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☆新言霊とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言7 [趣味・カルチャー]

          「朝焼け・夕焼け」

 今でも一寸年配の方でしたら、気候に関して昔からよく言われてきた言葉が跳び出すことがあるのではないでしょうか。

 特に地方から出ていらっしゃった若者でも、家族や近隣の者との付き合いの中で、ふと生活にまつわる言い習わしというものがあって、思わず思い出す言葉があるのではないでしょうか。

 朝焼けは雨、夕焼けは晴。

 こんな言い習わしは、都会地に住む者よりも、農村や漁村という生活環境が、その日の暮らしに影響を与えるので、生活をする中で身につけた知識を記憶していく手掛かりにしてきたこともありますし、子供にもそうしたし前現象が、どのように暮らしに影響を与えることになるかということを、自然に教えてきているでしょうし、自然にそんな情報を大人たちが交わしているのを聞いたりすることもあって、自然に記憶に残されていたりするものです。

 都会、地方は関係なく、天気の具合によってやはり微妙に影響を受けますが、やはり自然の恩恵を受けて生活資源としている人たちにとっては、昔から生活の地としてその土地その土地で言い伝えられている、自然と向き合うための智識は貴重な財産でもあり得るのではないでしょうか。

 そんな中での関心事といえば、一般の民衆にとっては晴とか雨の問題は第一の関心事ですが、その次は風のようです。時には虹による予報もあるといいます。

 虹が東に立てば晴。西に立てば雨。

 虹が夜立つと戦争のしるし。などという恐ろしいものまであります。

風や雲に関しても生活経験を利用した天気予報があります。

風がないのに電線がうなる時は天気が悪い。

西風が吹くと魚がよく釣れる。

秋海春山というのがありますが、秋は海から風が吹けば晴、春は山から風が吹けば晴という具合です。

秋は海から風が吹けば晴、春は山から風が吹けば晴という具合です。

日暮れの雲焼け、明日の風。

雲が西へ上がると雨になる。

雲が山に下りると大蛇が登る。

朝霧は雨。夕霧は晴

朝雨は女の腕まくり。あまり恐れることはないということ。

朝のぴっかり(晴天)姑の笑い(すぐ変わる)

ちょっと調べただけでも、かなり集まります。

生活と天気予報ということで、調べて歩くと、かなり変化のあるものが集まるのではありませんか。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の一 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()

        為政者の課題・「伝統保護禁止の波紋」

弘仁二年(八一一)。嵯峨天皇は政庁を率いるようになって、数年後のことです。

 平安京が桓武天皇から始まったということは、ほとんどの方が御存知だと思うのですが、すでに皇統は平城天皇、嵯峨天皇と受け継がれてきているのですが、政庁を率いる公卿(くぎょう)たちは勿論のこと、官衙(かんが)で働く官人たちにも何方からの推薦を受けて官衙で働くようになっていることが多いのですが、即位して間もない嵯峨天皇はこれまでの人事の様子を調べた結果、改革の必要を感じて大胆な提案をされたわけです。

 これまで採用されている官人達は、ほとんど家柄はいいが年を食い過ぎた者たちが多いということを知ったことから、これからは若い才能のある者を採用したいと考えるようになっていらっしゃったのです。

そこで政庁の会議の席で、天皇は思うところを発表されたのです。

ところがそれに対して、列席していた公卿たちからたちまち反対意見が出されたのでした。

為政者・嵯峨天皇

弘仁二年(八一一)二月十四日のこと

発生した問題とは

 若い天皇の革新的な提案なのですが、その真意が納得できない様子なのです。これまでは平安京を開いた貢献者である祖霊桓武天皇と関わりのあった、由緒ある氏族の子弟がかなり多かったのです。そのためでしょうか年を経ていくうちに、彼らは高齢化してきているのです。それを知った二十四歳という若い天皇は、これまでのしきたりによる官人の採用に関して疑問を感じられて、その改革をしようと決心して率直に新たな施策を提案したわけです。

 孝徳天皇の時に置かれた役職が、建郡に貢献のあった人とその子孫が代々就任してきたが、その後採用の基準に才能を採用基準にして、譜代、家柄による任用を廃止しました。今後はそうしたしきたりを改めて、これからは実力のある若手を中心に採用することにするというのです。如何にもこれまでの天皇とは違った感性をお持ちになっていらっしゃる決断でした。ところがそれに対して藤原園人が進言によると、

「功績のあった者も子孫が受け継いで郡領となると、群中の百姓は老いも若きもみな信頼し、その郡務遂行の様子は、他の者が郡領となった場合とまったく異なっていました。しかし、偏に才能を基準として家柄を廃し、才能があっても身分が低い凡庸な人物を立派な門地(もんち)の者の上に置くようになった結果、群政は物情に合わず、訴訟の判決も納得されない者になってしまいました。このため公の観点からは人を救うことができず、古人にとっては愁ことが多くなるばかりです。そこで、伏して、郡司の選任に当たっては、家柄・譜第を先とし、譜第の人を起用できなくなった段階で、才能による任用を行うことを請願します」

と述べている。

ここまで書くと、私のような年齢の者には、就職試験の頃を思い出してしまいます。現代のことであるのに、まるで平安時代に逆戻りしてしまったのではないかという雰囲気であったような気がしてくるのです。そのまま

一応試験ということは行われるのですが、どの会社でも何らかの関係のある人が、そのツテを求めて入社していましたし、その人達によって生まれる社風に憧れて入社したりしていましたので、それぞれ社風がありました。しかもあの頃はどの会社でも終身雇用というのが社会的に常識であったので、安心して働いていたように思うのです。しかしそうした社会的な風潮も、激しい時代の転換期を迎えるようになっては、とてもぬくぬくとして生活をしていくことは出来なくなります。まさに嵯峨天皇がその頃の人事のあり方を見て、才能にある若手が必要になるとお考えになられたのです。まさに先年を越えた現代を見通した先見であったように思えてくるのです。

勿論平安時代のことでしたので、才能によって官人を任用しようという大胆な提案も、当時の社会常識ではなかったのですね。天皇の提案に関しては公卿たちのいい返事がありません。

これまで採用されている者の多くは、確かに祖霊桓武天皇との親しい縁を結んでいた家の子弟が多いので、彼らはかなり年齢が高齢化してきているけれども、そのしきたりをいきなり廃止してしまうと、伝統を引き継ぎそれを守るという作業が継続できなくなり、伝統の文化も継承できなくなるというのです。

これまでの権力者であったら、それも拒否して思う通りにされたに違いありませんが、しかしこの日の天皇は

これまでの為政者とは一線を画していらっしゃいました。

確かにこの請はまことに理に適っているので、これにより譜第を基準にして郡領の任用を行なえ。

改革を目指す天皇の勢いは削がれてしまいそうな事態でしたが、天皇はここで持論にこだわりませんでした。まさにここが、これまでにない画期的な為政者としての姿勢だったように思うのです。

為政者はどう対処したのか

朝廷を率いて間もない天皇にとっては、その勢いを失ってしまうような状況でしたが、今回の朝議における問題の提起をするに至ったある理由があったのです。異色の政治家である嵯峨天皇の登場を知って、世の中も何か変革を求めているのを察した式部省から、大学寮からの報告として次のような報告が行われていたのです。天平二年(七三〇)三月に発せられた詔勅(しょうちょく)によって、文章生(もんじょうせい)二十人を宮司の下級職員として、聡く賢い白丁(はくちょう)(公の資格を持たない無位無冠の男子)から選抜することになったのですが、今、学生らの才器を見ますと、若年時から勝れている者は少なく多くは晩成で、文章道から官人への出身となると、そろそろ白髪が混じる年齢になっております。人は賢く優れていても役に立たなくなっているというのです。つまり良家の出身者だけでは官人として役に立たないということなのでしょう。身分は低くても能力のある者を起用する必要があると訴えてきたのです。天皇はそれに共感されて改革を思い立たれたのです。しかしその精神の思いも、公卿たちの進言を平静に検討してみると、検討するのに値することに気が付きます。革新の気分にあった天皇だったのですが、それを焦り過ぎた先帝の間違いを思い出されたのです。改革もしなくてはなりませんが、それだけを目標に突っ走ったりすると、却って失敗するという教訓を得ていらっしゃったのです。天皇は思い切って自説、持論を引っ込めることにしたのです。そして次のような思いを述べられました.

