「嵯峨天皇現代を斬る」「参考図書」 [趣味・カルチャー]
「日本書紀」上(中央公論社)
「日本書記」山田英雄(教育社)
「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)
「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)
「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)
「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)
「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)
「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)
「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)
「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)
「女官通解 新訂」浅井虎夫 (講談社学術文庫)
「官職要解 新訂」和田英松 (講談社学術文庫)
「古今著聞集」日本古典文学大系 (岩波書店)
「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)
「四字熟語の辞典」真藤建志郎 (日本実業出版社)
「四字熟語辞典」田部井文雄編 (大修館書店)
「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所 (三省堂)
「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)
「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)
「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)
「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書
房)
「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)
「遣唐使全航海」上田雄(草思社)
「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)
「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)
「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)
「壬申の乱」(新人物往来社)
「日本の歴史 2」古代国家の成立 直木孝次郎(中央公論社)
「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)
「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)
「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)
「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)
「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)
「大覚寺文書」(上)大覚寺資料編集室(大覚寺)
「大覚寺」山折哲雄(淡交社)
「宇治拾遺物語」日本古典文学大系
「続日本紀」(臨川書店)
「新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)
「大覚寺 人と歴史」村岡空(朱鷺書房)波書店)
☆雑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言22 [趣味・カルチャー]
「虫がいい」
わたしたちの日常会話の中で、わりによく使われる言葉に「あいつは虫が好かない」とか、「あいつは虫が良すぎる」とか、「どうもあいつの言い分には腹の虫が収まらない」「あいつと出会うとどうも虫酸が走る」などと使われることがあって、どうも私たちは気が付かないうちに何匹もの虫を腹の中に飼っているらしいのですが、時には思いがけないことが起こった時など、「どうもよくないことが起こりそうな虫の知らせがあったのだ」とかどうも原因のはっきりとしないような心理的な表現に、「虫」というようなものの存在を考えたのかもしれません。世の中のさまざまな出来事に関しても、「どうもあの政治判断の結果を見ていると、どうしても腹の虫が収まらない」などとも使われます。
私たちの先人は、なぜか判らないことに対する心理的な受け取り方の表現に、見たこともない不思議な「虫」がいるのではないかと考え出したようです。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の六 [趣味・カルチャー]
第七章「非情な現世を覚悟するために」(六)
為政者の課題・「国に上中下あり」
国を率いていくには、何といって古代の代表的な法律である「律令」によって決められている、租、調、庸、雑徭などという税を駆使して、運営していかなくてはなりませんでしたが・・・。
為政者・仁明天皇
天長十年(八三三)五月十一日のこと
発生した問題とは
二月に淳和天皇の体調が優れないことから、嵯峨太上天皇の御子である、皇太子の正良親王に譲位して仁明天皇としました。新天皇は直ちに淳和太上天皇の御子である恒貞親王を皇太子として、政庁を率いることになったのですが、「律令」では生産物の多少によって、日本各国を上中下に仕分けしているのですが、たちまち五月になると武蔵国から次のような訴えがあったのです。
