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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑9 [趣味・カルチャー]

「陰謀!ウンナフカの夜」

 古代でも現代でも、月夜にはさまざまな事件が起こるようです。

 どうやら月には特別な事件があるようで、満月の夜にはその霊威の影響で、西洋では狼男に変身してしまったり、吸血鬼ドラキュラが暗躍したりということがあったようですが、日本では歌垣(うたがき)というような、男女の出会いの狂宴とも言えるものが開かれたり、那智の港からは観音菩薩の聖地である補陀落を目指して渡海が行われたりと、月夜に関しては人間たちの気持ちを高ぶらせ、狂わせてしまうような奇異な現象が見受けられます。

ところが月の出ない新月の夜にも、不可思議なことが行われていたことを発見しました。

 舞台となったのは、南国の沖縄から更に三百キロ離れたところにある宮古島です。ここにはかねてから海賊が拠点を持っていて、中国の王朝から貴族を通して取引された陶磁器・・・絶対に王朝以外の者が持つことを許されないはずの、黄磁も持ち込まれていた形跡があるのです。

 普通はそのような者が活動できるわけはないはずですが、長いこと非合法なことができたのかというと、案の定そこには隠された真相があったのです。

 海賊が持ち込んだものはいろいろなものがありましたが、その中でも注目されたのは、中国王朝が門外不出といわれていた黄磁です。そのようなものを、宮古島の者が持てるわけはありません。しかし駄目だと言われると欲しくなるのも人間の欲望というものです。庶民には経済的にも手を出せるものではありません。

 結局、そこに登場してくるのが、宮古の政庁を取り仕切る権力者です。

 彼らは海賊と取引をするなどということを、とても公には出来ません。

 そこで考えられたのが、ウンナフカの夜という新月の夜の出来事だったのです。

 政庁の支配者は新月の暗い夜を利用して、ある噂を流布しました。

 つまりこの夜は、神が島へ降臨して、密かに田畑に実りをもたらしてくれるのだというのです。それ故にその神の作業は、絶対に見てはならないということでした。その日は明かりもつけてはならず、暗黒のまま家に閉じこもったままでいなくてはならないというというお触れを出しました。

 もう察しがつくでしょう。

 誰も見ていない暗黒を利用して、権力者と海賊は取引を行ったのです。こんなことでもなかったら、海賊がいつまでも、島に拠点を構えていられるはずはありませんからね。

 不可思議な現象については、何か訳があるかもしれません。

その真相を突き止めようという気持ちは、いつの時代でも忘れてはならないことかもしれません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の四 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()    


        為政者の課題・「政治は時代によって変わるべき」


今回は弘仁十四年(八二三)のことです。


嵯峨天皇は在位十五年になるからと言って、同じ桓武天皇の第三皇子である大伴親王(おおともしんのう)に譲位されてから八年にもなります。つまり淳和天皇として政庁をまかされていたのです。


 このところ天皇の践祚(せんそ)とそれにまつわる神事が続いたために、その影響を受けて、民は疲れていましたので、政庁も、これ以上民に負担が及ばないようにという配慮から、すべての行事は簡素にして済ませてきていたのです。


天皇も農民たちの苦労を考えて、大嘗祭にあまり費用を掛けないようにしたのですが、神を大事にしないと、受け止められなかっただろうかと心配になります。


そんな暮れ近くのことです。


 


為政者・淳和天皇(じゅんなてんのう)


弘仁十四年(八二三)十月二十一日のこと


発生した問題とは


このところ日照りがつづいていて、全てが乾燥しきっていたある日の夜のことです。


内裏の延政門の北側の舎殿で火災が起こって、宮中の警護に当たる左近衛の者が駆け付けて、やっと湿布で火元を叩きつけて消火するという緊迫した経験をいたしました。ところがそれからそれほど時もたたない日の午後十時ごろには、またまた大蔵省の十四間(じゅうよんけん)長殿(ながどの)に失火があったのです。


葛原(くずはら)親王をはじめ右衛門督(うえもんのかみ)紀百継(きのももつぐ)左大弁(さだいべん)直世(なおよ)王、右大弁(うだいべん)伴国道(とものくにみち)などという官人が駆けつけて消火に当たり、さらに左右衛府の者が京の左右を駆け巡って、人足を集めたりいたしました。しかし結局消火は出来ずに盛んに炎を上げて殿舎は崩れ落ちてしまったといいます。