「為政の大事なことは、状況に応じて適切な指導をすることだ。朕の目指す飾り気がなく、人情の厚い政治は、いまだ全国に及んでいないが、滅び絶えたものを再興しようという思いは、常に胸中に切なるものとしてある」(日本後紀)

改革と保守という二律背反という問題に直面されてしまうのですが、それでも天皇は徒に結果を焦りませんでした。いつかそれは現実の問題として浮上して来るに違いないとお考えだったのでしょう。この話題は決して古代の話に留まらないのではありませんか。

 正に現代が直面していることは、少しでもでも優秀な能力を持った若者の登場を、政治、経済、文化、どの世界でも待ち望んでいる状態です。それだけ時代の進展をリードしてくれる者が出てこないと、様々な世界での競争に後れを取ってしまいます。

 嵯峨天皇は古代では珍しい意識をお持ちであったと思えてきます。それまでの社会的な常識というものを、一気に変えてしまおうとする提案でしたから、それを押し通すことで、公卿たちとの間に亀裂を走らせてしまったら、いつか思い通りの官衙を作りあげることは出来なくなってしまうと考えて、敢えて自説を引っ込めたのです。

きっと内心ではかなり苛立っていらっしゃったのではないでしょうか。

 権力者であるが故に、よく自説に拘らずに我慢されたなと思います。私はこの時の天皇の姿勢に感心してしまいまいした。絶対的な権力者であったことを考えますと、その時に示された姿勢は、なかなか見せられないものであったように思えてなりません。

 

温故知新(up・to・date)でひと言

いつの時代でも若い人はこれまでのしきたりを押し退けて前へ進もうとするものです。しかしそのために大事にしていかなくてはならないものまでも排除してしまったら、大事なものまでも失ってしまうことになるのです。革新の進め方に工夫がないと、ただ反対意見に圧し潰されてしまうだけです。それらの人たちもやがては納得して従ってくれる時を心に秘めながら、努力を積み重ねて生きましょう。天皇も自らが提起されたことを一旦引っ込められるという処置を取られました。改革を急ぐあまり、周囲の者の信頼を裏切ってはならないという決断をされた結果でした。古来「藍田生玉(らんでんしょうぎょく)といわれて、名門から賢明な子弟が出てくるということが云われますが、「張三李四(ちょうさんりし)で、物事を完成したり、ものにしたりするには、それ相応に年月がかかるということです。世の中の変遷も厳しく、「高岸深谷(こうがんしんこく)ということです。高い丘が深い谷に変わり、深い谷が高い岸になるようなはなはだしい変化もあるということです。若者は意欲を持って、目指す世界へ一歩一歩着実に、時に大胆に前進していきましょう。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の世界☆ 閑7 [趣味・カルチャー]

「感性の復活を!」

「遠くて近い、古代の魅力」

 こんなことを言ったら、

 「いい加減にしてもらいたい。今は超科学の時代ですよ」

 こんな皮肉が跳ね返ってきそうです。

しかしちょっとお待ち下さい。

古代がそれほど現代人とかけ離れた時代なのでしょうか。

 私にはとてもそうは思えないのです。

 たしかに昨今は、我々の昭和でさえも、すでに歴史となったと言われるくらいですから、古代などといったらまったく問題にならないほど遠い過去の時代のことになるかもしれません。

しかしわたしが古代という意味は、若者たちの中で盛んに昭和の感性を懐かしむ対象として取り上げていることとは一寸違うのです。それでは私が問題にしたいことの表面を撫でて楽しむだけで通り過ぎて行ってしまうだけのように思えてなりません。

 昨今は超科学時代がもたらす、その恩恵を享受しているために、いつの間にか、一番大事なものを欠落していってしまっているのではないかと心配になるのです。その先導役が、驚異の進化を遂げている科学というものです。

その影響で何につけてもテンポが速くなり、急き立てられて前へ前へと進んでいかなくてはならなくなりました。そんな時代の勢いに抵抗するように、「スローライフ」とか「癒し」ということなどが盛んに叫ばれるのですが、なかなか大きな声にはなりません。時代のうねりに圧倒されてしまうのです。今のうちに拾い上げておかないと、もう二度とそれを拾い上げることもできなくなってしまうでしょうし、突然出会う機会もなくなってしまうような気がするのです。

しかし・・・こんなことをお話しているうちに、わたしのやろうとしている探し物というのは、超科学時代と古代という、極端に環境の違う時代を重ね合わせるという大胆なことをすることで、より鮮明になってくるような気がしてきたのです。

昨今の世の中の有様を見つめていると、人間が本来持ち合わせていたものを、すべて超科学の魔力に魅せられて、それに委ねてしまったのではないかと思うのです。このままでは早晩、人間が本来神から与えられていた大事なものを、完全に失ってしまった時代がやって来てしまうのかもしれないという、絶望的な時代がやって来てしまうと思うようになったのです。

 古代の人々は、神から与えられたもの・・・それを鍛えることで、自然の驚異にも立ち向かって生きていました。

それこそが「感性」というものです。

 超科学が日進月歩の現代では、生きていく上で、不都合と思われるようなことがあれば、直ちにそれはことごとく払拭され、解決されてしまいます。望むことのほとんどは、ほとんど叶えられてしまいます。しかし古代ではとてもそんなことを期待することができません。彼らは同じ「超」でも、「超自然」の驚異の中で生きていました。起こることのすべては「神」の啓示だと思って謙虚に受け止め、自らの生き方を質して、人として天下に恥じない生き方をしようと務めていました。

科学などというものの手助けを、まったく受けられない古代の人々は、自らの五感によって、圧倒的な勢いで襲いかかってくる障害を、いち早く察知して対処しなくてはなりませんでした。

 天の声の示唆することを、いち早く受け止めて、生活の中で活かしていくには、先ずそれぞれの「感性」を常に研ぎ澄ませていなければ、危険からいち早く逃れることもできません。しかも彼らのほとんどは、教育もろくろく受けられない農民たちなのです。

 古代人は皇族も、貴族も、農民も、それぞれの五感が鈍らないように務め、季節の微妙な変化でさえも、時には優しく、時には鋭く、時には緊張して向き合っていました。互いに生きる仲間への配慮もし合って、共に未知の驚異から逃れ、安全に生き抜く工夫をしあっていたわけです。

 ところが・・・超科学時代の昨今、わたしたちは、そんな鋭い感性を、持ち合わせていると言えるでしょうか。

 ちょっと不安になってしまうのです。

わたしたちは、科学の万能ぶりに魅せられて、自らの感性を磨くことを放棄してしまいました。

便利と言うことは、人間本来の感性と引き換えにして、手に入れるものに過ぎません。

 わたしが敢えて古代を持ち出したのは、まだその感性というものを、大事にしようとしていた昭和という時代に、青春時代を過ごしていたからかもしれません。

超科学時代の現代人には、想像のつかないほどの楽しみもあったし、むしろ日本人として失いたくない、美しいもの時にはあまりにも素朴なものではあっても、温かなものがいくつもあった時代でした。

