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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑11 [趣味・カルチャー]

「畏怖と恐怖の谷間」

 流行というものが作られるということを、つくづく考えることがあります。何かをきっかけにして、一気に広がっていくためにはそれなりに必要なものがあります。そのきっかけとなるのに必要なものは、起爆剤・・・つまり関心を呼び起こす素材がなくてはなりません。そしてそのあとには、それが更に大きな爆発にしていくための誘発剤・・・大きな組織や資金が必要になることがあります。つまり動き始めた気分的なものを更にその気にさせるようなものです。そうした努力と投資を積み重ねて、市民の関心を高め、口から口を通してその裾野を広げていくかということが、もっとも大事なことになります。

 今回取り上げたいのは、ただの「流行」ということではありません。

私たちはいつもこの「流行」ということで揺さぶられつづけていますが、

かつて社会的な現象になった「朝シャン」というものがありました。特に若者を中心にして大流行したことです。企業が仕掛けたことはあったのですが、それまで化粧などして学校へ行くなどということがなかった若者に火が付て、大ブームとなって広がりました。今ではそんなことが一般的に行われるようになったのか、特別騒がれることがなくなりましたが、あの時は大手の化粧品会社が宣伝機関を使って仕掛けた流行でした。

 まぁ、特にファッション、化粧品などに関しては、アパレル産業が仕掛けて流行を作り出すことはよく知られていますが、どうも流行とか風潮などと言うものは、確かにある仕掛けがあって、うねらせることができます。

 昨今のように、いろいろなものに国境がなくなってきていると、或る国で起こった風潮が、そのまま日本へも入って来て、その時代の気分とフィットしてしまうということが起こりやすくなっていきます。

そんなことの一つに、恐怖物とその周辺の推理物の流行というものがあるのではないでしょうか。出版物の不調ということが言われていますが、心理的に不安な時代にぴったりとフィットしてしまって、映像も小説もそういった類のものが好まれているようです。これは私たちの世代がまだ若かったころからの流行り物で、この十数年は同じようなものがつづいているようです。

 かつて拙作「宇宙皇子」が出版されたのをきっかけにして、古代史ブームが何年もつづきましたが、今は所謂ホラーと推理物が生きているようですね。私はそういった類のものはあまり好きではないのですが、それだけ時代が複雑になり、厳しくなって、心理的にもゆったりとはしていられなくなったことが原因でしょう。お笑いブームもそろそろ限界を感じます。

多分、それまでゆったりとした生活を支えてきた、経済的なバブルが崩壊したり、時代の風潮で家族が崩壊したりといった、生活の根底を支えてきたものが、みるみるうちに崩れていってしまうといった、時代の転換期でもあります。

現実を見つめるということは大事だと考えるのですが、その不安に便乗して恐怖をあおるようなものは好きではありませんので、そういった作品はほとんど書いたことはありません。まだそれらをその人の楽しみだと割り切って捉えている範囲ではまったく問題ないのですが、世の中にはすぐに便乗する輩が登場してきます。模倣する軽薄な輩も登場します。人を恐怖に陥れると言うことが、実際には起こってもらいたくないことです。そこで私が敢えて訴えたいものがあります。

同じようなおそれということなのですが、所謂恐怖とはまったく異質な「畏怖」というものを思い出して欲しいのです。

この「おそれ」には、敬うという意味が含まれていますが、前述の「おそれ」というものには、「敬う」という要素はありません。

 この敬い恐れる対象物は何なのでしょうか。その代表的な存在はといえば、「神」という存在です。しかしそういった絶対的なものの存在が薄れていったときから、どうも社会道徳も、倫理観も薄れてしまって、人を恐怖に陥れるような事件が頻繁に起こるようになったのではないかと思ったりするのです。かつては絶対的な存在で、侵しがたい存在であった「神」というものが、現代ではただ単に信仰の対象物であって、信仰と関係のないものにとっては、まったく無関心といったものに変ってしまいました。

 「神」に咎められ、裁かれ、罰を科せられるという「恐怖」も、まったくなくなってしまいました。

現代にはそういった、超自然的な存在が存在しなくなってしまったのでしょう。それと同時に、人間関係においても、その人の前では絶対的に圧倒されてしまって、言葉も容易に発せられなくなってしまうという人は、ほとんどいなくなってしまいました。つまり「畏怖」ということが当てはまる存在が、ほとんどなくなってしまったということです。

 そういったものを失ってしまった人々は、人工的に生み出される「恐怖」というもので、面白がっています。

 果たしてそんなことでいいのでしょうか・・・。

 「神」にひれ伏すような謙虚さというものを失った人間たちは、傲慢不遜に生きるばかりです。人が人を恐怖に駆り立てるような事件が続発しています。それは絶対に、「恐怖」でなく、「畏怖」する存在を失ってしまったからです。

 神を信仰せよなどということは言いませんが、少なくともその人・・・またはある存在の前では、思わず頭を下げざるを得なくなるような畏れ多い人、畏れ多いものを持っていたいものです。

もしそういった人が増えていってくれたら、少しは謙虚さが甦ってくるし、自分勝手に振舞う事件は起こらなくなるだろうし、被害者も出ないですむかもしれないと思うのです。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その四の二 [趣味・カルチャー]

      第四章「隠れた事情を突き止めるために」(二)


        為政者の課題・「皇室費用削減は真剣か」


弘仁六年(八一五)のことです。


 既に前回で話題に取り上げましたが、昨年五月八日の朝議が行われた時、平城(へいぜい)太上天皇時代から受けついたことの負担があった上に、地震という予期せぬ天災の影響があり、時には旱魃(かんばつ)のために命を失う者も多く、その処置が行き届かないことから、使者を葬ることも出来ずに発生する疫病との戦いにも、神経を尖らせなくてはなりませんでした。


国の財政状態が極めて困難な状態になってきているのを知った天皇は、その財政負担に宮廷維持費がかなりかかわっているということを知って、近親の公卿たちも予想しない決断を発表いたしました。天皇のお子様たちを臣籍降下するという申し出をされたのです。


