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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の七 [趣味・カルチャー]

      第一章「卓越した指導者といわれるために」(七)


        為政者の課題・「評価は天が決める」


今回は承和八年(八四一)のことです。


王朝を率いてから十四年もの間、政庁をひきいていらっしゃった嵯峨天皇は、かつての経験から朝廷に騒乱が起る原因となる、後継をきちんとした決まりに従うということがなかったことから、次は我が子ではなく同じ桓武天皇の子であった大伴親王(おおともしんのう)に譲位なさったのです。それからは太上天皇として政庁から退かれたのですが、れから十年淳和天皇の為政となりましたが、やがて彼は嵯峨太上天皇との約束どり、皇太子として協力してこられた太上天皇の第一子である正良(まさら)親王へ譲位して、政庁から退かれたのです。


その時から仁明天皇の施政の時代となり、もうすでに七年が経過しています。


嵯峨太上天皇も正確ではありませんが、即位された時が八〇九年で二十四・五歳といわれていましたから、それから考えると五十七歳前後になっていて、この頃は体調を崩し気味でしたが、時に応じて訪ねてくる仁明天皇を相手に、政庁での問題については報告を受けながら指示を与えていたように思えます。しかし英邁の為政者も、いよいよ晩年の時を迎えているように思えます。一体、太上天皇の気構えはどのような状態だったのでしょうか。


為政者・仁明天皇(にんみょうてんのう)


承和八年(八四一)三月二十八日のこと


発生した問題とは


 仁明天皇を取り巻く環境はかなり騒がしく、厳しいものがありました。


嵯峨太上天皇とご縁の深かった空海が興した、高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)が、定額寺(じょうがくじ)として認められて真言密教の修行の場として活動し始めましたが、の頃は日照りが続く上に風害があって、政庁は出羽国の百姓二万六百六十八人の税について一年間免除しましたのですが、信濃国がってきたのは、地震が起って一夜の間に雷鳴のような音がおよそ九十四度も聞こえ、(かき)や建物が倒壊して、公私ともに損害を被ったといいます。農民は勿論のこと町に住む民も暮らしに厳しいものがあったのです。


神仏に頼ろうとする政庁の思いは勿論ですが、ついに強い神霊を期待して、古の神功皇后(じんぐうこうごう)の霊に頼ったりもいたしました。ところがそのうちに、宮中にものの怪などという得体の知れない怪物が現れたりするようになるのです。


一気に不安が高まる中で、今度は日照りがつづき、更に激しい風雨に見舞われてしまって、そのために洪水が起こって家屋を流されてしまうという被害が、続出してしまうのです。


やがて天皇は災害がつづくのをご覧になってこうおっしゃいました.


 


「天平勝宝四年謄勅符によれば、『先に寺の周辺での殺生を禁止したが、今聞くところによると、時間がかなり経ち、禁制がほとんど行われていないので、もし違反者がいれば違勅罪とする』とあるが、春秋に猟をし魚を釣ることが行われていても仕方なく、殺生の止むのをひたすら待つだけの状態である。しかし、寺の周辺や精舎の前は固より仏教の悟りの土地であり、漁猟の地ではない。聞くところによれば、有力者が法を憚ることなく、国司・講師が監督していないのにつけ込んで、寺内で馬を走らせ、仏前で鳥を屠るような濫りがわしいことが、数えきれないほどだという。災いの兆しは必ずしも点が下さず、民が自ら招く者である。はなはだ嘆かわしいことである。重ねて五畿内・七道諸国に命じて、寺の周囲二里内における殺生を厳しく禁止し、もし違反者がいれば、六位以下の者には違勅の罪を科し五位以上の者は名前を言上書。(おもね)り、見過ごすことのないようにせよ」(続日本後紀)


 この後は、「直により、大和国添上郡の春日大神(春日大社)の山内に「おける狩猟と木帰を、透谷の軍司に命じて、特に厳しく禁止させた。


そんなところへ大宰府(だざいふ)から連絡があって、新羅(しらぎ)張宝高(ちょうほうこう)が先年十二月に、馬の鞍を献進してきたというのです宝高は新羅王の臣下です。そのような者による安易な貢進は古来の法に背いているいうので、礼をもって辞退し、早急に返却せよと指示されました。


彼らが持参してきた物品は、民間での売買を許せと指示します。


人々が不適切な購入により、競って家産を傾けるようなことのないようにせよ。また手厚く処遇し、帰国に要する食料を、従前の例に倣い支給せよと指示いたしました。


 


 同じ頃病床の嵯峨太上天皇は、これまでの自らの為政について、天帝がどのような評価を下そうとしているのだろうかと、思い巡らしていらっしゃったのです。


 見舞いに現れた今上が、官民共に太上天皇の積み上げて来られた為政を評価して、ひたすら回復を祈っていると伝えるのですが、太上天皇からは、


「朕の評価は天帝がお決めになられる」


そうお答えになられただけでした。


為政者はどう対処したのか


 「優れた人物が規範を定めると、天の意向に従って事が運び、天は手本となるものを弘め、人の行動によって感応するものである。朕は徳が少なく愚かであるが、謹んで行為に就き、己を虚しくして励み、日々に慎み、古の聖君子の治国の道を追求し、先代の民を安んじた方針をたどって採り、人に疫病がなく世が安らぎ治まることを期してきた。しかし、朕の誠意は実現せず、咎めのしるしが出現し、大宰府は肥後国阿蘇郡神霊池が、例年ならば水を湛えて水旱(すいかん)出来(しゅったい)しても変化がないのに、今年は四十丈も()れたと言上してきた。朕は静かにこの災異のしるしをはなはだ恐れるものである。亀卜によると、日照りと疫病の前兆だという。そこで過去の優れた人物に倣い、前代の手本に即して恩恵を施し、この災害を防ごうと思う。旱魃は異常な大規模災害にならないかぎり、日頃の努力より対処できるものである。灌漑用の池を修理し水不足にならないようにすべきである。また、大宰府管内は西日本の鎮めの地域であるだけでなく、災異のしるしが出現した土地である。府官人は最大限に慎み、不虞に備えよ。遠方にまで布告し朕の思いを知らせよ」(続日本後記)


 そんなある日のこと、日食がありました。それに対して天皇はこうおっしゃいました。


 「神霊の感応は、誠意がなくては通じず、帝王の功績は、道理によらなければ、達成することが出来ないものである。五畿内・七道諸国に命じて、国司・講師が相共に斎戒して、管内の諸寺において「金剛般若経」を転読し、朝廷にあっては天皇の寿命が延び、国内で若死の心配がなく、併せて適切な風雨により穀物が豊稔となるようにすべしである」(続日本後紀)


 太陽は血のように赤く見えたが、間もなく常態違に戻った。


 「この頃ほどよい雨が降らず、農民は農作業を取り止めている。もし神霊に気がしなければ、よき苗を損なう恐れがある。松尾・賀茂・乙訓・貴布禰・垂水・住吉・雨師の神に奉幣して、よき雨を願い、風災を防ぐべきである」(続日本後紀)


 天皇は災害に対して、どう備えるべきなのかということで苦悩していましたが、同じ頃為政のすべてを終えて、天帝は太政天皇の生涯に、どんな評価を下さるのだろうかと思い巡らしていました。


 様々な形で襲いかかる現代の我々にとって、それはどんな問題提起になっているのでしょうか。


 すべてを淡々と受け止めて、その生涯の評価を天帝が下して来るのを受け止めようとしている太上天皇ですが、今為政を預かる天皇は必死で、次々起こる困難を乗り越えようとしています。それはあくまでも天命の評価を受ける時のためにも、まず民・百姓の困難をどう解消してきたのだろうかと真摯に考えるのです。


