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告知と放談の部屋☆ 放93「的中した混乱」 [趣味・カルチャー]

  

テレビの時代を思い出すのですが、番組を維持していくためには、先ず優秀なスタッフを抱えている制作会社を決めてから、番組の方向や意図に基づいて足りないアーテイストを補足そして行きます。何チームも制作チームを組んで番組を維持していくのですが、兎に角最初に組んだチームがメインになっていくのですが、今回の映画制作で何が不安なのかと考えると、やはり映画を制作するメインとなるスタッフの中心となる会社が、どうも今回の素材を動かして行くのには不向きであるということなのです。


 私にとって不安でならなかった原因はそのことでしたが、それに気が付いたのでしょうか、メインとなる監督にしてもプルデユウサーにしても、「日本アニメーション」とは関係のないところから呼びました。小説のイラストを執筆してくれているいのまたむつみさんは欠かせない存在ならば、彼女を中心としたスタッフを持っているカナメプロに映画の制作の中心になって貰うのが常道だと思うのですが、今回は作画の一員として参加して貰うだけです。


 原作者がいちいち制作に口を出すということは控えようと考えていた私は、細かな制作の様子についてはほとんど連絡がありませんが、かつての「さすらいの太陽」での原作者としての立ち位置に失敗して、大阪電通と対立してしまった経験から、推薦した脚本家たちからその進行状態の情報を得るだけです。しかし彼らから漏れてくる情報はどうもあまり芳しくないものばかりなのです。古代を背景にしたアクションに関しては、現代感覚で制作していかなくては若い観客を満足されることは出来ないのではないかということばかりです。全体を動かして行く会社としては、かなり畑違いな分野の作品を受け入れたようですが、一体角川書店とどういう話で今回の制作を引き受けることになったのかまったく判りません。


 脚本に関しては彼らの中で一番年上である富田祐弘君が上層部からの要求、指示についての問題を、上手くまとめていってくれているようですが、ちょっと異質の感性を持っている寺田憲史はかなり不満が高まっているようです。次第に作業は富田、武上という二人が苦心しているようです。そんな不満を聞かされても、その制作には口を挟まないというという立場にありましたから、制作の進行中には沈黙を守りました。


 しかしそれから間もなく制作途中のあるアクションシーンのラッシュを見て欲しいというしらせがあって、プロダクションの試写室ではじめて映画のワンシーンと対面させて貰うことになりました。


 その日は副社長も同席していて、スタッフはかなり緊張しているようです。


 そんな中で東映動画から派遣されて動画に関しての指揮を執っている田宮氏は、私の反応はかなり神経を使っているように思えましたが、その日のラッシュで主人公が連続してアクションを展開する、かなり見せ場になるシーンが転回しましたが、大変満足であるという感想をメインスタッフに残して立ち去った後ですが、当時のアニメーションを知っている一部スタッフからは、かなりその表現の仕方についての不満が出て田宮氏に迫っていましたが、結局資金面・・・つまり製作費の問題を角川から託されている彼には、そう簡単にスタッフの要求に応えることも出来ないでいました。その結果原作者である私に判断を委ねてきたのです。


 勿論若手スタッフの主張するように、私もその感性的な表現があまりにも古臭くて納得出来なと思っていたところだったのです。これまでさまざまなことで原作者でありながら、細かなことにはほとんど口を挟まないで来ていましたが、やはり初めから不安に持っていたことは、現実のものになってしまったように思いました。私にとってはやはり映画制作の原点である制作会社の選定から、すべての問題が始まってしまったのだと、改めて思わざるを得なくなりました。


 問題のアクションシーンについては、もう一度作り直しを求めました。


 田宮氏も我々の要求は判っているのでしょうが、予算についての指示がされているのでしょう。非常に苦しい返答を繰り返したのでした。


 それから間もなくのことでした。田宮プロデユウサーから聞かされたのは、あまりにも思いがけない返答でした。今回の映画製作にかける予算は、6千万円から7千万円であるということです。すでにアニメーション業界では、映画制作ではほぼ二・三億円はかかるといわれている時代です。それを考えるとあまりにも低予算ということになってしまいます。しかも今回は「ファイブスター物語」の二本を同時に上映するというのです。気に入らないところを作り直して欲しいという製作スタッフの希望は僅かに許可されただけで終わりました。私はこの時に社長と副社長の性格が、大きく違うことを始めて知りました。いいものには充分に予算を組んで仕掛かり、それにかかわる人に対する扱いが大変温情的で業界では大変評判だったのですが、今回の話を聞いていると、副社長の指示は明らかに低予算での勝負をしようとしているわけです。どちらがいいのかということではありませんが、夢見る芸術家タイプの社長と現実を見つめる実務派の副社長という二人の性格の違いを知った貴重な体験でした。私にとってはかなり期待していた映画化という話でしたが、如何に低予算で集客ができるかという現実との戦いに挑まなくてはならないということを知らされたのでした。しかし会社としてはあくまでも制作の指揮は副社長が撮っているのですが、作品の制作者としては社長の名前が出ます。果たして完成した時どんな感想をお持ちになるのかと思ったりしたものでした。


その後映画の完成を記者発表する会に、私は副社長と共に出席しましたが。作品についての率直な感想を述べるわけにはいきません。記者の遠慮のない質問にどう答えなくてはならないか大変苦しかったことを思い出してしまいます。


                           「宇宙皇子」(映画化記者会見)1.jpg


                        「宇宙皇子・主題歌楽譜」1.jpg 「映画宇宙皇子主題歌」1.jpg


主題歌は「夢狩人」「かりなき愛を」の二曲の詩を書かせて頂き、歌手にはかねてからお付き合いのあったダ・カーポにお願いいたしましたが、作曲は異色の作曲家で東京工大の教授であった河野洋さんで、すでに「宇宙皇子」を主題にした交響組曲「宇宙皇子」を作曲してコロンビアから発売した方ですが、この時の音楽担当であったデイレクターは、かつて宇宙戦艦ヤマトで音楽を担当した小暮一雄さんでした。


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アニメと音楽の部屋☆ ア56「不安な映画制作決定」 [趣味・カルチャー]

  

角川書店で仕事をするようになってから・・・というよりも、「宇宙皇子」という大きなヒット作品を出版するようになってからですが、社内のさまざまなことにかかわっていらっしゃる方が、様々な形で接触してくるようになりましたが、兎に角原稿を書くということに専念している私としては、出会った方々が社内でどういう立場であるのかということに関してはほとんど知りませんでしたし、どちらかといえば無関心であったということでもありました。いろいろなことで話が持ち込まれてくれば、それについての私の判断で対応をしていただけです。ところが多少時間が経過してくると、それらの人々には微妙に色合いの違いがあるということに気が付き始めました。


接触してこられる方々がそれぞれ所属している部署はもちろんのこと、同じ編集部員であっても社長の意向に沿って仕事をしている人と、副社長の意向に沿って仕事をしている人には、それぞれ競い合う気持があるようなところがあるのに気が付いたのです。


あの「天之稚日子」騒動については、衝撃的であったのは社内に二つの大きな流れがあって、それらの亀裂のために思うような仕事ができなかったことに不満を感じて退社してフリーの編集者として活躍していた人でしたが、ベストセラーの執筆者である私が勝手に他社の出版社と接触することに関しては厳しくなってきていたことはもちろんのこと、同じ社内でもその人が所属している部署によっては、突然作家の意向を無視して進行中の作業についてもいきなり変更が行われることも起こりました。あの「幻想皇帝」を書くきっかけを作ってくれたのが、どちらかというと副社長の系列に入る人であったために、五巻まで書き進んだところでなぜか次の作業に入ることができなくってしまったことがありました。「宇宙皇子」の展開に邪魔になる大きな作品は、控えなくてはならないということから、社長の系列ではない人が手掛けた作品は執筆作業を途中で止めなくてはならなくなってしまったのでした。特にその後、その事情についての説明もないままでしたが、その頃その頃社長は「宇宙皇子」を実写の映画にしようと、かなり積極的に動いていたようです。一方で副社長の系列に属する人々は同じ「宇宙皇子」をアニメーションとしての展開を考えていたようで、どちらが映像化という作業に入ることになるのかということについては、原稿の執筆に集中している私にとっては、特別しゃしゃり出ることでもありませんから、その成り行きについてはどのような結果になるのかを楽しみにしている状態で過ぎていました。しかし映画化という計画あるということを聞かされてからは、すべてお任せで無関心という訳ではいられなくなっていました。


ごく最近まで映像関係の作業にかかわっていたということもありますから、出入りしている編集者と雑談をしながら、様々なうわさが飛び込んでくるようになると、その噂には大変興味を持ち始めました。どうやら一番身近なところでは、直接の担当であるA


編集長は、何とあの宝塚へアタックしようとしていたけれども、残念ながら話は進まなかったということがあったりしましたが、社内には「宇宙皇子」の新しいメデイアでの展開ということで、どちらの系列に属しているかということは関係なく、様々な面での展開を競い合っていた気配があるようでした。