前回第四章「隠れたっ場を突き止めるために」「その四-一」「財政悪化で臣籍降下」という閑談でそのきっかけについての説明をいたしましたが、あまりにも突然の発表で、一瞬公卿たちも信じられないという様子でしたが、天皇はその決心がただの思いつきではないということを伝えた後で、その決断を直ちに実行するとおっしゃいました。公卿たちの中には、天皇が新たな派閥を作るのではないかという、疑念を抱かせたほど、大胆な決断でびっくりさせました。しかし天皇の御子にかかる維持費だけでも、その数が多かった分だけかなり膨大になるのです。国の財政の危機から脱出させるためには、かなり助かる決断でした。


発生した問題と


 天皇の決断が決行されることになった結果、親王・皇女たちであったお子様たちは、これから貴族として存在しつづけることにはなりましたが、暮らしは自らの工夫で、かかる費用を生み出さなくてはならなくなったのです。


 確かに親王と姫君の数だけでも、祖霊の桓武天皇を越える数です。それを維持するには、平穏な自然に恵まれた状態で、収穫が確実に満たされている時は、国の財政譲許を圧迫させてしまうということもないまま過ごせるのですが、この数年の情況を考えると、とても容易な数ではありません。しかしそれでも自らの身を斬る形でひっ迫する財政問題を解消しようということを実践したことは公卿たちも驚愕いたしましたが、恐らく現代ではただ更に国債を上乗せして発行して、借金を積み上げていくだけでしょう。とても自らの身を斬るなどということは、聞いたこともありません。


 よく国会の議論の中では、提出した議案を実行するには身を切るような思いでこれまで提出していた議案を引き下げるというようなことを言ったりしますが、口先では歯切れのいいことを言っても、結局それを断行して見せるというようなことは一度もありませんでした。


 その点では、嵯峨天皇の決断は、かなり思い切った決断をしたことになります。しかしそれが間違いなく実行されるかどうかは、周辺の者にとっても関心事ではありました。


あれから一年が経過しました。


 国の財政は極めて苦しいことになったのに対して、天皇は、御子たちの臣籍降下という、思いきった決断を強行されたのですが、これまで御子に支払われて来た莫大な予算を断ち切って、本当に国を危機から救うことになったのでしょうか。公卿たちの関心事は、天皇の決断が本当に行われることになったのかということでした。


為政者・嵯峨天皇


弘仁六年(八一五)六月十九日のこと


発生した問題とは


 現代でもよくあることですが、一見して大改革が行われるような態勢を見せるのですが、やがてはまったくそれは行われないままになってしまっていたことがかなりあります。果たして天皇の権力が絶対的な時代であった頃の決断です。旱魃の広がりで財政が逼迫していく中で、それからの脱出に苦慮している最中の決断でしたが、臣籍降下という大胆な決断は、本当に実行されたのだろうか・・・。かなりの関心事でした。


しかし公卿たちの杞憂は払拭されてしまいます。


天皇は臣籍降下させた親王、内親王を左京に移して、民との接触を容易にして、暮らしの道を拓くように仕向けていたのです。


(まこと)(ひろむ)(ときわ)(あきら)という親王の四皇子と、(さだ)姫、(きよ)姫、(うつ)姫、(よし)姫の四皇女を、左京に移しました。


決めたことをきちんと行い実証していかれたのです。


この年六月には、(ひろし)(さだむ)(しずむ)、生、澄、安、清、融、勤、勝,敬、賢、継という十三皇子。(さら)姫、(わか)姫、(かみ)姫、(みつ)姫、(こえ)姫、(よう)姫、(はし)姫、()姫、(みつ)姫、(よし)姫、(とし)姫などという皇女を、前述のように、左京へ移すという決定をされました。


前年の八人と今回の十三人を加えると実に三十二人という皇子、内親王を臣籍降下しただけでなく、臣民の中に入って生計を立てるようにという、厳しい思いからの臣籍降下であったのでした。


 政庁は天皇の身を削るという、思いがけない決断をきっかけにして、さまざまなことに注目して点検を行い、(ただ)すべきことはきちんと糺して整理と改革を進めていきました。


為政者はどう対処した 


 天皇が改革に真剣になっているのを知ったからでしょうか、その機運に便乗する形で、右大臣の藤原園人から、先祖の功封の返還をしてほしいと、次のような文書が提出されたのです。


 「私たちの高祖である大織冠(たいしょくかん)内大臣鎌子(かまこ)(鎌足)は、皇極天皇の時代に天下を統一して(ただ)し治めた功績により、封一万五千戸を賜り、嗣子正一位太上大臣不比等などは父を継承して大臣を排出する家風を立て、これにより慶雲四年に勅により封五千戸を賜りました。不比等大臣が固辞しましたため、天皇はその願を許し、二千戸に減定して、子孫に伝えることになりました。天平神護元年に従一位右大臣豊成が上表して返還しましたが、宝亀元年に勅により返賜され大同三年に正三位守右大臣内麻呂が上奏して返還を申しましたが、許しを得られませんでした。伏して格別の封戸支給の理由考えますと、先祖の功労によると思いますが、いま私たちは陛下のますますの寵愛を受けながら、僅かな功績もなく、御恩を被りながら深い山中に姿を隠すように責務を果たしていません。それなのに重ねて格別の恩寵を貪り、久しく年月を経て、転地に俯仰して恥じ恐れるばかりです。これでは満ちれば欠けるという天の戒めに背き、必ずや大臣としての任に堪え得ないことになりましょう。伏して、伝えられてきた功封を返還してわずかでも国の経費を補い、少しでも職責を果たさず禄を貪るという事態をなくすことを請願致します。よく考慮され、私たちの心からの願いを許して下さい。これにより私たち一門の幸いが永続し、世の批判も止むことでしょう。真心に迫られるままに、謹んで表を奉呈してお願いいたします」(日本後紀 


 天皇はそれを許しませんでした。


 右大臣の申し出たことは、時の改革気分に便乗しようという意図がはっきりしすぎています。


現在はとてもそういったことまで許すような余裕はまったくありません。さまざまなことで改革していこうとしていらっしゃったのです。やるとなったら中途半端ではいけません。正に現代的な問題でもあります。


 為政者には決然とした思いがなくては、真の思いは達成することができません。その時の都合で、途中で中断したままになっている公共事業も沢山あるのではありませんか。必要であればきちんと素早く行うべきであり、切り捨てるべきものは、容赦なく切り捨てるべきです。しかし功績のあった人のことはもちろん現在生きている人の功績も、政庁の財政を補助するために、犠牲にするという好意を受け付けることは出来ません。それは天皇が行おうとした決意とは違った問題となってしまいます。