 現代の為政者がすべてこれほどまでに、自らの為政に対しての責任を感じながら責務をこなしていらっしゃるとは思えませんが、せめてこれまでの政治生活について、天帝にその評価を問いかけてみるだけの真摯さを持って頂きたいと思います。しかしそれと同時に、我々はどうでしょうか。生涯を終える時に、天帝からの評価がどうあるのだろうかと考えたりするでしょうか。やはり嵯峨太上天皇の心境に近いのではないでしょうか。すべて一生懸命に生きた結果です。それをどう評価してくれるか、淡々と受け止めるしかないように思えるのです。


 災害と必死で戦う我が子今上天皇を思いながら、病床の


嵯峨太上天皇はその時を静かに待っているのでした。


温故知新(up・to・date)でひと言


 


そんな時こんな言葉を思い出すといいのかなと思ったりしています。「蓋棺事定(がいかんじてい)という言葉です。生前にやったことについての評価は当てにならないものなので、棺の蓋をした時にはじめて、その人の真の値打ちが決まるということが言われます。あなたは生涯を終える時、天帝からどんな評価が得られると思っていますか。地位も名誉も財産も、所詮自分の思い通りにはならないものだという言葉に、「富貴在天(ふうきざいてん)というものがあります。富や位を手に入れるのは天命によるので、人の思うようにはならないということです。卑近な例として紀州の大富豪が不可思議な死を迎えたという事件がありました。あの富裕ぶりが羨ましいと思ったりしたでしょうか。ほとんどの人は否とお応えになられたでしょう。結果はあまりにも悲惨です。人生の評価を決めるのは天帝です。富を得たり、地位を得たり、名誉を受けたりすることに腐心するよりも、先ず目指すことについて誠心誠意努力して生きましょう。「陰徳陽報(いんとくようほう)ということも言われます。人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現れてくるということもあります。心澄ませて生きましょう。その結果は最後の最後に決まります。天帝のいい評価が出るように、気持ちを整理して精一杯頑張ってみましょう。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言3 [趣味・カルチャー]

「禁断の木の実に異説」

 古代の歴史の中で、いわゆる正史からこぼれてしまいそうになりながら、なぜか忘れられないでいるお話があります。

非時香菓(ときじくのかぐのきのみ)というものがそのお話です。

これにはあまりにも涙ぐましい物語が残されていて、いつまでも語り伝えられているのですがご存知だったでしょうか。

 現代でもできれば元気で長生きしたいと思っていらっしゃる人は、かなり多いのではないかと思うのですが、古代においては現代人とは比べ物にならないくらいに短命であったためもあって、庶民はそれも天命であると思ってあきらめながらも、出来ることなら少しでも長く生きたいと思っていたに違いありません。

そうなると、何でも思うことは手に入れられると考えている時の権力者にとっては、現在の権勢を維持しておくには、不老だけでなく長寿である必要があると、常に考えつづけていたに違いありません。

勿論われわれ平民であっても、病気で長生きしても楽しむということは出来る訳はありません。人生を楽しむには、まず健康第一でなくてはなりませんから、様々な健康維持のためのサプリメントを取り寄せて飲んでいたりしているということが伝えられたりしています。

長寿・・・特に不老長寿は、万人の願いです。

それは古代人も現代人も変わりがありません。

 現代のように医学などの発達のお陰で、長命を願った様々な工夫・研究されていますが、この不老長寿という願いは、日本よりもはるかに古い歴史を誇る中国では、強大な権力を欲しいままに行使してきた秦の始皇帝などは、不老長寿の妙薬が欲しいと願いつづけていたことで知られていました。

ある日。そんな彼のところへ呼び出されたのが徐福(じょふく)という男がいました。

東海の小島に不老長寿の樹の実があるという噂を手に入れると、一刻もじっとしていることができなくなって、徐福に「非時香菓」探し求めてくるようにという使命を申し渡したのです。

徐福は直ちに童の男女三千人と、五穀の種、百種類の工人を伴って船出をしたというのです。始皇帝は直ちにそれを認めました。

不老長寿の樹の実があるという東海の小島は、わりに近くにあると考えていたのでしょう。直ぐにでもそれは手に入れられて帰って来るだろうと考えていたのです。その時こそ不老長寿は約束されることになると、心を躍らせながら待っていることにしたのです。目指して行けば、それほど時を費やさなくても手に入れて戻れるとでも思っていたのでしょう。

始皇帝はその時の徐福の願いについては、まったく疑いもしませんでした。多少は苦労したとしても、童の男女三千人と五穀の種、百種類の工人を伴っていくほど大袈裟な旅をしなくてはならないのでしょうか。しかもあれほど多くの種類の工人たちを連れて行くのは不自然です。皇帝の身近に仕えている要人たちは、ちょっとおかしいと思ったに違いありません。

案の定です。当時秦は法治国家になっていたこともあって、大変息苦しくなっていたのです。どうも徐福は皇帝の命令をいい機会にして、亡命を図ったのではないかと疑っていたというのです。しかしその程度のことには、始皇帝も気が付いていないはずはないのです。

重臣たちの進言を聞きましたが、そんなことは承知の上で「非時香菓」を手に入れてくるようにという命を下したというのです。彼はこの頃中央集権を確立して西、南、北の国境は固めたのですが、東は海でその向こうは未知の国だったのです。やがてそのあたりも征服してしまえば、周辺ばかりでなく世界をも手に入れることになると考えていたのでしょう。

彼は如何にも徐福の目的には気がついていないふりをして、東の未知の国の情報を得るために、噂で名高い東海の小島にあると言われている不老長寿の妙薬を取って来るようにと指示したのです。もしそれが手に入れられれば、まさに一挙両得ということになるとほくそ笑んでいたのです。

 ところが徐福の村では、それ以来始皇帝の希望に応えることもなく、行方不明になったまま帰国しなくなってしまった彼に、怒りを燃やす者が多くなったといいます。

 ところが日本の場合ですが、私たちの年齢の者は「修身」という教科書の中で、必ず載っていた話がありました。

不老不死の妙薬を探して来いという、垂仁天皇の命を受けて旅立った田道間守は、もうそんなことがあったということさえも忘れ去ってしまったと思われる、十数年という長い長い月日をへて、やっと神仙国から「非時香菓」という不老不死の木の実を探し出して戻ってきたという話を、役人の美談として紹介されていました。

 ところが彼に「非時香菓」を取って来いと命じた崇神天皇は、彼がやっとのことで手に入れた橘の香菓を持って戻ってきた時には、崇神天皇は崩御してしまわれていたのです。田道間守は橘の香菓を天皇の陵に献じて、嘆き悲しんで亡くなってしまったということが、伝えられてきています。

現代では欲しいと思うものは容易に手に入れられる上に、「飽食」という問題さえも抱えている時代でもあります。

足もとから健康を害するような誘惑が、身の回りを取り巻いているということがあるということを、決して忘れてはならないと思います。

余談になるのですが、古代では滅多なことでは食べられないものといえば、天上にある楽園でアダムとイブが、禁ぜられている木の実を食べてしまったという伝説があります。それはリンゴであったということになっているのですが、本当はエデンの園で二人が食べてしまった禁断の木の実は、リンゴではなくアンズだったのではないかという説を言っている人があります。大島正満博士という方だそうですが、旧約時代の聖書聖地付近にはリンゴはなかったというのです。後の画家たちが、アンズとリンゴ間違えて描いたに違いないといっているのです。事例や植物学的な見地から様々な反証があるようですね。

洋の東西を問わず、手に入れることが困難であるといわれながら、いつかそれを手にしたいと夢を見るのが、永遠の命というものかもしれません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の六 [趣味・カルチャー]

      第一章「卓越した指導者といわれるために」(六)


      為政者の課題・「民への気遣いはいつも」


    今回は弘仁十四年(八二三)のことです。


 嵯峨天皇は右大臣の藤原冬嗣ふゆつぐ冷然院れいぜんいんへ呼び、「朕は位を皇太弟(大伴親王)に譲ろうと思う(日本後紀)


かねてからの計画を伝えました。


そして間もなく冷然院正殿に大伴親王をお招きになられると、あれると、手を引きながら、これまでの在位に当った十四年という治世に当った経緯を述べられた後で、こうお話されたのです。