その頃から長いアニメーションの脚本を担当してきた私としては、社長、副社長の流の方々が、どのような動きをしているのかということが気になり始めていましたが、どうも社長が考えている実写作品として映画化するということが、様々な条件があるために、それを具体化するということは困難になったようだという情報が入ってきていたのです。それまで俳優たちによる古代作品が登場するかもしれないと、様々な夢を見ていた私でしたが、残念ながらそれは不可能であるということがはっきりとしてきたようです。もしそれが実現するという目安が付けば、社長と出会う機会がありましたので、何らかの意思表示があると考えていたのですが、ある時から映画化ということについては、ほとんど具体的なことについてお話されることはなくなりましたが、それと変って副社長の系列の方による映画化の話が持ち込まれるようになったのです。漠然と私が希望する方向などを探ってくるようになったのです。どうやらあの映画化という話は副社長の系列の人によって動き始めたようです。ところがその中心となって動き出したSさんは大変親しくお付き合いしている編集ではあったものの、特にアニメーションに関してはほとんどかかわりのない方でしたので、このまま実務に向かうことになるのかと思うと不安になってきてしまいました。


 私はこれまで脚本家としてアニメーションに深くかかわってきていましたので、もし宇宙皇子を映画化する時には、その制作する会社が決定的な力を持つことになると思いました。つまりどんなスタッフが揃っているのかということが決定的な要素になるということです。映画の制作ということについては、特別作家が口をさしはさむことは出来ません。それには営業的な様々な問題がありますから、不安になりながらもほとんどその進行に口を出すことはないままになっていたのです。それでも映画化が具体化してくれば、企画書が提出されるとは思っていましたが、アニメーションに不慣れな人が中


心となって動いて入りということがはっきりとしてくるに従って、不安なことが一気に増えて行ってしまったのでした。私の勝手な願望として、小説の宇宙皇子をイメージアップするのに貢献をしている、いのまたむつみさんが所属している映像づくりの仲間たちを要する、カナメプロにして欲しいという希望を伝えておきました。


 しかしその願いは叶わなかったようです。


 S氏が得意満面ということで報告に現れると、想像もしなかった日本アニメーションという会社が制作会社として決まったというのです。S氏はそれで私が喜ぶと思ってのことでした。かつてあの「宇宙戦艦ヤマト」が、視聴率で苦杯をなめていた制作会社の「世界名作童話」を制作していた会社です。確かにそれはその通りなのですが、それぞれの会社には向き不向きがあります。家庭漫画を制作するということでは定評のある会社ではありましたが、今回のような仮想現実作品がその時代に向けた作品として描けるかということを考えると、一気に私の不安は高まってきてしまいました。どうやら念を押すように推薦したカナメプロダクションは完全に外れてしまっています。こうした会社との話し合いでは金銭的な問題もかなり大きな要素となりますから、そんなことが災いとなってしまったのかもしれません。


 映画化についてはまったくお任せしておかなくてはなりません。


 私は思い描く「宇宙皇子」が世間でいう優良家庭漫画となってしまうのかという、不安と戦うことになってしまったのでした。流石に中心となる「日本アニメーション」もスタッフの編成に不備があるのに気が付いたようで、東映動画からその中心となる田宮武氏を呼び、監督には特撮映画を演出した吉田憲二氏を決めてきたのでした。私にとって貢献できると思い込んで決定してくれた態勢でしたが、結局後から後へと必要なスタッフを補強しなくてはならなくなってしまったのでした。そんな様子をはたから見ていて、「宇宙皇子」は時代の要求する感性で描く画期的な歴史物となることは、不可能であると覚悟しなくてはならなくなってしまったのでした。


 作家にとってはあくまでも小説を書くということが出版社とかわした本来の務めではありますが、たまたま私が目指すアニメーション映画と深くかかわってきただけに、その実績に配慮して頂けなかったのは、実に残念なことではありました。残念ながらそれから暫くは、一体どんな作品作りになるのであろうかという不安が、暫く高まるのを堪えながら、持ち掛けられる進行への協力をすることになったのでした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言34「ひとくち言霊」(東西南北に敵あり) [趣味・カルチャー]

                                        「若菜イラスト」.JPG

 

孤立無援の状態でいることを、よく四面楚歌という言葉で表現されますが、古代においては自ら敵を作っていたとしか思えないのが中国でした。


努力してもどうしても融和することができずに、止むを得ずそのような状態になってしまうというのではなく、あくまでも自国の優位を誇らしく思うが故に、周辺の国々を蔑むしかなく、敢えて四面楚歌状態を作り出していたのが中国であったということなのです。


あくまでも、政治、経済、文化、すべての点で、中国が世界をリードする中心の国なのだという、中華思想に基づいた考え方なのですが、彼らは中国を取り巻く周辺の国を南蛮(なんばん)北狄(ほくてき)東夷(とうい)西戎(せいい)と言って蔑んでおりました。進んでいるのは自国だけで、周辺の国々は、すべてかなり遅れている野蛮な者たちだという考え方から生まれた呼び名であったわけです。


ところがこの中華思想というものは、決して中国の独占物であったわけでもなくて、自国の尊厳というものを大事にしようとする者たちにとっては、中国と同じような立場でその周辺の国を見るようになっていったのです。


 中国にとって南蛮とは、インドシナなどの南方の民族のことを差しましたが、室町、江戸時代の我が日本では、タイ、ルソン、フィリッピン、ジャワなどの南方諸島を指していましたし、中国にとっての北狄(ほくてき)とは、北に位置する匈奴(きょうど)鮮卑(せんぴ)柔然(じゅうぜん)突厥(とっけつ)契丹(きったん)、ウルグアイ、蒙古などの遊牧民族のことを指し、東夷といえば、満州、朝鮮、日本を指していますが、わが国では都のあった京都中心として考えれば、関東、東北の武士を指していました。そして最後に、西戎にあたる民族といえば、中国にとってはチベット、トルコのことですが、わが国にとっては、都から遠く離れた所に住まう民、田舎人のことを指していました。特に京都の人は、荒っぽい東国武士のことを指して、そのように言ったりしていたのですが、江戸の末期には、西洋人を蔑んで、西戎などと呼んだりしていたようですが、結局国も、人も、周辺の存在を蔑むことで、自らの存在の優位を確認しながら満足しているのではないのかと、自戒の思いを込めて考えたのでした。


 自己中はいつの時代にも避けられない問題なのかもしれませんね。


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思い出作品の部屋☆ 思17「危機一髪・天之稚日子騒動」 [趣味・カルチャー]

 

雑誌「WOWO」が発売になって間もなくのことでした。



 私はこれで新たな仕事場を広げることになったという、開拓という目的を果たしたという満足感に浸っていました。


 ただ連載を始める時に、編集のUさんに希望したのはイラストレーターが、これまでの人とは違って色鉛筆で描く人だということで、ある種の不安はあったのですが、それも面白い効果を出すことになるのではないかという計算があってお願いしました。しかしやっぱり仕上がってきたものは一寸計算していたものとかなり違っていたのです。直ぐに次回から神々の世界の厳しさを描くことになるので、それに見合う力感と厳しさの漂う表現が、可能になるような工夫をして欲しいとお願いをしたところでした。


ところがその頃、角川書店の中では大変な騒ぎが起こっていたのです。


 角川春樹社長に親しい関係にある人が、私の新たな作品の連載が産経新聞社を背景にした「WOWO」という雑誌に載っているということを、新幹線の駅頭のキオスクで発見してしまったのです。そのためにその情報は直ちに報告されたようなのです。


 たちまち社内には激震が走ったようです。


 当時社長は古代の日本についての造詣が深いということもあって、その原点ともいえる宇宙の草創期の話が角川書店から出版されるということは、許しがたいことだったのでしょう。


 残念ながらまだ私にはその頃まで、社長の超古代史についてまで、並々ならない興味、関心が深いものであるということについては気が付いていませんでした。勿論マスコミではそれらについての話題が取り上げられることがありますから、その程度のことについての智識は持っていたのですが、他社で古代史・・・しかも現在独走状態の「宇宙皇子」の時代よりもはるかに古い、所謂神話の時代ともいわれる時代にまでその関心が及んでいるとは思ってもいませんでした。


私はまったくそういったものの出版については、まったく問題になるようなことはないという思いでいたのです。連載の執筆を依頼してきたUさんの企画に乗って、「天之稚日子」という超古代の神話時代の話を書こうと提案したのです。言うまでもなくUさんは大変喜んでその企画に乗って下さいましたので、私の希望通りに出雲の取材もOKであったことから、大学時代から親友であった島根新聞社の編集局長となっていたU君に連絡して協力を求め、前述のような史跡探訪を行ったりしていったのです。それがキオスクという通勤客の目に触れて、どんな関心を持って貰えるのかその反応に楽しみにしていたのです。新たな出版社との仕事ということもあって、新天地の開拓のきっかけを作ってくれたUさんには感謝していたのですが、そんなある日のこと角川書店からの大変な衝撃ぶりが伝えられてきたのです。


 「天之稚日子」の発表をそれまでまったく気づかず聞いた編集の上層部は、早速私への強い要望を伝えてきたのです。連載の中止というかなり強い要望です。それはとても通常の依頼とはとても思えないものでした。「宇宙皇子」の編集長を越えた人たちから、直ちに連載の中止をして貰いたいという依頼です。場合によっては現在進行中の「宇宙皇子」も発売中止ともなりかねない状況になってしまったのでした。勿論そんなことを望むはずはありませんし、角川書店と悶着を起こすのを覚悟の上だということはまったく考えてもいません。私も予想もしていない反応に狼狽してしまいました。依頼のあった出版社からの作業を、一生懸命にこなして実績を積みたいと思っていただけなのですから・・・。


