥出羽両国の兵を併せて、二万六千人を動員して、爾薩体・弊伊二村を征討することをご承認願います』とある。
要求した人数どおり動員して征討を行い、討滅を期せ。軍の力でのちに問題を遺さないようにせよ。
また三月九日の報告によると、兵士一万人を減員したという。将軍らは事情をよく考慮して報告をしたのであろうが、勦討作戦を進めるにあたっては、多数の兵員が必要であるから兵士の減員には及ばない。将軍らはこの事をよく承知して、力を併せ、意を同じくして作戦を完了せよ。
戦闘過程では、出羽守大伴今人が計略を立て、勇敢な浮囚三百余人を率いて敵の不意を打ち、雪中を進行して爾薩体の蝦夷六十余人を殺した。今人の軍功はすぐに知れわたり名は長く伝わった。又この今人は以前備□守に任じられたとき、河原広法と協議して、山を穿ち岩を破って大渠を開設した。百姓は工事の意図が判らず、はじめ嗷々たる非難の声を上げていたが、完成するとその利益を受けるようになり、やがて褒め称えて伴渠といった。古代中国で灌漑水路を開いた西門豹であってもこれ以上のことはできなかったであろう」(日本後紀)
天皇は指揮のあり方を指示するばかりでなく、実践の指揮についても指示をしたりしています。その間にも為政についての指示もしなくてはなりません。
「青麦を刈り、馬の飼料とすることは久しい以前から禁止している。ところで、今聞くところによると、『京や村里の百姓は収穫の時期ではないのに、麦を売却して非常時を切り抜けるための資としている』という。秣として売却して得る収益は、実を収穫した場合の倍となる。秣として売却するほうが民に利益となるのであるから、どうして禁制する必要があろうか。今後は永く秣として売却することを許せ」(日本後紀)
何でも禁止ではなく、苦境を突破するためには民の知恵でやれることは許可しようという大所高所の判断をしていらっしゃいます。天皇には更に解決しなくてはならない問題が控えていたからです。
為政者にはどうにもならない、天災に対する対応についての指示もしなくてはなりませんでしたが、それ以上に気になっていたのは、異民族との抗争をどう収めようかということだったのです。正に現代社会が抱えている、異民族に対することについて、何を提起しようとしているのでしょか。
現代の日本にはすでに様々な形で、異民族が入って来て共に暮らすようになってきています。それにロシアの侵略から逃れてきたウクライナの非難民という問題まで抱え込んでいます。平安時代からの提起とは言いながら、嵯峨天皇が取り上げようとしていらっしゃる異民族との接触の仕方については、決して無視できないものがあるように思われるのです。その典型的な問題の一つは「差別」ということです。古代に起こる蝦夷と朝廷の紛争にも似ていて、相手に対する理解に欠落するものがあるように思われるのです。
それぞれの人にはそれぞれの暮らし方、考え方、置かれた社会的な立場というものがあって、なかなか一律に片づけることが困難な時代になっています。すでに現代は異民族であっても共に生きていかなくてはならない時代になってきていㇽのです。それぞれの人が、それぞれの人の生き方を理解し合い、受け止め合っていく努力が必要な時代になってきているということです。
古来すでに国内問題として、異質な民族との問題と直面することがあったということです。
現代ではすべてが複雑化してきていますから、それだけに解決するためには、これまで以上に知恵と配慮が必要になります。しかも世界にはそうした異民族問題を国内に抱え込んでいる国がいくつもあり、その紛争からの難民問題に支援をするうちに、どうかかわるべきかで苦境に立たなくてはならないことがないとは言えません
温故知新(up・to・date)でひと言
少しでもそうした状況を解消するために、「円転滑脱」ということが云われていたことがありました。物事が円く転がるように、自由自在に変化しながら物事が滞らないように、スムーズに進行できるように心がけていたのです。中でも為政者たちは、その指導によって、「千里同風」・・・つまり千里の遠くまで同じ風が吹くという平和な状態であることを願ったものです。過日港区「八芳苑」で行われたアメリカ大統領バイデン氏の歓迎会の茶席にもこの掛け軸が掛けられていましたね。それは現代に生きる者すべての願いかもしれません。しかしそれには先ず、歴史の先人が指摘するように、お互いがお互いを理解し合うということが出発点となるように思われるのです。ただその時の都合で取り敢えず解決してしまうのではなく、真に解決に迎える第一歩としての前進を心掛けなくてはならないと思います。そのためには「階前万里」というように、みなが目を見開き、心を開いて振る舞う心構えで、問題が何処にあるのかということを真剣に考えなくてはならないでしょう。それぞれが責任ある行動をする時であるように思われます。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑1 [趣味・カルチャー]