 天皇は大臣の申し出を拒否しましたが、極めて本質的なことを大事にしようとしているのだということがはっきりとして、拍手したい気持ちになりました。


 天皇をはじめ政庁の責任者であるものが、雰囲気に便乗して個人的な思いを遂げるようなことは許されるものではありません 


温故知新(up・to・date)でひと言


 古代も現代もありません。大事なのは問題処理をきちんとしなくては意味がありません。ただ決まったことだからという、投げやりな姿勢でいることは許されません。やると決めたことについては、それなりの責任を持たなくてはならないということです。四字熟語にはこういう者があります。「後顧之憂(こうここれうい)というものです。言行一致で後に気がかりなことが残ってしまっては意味がありません。今回の改革の始まりは臣籍降下でしたが、世の中には男と女の問題の狭間で苦闘することに、生き甲斐を感じるなどと格好をつけていう、キザな人もいるにはいますが、そういった方は論外としておきましょう。今後のためにも、「銘肌鏤骨(めいきるこつ)です。肌に刻み付け、骨に彫り込み、深く心に銘記して忘れないようにしておかなくてはなりません。二度とその深みに落ち込まないようにして、「不言実行(ふげんじっこう)いたしましょう。理屈や釈明をせずに、黙って実行することです。したい放題をして後は知らんという、横着なことは絶対に許されるものではありません。けじめをきっちりとつけたいものです。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言10 [趣味・カルチャー]

「憧れの原点」

古代の人たちは、長い冬から春が目覚めて、夏がやってきて活力が頂点に達していくと、それからはじょじょに衰えていきながら秋になり、やがて勢いを失う冬になっていくと考えていました。

最近、つくづく思うことなのですが、漢字には実に意味深いものが多いようですね。漢字の妙とでも言うのでしょうか・・・その表記に篭められた意味が、ずばりとその核心を突いていることがありますし、微妙な雰囲気を伝えていることもあるように思えてくるのです。

たとえば「魂離(あくが)れ」という言葉です。

つまり魂が体から離れていくという、頼りない状態を表す表現なのです。

多くの方は、ほとんど出会ったこともない言葉だと思いますが、これは間違いなく古代に生まれた言葉です。しかし二十一世紀の現代でも、これらが基になった言葉が活きつづけているのですが、気がつきませんか。

「魂離れ」・・・文字をそのまま読むと、魂が離れるということですが、昨今よく言われる、魂が体を離れて飛行するという、霊体遊離などという興味本位のものとは違って、そうなった時の状態を表す言葉・・・つまり物思いに耽った結果、体から魂が離れてしまう状態をいうのです。

ちょっとその時の姿を想像してみて下さい。

何かに心を奪われて、思わずぼーっとしてしまう状態のことです。

最近は「スポーツの秋」、「食欲の秋」、「旅行の秋」などといわれることが多いのですが、私たちが若い頃は、「物思いの秋」などといわれることが多かったのです。同時に精神的な発露である芸術の秋それと同じような状態ともいわれ、それに因んで読書週間が設定されてきました。

しかしそんな時に、魂が体から離れていってしまう魂離(あくが)れした状態では、とても読書どころではありませんね。下世話な例になりますが、好きな歌手、好きな俳優のことを思ったりしていると、いつか恍惚状態になってしまったりすることがあるでしょう。これは年齢に関係なく、老いも若きも取りつかれてしまう精神状態です。

あの、ぼーっとしてしまう状態というのは、やはりまるで魂を奪われてしまったような状態というしかないでしょう。そんな陶然とした状態を、古代の人は「魂離(あくが)れ」と表現していたのです。

彼らは秋になって、太陽の勢いが衰えていくのにつれて、統治者である天皇から魂が抜けてしまって、「魂離(あくが)れ」状態になるのを心配して、新たな活力が籠められている収穫したばかりの新米を食べたりしたことが起源なのです。

現在の勤労感謝の日・・・昔は新嘗祭(にいなめさい)の始まりでした。

これらのきっかけとなった「魂離れ」の状態が、時代を経るに従って「(あこが)れ」と言われるようになったのです。確かに好きになったスターを目の前にして陶然としてしまう若い人を見ることがありますが、まさにあれは魂離(あくが)姿だと思います。

もの思う秋だけでなく、「魂離(あくが)れ」してしまうほど夢中になる新しい「憧れ」の対象を発見したいものですね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その四の一 [趣味・カルチャー]

      第四章「隠れた事情を突き止めるために」(


        為政者の課題・「財政悪化で臣籍降下」


弘仁五年(八一四)。嵯峨天皇が即位してから六年になろうとしています。すっかり政庁での活動にも慣れて落ち着いてきていて、政庁にとって何が必要なのかということについても、充分に認識されていらっしゃいます。


 平城天皇から譲位されて為政を担ってから、まだ五年ですが、蝦夷(えみし)との抗争に多額の財を費やしている上に、前年には肥前(ひぜん)国の島で新羅(しらぎ)の者が百人を超える者が上陸して、激しい戦いが起こったりしたことがあったという知らせがありました。万一の時に政庁の者が結束していなくては対処できないというので、まず身近な者との結束を固めておくことが大事だというので、天皇は右大臣藤原園人を伴って近衛大将の藤原冬嗣(ふゆつぐ)の屋敷である閑院(かんいん)や、弟であり皇太子でもある大伴皇子の屋敷である南池(なんち)院を歴訪したりして親睦を図り、万一の時にも結束が乱れないのを確認していらっしゃいました。


為政者・嵯峨天皇


弘仁五年(八一四)五月八日のこと


発生した問題とは


それにしても国内の状態を調べると、相変わらず天災に見舞われて、飢饉のために民が危機的な状態に陥っているために、貧困であることは勿論のことですが、そのために死者が出てもその始末が出来ずに路上へ遺棄してしまうという状態なのです。これでは疫病を発生させてしまうことは勿論ですが、それを蔓延させてしまうことは必然です。


そのために政庁は、各地の援助をしなくてはなりませんから、これでは税の徴収も思い通りという訳にもいきません。次第に国の財性も厳しい状態になってきていたのです。


そのことについては政庁の誰もが気がついてはいても、とても天皇に訴えかけることは出来そうもありません。しかし税の徴収も思うに任せないことを考えると、政庁の財政状態がいいとは言えなくなっています。