「武蔵国は管内が広く、国内を旅行するに際し困難が多く、公私の旅行で飢病に陥る者が多数に上ります。そこで、多磨・入間両郡の郡境に悲田院を置き、五軒の屋舎建て、介従五位下当宗宿祢家主以下、少目従七位大丘秋主以上の六人がそれぞれの公廨(俸禄)を割いて、食料の原資とすることを企画しました。割いた公廨分は帳簿に登載して出挙(利息付貸付)し、その利息を充用することとし、以後は弘仁の国司が引き継ぎ、多用は認めないようにしたいと思います」(続日本後紀)
もちろんその申し入れは認められましたが、間もなく天皇は病にかかってしまいます。しかし天皇は次のようなことをおっしゃいました。
「大和国が『年来穀物が稔らず、規定の公出挙稲(利息を公用にあてる貸付稲)にも欠ける始末ですので、弘仁十年官符に倣い、国内の裕福な人の稲三万八千束を借り上げ、飢民の生活の資にしたいと思います』と言上してきたので、許可し次のように徴した。富豪の畜稲は、貧者の資けとなるものである。聞くところによると先般以来お子馴れているところをみると、役人はそれに相応しくなく、ただ富豪の稲を刈り上げることに務めるのみで、救済に心がけず、このため貧・富共に疲弊しているという。乏絶している者を救済する態勢維持のために、秋の収穫期に到ったならば、特別に使人を遣わして、借用されている稲をすべて返済させよ」(続日本後紀)
為政者はどう対処したのか
ところがその二日後のこと、京および五畿内・七道諸国がみな飢饉となり、天皇は直ちに次のように指示をされた。
「ひとたび穀物が不足すれば、百姓は不満を抱くものなので、必ず窮乏の者を救済するという原則に従い、併せて勧農を行うことにする。これは病む者を救い、国家の基礎を固め、民の生活を安定させることである。時々に沿革はあっても、これを目的にしている。朕は慎んで天命を受けて人民を労り、世を和平にする方策を立て、仁徳が行き渡り、人々が長命を享受できるようにしたいと思っているが、聞くところによると、昨年は昨年は穀物がはなはだ稔らず、民は飢え、病になっているという。朕は支配者として、臨みながら、民を安らかにすることが出来ていない。静かにこのことを思うと、憮然たるの気持ちの止むことがない。ここに暑季が始まり作物が繁茂する時期に当たり、人民を憐れむ気持ちが無ければ、恐らくは努力が足りないことになろう。京および、畿内・七道諸国の飢民に対して物を恵み与え、その生活を支え済うことができるようにせよ。ことは国司に委ねるので、充分に考慮し、努めて恵みが行き渡るようにし、朕の意とするところに沿うようにせよ(続日本後紀)
しかし現代の県に等しい国によって分かれていて、それぞれはそれぞれの問題を抱えながら、それぞれの知恵を絞って生き残らなくてはなりません。そんな中で山林しか資源がないという、貧しい国が飛騨でした。政庁では国家を支える重大な財力となるものを持っているかどうかということで、国を上中下に分けていたのですが、飛騨はその中でも、ほとんど資源を持っていない国だったので、下下の下国と蔑まれていたのです。それほど貧しい国として捉えられていたのですが、そこに住む者たちは、資源が森林しかない、生きることすら困難な環境と戦いながら、やがて彼らはその貧しい土地から生きる知恵を生み出したのです。
朝廷が祖・調・庸・という税収の目安としていた、国別の
格差を次のような表を作っていました。
大国 大和 河内 伊勢 武蔵 上総 下総 常陸 近江
上野 陸奥 越前 播磨 肥後
上国 山城 摂津 尾張 参河 遠江 駿河 甲斐 相模
美濃 信濃 下野 出羽 加賀 越中 越後 丹波
但馬 因幡 伯耆 出雲 美作 備前 備中 備後
安芸 周防 紀伊 阿波 讃岐 伊予 筑前 筑後
豊前 豊後 肥前
中国 安房 若狭 能登 佐渡 丹後 石見 長門 土佐
日向大隅 薩摩
下国 和泉 伊賀 志摩 伊豆 飛騨 隠岐
この中から飛騨は「下下(げげ)の下国(げこく)」と蔑まれていたほどで、森林以外に暮らしの術を持たない民は、仁徳天皇の時代に地元の有力者であった両面宿儺という怪人を押し立てて、朝廷軍と戦ったことがあったほどですが、やがてその森林しかない土地であることを逆手にとって、生きる手立てを見つけて知恵を磨き始めたのです。
こんなお話を現代の問題として取り上げたのは、それなりに意味があります。
国によって税の比率が違うことが第三章「時代の変化に耐えるために」「その三の六」の「遣唐大使の要求に小野篁拒否」の文書の記録の中に、その税率の実例が書かれています。どうぞご覧になって下さい。
温故知新(up・to・date)でひと言
飛騨国の者は周辺にいくらでもある森林を使って、交錯する知恵と技術を磨き、飛騨の匠として飛鳥の都へ出て行くようになり、朝廷が立ち上げる皇室の宮殿建設に携わるようになり、その技術が認められるようになり、弥陀の匠としての特異さが認められるようになり、飛鳥から奈良に向けて、都へ出て特別な技術者として朝廷に採用されて宮殿建設に重用されるようになったのでした。敢えてこのようなことを取り上げたのには、それなりに意味があります。貧しい環境であるために、その貧しさを活かして樹林を活かした技術を身に付けていったということを知って頂きたいのです。