「そして誰もいなくなった」
まるでミステリーのタイトルのようなお話になってしまいました。
最近になって俄かに気が付いたことですが、昔は中学・高校・大学時代にお付き合いが多かったので、日常のあれこれから、お互いの情報を交換し合う機会が多々あって、会わなくても、電話をし合うか、コンピュウターかスマホなどで、簡単に相談事ができる状態で満足していましたが、年齢を積み重ねていく度に、その相手にしていた人たちが、ぱらぱらと欠けてくるようになってきたのです。
日ごろ鬱積していることを、気楽に吐き出せる雑談が出来なくなってしまったなと思うようになりました。
もうしばらく前から、物書きの合間に散策に出て、町の文房具屋さん、魚屋さん。八百屋さん。書店の奥様と他愛のない日常の対話を楽しませて頂いていたのですが、生活のさま変わりということもあって、したしめた商店までも廃業ということで姿を消していきました。
町の日常の風景が変わるように、住まう人達も大幅に若い人に変わっていきます。日常のこと、社会的なこと、国際的なこと、心にかかることなどを気軽に吐き出して、思うところを話し合える機会がなくなりました。
少なくとも七十代までは、そういったことを切実に考えることもなかったのですが、八十歳を越える頃になって、にわかに閑談の出来る知人、友人がいなくなってしまっているのをひしと感じます。
熟年のみなさん。
折角自由になる時間をお持ちになられたのですから、気楽な閑談を一緒に楽しみませんか。
今回はそんな呼びかけからさせて頂くことにいたしました。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の一 [趣味・カルチャー]
第一章 「卓越した為政者であるために」(一)
為政者の課題・「災難の受け止め方」
今回のブログのシリーズは、弘仁元年(八〇九)から天長・承和十五年(八四二)にわたるほぼ三十年間は、政局も安定し、平安文化も華を開いたといわれていた時代を扱う、閑談のための素材です。
為政の責任者であった嵯峨天皇と民・百姓が見つめて暮らしていた現実というものが、どんなものであったのかを辿っていると、なぜか我々が現在見つめて暮らしている現実と、重なり合うところが妙に多いということに気が付きました。同じ国の、同じ人々によって記録された生活の喜怒哀楽の姿は、本質的に古代も現代もないということを実感させられたのです。
そこで・・・、ようやく自由になる時間を獲得された方々に、閑談の素材となる読み物として、提案をしたいと思って始めることにしたブログです。
本来は全体を編年体で書いた方が理解し易いとは思うのですが、ブログでは取り上げた問題の年代が、前後することが多々あると思います。それは章ごとに設定したテーマが決めてあるためです。取り上げた素材に秘められている問題に、現代を考えて頂きながら楽しんで頂こうという試みが秘められているためです。一話一話をその頃の現実の姿として受け止めて下さい。
そのような訳で今回は、大同三年(八〇八)の、平城天皇の時代で、嵯峨天皇はまだ神野親王と言っていた皇太子の頃のお話として始めます。
為政者・平城天皇
大同三年(八〇八)五月五日のことです
発生した問題とは
平安京を作られた桓武天皇がほぼ十年で崩御されて、その子安殿親王が践祚して平城天皇となられたのですが、即位間もないこともあって、ひたむきな気持ちで民を率いていこうとしていらっしゃいましたが、お気の毒なことに、そのころ日本全土には疫病が広がっていて、そのために様々な問題が広がっていたのです。
現代の日本では、飢饉などという異常事態はほとんど起こりませんし、それによって生まれる死者が放置されるといようなこともありませんが、しかし平安時代の初期では、それが更に疫病を広げてしまう引き金になってしまうのでした。・・・。
平城天皇は毎朝行なう、朝廷の大事な行事である馬を使って矢を射る、いわゆる騎射を停止しました。
どうも天下に疫病がはやっているためだというのですが、天皇には他にも情報が入っていたのです。