為政者はどう対処したのか


 非常に繊細な感性をお持ちでした嵯峨天皇が、そんなことに気が付かないわけがありません。そうした国家的な危機を回避するために、ある日公卿たちもびっくりするような施策を打ち出されたのです。


「朕は平城天皇から位を譲られ、皇位に就いたが、人民に睦び近づく徳に欠け、教化が遠方に及ばないことを恥じている。そしてなすことなく年月が過ぎ、子供の数が次第に増えてしまった。子が親に仕える子道(しどう)をわきまえないうちに、却って人の親となってしまったのである。子供たちはかたじけなくも封戸を支給され、官庫の給与に(あずか)っているが、朕は心を痛めるばかりである。そこで子供たちに親王号を付さず朝臣の姓を与え、一の戸籍を編み、公務に従事させることとし、最初に六位に序そうと思う。ただ、すでに親王号を与えられている者は改めず、同母で今後生まれ者にも親王号を与えようと思う。これに関して他に上申すべきことがあったら朕が裁可しよう。人は賢愚により知恵を異にしても、育ての恩は同じである。朕は秘かに親王を廃止し、子孫を廃止し子孫を分家させて広めようとしているのではない。元より天地の長く続王を廃止し、子孫を分家させて分家させて広めようとしているのではない。もとより天地の長く続くのと同様に、皇位は次々に継承されていくのであるから、朕が子に親王号を一時の安楽を求め、万代にわたる衰亡を忘れてよいものであろうか。広く内外に告知して、朕の意を告知せよ」(日本後紀)


公卿たちは大変衝撃を受けてしまいますが、しかしはじめは直ぐには信じられませんでした。


子供たちを独立させることで新しい氏族を作って、ある種の権益集団とするのではないかという心配をしたようですが、天皇にはまったく他意はなく純粋でした。


公卿たちはそれから数日後には次のような申し出をいたします。


「もし、皇子に親王号を付さずに臣下とし、親王の(ほう)(ろく)(給与)収入を国家に託し、天皇から別れた皇族を卑しい身分とすれば、おそらく後世の有識者は、穏やかなことではないと批判することになりましょう。陛下の立案に従わず、敢えて奏する次第です。謹んで申しあげます」(日本後紀 


しかし天皇はその奏上を許可せずに断行されました。


そんなある日のこと、公卿の中からは、天皇の真摯な思いが伝えられて、暫く疑心暗鬼であった思いを解消したことがあったのでした。天皇は思いがけない決断に至った思いについて、こう告白していらっしゃったのです。


「・・・年月が過ぎ、子供の数が次第に増えてしまった。子が親に仕える子道をわきまえないうちに、かえって人の親となってしまったのである。子供たちはかたじけなくも封戸を支給され、官庫の給与にあずかっているが、朕は心を痛めるばかりである。そこで、子供たちに親王号を付さずに朝臣の姓を与え、一の戸籍に編み、公務に従事させることとし最初に六位に叙そうと思う」(日本後紀)


直ちに(まこと)(ひろむ)(ときわ)(あきら)という親王の四皇子と、(さだ)姫、 これまで親王として過ごしてこられた御子達に働くことを決定づけられたのです。


(きよ)姫、(うつ)姫、善姫の四皇女に源朝臣という氏姓を授けて、いわゆる臣籍降下を強行されたのです。それに伴って皇宮改革も行い、皇妃、后、夫人(ぶにん)(ひん)という序列を決められたのでした。


この記録を知った時、私はようやく嵯峨天皇に対するある疑念を拭い去ろうという気持になりました。どうしても女性関係に関しては、どうも古代のどの為政者にもあった乱脈さから抜け出していない印象があって、これまでの折り目正しい生き方は仮の姿ではなかったのかという疑念が付きまとっていたのです。しかし今回のお子様の処遇に関して、自らの身を斬るという決断を知って、考え方を改めることにしました。国の財の危機的な状態を救うということで、為政者として先ず自らの御子の臣籍降下という処遇を決意なさったという一点で、印象を変えることにいたしました。これまでの為政責任者にはなかった覚悟を示されました。


 天皇の心情は第一章「卓越した指導者といわれるために」「その一の七」「評価は天が決める」の閑談で触れていますが、人生最後の審判は神が行うということを述べていらっしゃいます。今回の決断はそうした心情に基ずくものであると考えるからです。


これでこれまで貫いてきた嵯峨天皇の、清廉潔白で折り目正しい生き方を通される方として、畏敬の思いを持ちつづけることができると確信しました。


これまでの幼少の頃からの母の乙牟漏(おとむろ)を失い、二・三歳違いの最愛の妹である高志(こうし)内親王を失うという、母性への思慕があって、父の桓武天皇には五十人を超える女性関係があったのですが、財政的な問題があっても、それに対して特別に指示するようなことはありませんでした。嵯峨天皇ははっきりと国の財政の健全化のために、自らの身を斬ることを表明されたのです。これですべて天皇に対する疑念は解消しました。やはり平安京における傑出した為政者であると確信したところです。


果たして現代の政治家には、このような清廉な生き方をはっきりと示して生きられる方がどれだけいるでしょうか。これまでの人間としての足跡を知らない方からは、桓武天皇を超える数の女性と接触があったことで、厳しい判断がされそうですが、多少でも天皇の足跡を知ると、母を求める思いから起こった女性問題だと思って差し上げられないかと考えるようなったのです。


あまりにも予期せぬ突然の申し出でしたが、公卿たちの戸惑いと、彼らに広がったある不安は一気に解消されたでしょうか。


いや、決してそうはいかなかったと思います。


それだけ衝撃的な申し出であったのです。


現在の皇室問題を考えると、考えさせられるものがあります。


国の財政を見直すということから始まった天皇の決断でしたが、現代の我が岸田内閣総理大臣は、行き詰っている経済関係についての突破口として、内閣の発足時に「新しい資本主義」と称して「分配政策」よりも「成長戦略」を重視して、国と地方の基礎的財政収支の黒字化目標とするという骨太の政策を発表されました。