現代の人々は、困ったことがあれば直ぐにインターネットで検索をしてしまいますし、簡単に答えを手に入れて満足してしまいます。それはそれなりに意味はあるのですが、その簡便さのためにそれぞれの人が、それぞれ独自のアイデアを生み出すことが出来なくなってしまっているのです。ちょっと前まではいろいろな時に知恵を出して問題を解決してしまう人のことを、引出しの多い人として評価をされるし、尊敬されました。みな同じ知恵を共有することも作業を進める上では役に立ちますが、それでは結局それ以上の結果を生みだせません。その人なりの知恵の引き出しを沢山持っていることが勝負の分かれ目となります。さまざまな国から、下下の下刻などと蔑まれていた飛騨から、飛騨の匠をという特異な人々が誕生させたには、その貧しい環境である原点であった、樹林しかないという弱点を長所に変えていってしまった智慧の勝利だと思うのです。何でも都会へ出ていかなくては成功しないという偏見は捨ててみましょう。古来「桂玉之艱」ということが云われます。きわめて物価の高い都会生活をしたり、学校へ通ったりすると、却って苦しむということです。たしかにそんな要素がありますが、育ったところの環境を思い、その環境を活かして、他の人にはない知恵を磨いてみませんか。それがきっかけで、立身出世して都会で尊重される技が活かされて、再び生まれ故郷へ帰ることもできます。まさに「衣錦還郷」ということです。飛騨の者たちは生まれた土地の貧しさ、不自由を逆手にとって、生きる知恵を身に付けて、飛騨の匠という特異な技術者としての地位を確立したのです。都でも尊重されました。まさに生きるものは環境に最も適した者が生き残り、そうでない者は滅びるということを表した「適者生存」という言葉の証明をするかのように、古代の飛騨国は存在したかのように思えてきます。この機会に、もう一度身の回りの環境が活かせないかどうかを考えてみてはどうでしょうか。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑22 [趣味・カルチャー]
「烏の行水」
一般に小鳥は羽をパタパタとやると水のところから飛び立ってしまいます。
かつて母親などから、早くお風呂に入ってからご飯にしましょうという時などに、「烏の行水でいいから、さっとひと風呂浴びてらっしゃい。烏の行水、烏の行水」などとよく日常の会話の中で耳にした言葉ですが、つい最近のことなのですが、思いがけないことであの「烏の行水」を聞かされてしまったのです。
つい最近になって、足のふくらはぎに、赤い斑点状のものがいくつも現れてしまったので、近くで予約を取るのも大変といわれる皮膚科の医院へ行って診ることにしました。
私の話を聞いた上で、現在現れているところの様子を見ていらっしゃった先生は、「これは乾燥肌ですとおっしゃいました」高齢者にかかる方が多いんですということでした。そして半身浴をして新聞を読むのを楽しみにしていますという私の告白を聞いていた先生は、
「それも原因の一つです。これからは烏の行水にして下さい」
あっさり宣告をしてこられたのでした。
私にとっての楽しみであった夕方のルーテインは、あっさりと禁止ということになってしまったのでした。
それにしても小さなときに母が口にしていた「烏の行水」を皮膚科の先生に言われてしまったのでした。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の五 [趣味・カルチャー]
第八章「説得力のある訴えをするために」(一)
為政者の課題・「税金のあり方」
平城京を支配する人脈の複雑さから抜け出して、やっと長岡京へ脱出してきた桓武天皇は、厳しい財政事情をよく知っておりました。
政庁を支えていくためには、何といっても税というものを無視するわけにはいきません。しかしそれを収める側にある人は、それが国を支えていく基本であることは充分に理解をしているのですが、出来れば収めずに済めばそれに越したことはないと思うものです。しかし税金というものはそこで生きる者が、安心して暮らせることが出来るように、政治、文化、経済、福祉などを充実させる基本的な資金となるものです。
これは古代も現代もないように思われます。
天皇は新天地を活動の拠点とするために腐心していました。
「朕は天下に君主として臨んで、人民を慈しみ育んできたが、官民ともに疲れ衰えて、朕は誠に心配している。ここに宮殿の造営などを中止して農業につとめ、政治は倹約をこころがけて行い、財物が鞍に満ちるようにしたい。今、宮の住居は住むのに十分であるし、調度品も不足していない。また寺院の造営も終了した。貨幣の流通量も増え、銭の価値がすでに下がっている。そこで造営者(宮城の造営修理を司る)と、勅旨省(宣旨の伝達と皇室用品調達を司る)の二省と造法花寺司(法華寺造営とを司る)と鋳銭司の両司を止めることにする。それで庫の宝をふやし無駄を省いた簡易の政治を尊ぶようにしたい。ただし、造宮省と勅旨省の各種の技術者はその能力によって木工寮・内蔵寮などに配属し、余ったものはそれぞれ配属以前の基の役所に還せ」(続日本紀)
為政者・桓武天皇
延暦四年(七八四)七月二十四日のこと
発生した問題とは
それから間もなくのことです。山背国が訴えてきたのです。
「食の兵士は庸を免じられて調を出しています。左右両京の兵士に至っては、またその調も免じられています。ところが今、畿内の国の兵士はこれまで優遇されることがなくて、苦楽がびょうどうではありません。どうか京職の兵士と同じく、その調を免除して頂くようにお願いいたします」(続日本紀)
天皇はその訴えについて、畿内の兵士の調を免じました。
ところが陸奥国ではこの頃兵乱があって、奥郡の民はそれぞれの村落にまだ集まって来ていない。それで天皇は指示してまた租税三年間の免除を与えた。
政庁の基礎固めをしているところであったのに、天皇を困らせたのは、陸奥国・出羽国の問題でした。
「蝦夷は平城の世を乱して王命に従わないことがまだ止まない。追えば鳥のように散り去り、捨てておけば蟻のように群がる。なすべきことは兵卒を訓練し教育して、蝦夷の侵略に備えるべきである。今聞くところによると、坂東諸国の民は、軍役がある場合、つねに多くは虚弱でまったく戦闘に堪えられないという。ところで、雑色(多種の業務担当の下級役人)の者や、浮浪人のたぐいには弓や乗馬に慣れている物、あるいは戦闘に堪える者があるのに、兵を挑発することがある度に今まで一度も指名していない。同じ皇民であるというのにどうしてこのようなことがあってよいであろうか。坂東八国に命じて、その国の散位の子・郡司の子弟および浮浪人の類で、身体が軍士に堪える者を選び鳥、国の大小によって一千以下五百以上の者に、もっぱら無事の使い方を習わせ、それぞれに郡員としての装備を準備させ四。そして役人となる資格のある人となる資格のある人には便宜を加えて当国で勤務評定を与え、無位の公民には搖を免ぜよ。そこで、職務に堪能な国司一人に命じて専門にこれを担当処理させよ。もし非情の事があれば、すぐさまこれら軍士を統率して、現地へ急行し、古都の報告をせよ」(続日本紀)