それでも勇敢な三十人ばかりの者は北長殿(ながどの)に登って、濡らした幕で火を打ち消したといいます。


何といっても長い日照りのために、家屋も乾燥しきっているので、こうした災害はどうしても起こってしまいます。(日本後記逸文)


 天皇は即位からたいして日もたたない十一月のある日のこと、大蔵省を巡視していた舎人たちが、官衙(かんが)から火が出ていると叫び、左右大弁(だいべん)たちが駆付けつけて鎮火に当たりました。ところがそんな騒ぎの最中に、蔵へ入って物を盗み出そうとしている者がいたというのです。


犯人は優婆塞(うばそく)三人、蔵部(くらべ)一人でした。


彼らは蔵部の手引きで長殿舎へ入り込み、炭火を持った者が長押(なげし)へ点火して火事を起こすと、一見消火をしているふりをして盗みをしていたというのです。


先月起こった火災も、彼らの放火であったということが判りました。


寒さも厳しくなるころですから、雪も降り、それでなくても夜は出火しやすい環境にあるために、暖房のために使われる、桐の木などをくりぬいて作られる火桶(ひおけ)や、灯明の燭台などが原因で火災になることが起こります。


騒ぎのたびに官人たちはもちろんのこと、民、農民たちは、非常に不安な気持ちにさせられる冬でした。即位したばかりの天皇にとっては、それから間もなく地震にも見舞われてしまったのでした。


 為政者はどう対処したのか


 流石に天皇は安閑とはしてられません。十二月には、


「古の王者は天命を受けて治政に当たった。政治は時代により変化し同一ではないが、人民を教化して治政を行い、模範を示して教え導くことに古今を通じて相違はない。近ごろ陰陽が乱れて干害(かんがい)と疾病が入り混じって発生し、穀物は実らず人民が衰亡している。


朕は、巡り合わせで皇位に就き天皇としての事業を受け継ぎ、永く善政を布こうと思い寝食を忘れ務めている。世を救う方法は守旧であってはならない。時宜に従うべきであり一つのことに囚われていてよいであろうか。


今、朕は務めて世を救い、民の苦しみに(あわれ)みをかけようと思う。()(ぎょう)は各自が隠し憚ることなく考えを述べ、朕の及ばないところを正せ。現在、世は軽薄で、国家は衰退している。礼服を準備するのが困難な状態で、朝賀も欠くことが多い。凶年が続いている間は、朝服の着用は停止しようと思う。これについて公卿が議定して奏上せよ」(日本後紀)


 臣下の苦しみについて気配りをするのでした。


 大雪が降り、地震も起こります。


 天皇は礼服について公卿に意見を求めました。それに対する返答はこうでした。


 「人民を恵み育てる天地の徳を身に付けているのは聖人であり、運行する日月と同様に明るく輝いているのは天子です。伏して思いますに、陛下は天地の徳を身につけて皇位に就いて治政に当たられ、内外に広く仁愛を及ぼされて、よく治まったお陰で、身分の低い者も高い者も安楽に暮らしています。しかし充分に和らぎ楽しむに至ってはいないことを慮り、率直な諫言を求めました。私たちは才智や能力を書きながら、辱雲高い地位に織り、陛下のご意志に沿うことが出来ず、深く恐れ恥じ入るばかりですが愚かながら考えるところを申し上げます。礼服は詔旨により停止すべきです。ただし皇太子・参議・非参議三位以上の者および格別の任務につく者らは、従来通り着用すべきです」(日本後紀)


 桓武、平城、嵯峨とつづいた王朝も、ついに四代目の淳和天皇の為政となりましたが、その間に時代は刻々と変わりつつあります。そんな時の政庁としてはどうするべきなのでしょうか。そしてそうした時代の激しい変わり目を迎える現代の人間として、我々はどう生きるべきなのでしょうか。


 目下のところ保守党の一強時代です。そろそろお互いの政策を競う合うような政党・・・つまり野党が誕生しないだろうかと思うのです。野党に保守党並みの力がある政党が誕生しないままだと、現在のような無風時代をつづけることになります。いつまでもこのままでは、何度も選挙を繰り返しても、結果的には何も期待する希望は生まれません。もう何年もの間、保守を振るい上がらせるような