人間が本来持っていた「感性」というものを、最大限に発揮しながら、暮らしの不便さと戦い、驚異と戦って、困難を克服しながら、未来に夢を描いていました。

 わたしたちは時代の進歩と同時に、神が与えてくれた、感じるという繊細なものを失っていきつつあるのではないでしょうか。

 至れり尽くせりの時代です。

 自分に関することがそんなわけですから、他人のことなどについては、余計に無関心になり、感じ取るなどということがなくなってしまうのかもしれません。時の流れの速さについていくのが精一杯で、とても人のことに気を使っている余裕もないのかもしれません。

これでは自然も、人も、他人がさり気なく発信している情報などには、ほとんど気づかず、関心を持たずに行き過ぎてしまいます。

現代人は、もっぱら超科学の判断だけを受け入れて生きています。

その分、人間が本来持ち合わせていた、感性とか感覚というものは鈍化してきているように思えてなりません。

 昨今、目を背けたくなるような事件が、次から次へと起こっていますが、社会でのことも、家庭内でのことも、人間関係でのことも、すべてについて敏感であった古代人のような、鋭く繊細な感性をもう一度取り戻す努力をし始めなくてはならないのではありませんか。

いや、少しでも古代人のそれに近づけるように、心がけなくてはならないのではありませんか。何もかも便利になって、人間が何もしなくても用が足りる時代になってきています。だからこそ、それに浸りきってしまっていていいのかと、しきりに思う今日この頃なのです。もう一度自然の微妙な変化に、驚いたり、感動したり、喜んだりするような、素朴で繊細な感性を持ち、周囲への気配りも、自然に行えるような社会を取り戻したいものです。

 遊びの感性は磨かれて、次から次へと楽しいことが生み出されて、共有する時代になっていますが、人間として失ってはならない、「心」の「感性」が、さっぱり磨かれていないのではないでしょうか。

もう一度、わたしたちは、古代という時代について、じっくりと考え直してみる必要があるのではないでしょうか。きっとその時、私たちは、先人たちが、何を大事にしてきたのかということにも出会えるし、その息使いにも、出会えるような気がするのです。

 「遠くて近い古代」

 現代とは遥かに遠い古代ではあるのですが、超科学時代の我々に、ちょっと立ち止まって、生き方を点検してみたらどうだろうかと、呼びかけているように思えてならないのです。

        「今こそ、真の(感性)の復活を!」

 新しい時代を生きる人たちに、是非、真剣に考えて頂きたいと思って書きました。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の六 [趣味・カルチャー]

      第二章「安穏な暮らしを保つために」()

        為政者の課題・「情報の必要不可欠」

  早いもので、承和九年(八四三)を迎えています。

仁明天皇(にんみょうてんのう)はすでに在位十年になります。

父である嵯峨太上天皇は病勝ちになっていたこともあって、為政についても、父の病状の回復を願う気持ちも真剣そのものでした。

恒例により天皇は嵯峨院へお尋ねして、新年のご挨拶を済ませると、雅楽寮(うたりょう)が音楽を奏し、公卿は酔いに任せて感興の赴くままに、それぞれ立ち上がって舞いました。

体調の思わしくない嵯峨太上天皇を、少しでも元気づけようという配慮でもありました。

このところあまり異国の使節が来朝することが無なくなっていたのですが、異国ではいろいろな動きがあるようですが、兎に角海を越えた国で起こっていることについては、ほとんど情報が入ってくることはありません。それだけに様子が知れないということは不安の原因になるものです。

そんなところへ筑紫(つくし)大津(博多津)へ李少貞(りしょうてい)に率いられた四十人の新羅(しらぎ)人が到来するのです。直ちに大宰府は役人を送って来朝の理由を問いただしたのですが、李少貞はそれに対してある情報をもたらしたのです。

 これまで嵯峨太上天皇は常々、

「治にいて乱を忘れずとは、古人の明らかな戒であり、将軍が驕り、兵が怠けるようなことは軍事の観点からあってはならない。たとえ事変がなくて慎むべきことである」(日本後紀 

こうおしゃっていたのです。

かつて「対岸の火事に学ぼう」ということで、日本から離れたところでどんなことが起こっているのかという情報を得て、それを鑑にして自分たちの暮しで、糺しておかなくてはならないことがあれば、正常に整理をして万一に備えるようにしようと致しましたが、今回は一寸その頃の状態とは違った状況があります。

嵯峨太上天皇の病臥という状態にありましたから、政庁は勿論のこと官衙で絶大な信頼感のあった方だけに、様々な不安を抱えている最中のことだったのです。

大宰府から、取り調べの結果を報告してきました。

新羅(しらぎ)国の集団の長である張宝高(ちょうほうだか)が死去したことから、その副将である李昌珍(りしょうちん)たちは反乱を起こそうとしたのですが、武珍州(ぶちんしゅう)(韓国光州)列賀閻丈(れつがえんじょう)が兵を率いてそれらを平らげ、心配はなくなったのですが、その時捕足を逃れた賊徒が、日本へ向かい人々を騒がす心配があるということでした。政庁では一時騒然としましたが、どうやらこの少貞は現在列賀閻丈の使人となって動いているということが判ったことから、あまり深入りは出来ないということが判ったために、それ以上深入りはせずに、適当な時期に帰国させることにしました。何か不穏な空気が漂う平安京になりましたが、そんな中に不安を更に掻き立てるように、得体の知れない怪しいものが、宮中にも現れたりするようになったのです。なにか不安が漂う世相ですが、そんなところへ異国に起こる異変が、日本へ飛び火して来るかも知れないという事態になってしまったのです。正に新羅国の事件は、対岸の火事と高みの見物を決め込んでいるわけにはいかなくなってしまいました。

何かにつけて頼りにしていた、嵯峨太上天皇の病状がよくないということもあって、天皇は不安を掻き立てられてしまっています。

しかもそんな中で、天皇も体調を崩してしまいます。

為政者・仁明天皇

承和九年(八四三)正月十日のこと

発生した問題とは

 政庁では使人を平安京の七寺と平城京の七大寺へ派遣して、天皇の体調回復を祈らせました。

その甲斐があったのでしょうか、間もなく天皇は快癒されました。ところがそうこうしているうちに、貢調の期限と納入する物品について、様々な問題が生じていることが判ったので、それについていろいろと指示をしなければなりませんでした。

この頃貢調の期限と納入する物品については、賦役令(ぶやくりょう)に詳細に規定されているですが期限に遅れたり粗悪品があることが判ったのです。

こういう者には決まりが明記されているのですが、しかし国司は朝廷の委任を果たさず多く怠慢している。ある者は桑麻の不良を理由に絹布が粗悪になったと偽り、ある者は貢納途次の事故により納入が長延いてしまったと巧みに申し出ている。これは徒に法を定めるだけで、守ろうとしない仕業である。そこで、五畿内・七道諸国・大宰府に命じて、従前の怠務を改めさせ、今後このようなことのないよう戒めるべきである。また、貢納途次の諸国では公のことと思わず、安易に事故によるとの遅延状を発給しているが、今後はそのようなことをしてはならないと仰いました。

 時代はどうもうまくいっていない状態でした。

 思い出すのは、前の年の秋です。

遣唐使船の乗船拒否という大きな罪を犯して、配流にあった小野篁(おののたかむら)は赦されて、一年で官衙へ戻ったのですが、天皇はその後の様子が気になっていました。

実は篁が遣唐福使として出発した後、大変な海難事故にあって、その後遣唐使として出帆することを拒否して流刑になるのですが、その真相については、第三章「時代の変化にたえるために」「その三の六」「遣唐大使の要求に小野篁拒否」の閑談のところで、詳しく触れてありますので参考までにご覧ください。

やがて無位の篁に、正五位下を授けて力になって貰いたいというお気持ちでした。

その時このようなことをおっしゃったようです。

 「篁は国命を承け期するところがったものの、失意の情況となり、悔いている。朕は以前の汝のことを思い、また文才を愛する故に、優遇処置をとり、特別にこの位置に服することにする」(続日本後紀)