 私には残念な気持ちがかなりありましたが、現在進めている「宇宙皇子」を中心とした作業に肩入れをしてくれている角川書店の申し入れを拒否するわけにもいきません。超古代の歴史に関しては春樹社長が大変興味を持っていて、その道の造詣の深さのために他社で作品を発表されることは絶対に許可できないという申し入れをしてきたのです。社長自らも連載を止めて欲しいというかなり強硬な申し入れをしてこられたのです。


拒絶することは出来ないと考えました。


 私は仕事を持ち込んできてくれた編集者のUさんに事情を打ち明けて、今後の連載が気持ちよくできなくなったということを告げたのですが、彼女は角川書店の強引な要求に激しく非難してきました。私には何とも返答のしようがありませんでした。しかし彼女はこれまで勤めていた会社が角川書店であったことや、仕事のあり方についてどうしても納得ができないことがあって退社した経緯があったことをはじめて告白されて、この日ばかりはいささか意外なほど興奮気味で角川書店の要求を非難しつづけました。詳細については判りませんでしたが、角川書店を退社してフリー編集者として活躍し始めた彼女は、目下化角川書店を一気に出版界の注目の会社にしてしまった私を、他社で仕事をさせることでこれまで解消できないでいた無念な思いを一掃してしまおうとしたのかも知れません。しかし彼女の思いはどうあろうと、俄かに私自身に降りかかってきた大問題・・・始まったばかりの連載を中止してくれという角川書店からの申し入れを、サンケイ出版に承諾して貰わなくてはなりません。ところがそれから間もなく連絡が来たのは、彼女からではなく、サンケイから引き付いてあの作品を、扶桑社という出版社で図書として出版する予定でいた重役であるI氏から連絡が入ったのです。


私は早速お会いして事態の収拾についてのお願いを説明したのですが、困ったことになりました。彼は私がかなり前から関係のあった、フジテレビの現重役でもあるというのです。I氏は兎に角強硬で絶対に扶桑社で文庫化するというのです。これまでの関係を考えると彼の要求を簡単に説得することは出来そうもありません。


しかし角川春樹社長の意向も無視することも拒否はできません。


私は絶体絶命のピンチに追い込まれてしまったのでした。


しかし何としてもこの苦境を乗り越えなくてはなりません。不調に終わった会談から帰る途中、映像という世界でつながりがあるということがヒントになって、この人にすがるしかないと思いついた人がありました。


当時フジ・サンケイグループで絶対的な権力を握っていたニッポン放送の社長であるK氏とのことです。


かつて「宇宙戦艦ヤマト」のオールナイト放送を行った時に、彼は番組には関係はなかったのですが、人気DJとしてニッポン放送の花形であったということもあって、私とも出会いがあって、親しくお付き合いをさせて頂いていたのです。勿論今はその頃と立場が大きく変わっていたのですが、今やフジ・サンケイグループのトップであるニッポン放送の社長に君臨していたということを思い出した私は、もうこの人にお願いするしかないと考えて、出版界での事情を理解していなかったために起こってしまった不始末を克明に説明して、サンケイ、フジテレビへの失礼を何とか許して貰えないだろうかと懇願したのです。勿論サンケイ、フジテレビの要求はもっともなことではあるのですが、現在仕事の拠点といている角川書店の社長からの申し出を受け入れざるを得ないという苦しい立場を理解して頂いて、I氏との話し合いに乗り出して下さることになったのです。


詳しいことはお話することが出来ませんが、それから間もなくK氏から連絡がありました。扶桑社が出版から退くということが伝えられました


勢いに乗って世界を広げようとした、新人作家の犯した間違いでしたが、思わぬ人間関係のお陰で危機を脱することができたのでした。


現代ではとても通用しないような、影像から活字の世界へ移り住んで間もない頃の失敗談の告白でした。


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思い出作品の部屋☆ 思16「雑「雑誌WOWOで連載始まる」 [趣味・カルチャー]

  

原稿を執筆し始めた時には、これまで経験したことのない異常な現象を体験してしまいましたが、編集担当のUさんのお陰で有能な方に協力して頂き、睡眠できないという現象から解放されて、大宮の氷川神社へ参拝した後はまったく苦しむことなく、楽に思う超古代作品を書き上げることになりました。


1987年(昭和62年)8月1日サンケイ出版の雑誌に新連載の「天之稚日子」400枚が一挙連載になりました。


 執筆中のこれまでにない異変が起こって眠れない日が何日もあったために、その処理をどうしたらいいのか困っていたところを、編集担当のUさんの親しい霊能者のお陰で、大宮の氷川神社へ参詣に向い、いくつかの変わったことを体験しましたが、その後眠れないという異変は解消して、一気に原稿は書き上げることができました。そのお陰で連載に関しての準備は終えることができたのですが、イラストに関してはいささか期待通りという訳にはいきませんでした。勿論事前に何人かUさんが選んだ人の中から、私もこの人にお願いしたらという指示をしたのですが、実際に仕上ったものを拝見したところ、神々の世界の話を書くということでは、一寸厳しさが表現できないということを感じました。その原因はイラストがペンで書かれているために、どうしても淡彩になってしまうのです。ちょっと困ったとは思いましたが、出版には間に合わないために、そのまま変更もしないまま終わりました。


 雑誌はJRの駅の‥‥でも販売されていました。


 サンケイ出版もかなり期待して下さったのでしょう。


 勿論新しい出版社での仕事にどういう反響が帰って来るのかと、興味津々でいたのです。


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出雲の取材の結果を特集記事にされた、巻頭の紹介記事に従って、「天之稚日子」が乗りました。現在評判になっている「宇宙皇子」のシリーズは、壬申の乱以後の世界を背景にした仮想現実の古代小説ですが、今回の話はそれより前の、所謂無の宇宙に起こったビッグバーンによって誕生した日本誕生記からとき起こす超古代史です。つまり「古事記」に基づいた話です。


 「宇宙皇子」とはまったく違った、神々の世界での話です。


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告知と放談の部屋☆ 放92「眠れない神秘的な背景」 [趣味・カルチャー]

 これまで角川書店での作品を書くことが多くなっていたところでしたが、ある日かつて角川書店で編集をしていた女性Uさんが訪ねて来て、サンケイ出版のWOWOという雑誌があるのだけれども、そこで連載をしてくれないかという打診でした。

 このところ新しい作品を書くといっても、ほとんど角化書店での作品に限られてきてしまいまいましたので、そろそろこの辺で気分を変えて新しい作品を書いてみたいという気持にもなってきていましたので、「宇宙皇子」とは違った時代の話を開拓するつもりで考えてみるという話をして終わりました。


 丁度この頃天上編の第四巻「荒魂怨歌抄」を三月に出版してから次の第五巻「天界千年戦☆陰の巻☆」に予定されていた八月まで、数か月の空白期間があったのです。もうお判りだと思いますが、その間は地上編の文庫化が進められていたためです。そこで私はその空白時間を利用して、新しい会社での連載を引き受けたのでした。


 その結果私は「宇宙皇子」の出生の謎となっている天上の神・・・つまり宇宙皇子の父ともいわれている創世記の神は誰なのかということを突き止めておきたいという気持もありましたので、日本が誕生して間もなく起こった、天上界の神々と根の国出雲との間に起こった国譲りについての戦いの背景をするために、史跡を探訪して見ようという気持になりました。たまたま島根県松江の新聞社には編集局長をしていた親友のU君がいたことから、編集のUさんを連れて行き、古代の取材を松本清張さんと共に史跡を取材して歩いた新聞記者などとの聞き取りを行ったりもしてから、伝説の地をあちこち歩きました。ところがここでの史跡歴訪が、その後原稿の執筆にかかった時から、思わぬ異変に発展してしまったのでした。


                        「WOWO連載・3」1.jpg 「WOWO連載・2」1.jpg


 「宇宙皇子」の時代よりもはるかに古い時代・・・つまり日本の創世記の話となる「天之稚日子」を書いている時に、これまでまったく経験したことのない異変に見舞われて苦悩することになってしまったのです。


 原稿執筆に没頭していたところ、いつものことで机の下に潜ませてある毛布を引きずり出して仮眠しようと思うのですが、まったく睡眠できる状態にならないので、数日後私は深夜になって、そろそろ寝所へ行って寝た方がいいと考えて、眠る態勢に入るのですが、なぜか神経を尖らせて執筆していたためか異常に興奮状態にあったためなのか、とても眠る状態にはならないのです。


 そんな異常状態が何日もつづいてしまいます。来る日も来る日も昼はいいとしても、夜になってもまったく眠くなりません。そんな日を何日か繰り返していたある日のこと、たまたまその最中に編集担当のUさんが作業の進行状態を確認してきたのです。