実に様々な指示もおこなわなくてはなりませんでした。
新しい京として起訴を固めていかなくてはまらない天皇の気持ちは複雑です。
「そもそも正税とは国家の資本であり、水害や旱魃への備えである。しかし近年、国司の中には一時逃れに利潤を貪って、正税を消費し用いる者が多い。官物が減少して米蔵が満たない主な原因である。今後は厳しく禁止せよ。国司の中で、もし一人でも正税を犯し用いる者があれば、その他の国司も同様に罪に問い、共に現職を解任して長く任用してはならない。罪を犯して不正に得た物品もともに返納させよ。死罪を放免したり、恩赦を受ける範囲に入れてはならない。国司たちは相互に検察し、違反を起こしてはならない。また郡司が国司に同調して許すのも、国司と同罪にする」(続日本紀)
天皇は即位してから五年にもなり、環境も人間関係もそこで暮らすには、平城京ではさまざまなしがらみがあって住みにくいことから、決心して長岡京へ遷都してきたのです。
「諸国が納めることになっている庸や調、その他年間に計画を立てて納めることになっている物品はいつも未納があつて、いずれも国家の用途に不足をきたしている。その弊害はすでに深刻である。これは国司や郡司が互いに職務を怠っているのが原因である。ついには物資を民間に横流しし、そのために官の倉は欠乏しているという。また、民を治めることに関しても、多くは朝廷の委任した趣旨に背いている。私欲なくて公平で職務に適う者は百人に一人もいない。その者の行状を調べ、事柄に応じて降位させたり辞めさせたりせよ。担当の者は詳しく行いの是非善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するようにせよ」(続日本紀)
税をまともに払わない者がいる上に、職務を怠って徴収することを怠っている者がいるというのです。
為政者はどう対処したのか
こんなことをおっしゃったのには理由があるのです。
長岡京への遷都はしたものの、為政者として現実の問題と取り組まなくてはなりません。
まだまだ政庁の基礎を固めるには、様々な問題に取り組まなくてはなりません。
先帝は延暦四年(七八五)五月に詔を発して、臣民の気持ちを引き締めたことを思い出したのです。
「この度遠江国から進上された調・庸は、品質が悪く、汚れていて、官用に堪えられなかった。およそ近年の諸国の貢進物は粗悪で、多くは使用に当たらない。その状況を他に比べ量って、法律により罪を科すべきである。今後このようなことがあれば、担当の国司の現職を解任し、永く任用しないことにする。その他の官司は等級をつけて罪を科せ。またその国の郡司も処罰して、現職を解任して、その系譜を断絶せよ」(続日本紀)
しかしその命令がきちんと行われていないのではないかという心配が出て来たのです。天皇はそうした先の指示に付け加えて、
「その政務が評判になり、執務態度が悪くならない者は、
はっきり記録してほまれある地位に抜擢せよ。担当の宮司は詳しく行いの是非善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するように」(続日本紀)
と命じたのでした。
そこで太政官たちは為政の上での目標を決めた上で、次のような者が出たら、直ちにその役職を外すという厳しい九か条の厳しい規律を打ち出したのでした。
つい最近土佐国から貢納された調は、その時期が誤っており、物品も粗悪であった。
天皇は五年の二月には厳しい指示をいたしました。
一つ、官職にあって欲が深く心が汚れ、事を処理するのに
公平でない。
一つ、ほしいままに悪賢いことを行って、名誉を求める。
一つ、狩の遊びに限度がなく、人民の生活を見出し騒がせ
る。
一つ、酒を好んで溺れ、公務を怠る。
一つ、公務に節度があるという評判がなく、ひそかに私門
を訪れる人の頼みごとをうける不正が日ごとに多
くなる。
一つ、子弟をわがままにさせ、邪な人のもってくる勝手な
請託を公然と受け付ける。
一つ、逃亡して失踪する者の数が多く、捕えた人数が少な
い。
一つ、兵隊の統率法を誤り、守備兵が命令に違反する。
(続日本紀)
こんな話題を現代の問題として取り上げたのは、それなりに大事な提起になると考えたからでした。
税金というものはそこで生きる者が、安心して暮らせることが出来るように、政治、文化、経済、福祉などを充実させる基本的な資金となるものです。その国を動かすための原資となる税をきちんと自発的に収めないことも困るのですが、それを守るように指導する立場の者には、それなりの責任があるはずです。仕事に力を尽くし、勢力を傾注して励むという姿勢が大事です。
温故知新(up・to・date)
昔から「精励恪勤」という言葉があります。職務に忠実であって欲しいのですが、被支配者に対して過酷な指示をするばかりでは、目的を果たすことは難しいでしょう。そのために現代の問題としていわれる、燃え尽き症候群などにはならないで欲しいものです。もちろん国民のほうの心得としてもこんな言葉があります。量入制出といって、収入を計算して、それから支出を計上する健全財政の心構えが必要です。きちんと税金が払えるように心がけましょう。大盤振る舞いが好きだと言っても「飲醼贈遺」という、人を接待して振る舞ったり、物を贈ったりすることには、分相応なようにするべきです。酒食をご馳走したり贈り物をしたりするのは、収入に見合った状態に留めておいて下さい。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言21 [趣味・カルチャー]