 政庁の手助けとなって欲しいと、しきりに思うのですが、

絶対的な存在感を保ってこられた嵯峨太上天皇も、病臥していらっしゃるのです。その為に何かと騒がしいことが官衙に漂っているのです。

 「近頃、春のほどよい時雨が少なく、日照りのため水が涸れてきている。百姓は耕作ができず、播種不能の状態である。そこで弘仁九年四月二十五日の格に倣い、王臣の田如何に問わず、水のあるところを百姓に耕させて種子を下ろし、田植えにより苗を他の田へ還したあと、そこをもとの土地の所有者に戻せばよい。神社・寺の田地についても同様の扱いとすべきである。また、田に灌漑するに当たっては、貧しい者の田に先に水を灌ぎ、富貴の者の田を後にせよ。ただし、これは臨時の処置であり、恒法としない」(続日本後紀)

 天皇は更に次のようにおっしゃいました。

 「ことが深刻になる前に災いを(はら)わないと播種(たねまき)の時期を失する恐れがある。そこで、五畿内・七道諸国に命じて、不退転の心意気で修業している者二十人を選んで、国分寺において三日間、昼は「金剛般若経」を読み、夜は薬師悔過(やくしけか)を行うべきである。この善き修行の間は殺生を禁止し、仏僧への布施には正税(しょうぜい)当てよ。もし疫病が発生している地域があれば、国司が出かけ、疫神を防ぐ祭礼を行い、精進、斎戒(さいかい)して、ともに豊年を祈願せよ」(続日本後紀)

 天皇の指示で使人を貴布禰(きふね)住吉(すみよし)垂水(たるみ)丹生川上(にふかわかみ)などの神社に派遣して祈雨(あまごい)をした。

 間もなく五月五日重用(ちょうよう)の節句を間近にして天皇は 

 供奉(ぐぶ)する四衛府(しえふ)(左右近衛府(このえふ)・左右兵衛府(ひょうえふ))の六位の官人以下の者の装束は、甲冑の飾り意外に金銀や金銀の箔(金銀を薄く伸ばしたもの)・泥(金銀粉を膠水(ろうすい)にまぜとかしたもの)を使用してはならない。五位以上の者の走馬の鞍と飾りは新旧を問わず、金銀を用いても良い。ただし、箔・泥を私用してはならない」(続日本後紀)

 節約を指示された。そして更に 

 「近頃、ものの怪が出現したので占ってみると、疫気のとがめの兆しと出た。五畿内・七道諸国および大宰府に命じて、謹んで疫神を祀り、この咎めの兆しを防ぐべきである」(続日本後紀)

先帝である淳和太上天皇は三年前に崩御してしまわれていますし、四十代を間近にした天皇は、為政を率いる者としての責務を果たしていかなくてはならなくなり、何もかも不安な状態になっていたころのことです。

 不安な情報といえば、現在日本では、三十年以内に大きな地震が起こるということが半ば確かな情報として伝えられているのですが、その中でも東南海地震が一番危ないということが言われたりしています。関東地区などはもうとっくに危険な周期を越えてしまっているというところもあります。そんな不安を感じながら、近隣の国際問題にも神経を使わなくてはならない現代です。今の内に何らかの態度は決めておかなくてはならないでしょう。

温故知新(up・to・date)でひと言

マスコミの発展、インターネットの進展によって、現代ではありとあらゆる情報が入り乱れて飛び交う状態ですが、「抱薪救火(ほうしんきゅうか)といって、世界各地の騒動の様子が伝わってきています。どこか世の中に落ち着きがなくなっているように思えるのです。古来「用意周到(よういしゅうとう)という教えがあります。あらかじめ用意して手抜かりのないようにしておくことが大事だということです。用心深い段取りを整えておくようにしなくてはなりません。さまざまな情報を集めるのはいいのですが、得てしてそれらの情報が雑多で、「玉石混交(ぎょくせきこんこう)という状態でもあります。中には貴重な情報もあるけれども、中にはまるであてにはならないものまであるものです。情報の取捨選択をしなければなりません。それを可能にするためにも情報の選択を誤まらないだけの落ち着きと、判断をどう受け止めるかということで、それぞれの素養を蓄えておかなくてはなりません

  


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言6 [趣味・カルチャー]

   「思いがけない千秋楽」

 恐らく多くのみなさんは、「千秋楽」といえば、きっと大相撲の最期の日、最後の取り組みを行う時に、行司が「○○山と○○川とのこの一番にて、千数楽にございます」と宣言いたします。恐らくほとんどの方は、それは相撲の世界で使われている言葉であると思っていらっしゃったのではないでしょうか。

しかし調べてみたところ日本では、長いこと芸能の世界で使われてきたので、その世界で生きていた方々は、興行の最期の日などに「今日は楽日ですから」とか「ようやく何ごともなく楽を迎えることができました」という風に使われてきましたので、一般的にはそういった芸能界の慣習が浸透しているので、それは芸能界で使われている言葉であると思っていらっしゃると思います。

ところが本当は、法会の雅楽の最期に「千秋楽」という曲が演奏されたことから生まれたことのようなのです。

 大体仏教関係の集会などでは、芸能・音楽などの大きなパトロン的な役割を果してこられましたから、宮廷の雅楽が断絶してしまった後でも、これを伝えていたのは大阪の四天王寺などが伝えていたものだったそうで、このおかげで再興されたものだといわれているのだそうです。

兎に角法会の時に奏される楽の順は決まっていたそうで、回向が終わった時の楽が「千秋楽」だったというのです。これが芸能の世界で興行の最期を意味するものとして使われるようになって、やがて歌舞伎や大相撲で使われるようになり、一般の人の耳になじまれてきたということです。

一寸した閑談の話題にはなりそうですね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の五 [趣味・カルチャー]

      第二章 「安穏な暮らしを保つために」()


        為政者の課題・「武力研究の戦略転換」


承和四年(八三七)のことです。


仁明天皇(にんみょうてんのう)が即位されてから四年たっていますが、すでに退位されていらっしゃる嵯峨太政天皇は健在ですし、十年という統治で譲位された淳和(じゅんな)天皇も、今は今は後継に嵯峨太上天皇の御子に後継を託して、太上大臣として国の行く末を見つめていらっしゃいます。


かねてから嵯峨太上天皇が望んでいらっしゃった遣唐使の派遣という行事も、御子としては何とか成功させたいと思う熱い願いから、何度かの渡海失敗をしながらも、目的達成を祈りつづけています。これもこのところいささか沈滞している時代の空気を、転換したいという思いもあって日夜腐心していらっしゃいます。


 そんなある日のことです。


仁明天皇が豊楽殿へお出でになられようとしたところ、殿上に設けた天皇の座の近くに、突然得体の知れない「ものの怪」が出現して、慌てて逃げたりしたのですが、別の日には、内裏から見ると、虹が六つも同時に現れたりするという不可解なことが起ったりします。


あまりにもこれまでと違った不可思議な現象が起こるので、心理的には穏やかではいられないのですが、そんなところに地震まで襲来するのです。


既に淳和太上天皇の治世の折にも、ものの怪が何度か現れたということが知られていましたが、何か不穏なことが起こる予兆ではないかと、大変不安になってしまいます。


「天皇は聞くところによると、疫病が間々流行し、病に苦しむ者が多いという。災いを未然に防ぐには般若(仏教の知恵)が何より優れている。そこで五畿内・七道諸国の修行者、二十人以下、十人以上に命じて、國分僧寺において、七月八日から三日間、昼は「金剛般若経」を読ませ、夜は薬師悔過(けか)を行わせよ。これが終わるまで、殺生を禁断せよ」(続日本後紀)


と指示をされたのでした。


 仏の呪力を信じて、必死で困難と闘おうとしていらっしゃったのです。


為政者・仁明天皇


承和四年(八三七)四月二十一日のこと


発生した問題とは


 陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)坂上大宿禰浄野(さかのうえのおおすくねきよの)が伝えてきました。