実力のある野党が誕生してこないのが現状です。


かつては政界も大いに揺れた時代がありました。私たち高齢の者は経験していましたが、結果としては結局慌てて無理矢理結束したという速成が禍いとなって、期待された革新政権は、短期の内にもろくも崩れてしまいました。


野党はこれまでとは違った、新たな姿で成長していくことが出ないまま、今日の姿となっているのです。その間に日本を取り巻く環境は極めて厳しいものになってきています。


この激動する時代を、どうしようとしているのでしょうか、それは決して為政者の問題でもありませんし、国民の問題でもあるのです。しかし今のところ未来を目指していくという動きにはなっていないように思います。


 そんな日本を無視する状態で、世界各国は着実に新たな方向を固めて動き始めています。ぼんやりとしていると、知らないうちに時代の様相が変わってしまうのが現代です。竜宮から帰った浦島太郎になってしまったらどうしますか。


温故知新(up・to・date)でひと言


古来「刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん)という言葉があります。


つまり時の移り変わりを知らず、古い習慣ややり方などに拘泥したりしていて、これまでのことに固執して融通の利かない状態でいると、取り返しがつかなくなってしまうということです。組織を率いる人であったら尚更のことです。全てに手落ちのないように、「先著万端(せんちょばんたん)です。雑多な事柄すべてにわたって、たとえどう忙しくても、手落ちのないように心がけなくてはなりません。「先方百計(せんぽうひゃっけい)が大事です。あれこれと工夫を巡らして思い諮らなくてはなりません。天皇は世の中激しい移り変わりをいう言葉ですが、新たな時代に向かって生きることを決意しますが、現代を生きようとする者は、仮にどんなに困難なことがつづいても、それを乗り越えて新たな時代に取り組んで貰いたいものですね。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言8 [趣味・カルチャー]

      「大器晩成考」

 最近、とても気になることがあります。

 昔は社会的に成功した人を評価する時に、若い頃を振り返ってこう言いました。

「そういえば彼は若い時から才走ったところがありましたよ。まさに「栴檀は双葉より芳しだな」などと褒めたたえることが多かったように思います。

 その逆に、若い頃に「あなたは大器晩成型だね」と言われた時は、ほとんど褒め言葉にはなっていないことが多いのではないでしょうか。むしろ時間をかけてじわじわと才能を伸ばして成功するだろうという、地味な時間のかかる出世を期待した褒め言葉になっていたはずです。普通はなかなか若い人を励ます時などには使われないと思います。やはり褒め言葉として使われるのは、やはり「栴檀は双葉より芳しですね」になるでしょうね。

残念ですが私はその「栴檀」という植物の本体は見たことがありませんので何とも言えないのですが、調べてみるとどうやら仏教の中にそんざいしているようですね。つまり一種の香木であるようなのです。

 やはり素晴らしい人間は、やはり「若い時からその片鱗を見せているものだな」ということになるようです。果たして長い人生を生きてこられた人を評価する時に、その褒め言葉として的を得ているといえるのでしょうか。矢張り年配の方となる場合は、下手に使うとおかしなことになってしまいそうです。つまり若い時は「栴檀は双葉より芳し」で良かったのですが、その後時を経るに従って冴えなくなってしまって、「あまり芳しさが長持ちしませんでしたね」ということになってしまいます。勿論、第成功していれば、「やはり「栴檀は双葉より芳し」でしたね」ということになります。

矢張り相手が年配者である場合は、相手になる場合は、仮に派手な成功者でなくても、「やはりあなたは大器晩成の方でしたね」ということが最高の褒め言葉になるのではないでしょうか。

あなたはこのどちらのタイプに当るのでしょうか。

しかし人の最期の評価は、やはり人間には出来ません。結局神に評価を下して頂くしかないようです。

時代が時代ですから、何かにつけて讃辞を受けたいばかりに目立つことばかりを狙う若者が多すぎますが、それで人生の終わりにどんな評価を得ることになるのでしょう。

今がすべてだなどと、投げやりなことは言わないで、人生大事にしていきましょう。何か大事なことを欠落しながら積み上げる人生ではないことを、祈りたいと思います。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の三 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()