 私は現在起こっている異常に眠れなくなっている状態について説明したのですが、それから間もなく彼女は出雲と関係の深い、三輪山を信仰する霊能者という女性と共に様


子を見にきてくれたのですが、やがて目下私が襲われている異常事態の話をするうちに、


埼玉県の大宮にある氷川神社へお参りに行きませんかといって誘ってくれたのです。


 確かあそこの最新は須佐能命で、出雲と大いに関係の深い神社であるはずです。


 私にはまったく判らないことですが、Uさんと親しい霊能者の話によると、目下氷川


神社には、伊弉諾尊が下りてきているというのです。


 彼は天上の神々が忌み嫌っている黄泉の国・・・出雲国にある死者の国へある神と対面したいという欲求に逆らえずに、神々の禁を侵して黄泉の国へ尋ねてしまうのです。厳しい禁を侵してまで逢いたかった神とは・・・かつて火の神を生んで亡くなってしまった妻の伊弉冉命だったのです。ところが黄泉の国で遭遇した彼女は怪奇な姿となってしまっていて、必死な思いでやってきた夫の命を奪おうと迫ってくるのです。命からがら黄泉の国から脱出したものの、そのために彼は神やらいという追放になってしまったといわれているのです。霊能者に言わせると、その伊弉諾尊が私の作業に感謝して下りてきているというのです。私が何日も眠れなくなってしまっていたのは、神が自分の犯した罪について書いてくれているということに対する感謝を伝えたいという神意なのだというのです。それに応えるためにも氷川神社へ行きましょうということになったのでした。そういうことを除いても、ここは現代人にかなり人気のある神社ですが、ここの祭神は出雲に関係の深い須佐能命です。私が書こうとしているは、天上界の支配者との戦い・・・天上界の支配者である天照大神と地上界の統治者として君臨している大国主命の世界との間に起こった紛争の間に立って、活躍する若神の天之稚日子の話です。何はともあれ眠れないという苦しい現状からの脱出をするために、早速霊能者の誘いに従うことにいたしました。


 ところが拝殿の前で霊能者に従って参拝している私は、その扉についている鏡にこれまでにない異様な現象が起こるのを見てしまったのです。霊能者は私にそっと問いかけてきました。私は拝礼している姿のまま今目撃している美しいあまりにも美しいものについて、声を殺して報告いたしました。残念ですがそれについていくらその詳細について書いたとしても、とても常識では納得できないことをお話することになってしまうことになってしまうでしょうから、今回はここまでにしておきましょう。


霊能者は(そこまで見られたのであれば)とその後に勧められたのが、太陽の気を見ましょうということでした。


とてもそんなことができる訳はないと思いながら、勧めにしたがって本殿前の木の葉隠れに太陽を見上げたのですが、何ということかあの強烈な太陽が見つめられるのです。しかもその表面からは、ぼこぼこと温泉が噴き上げるかのようなものを見たのです。彼女はそれが太陽の発する気であるという説明でした。拝殿につづく異常現象を体験した後で、私は楠に手を当てて健康を授かるように祈って帰りました。


        「大宮氷川神社で」1.jpg 


これまで角川書店での作品を書くことが多くなっていたところでしたが、ある日かつて角川書店で編集をしていた女性Uさんが訪ねて来て、サンケイ出版のWOWOという雑誌があるのだけれども、そこで連載をしてくれないかという打診でした。


 このところ新しい作品を書くといっても、ほとんど角化書店での作品に限られてきてしまいまいましたので、そろそろこの辺で気分を変えて新しい作品を書いてみたいという気持にもなってきていましたので、「宇宙皇子」とは違った時代の話を開拓するつもりで考えてみるという話をして終わりました。


 丁度この頃天上編の第四巻「荒魂怨歌抄」を三月に出版してから次の第五巻「天界千年戦☆陰の巻☆」に予定されていた八月まで、数か月の空白期間があったのです。もうお判りだと思いますが、その間は地上編の文庫化が進められていたためです。そこで私はその空白時間を利用して、新しい会社での連載を引き受けたのでした。


 その結果私は「宇宙皇子」の出生の謎となっている天上の神・・・つまり宇宙皇子の父ともいわれている創世記の神は誰なのかということを突き止めておきたいという気持もありましたので、日本が誕生して間もなく起こった、天上界の神々と根の国出雲との間に起こった国譲りについての戦いの背景をするために、史跡を探訪して見ようという気持になりました。たまたま島根県松江の新聞社には編集局長をしていた親友のU君がいたことから、編集のUさんを連れて行き、古代の取材を松本清張さんと共に史跡を取材して歩いた新聞記者などとの聞き取りを行ったりもしてから、伝説の地をあちこち歩きました。ところがここでの史跡歴訪が、その後原稿の執筆にかかった時から、思わぬ異変に発展してしまったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 告12「東京五輪中の更新について」 [趣味・カルチャー]

                                                         「素材・原稿執筆中」1.jpg

  

次回18日の日曜日も通常の更新日ですが、この週は23日にオリンピックが開幕いたします。ただそれだからと言って特別に細工はしないことにいたしました。通常の更新ということにしたいと思います。25日の日曜日の更新もオリンピック開催中ですが、それをお楽しみ頂くために特別に変わったことをせずに、通常の日曜日の更新に従うだけということにしようと思います。


23日から始まるオリンピックを自宅でテレビ観戦もいいし、時にはブログをお楽しみ頂くのもいいのではないでしょうか。ブログの更新は予定通り週に一回だけ更新いたします。


よろしくお願いいたします。


藤川桂介


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言霊謎解きの部屋☆ 言42「ひとくち言霊」(天子南面) [趣味・カルチャー]

                                           「若菜イラスト」.JPG 


 現代の政界の様子を見つめていると、国民を引っ張っていく強力な指導性を持った政治家が見当たりません。そんなことを考えているうちに、ふと思い出したことがありました。

中国の三世紀頃に作られたということが言われている、指南車というものです。はじめに仙人の木像を乗せて南を向けておくと、歯車の仕掛けで常に南を指すようになるという車のことですが、かつて剣道指南をはじめとして。○○指南とか指南番という表現が使われるものが沢山ありました。つまりある世界の指導的な立場にある者を、指南役と呼ぶことが一般的でした。


リーダーたる者は軽挙妄動して、あっちを向いたり、こっちを向いたりして、ふらふらとしないということを示しているのですが、古代において指導的な立場にある者は、常に南を指し示す指南車のように不動の姿勢を表わす象徴として、目指す方向を変えないということを大事にしていたのですが、国の民を指揮しながら進むべき道を示さなくてはならないのは朝廷に君臨する天皇です。そんなことから日本の古代では、天子南面すということが大事にされていました。中国の道教思想によるものでしょう。都が作られる時の指針として、天皇の玉座は常に南に面していられるようなところが選ばれました。


ところが飛鳥時代を築いた天武天皇から皇位を受け継いだ持統天皇が、後押しをしてくれる藤原不比等の出身地である藤原へ遷都しようとした時、天武天皇の長男である武市皇子は、その地が宮都としては向いていないといって反対しました。


ところが彼女は聞き入れずに遷都を強行してしまいました。


しかし間もなく藤原京は、天子南面すという条件を満たすにはあまりにも難点があるということに気がついたのです。つまり天皇がいる場と、臣下の控える場の土地の高さが逆になっていることに気が付いたのです。つまり臣下のいるところが、天皇のいるところよりも高くなってしまい、見下ろす形になっていることに気がついたのです。これでは天皇もいい気持ちでいられるはずはありません。藤原京はわずか十年という短命の都という記録を残して終わることになってしまったのでした。


都はわずか十年という短い年限で終わり慌ただしく平城京へ移転していったのでした。別の言い方をすると、指導者には常に輝く存在であるというお話なのかもしれません。                                          


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思い出作品の部屋☆ 思15「新たなる野望」 [趣味・カルチャー]

 

 「幻想皇帝」


これはこれまでの「宇宙皇子」を担当する三人の編集とは違って、その上司として活躍していた女性編集者で、これまでは「宇宙皇子」の大ファンとして何かと協力して下さっていたTさんとの話をする中で生まれたものでした。つまり「もう一つ書きたいものがあったらやってみませんか」という誘いがあってって、創作意欲を掻き立てられて誕生した作品なのです。


 もうこの頃の私の創作意欲は抑えがきかない状態にありましたので、「宇宙皇子」が好調に進行しているという背景もあったことから、まったく違った発想の作品を書いてみたいという意欲を抑えられませんでした。彼女の発言は正にそうした今の私の気持ちの高まりに火をつけることになってしまったのです。「宇宙皇子」のシリーズの大好調な成績を背景にして、それとは違った味わいのある作品にも挑戦してみたいという気持に駆られていったのです。かつて角川社長から、50巻を越えるようなことになったら100巻目標になりますよと言われたことがありましたが、Tさんはそんな話に乗って目標は50巻ではなく60巻にしましょうとまでいって、私の創作意欲を掻き立てていったのです。


 その結果1987年(昭和62年)2月に発売された「幻想皇帝」で、是非数十巻という大構想の物語を完結したいと思っていた、大変気に入っていた仮想現実作品で、意欲も溢れる作品でもありました。


 「宇宙皇子」は日本の古代という広大な歴史世界を舞台にした作品として、ある程度安定した地歩を築いていけると確信できるようになっていたところでしたので、今回は1985年に古代の日本と関係が深い中国を取材したくて出かけた時に、わずかではあったのですが、その広大なスケールの中国大陸の一端を知ることになったことが刺激になっていたこともあったことから、思いきった奇想天外と思えるような作品を書いてみたいと思うようになっていたのです。この時から機会があったら仮想現実の思いきった物語を、書こうと思っていたところでした。日本と同じような土壌に発展してきている中国の歴史を、これまでとは違った構想で書いてみたいという気持になっていたのです。