 「朕は少ない徳乍ら、十四年間在位してきた。皇太弟と年齢が同じである。朕は人を見る才能がとぼしいとは言え、皇太弟と長年一緒に過ごしてきており、皇太弟が賢明で仁と孝の特に優れていることは、よく判っている。そこで皇位を皇太弟に譲ろうと思いながら、すでに数年となっている。今、かねての志を果そうと思うのであり、よく理解してほしい」


 勿論、大伴親王は拒否をするのですが、天皇の真剣さには背けなくなり、ついに第五十三代の淳和天皇となられたのでした。


これは皇統を巡って無用のいさかいをしなくてはならなかった過去を思い出して、今後嵯峨天皇の系列の親王と、大伴親王の系列の親王とで、交代に政庁を率いていってもらおうという、若い時からの決心であり、大伴親王にも承知して貰っていたはずです。彼は直ちに淳和天皇として践祚すると、嵯峨太上天皇の清冽な思いを引きついていくことになられたのです。


 まだ嵯峨太政天皇は四十歳を前にしたばかりで、勢いを持ったまま譲位されましたので、政庁にはまったく心配は存在してはいません。新天皇も民への気遣いには、先帝と同じ思いで向き合おうとしていらっしゃったからです。


 嵯峨天皇は在位十四年ほどで太上天皇となりましたが、これは皇統を巡って無用のいさかいをなくそうという思いから、今後嵯峨天皇の系列の親王と、大伴親王の系列の親王とで、交代に政庁を率いていってもらおうという、若い時からの決心であり、大伴親王にも承知して貰っていました。彼は直ちに淳和天皇として践祚すると、嵯峨太上天皇の清冽な思いを引きついていかれることになりました。


 まだ嵯峨太政天皇は四十歳を前にしたばかりの勢いを持ったままの状態での譲位でしたので、政庁にはまったく心配は存在してはいません。


新天皇も民への気遣いには、先帝と同じ思いで向き合おうとしていらっしゃいました。しかし・・・


為政者・淳和天皇


弘仁十四年(八二三)四月二十七日のこと


発生した問題とは


 百姓からの生活が容易ならない状態という訴えがあって、新たな天皇も様々な配慮をしなくてはなりません。救助を与える側、救助を受ける側のそれぞれの思いには、古代も現代もなく、永遠の課題が横たわっているように思えてなりません。


 統治する者と統治される者との信頼感・安定感ということでは、現代に生きる我々と政府との信頼感というものは、平安時代のそれとは、かなり距離感があるような気がいたします。


 淳和天皇(じゅんなてんのう)が嵯峨天皇から譲位されて即位されたたばかりことですが、天皇は年齢的にはすでに三十七歳に達しておりましたので、長いこと嵯峨の皇太子として仕えてきたということもあって、職務をこなすのに不足はない状態なのですが、こうして為政の頂点に立って臣民を率いていくには、まだその気構えが出来ているとはいえません。


かなり学ぶということでは大変熱心な方でしたし、才覚という点ではかなり優れたものをお持ちでしたが、しかし臣民の信頼感ということでは、とても嵯峨太上天皇とは比べようがありませんでした。存在感が違い過ぎるのです。


 (つまび)らかに従前の帝王を見ると、それぞれ事情に因んで名前を立て、時に従って号を変えている。嵯峨太上天皇は、見たり会ったりすれば、利益を与える祥気を漂わせながら、皇位に就き適切な治政を行って、学問や教化を推進し、軍事の功績を上げた。あらゆる場所で人々が嵯峨太上天皇を天子として喜んで推戴し、治政を謳歌する声は全国に聞こえた。物事を成し遂げても誇らず、安住せず、皇位に執着していない。全世界に恩徳を施し、その徳の高いことはどこの国も及ばないほどである。高い身分でありながら、謙遜して人臣と同列につくと仰せになっている」(日本後紀)


天皇は先帝を太上天皇、皇后に太皇太后(だいこうたいごう)と呼ぶことにしようと決めました。天皇は民に対しても、官人に対しても、どう向かい合えばいいのかということについて、まだ判らないことも多かったのです。


勿論、先帝を越えた為政者になろうという気概は持っていらっしゃいましたが、即位前には何度か嵯峨太上天皇に問い掛けられたことがありました。


 嵯峨太上天皇はこうお応えになられました。


「天地が開闢(かいびゃく)すると、天子が置かれるようになりましたが、天命を受けて天子となる者は定まっているわけではなく、徳のある者を助けて天子としているのであり、天は賢く才能のある者を天子として選ぶものであります。私は(かたじけな)くも徳が少ない身ながら天皇として十余年政務を執り、朽ちた手綱で馬を御し、薄氷を踏む思いできました。しかし皇位を陛下(淳和(じゅんな)天皇(てんのう))に譲り、長い間抱いてきた譲位を果たすことができました」(日本後紀)


為政の始まりに当たって、天皇として幾多の山稜へ使いを遣わして即位の報告を行いながら、太上天皇に対してこうお応えしました。


(あした)は君主であった人が、(ゆうべ)に人臣となるようなことがありましょうか。誠に人を教諭し俗を正すとなれば礼が伴わなくてはならず、君臣の上下は礼に従わなければ定まらないものです。陛下は皇太子から即位し、天下に君臨して十二年を超えています。人民は陛下の実力を知り、風俗は教化に馴染んでいます」(日本後紀)


 すると太上天皇からは、次のような文書が寄せられました。


『天皇として天下を治めるには賢い人の助力を得て平安に治めることができる』


というのです。


確かに嵯峨太上天皇には、藤原冬嗣という有能な太政官をおいて為政を動かしていました。淳和天皇はまだとても太上天皇のようにはいきませんが、親王たちをはじめとして、王・諸臣らの援助によって天下の政事を平安に遂行できると思うので、正しく素直な心でみなの者が朝廷に助力せよと、協力を促したのでした。


為政者はどう対処したのか


天皇は兎に角身近な者たちの協力を訴えましたが、それと同時に平安京の左右京・五畿内の(かん)(妻を失った男、夫を失った女)・()(ひとり者)・()(両親のない子)・(どく)(助ける者がいない者)で自活できない者たちに物を恵み与え、諸国の飢えている公民に貸し付けてある、借貸稲の未納分はすべて免除するとおっしゃったのでした。敢えてこのようなことを取り上げるのも、現代の為政者に通じる問題が潜んでいるように思えるからなのです。しかし現代のような時代で平安時代と同じようなことをしようとすると、不公平問題とぶつかってしまいます。貧しい家庭とはどんな状態の家庭にたいして言うのかということについて、きっちりとした基準を決めておかないと、差別的な問題とぶつかってしまいます。


現代でも生活に困窮する家庭の救済ということの援助が行なわれるようになっては来ていますが、最近になってやっと本格的に動き始めているという状態です。古代との時間を考えると、何という長い時間がかかったものだなと思えたりいたします。


 まだまだ為政者と国民との関係ということでは、とても信頼感で繋がってはいないように思えてなりません。


温故知新(up・to・date)でひと言


 現代は古代とは比べようもなく、困窮者に対して福祉の手が差し伸べられているように思われるのですが、それでもこの程度では足りないという不満を述べる報道をよく見かけます。国としての規模が大きくなっていることや経済的な規模が広がっている現代だからこそ出てくる不満なのですが、古代で救済される人々との暮らし向きは、とても現代のそれとは比べようもありません。嵯峨天皇、淳和天皇が鰥・寡・孤・独などに救済の手をさしのべたのは、それなりに救助をさしのべる必要に迫られている人々であったはずです。現代のそれらの環境にある人たちとは比べようもありません。もっとその規模を広げて欲しいとは思っても、それまでの追い詰められた環境からすれば、もっと援助して欲しいとはいえなかったでしょう。為政者として人の上に立つ時には、まずこれから共に働くことになる人々に、期待感を持って頂かなくてはなりません。内閣総理大臣にしても、道を究めて、広く道理に通じて全体を公平に見て、正しい判断を下して貰いたいものです。