        為政者の課題・「流行は暮らしを変える」


今回は弘仁十年(八一九)ごろの話です。


 苦しいことに耐えながら、嵯峨天皇は三十歳を越えられてから、すっかり落ち着いていらっしゃるのですが、大変気になることがありました。


 この八年、九年に水害と旱魃(かんばつ)が起こってしまったために、その影響を受けて困窮した民は、飢えに迫られると必ず廉恥(れんち)の精神を忘れてしまうといわれつづけていたのです。


 「年来不作で、百姓が飢饉になっています。官の倉は空洞化して、恵み施すに物がありません。困窮した民は飢えに迫られると、必ず廉恥の精神を忘れてしまいます。私たちは伏して、使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収時に返済させることを予防いたします。こうすれば富者は自分の富を失う心配なく、貧者は命を全くする喜びをもつことができましょう」


(日本後紀)


 公卿の進言は許可されました。


為政にかかわる者からは、使いを畿内に派遣して、富豪の貯えを調査して困窮の者に無利子で貸し付け、秋の収穫時に返済させルようにしたいという要請があるのです。


公卿の進言は許可されました。


 しかし天皇は更にできることはしようとしていらっしゃったのです。


発生した問題とは


 公卿は協議した結果を報告いたしました。


 「倉庫令では『官倉の欠損分を責任者から徴収するに際し、納入責任者が在任中は本倉に納れ、離任している場合は転任先ないし本貫(郷里)において納入することを認める』と定めていますが、いま畿内の国司は偏にこの条令により、納入せねばならない欠損分をみな転院先の外国(畿外)で填納(てんのう)しています。(日本後紀)


ところで、畿内は京に近接していて、そこの稲穀は京に関わるさまざまな用途に費用されています。それだけでなく、稲の値段を見ますと、畿内と畿外で大きく相違し、畿内のほうが高値となっています。このような事情がありますのに、畿内で失われた分を畿外で填皇するのは、誠に深刻な弊害となっています。伏して、今後は畿内の欠損を畿外で()め合せることを停止しますよう要望いたします」(日本後紀)


 勿論その申し出を許可しました。


 天皇はそのような指示を与えたり、またある時には、


 「安芸国は土地が痩せていて、田の品等は下下である。百姓は豊作であっても貯えを有するに至っていない」(日本後紀)


 とおっしゃって、税の取り立てを薄くしたりいたしました。しかしそれでも都の平安京では、都市開発が進められていたのでした。


「民を豊かにすることが国を発展させることになる」という信念のために、苦しい現状にはあっても、平安京の開発には手を緩めようとはなさいませんでした。


中国の文化芸術に心酔していらっしゃった天皇でしたが、先年大唐越州(だいとうえっしゅう)である周光翰(しゅうこうかん)言升則(げんしょうそく)とい者たちが新羅(しらぎ)船でやってきた時に、唐国についてお聞きになられると、光翰はこのように話ました。


 「私たちは長安の都を離れた遠隔地の者なので、京内での出来事を知りませんが、去る元和十一年(光仁七年)に円州節度李師道(えんしゅうせつどしりしどう)が兵馬五十万からなる精鋭を擁して、反乱したのですが、天子の第十一代皇帝憲宗は諸道の兵士を発興して討伐しようとしましたが成功せず、天下は騒乱状態です」(日本後紀)


 貴重な情報を得たのですが、目下のところそうした騒動もない国の情況にあることに感謝しつつ、遅ればせながら文化の唐風化を図ったり、国の大学寮の他に民間に「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」のような学校を作ったりして、ある種の文化革命を進めていたのです。国賓のための迎賓館としても「鴻臚館(こうろかん)」を作ったりしていきました 


為政者・嵯峨天皇


弘仁十年(八一九)のこと


政庁は何とか町を活性化しようと知恵を絞った結果、唐国の長安の市を模して、千本通りを左右に挟む、六条付近の左京に「東の市」「右京に「西に市」を開いたのでした。これまでも大化前には軽市(かるのいち)海石榴市(つばいち)などというものがあって、町の賑わいを生みだそうということは行われていますので、平安京もそれにならって何とか活性化を図ろうとしたのでしょう。


