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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑10 [趣味・カルチャー]

「古代に職能集団あり」

 

 古代でもかなり古い人は、朝廷に勤めるにはある特殊能力が必要だったようです。勿論ですが決してスーパーマンであったり、快獣的であったりするようなマンガチックな話ではありません。

 古代における朝廷に勤める官人たちは、おおむね一族単位でその特殊能力を持って奉仕するわけですが、たとえば佐伯(さえき)氏は地方の警護のために奉仕したし、大伴(おおとも)氏は朝廷の周辺の警護を受け持っていたというようなことです。

こうした職能集団の中で、国政により近いところで活躍した集団というと、何といっても物部(もののべ)氏と蘇我(そが)氏を挙げなくてはならないでしょう。

 この物部氏は大和朝廷時代に、(むらじ)という(かばね)が与えられていましたが、その中から彼らを束ねる大連(おおむらじ)が任命されて朝廷に奉仕しました。

この一族は神を信仰していて、主にその力を背景にして外交を行ったり、外国からの攻撃に立ち向かったりしていたのです。彼らの支えは何といっても神という存在でした。彼らは神を絶対的な存在と確信していますし、その思想に背くということは許しませんでした。それ故にかなり強圧的な・・・つまり強面な姿勢を取りつづけていたのです。

そのために弱い立場の民にとっては、かなり煙たい存在でした。しかしそんな彼らとは対照的だったのが、蘇我氏だったのです。彼らは(おみ)という姓を与えられて、その中から臣を束ねる大臣(おおおみ)がいて、朝廷においては内政面を受け持っていたのです。つまり物部氏の外交中心に対して、蘇我氏は内政中心という立場を貫いていったのですが、物部氏の神を背景にした清冽な姿勢に対して、蘇我氏は仏を背景にした慈悲の姿勢を貫いていったのです。

 これがやがて、あまりにも強圧的な物部氏に対して、弱者に目を向けた柔軟な蘇我氏の対立となり、ついには幼い聖徳太子まで巻き込んだ、古代の大きな戦争にまで発展してしまったのでした。

 この両者の対立の背景には、両者の拠点としていた場に、かなりの差があったからなのです。物部氏が勢力を持つところは豊かな土地があり、河内という乾燥地であったのですが、蘇我氏の勢力地といわれる飛鳥は湿地帯で、雨季にはかなりの犠牲を強いられていたのです。

 両者の対立はそういったものも背後には秘められていたのではないかと思われます。しかし結局は民を味方にした蘇我氏の勝利となって終わったのですが、これは現代にも通じる問題を含んでいるようにも思えます。

民が何を求めているのかを、敏感に察知していた者が勝利を得ることになります。

 今、国民が真に求めているのは何なのでしょう。

 時代が複雑な分、一つのことにしぼることは出来そうもありません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の六 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()


        為政者の課題・「遣唐大使の要求に小野篁拒否」


 


  今回は承和五年(八三八)のことです。


仁明天皇(にんみょうてんのう)が即位してから五年が経過していますが、この頃はあまり落ち付いた時代ではなくなっていたのです。


時代に生気が失われ、為政に対する不満も広がりつつあります。


仁明天皇による政庁の威信を回復するために試みた遣唐使船の派遣も、暴風雨に襲われてまだ正常に渡海に挑む状態になっていません。政庁はそんなことで振り回されているのですが、それに地震が不安を煽ります。


投げやりな時代の空気が沈滞して広がっています。


天皇の指示によってさまざまな薬物を貢納することになっている諸国で未進がある場合は、多少を問うことなく医師の公廨(くげ)(俸禄。出挙して得た利潤を充てる)支給の停止し、完納したという返抄(へんしょう)(受け取り)が出されるのを待って支給することに定め、今後これを恒法(こうほう)とすることにしたのですが、それから間もなくです。更に天皇は天平宝宇に決められた法を取り上げて、こんな指示をするのでした。


 学生(がくしょう)が諸国の博士・医師に任命されると、支給される公廨一年分について業を受けた師に送らなければならないとあるが、一年分をすべて送るというのは、物の道理に反している。国ごとに分けて、差を設けて送るようにするべきである。赴任している場合も兼任していない場合も、共に公廨から大国は二百束、上国は百五十束、中国は百束、下国は五十束を、毎年取り分けて、国がそれを軽貨(絹・布等の類)に交易して、博士料は大学寮へ、医師料は典薬寮へ送れ。大学博士や侍医(じい)が諸国博士・医師を兼任している場合はこの限りではない」(続日本後紀)