古い言葉に「達人大観(たつじんたいかん)というものがありますが、それを実践して欲しいし国民の信任を得るためには、ただ権力を誇示するだけでなく、道を究め、広く道理に通じた人は、決して部分に捉われずに、全体を公平に見て正しい判断を下すといいます。多くの人の心を集める「人心収攬(じんしんしゅうらん)のためには、国民に心ある為政者としての思いを真摯に訴えて欲しいし、「外寛内明(がいかんないめい)ということを知っておいて頂きたいものです。つまり外部に対しては寛大、寛容に接し、自分自身はよく顧みて、明晰に己を知り、身を慎むということです。どうでしょうか。それがリーダーといわれる人の心構えというものです。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑3 [趣味・カルチャー]

「白塗りに理由(わけ)あり

 

昨今は2017年時代に始まった伝統的で支配的な文化に対する抵抗として起こった、ピーコック時代から今日まで男性も大変身だしなみに気を遣うようになってきました。

 今回はその問題については、直接的にはあまり関係がありませんが、それにつて、つい思い出してしまうことがありましたので、平安王朝時代の、公家たちの化粧のことについてお話したいと思います。

 薄暗い光の中でも美しく見えるようにという工夫から、白塗りにしていた女性の場合は別として、ほとんどの男性たちが白塗りというのは、どういうことなのでしょうか。

我が国における、男性のピーコック時代の始まりだったのではないのかと考えてしまうのですが、実はこれには深い理由が秘められていたのです。

 平安時代の貴族は、湯につかるという習慣がなく、時折サウナ風な蒸気へ当たるだけだったのです。当然ですが不潔なために皮膚病が多かったということが言われています。そして更に、伝染病の一種である痘痕(とうそう)が流行っていて、それが治る時にはアバタが顔面に残ってしまったというのです。それを隠すために白塗りが行われたという現実的な説があります。

現代の俳優さんが、女性であることを表現するために行う白塗りともまったく違った、ごく日常的な問題だったのです。つまりおしゃれとは全く無縁な、現実的な事情によるものだったのでした。

 私には当時の食糧事情による影響ではないかと思うことが多いのですが、兎に角現代とは比較にならないほど貧しく、限られた食糧事情のためであったとしか思えませんでした。

調味料といえば塩、酢、(びしお)しかなくて、甘味はありませんでしたから、まさに味気がない食事でした。食べる時にそれらの調味料を使うしかない上に、塩蔵と乾物の魚で蛋白質、ビタミンAを取るだけで、運動不足です

しかも近親結婚のために体質が低下していたので、消化吸収が悪くて栄養失調が少なくなかったのではないかと思われるのです。死因に結核や脚気が多かったということを読んだことがあったのですが、その上に体臭があり、それを消すために香が焚かれていたのです。しかし食糧事情がよくなくて、栄養状態が保てないということを考えると精神的にも健康が保てなくなり、極楽往生に憧れて、現世を否定する生き方になりがちです。

更に冬の夜は寒いし照明が暗いので、ものの()を見てしまうということも起こりがちになってしまいます。

今日の話題である公家の白塗りという状況も、現代の男性のお洒感覚とはまったく違う切羽詰まった日常生活に原因があるということが判って、かなり同情したくなってしまいます。

今考えるとお気の毒としか思えません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の五 [趣味・カルチャー]

     第一章「卓越した指導者となるために」(五)


       為政者の課題・「地震の被害と謙虚な反省」



今回は二〇二二年の我々から見ると、実に一二〇〇年も前の平安時代の初期の頃のことです。


弘仁九年(八一八)。嵯峨天皇が即位されてから九年後のことです。


 現代では災害の発生については、かなり事前に察知できるようになってきていますが、天災についてはまだまだ正確無比という訳にはいかないようですね。


そんなことを考えると、まだ科学などというものが存在していない平安時代の初期のこととなると、大きな災害が起こった時などは、その被害からの救済ということを考えると、とても想像がつかない困難を招じてしまいます。恐らく政庁は行き届かない事ばかりだったでしょう。


 この年の七月のことです 


為政者・嵯峨天皇


弘仁九年(八一八)八月十九日のこと


発生した問題とは


大きな地震が襲いかかられて、武蔵(むさし)下総(しもうさ)常陸(ひたち)上野(うえの)下野(しもつけ)などの関東の国々の山は崩れ、そのために広大な範囲で谷が埋まり、圧死する者が多かったというのです。


中でも百姓はその数が知れないという報告が行われました。


天皇は諸国へ使いを送ってその被害の様子を調べさせ、被害の激しかった者には援助を与えることにしました。


 こうした大きな自然災害が起こった時、天皇は被害の様子について、使者から報告を受けると、実に謙虚な思いを述べられます。


 (ちん)は才能がないのに、謹んで皇位につき、民を撫育しようとの気持ちはわずかの間も忘れたことはない。しかし徳化は及ばず生気は盛んにならず、ここに至りはなはだしい咎めの徴が下されてしまった。聞くところによると、『上野(こうずけ)國等の地域では、地震による災害で洪水が次々と起こり、人も物も失われている』という。天は広大で人が語れるものではないが、もとより政治に欠陥があるために、天は(とが)めをもたらしたのである。これによる人民の苦悩は朕の責任であり、徳が薄く厚かましいみずからを天下に恥じる次第である。静かに今回の咎を思うと、まことに悲しみ傷む気持ちが起こってくる。民が危険な状態にあるとき君一人安楽に過ごし、子が嘆いているとき父が何も心配しないようなことがあろうか。使者を派遣して慰問しようと思う。地震や水害により住宅や生業を失った者には、使者らが現地の役人と調査した上で今年の租調を免除し、公民・俘囚を問うことなく正税を財源に恵み与えよ。建物の修復を援助し、飢えと露宿生活を免れるようにせよ。


圧死者は速やかに収め葬り、できるだけ慈しみ恵みを垂れる気持ちで接し、朕の人民を思う気持ちに()うようにせよ」(日本後紀)


 災害が発生した時に、その責任を転嫁できるようなことはまったくない時代のことです。


 天から使命を託されて、為政を行う再興責任者と鳴れた天皇は、天から委託された民・百姓の暮らしの安全が守れなかったということで、その責任を自らの至らなさのためだと仰います。これはこれまでのどの天皇にしてもまったく変わりません。天命によって使命を行うものとしての自覚です。


 静かに今回の(とが)のことを思うと、まことに悲しみ痛む気持ちが迫ってきます。


為政者はどう対処したのか


 「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者はものを(すく)うことを何より重視し、よく自制して人の希望に従い、徳を修めて立派な精神を()み行うものである。朕は日暮れ時まで政務に従い、夜遅くなっても、寝ずに努めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では天を動かすことができず、充分な調和を達成できないまま、咎徴(きゅうちょう)がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して天がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。おそらくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのであろう。そのため天がこの重大な咎を降し、戒め励まそうとしているのではあるまいか。朕は天の下す刑罰を恐れ心が安まらない。ところで亀甲と筮竹で占うと、今回の地震は天の咎めであることが判った。往時天平年間にこのような異変があり、疫病により国内が衰弊したことがあった。過去のこの異変を忘れてはならず、教訓として役に立たないものではない。百姓が苦しんでいれば、いったい誰と共に君たり得ようか。密かに考えてみるに、仏教の教えは奥深く、慈悲を先とし、教理は優れ、あらゆるものを(あわれ)み、教養は深遠ですべてを救済することを目指している。また疫病の災いを祓除することは、前代の書物に記されている。そこで、天下の職に指示して、斎食を設け僧侶を()び、金光明寺で五日間「金剛般若波羅蜜経」を転読し、併せて(みそぎ)を行い、災難を除去すべきである」(日本後紀)