為政者はどう対処したのか


一ヶ月の前半は左京側の「東市」、後半は右京側の「西市」で、それぞれ登録された商人が十五日ずつ、決められた品物を自由に売買できるようにしました。


市場の周囲は高い塀で囲まれていて、市の開閉には櫓の上の太鼓が「ドーン。どーん」とならされて、毎日午前十時から午後四時まで開かれました。そこには朝廷から派遣された監察官が詰めていて、高級貴族といっても帯剣したまま入場はさせません。市場の中では不正な取引も厳重に取り締まっていましたから、万一それに違反する者でもあれば、大衆の前で刑罰を科せられてしまいます。それでもやりたいことはやってしまうのが、人間の性というものです。古代も現代もありません。賭け事をして、乗ってきた馬を失ってしまう者、着ている衣を賭けて勝負に失敗して失う者、中には屋敷を失う者もいたといいます。万一それに違反する者でもあれば大衆の前で刑罰を科せられてしまうのですが、それでもつい手を出してしまうのが博打(ばくち)です。陰陽寮の者が何人も杖打ち八十などという刑に処せられたのもこのころでした。しかし高貴な女性が毎日市へ行かないと落ち着かないといわれるほどで、光孝(こうこう)天皇の皇后などは、毎日市場へ買い物に行かないと一日憂鬱になるといっていたほどでした。


こうした感覚は古代、現代の違いはないのではありませんか。市ではさまざまな物が売られましたが、その中の大事な物の一つが塩でした。瀬戸内で造られたものが、淀川、桂川、鴨川づたいに運ばれて、七条あたりで陸揚げされて運ばれました。現在でも残っている「塩小路」という通りはその頃の名残です。


日常の必需品はもちろんですが、女性にとってその時その時の目新しいものに触れる機会であったのです。そんな中で高貴な女性たちの興味を惹いたのは、商いのために通って来る大原女(おはらめ)がかぶっている市女笠(いちめがさ)というものでした。やはり決まりきったファッションではないということが受け入れられたのでしょう。ようやく十一年になると穀物がよく稔ったこともあって、官人の俸禄も払えるようになって、市も賑わいを見ることになりました。


 こんな企てというものは、その規模が違うだけで、現代でもよく見られます。


 様々な都市で大型のアウトレット・モールが開かれています。兎に角流行というものは広がり始めると、身分の上下は関係なく広く広がっていくようです。それは古代も現代もないようですね。そのきっかけとなるのは、多く人の集まるようなところが点火の始まりになりやすいようですね。現代ではそのあたりがコロナの広がりを生むところでもあるのは痛し痒しです。どちらにしても多く人が集まるところであることがきっかけとなるようです。


 古代ではこれまで高貴な人が使うものではなかった、庶民のものであった大原女の衣裳までが、市場でのファッションリーダーとなりました。


 現代でいえば様々な市町村の活性化のために建設されているアウトレットとかマルシェとか言われるものが、古代の市に当たるものでしょう。ファッションというものは、得てしてこうした沢山の人が集まるところから発生するようで、何といっても注目されるのは女性に関係するものではないでしょうか。


温故知新(up・to・date)でひと言


 そのためには何といっても、大原女の市女笠のように、高貴な暮らしをする奥方たちの関心を捉えてしまった、「斬新奇抜(ざんしんきばつ)であることが大事です。際立って新しく斬新な魅力に富んでいるものを開発すれば、たちまち人の目を引いて点火することになります。そしてその評判が口コミという伝播力で広がり、流行となっていってしまいます。しかしファッションのヒットというものは、何がきっかけになるか判りません。それが面白いのかもしれませんね。「雨後春筍(うごしゅんじゅん)といって、ひと雨降った後に沢山生え出る筍のように多くなるのですが、それが速くて勢いがあって盛んになります。しかしそれにしても、市のように人の集まるところには、困ったことも招いてしまいます。古来悪い木の陰には、しばしの間でも休むなということで、「悪木盗泉(あくぼくとうせん)ということが言われます。市ではいつか賭け事が行われて、誘い込まれて病み付きになってしまう者もいたのでしょう。いわゆる盛り場には充分にお気をお付け下さい。一夜にして栄華を極める者もいるでしょうし惨めな境遇に落ち込む者もいるはずです。現代では、目下進められているカジノを含む総合型リゾート(IR)実施は見止められて入るのですが、一向に進められたという状態にはなっていません。真に活きたものになるかどうか、それを享受する人間たちの心構えが大事になるかもしれません。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑8 [趣味・カルチャー]