「シュンのもの」
「目に青葉山ホトトギス初ガツオ」
季節が来ると必ずと言っていいほど目に入るキャッチフレーズです。
昔から初ものを食べると七十五日は長生きするということが言え荒れていましたが、江戸の町民たちは無理をして高いのを承知の上でカツオの走りを賞味したらしいようですね。
カツオに限らず、魚、野菜、果物などは、それぞれ出回る時期がありますが、その時は確かにおいしいものです。この「シュン」という言葉の語源は「旬」だといわれています。この意味を調べると。「十日」ということ
になるそうです。つまり「時期」とか「時」という意味もあるようですが、
最近はいつが旬なのかがはっきり判らなくなってしまっているものもおおくなってきていますね。その代表は「イチゴ」です。本来は夏が近づく頃のものでしたが、今では一年中お店に出ています。
食べ物で季節の変化を知らされていた現代人・・・特に都会の人も次第に季節感がなくなってしまったのでしょうか。
一寸寂しい気がしないわけではありません。
科学の進化で、次第に便利であることの恩恵にはあずかっているのですが、その分次第に季節の変わっていく時の、自然が微妙に移り変わってく姿を楽しめるという感性を、失いつつあるのではないかと思うと残念でなりません。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の四 [趣味・カルチャー]
第七章「非情な現世を覚悟するために」(四)
為政者の課題・「国に上中下あり」
国を率いていくには、何といって古代の代表的な法律である「律令」によって決められている、租、調、庸、雑徭などという税を駆使して、運営していかなくてはなりませんでしたが・・・。
現代では路線価税という税金があって、その時その時の評価によって課税される額が変わっていくものがあります。毎年日本一の高い路線価税ということでは、マスコミで評判となる東京銀座の交差点近くの土地が話題になっていますが、古代ではその土地ということではなく、その国の経済状態・・・つまりどういった生産物があるのかということが判断材料になって、はっきりと差別が行われていました。
それが今回のお話です。
為政者・仁明天皇
天長十年(八三三)五月十一日のこと
発生した問題とは
この国によって差別が決められた「律令」というのは、
飛鳥浄御原律令というものがはじまりで、やがてそれにこまかな法例も決められて、桓武天皇の時代になって830年頃に律・令・挌・式という四大法典が整備されたといわれていますが、これに背くと死を覚悟しなくてはならないというので、大変な存在感のあるものでした。
そんなことから、古来「急急如律令」と書かれたお札を玄関に貼って、魔除けにした地方もあるくらいです。
二月に淳和天皇の体調が優れないことから、嵯峨太上天皇の御子である、皇太子の正良親王に譲位して仁明天皇としたのですが、新天皇は直ちに淳和太上天皇の御子である恒貞親王を皇太子として、政庁を率いることになりましたが、天皇はまず「律令」によって、生産物の多少によって日本各国を上中下に仕分けしてあるのを参考にして運用していくことにしたのでした。ところがたちまち五月になると、武蔵国から次のような訴えがあったのです。
「武蔵国は管内が広く、国内を旅行するに際し困難が多く、公私の旅行で飢病に陥る者が多数に上ります。そこで、多磨・入間両郡の郡境に悲田院を置き、五軒の屋舎建て、介従五位下当宗宿祢家主以下、少目従七位大丘秋主以上の六人がそれぞれの公廨(俸禄)を割いて、食料の原資とすることを企画しました。割いた公廨分は帳簿に登載して出挙(利息付貸付)し、その利息を充用することとし、以後は弘仁の国司が引き継ぎ、多用は認めないようにしたいと思います」(続日本後紀)
もちろんその申し入れは認められましたが、間もなく天皇は病にかかってしまいます。しかし天皇は次のようなことをおっしゃいました。
「大和国が『年来穀物が稔らず、規定の公出挙稲(利息を公用にあてる貸付稲)にも欠ける始末ですので、弘仁十年官符に倣い、国内の裕福な人の稲三万八千束を借り上げ、飢民の生活の資にしたいと思います』と言上してきたので、許可し次のように徴した。富豪の畜稲は、貧者の資けとなるものである。聞くところによると先般以来お子馴れているところをみると、役人はそれに相応しくなく、ただ富豪の稲を刈り上げることに務めるのみで、救済に心がけず、このため貧・富共に疲弊しているという。乏絶している者を救済する態勢維持のために、秋の収穫期に到ったならば、特別に使人を遣わして、借用されている稲をすべて返済させよ」(続日本後紀)
為政者はどう対処したのか
ところがその二日後のこと、京および五畿内・七道諸国がみな飢饉となり、天皇は直ちに次のように指示をされた。
「ひとたび穀物が不足すれば、百姓は不満を抱くものなので、必ず窮乏の者を救済するという原則に従い、併せて勧農を行うことにする。これは病む者を救い、国家の基礎を固め、民の生活を安定させることである。時々に沿革はあっても、これを目的にしている。朕は慎んで天命を受けて人民を労り、世を和平にする方策を立て、仁徳が行き渡り、人々が長命を享受できるようにしたいと思っているが、聞くところによると、昨年は昨年は穀物がはなはだ稔らず、民は飢え、病になっているという。朕は支配者として、臨みながら、民を安らかにすることが出来ていない。静かにこのことを思うと、憮然たるの気持ちの止むことがない。ここに暑季が始まり作物が繁茂する時期に当たり、人民を憐れむ気持ちが無ければ、恐らくは努力が足りないことになろう。京および、畿内・七道諸国の飢民に対して物を恵み与え、その生活を支え済うことができるようにせよ。ことは国司に委ねるので、充分に考慮し、努めて恵みが行き渡るようにし、朕の意とするところに沿うようにせよ(続日本後紀)