「去年の春から今年の春にかけて、百姓が不穏な言葉を発して騒動が止まず、奥地の住人は逃亡する事態になっているので、守備に就く兵を増やし、騒ぎを鎮めて農に向かうようにすべきです。また栗原(くりはら)賀美(かみ)両群の逃亡する百姓は多数にのぼり、抑止することができませんという知らせが来ています。私浄野が考えますには、未然の内に処置すべきです。それだけでなく栗原・桃生(ものう)以北の俘囚(ふしゅう)は武力に優れたものが多く、朝廷に服属したように見えながら、反抗を繰り返しています四、五月は所謂馬が肥えて、蝦夷らが(おご)り高ぶる時期です。もし非常事が発生しますと、防御が難しくなります。伏して援兵として一千人を動員し、四、五月の間、番をなして勤務させ、暫く異変に備えることを要望します。その食糧には当地の穀を使用し、慣例に従って支給することにしたいと思います。ただし上奏に対する返報を待っていますと、時期を失う恐れがありますので、兵を動員する一方で上奏する次第です」(続日本後紀)


というのです。


為政者はどう対処したのか


政庁は直ちに、


「ことに対処するには時期が大切なので、上奏を許可する。ただしよく臨機応変に対処して、限界と恩恵を併せて施すようにせよ」(続日本後紀)


と指示をいたしました。


しかし政庁では、蝦夷(えみし)との戦いの経験を通して、武器は時を経ると古くなるということが判っていましたので、新しい武器の開発に苦心していたりしていたのです


それでもこれまで静かになっていた陸奥(みちのく)あたりに住まう蝦夷が、突然息を吹き返して政庁に立ち向かってきたりするのです。


政庁ではそれに必死で立ち向かい、鎮圧しようとするのですが、なかなかそれがうまくいきません。それを検討した結果、武器の優劣ということがあるのですが、その前に戦略に間違いがあるのではないかといった問題が持ち出されたのです。


確かに新しく開発された武器の力もあって、ある程度は立ち向かえるものの、弓馬を使った戦いとなると、たちまち機動力は落ちて蝦夷に押し返されてしまうのです。そこで朝廷は武器を含めて検討したことがありました。


かつては嵯峨天皇の温情作戦ということもあって、かなりおとなしくしていた蝦夷でしたが、どうしてもその猛々しい性格は収まらず、また歯向かうようになってきていたのです。


剣戟(けんげき)(つるぎとほこ)は交戦の際に役立つ武器であり、弓弩(きゅうど)(大弓)は離れたところから攻撃する際の強力な仕掛けです。このために、五兵、弓矢(きゅうし)(しゅ)()()(げき)からなる五種の武器)は適宜用いるものであり、一つとして欠けてはなりません。まして弓馬による戦闘は蝦夷(えみし)らが生来(なら)いとしているので、通常の民は十人いても蝦夷一人に適いません。しかし、弩による戦いとなれば、多数の蝦夷であっても、一()の飛ばす(やじり)に対抗できないものです。即ちこれが夷狄(いてき)を制圧するに当たり最も有力です。ところで、今、武器庫の中の弩を調べると、あるものは全体として不調であり、あるものは矢を発する部分が壊れています。また、弩の使用法を学ぶ者がいますが、指導する者がいません。これは事に当たる責任者を置くに必要な財源がないことによります。そこで鎮守府(ちんじゅふ)に倣い、弩師(どし)を置くことを要望します」(続日本後紀)


 


 新たな武器を開発するよりも、戦略の工夫が必要なのではないかということになったりもするのですが、これは現代直面している問題でもあるのではありませんか。


 世界の環境が厳しくなるに従って、国を守るためにはどうすべきなのかという問題に突き当たります。周辺の国が新たな武器の生産に勢力を尽くしている時代ですが、思い切って同じような武器の開発に進まずに、ピリピリとする国際関係を上手くやるための戦略の工夫が必要なのではないかと思うのです。


 どうしても他国に負けない武器の開発という欲求が、強くなっていきそうな気配には不安を感じざるを得ません。


更に進んだものという欲求によって、武器の開発が盛んな現代ですが、すでにそのような者から戦略を練ることに転換しようという動きに変わろうとしているのです。


現代のわれわれとしては、どう対処すべきなのでしょうか。


 日本ではしばらく前になりますが、北朝鮮からのロケット攻撃に備えようとして、アメリカから購入しようとしていた四千億という費用の陸上イージスといわれるイージスアショアなどというものも、結局交渉はまとまらずに、新たな直面を迎えてきています。


こんなことを、もし企業間に行われる商戦ということに置きかえてみたらどうでしょうか。それぞれの企業が戦うための商品を繰り出して相手と戦うことになるのですが、相手を圧倒するために、常に新しい商品を武器として開発をしなくてはなりません。各国がそのための国家の軍事予算を膨大にしつつあるのと同じで、結局企業はその資金の確保に苦慮することになってしまうのではないでしょうか。


しかしもし一度戦いが始まってしまったら、これでもか、これでもかと新たなものを生み出して、他の会社と戦うことになるのですが、やがてそれも飽きられてしまうことになり、経営を苦しくしてしまうことになってしまいます。状況が変わった時にどう備えるのか、すでに商戦を展開中に考えておく必要がありそうです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 


四字熟語にはそんな状態を表現する言葉として、古来「光彩離陸(こうさいりりく)というものがあります。光が入り乱れてまばゆいほどに美しく輝くさまをいうのですが、判断がし難くなって、結局これでもかこれでもかと商戦のための武器開発をしつづけることになるということにも通じます。そのための資金の投入に苦慮することになってしまうのではないでしょうか。商戦と違って武器の開発にのめっていくことは、賢明に思えて結果的に愚かなことであるのに気づくのではないでしょうか。しかし先人たちは、こんな言葉も残しています。「騎虎之勢(きこのいきおい)という言葉です。虎に乗って走り出したら、途中で降りることができないという喩え通り、行くところまでいかなくては終えられなくなってしまいます。そんな過ちを犯して、企業本体の維持を危うくしてしまっていいわけはないはずです。武器の開発に勢力をつぎ込むよりも、「樽俎折衝(そんそせっしょう)という武力を用いないで外交交渉によって、問題を解決することを各国で模索することは出来ないのだろうかと思います。どの世界においても、お互いに競争することで発展していくことはいいことなのですが、つい相手を打倒してしまわなくては気が済まないという、本心が頭をもたげてくるようになると、永遠に解決不能の地獄を味わい続けることになってしまいます。平安時代という古代であっても、武器の開発だけではなく、戦略を工夫してみてはどうかと、考え方の転換を図ったのです。現代の人々がそう言ったことが出来ないはずはないのではないかと思うのですが・・・。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑6 [趣味・カルチャー]

「傲慢な自己中心」


古代ではまだまだ正確な世界地図などというものが存在しているはずがありませんから、世界的な視点に立って自分がどんなところに存在しているのかなどという、大局的に見つめることができませんし、確かめることもできません。


記録によれば、飛鳥時代にはかなり東南アジアあたりからもやって来る人がいたようなのですが、それでも彼らの国が、一体どのあたりに存在しているのかなどということを、確かめることはできなかったはずです。


 恐らく朝廷の重臣たちにしても、韓国(旧朝鮮半島)、中国(中国大陸)がどのあたりに存在しているかということぐらいは、知っていたと思いますが、まだまだ東南アジアに関しては、やって来た者から話を聞く程度で、詳しく知ろうとするような努力はしなかったのではないかと思います。


まぁ、知っているのは、韓国と中国ぐらいというだけといってもいいのではないでしょうか。


 外国に対する認識というものは実にお粗末なものでしたから、時の皇帝


はすべて自国が世界の中心であるという、誇らしい認識に立って政治・外交を行っていたと思われます。


 それはどうやらすべての国の認識のようでしたが、特に四千年の歴史を誇っている中国としては、すでに中華思想というものが徹底していて、その誇り高い態度は今も昔も変わらないようですね。