                 「幻想皇帝1・男は峠で、夢を見る」1.jpg


イギリスで産業革命が始まってから、じょじょにその勢いがフランスに及んで、いよいよフランス革命ということになるのですが、その頃の世界を舞台にして、私はそのころフランスの社交界を背景に活躍するジョゼフ・フーシエをヒントにした「風生」という男がその渦中に入り込み、とてつもない野心をもって動き廻るという話を組み立てたのでした。


 市民による革命によって揺さぶられていく王家の乱脈な暮らしぶりを描きながら、その中で生き残っていくフーシェという男が巧みに生きていく様子を書いていったのです。


 イラストに末弥純さんを起用したのも角川書店の意気込みを感じさせていました。兎に角このシリーズを編集を担当したTさんから、「宇宙皇子」とは違ったもう一つのシリーズを起こして欲しいという依頼があって書き始めたものです。


 中国への取材にも何度か行きました。


 その結果SFファンタジーとしての最終的な狙いであったフランスと中国が入れ替わってしまうという大変な意図があったので、その構想を理解して頂くために主人公の風生が動く世界の規模を、私自身がイラストまで描いて出しました。如何に私が乗っていたかが想像できるでしょう。やがて物語が進行するうちに、中国を舞台に話は展開していたはずですが、最期にはそのまま中国の舞台がフランスのそれに入れ替わってしまうという、奇想天外な世界が実現するということになるはずでした。


                「幻想皇帝」(構成イラスト)1.jpg


 私のやろうとしている世界について読者はもちろんのこと、イラストレイター、編集者にも理解しておいて貰いたいという気持があって、自分で大雑把な目標を書いて提出しておきましたが、やがて出版された時には、これをプロの編集者が整理をして載せてくれました。


イラストも大変好きであったので、きっと大きく飛躍できる同志だと思って楽しみにしていたのです。すでにシリーズはスタートして間もない時に、旧知のテレビ番組などの作家であったW氏も、ファンであると宣言してくれたほどで、私はもちろんですがかなりの大作を書ききるつもりで進行していたので、あっという間に五巻まで進行していたのですが、ある日突然私の中心となる作業はあくまでも「宇宙皇子」であるという会社の方針で、そのスケジュールを圧迫してしまうことは出来ないという意向があって、残念ながら膨大な野望を秘めた「幻想皇帝」は、そのまま突っ走らせることができなくなってしまったのでした。


     「幻想皇帝1・男は峠で、夢を見る」1.jpg 「幻想皇帝2・さらば、蒼き浪漫」1.jpg 「幻想皇帝3・奥様、お手をどうぞ」1.jpg 「幻想皇帝4・宿敵のいる風景」1.jpg 


執筆する私自身はもちろんのこと、後輩作家の支援、読者の期待もあったのですが、会社の希望もあって「宇宙皇子」の作業を優先するために、作業を中断することになってしまったのでした。野心的な作品の実験は目的を果たさずに、その途中で作業を中断せざるを得なくなってしまったのでしたが、現在は角川書店に大変お世話になっているということもありましたので、どうして人気シリーズになりつつあったものを中断するのかという抗議に近いファンレターも頂いたのですが、ついにこの異色作品は5巻まで書いたところで中断せざるを得なくなってしまったのでした。


執筆する私自身はもちろんのことですが、読者の期待もあった野心的な作品の実験は目的を果たさずに終わってしまったというお話でした。


 残念なことです。


いつか機会があったら、復活したい作品としていつまでも心に残りつづけている好みの作品です。 


 


 


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思い出作品の部屋☆ 思14「溢れるいけいけの気分」 [趣味・カルチャー]

  

もう一度1986年の頃のことを思い出してみて下さい。角川書店が地上編「宇宙皇子」を完結して次の天上編のスタートまで数か月の空白の時間ができた時のことでした。


映像時代からお付き合いの深かった徳間書店で小説を書いて下さいという依頼があって、私は古代歴史ロマンの「宇宙皇子」とは世界の違う現代を舞台にした青春小説として「エプリル・シャワー物語」を書きました。イラストも「宇宙皇子」のいのまたむつみさんとはまったく違った正統派の太田慶文さんというまったく違った画質の方を起用して、その特徴を鮮明にしました。そして更に徳間書店は時を置かずにその本についてのサイン会を企画したのです。小説の舞台であった横浜の港が見える丘公園にある「大佛次郎文学記念館」で、かなり多くのファンとの交歓会を催したりしました。


 この頃の私としては、いくらでもものが書けるというエネルギーに満ちた時代であったこともあって、実にごく自然の流れの中での作業であったのですが、今となって考えてみると、とてもそんな悠長な話として済ませてはおけない問題が漂ってしまったのです。勿論私にはそんな気配があるような雰囲気は見せませんでしたが、角川書店ではその徳間書店の参入にかなり刺激を受けてしまったようで、「エプリル・シャワー物語」と同じような青春物を書くようにいってきたのです。私はまったく抵抗を感じることなく、軽井沢を舞台に青春物語を書いてみようと思い立っていました。


 私にとっての軽井沢は青春時代からの憧れの地で、いつかいろいろな作家が集まって交歓会を開いていた軽井沢へいけるようになりたいと頑張ってきた経緯がありましたので、放送作家30周年という記念のパーテイを行ったのを境に、映像時代に蓄積した資金で、憧れの作家であった掘辰雄さんが最初に別荘を作ったところで、恋人の入院しているサナトリュウムヘ見舞いに通ったという釜の沢に、「宇宙皇子」を中心に原稿を書く場として山荘を手に入れたのです。


              「涼光山荘・全容」1.jpg 「素材・空を見なさい」1.jpg 「角川・ペパーミントシャワー物語」1.jpg


 


それから毎年夏になると、ここで休息を兼ねながら原稿を書くようになり、角川書店の編集者はもちろんのことですが、さまざまな雑誌社の編集者もここまで原稿を受け取りに来たりしていましたが、後はようやくゆっくりとする時間が持てるようにもなっていました。私は軽井沢の山荘へ行った時は、綺麗に澄んだ美しい夜空の星々の世界を眺めながら、それを率いている月神と対面していました。苦闘時代に仰いだ夜空とは違った達成感を噛みしめながら、ここまで辿り着くまでの私のさまざまな姿を見つめてきて下さった月神を、改めて見つめ直していたのでした。夜になると空を仰ぐことが習慣になっているのはそのためです。どうもぎらぎらと輝く太陽よりも静かな月の静かな姿に惹かれてしまいます。


この頃から私は時間を見つけては一人で山荘へ出かけて原稿を書きました。「ペパーミント・シャワー物語」はそんな状態で書き上げたものです。


 実業界で頂点を極めたある男性が、若者にひと夏の楽しい思い出作りをさせようと考えて、毎年彼の広大な別荘へ泊りに来る若者たちに呼びかけて、男女それぞれ40人の若者を募集して「男組」「女組」と別れて、ひと夏をそれぞれが工夫したカフェで働きながら青春時代をどう生きるのかを実践して貰おうという試みを行うことになりました。寄宿所は提案者の広大な別荘ですが、店は軽井沢駅から真っすぐに伸びている新軽井沢の大通りを右左に分かれて、「ペパーミント・シャワー男組」と「ペパーミント・シャワー女組」というそれぞれが工夫したカフェで、日給1万円という条件で働いて貰おうというのです。しかも夏の終わりには、オーナーから特別に口には出来ない特別料理をプレゼントするという提案もありました。若者たちはそんな条件のもとでそれぞれどんな工夫をしながら、どのくらい楽しく豊かなひと夏を過ごすことになるかという実験でもあるのです。「ペパーミント・シャワー物語」はそんな小説でした。


 ここで「ペパーミント・シャワー物語」の締めくくりとなる、口には出来ない特別料理というものがどんなものであったかを種明かしをしておきます。軽井沢の中心地には離れ山という小さな山があるのですが、そこを避暑客の外人たちは昔からテーブル・マウンテンといっていて、夕日がその真ん中に堕ちてくるのが如何にもテーブルへ特別料理が載っているような絶妙な光景になるといわれているところなのです。


オーナーはこの瞬間を若者たちにプレゼントしたという結末です。


このころの作業としては、兎に角依頼を受けた時に余裕があれば、抵抗感もなく受け入れて作業にかかれる状態であったこともありましたし、青春物については興味ある世界の話でもあったこともありましたので、徳間書店の仕事が完全に終わったあと続編の話はきていませんでしたので、角川書店からの依頼があったのをきっかけに、前述の二冊を連続的に書いていたのです。しかし今となって思い返してみると、この頃の両社はとても平然としていられる状態ではいられなかったのではないでしょうか。角川書店は兎に角勢いに乗っていましたから、私については他社で書かないように寸暇を開けないように動いていたようです。その頃から徳間書店以外の会社からも、かなり私に接触を求める打診が角川書店に入ってきていたようで危機感があったのでしょうか、これまで直接の担当ではないベテラン編集者も私の作業に入ってきて、今回の青春物の執筆を依頼してきたものでした。兎に角角川書店は藤川作品のすべてを独占してしまおうという態勢になっていたのではないでしょうか。それほど社内の雰囲気は、正にイケイケという勢いに乗った状態になっていたのです。