しかし現代の県に等しい国によって分かれていて、それぞれはそれぞれの問題を抱えながら、それぞれの知恵を絞って生き残らなくてはなりません。そんな中で山林しか資源がないという、貧しい国が飛騨でした。政庁では国家を支える重大な財力となるものを持っているかどうかということで、国を上中下に分けていたのですが、飛騨はその中でも、ほとんど資源を持っていない国だったので、下下の下国と蔑まれていたのです。それほど貧しい国として捉えられていたのですが、そこに住む者たちは、資源が森林しかない、生きることすら困難な環境と戦いながら、やがて彼らはその貧しい土地から生きる知恵を生み出したのです。
朝廷が祖・調・庸・という税収の目安としていた、国別の格差を次のような表を作っていました。
大国
大和 河内 伊勢 武蔵 上総 下総 常陸 近江 上野 陸奥 越前 播磨 肥後
上国
山城 摂津 尾張 参河 遠江 駿河 甲斐 相模 美濃 信濃 下野 出羽 加賀 越中 越後 丹波
但馬 因幡 伯耆 出雲 美作 備前 備中 備後
安芸 周防 紀伊 阿波 讃岐 伊予 筑前 筑後
豊前 豊後 肥前
中国
安房 若狭 能登 佐渡 丹後 石見 長門 土佐 日向大隅 薩摩
下国
和泉 伊賀 志摩 伊豆 飛騨 隠岐
この中から飛騨は「下下の下国」と蔑まれていたほどで、森林以外に暮らしの術を持たない民は、仁徳天皇の時代に地元の有力者であった両面宿儺という怪人を押し立てて、朝廷軍と戦ったことがあったほどですが、やがてその森林しかない土地であることを逆手にとって、生きる手立てを見つけて知恵を磨き始めたのです。
こんなお話を現代の問題として取り上げたのは、それなりに意味があります。
国によって税の比率が違うことが第三章「時代の変化に耐えるために」「その三の六」の「遣唐大使の要求に小野篁拒否」の文書の記録の中に、その税率の実例が書かれています。どうぞご覧になって下さい。
温故知新(up・to・date)でひと言
飛騨国の者は周辺にいくらでもある森林を使って、交錯する知恵と技術を磨き、飛騨の匠として飛鳥の都へ出て行くようになり、朝廷が立ち上げる皇室の宮殿建設に携わるようになり、その技術が認められるようになり、弥陀の匠としての特異さが認められるようになり、飛鳥から奈良に向けて、都へ出て特別な技術者として朝廷に採用されて宮殿建設に重用されるようになったのでした。敢えてこのようなことを取り上げたのには、それなりに意味があります。貧しい環境であるために、その貧しさを活かして樹林を活かした技術を身に付けていったということを知って頂きたいのです。
現代の人々は、困ったことがあれば直ぐにインターネットで検索をしてしまいますし、簡単に答えを手に入れて満足してしまいます。それはそれなりに意味はあるのですが、その簡便さのためにそれぞれの人が、それぞれ独自のアイデアを生み出すことが出来なくなってしまっているのです。ちょっと前まではいろいろな時に知恵を出して問題を解決してしまう人のことを、引出しの多い人として評価をされるし、尊敬されました。みな同じ知恵を共有することも作業を進める上では役に立ちますが、それでは結局それ以上の結果を生みだせません。その人なりの知恵の引き出しを沢山持っていることが勝負の分かれ目となります。さまざまな国から、下下の下国などと蔑まれていた飛騨から、飛騨の匠をという特異な人々が誕生させたには、その貧しい環境である原点であった、樹林しかないという弱点を長所に変えていってしまった智慧の勝利だと思うのです。何でも都会へ出ていかなくては成功しないという偏見は捨ててみましょう。古来「桂玉之艱」ということが云われます。きわめて物価の高い都会生活をしたり、学校へ通ったりすると、却って苦しむということです。たしかにそんな要素がありますが、育ったところの環境を思い、その環境を活かして、他の人にはない知恵を磨いてみませんか。それがきっかけで、立身出世して都会で尊重される技が活かされて、再び生まれ故郷へ帰ることもできます。まさに「衣錦還郷」ということです。飛騨の者たちは生まれた土地の貧しさ、不自由を逆手にとって、生きる知恵を身に付けて、飛騨の匠という特異な技術者としての地位を確立したのです。都でも尊重されました。まさに生きるものは環境に最も適した者が生き残り、そうでない者は滅びるということを表した「適者生存」という言葉の証明をするかのように、古代の飛騨国は存在したかのように思えてきます。この機会に、もう一度身の回りの環境が活かせないかどうかを考えてみてはどうでしょうか。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑21 [趣味・カルチャー]
「烏の行水」
一般に小鳥は羽をパタパタとやると水のところから飛び立ってしまいます。
かつて母親などから、早くお風呂に入ってからご飯にしましょうという時などに、「烏の行水でいいから、さっとひと風呂浴びてらっしゃい。烏の行水、烏の行水」などとよく日常の会話の中で耳にした言葉ですが、つい最近のことなのですが、思いがけないことであの「烏の行水」を聞かされてしまったのです。
つい最近になって、足のふくらはぎに、赤い斑点状のものがいくつも現れてしまったので、近くで予約を取るのも大変といわれる皮膚科の医院へ行って診ることにしました。
私の話を聞いた上で、現在現れているところの様子を見ていらっしゃった先生は、「これは乾燥肌ですとおっしゃいました」高齢者にかかる方が多いんですということでした。そして半身浴をして新聞を読むのを楽しみにしていますという私の告白を聞いていた先生は、
「それも原因の一つです。これからは烏の行水にして下さい」
あっさり宣告をしてこられたのでした。
私にとっての楽しみであった夕方のルーテインは、あっさりと禁止ということになってしまったのでした。
それにしても小さなときに母が口にしていた「烏の行水」を皮膚科の先生に言われてしまったのでした。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の三 [趣味・カルチャー]