このようなことでもいろいろな不都合が現れているようで、間もなく大宰府は、


「府官人の公廨は未納があっても、正税(しょうぜい)を用いて全額支給し、未納分は国司が代わって徴収していますが、正税が不足している国の場合は、大宰府管内の他の国の正税を用いたいと思います」(続日本後紀)


 そんな最中に、飛んでもない事件が発生いたしました。


為政者仁明天皇


承和五年(八三八)六月二十二日のこ 


発生した問題とは


 遣唐使船を送り出すことは桓武天皇時代が最後で、中國の文化、芸術に心酔していらっしゃる嵯峨太上天皇は、熱望しながら、その夢を果すことが出来ないまま退任してしまわれたのです。それから十年後に父の果たせなかった夢を果し、世の中の沈滞した気分を転換しようとしたのですが、荒れる天候に阻まれて、途中で引き返すという事態になってしまったのです。事件はその後で発生しました。


さまざまなことでひずみが現れてきている時代だったのですが、遣唐使船を送り出すという大きな政庁の行事を成功させることで、何とか沸き立つ気分にしたいところでしたが、ようやく出発はさせたものの、悪天候に見舞われて、あっという間に渡海は失敗に終わってしまったのです。遣唐使船は無残にもばらばらとなってしまった上に、大破する船もあって、渡海は失敗であることはもちろんですが、事態の報告をして来る連絡の中には、あまりにも思わないようなことが発生したのです。


遣唐副使小野篁が病であるという口実で、もう破損した船の修理をして出発の準備をすることはあっても、もう二度と遣唐使船へ乗りこむことはないというという衝撃的な報告が、藤原助(ふじわらのたすく)によって政庁に報告されたのです。


遣唐使船で唐国を目指すということは、在位中の仁明天皇にとっての一大行事であるばかりでなく、これは今上(きんじょう)の父である嵯峨太上天皇が成し得なかったことの達成をしようという大きな使命が秘められていたのです。それを拒否するということは、明らかに天皇の命を拒否したことになります。


今上天皇はもちろんのこと、嵯峨太上天皇が激怒しないわけはありません。今上は直ちに篁の態度について、処罰について審議をするように命じました。


死刑になってもおかしくない、勅命に対する犯行です。しかし篁には、それなりに充分な


理由があったのです。


造舶使が遣唐使船を建造した時、第一船から四船までの順序を決め、遣唐使はそれに従って乗船するのですが、はじめの渡海に失敗して命からがら引き返してきた遣唐大使藤原常嗣(つねつぐ)は、今回乗船する船を変えて第二船を第一船としたいと朝廷に訴えたのです。実はその第二船こそが、篁が乗船するはずであったものだったのです。はじめの渡海の時常嗣の乗船はもろくて難破してしまったのに、篁の乗った第二船だけが堅牢で難破を免れていたという状況であったことから、今回はその船に大使が乗りたいと申し出てきたのです。


(身勝手は許さない)


性格的に一直線な篁は、病と偽って乗船しないばかりかその上司の勝手な訴えを、「西海道の謡」という童謡(わざうた)(時事の風刺を謡ったもの)で批判したのです。


そのために嵯峨太上天皇の権威をも傷つけることになってしまって、篁の罪については、廷臣たちによって審査をされることになりました。


篁がどんな扱いになるかが判らないまま、遣唐使船は彼を排除して那の津から旅立ったのでした。


為政者はどう対処したのか


 その結末が、その年十二月十五日に出ました。


 審議を続けていた廷臣たちから、嵯峨太上天皇の意向も酌んだ結論として発表されました。


「遣唐副使小野篁は、天皇の命を受けて使人として外国へ向かったが、病と称して朝命に従わず留まったままである。律条を適用すれば絞刑に当たるが、死一等を降し、遠流に処することとして隠岐国に配流せよ」(続日本後紀)