   「護符(おまもり)の効き目

超自然のさまざまな威力に対して、あまりにも無力な人間は、とにかく何らかの力に寄りかかって苦難から逃れようとします。勢いを得ようともします。

科学の進化が目覚ましい時代である現代においても、なぜか襲いかかる正体不明の不安から逃れようとして、さまざまな形のお守りを、密かに持っていたりしています。別にその威力を目の当たりにした訳でもないのに、それを持っていると心強く思えたり、勇気を持つことができたりして、生きてもいけたり、何かに挑戦していけたりもするものです。

神社、寺院へ行けば、これでもかこれでもかと言わんばかりに、さまざまな御守りを販売していますが、超科学時代の21世紀の現代ですらこんな有様なのですから、まだまだ知識も進化していない時代であった古代などでは、所謂現代では迷信だと一笑に付されてしまうようなものであっても、当時は本気で信じていて、それこそ身を守るために、いろいろな種類のお守りを持っていたのではないかと思います。しかし古代においては、魔性のものから身を守るには、神仏の力に頼らなくても、身近な女性の魔力を秘めた領巾(ひれ)などを腹に巻いたり、比布(ひれ)を肩にかけたりしましたが、旅に出るような時などは、女性からわざわざ魔力の籠った領巾を頂いて出発する男性なりいました

有名な話があるでしょう。

姉の忠告を聞かずに、比布をつけずに旅立ったヤマトタケルなどは、そのために妖魔に襲われて死んでしまったくらいです。

危険から逃れるために、果たして普通の人はどんなお呪いを唱えたのでしょうか。修験者から教わった、「臨兵闘者皆陣列在前」という九字の呪文を唱えて護身をしたりしましたが、ちょっとびっくりしたのは、「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」という呪文です。

         注連縄(神島)1.jpg

この律令というのは、古代の法律のようなもので、これを侵すということは、死に値するようなものであったわけで、その厳しさは民にとっては、実に恐ろしい存在であった訳です。そんな威力があったくらいですから、魔も寄りつかないに違いないと考えたに違いありません。民が如何に律令というものを恐れていたかという証拠です。そんな恐怖する思いが、とうとう護符にまでしてしまったというわけでしょう。

時を経るに従って、こんなことを書いたお札を家の前に貼ったりして、魔が襲って来るのを撃退するようになりました。三島由紀夫の、「潮騒」という小説の舞台となった神島の民家は、全戸「急急如律令」の呪符を玄関に掲げているということで知られていますが、右の写真はこの注連縄の後ろに、「急急如律令」と書かれるようです。しかもこの注連縄は一年中玄関前につけられているということです。奈良県田原本町では、「急急如律令」という呪文を彫った瓦を、屋根に載せるという風習があると聞いていましたが、ついに最近までこうした風習を残していたお宅がなくなってしまったということでした。

沖縄の宮古島などには、「石敢当」などと、石に彫られたものが、家の角などに立てられているのを見ましたが、これは危険なものがぶつからないようにという、お呪いだそうです。

         「素材・宮古島石敢當」.jpg

これも故事に因んだもののようですが、つい最近のこと、東京の自由が丘というファッションの町の一角に、この石のお守りを玄関の入り口にセットしてある家を発見いたしました。とても珍しいもので、ひょっとするとこのお宅は、沖縄の出身のからなのかもしれませんね。しかし同じお守りでも、現代人が・・・特に若い女性が持ち歩いているようなものなどは、まだまだ夢があっていいのかもしれません。一種のアクセサリーのようなものなのですから・・・。古代のそれは、生活に直結する切実なものだったのですから、決してないがしろには出来ないものだったのです。災いを払う方法がこれしかなかった時代なのですから、仕方がありません。切実な思いから身につけたり、家に取り付けたり、貼ったりしてきました。

果たして現代人は、本当にそれらの護符といわれるようなものの存在を、まったく無視することができるのでしょうか。 

いえ。人間はとても弱い面があるので、何かに守ってもらいたい、何かの力に頼って力づけられたいと思うものです。きっとどんなに時代は進化しても、こうしたお守り・・・護符の存在に無縁ではいられないのではないでしょうか。ふとそんなことを考えることがあります。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の二 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()


        為政者の課題・「民が豊かになれば国も貧しくならない」


弘仁十一年(八二〇)のことです。


嵯峨天皇は即位されてから十年近くたちました。


即位早々のことでしたが、平城上皇が内侍(ないしのかみ)に就任させた藤原薬子(ふじわらくすこ)が、平城上皇を再び復活させようとして再び都を平城京にするという所謂還都宣言を発してこられたことがありました。その時のことは、第二章「安穏な暮らしを保つために」「その二の一」「戦力の不足を知る」の閑談で主催はお話しましたが、兎に角嵯峨天皇は大事になりそうな事件の発端を何とか素早い対応で一段落させることができたのですが、