 とにかく自分たちが世界の中心であるという思想です。


 そういった尊大な態度に対して、日本もその誇りにかけて対抗した人物がいました。


隋の煬帝(ヨウダイ)に送り出す遣隋使の小野妹子(おののいもこ)に持たせた親書の仕掛け人である聖徳太子です。煬帝への親書にはこうしたためてありました。


「日出ずる処の天子、日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや、云々」


これはあまりにも有名ですが、これも自国から判断すると、確かに太陽は東から登りますし、太陽が沈む時は中国の存在する西の方向に沈みます。聖徳太子にとっては、やはり日本が世界の中心にあるのは自分たちなのだという自負心があったに違いありません。


実に先方にとっては失礼そのものの親書を送ったものですが、わざわざ先方の皇帝に対して、失礼千万な新書を持たせることにしたのは、それなりに理由があったのです。これまでの中国の煬帝との尊大な態度には、相当我慢が出来なくなる尊大な態度を取られてきていたからです。


誇りを持って対処しようとした太子の心情に同情してしまいます。


中国のほうは国が広大であったし、わが国と同じようにその大平原の彼方から日が昇るのですから、まさに日は自分たちの国から昇るのだと自負していても止むを得ないことだったと思います。


彼らはあくまでも世界の中心の国であると思っていたし、日本などは、東海の小島に過ぎないと考えていたはずです。


使者がやってきたといっても、その受け入れる態度が尊大になるはずです。その後日本を(極東)などと呼ばせているのは、まさにそういった認識によるものだと思います。


 自分は世界の中心にあるという自負心が、その後の国の思想となったものが、所謂(中華思想)というものだと思います。


聖徳太子の煬帝に当てつけた誇らしげな表現などは、実に可愛いものだと思います。


中国などはその国の広大さから考えても、彼らが世界の中心にあると認識しても仕方がなかったかもしれません。しかしそれでも、これはあくまでも古代なのだからといって許されても、現代では全てが明らかになっていますし、通信網も複雑に広がっている時代です。


それなのに中国は、今日でも依然として自分たちが世界の中心的な存在であるというような、傲慢なほど誇らしい姿勢を保ちつづけているように思えてなりません。確かに国土の大きさは確かですが、その中にはかなり弱小民族を支配下に置いているという、誇りがあるからでしょう。


そろそろ大国であるという誇りはいいとして、各国と協調するということも考えないと、これからの世界の覇者となることを目指すのであれば、大変な障害になるのではないかと思います。道遠しになるのではないでしょうか。


 さて、あなたはどう思われますか?  

 


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の四 [趣味・カルチャー]

 

      第二章 「安穏な暮らしを保つために」()


        為政者の課題・「武器は時と共に古くなる」


今回は承和二年(八三五)のことです。


嵯峨太上天皇の御子正良親王(まさらしんのう)が、淳和天皇(じゅんなてんのう)から譲位されて、仁明天皇(にんみょうてんのう)として為政に取り組み始められているところです。


実はこの譲位については、かねて嵯峨太上天皇が在位中に知った皇統の引継ぎについては、常に騒動が起こっていたということを実体験していたのです。


それは「第二章の安穏な暮らしを保つために」(一)「その二の一」「戦力の不足を知る」という閑談で詳しく触れていますが、嵯峨天皇は十四年という統治を行ったところで、同じ桓武(かんむ)天皇の御子である大伴(おおとも)親王に譲位して淳和(じゅんな)天皇(てんのう)して政庁を指揮されてられたのですが、天皇もこれまで繰り返されてきた権力闘争の原因を調査した結果、先帝のおっしゃる通り、権力の継承はきちんとした決まりとしおきたいという気持になられて、十年という統治を行ったところで、嵯峨太上天皇の御子皇太子として勤めてこられた正良(まさら)親王に譲位されることにしたのでした。それから二年し頃の話です。


為政者 仁明天皇


承和二年(八三五)三月十二日のこと


発生した問題とは


相変わらず各地に地震が起って、民心を騒がせているというのに、その最中に夜盗が跋扈したりするようになり、その取り締まりに腐心していらっしゃいます。ところがそんなところへ、更に心配なことが大宰府あたりから報告されてきたりしたのです。


 承和二年(八三五)も三月になりますと、これまで親密に使節がやって来ていた渤海(ぼっかい)国の使節が、ほとんど姿を見せなくなっているということが気になっていたところなのですが、大宰府の政庁から緊張する知らせが入ってきたのです 


壱峻島(いきとう)は遠く離れた海中にあり、土地は狭く人口もわずかで、危急に対処するのが困難です。年来新羅(しらぎ)商人が絶えず狙っていますので、防人(さきもり)(東国から派遣される北九州の守備兵士)を置かないことには、非常事態に備えることが出来ません。雑徭(ぞうよう)(民に課した無償の労働義務)を負担している島人三百三十人に武器を持たせ、十四か所の要害の岬を守らせたいと思います」(続日本後紀)


古代でも武器が時代と共に古くなってしまうということが問題になっていたことがあったということが判ります。まして二十一世紀の今日では、新しい武器の開発は日進月歩という状態で、各国では自国の防衛ということに関しては、神経を使わなくてはならなくなっています。言うまでもなく我が国についても、どうしておくことが安穏でいられるのかという問題は、武器が新しいか古いかということではすまない問題がありますね。


 政庁では遣唐使船の派遣を前にしていたこともあって、大宰府に命じて、綿甲(めんこう)(表裏を布で作り、その内側に綿を入れて矢石を防ぐ)百領、(かぶと)百口、袴四百(よう)を用意して、遣唐使船が予期せぬ事態に遭遇した時のために、備えさせたりいたしました。しかしそんな治安という問題から離れると、若い天皇はいつか御子への皇統の継承という夢をふくらませていらっしゃったのです。


後ろ盾に嵯峨太上天皇という強力な方が存在していらっしゃるとはいっても、全てが望むように進められるまでには、まだ充分に条件が満たされているとはいえません。


(時よ、緩やかに歩め)


ひそかにそう祈っていらっしゃったのではないでしょうか。


それから間もない三月二十一日のことです。


嵯峨太上天皇の心を通わす友であった密教の空海は、六十三歳で遷化してしまわれたのです。


これまで何かの時に政庁の支えとなってこられた彼がいなくなるということは、為政者にとって不安な要素が広がります。どうも近隣の国の動きに気になるところがあるのです。天皇にとっては遣唐使の唐国への派遣という大きな事業を控えているところです。


為政者はどう対処したのか 


 海外の文化芸術、政治の様子を知ることはもちろんのこと、異国の動きを知るためにも欠かせない大きな役割を果すことになることから、嵯峨太上天皇が望んでいた大きな事業でしたが、これまでそれを成功させることができませんでした。そんなこともあって、その御子である仁明天皇は父の夢を果すことになると、必死な気持ちでいらっしゃったのです。


 時代が新たな時を刻みながら変化していくのに対処するために、天皇は次のようなことを発表されました。


「『易経(えききょう)』に上を損じて下を益すれば民が喜ぶとあり、安らかで(つつま)しくすることが礼に適っている。王者はこの原則に従うことで古今一致している。朕は才能がなく愚かであるがよきあり方に従い(ととの)えようと思う。おごりを辞め倹約に務めたいというのは、早くからの朕の気持ちである。今いる朕の子には親王号を避けて、朝臣姓を与えることにする。嵯峨太上天皇は限りない御恩の上にに恩沢を加え、子を一様に源氏とし世々別姓を設けず本流も分派も同様とした」(続日本後紀)