「大同元年に洪水が起きて、その被害から普及しないうちに先年来疫病が流行して、非業の死を遂げる者が多いというのです。人民の困難を顧みると、深く憐れみの思いが生ずるので、恩沢を施して彼らを慰めようと思う。そこで大同元年に七分以上の田が水害により被損したした者が借り入れている、正税稲の未納はすべて免除せよ」(日本後紀)
このような指示が行われたところでした。
情報通りこの頃平安京では、朝廷の力ではどうにもならない飢饉が発生していて、そのために命を落とす者が増えていたのです。その亡くなってしまった人の処理が思うようにできなかったために、疫病が蔓延してしまって死者を増やすという結果になっていたのです。
朝廷内の行事を取りやめて、天皇は今起っている事態に対処しようとなさっていたのです。
子供の頃から、癇癖とか風病といわれる精神的に不安定であっ天皇は、自らの体調の変化に悩みながら、必死で社会的な困難と戦っていたのですが、まず飢饉から暮らしを守るために税の軽減を行い、疫病による若者の死を食い止めたいという気持ちから、神仏の神秘の力に頼りました。こんな時の天皇の受け止め方としては、あくまでも自らの生き方に対して、天帝が叱責してきたのだという謙虚な受け止め方をされたようです。
為政者はどう対処したのか
天皇は十日の朝議の折に、こんなことをおっしゃいました。
「朕が皇位に就いて以来災いの兆しが出現しており、近ごろ天下の諸国に飢饉が起き、疫病がはやり若死にする者が多い事態になっている。これは朕の不徳によるところであり、災いが人民にまで及んでいる。政治に当たり反省し悩むばかりである。政令や刑罰が本来のものでなく、上は天の心とは違い、だらしなく煩雑な政治を行い、人民に災難をもたらす結果になっているのではないかと恐れている。これらはいずれも朕の過ちである。
人民に何の罪があろうか。
「詩経では『人民が疲弊した時は少し租税を軽減すべきである』といっている。そこで、畿内・七道の飢饉を言上してきた国の今年の調はすべて免除せよ。そして国司自ら村々を巡行し、医薬を施し、併せて国分二寺(僧寺、尼寺)で七日間大乗仏教の経典を転読させよ。願わくはこの善行の効果が表れて、困窮した者が食料を得、徳を修めることが無駄にならず、さまよっている死者の霊魂も本来の居所である泰山(死者の集まる山)へ戻れるよう、朕の意に副うようにせよ」(日本後紀)
人為ではどうすることもできない天災であっても、わが身の至らなさと受け止めて、為政に向かおうとする姿勢が窺がえます。
ところが同じ十九日には山陽道観察使の藤原園人が次のような報告を致します。
「山陽道の播磨・備中・備後・安芸・周防の五か国は、去る延暦四年以降、二十四年以前の庸・雑穀等の未進が少なくありません。これは何年も不作がつづき、人民が疲弊したためです。しかしこれらを本来の課税品目のまま追徴するとなると、追徴のことに当たるべき未進発生当時の国司の中には、死亡したり交替している者がいて実施することが困難です。人民は病や飢えで京まで貢納物を運び進めることができません。そこで伏して、未進はすべて頴稲で収納し、正税に混合することを要望します。こうすることにより、公にとり損失はなく、民においては好都合となります。ただし観察使設置以降の未進分については、従来通りの庸品目や雑穀で収納したいと思います」(日本後紀)
天皇はそれに対して直ちに許可されたのですが、このようなことに直面したとしたら、現代の我々はどう対処するだろうか。
災害の連続で苦しみ、そのために発生する疫病のために命を失う者が多いというのです。少なくとも現代ではそこまで追い込まれることがないように対処するでしょう。自衛隊にも出動して貰って、様々な災害による被害を乗り越えています。その救済はかなり行き届いているとはいっても、様々な点での不公平問題があります。先ず、どんな人から救わなくてはならないかということで、多くの国民に理解して貰う必要があるかもしれません。
政庁にかかわる人々は、真に同情すべき人はどういう状況にあるのかということを、真摯に見つめて判断する必要がありますが、行う時には政党間の党利党略を排除して、厳然とそれを行うという決心が必要です。
古代の天皇ですから、予期せぬ災害に備えよなどおっしゃっても、そんなことが簡単にできるはずはありません。もしこういったことが参考資料として出されてきた時には、現代を生きる者としては、どう活かすかということを考えることが肝心です。
古代の天皇はそれらの災害がすべて、自らの至らなさを天帝が責めてこられたのだと受け止められて、真摯に果たすべき務めに励もうとされていらっしゃいました。
そんなことを現代の政治家に問いかけたら、組織と科学を動員して立ち向かうと答えるしかないでしょう。自己責任と感じて立ち向かうようなことはないと思います。