 国民を率いる責を負っている者として、日ごろの暮らしについても、常に自粛の意識はあるように思えます。


 神仏によるその神秘の力による救済にすがるしかありません。


 その力を引き出すことは僧に課せられる使命です。


 為政者は考えられる手立てを講じようと努力します。


 しかし現代についてはどうでしょう。


国民が困難を被っている時に、為政者はどう受け止めていらっしゃるのかと思ったりするようなことがあります。


古代ではほとんどの場合、天皇は自らの評価を厳しく下した上に、様々な被害を被った者たちへの救済を発表しますが、現代の場合は記者会見などでは、


「現代科学でも予知能力を超えるもので、被害が出たことにつきましては、お気の毒としか申し上げようもありません。処理につきましては充分に調査をして対処する所存です」


 天災の発生は止むを得ないとしても、そのために起こる二次災害のために大きな被害胃が出たりして、そういうことが起ることが前から指摘されながら、まったく手付かずという状態であったということにつては反省も、通り一遍の欠陥があったことを認めて謝罪するだけです。


 恐らく慌てた様子もなく、淡々と被害状況についての報告と、その援助について報告するだけでしょう。


確かに現代科学でもその予知が不可能であることが多いので、とても責める気にもなりません。あとはその救済がどのように処理されていくかが問題になるだけです。


しかし国民の方にも、天災なのだから仕方がないと、納得ししてしまっているのではないでしょうか。関心があるのはその後の救済問題だけです。


科学などの智識もなければ、その発生を事前に察知するようなものは一切持たない、古代の民・百姓と同じ反応になってしまいます。二次被害についても、運が悪くて被害が広がったとしか思わないのでしょう。


兎に角まったく予想もしない天災に襲いかかれてしまったのです。


もっと予知能力を高めるための努力をしてもらうために、働きかけを行いますと、熱心さをアピールするようなリップサービスは、してもいいのではないかと思います。


とても古代の天皇のような、天災を自己責任だと思うような、真剣さが感じられません。


必死に救済を行おうとする働きかけが、その言動からくみ取れるようなものがありません。


被害の大小は別として、そのために被った痛みをどの程度被害者と共有することができるかが、為政を任されている人の存在価値を決めるような気がいたします。


温故知新(up・to・date)でひと言


被害の大小ということはあると思うのですが、古代と現代とでは、その痛みを民と共有しているかどうかということで、大きな差がるように思えてなりません。


関西に起こった西日本豪雨の被害の広がりが予測されながら、宴会など開いていた責任ある議員たちもいたということもありました。


まったく予想される災害に対する緊迫感が感じられません。


決して災害は自らの政治家としての生き方に対する、天の批判なのだというような、思いつめたところなどは感じられません。それだけにこうした災害があった時などは、その対応の仕方に為政者の人間性がはっきりとしてしまうように思われます。


古来天災については「天歩艱難(てんぽかんなん)という言葉があります。時に恵まれず情勢が悪く困難な状態に陥ったのであって、決して為政の誤りであったなどとはいいません。そんな時には、「墜茵落溷(ついいんらくこん)という言葉もあります。人には運不運というものがあるので、それは決して因果応報によるものではないと考えましょうという考え方です。しかし悲惨な目に遭っている人々が出た場合には、「輪写心服(ゆししゃしんぷく)という言葉があるように、為政者はその人々に、自分の思いを正直に吐露して、痛みを共有する気持ちを伝えてあげたいものです。そのお陰でどれだけ救われる人がいるか判りません。そのことはしっかりと心に留めておきたいものです。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言2 [趣味・カルチャー]

「夜明けの妖精・・・」

 最近は走る人、犬と一緒に歩く人、夜明けを待つようにして町を散策する人をかなり見ます。しかしこの他のことで夜明けを楽しもうとしていらっしゃる方は少ないと思います。

 (…この他のことで・・・)

 昨今はあまり超高層ビルやタワーマンションのようなものが出来過ぎて、視界が遮られてしまうようになってきてしまったので、出来たら広がる農耕地や草原、川に沿った土手あたりへ出て、太陽が昇る夜明けの風景を楽しみたいと提案をしたくなったことがあったのです。

 古代の暮らしの中で体験するといわれれていたことが、現代生活を満喫していては不可能なようなのです。

 昔は・・・もちろん私も生まれていない、はるか昔には背丈のある高い家もありませんでしたから、夜明けの爽やかな光景は家の周辺でも楽しめましたが、昨今は夜明けの妖精、黄昏の妖魔ということを、意識して歩いていらっしゃる方は、ほとんどいらっしゃらないようですね。

そろそろ自由時間も充分に獲得できたでしょう荒、多少古代の人々の楽しんでいたであろう夜明けのロマンを期待しながら、近くの公園でも散歩なさってはどうでしょう。

まだ明けきらない夜明けあたりの時間に歩いていると、その清冽な光の中から妖精と出会うかもしれないということです。

しかし夜明けだけは理解して頂けるとしても、最近は黄昏の妖魔といっても、そんなものが現れるとは誰も思ったりはしないでしょう。とてもそんなことを受け入れる環境ではなくなってしまっています。照明器具が進化した現代では、街はすっかり不夜城のように明るくなってしまっていますから、止むを得ないのかもしれません。

兎に角町を明るくすることは、犯罪を防ぐためにもいいことです。しかし私は闇を楽しめるようにもなって欲しいと思ったりするのです。

そんな時は月の明かりだけで充分ではありませんか。そうでなければ、とても妖魔と出会うことは不可能でしょう。

夜明けの妖精。黄昏の妖魔との出会いを可能にするためには、まず朝は早起きをして、夜から朝に変わる微妙な時を狙って散策をしてみましょう。

光の満ちた朝を迎える訳でもなく、そうかといって夜のつづきという訳でもない、兎に角朝でもなく夜でもない曖昧な時間でないと出会えないのです。

この曖昧な時間こそが、妖精と妖魔に許されている、異世界から現世へ現れる機会なのです。

昨今は、何もかもが激しく変化してきていますが、取り分け地球の温暖化をはじめとした自然環境の変化は激しいものがあります。古代のように明でも暗でもない、微妙に時が移って行く瞬間が消滅してしまいました。そのために朝の妖精はかろうじて現れて来られるとしても、昼と夜の境に現れる、昼でもなく夜でもない不気味な時間・・・つまり黄昏に現れるという妖魔は、明らかに登場する機会を失ってしまったように思えます。

世の中というのは、妖精と妖魔のどちらかが偏ってしまったら、かえっておかしなものになってしまいます。そのどちらもが現れる自然環境があって成り立っていたはずです。

 学者の研究によれば、朝のその微妙な時間の表現を、「かれたれ」といったといいます。それに対して夕刻の微妙な時間を、「たそかれ」といったと説明しています。つまり「あの人は誰なのか」と、思わず聞いてしまうほど、はっきりとしない状態を表しているのです。現代使われている「黄昏」などは、この「たそかれ」から起こったということなのでしょう。

 現代は明か暗、白か黒か、生か死か、正か悪かというように、とにかくはっきりしたことを求める風潮にあります。

 しかし・・・。

 夜でも、朝でもない、昼でも夜でもないという、実に微妙に時が変化していく瞬間を失ってしまっていいでしょうか。絵を書くにしても中間色というものがあるでしょう。それを失ってしまったら、どんなに味気ないものになってしまうものか・・・。

かつてアニメーションは色を混ぜて別の色を作るということが出来ない特殊な画材であったために、原色を重ねるしか表現できないという不利があったために、かなり批判をされたことがありましたが、最近はその点もデジタル画法の進化で、すっかり表現が美しく表せるようになりました。しかしその分、なぜか味気なくなったという声もかなり聞きます。

この際中間色という白でも黒でもない微妙な色合いや、時の移り変わりである微妙な季節の変化についてもじっくり考えてみませんか。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る  その一の四 [趣味・カルチャー]

      第一章 「卓越した指導者であるために」(四)

        為政者の課題・「息抜きに射幸心を楽しむ」

 今回は弘仁七年(八一六)。嵯峨天皇は即位されてから七年を経過しておられた頃の話です。

これまで天皇は、日常のルーテインはもちろんですが、生き方の姿勢についても変えるようなことをされたことはありません。すべてのことについて、端正な暮らしぶりを貫いていらっしゃいます。