平安京の建設に励むようになっていたのですが、まだこの頃平安京は未開発だったのです。民は右京南部の大湿原を避けて西北の一部に住んでいましたし、左京は鴨川の河原で住み難いし、現在の下京区一面は田園で、碁盤目の道もあぜ道に過ぎない状態であったのです。


そんな時代の正月早々に、親しく交遊される文武の王公や渤海(ぼっかい)国からの使節の朝賀を受けたのです. 


「周では公旦(こうたん)が周朝の基礎固めを褒賞されて、その子孫が七枝族(しちしぞく)に分かれて栄え、漢では(しようか)が功績を上げて礼遇され、一門から十人もの諸侯が出ている。藤原氏の先祖(鎌足)は、朝廷から悪人を追い払った(大化の改新で曽我入鹿を殺した)。これにより歴代絶えることなく放縦の封戸を支給され、総計一万五千戸となっている。藤原氏の者は白丁(はくちょう)となった以降も五世まで課税を免除し、これを代々の例とせよ」(日本後紀)


政庁を支える藤原氏を讃えると、天皇は五位以上の者と渤海使節と、豊楽殿で宴を催しました。そして天皇は渤海国の王の近況を問い、王について抱いていらっしゃることをお話になりました。


 「渤海国王は生まれつき信義を身に付け、礼儀をもって書している。朝廷に仕える蕃国(ばんこく)としての立場を守り、以前からの友好関係を継承して、雲の様子を観察し、風のさまを窺がい、誠意をもって使節を送り出した。使節は適切な時期に来航し、朝廷の倉がいっぱいになるほどの素晴らしい贈り物をもたらしてくれた。さらに前使慕感徳(ぼかんとく)らは船が難破して渡海出来なくなり、朕が一艘の船を与え、帰国させたところ、その恩恵を忘れることなく、前代のよき例に倣い、謹んで使いを出立させ、遠方から感謝の意を述べたのであった。ここに汝の誠意を思い、深く喜ぶものである。渤海国は大海により隔てられた遠方の地域であるが、朕には渤海を望み見て遠い国と思われない。施設の帰国に当たり贈り物を託す。種類は別紙に期した。春のはじめでまだ寒さが残っている。今息災である。汝の国内が平安であるようにほぼ意を述べたが、充分に尽していない」(日本後紀)


儀礼上の挨拶を述べて帰国させます。


発生した問題とは


 やがて異国から使節がやって来たり商人がやってきたりするようになると、官人たちの俸禄さえも思うようには払えないという苦しい経済状態でしたが、天皇は平安京を発展させようとしていらっしゃいます。


 先進の国である唐国の歴史からいろいろと学んでいらっしゃった天皇は、その結果辿り着いたのが、民が豊かであれば、国は貧しくならないという考えでした。しかし現実はかなり厳しい状況にあったのです。八年、九年と続く旱魃の影響もあったのですが、それでも天皇はさまざまな試練を受けてすっかり為政についても自信が生まれていらっしゃいます。その指導力についても臣民に浸透していくようになっていたのですが、この頃政庁にある者を苦しめていたのは、相変わらず天災による被害がかなり広範囲にわたっていて、官衙で働く者の給料の支払いにも苦慮していらっしゃったのです。


為政者・嵯峨天皇


弘仁十一年(八二〇)四月九日のこ 


為政者はどう対処したのか


 現実には、昨年から人智ではどうにもならない天災がつづき、容赦なく力のない民に襲いかかっているのです。そんな様子を見るにつけて、


「天候が調和せず、穀物が実らず、家々に貯えがなく、人民は栄養不足で顔色の悪い状態である。一日の飢えは秋三月(みつき)の飢えに相当する。顧みてこれを思うと心中深く憐の気持ちを抱く」(日本後紀)


 


とおっしゃって、天皇は謙虚に自身の生き方を(ただ)して、天帝の下している試練に向かい合おうとしていらっしゃったのです。そんな中で天皇が考え出されたのは、極めて現実的な解決策でした。