 政庁の内にもかなり源氏を名乗る者が入り、皇族の援護ができるようになっていましたから、天皇は嵯峨太上天皇の為政を受け継ぐことを強調して、公卿たちに不安感を抱かせないようにしていらっしゃるのです。


 時代の変化によって、何事にもあまり積極的な意志決定をせずに、流れるままに生きるような無気力な気風が広がっていきつつある世相であった上に、諸国で疫病が流行って苦しむ者が多いという知らせが入れば、その元凶である鬼神を封殺するために、般若(仏教の知恵)の力を信じて祈祷をするように指示をしたりいたします。


六月には東海道、東山道の川では渡船が少なかったり、吊り橋が整備されていなかったりするために、京へ調(ちょう)(現物納税の一種)を運ぶ人夫らが川岸まで来たところで、十日も渡河が出来ないなどということがあるので、そのために川ごとに船を二艘増やしたり、浮橋を作ったりもいたしました。


天皇はかつて嵯峨太上天皇が行った、「弘仁」という為政の精神に立ち返ろうと発表したり、努力を積み重ねていらっしゃるのですが、そんな九月のことです。


時代と共に変化してくる近隣諸国の様子も無視できませんでしたが、政庁の者が着目していたのは、蝦夷(えみし)との長い抗争という経験から戦いを有利に導くには、武器は常に新しい威力のあるものでないと有利な状態に持ち込めないということでした。


そのようなことを解決するために、強力な武器の開発も必要だと考えていたのです。万一の時に備えなくてはならないということがあって、辺境での軍事を整えるために嶋木真(しまきまこと)という者が作った、四方に射かけることができる回転式の新しい大弓が注目されました。


大臣以下公卿たちをはじめ諸衛府の者を朱雀門へ招集して、その大弓を試射させたのです。ところがその結果、飛び出す音は聞こえたものの、矢はあっという間に見えなくなって、どこへ落ちたかも判らなかったというようなことが、話題になったりいたしました。


このような問題を取り上げることにしたのは、現代ともかなり接点のある話題だと思うからなのです。


 国の安穏ということで、真剣に考えておかなくてはならないことだとは思うのですが、平安時代とは違って、軍事費の費用が増額されることと、国民の暮らしがどう運営できるようになるのかということが、現代の大きな問題として注目されます。


 これまでマスコミでは、政府は専守防衛という基本に則って日本の安全を守ろうとしていましたが、このところの世界情勢の変化から、ただ単に専守防衛と言っているだけでは対抗できないという考え方から、攻撃を仕掛けてきた敵に対して、どの範囲で先制攻撃をするかということが議論されるようになっています。それを叶えようとすればかなり高額の予算を立てなくてはなりません。


兎に角平和であるための話し合いが進まない限り、いつまでこのような状態でいられるか、保証されるわけではありません。日常生活においても、生活の利便性ということでは家計と相談しながらやらなければなりませんし、利便性だけを優先して考えてしまうと、暮らしそのものの基本を崩してしまうかも知れません。


国を経営する者として考えれば、ただ古くなったからといって武器を処理してしまうのも一考を要する問題です。


日常生活の安定と、危険を排除する用心とをどうバランスよく配慮するかは、為政者の大事な配慮でしょうね。


温故知新(up・to・date)でひと言


 如何に優秀な武器を持つかという利便性ということだけを考えないで、まず平和であるということを考えた時、先人の中には「偃武修文(えんぶしゅうぶん)を心がけてみませんかと呼びかけたものがあります。これは戦争を止めて、文化を高めるということです。(えん)は伏せるということで、偃武は武器を仕舞って使わないこと、修文は文徳を修め法律を整備することです。あくまでも平和主義を唱えるものですが、しかし時代は滄海桑田(そうかいそうでん)といわれます。時勢の移り変わりが激しいものです。兎に角いろいろなことを解明して、果たすべき事業を完成させなくてはなりません。「開物成務(かいぶつせいむ)というのはそのことです。破壊につながる武器の開発ではなく、平穏な状態の中で文化、芸術が開花した中で、暮らしが豊かに実るように心がけたいというものです。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言5 [趣味・カルチャー]

「現世と来世について」

 日本の創世記といえば、まず神々の歴史から始まったことは、ほとんどの方がご存じでしょう。

 一応日本の国史ともいわれる「古事記」があるので、そこに乗っている神話時代というものを素直に受け止めると、やがて天孫降臨が行われて、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)が作られて、そこに生きるか弱い人間たちが生きていけるように、さまざまな試練を与えながら支えてくれたことになっています。

 やがてその中から日本の各地に(おうきみ)といわれる者が現われて、民を率いていくようになりましたが、の中から王の中の王が選ばれて大王となり、やがて天皇という存在になって、民を統治するようになったわけです。

 つまりここまでは天に存在する神が暮らしのほとんどを支配して来たのですが、地上での支配をする王の時代から大王の時代に移って行く頃になると、海を越えて異国の神が入って来るようになりました。

 それが仏という存在です。

 とにかく古代においては、神仏共に威力のある力を持った存在であるところから、民は神と同格の者として、仏も畏敬の念で接するようになっていきました。

 日本では自然のすべてのところに神が存在している八百万神(やおよろずのかみ)という思想でしたが、彼らは清冽な暮らし方を指示して、民に折り目正しい生き方をするように厳しく教育をしていったのです。ところがその一方である仏の場合はそういった神の厳しい生き方よりも、慈悲の精神で民と接したのです。これまで神の厳しい指導の下で暮らしてきた民にとっては、仏と接している時だけが救いになったはずです。しかも現世を指揮する神に対して、仏は来世を取り仕切っていましたので、死後の世界を知ることができない民にとって、兎に角来世については仏に庇護を願うしかありませんでした。

 現世の神か、来世の仏か・・・次第に神の国であった日本に定着していって、神仏混淆という状態が始まったのですが、それは現代でも同じようなものですね。

神社へ祈願に行ったり、結婚の仲立ちを頼んだりしながら、やがて現世から去る時には、寺院へその橋渡しを頼んだりしているのが現状です。

 日本はこの他にもキリスト教も受け入れているし、一神教の国々とはちょっと違う宗教観を持っていますが、とにかく宗教に関してはかなり寛容な民族であるように思います。

 明治時代のある時期、廃仏毀釈などという不幸な時代がありましたが、とにかく現代は古代から引きつづいて、現世は神に願い、来世は仏に願うということを、なんの抵抗もなく受け入れている日本です。

 この神仏混淆というファジーな感性は、はたしていいことなのかまずいことなのかを時々考えてしまいます。しかし一神教の国がかなり挑戦的であるのを考えると、やはり神仏混交というのは、日本らしい穏やかな国民性の基本なのかも知れないと考えたりもしているのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。


 


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の三 [趣味・カルチャー]

 

      第二章 「安穏な暮らしを保つために」()


        為政者の課題・「対岸の火事に学ぼう」


弘仁十年(八一九)です。


嵯峨天皇は即位してから十年経過していましたが、決して平坦な道筋ではありませんでした。しかし有能な腹心の藤原冬嗣(ふゆつぐ)に助けられて、政庁を危うくするような事態にはならずに運営して来られました。


嵯峨天皇は先進の国の先達が残した図書から、様々な知識を得ていらっしゃいましたが、今異国では何が起こっているのかというような、生きた情報を得ることについては簡単に手に入れることは難しかったはずです。


そんなところへ大唐(えつ)州(ベトナムの国境)の人である周光翰(しゅうこうかん)言升則(げんしょうそく)という者たちが、新羅(しらぎ)船に乗って到来いたします。そして彼らは、政庁にとっては通常得られないような唐国の情報をもたらすのです。


「三年前の弘仁七年(八一六年)頃のこと、節度使(せつどし)(唐五代の軍団司令官)の李師道(りしどう)が、兵馬五十万という精鋭を率いて反乱を起こしたというのです。唐十一代皇帝の憲宗は各地の兵士を集めて討伐しようとしたものの、平定することが出来ずに目下天下騒乱中です」(日本後紀)