 兎に角上司に背くということは、死罪にもなろうという大罪なのですが、それを救ったのは篁の妻紀子の父でした。藤原三守の力でした。実は篁は彼女を見染めた時、妻に欲しいと熱情溢れる書状を送って、三守を納得させて望みを達したのですが、その時の書状は当時の名文として、「本朝文粋」に収録されているほどです。それ以外にも彼は、友人を救うために給与を惜しみなく使ってしまって、貧乏暮らしをしたと伝えられるほど、誠実で清冽な生き方を貫く人でもあったのです。そんな人となりを知っていたのでしょうか、彼が事件を起こしたその年の正月にたまたま三守は右大臣になっていたこともあって、死罪を免れて配流ということで済んだのです。ところが彼には、


「性不羈(ふき)にして直言を好み、自ら持すること高くて世に受け入れられず、野狂とさえいわれた」


という大江正房評があるほどで、権力に物をいわせて曲がったことをいう者でもいれば、絶対に許せなくなる人だったというのです。それでも官人としての才能はずば抜けて優れていたために、文章生から始まって大内記、蔵人、式部少丞を経て、今上が即位して皇太子に恒貞親王が立てられると、東宮学士という高い地位に就いたのです。


現在三十七歳になってはいるのですが、平安京の民の中には時代の空気を率直に表現した彼に、思いを寄せる者は多かったようです。隠岐島へ送られる篁を見送ろうと、難波津にはかなりの人が集まりました。


 わたの原八十島かけて漕ぎいででぬと


人には告げよ海人のつり舟


(海人の釣舟よ伝えてくれ。篁は難波津から、瀬戸内の大小さまざまな島々を縫うように巡りながら、舟をこぎ出していったよと)


 篁については異色の伝説伝承の多い方でしたが、それを排除して実像を追うとこんなお話になるのです。


敢えてこのようなお話を取り上げたのは、ここまで自分に不利になると知りながら、徹底して自己主張したことについて、現代人はどう受け止められるのかということを問いかけてみたかったからです。


清廉潔白の身であるからこそ、従っておけば何事もなく済んだものを、どうしても我慢が出来ずに、おかしいと思うことは言ってしまう性格です。その為に不遇な思いも容赦なく襲いかかられてしまいます。現代を生きる若者であったら、率直に篁的に振る舞うか、それとも世渡り上手を発揮して、上司のいい加減には口を挟まずに済ましてしまうだろうか、大変興味があるところです。


 あなたはどこまで筋を通して訴え続けられるでしょうか。


 一時報道関係で「忖度(そんたく)」ということが話題になりましたが、篁はそれを拒否してしまったのです。上司の無理矢理な要求に対して、断固として抵抗したのでした。しかもその言動については、死罪となることもあるという決心でした。当時巷では「野狂」などといわれて揶揄されたのですが、現代では遣唐大使の横暴ぶりが焦点となるか、それとも篁の態度が立場を無視した要求になるのかが、争点となるでしょうが、どうも私は大使という立場を利用した常嗣の強引な姿勢は認められません。当時でも天皇の命を拒否したということで極刑が予想されたけれども、やはり遣唐大使という立場を利用した職権乱用だと批判する者がいたのでしょう。現代では篁の遣唐副使拒否には行き過ぎたところがあったかもしれないけれども、遣唐大使としての職権を乱用したとして常嗣の行為を責めることになるでしょう。


 まさに時代の差ですがこういうことでの庶民感情というものは、経殷時代であろうと現代であろうと、まったく変わらないものを感じます。筋道を通そうとした篁の姿勢に拍手したいと思います。


温故知新(up・to・date)でひと言


 こんなことがあった時に、世間での先人達だったら四字熟語を使って。どんなことを発表すでしょうね。多分剛毅木訥(ごうきぼくとつ)というものでしょうか。強い心と毅然たる態度で、しかも飾り気のない朴訥な人物であったことに間違いありません。変わった奴だと呆れられながら、「悲憤慷慨(ひふんこうがい)して、社会の不義や不正を憤って嘆いたのです。それが如何に正当な主張であったかは、手には何の武器も持たない「赤手空拳(せきしゅくうけん)であったのです。民が送った拍手喝采の大きさでお判りになるでしょう。果たしてあなたは篁の行為を、どう受け止めるでしょうか。


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