それは農民の未納となっている調(ちょう)(よう)を免除するばかりでなく、未納で追徴不可能な租税や、昨年無利子で貸し付けられたものまで返納を免除したのです。しかしそれを行うには大変現実的な問題が横たわっています。


ところが天皇は上の者の利益を削り、下の民を優遇すれば、民の喜びは限りないはずであるとおっしゃって、その決断を覆しませんでした。


困難を伴うことは承知で、さまざまなことで税を免除するような施策を行っておられました。そのためもあって、国の蓄えは底をついてしまう結果になるのでした。


そんな中で天皇はこういって太政官たちを励ましたのです。


 「人民が富んでいれば国家が貧しいという例があったことはない。つとめて誠意をもって(のぞ)朕の意を人民が称えるようにせよ」(日本後紀)


これまでとてもそんな考え方に達した方はなかったのではないでしょうか。それだけ天皇は先進的な思考をお持ちだったと言えるのですが、その思いを述べるだけではなく、現実に実践していこうとされたのです。


為政に携わる者にとって大事なことは、どんな時にも言行位置している必要があるのではないでしょうか。現代の政界を見ていると、言葉面だけは実に心地よいものがあるのですが、実際の施策ではまったくそれが活かされないままであったということがよくあります。


現代でも起こりそうな話にも思えます。


ここで示されている現代的な問題は共に生きるという覚悟のことです。


その後この年の穀物の収穫も豊富になり、官人の俸禄も払えるように回復しましたが、天皇の姿勢は現代の我々に対してある示唆をしているように思えます。


政庁が行う場合は、ある程度成算があって行われるのですが、それでもその時の自然の情況によって、困難に襲われてしまうということになります。それは自然の回復を待って必ず回復するという希望は持てるのですが、現代で起こり得る問題としては、兎に角机上の計算では成り立っても、実際にその企画に仕掛かった時に、まったく計算通りにならないということがあります。保証もまったく望めません。それでも天皇は為政の責任者としての責務を果たそうと努めていらっしゃいます。現代の場合とは同一の線上で評価はできないと思います。


 為政を行なう者とそれに従う者という関係だけではなく、同じ星の下で暮らす者は、それぞれ痛み分けを行って、富める者からその収入を分けて貰い、それで苦しむ者を助けて生きようという気持ちの表明です。


 すべての人の平等を云いながら、次第に格差が広がっているといわれる昨今です。そんな時にこの嵯峨天皇の提言が活きてくるのではないかと思ったりするのです。


すべての人の平等を云いながら、次第に格差が広がっているといわれる昨今です。そんな時にこの嵯峨天皇の提言が活きてくるのではないでしょうか。


いろいろな事情で子供の面倒が見られない家庭の子が、自由にきて食事をとって学校や塾へ行けるようにと、昨今子供たちが自由に利用できる「寺子屋子供食堂」などというところがあちこちに設けられているのを見ると、古代に叫ばれた共存共栄の姿が、現代で活きていると思えるのは、嬉しいことです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 天皇の行おうとされたことは、現代でもまったく違和感がなく通用しそうなことではありませんか。しかしいくら先進の考え方を具体化するとは言っても、それが真に現実的なものとして採用されるかどうかが問題です。「子供庁」という構想が、真に意味のある役所となるのか、大変興味があります。いつの時代でも「暖衣飽食(だんいほうしょく)といって、贅沢な衣服と美味しい食べ物を揃え、ぬくぬくと着て、腹いっぱい食べる満ち足りた暮らしが出来るなら、まさに「活溌溌地(かっぱつはっち)といって、何かについてピチピチ跳ねる魚のように勢いがよくて、生き生きと元気になることは間違いありません。仮に今は辛くても暗雲の外に出れば、蒼穹(そうきゅう)(あおぞら)は広く、あたたかいという雲外蒼天(うんがいそうてん)という気分で、困難を乗り越え、努力して克服すれば快い青空が望めると思って奮闘できます。多少現実的な願望となる目標を生み出すことが、困難な立場にいる者たちを救うことになるという貴重な話であったように思えます。現代のさまざまな時代の変化で揺さぶられ続けている私たちにしては、必ずしもやがては回復するという希望的な観測は出来ません。現状を突破するには、兎に角前向きに考えて、困難を突破するための知恵と努力を積み重ねなくてはなりません。それがすべての決め手になるように思えます。



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