ところが資産家から多くの税を徴収して、生活に困窮する人々の徴税を軽減すという政策はあっという間に引っ込めてしまいました。


政権を維持する自民党内からの反対が多かったためであったようですが、目玉であった「分配政策」はあっという間に引っ込めてしまうという状態です。


国家の財政を築くための大胆な政策は、あくまでも貫いて欲しいのは、古代も現代もありません。為政者が自ら我が身を削って窮状を突破せよとは言いませんが、言葉だけで終わらない意気ごみというものを見せて欲しいものです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 前にも触れたことがありますが、古代の為政者は人智で解決できない天災に襲われた時には、潔く天帝の怒りをかってしまったといって反省しています。今回のことはあくまでも本人が生みだした問題の処理の仕方です。それについては思いきった決断については評価したいと思います。


嵯峨天皇は、かなりこれまでの為政者と違って、かなり旧習に捉われない発想をされる方でしたが、古来「八面玲瓏(はちめんれいろう)という四字熟語があります。心中にわだかまりがなく、清らかに澄み切っています。あくまでも国の財政の危機を救おうという純粋なものだったのでしょう。古来男女間の問題にはすっきりとしないものが残しがちになるものですが、問題を残さずに処理していくことが大事です。現代でも不倫問題をはじめ男女の間には、絶えず吹っ切れないことがあって、マスコミを賑わしていますが、いずれにしても後味の悪いものが残りつづけています。果たしてあなたは問題を残さずに女性問題を処理していらっしゃるでしょうか。「狐疑逡(こぎしゅんじゅん)といって、疑い躊躇(ためら)ってことに臨んでぐずぐずすることに使われるのですが、狐は疑い深いといわれるところから、決心がつかずにいるさまをいうようです。このような問題をいつまでも抱えたままでいたら、あとあとまで問題を引きづってしまいます。これまでの為政者でこのような処理をした方は見当たりません。如何に嵯峨天皇が文人政治家といわれるに値する理知的な方であったかの証明です。しかし何といっても天皇は自らの内に間違いが存在しているということに気がつたということです。城狐社鼠(じょうこしゃそ)といって、城に棲む狐、神社に巣くう鼠。城や神社に隠れている狐や鼠を取り除こうとすると、城や神社まで壊したり、焼いたりしなくてはならないので、手が出せないということです。つまり権威の陰にいて、悪事を働く者をいうのですが、天皇はそれが我が身中にあると気付かれたということです。果たして現代の為政者に、こうしたことで身綺麗にできる人がいるでしょうか。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑10 [趣味・カルチャー]

「古代に職能集団あり」

 

 古代でもかなり古い人は、朝廷に勤めるにはある特殊能力が必要だったようです。勿論ですが決してスーパーマンであったり、快獣的であったりするようなマンガチックな話ではありません。

 古代における朝廷に勤める官人たちは、おおむね一族単位でその特殊能力を持って奉仕するわけですが、たとえば佐伯(さえき)氏は地方の警護のために奉仕したし、大伴(おおとも)氏は朝廷の周辺の警護を受け持っていたというようなことです。

こうした職能集団の中で、国政により近いところで活躍した集団というと、何といっても物部(もののべ)氏と蘇我(そが)氏を挙げなくてはならないでしょう。

 この物部氏は大和朝廷時代に、(むらじ)という(かばね)が与えられていましたが、その中から彼らを束ねる大連(おおむらじ)が任命されて朝廷に奉仕しました。

この一族は神を信仰していて、主にその力を背景にして外交を行ったり、外国からの攻撃に立ち向かったりしていたのです。彼らの支えは何といっても神という存在でした。彼らは神を絶対的な存在と確信していますし、その思想に背くということは許しませんでした。それ故にかなり強圧的な・・・つまり強面な姿勢を取りつづけていたのです。

そのために弱い立場の民にとっては、かなり煙たい存在でした。しかしそんな彼らとは対照的だったのが、蘇我氏だったのです。彼らは(おみ)という姓を与えられて、その中から臣を束ねる大臣(おおおみ)がいて、朝廷においては内政面を受け持っていたのです。つまり物部氏の外交中心に対して、蘇我氏は内政中心という立場を貫いていったのですが、物部氏の神を背景にした清冽な姿勢に対して、蘇我氏は仏を背景にした慈悲の姿勢を貫いていったのです。

 これがやがて、あまりにも強圧的な物部氏に対して、弱者に目を向けた柔軟な蘇我氏の対立となり、ついには幼い聖徳太子まで巻き込んだ、古代の大きな戦争にまで発展してしまったのでした。

 この両者の対立の背景には、両者の拠点としていた場に、かなりの差があったからなのです。物部氏が勢力を持つところは豊かな土地があり、河内という乾燥地であったのですが、蘇我氏の勢力地といわれる飛鳥は湿地帯で、雨季にはかなりの犠牲を強いられていたのです。

 両者の対立はそういったものも背後には秘められていたのではないかと思われます。しかし結局は民を味方にした蘇我氏の勝利となって終わったのですが、これは現代にも通じる問題を含んでいるようにも思えます。

民が何を求めているのかを、敏感に察知していた者が勝利を得ることになります。

 今、国民が真に求めているのは何なのでしょう。

 時代が複雑な分、一つのことにしぼることは出来そうもありません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の六 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()


        為政者の課題・「遣唐大使の要求に小野篁拒否」


 


  今回は承和五年(八三八)のことです。


仁明天皇(にんみょうてんのう)が即位してから五年が経過していますが、この頃はあまり落ち付いた時代ではなくなっていたのです。


時代に生気が失われ、為政に対する不満も広がりつつあります。


仁明天皇による政庁の威信を回復するために試みた遣唐使船の派遣も、暴風雨に襲われてまだ正常に渡海に挑む状態になっていません。政庁はそんなことで振り回されているのですが、それに地震が不安を煽ります。


投げやりな時代の空気が沈滞して広がっています。


天皇の指示によってさまざまな薬物を貢納することになっている諸国で未進がある場合は、多少を問うことなく医師の公廨(くげ)(俸禄。出挙して得た利潤を充てる)支給の停止し、完納したという返抄(へんしょう)(受け取り)が出されるのを待って支給することに定め、今後これを恒法(こうほう)とすることにしたのですが、それから間もなくです。更に天皇は天平宝宇に決められた法を取り上げて、こんな指示をするのでした。