 為政に関しては、これまでの朝廷がことごとくその対処に苦慮してきた蝦夷(えみし)対策も、ただ権力を振りかざして押さえつけようとするのではなく、少しでも彼らを理解してみようという、文人政治家らしい発想で対処し始めていらっしゃったのです。

周辺の方たちも、これまでとはかなり違ったものが感じられるようにはなってきていたのではないでしょうか。

 ところがそんなある日のことです。

為政者・嵯峨天皇

弘仁七年(八一六)三月二十七日のこと

発生した問題とは

宮中武徳殿(ぶとくでん)では賭射などといわれる、矢を射る者の優劣を競わせて、その勝者を当てたりするのを楽しむという遊びも行われていたのです。もちろん為政の最高責任者である天皇が、そんなことを主宰されるわけはありません。企画したのは宮中に勤める官人たちなのですが、何とその日は、天皇もそれに便乗してその催しを楽しまれたのです。

これまでの暮らしのあり方を糾してこられた天皇の姿勢を思うと、あまりにも違ったお姿を拝見することになりました。

史実の「日本後記」によりますと、民部(みんぶ)宮内(くない)という両省の者が合同で、三百貫という銭を奉献(天皇・太上天皇に対して臣下が飲酒、飲食の宴席を設け、贅を尽くした飲食以下の費用を負担する)して、宴会を終日楽しんだことがあったのです。

ところがその勢いで彼らは、左右近衛の者たちを呼んで(じゃ)(弓を射ること)を競わせようということになったのです。

当時の武人は走る馬に騎乗して弓を射る騎射(きしゃ)と、あるところへ立って的を射る歩射の技術を身に付けることは、大変大事なことでありましたし、魔除けのためにも弓を使いますから、天皇は慣例としてほとんど毎日、豊楽殿や馬埒殿(ばらちでん)へ出向かれて、射の様子、騎射の様子をご覧になるのが常だったのです。

宮中を守るという務めを果たし、儀式の際に威儀を正すために参列したり、天皇に供奉(ぐぶ)することも行う左右近衛の者たちなどにとっては、武術の優劣は無視できません。

民部・宮内両省の者はそんな彼らに宴の楽しみとして、射を競わせようとしたのでしょう。もし見事に的を射て勝った者にはその度に酒を振る舞い、銭を与えられたのです。

ちなみにこのころの銭の単位ですが、穴あき銭だと一千文で一貫になるのですが、三百貫というのはかなりの額になります。(江戸時代は九六〇文、明治時代は一〇銭で一貫)

射をやらせる者、射に挑む者、それを見つめる者、みなすっかり寛いでいました。いうまでもありませんが、常にこうした楽しみ方をしているわけではありません。まだ年が明けて間もない三月のことですから、天皇も武人たちの楽しみに乗って楽しまれたのでしょう。

 天皇は宮中という厳しい規範の求められるところで、賭弓(のりゆみ)などということが行われたということで、官衙ではみなびっくりさせられました。

日常は清冽な姿勢を保っていらっしゃる天皇が、なぜそのようなことをさせたのでしょうか。

政庁には処理しなくてはならない問題がいくつもありました。

当時の日本には朝廷の抱える問題として、政庁に随うことになった夷俘(いふ)(朝廷の支配下に入って、一般農民の生活に同化した蝦夷(えみし))といわれる者たちのことや、風雨が不順で農作業が思うようにならない状況がありますし、官人の(ろく)(給料)問題も処理したりしなくてはなりませんでした。そんなところへ、平安京の象徴でもある羅城門(らじょうもん)が倒壊するなどということが、起こったりもしていたのです。

とても賭弓などを楽しむ余裕などはないはずなのですが、官人たちの申し出に、なぜ天皇は乗ったのでしょうか。もちろん。ただいたずらに臣下の遊びに便乗したわけではありません。政庁には解決をしなければならない問題がいくつもあるのです。その処理については、的確な指示をしていかなくてはなりません。心身ともに疲れるはずです。

天皇はそんなご自分の状態に、一寸緊張感を解放しようとされたに違いありません。

為政者はどう対処したのか

 限られた世界でのことですから、宮中で賭弓が楽しまれたという噂が、官衙の中で広がらない訳がありません。

天皇は宮中のことがどう広がっているのかを知ろうとして、数日後に禁苑である神泉苑(しんせんえん)へ行幸されたのです。

案の定、今度は左右の馬寮(まりょう)の者が銭を四百貫集めて献納して、左右近衛の者に射を競わせて楽しむのに遭遇するのです。

噂の広がり方が、尋常ではなかったのを実感されました。

これなどは正に現代的な問題ということにもなるのではないでしょうか。政治を司る宮中はもちろん政治の中心である内閣府で賭け事が楽しまれたということが判ったら大問題になってしまうでしょう。

まさに今回のような問題は、時代の違いとしか言いようがありません。

内閣総理大臣以下肝心たちは、国民のさまざまな問題解決に腐心しなくてはなりません。その疲れが蓄積していくでしょうが、それをどうやって息抜きをしていくかは、それぞれ責任を持たされている分だけ、負担が蓄積されていくことでしょう。その重圧感を適度に解放しながら、どう政務の激務にかかわっていくか、現代を生きる者の課題でしょう。最近はいささか下火になっていますが、所謂IR法案・・・つまりカジノを含む統合型リゾート施設というものですが、設置されるということの是非について審議されている最中は、ギャンブル依存症ということも浮上して、かなり世間でも騒がしくなっていたことがありましたが、その後副大臣クラスの議員がその拠点を決めることに関して、異国からの働きかけにのって、便宜を図ろうとして摘発されてしまいました。その為もあって、まだ法案は棚上げになってしまっていているようです。平安時代のように、朝廷という規律の厳しいところで暮らす役人たちの息抜きのために、厳しい姿勢を保たれていらっしゃる天皇が、理解をしたということに意味があったと思うのですが、その頃官衙に勤める者の規律が守られないという問題が浮上している頃であったということを考えると、天皇もかなり思い切ったことに理解を示したことになります。

もちろんそれが日常になってしまったら大変ですが・・・現代ではあくまでもギャンブルとそれが行われる地域の経済ということでは、かなり難しい問題がありそうですね。ギャンブル依存症という問題とはまったく別次元のお話になってしまっています。

すでに政府は形を変えて、勝負に金品を掛けるということも公に行っています。射幸心ということでは身近なパチンコをはじめとして、競馬、競輪は言うまでもなく公に認められたものは、それに賭けて利益を得るのを楽しみにできます。つまり楽しみの範囲で許されていることです。しかし現代ではそれを行うことで得る利益を、国家予算にまで組み込んで運営しようということで、大掛かりな賭博場であるカジノを開こうという企画が注目されることになったのですが、これは気分転換という範囲を超えたものになります。息抜きということは判っていても、その勝ち負けの刺激で知らないうちに熱し過ぎてしまって、度を過ぎてしまうことが多々あるのがギャンブルの特徴です。

そのために平穏無事であった日常生活を破綻させてしまうことにもなります。正に古代も現代もない問題です。

度を過ぎると必ず大きな問題に発展してしまいます。

温故知新(up・to・date)でひと言

兎に角賭け事というものは、一度はまってしまうとなかなかきっぱりと区切りをつけることが困難なもののようです。

平安京の政庁の方々は大極殿や朝堂院へ戻れば、為政の責任者として、大小さまざまな社会問題に対して、その処理を速やかに行わなくてはなりません。けじめはつけていたはずです。古くからある四字熟語には、「内憂外患(ないゆうがいかん)といった言葉があります。国の内外に心配事が沢山あるということです。仮に賭け事に熱中することがあっても、それはひと時の楽しみであって、決してけじめのつかない状態にはならないように気を付けなくてはなりません。「隠忍自重(いんにんじちょう)という言葉のとおりです。いつまでも浮かれて軽々しい行動などをしないように、慎重に事の処理を行って、すべて臨機応変に処理をしていかなくてはなりません。「融通無碍(ゆうずうむげ)という言葉のように、その時の政庁の都合で為政をやってはいけません。