兎に角徳間書店から「エプリル・シャワー物語」を出した同じ1986年6月に、角川書店は「ペパーミント・シャワー物語」を六月に、つづいて「メープル・シャワー物語」は十二月に発売しました。


                                                    「角川・メープルシャワー物語」1.jpg


 過去にいまわしい傷を背負い、未来を失ってしまった女性がやがてアメリカから帰国するのですが、やがて同窓会で出会ったのが、京都の料亭で修業している同窓生でした。二人はやがて苦難の青春時代に夢を拓いて近づいていくというお話でしたが、明らかに徳間書店で青春時代を背景にした「エプリル・シャワー物語」の続編を書かせない態勢になったようです。


天上編の宇宙皇子が出た頃から、私を取り巻く環境にはじょじょに変化が表れてきていたようでしたが、私は兎に角書くことに夢中でしたから、私を巡る他社の関係についてはなかなか厳しい空気が生じていたことについては、ほとんど判らないままでした。しかしそれがやがてそうしたものは、現実のものとして表面化してしまうのです。それから数年後の映像関係の新年会でのことでした。


(ああ、これはあの時から噴き出しつつあったことだったのだな)


はじめて現実の社会ではまったく気が付かないことが進行していたのに気が付いたのです。その時の衝撃的なお話は、その時がやってきた時にお話することにいたします。


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思い出作品の部屋☆ 思13「角川文庫100万部表彰」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」新書版の地上編の十巻が完結したのは1988年9月でしたが、この間にファンクラブが結集されたり、第一回の体験ツアーが行なわれたりして、「宇宙皇子」の人気は一気に頂点へ向かって行きましたが、そんな中でじっとしていられなかったのは、テレビ時代からわたしと縁の深かった徳間書店です。「宇宙皇子」の第六巻が発売される直前に、若い人に向けた小説である「エプリル・シャワー物語」を出版しました。しかも時を置かずにサイン会まで用意して、小説の舞台になっている横浜の港が見える丘公園にある「大佛次郎文学記念館」へ読者を集めて映像化に向けたキャンペンを行ったりしてきたのです。これは角川書店には大変刺戟になったように思われます。勿論あの頃の私はそんなことまで考える余裕はありません。仕事の依頼を嬉しく頂いて、やれる限りのことをしようとしていただけです。しかし時をへて今日まで時代を重ねてくると、これまで見えなかった世の中の経緯がいろいろと見えてくるものです。あの頃のことを思うと、徳間書店が私に青春小説を書かせてきたことはかなり刺激的であったようにおもえるようになりました。それから二年もしない「宇宙皇子」の天上編の第三巻目を前にして1986年10月に、徳間書店の青春小説に釘をさすように、角川書店は地上編の宇宙皇子を文庫化して発売し始めたのです。これまでの新書版よりも廉価で手に入れられるようということもあったのか、それとも表紙のイラストが新しくなっていたためか、第一巻から大変な売れ行きになりました。


 それから暫くして1987年(昭和62年)12月にまだ文庫の六巻目を出したあたりだったのですが、角川書店からある案内状が届きました。これまで私の図書で文庫版になったものが、大変早いペースで100万部を突破したので表彰したいということです。文京区の高級レストランに招待されて、角川春樹社長から表彰されました。


こんなに早く100万部を達成した人はいないということのようで、大変嬉しい報告でしたが私にはまったく見当がつかないお話でした。


 社長自ら感謝状と、賞金が渡され、記念のブロンズ像が渡され、


                                    「角川感謝状」1.jpg       


         「宇宙皇子100万部突破表彰謝礼」1.jpg 「宇宙皇子100万部突破表彰銅像」1.jpg


 社長はまだ出版界の様子に慣れていない私のために、図書の奥付に記されている、版数・・・つまり何版となっているかということについての、ほとんどの人に知られていないからくりと言うことについて教えて下さいました。


 あの版数が必ずしも正確なものではなく、会社によってはやたらに多い版数を刻んであるものがあるけれども、それは本来の実際の売れ行きとはならないものが多いということです。私が関係した図書の場合にも、十版を越えるものがあるのですが、その出版社では千部売れても一版と数えれば、十版といっても結局は一万部ということになりますが、角川書店の場合は、五万部で一版と数えるというのです。当然ですがこういう計算だと、二十版というと十万部ということになります。


 それを伺ってから、奥付の版数によってその図書の判断をすることには、いささか問題があるということを知りました。


 こんなことが縁になって、社長からは毎月軽井沢の別荘へ招待されて、さまざまな方との出会いも作って頂きましたが、社長が大事にしていた神仏への祭りにも参加させて頂きました。


 年が変わって1988年(昭和62年)になると天上編の宇宙皇子は三月に第七巻目「めぐり逢い、輪舞」が、第八巻目「落葉帰根の詩」が五月に、第九巻「さらば、いとしの客人」が六月、第十巻目「珍(うず)皇子(みこ)よ」が九月に発売になりました。


社長はまだ出版界の様子に慣れていない私のために、図書の奥付に記されている、版数・・・つまり何版となっているかということについての、ほとんどの人に知られていないからくりと言うことについて教えて下さいました。


 あの版数が必ずしも正確なものではなく、会社によってはやたらに多い版数を刻んであるものがあるけれども、それは本来の実際の売れ行きとはならないものが多いということです。私が関係した図書の場合にも、十版を越えるものがあるのですが、その出版社では千部売れても一版と数えれば、十版といっても結局は一万部ということになりますが、角川書店の場合は、五万部で一版と数えるというのです。当然ですがこういう計算だと、二十版というと十万部ということになります。


 それを伺ってから、奥付の版数によってその図書の判断をすることには、いささか問題があるということを知りました。


 こんなことが縁になって、社長からは毎月軽井沢の別荘へ招待されて、さまざまな方との出会いも作って頂きましたが、社長が大事にしていた神仏への祭りにも参加させて頂きました。


 年が変わって1988年(昭和62年)になると天上編の宇宙皇子は三月に第七巻目「めぐり逢い、輪舞」が、第八巻目「落葉帰根の詩」が五月に、第九巻「さらば、いとしの客人」が六月、第十巻目「珍(うず)皇子(みこ)よ」が九月に発売になりました。


      「天上編・7」1.jpg 「天上編・8」1.jpg 「天上編・9」1.jpg 「天上編・10」1.jpg 


 同じように地上編宇宙皇子の文庫も七巻目が三月に、八巻目が八月に、九巻目が六月に、十巻目が七月に発売されて完結しました。


      「天上編文庫・7」1.jpg 「天上編文庫・8」1.jpg 「天上編文庫・9」1.jpg 「天上編文庫10」1.jpg 


 この七巻、八巻、九巻、十巻という宇宙皇子は、天上編ということで一つのシリーズが完結することになったのですが、その十巻目の作品については、私には生涯忘れることの出来ない別れとの遭遇をすることになってしまったのです。話が長くなってしまいますが、私が大学を出て間もなく、就職をあきらめて作家を目指したいと申し出た時のことです。作家の世界の厳しさを熟知していた父の怒りをかってしまって、家を出なくてはならなくなってしまったことがありました。それから十数年という間口もきいてくれない断絶状態があったのですが、長いこと絶遠状態にあった父も「宇宙戦艦ヤマト」のヒットや「宇宙皇子」のヒットという私の活躍を知って、ようやくかつての勘気を解いてくれ始めたころのこと、非常に元気はつらつとしていたはずだった父も喉頭癌を患って次第に体調を崩してしまい、やがて気持ちの張りを失ってしまって記憶障害が始まり、私の親友が院長である病院へ入って貰っていたのですが、次第に記憶は薄れて体調も衰えていってしまいました。


この本については、宇宙皇子が苦闘しながら、やっと自分の父と思われる天上の神と出会うのですが、その宮殿へようやくたどり着いて、彼が生まれたいきさつについて聞き出したかったのですが、必死で宮殿内へ飛び込んでいこうとする宇宙皇子に対して、父たる神は厳しく「まだ早い」と言って突き放されて地上へと戻されてしまうのです。


私にとっては、この別れこそが、実の父との別れの光景と重なり合っていたのです。


1989年(平成元年)2月3日。父は喉頭がんを患って療養中の医院で体調を崩し、一気に回復不能状態になってしまい、ほとんど言葉もかわせない状態になって鬼籍の人となってしまいました。いろいろな行き違いはありましたが、ようやくこれまでの親子関係を取り戻したばかりだというのに、その絆を断ち切るように天界へ向かって行ってしまった父の姿を見ていると、いよいよ納棺という時は天界の父に会いに行った宇宙皇子が、門前で突き放されて、また苦界の現世に戻されてしまいましたが、そんな宇宙皇子と同じような気持ちになってしまって、出版されて間もないあの天上編十巻目「珍皇子よ」の本を棺に収めながら、涙を禁じ得ずに兄弟たちに囲まれながら号泣しつづけてしまったのでした。


 


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告知と放談の部屋☆ 放91「連作する馬力が必要」 [趣味・カルチャー]

 「宇宙皇子」シリーズのベストセラー化は読者の希望に沿うためか、それとも書店の希望によるものなのか、出版社である角川書店の希望によるものかは判りませんでしたが、兎に角よく売れましたが、地上編の第十巻目を1985年9月に出版した後で、1986年(昭和61年)6月に次のシリーズである天上編の第一巻「天界の異邦人」が発売になるまでには充分に時間がありましたので、私はかねてからお話のあった徳間書店の、「エプリルシャワー物語」という青春小説を執筆して4月に発売したのです。