ほとんど答えにはならないということです。仮に旱魃(かんばつ)が起ったり、そのためで疫病が発生しても、それらは科学的な予知が不可能であったと釈明するだけで終わってしまうでしょう。絶対に自分は精一杯努力しているとしか答えないでしょう。とても天帝が咎めてきたなどとは言わないはずです。しかしこうした歴史の資料を読んだ時には、現代に生きる者として、その現象の中から何を学んでおくべきかということを考える必要があります。
温故知新(up・to・date)でひと
先人は四字熟語でこのようなことを言っています。「曲突徙薪」といって、災害を予防することについてこうは、薪を煙突のそばから離れたところへ移すということです。つまり天災は防ぎようもありませんが、せめて自分の不注意から引き起こすことのないようにということです。心構えとしては確かにその通りなのですが、いつ起こるか判らない天災に関しては防ぎようもありません。何らかの疫病で亡くなってしまった死者について、それが広がらないようにするために、素早く火葬なり、土葬などをして処理をするということも考えられますが、しかしそれも生活にある程度の余裕がなければ、速やかに始末することもできません。多くの場合何か問題が発生した時になって、やっと大騒ぎをするということを繰り返しています。それは現代のコロナ騒ぎでも同じでしょう。「亡羊補牢」という言葉の指摘することが心に響きます。逃げられてしまってから囲いを修理しても遅いという指摘です。事前に危険を感じることでもあったら、病魔の発生しないように事前に用心をしておく必要があります。危機を察知したら、兎に角素早く処置をしておくべきです。
兎に角天災のような予期せぬ災害に出くわしてしまった時には、「抜本塞源」という言葉があります。兎に角その根本の原因を突き止める努力をして、正しい処置をするということです。せめて現代を生きる人は、ただ狼狽しているのではなく、そのくらいの知恵は働かせなくてはならないでしょう。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ はじめに [趣味・カルチャー]
「はじめに」
現代は作家の生み出す物語よりも、変化の激しい現実の世界に身を置いて、ありのままの姿で生きる楽しみを抱いて葛藤しています。
そんな時代にスタートさせるブログです。
これまで密かに書いてきた作品から、これが一つの方向を目指す読み物になるのではないかと考えて、取り上げることにしました。
既に「おしらせ」の中で、これから書こうとすることの全容はお話してありますが、現代日本の現実と平安時代の現実とでは、かなり時間的に大きな開きはあります。しかし日本という同じ土壌で生きてきた人間たちの日常の暮らしの中の喜怒哀楽は重なり合うのです。
私は平安時代でも最も安定していたといわれる弘仁、天長・承和にわたる三十年間の暮らしの姿を閑談の素材として取り上げてみました。
その間為政を司っていたのが、たまたま古代史関係者からも評価の高い嵯峨天皇でしたが、あくまでも現実と戦う為政の資料として使わして頂くことにいたしました。
ようやく自由になる時間を獲得された熟年のみなさんに、閑談の素材となるような読み物にしたつもりです。
平安時代でも最も安定していた時代とは言っても、まったく問題がなかったわけではありません。その一つ一つの問題を、知恵と努力によって乗り越えていった、先人たちの記録の一端です。
一話一話にじっくり時間をかけて、おつき合い下さったら幸甚です。
藤川桂介
☆雑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ 2 [趣味・カルチャー]

「新連載の全容を紹介いたします」
前回ですでにお話しましたが、今回は物語性を排除して、弘仁・天長・承和という平安時代の一番安定していた時代に天皇・民・百姓が見つめた現実と、現在我々が見つめて暮す現実とをすり合わせた時に、思いがけない発見があるということを知ったことから、自由な時間をお持ちになられた方々に、そんなことを閑談の素材にして楽しんでみませんかという提案をさせて頂くことにいたしました。
幸い古代には、その時その時の現実を見つめた、喜怒哀楽の思いが籠った歴史の記録が残っています。それを素材にしたお話をすることにいたしました。
タイトルも大胆に「嵯峨天皇現代を斬る」といたしました。