こんな情報でした。


その一年前といえば、戊戌(ぼじゅつ)の大疫の年といわれて、天皇はその困難を突破するのに大変苦闘されたばかりです。


そのような時に、もし異国の騒乱が飛び火してきたら、国内の問題も穏やかに治めることが難しくなってしまいます。


幸い目下のところ、政庁の周辺に困難な問題は存在しませんが、こうして異国の状況を知っておくことは、なかなか貴重な情報となるものです。


為政者・嵯峨天皇


弘仁十年(八一九)六月十六日のこと


発生した問題とは


天皇にとっては国を護るためには、絶対に欠かすことが出来ないのが、用心であるということを、改めて印象づけられた新羅船の来訪でした。


 平安京は東西に市が開かれたりして、高貴な者、民、百姓に至るまで、すべての者が入り乱れて、買い物を楽しむようになっていたのですが、どうもこの頃唐国には、反乱があって騒がしい状態になっているという情報がもたらされてきたわけで、天皇は日本国内の安穏な状態に、満足しているわけにはいかないものを感じていました。


 まだ世界の国々の国交が、開かれている時代ではありませんし、近隣の国についても、ごく限られたところとの交流があるだけでしたから、たまたまやって来た異国の者から得る情報には、神経を尖らせることもあったのです。


 目下のところ我が国の政庁の周辺には、困難な問題は存在しませんが、こうして異国の状況を知ることは、国を護るためになかなか得られない貴重な情報です。国を護るためには絶対に欠かせない用心ということになります。仮にその情報が唐国の事変であったとしても、それがどんな形で我が国へ飛び火してくるかもしれないのです。


為政の指揮を執る天皇は、神経を尖らせても止むを得ません。しかしその頃、平安京では数十日もの間厳しい炎暑がつづき、旱魃(かんばつ)が起ってしまっていたのです。


降雨を願って伊勢神宮、井上(いのえ)内親王の宇智陵(うちりょう)へ使者を派遣しました


その祈りが通じたのか、京には暴風雨をともなって白龍(はくりゅう)が現れ民の家屋を破壊するという事件があったりしたのです。


政庁の者にとっては、心理的に嫌なものを感じざるを得ません。国内の問題を解決しなければならない時だっただけに、異国に起こる事件にも神経を使わなくてはならなかったのです。それがいつ我が国に影響を及ぼすことになるかも知れないからです。気持ちを引き締めなくてはなりませんでした。


為政者はどう対処したのか


近隣の国の様子にも目配せしながら、国内の問題である炎暑と旱魃が数十日も続き、ほどよい降雨を見ていないのです。〈略〉そこで十三大寺と大和国の定額諸寺の常住の僧侶に、それぞれの寺で三日間「大般若経」を転読させようとしています。適当な雨を願ってのことです。


 同じ頃ですが、政庁では公卿が意見を交わしていました 


 「倉庫令では「官倉の欠損分を責任者から徴収するに際し、納入責任者が在任中は本蔵に納れ、離任している場合は転任先ないし本貫(ほんかん)(郷里)において納入することを認める」と定めていますが、今畿内の国司は偏にこの令条により、納入せねばならない欠損分をみな転任先の外国(畿外)で填納しています。ところで畿内には京に近接していて、そこの稲穀は京に関わる様々な用途に費用されています。それだけでなく稲の値段を見ますと、畿内と畿外では大きく相違し、畿内の方が高価となっています。このような事情がありますのに、畿内で失われた分を畿外で填納するのは、まことに深刻な弊害となっています。伏して、今後は、畿内の欠損を畿外で埋め合わせることを停止しますよう。要望します」(日本後紀)


天皇はそれを認めました。


 国内での細かなことでの手当てを、しなくてはならないことが起ってきています 


「安芸国は土地が痩せていて、田の品等は下下である。このため、百姓は豊作であっても貯えを有するに至っていない。このため、去る大同三年に六年間を限り国内の耕作田の六分を得田、四分を損田として田租を収納することにした。今その六年の年限が過ぎたが、衰弊した民はまだ十分となっていない。そこで更に四年間の延長を行え。(大同三年九月庚子条参照。安芸国では、弘仁五年に不四得六制の延長が行われ、本日条で再度の延長が行われているらしい)(日本後紀)


 国内に起こる違和感の解消に神経を使いながら、異国に起こる小さな出来事が、いつ飛び火してくるかしれないのです。とても無関心ではいられないはずです。


現代ではさまざまな方法を講じて、他国の情報を得るように努力はしていると思うのですが、異国人の来訪が唯一の情報源であった平安時代とはまったく違っています。


スケールの広がり、情況の複雑さということでも、とても古代のそれとは比べようもありません。それだけ国際関係には神経を使うことになっているはずです。情報問題に関しては、古代だから、現代だからと、関心の違いを言って済ませる問題ではありません。むしろこのような事件があった時を利用して、近隣諸国との関係についても、これまでとは違った気構えで考えておく必要があります。特に日本は国の目指す方向の違う国が、ごく近くに存在していますから、そんな環境を考えると、安定を保つということは至難の業です。


 平安時代のように、他国の情報は殆ど実際に行って見るか、こうしてやって来た者によってもたらされる情報以外には、他国の様子を知る機会はまったく存在しませんでした。


現代ではフェイクニュースと呼ばれる偽情報も含めて、インターネットなどという情報網を使って、世界中に飛び交います。あとは受け手の判断による、取捨選択次第という時代になってきています。それだけ為政者は神経を使わなくてはならないでしょう。判断を間違ってしまったら、命取りになってしまいます。


それがどこであろうと、異国で起こっていることだからといって、無関心でいることは許されません。その不用心が大変危険な火種になってしまうかも知れないのです。


 日常生活の中で起こる「おれおれ詐欺」という問題がそうです。


あれは被害にあっている人の不用心が原因ですよなどといって、笑っている場合ではありません。私が家と親しい関係にあった方の中で、まさかと思える人が、危うく数百万円にもなる金銭を用意して、相手に渡してしまいそうになったケースがあるのです。幸い最後の段階で親族が現われて、お金の受取人に渡さずに済んだという話をしに来てくれましたが、その方は確かにしっかりした方でしたから、まさかこの人が・・・信じられないことでした。


自分は大丈夫と思っていても、用心を越えた巧妙なやり方で詐欺を仕掛けて来ることが多いのです。飛び交い情報についても、私は引っかからないという過信が被害者になってしまうかもしれません。


温故知新(up・to・date)でひと言


現代は情報を如何に活かしていくかということを、考えておかないといけない時代です。


私だけは絶対にやられないという変な自信はもたないことです。その自信過剰が、逆効果となってしまうような神経戦となって、相手のぺースに乗せられてしまうようです。


日常生活の周辺のことであっても、自分の周辺の状況がどんな風になっているのかということぐらいは、知っておきましよう。そういうことを無視していると、思わぬ落とし穴に堕ちることになってしまいます。現代は親しい人からもたらされる情報についても、その真偽を確認しながら進まなくてはならない、慎重さが必要な時代です。こんな時には昔から先人が残している四字熟語という者があります。その一つに、「他山之石(たざんのいし)というものがあります。他人を参考にして、自分の啓発向上に役立てようということです。他山から出た山石でも砥石として使えば、自分の宝石を磨くのに役立つということから出た言葉のようですが、情報を胸に収めたら、ただそれだけで終わらせないで、我が身の時の素材として活かすくらいの気持ちになっていたいものです。まさに「深謀遠慮(しんぼうえんりょ)という言葉どおり、深く思い巡らして、将来のビジョンまで慎重に慮らなくてはなりません。「改過自新(かいかじしん)ということがありますが、もしミスでもあったらそれを素直に認めて、新たな気持ちで取り組んでいかなくてはならないでしょう。


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