第七章「非情な現世を覚悟するために」(三)
為政者の課題・「老人・孤独人・寡婦への救済」
弘仁五年(八一四)になると、嵯峨天皇もかなりその異色ぶりを発揮していらっしゃるのですが、兎に角これまでの政庁の主導者は大変権力志向の強い存在であったのですが、今回は大胆に自らの親族に対して臣籍降下をしてしまうというという決断をされました。
そんなこともあって心身ともにお疲れになったのでしょう。六月にはお疲れになって、体調を崩してしまったりいたします。天皇はこれまでと違って、かなり民に対する気づかいをされる方でしたのですが、その方が厳しく管理をすることが出来ないということが判ってしまうと、その
政庁の行う救済処置を悪用して、貧しく困窮しているということを装う不埒な者も出てきます。
どうも悪の種というものは、K古代も現代もありませんね。折角の政庁の配慮で、欠損を生じた庶民の日常生活を補助しようと、様々な形で援助する施策を打ち出しているのですが、どうもそれを悪用する者が、跡を断ちません。
そんなある日のこと、右大臣藤原園人は、こんなことを進言してきました。
「去る大同二年に正月七日・十六日のせつを停止し、同三年には三月三日の説を停止しました。これは出費を抑制するため得下が、現在、正月の二節は復活し九月九日の説は三月三日節に準じては医師、復活しています。去る弘仁三年からはこれに花宴が加わり、延暦の頃と比較すると、花宴が一つふえ、大同のころに比べると復興して四節が行われていることになります。これらの節での禄支給により、官庫の貯えが尽きていますので、伏して、九月九日は節会とせず、臨時に文章に優れた者を選び、所司に通知して作詞させることを要望いたします。願わくば、節録支給を取り止め、大蔵の官庫の減損しませんことを」(日本後記)
更にその人はこうも申し上げました。
「去る延暦十年に天皇が交野に行幸しましたが、この時畿内国司による献物を禁止しました。しかし、年来この禁止令は守られていません。国郡の官人は必ずしも相応しい人物ではなく、貢献にかこつけてかえって百姓に負担をかけ、穏やかでないとの批判が止みません。伏して、今後一切貢献を禁止することを要望します。ただし、臣下が個人として供進することは禁止する必要がありません」(日本後記紀)
そのいずれも許可されました。
天災による被害がかなり広がっていて、そのための国の財政もかなり苦しくなっているようです。しかし本当に救済しなければならない人は救わなくてはなりません。
為政者・嵯峨天皇
弘仁五年(八一四)八月二十九日のこと
発生した問題とは
天皇は神祇官の勧めによって鴨川で禊を行ったりされるのですが、それでも七月にはまた天災に襲われたりするのです。
「六年ごとに班田することは、令条(田令)で定められている。これより六年間隔で、諸国が一律に班田すべきであるが、大同以来疾疫が起るなどして、規定通りの班田ができなくなっている国が多い。通法の感点から、あってはならないことである。そこで、遅れて班田した国が六年の間隔を充たすのを待って、全国で一律に校田と班田を行え」(日本後紀)
天皇は指示をしていらっしゃるのですが、この前にはすでに自らの身を斬る決心で、御子たちの臣籍降下などの決心を発表した後での政庁での指示です。天皇は更に、
「近江、丹波などの諸国では、年来旱害が頻発して稼苗が損害を被っている。禍福は必ず国司によることが判るので、今後日照りとなったら国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、狎れ汚すことのないようにせよ」(日本後紀)
唐国では大変貞節な夫人が、無実の罪で処刑された後、旱魃に悩まされてしまうのですが、能吏百里崇が旱天の徐州の刺史(中国の地方官)になると、甘雨(よき雨)が降ったと伝えられています。
禍福は必ず国司の人となりによると、天皇は唐国の史実を挙げながら、今後日照りとなったら、国司は潔斎してよき降雨を祈願して、暮らしを厳重に慎み、狎れ汚すことのないようにせよと、地方の官人の心構えについて戒めたりなさいました。
「朕は謹んで皇位に就き、天皇としての事業を引き継ぎ正務に励んで年月をへた。身は宮中にあっても、心は広く人民のことを思っている。七つの政治のよりどころ整えて、水旱の災害がなく、国司を励まして、仁徳と長寿の喜びが得られることを願ってきた。ところが年末春耕が始まり、開花の時期を待って、有難い雨が降り、秋には稲穂が垂れて、収穫しきれず、畝の間に穀物を残しているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修善をしてくれた結果である。朕はこの喜ばしい賜物を得たことで、神々に真心を捧げ、豊作を喜んで天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで、国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧尼、および六十一歳以上の老人、鰥(夫を亡くした女)・寡(独り者)・孤(孤独で自活不能者な者)などの自活不能者の様子によって、あまねく物を支給することに心がけよ」(日本後紀)
為政者はどう対処したのか
百姓が苦しいといっているのに、為政を行う者が、それを無視することはできないと考えられた帝は、左右京と畿内の今年の田租は、停止すると命じられるのですが、天候は不安定で、日照りが続いて難渋させられたかと思うと、今度は真逆に長雨がつづくようなことが起ってしまいます。帝はその度に伊勢の神、賀茂の神に使者を送って奉幣して安穏を祈りました。