一応平安時代で一番平穏な時代あったといわれている時代が、たまたま嵯峨天皇が統治していらっしゃった時代ではあったので、タイトルにも登場して頂きましたが、決して嵯峨天皇紀の物語を書くわけではありません。あくまでも統治していらっしゃった時代の為政の記録が、閑談の素材になりましたので利用させて頂いただけです。どうぞご理解下さい。
使用した「歴史資料」は、時代の空気を感じて頂くために、極力原本に近い史書の記録を使うことにしました。しかし毎回の素材の取り上げ方については、時間的に前の時代の問題であったり、後の時代の問題でであったりいたします。それは私のある試みがあってのことですので、ご了解頂きたいと思います。構成は全体で十一章になっているのですが、そのそれぞれの章にはテーマに従って分けてありますが、それらについては、私なりの見解も添えてありますが、みなさんもそれぞれ提出された問題について、お考え下されば一興かと思っているところです。
ブログには誰もが参加して楽しめる「閑談の部屋」を作りました。気楽に様々な閑談をしたいと思っていますが、それと同時に日常生活の中でさりげなく使われてきた、俗信とか民俗を紹介する「ちょっと気になる新言霊の部屋」を作りました。思い出に繋がる部屋にでもなってくれると嬉しいのですが・・・。
最期には締めくくりとして、毎回最後にはその日の閑談のテーマであったことに関係して、「温故知新」というコーナーを設けてみました。
その時その時に起こる社会現象に関して、先人たちがどんな感想をお持ちであったかを披露する「四字熟語」です。先人たちはどのような思いを述べられているでしょうか、参考までにお読み頂けたらと思います。
いよいよブログは「七月三日の日曜日」にはスタートすることになります。
原則的に毎週日曜日に更新するつもりでおりますが、文体も縦サイズで書いたのですが、これまでのブログの形に合わせて横サイズで送り出すことにいたしました。親しんで頂けるかどうか判りませんが、こつこつと書きつづけていこうと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
つきまして、一つだけお断りしなくてはならないことがあります。
四月のブログで、「フェイスブック」でも読んで頂けるように研究してみたいと発表していたのですが、あれは撤回させて頂くことにいたしました。 多くの読者を期待するというよりは、私のブログを読んでみようと思って下さる方だけに読んで頂ければそれよいと考えるようになったからなのです。
新連載はこのSSブログのみでの発表です。
来週から皆様とお会いできるのを楽しみにしております。
藤川桂介
令和四年初夏
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ 1 [趣味・カルチャー]

長い時間お休みさせて頂いてきた、ブログを再開するお約束をした時が迫ってきました。
新しくスタートさせる企画にはどんなものがいいのかと試行錯誤を重ねてきたのですが、かねてから密かに書き進めていた作品から、現代の気分にそえるようなものということで、これまでの物語性から離れて、現実と向き合うことをテーマにした読み物にしようと決めました。
弘仁から天長・承和までの、平安時代で一番安定していたといわれる、ほぼ三十年に及ぶ為政を背景にした嵯峨天皇と民・百姓が見つめて暮らした現実と、我々が今見つめて暮らしている現実とを重ね合わせた時に、思いがけず重なり合うようなことが多いということに驚かされました。
もちろん現代日本が直面していることと、はるか千年も前に起こっていたこととでは、時間もスケールも違いすぎるという心配はあったのですが、二つの時代の現実という問題をすり合わせてみると、その本質についてはほとんど現代のものとも変わりがないことを知ったのです。
これこそが、自由な時間をお持ちになれた方々と、史書の記録を素材にした気楽な閑談ができる機会となったと思ったのです。
ブログの余談として、喫茶の時間にでも利用して頂けるような素材についても、いくつか寛げる準備もしました。
いよいよ来週には、全容の紹介ができるようにしたいと思いますので、そのお知らせをすることに板いました。
是非ご期待頂きたいと思います。
藤川桂介
令和四年初夏
追伸
四月までやっていたブログの最終回で、次回のブログが始まる時には
フェイスブックでも読んで頂けるように研究してみたいと発表したのですが、その件につては撤回することにいたしました。
あくまでも読んでみようと思って下さる方だけに楽しんで頂くことに徹するためにです。そんな訳でフェイスブックでの公開はないということにいたしました。
どうぞご了解下さい。