 学生(がくしょう)が諸国の博士・医師に任命されると、支給される公廨一年分について業を受けた師に送らなければならないとあるが、一年分をすべて送るというのは、物の道理に反している。国ごとに分けて、差を設けて送るようにするべきである。赴任している場合も兼任していない場合も、共に公廨から大国は二百束、上国は百五十束、中国は百束、下国は五十束を、毎年取り分けて、国がそれを軽貨(絹・布等の類)に交易して、博士料は大学寮へ、医師料は典薬寮へ送れ。大学博士や侍医(じい)が諸国博士・医師を兼任している場合はこの限りではない」(続日本後紀)


このようなことでもいろいろな不都合が現れているようで、間もなく大宰府は、


「府官人の公廨は未納があっても、正税(しょうぜい)を用いて全額支給し、未納分は国司が代わって徴収していますが、正税が不足している国の場合は、大宰府管内の他の国の正税を用いたいと思います」(続日本後紀)


 そんな最中に、飛んでもない事件が発生いたしました。


為政者仁明天皇


承和五年(八三八)六月二十二日のこ 


発生した問題とは


 遣唐使船を送り出すことは桓武天皇時代が最後で、中國の文化、芸術に心酔していらっしゃる嵯峨太上天皇は、熱望しながら、その夢を果すことが出来ないまま退任してしまわれたのです。それから十年後に父の果たせなかった夢を果し、世の中の沈滞した気分を転換しようとしたのですが、荒れる天候に阻まれて、途中で引き返すという事態になってしまったのです。事件はその後で発生しました。


さまざまなことでひずみが現れてきている時代だったのですが、遣唐使船を送り出すという大きな政庁の行事を成功させることで、何とか沸き立つ気分にしたいところでしたが、ようやく出発はさせたものの、悪天候に見舞われて、あっという間に渡海は失敗に終わってしまったのです。遣唐使船は無残にもばらばらとなってしまった上に、大破する船もあって、渡海は失敗であることはもちろんですが、事態の報告をして来る連絡の中には、あまりにも思わないようなことが発生したのです。


遣唐副使小野篁が病であるという口実で、もう破損した船の修理をして出発の準備をすることはあっても、もう二度と遣唐使船へ乗りこむことはないというという衝撃的な報告が、藤原助(ふじわらのたすく)によって政庁に報告されたのです。


遣唐使船で唐国を目指すということは、在位中の仁明天皇にとっての一大行事であるばかりでなく、これは今上(きんじょう)の父である嵯峨太上天皇が成し得なかったことの達成をしようという大きな使命が秘められていたのです。それを拒否するということは、明らかに天皇の命を拒否したことになります。


今上天皇はもちろんのこと、嵯峨太上天皇が激怒しないわけはありません。今上は直ちに篁の態度について、処罰について審議をするように命じました。


死刑になってもおかしくない、勅命に対する犯行です。しかし篁には、それなりに充分な


理由があったのです。


造舶使が遣唐使船を建造した時、第一船から四船までの順序を決め、遣唐使はそれに従って乗船するのですが、はじめの渡海に失敗して命からがら引き返してきた遣唐大使藤原常嗣(つねつぐ)は、今回乗船する船を変えて第二船を第一船としたいと朝廷に訴えたのです。実はその第二船こそが、篁が乗船するはずであったものだったのです。はじめの渡海の時常嗣の乗船はもろくて難破してしまったのに、篁の乗った第二船だけが堅牢で難破を免れていたという状況であったことから、今回はその船に大使が乗りたいと申し出てきたのです。


(身勝手は許さない)


性格的に一直線な篁は、病と偽って乗船しないばかりかその上司の勝手な訴えを、「西海道の謡」という童謡(わざうた)(時事の風刺を謡ったもの)で批判したのです。


そのために嵯峨太上天皇の権威をも傷つけることになってしまって、篁の罪については、廷臣たちによって審査をされることになりました。


篁がどんな扱いになるかが判らないまま、遣唐使船は彼を排除して那の津から旅立ったのでした。


為政者はどう対処したのか


 その結末が、その年十二月十五日に出ました。


 審議を続けていた廷臣たちから、嵯峨太上天皇の意向も酌んだ結論として発表されました。


「遣唐副使小野篁は、天皇の命を受けて使人として外国へ向かったが、病と称して朝命に従わず留まったままである。律条を適用すれば絞刑に当たるが、死一等を降し、遠流に処することとして隠岐国に配流せよ」(続日本後紀)


 兎に角上司に背くということは、死罪にもなろうという大罪なのですが、それを救ったのは篁の妻紀子の父でした。藤原三守の力でした。実は篁は彼女を見染めた時、妻に欲しいと熱情溢れる書状を送って、三守を納得させて望みを達したのですが、その時の書状は当時の名文として、「本朝文粋」に収録されているほどです。それ以外にも彼は、友人を救うために給与を惜しみなく使ってしまって、貧乏暮らしをしたと伝えられるほど、誠実で清冽な生き方を貫く人でもあったのです。そんな人となりを知っていたのでしょうか、彼が事件を起こしたその年の正月にたまたま三守は右大臣になっていたこともあって、死罪を免れて配流ということで済んだのです。ところが彼には、


「性不羈(ふき)にして直言を好み、自ら持すること高くて世に受け入れられず、野狂とさえいわれた」


という大江正房評があるほどで、権力に物をいわせて曲がったことをいう者でもいれば、絶対に許せなくなる人だったというのです。それでも官人としての才能はずば抜けて優れていたために、文章生から始まって大内記、蔵人、式部少丞を経て、今上が即位して皇太子に恒貞親王が立てられると、東宮学士という高い地位に就いたのです。


現在三十七歳になってはいるのですが、平安京の民の中には時代の空気を率直に表現した彼に、思いを寄せる者は多かったようです。隠岐島へ送られる篁を見送ろうと、難波津にはかなりの人が集まりました。


 わたの原八十島かけて漕ぎいででぬと


人には告げよ海人のつり舟


(海人の釣舟よ伝えてくれ。篁は難波津から、瀬戸内の大小さまざまな島々を縫うように巡りながら、舟をこぎ出していったよと)


 篁については異色の伝説伝承の多い方でしたが、それを排除して実像を追うとこんなお話になるのです。


敢えてこのようなお話を取り上げたのは、ここまで自分に不利になると知りながら、徹底して自己主張したことについて、現代人はどう受け止められるのかということを問いかけてみたかったからです。