「朕は謹んで皇位に即き、天皇としての事業を引き継ぎ、政務に励んで年月を経た。身は宮中にあっても、心は広く人民のことを思っている。七政(七つの政治の拠り所)を整えて水旱の災害がなく、九農(古代中国の農業に関係する九つの官職。ただし、ここは国司)を励まして仁寿(仁徳と長寿)の喜びが得られ年来春耕が始まり、開花の時期を待ってありがたい雨が降り、秋には稲穂が垂れて、収穫しきれず、畝間に穀物をのこしているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修善をしてくれた。結果である。朕はこの喜ばしい贈り物を得たことで、神々に真心を捧げ、豊作を喜んで天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで、国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧侶及び六十一歳以上の老人、鰥・寡・孤・独で自活不能者に等級をつけて物を施給せよ。あまねく支給することに心がけよ。そして、朕の意を称えさせよ」(日本後紀)
まだ即位してから五年というわずかな治世でしかありませんが、先帝とは違った為政の在り方というものを印象づけたくても、まだまだ何もかも整理しきれないことばかりです。国を統治する者としての課題も、あまりにも多い状態でした。まさにこれは現代的な課題でもあります。
右大臣藤原園人が次のような進言をいたしました。
「諸国が収納する官物については、納置する倉の種類・名称を詳しく正税調に記載することになっていますが、国司は必ずしも適任者ではなく、国府に近い便郡の稲は俸禄である公廨に充当し、百姓に出挙する稲には遠郡のものを充てています。このため遠郡の倉はありあまるほどとなり、交替の際には、遠郡と便郡の稲を通計することを行っています。このような事例は、出雲国に多く見られます。もし甲郡に貯積すべき稲が乙郡の倉に納められるとなると、帳簿上は全倉(鞍の貯稲穀に欠損が無いこと)となり不意はありませんが、出雲国では俘囚の反乱(荒橿の乱)により全倉の倉が怪人となっています。伏して、今後諸国では帳簿通りにそれぞれの軍の倉にそれぞれの郡の稲を収納し、甲乙の郡で通計することを許さないよう要望いたします。帳簿と現実に収納されている倉とが食い違っていれば、実情に応じて科罰することを求めます。願わくは、朝廷にとり損害が少なく、人民にとり救いとなりますことを」(日本後紀)
民の苦境には様々な問題があり、その解決のためには政庁としてその解決をしなくてはならないことがあると進言したのでした。
その進言には意味のあることを感じられた天皇は、直ちにその進言を受け入れて許可しました。
天皇には臣下の進言であっても、その内容によっては直ちに動き始めます。こういったことは、現代でも充分に参考とすべきではないかと思われます。
古代も現代もなく共通する問題は、如何に救済を正しく行うかということです。充分に調査をした資料を基に訴えを得た為政者は、現代でもその姿勢を古代と共にあるべきだと思います。
確かに救済を受ける者の中に紛れ込んでいる、偽りの困窮者がいるということも考えなくてはなりません。特に現代では充分に調査するべきです。そんな不埒な人間のために、真に救済されなくてはならない者が外されてしまったら大変です。収入の救済給付金の問題は、正にこのことと符号してしまうのではないでしょうか。
温故知新(up・to・date)でひと言
制度そのものについて、検討すべきことは速やかに行わなくてはならないでしょう。古来、そうした救済してやらなければならないといけないと誰もが認めるよう人々を、「鰥寡孤独」といっていました。身寄りのない人々を云う。鰥は年を取って妻のない、おとこやもめ。寡は年を取って夫のいない女。未亡人のこと。孤は幼くて親のいない孤児。独は独り者。此の境遇にある者はみじめな境遇で、気の毒な人であるということです。それらの人々を「無告之民」+ともいいました。未亡人、孤児などのように、どこにも頼る人のない天街孤独の人です。現代では未亡人だからといって、しょげ返って生きている人はないかもしれませんが、中には救済を必要とする人々も存在しています。自ら生きる努力を放棄してしまっている若者などは論外ですが、非営利で社会活動をする民間組織であるNPOというものがありますが、それでは満たしきれない人々が存在することも確かです。「貧者一燈」+という言葉がありますが、貧しい人であっても同じような境遇にある人を救おうと寄進して下さる人があります。それはたとえわずかであっても、真心が籠っていれば金持ちの多大な寄付にも勝っているものです。人のために尽くしてあげるということも、生きる力となるかもしれません。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言20 [趣味・カルチャー]
「シュンのもの」
「目に青葉山ホトトギス初ガツオ」
季節が来ると必ずと言っていいほど目に入るキャッチフレーズです。
昔から初ものを食べると七十五日は長生きするということが言われていましたが、江戸の町民たちは無理をして、高いのを承知の上でカツオの走りを賞味したらしいようですね。
カツオに限らず、魚、野菜、果物などは、それぞれ出回る時期がありますが、その時は確かにおいしいものです。この「シュン」という言葉の語源を辿るると、「旬」だといわれています。この意味を調べると。「十日」ということになるそうです。つまり「時期」とか「時」という意味もあるようです。しかし最近はいつが旬なのかがはっきり判らなくなってしまっているものも多くなってきていますね。
その代表は「イチゴ」です。本来は夏が近づく頃のものでしたが、今では一年中お店に出ています。
食べ物で季節の変化を知らされていた現代人・・・特に都会の人も次第に季節感がなくなってしまったのでしょうか。
一寸寂しい気がしないわけではありません。
科学の進化で、次第に便利であることの恩恵にはあずかっているのですが、その分次第に季節の変わっていく時の、自然が微妙に移り変わっていく姿を楽しめるという感性を、失いつつあるのではないかと思うのです。
「シュン」という感性を大事にしていきたいと思います。