それをさせないように、政治の向かう方向を平静に見つめる我々の視点が必要です。それができるかどうか、敢えて賭け事を取り上げましたが、あくまでもそれは作業を円滑に進めるための気晴らしであって、決してはまり込んで度を過ごしてしまってはならないという、自覚を持つ必要があるように思います。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑2 [趣味・カルチャー]

       「政治改革の行方」

昨今は何かにつけて「改革」・・・イノベーションということが叫ばれます。

とにかく大変耳障りがいいものですから、誰も彼も「改革」ということについては特に反対はありません。しかし問題は、改革をした結果どういうところに前とは違った効果が表れているのかということが、評価の対象になるのではないでしょうか。

この改革ということは、決して今に始まったことではなくて、昔高校の日本史の授業などで登場したことがあったのです。思い出すのが、奈良時代から平安時代に変わる過渡期に登場した、光仁天皇(こうにんてんのう)の政治改革のことです。

この頃天皇というのは権力者ではありましたが、本当は政治の頂点に存在する、象徴的な存在に過ぎませんでした。

天皇が祭政一致で権力を掌握していた時代は、天武(てんむ)天皇の在世中のことで、その後持統(じとう)天皇が登場した頃からは次第に祭政一致はなくなり、天皇は祭りごと中心に勤めを果していますが、については皇族、貴族に任せていたのです。その為にやがて皇族は政治から離れるようになり、政は貴族によって行われるようになっていったのです。

ところがその頃から、どうも政治の世界は歪み汚れていってしまったように思います。

要職に就いた者は、出身貴族の一族のために利益を図って、その反映と権力を保持しようとしましたし、自分の野心を遂げるために、都合の悪い者は抹殺してしまうという状態にまでなってしまったのです。しかしこの

ような時代が長くつづいていくと、同じ者がいつまでも権力を握っていることになり、どうしても腐っていくのが政治の世界のようです。

奈良時代の末期にはどうにもならない混乱期が訪れて、権力者であった藤原氏もその威光を失っていってしまいます。

その間に一番問題になっていったのが財政的な逼迫という問題です。

政治の中心であった朝廷も肥大化してしまって、ついには天皇家の生活の中心である内裏の維持費までも、ままならない状態がやってきてしまったのです。そこで登場したのが光仁(こうにん)天皇ということなのですが、兎に角混乱を収拾するために清廉潔白な人ということになって、多少高齢にはなっていましたが有力者たちから押し上げられた方だったのです。

天皇は政治の中心になるところである朝廷が、きちんと機能しなくなっていたのを知っていましたから、先ず肥大化して機能しなくなっているものから整理していくことにしました。

まず朝廷で働く官人の整理です。

つまり役人の整理をすることになって、各省庁からかなりの人を整理していきました。そうなると長いしきたりの中で安住してきた者たちからは、反発を招いたことは間違いありません。しかし光仁天皇は、役人ばかりでなく、ただ権威だからといっていつまでもその頂点に君臨していて、実際には何の活動もしない大学寮の博士・・・今の国立大学の教授のようなものですが、長老だからといって生徒の教育もろくろくやらずにふんぞり返っている者に代って、意欲的な若い教育者を引き上げていったのです。

これなら各界から大絶賛されて評価されることになるだろうと注目していたのですが、しかしそうならないところが世の中の厄介なところですね。

自分たちではどうにもならなくなってしまったのは、光仁天皇に為政を託したからだ。自分たちに不利なことばかり起るのだということになってしまったではないかということになってしまって、改革の象徴であった彼は、たちまち面倒な存在に早変わりしてしまったのです。

一刻も早く天皇の地位から引きずり下ろしてしまおうと動き出します。

まさに古代も現代もありません。政治の世界は進化していないと言うことです。

自分たちの都合で持ち上げておきながら、風向きが変わった途端にたちまち引きずり降ろそうとし始めるのです。

光仁天皇の在位期間は、わずか十一年という短期間で終わってしまいます。その足を引っ張ったのは、何と光仁天皇に政治的な混乱を収拾させようとして即位させた藤原氏そのものだったのです。

古代ではあくまでも天皇は為政の頂点に置いておく飾りのようなものだったと書きましたが、実社会において権力を持っている者たちにとって、都合よく動いてくれなくなった者は、たとえ天皇であったとしても容赦なく退きずり降ろしてしまいます。

まるで現代の政界を見るような気がします。

懸命に為政を(ただ)そうとしてきた人でも権力者にとって都合が悪くなってしまうと容赦なく引きずりおろしてしまいます。

どうして切実であった財政難が迫っていたというのに、このような結果になってしまうのでしょうか。押し上げた者も引きずり下ろすのも同じ者です。

どうも改革という叫び声は美しく響くのですが、実際に運用されるようになった時、本当に国民のためになったのか、いつの間にかごく一部の権力者が有利になってしまっているのではないのかというようなことを、じっくりと見つめていく必要がありそうです。

そうです。

改革の本質を知って見つめつづけるということこそが、改革を実のあるものとする肝心な作業であるように思えます。時代が改革を求めている時であるからこそ、余計に心にかかっています。

 


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の三 [趣味・カルチャー]

      第一章 「卓越した指導者であるために」(三)


        為政者の課題・「罪人放免の温情の意味」


 今回は弘仁四年。(八一三)のことです。


嵯峨天皇即位から四年後のことで、まだ為政にかかわってからそれほどたってはいません。三十歳になるかどうかという年齢です。


 


天皇は何事につけても即断しておられますが、時には慎重に判断をされることもあるようです。それは異国人に対しての法というものの扱いということでした。これまでの決まりというものを、無視してしまうということはありませんでしたが、この頃になると、日本もただの島国として、独自な生き方をしていればいいと言ってはいられないことが起こりつつあったのです。


天皇は法というものについては慎重に判断さていたのです。


これまで前の法がきちんと正しく行われているかどうかということについて、考えてみる必要があると考えていらっしゃったのです。


そのために起こったことについては、早急に結論を出してしまうようなことはせずに、慎重に対処していらっしゃいました。


為政者・嵯峨天皇


弘仁四年(八一三)三月十八日のことです


発生した問題とは


 弘仁四年(八一三)三月十八日のことです。


肥前国から不気味な報告が飛び込んできたのです。


佐賀県の町におかれた軍団である、基肆団(きいだん)(佐賀県三養基山町に置かれた軍団)校尉貞弓(こういさだゆみ)によりますと、新羅(しらぎ)人百十人が五艘の船に乗って、小近島(おちかとう)(五島列島の東部)に着岸すると、島民と戦い、島民は新羅人九人を打ち殺し、百一人を捕虜にしたというのです。


また別の日、新羅人一清(いっせい)らが、同国人清漢巴(せいかんは)らが聖朝(せいちょう)(日本国)から新羅へ帰国したと言っていますが、朝廷は新羅人らを訊問して、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は慣例によって処理せよと指示いたしました。


ところが文人政治家として、これまでの権力志向の天皇とはかなり考え方の違う発想をされる嵯峨天皇だったために、直ぐにその日の決定に対して、公卿からある申し出が行われたのです。 


為政者はどう対処したのか 


 「過罪を赦すことは、天皇の深い思い遣りがあってのことであり、罪人が悔い改め反省するならば、自首や違法状態の解消が何年にもわたって延期されることがあるでしょうか。しかし恩赦が出されても、自首しない者がおり、赦後・赦前の犯罪かどうかについて、追究することなく多くは、いい加減なまま赦しています。これは日限を立てるべきなのに立てないことによります。そしてこれが悪事をなす契機となっているのです。そこで、伏して先の日限を立てている以外の継続犯(犯罪が過去のものとなっても、その状態が続く場合、犯罪が続いているとみること)・状態犯(犯罪が行われた後法の侵害は続くが、法益の侵害が発生したことで終了するもの)で、恩赦の対象となった犯罪に関しては、恩赦布告後三百六十日以内に自首するものとし、この期限を経過した後は赦の対象としないよう要望いたします」(日本後紀) 