清廉潔白の身であるからこそ、従っておけば何事もなく済んだものを、どうしても我慢が出来ずに、おかしいと思うことは言ってしまう性格です。その為に不遇な思いも容赦なく襲いかかられてしまいます。現代を生きる若者であったら、率直に篁的に振る舞うか、それとも世渡り上手を発揮して、上司のいい加減には口を挟まずに済ましてしまうだろうか、大変興味があるところです。


 あなたはどこまで筋を通して訴え続けられるでしょうか。


 一時報道関係で「忖度(そんたく)」ということが話題になりましたが、篁はそれを拒否してしまったのです。上司の無理矢理な要求に対して、断固として抵抗したのでした。しかもその言動については、死罪となることもあるという決心でした。当時巷では「野狂」などといわれて揶揄されたのですが、現代では遣唐大使の横暴ぶりが焦点となるか、それとも篁の態度が立場を無視した要求になるのかが、争点となるでしょうが、どうも私は大使という立場を利用した常嗣の強引な姿勢は認められません。当時でも天皇の命を拒否したということで極刑が予想されたけれども、やはり遣唐大使という立場を利用した職権乱用だと批判する者がいたのでしょう。現代では篁の遣唐副使拒否には行き過ぎたところがあったかもしれないけれども、遣唐大使としての職権を乱用したとして常嗣の行為を責めることになるでしょう。


 まさに時代の差ですがこういうことでの庶民感情というものは、経殷時代であろうと現代であろうと、まったく変わらないものを感じます。筋道を通そうとした篁の姿勢に拍手したいと思います。


温故知新(up・to・date)でひと言


 こんなことがあった時に、世間での先人達だったら四字熟語を使って。どんなことを発表すでしょうね。多分剛毅木訥(ごうきぼくとつ)というものでしょうか。強い心と毅然たる態度で、しかも飾り気のない朴訥な人物であったことに間違いありません。変わった奴だと呆れられながら、「悲憤慷慨(ひふんこうがい)して、社会の不義や不正を憤って嘆いたのです。それが如何に正当な主張であったかは、手には何の武器も持たない「赤手空拳(せきしゅくうけん)であったのです。民が送った拍手喝采の大きさでお判りになるでしょう。果たしてあなたは篁の行為を、どう受け止めるでしょうか。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言9 [趣味・カルチャー]

  「秋の七草ご存じですか?」

 

 「春の七草は知っていますか?」

 正月七日に食べる年中行事ですから、かなりの人は知っているでしょう。若菜を粥に入れて食べますね。

 きっとセリ、ツツジ、ハコベ、ゴギョウ、ホトケノザ、スズナ、スズシロとすらすらと暗誦できるでしょう。

 それではここで

「秋の七草は御存知ですか」

 と窺ったら、果たして何人ぐらいの方が応えられるでしょうか。

きっと少ないでしょう。

実は私もすぐには答えられなくて困りました。

 調べたところ、ハギ、オバナ、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、アサガオ、時にはアサガオでなくて、キキョウを上げる人もいるのが普通のようですね。

しかしどうして秋の七草はこうも認知度が低いのでしょう。

それは簡単です。

「秋の七草」というのは、食用ではなく鑑賞用の草花だからでした。

矢張り秋は何といっても、食欲の秋といわれるくらいですから、どうしてもクリ、カキ、ヤマイモ、ヤマブドウ、キノコ、ギンナン、アケビ、マツタケなどと言うものがあげられます。

それにしても観賞用の「秋の七草」の中に、リンドウが入れられていないのはどうしてなのでしょう。

可憐な花だと思うのですがね。

兎に角食べる方に興味が先走って、どうも鑑賞までには興味が移りませんでした。そろそろ熟年のみなさんは、目の肥やしになるものに興味を持ってもいいかも知れませんね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の五 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()

        為政者の課題・「若い能力が必要」

 かつて嵯峨天皇が提案されたことでしたが、その時は公卿たちの反対で行えないでいたことが、ここへきて現実の問題として浮上してきたのです。身分は低くても能力のある実力者を起用しなければ、時代の求めることに応えられなくなったのでしょう。

 嵯峨天皇の御子として、政庁を率いるようになって、はじめて父の先見性が如何に進んでいたことであったかを、はじめて実感するようになったのです。

 先見性が現実のものとなるには、二十数年という年月が必要になるということでしょうか。

為政者・仁明天皇(にんみょうてんのう)

承和四年(八三七)七月十六日のこと

発生した問題とは

かつて祖霊桓武天皇とかかわりの深い氏族が尊重されて、その子弟が官人として採用されることが多かった時代があったのですが、彼らの多くの者が老齢化してきていたことから、その弱点を知った嵯峨天皇は思い切って若手で実力のある者を採用して、人事を改革しようとしました。しかしそれによって、伝統を維持するということが弱まってしまうという公卿たちの進言によって、文化の衰頽を招いてはいけないとお考えであった天皇は、持論を引っ込めたことがありました。

それから二十二年という年月を経て、皇統もすでに嵯峨天皇の第一子である正良(まさら)親王が即位して仁明天皇となっています。その四年目のことですが、陸奥国から不可思議なことが起こっているという報告があります。

玉造塞(たまつくりのせき)温泉石神(ゆのいしがみ)は雷のような響きを上げて震動し、昼夜止まず温泉の湯が川に流れ込んで、漿(しょう)(おも湯)のような色になっています。それだけではなく、山は噴火し田には塞がり、岩石は崩壊して木は折れ、さらには新しく沼が出現して、雷鳴のような音と共に沸き立っています。このような不思議な現象が、数えきれないほど起こっているというのです。政庁は国司に対して、この異変を鎮めるよう神に願い、夷狄(いてき)を教え(さと)すように指示したのです。

すると陸奥出羽按察使(あぜち)坂上浄野(さかのうえのきよの)が報告してきました。

鎮守将軍匝瑳末(そうさすえもり)からの連絡によりますと、

「去年の春から今年にかけて、百姓が不穏な言葉を発して騒動が止まず、奥地の住民は逃亡する事態になっています。守備につく兵士をふやし、騒ぎを静めて農へ向かうようにすべきです。また、栗原・賀美両郡の逃亡する百姓は多数にのぼり、抑止することができません」(続日本後紀)

ということでありました。

「私、浄野が考えますに、禍を防ぎ騒ぎを静めますには、未然のうちに処置すべきです。それだけでなく、栗原・桃生(ものう)以北の俘囚は武力に優れた者が多く、朝廷に服属したように見えながら犯行を繰り返しています。