ところがそのことが、私にとっては試練の時になってしまったのでした。


しかし残念でしたが当時はそんなことなどに気づくようなことはまったくありませんでした。むしろ二つの出版社から違ったジャンルの作品を出版できたことで、大変満足していましたし充足感でいっぱいでした。その後角川書店の「宇宙皇子」の「天上編」の一巻目の原稿も問題なく快調に書き上げてしまいましたので、徳間書店から依頼のあった「エプリルシャワー物語」のサイン会も快く受けたのでした。


まだこの頃は出版界についてはほとんど知識もない頃ですから、それぞれの会社から連絡をしてくれることについては、その依頼については真摯に受け止めて、やれるかどうかという判断をした上で判断した通りきちんと応えてきました。まったく迷惑を掛けずに、どちらの会社の依頼についても成し遂げてしまいました。


「宇宙皇子」の天上編「天界の異邦人」は間違いなく、予定されている日に出版されました。


                                           「宇宙皇子・天上編1」1.jpg


ところがこの時から角川書店と徳間書店との間には、密かに私を巡って激しい戦いが始まっていたようです。勿論あの頃そんなことにはまったく神経を尖らせている余裕はありませんでした。前述しましたが、私にはまったくそういうことについて神経を尖らせるほどこの世界についての常識についての知識がありませんでしたので、出版社から入る原稿の依頼にどう応えていくかということに必死だったのです。お陰様で締め切りを頭に置いて混乱しないように整理していましたが、兎に角各社からくるさまざまな依頼をこなしていくには、まず筆力を発揮できるのかどうかという問題があるということに気がつきました。どんなに仕事の機会を作って頂いてもそれを支障なくこなしていくには、先ず原稿を書くという肉体的な負担に耐えられかどうかという問題に直面します。もしそれに応えられないのであれば、一刻も早くお断りしなくては、先方に迷惑をかけることになってしまいます。仮に日常的な暮らしを犠牲にしてもいいというような決心はつけられたとしても、基本的に体力がないと作業をしつづけることは出来ません。


 その頃は私自身子供との対応は家内に任せて、私はほとんどかかわれなくなっていました。今になって思い返しますと、よくあの無茶苦茶な私の生活ぶりに耐えてくれていたなと思っています。しかしこの考えようもない状況に耐えて仕事に支障を生じないようにしていけたのは、私自身の驚異的な強靭さに支えられていたということがあったからです。


当時の写真を見ると兎に角痩せていて頬もこけていますが、肉体的にはかなり酷使してもそれで倒れてしまうというようなか細さはありませんでした。それだからこそ、来る仕事も来る仕事も喜びを持って挑んでいくことができたのです。最近になってつくづく思うことは、当時の無茶苦茶なスケジュールに耐えられたのは、ひとえに健康そのものであったということのお陰です。若い頃からテニスで鍛えていたことがよかったのかもしれません。


 


 ところが角川書店に異変が起こりだしたのは天上編の第二巻目の「戯女市の女」が七月に発売された後のことだったのです。


                                           「天上編・2」1.jpg


角川書店は新書版の地上編の十巻の文庫化を始めたのです。九月、十月に三巻まで発売してきたのです。どうして天上編が始まったばかりだというのに、前のシリーズの文庫化をし始めたのです。


 (こんなことをしてもいいのか)


 出版の理屈が判りません。


 


 しかし営業的な部署での授総部の判断であるということで、それに反対するようなことは出来ません。新たな文庫に関しても、まったく勢いは落ちませんでした。新書版の時と同じように売れていきます。当初心配した私もそれを知ってまったく気にするようなことがなくなってしまっていたのでした。


                       「宇宙皇子・文庫1」1.jpg 「地上編文庫・2」1.jpg 「地上編文庫・3」1.jpg


                                             「天上編・3」1.jpg 


  天上編の宇宙皇子第三巻目「天の補陀落恋渡海」は、ようやく11月に発売になって1986年は終わったのでした。


翌年の1987年は、天上編第四巻目「荒魂怨歌抄」第五巻目「天界千年戦☆陰の巻」第六巻目「天界千年戦☆陽の巻」が発売され、増したが、地上編文庫の次のような4巻、5巻、6巻が発売されたのでした。


                      「天上編・4」1.jpg 「天上編・5」1.jpg 「天上編・6」1.jpg


                      「天上編文庫・4」1.jpg 「天上編文庫・5」1.jpg 「天上編文庫・6」1.jpg


 


文庫化は新しく話を書き下ろすということはありませんので、作家にとってはその分時間的なゆとりができますので、他に書くものがあれば、充分に書くことができますが、兎に角このような滅茶苦茶なスケジュールをこなしていくには、こうして作品を連作する体力がなくてはできません。特に大衆作品を書く人にとっては、それができるかどうかということが評価を決められてしまいます。それだけは自信を持って言い切れます。藤川には影武者がいるのではなどと陰口をきく者もいたようですが、あれだけ絶えず編集者が出入りしていては、とても影武者がたちいる余地などまったくないことは判ったはずです。若い時から夢をため込んでいることも、連作する大事なことだと思います。あとはその発表の機会を待つだけです。わたしはその機会と巡り合う幸運にも恵まれたということでしょう。どん底時代に巡り合った月とのめぐり逢いから、なぜか運の流が変わったように思えます。


 


 


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思い出作品の部屋☆ 思12「エプリル・シャワーと横浜」 [趣味・カルチャー]

  

映像の世界から転身する機会を模索している間に角川書店との縁が出来て、幸いにも「宇宙皇子」という作品がヒットして、その勢いに乗って活字の世界での作業を連打している最中のことでした。すでに「宇宙皇子」の地上編十巻の出版が終わりましたので、映像時代からのお付き合いの深い、その中でもテレビの放送番組に関する雑誌である「アニメージュ」とのつながりから、徳間書店から依頼された小説の執筆という話です。角川書店の作業に区切りがついた時でもあり、本来ならそれで暫く休息していてもいい状態だったのですが、書くということに意欲が高まっていたこともあったことから、まったく休息するという気持にはならず、これまでのおつき合いに感謝する気持ちもあって徳間書店の依頼を引き受けることにしました。


テレビ時代では、こんなものも書きたいと思っても、何か流行っている番組があると、大体それと同じような作品の執筆依頼がつづいてしまうのが通例で、物書きとしては大変欲求不満状態であったのです。そんな状態であったところに、放送界にも不景気が遅い襲いかかってきたのです。私はそんな機会に転身の機会を探し始めていたのです。


そんな時に縁を得て書いたのが古代歴史ロマン「宇宙皇子」でしたが、幸いにも好評で地上編を終わりました。もうその時次のシリーズは「天上編」ということになるということについては編集部へ伝えてありましたし、その第一巻の発売が来年の六月になるということもはっきりとしましたので、徳間書店から声がかかったのです。しかも幸いなことに、「宇宙皇子」と同じような古代史を背景にしたものをというような註文はありませんでした。そこで私は、かねてからいつか書いてみようと思っていた青春小説を書きたいと提案しました。編集担当としてやって来て下さったのが、テレビの人気作品であった「六神合体 ゴットマーズ」の、軽井沢でのスタッフの座談会を取材しに来てくれたこともある気心が知れたOさんという女性だったこともあって、私の提案についてほとんど反対はなく、構想についてはほとんどお任せして頂きました。ただその時私は、イラストレイターの選考についてはある注文をしておきました。映像時代では作画にいちいち注文を付けることは出来ませんでしたが、小説の挿絵である以上あまり筆力の落ちる方は困るので、青春を飾るのに相応しい絵の描ける人を選んで欲しいと注文したのでした。その間に私は早速提案した青春物に相応しい内容を煮詰めていました。


 実はこの頃私は横浜からデビュウして「結婚するって本当ですか」で大ヒットを飛ばしたダ・カーポとのお付き合いで、彼らが横浜青年会議所でのコンサートを行うことになり、その構成を受け持つことになったことがあったのですが、その時に紹介された青年会議所幹部の面々から、たまたま私がさまざまな映像作品のヒットにかかわっているということを知って、彼らは横浜を舞台にした映像作品が作りたいと思っていたので、何かいい話を考えて貰えませんかというお話になったのです。それ以来そのことは忘れたことはありませんでしたが、すでに角川書店でのヒット作品を連続的に書かなくてはならなくなってしまったこともあって、直ぐには青年会議所用の作品のことを考えることはなかったのです。ところがそんなところへ飛び込んできたのが徳間書店からの小説の執筆依頼だったのです。兎に角今は「天上編」を書くまでにかなり時間的に余裕があります。


 1986年4月30日発売の「エプリル・シャワー物語」は夢中で書き上げたのでした。


「宇宙皇子」を執筆しながらでも、当時は活力が溢れていて執筆が苦しいとか嫌になるというような気持ちにはまったくなりません。「宇宙皇子」とは違ったジャンルの作品が書けるということもあって、楽しみを持って書ききる馬力を発揮することができたのです。イラストについてもいくつかの候補から、私は太田慶文さんに引き受けて頂くことにいたしました。