 それに対して天王は、新羅人たちは尋問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例より処置せよと指示された。


 政治というものは実に難しいものです。


天皇は対外的なことに話が広がらないようにということで、新羅に対する扱いが厳しくならないことを考えて指示をしたのですが、その一方で彼らと戦った島民たちについての扱いが、うやむやにしてしまうのはよくないとおっしゃるのです。


天皇のおっしゃる通り、このところ長い親交関係にある渤海(ぼっかい)国との交流に分け入ってくる、新羅国に対する警戒心もあって、襲ってきた者たちの処理によっては不測の事態が起こることもあるということから、穏便な処置で済ませたのですが、彼らに立ち向かって戦った島民も、同じように穏便な処置をしてしまうことにしてしまうと、これまでの法が守られないようになってしまうというのです。


公卿たちからは、朝廷を揺るぎない安定した状態にしておかなくてはならないと進言してきたのです。つまり新羅国の立場を忖度して行った処理だったのですが、公卿からは国内の罪人に対しての恩赦のあり方については一考を要するのではないかという問題が持ち出されたのです。


新羅と戦ったのだからと恩赦の対象にしてしまったら、これまでもかなり守られていない恩赦という法が、ますます守られなくなるというのが趣旨でした。この天皇と公卿(くぎょう)との発言について、現代の受け止め方としてはどう考えればいいのでしょうか。


現代でもよくある話ですが、特に「恩赦」ということについては、その時の為政者にとって、かかわりがない場合はいいとしても、様々なことでかかわりがあった場合などは、かなり疑問を感じざるを得ないことがあります。


その扱いに関しては、注意していないと、為政者の都合のいい形で利用されてしまうことになってしまいます。


対外的に配慮して行った「配慮」を、国内にも及ぼしてしまうことは為政を率いる者として問題になりそうです。そうかといって対外的に強硬な姿勢を明らかにしてしまったら、いたずらに敵対心を刺激することになってしまうという問題に、突き当たってしまうことになってしまいます。しかしそうかといって侵略して来た者と戦って撃退した島民たちを無視することもできません。


恩赦のあり方については、大変難しい問題ですが、結局すべての者に恩赦を与えるのではなく、これまで法を順守する者についてだけ恩赦を与え、これまで恩赦を与えられながら、自主的に出頭してこない者についてはこれまで通り厳しく処理するということにしたのでした。


同じ法を執行するについて、天皇と公卿の立場や対外的なことと対国内的なこととではどう受け止めるべきなのでしょうか。


実に微妙な問題でした。 


温故知新(up・to・date)でひと言 


天皇は大変度量のある方でしたので、為政の基本の姿勢としては、「恩威並行(おんいへいこう)という立場を維持していらっしゃったのでした。厳しくすることはきちんとした上で、恩賞を与えることにしていらっしゃるのです。基本的に性善説を基本にしていたに違いありません。社会の平穏を脅かす者には、厳しい刑罰を行うということを実行してきましたが、犯罪を起こすに至った事情を知った時には、情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)という配慮をする優しさも発揮されていたのです。


現代でも刑期を終えて釈放されながら、直ぐにまた再犯で投獄されてしまう者がかなりいます。犯罪者のそれぞれの事情について精査したら、その原因が社会情勢によるものなのか、それとも本人の性格によるものなのかがはっきりとしてくるはずです。「強悪強善(きょうあくきょうぜん)ということも言われるほどで、悪の限りを尽くした悪人がひとたび悔い改めると、逆に生まれ変わったほどの善人になるということがあります。敢えて世の決まりから、はみ出て暮らそうとする者もいないわけではありません。しかしその時に被る負担は、あくまでも自己責任です。社会のためだというような言い訳は許されないのではないでしょか。皆が生きやすい世の中であるためには、お互いに護るべき社会規範は守っていかなくてはなりません。昨今は犯罪も極めて個人的な問題から発生するものが多くなっています。その背景には様々な時代の様相が潜んでいるような気がいたします。そんな中でそれらの犯罪者をどう扱ったらいいのか、犯罪を裁く人はそんな問題提起にどう応えるべきなのか、充分に腹積もりを持っている必要がありそうです。


異国についての襲撃を考えながら馬埒殿(うまばどの)騎射を観覧した後で、天皇はこんなことも発言されました。 


「治国の要諦は民を富裕にすることであり、民に貯えがあれば、凶年であっても防ぐことが可能である。この故に、中國古代の聖帝()は九年間治水につとめ、人民が飢えることがなくなり、(いん)(とう)王の時代に七年間、旱害(かんがい)がつづいた


が、民は生業を失わなかったのである。ところで、現今の諸国司らは天皇の委任に背き、不適切な時期に百姓を労役に動員して農繁期に妨害をなし、侵奪のみをもっぱらにして、民を慈しむ気持ちを、持っていない。このため人民は生業を失い、自ずと飢饉に陥っている。格別の災害がないのに、絶えず人民が飢えているとの報告がなされているのである。このため毎年賑給(しんごう)(恵みを与えること)を行い、倉庫はほとんど空尽となってしまった。ここで災害が起これば、どうして(すく)うことが出来ようか。悪しき政治の弊害として、こうなってしまったのである。今後は農業が被損(ひぞん)


したり疾疫(しつえき)以外で朝廷に対し安易に賑給を請願してはならない」(日本後紀)


 政庁を取り巻く環境は、そんなにいい状態ではなかった時のことでした。それを取り除こうとしておられていたのでしょう。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言1 [趣味・カルチャー]

「鬼籍って?」

人は亡くなると鬼籍に入られたといいますが、戸籍の類にそのようなものがあるとは思わない人が多いのではないでしょうか。しかし必ず最後はこの戸籍に登録されることになるようです。

どうも言葉の響きの中に「鬼」などという言葉が入ると、ちょっと怖い気持ちになってしまうのでしょうか。それとも昔から桃太郎の「鬼退治」のような話があったためでしょうか、

どうしてもその「オニ」という語感から怖い怪物というイメージが浮かんできてしまいますが、実はこの「オニ」という言葉には「隠れる」という意味があって、その「オニ」という意味があるのですが、つい亡くなると地獄へ落ちるような意味にとってしまいがちになるので、「鬼籍」へ入ったというといやな気分になってしまいます。

中国などでは、もともと「鬼」というのは死者の霊という意味であったといいます。だから当然この世の人ではなくなったので、「鬼籍」へ登録されることになるということです。

 余談になりますが、平安時代の天皇の中に、死んだ後は鬼になるということを信じていらっしゃった方がいらっしゃいました。

 第五十三代淳和天皇(じゅんなてんのう)です。

 淳和七年の五月のある日のことです。

天皇はすでに太上天皇(だじょうてんのう)となっていらいましたが、後を託した皇太子の恒貞親王(つねさだしんのう)を呼んで、死後のことを頼んだ後で、思わぬ話をなさいました。

「私は、人は死ぬと霊は天に上り、空虚となった墳墓には鬼が住み着き、ついには祟りをなし長く災いを残すことになるときいている。死後は骨を砕いて粉にし、山中に散布すべきである」

このように命じられました。

 しかし皇太子は「墳墓も宗廟もなくなってしまったら、私たちはどこを仰ぎみたらいいのでしょうか」と問い返しました。

それには太上天皇からは、「わたしは気力を創出し、結論を出すことが出来ない。あなた方は嵯峨太上天皇に奏上して、決めて頂けばよい」

 そうおっしゃって、やがて享年五十五歳で昇天されたのでした。

 死後は火葬ののちに、遺言通り山へ散骨されたようです。鬼が登場する機会を与えなかったのかもしれません。天上に向われた霊は、綺麗な霊魂となって鬼籍に入られたのかもしれませんね。


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