四月、五月はいわゆる馬が肥え、蝦夷らが驕り高ぶる時期です。若し非常事が発生しますと防御が難しくなります。援兵として一千人を動員し、四、五月の間、番をなして異変に勤務させて、備えることを要望いたします。その食料には当地の穀を使用し、慣例に従って支給することにしたいと思います。ただし、返辞を待っていますと時期を失う恐れがありますので、兵を動員する一方で進言する次第です」(続日本後紀)

政庁は直ちに、

「事に対処するには時期が大切なので、進言を許可する。ただし、よく臨機応変に対処して、威厳と恩恵を併せて行うようにせよ」(続日本後紀)

と指示した。

 天皇は時代の要求に応えるために、実力のある若手を採用しなければ、時代の要求に応えられないということを、実感するのです。かつて父(嵯峨天皇)が実行しようとしてなし得なかったことを、御子がそれを現実のものとして実践し始めたのでした。その辺の事情に関しては、第三章「時代の変化に堪えるために」「その三の一」「伝統保護禁止の波紋」の閑談で嵯峨天皇が提案を強行しなかった事情を詳しく話題にしていますのでご覧ください。

 政庁は時代のさまざまな問題に対応するために、新たな文章生を採用して官衙の雰囲気を変えようとしたのですが、嵯峨天皇の時は式部省から次のようなことが進言されたのです。

大学寮から示された天平二年(七三〇)三月に発せられた詔勅によって採用された文章生の実情ですが、彼らはみな学生らの才器は若年時から勝れている者は少なく、多くは晩成で文章道から官人へ転身した者となると、そろそろ白髪が混じる年齢になっているというのです。

人は賢く優れていても、役に立たなくなっているというので、良家の出身者というだけでは、官人として役に立たなくなってしまっているという現実だったのです。

それで嵯峨天皇は可及的に提案をされたのですが、結局若手の実力者を登用することで、伝統の維持に尽している良家の者を外してしまうと、伝統文化が衰退してしまうという公家たちの進言があって、納得してその提議を引き下げたことがあったのです。

時代を経てさまざまな要求に応えるために、仁明天皇は父の提議した問題を再び取り上げようとしたのです。しかしその時式部省から示されたのは、父の時と同じ大学寮から示された天平二年(七三〇)三月に発せられた詔勅によって採用された文章生の実情でした。しかし時代は反対意見を押し退けて、提案通り受け入れられたのでした。こうした問題はまさに現代の我々に対する問題提起でもあるのではありませんか。

人事の刷新は言うまでもありません。しかしその道に精通したベテランも簡単に外すわけにはいきません。彼らの持てる能力を次代の優秀な若手に伝えるという作業も忘れることができません。よほど慎重に処理しなくてはならないでしょう。

 現代我々を取り巻く環境は、全ての面で世代交代が現実的に進行しています。まだまだ旧勢力が残っているところも多くていらいらさせられるでしょうが、先ず身近なところから時代に即応できる実力者を登場させてみましょう。それは実業の世界ではすでに新たな人材が次々と登場して活躍しています。それがほとんど行われていないのが官僚といわれる世界で、そのほころびが次々と現れて呆れさせられます。

 今回の仁明天皇の決心も、父嵯峨太政大臣が在位中に起こったことを、御子が取り上げようとしているのです。実に二十数年という年月を得ています。先進的な発想を現実の世界の者とするためには、なんという無駄な時間を費やすものでしょうか。

 嵯峨太上天皇の皇子で従四位上源朝臣鎮(みなもとのあそんしずめ)が神護寺(じんごじ)へ入り、剃髪して入道したといいます。宮中の者はそれを聞いて、涙を流したというのですが、かつての時代であったら、少なくても太政天皇の御子ですよ。僧籍に入られるなどということはなかったはずです。ゆとりのある暮らしを楽しみながらお暮しになられるはずです。そんなことを思うと、ついお気の毒という気持になったのでしょうが、こうした生き方をすることになったのも、太上大臣が決められた臣籍降下という姿勢が、決してその時の思いつきで終わるものではなかったということが活きていたことになります。

 もう天皇の御子でああっても、特別の援護を得られる訳はなく、自ら選んだ道を生きなくてはならないということを知ったのでした。

 恐らく仁明天皇は、父の敷いた施策が間違いなく、二十数年後にも活きているのだということを、改めて感じられたのではないでしょうか。

 天皇は間もなく次のようなことを発せられました。

 「人の器量は同じでなく、識見・才能はそれぞれ異なりながら定まっている者である。知恵と徳行において他より優れ、仏教の指導者たるに相応しい者を、それぞれ有名、無名を得事無く、また員数を限らず、同じく共に推挙すべきである。そこで仏学の学問に勝れ、仏教を承け伝える能力を有する者と、精進苦行(しょうじんくぎょう)して仲間に知られている者を、大寺ごとに七人選び、僧としての修業年数を注記せよ。もし適任者がいないときは、強いて推挙する必要はない。適任者が多数いても、同一宗教からのみの推挙はならず、各派に(はか)れ、僧綱一人が寺ごとに衆僧と相対して、選び、推薦結果を記した帳簿には、寺の別当(べっとう)三綱(さんごう)学頭(がくとう)(各宗派や諸大寺で教学を統括する僧)が署名せよ。この帳簿は、三年に一度、作成し、十月の内に提出せよ」(続日本後紀)

 

 なかなか埋もれた才能を発掘するということは、至難なことのようでした。

温故知新(up・to・date)でひと言

古来「積薪之嘆(せきしんのたん)ということが云われていて、薪が後から積まれるために、いつも上の方から使われるので古いものは一向に使われずに、いつまでも積まれているということです。年功序列ということの悪弊です。それも止むを得ない事情があるのです。「後世可(こうせいかい)といって若者は当初未熟なものです。しかし来たるべき時代の息吹を敏感に感じ取って成長していくので、将来の大きな可能性を秘めています。決して侮ってはなりません。むしろそうした世代の者を敬うべきです。彼らは「疾風勁草(しっぷうけいそう)と言って、激しい風が吹いた時に、はじめて強い草の存在が判るという存在なのです。危急存亡の非常事態に出合うと、その人物の節操の堅さが判ります。時代を担う若者も、是非この日の問題提起を真に受け止めて考えておくべきではないでしょうか。

 


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