大変品格のある美しい少女の姿に惹かれたのがきっかけでした。


                                             「徳間・エプリスシャワー物語」(1980・6・4)1.jpg


横浜の町の片隅に捨てられていた不幸な人生を生きることになってしまった赤ん坊を、たまたま発見してしまった高校生の男女が、その捨て子を放っておくことができなくなって、さまざまな障害を克服して面倒を見てやろうと動き出したのでした。あまりストーリーのすべてを説明することができませんが、もし映画化という計画が現実化するとしたら、その中心人物となって赤ん坊を育てることになる人のいい男子学生には、当時デビュウして人気を得ていた、剽軽もので明るく軽快な演技でも評価されている柳沢慎吾さんを起用しようと思ったりしながら、それらの作業は横浜青年会議所の方々にお任せして、私はもう角川書店の作業にかかっていましたので、「エプリル・シャワー物語」の映像化に関してはほとんどお任せ状態でしたが、その間に徳間書店も編集担当のOさんは、キャンペーンのために、サイン会を企画して下さいました。6月5日のことです。横浜大仏次郎博物館での読者との懇親会を開くことになったのです。横浜の港が見える丘公園にある「鞍馬天狗」などで評判の作家大佛次郎さんの文学館でした。


  「徳間・大佛次郎記念館・案内板」1.jpg 「徳間・大仏次郎記念館を望む」1.JPG 「徳間・大佛次郎記念館」1.JPG


紹介した写真は、今から31年も前のことですから、もうあの時集まってくれたファンのみなさんも、みな40代になっていらっしゃるはずです。今頃はどんな青・壮年気を迎えていらっしゃるでしょう。皆さんにとっても、それぞれの思い出に繋がる光景ですが、残念ながら一人一人のお名前も判りませんし、追跡して掲載の許可を取るということもできませんので、思い切って当時を懐かしく思いながら掲載に踏み切りました。どうかご了承下さい。


                    「徳間・ファンとの交流1」1.jpg  「徳間・ファンとの交流2」1.jpg


                           「徳間・ファンとの交流」1.JPG


残念でしたが、横浜を舞台にした青春物語は映画にすることは出来ませんでしたが、作中で活躍した登場人物たちは、今でも生き生きと存在しています。ヒーローになりそこなってしまった幻の柳沢慎吾さんもまだ元気な姿をテレビで拝見しますが、その度に私は幻となってしまった映画のことが思い出しています。


 みなさんとはコロナのために出会うこともできませんが、どうか元気でお過ごし下さい。


私も高齢にはなりましたが元気いっぱいです。まだまだ頑張るつもりでおります。


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告知と放談の部屋☆ 告11 「更新日変更の件」 [趣味・カルチャー]

                                                       「素材・原稿執筆中」1.jpg

  

来週の日曜日(20日)の更新は、都合により日曜日でなく土曜日(19日)に更新いたします。


 急な変更で失礼します。


 


 


                             藤川桂介


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告知と放談の部屋☆ 放90「体験ツアーで思ったこと」 [趣味・カルチャー]

  

はじめて体験ツアーが行なわれたのは、どんな時代であったかを考えてみたいと思います。1985年8月ということですから、もう一度36前を思い出してみませんか。恐らく現在50代から60代あたりの年齢にかかっていらっしゃる方々は、まだかなり記憶に新しいかもしれません。かつて時代の背景について書いたことがあったはずなのですが、兎に角時代自体が変わろうとして苦悶している中でしたので、大変落ち着かない激動している時代でした。恐らくブログをご覧のみなさんも、そんな時に青春時代を過ごしていらっしゃった方が多いのではないでしょうか。


当時は中曽根康弘総理大臣の統治が始まって三年目という頃で、世相は世界的な石油ショクという影響で、そのためにまったく落ち着かない、行き先の見えない混乱という状況にあった時代です。何もかもが新しい生き方を探って必死の時代でしたから、思いもかけない人間像を持った者が跳び出してきたりします。特に今回は若い人たちの集まったツアーの話ですから、当時の若者たちの中から現われてきて世間を騒がせた塊についてお話しますが、この頃話題になっていたのは、若者たちの群がり現象というものです。しかし当然ですが、そういった群れには加わらない・・・いや。加われない真面目で地味な性格の持ち主で、真面目に自分の向かうべき方向を探そうと努力する者たちもいたのですが、そういう人たちをあの群がり族たちは、「ネグラ」といって無視していました。自称新しがり屋で如何にも時代の先端をいっているのだと誇示したがる派手な者が多かったし、気に入らなければ学校でも家庭でも暴力をふるうという傍若無人という若者が激増していたのです。新時代の到来でパソコンが使われはじめると、そうしたものを得意になって新しがる若者が出て来たかと思うと、時代の急激な変化に対応できないでいる者も多くなるのですが、そんな若者たちを「ネアカ」とか「ネグラ」といって差別し合うようなことが起ったり、小中学では校内暴力やイジメが問題になったり、家庭内暴力を振るう者が現われたりする新人類が跋扈する話題ばかりの時代でしたので、その日ツアーで出会った若者たちは、一体どういう範疇に入る人たちなのであろうかと注意して見ていましたが、今回体験ツアーに集まった若者たちは、どう考えてもそれらの人たちとはひと味違っているように思えてなりませんでした。


目下話題になるような荒れる若者たちとはまったく縁のない、気持ちのいい仲間たちといったような集団です。どちらかというと時代の風潮には馴染みようもない若者に見えました。恐らく現在ブログをご覧いただいているみなさんには、そんな時代の混乱期に青春時代を過ごしてきたか、青春時代前期にあった方々であったかもしれません。


 私はそんな時代の若い人たちに向けて、「宇宙皇子」という運命的な誕生をして差別される若者が、そういう理由にならないものと戦いながら虐げられているものが安らかに暮らせる時代を求めて活躍する大河ロマンを考えましたが、その背景にはそんな時代を背負った運命の子だったのです。彼はたまたま起こった壬申の乱の最中に、神と農民の女性との間に生まれるのですが、彼が父と思う人は戦に駆り出されて戦ううちに、悲劇的な死を遂げてしまうのです。謎めいた運命の子の頭からは、なぜか頭髪の中から小さな角が現われていた。そのために「鬼」と言われて差別さる青春時代を生きることになるのです。


出版が始まると同時に思いがけない方から電話を頂きました。身障者の子が通う学校の先生からでした。生徒の中から、私と会いたいといっている者がいるというので、集会があったら行かせてやりたいというものでした。勿論私は講演会に招待して上げて、「宇宙皇子」の誕生秘話についての話をいたしましたが、彼は宇宙皇子が「鬼」と言って差別されるのに負けずに、そういった差別と戦う姿に共感するようになったということを知りました。養護学校の少年は、たまたま身障者として生まれてしまった運命の子です。それに対して現代のような理解が行き届かない時代です。さまざまな差別の中で青春時代を過ごさなくてはなりませんでした。何の配慮もない新人類に対して、彼らに代って立ち向かってくれるヒーローとして、宇宙皇子という存在を発見したのでしょう。彼には決して負けるなと励ましたことがありました。


私は「宇宙皇子追体験ツアー」というものを企画して、はじめて実際にその読者となった人たち・・・時代の影響を受けて暮らしている少年少女の実像を知ることになりました。彼らの現在を生きる若者としての姿を、夜のお楽しみの時間になって知りました。彼らを取り巻いている時代背景や、その影響を受けながら送っている青春時代の日常を受け止めることになったのです。大変素直で明るい若者たちは、七夕祭りの飾りつけを行い、ショートコントを演ずる様子を見ていると、出会った時の印象とはまるで違った姿を見るような気がしました。彼らはそれまで派手なパフォーマンスなど、とてもするようなことの出来ない者たちだと思っていたのですが、実際はそういった想像をまったく覆してしまう姿でした。「宇宙皇子」というヒーローを仲立ちにして集まった、同志たちと結集できたという安心感が生まれていたのでしょうか、とても大胆な自己表現をして楽しんでいたように思えました。


あの数日間の若者たちを見たり、接したりするうちに、彼らは今の置かれている状況に反発できずにいる、いわゆる群がれないでいる地味な性格の若者たちの姿を見たように思ったのです。彼らが普段発揮できないであろう派手なパフォーマンスが、この同じ仲間たちの中だけでは、思い切り発揮できたのではないでしょうか。お互いに宇宙皇子という差別と闘う若者と同じ思いに共感しあう、同志として開放的な気持ちを味わっていたに違いありません。「宇宙皇子」シリーズの勢いが出版する度に、ますますその勢いを増して行ったその背景には、彼らの共感を得た時代感覚を描き出したことになっているのではないかと思いました。熱烈な読者たちは、同じ時代の背景を持った同志として窮屈な環境にあった者たちであったのかも知れません。彼らがあのように開放的で何も遠慮をすることもない自己表現をして楽しむ姿を見ているうちに、閉塞状態にある環境から思いきり解放してあげたいという気持になりました。そんなことから私は、若者に自信を持って生きなさいといって激励するための呼びかけを書いてみようと思い始めたのです。


                                  「ぼくの青春論」1.jpg 「文庫・君が輝いて見えるとき」1.jpg


丁度その頃PHP出版からの依頼があったので、1990年10月には「僕の青春論」・・・という本を出版して頂きましたが、それから暫くして、もう一寸沢山の人に読んで貰おうという意図があって、同じ出版社から1993年5月に「君が輝いて見えるとき」とタイトルを変えて出版して下さいました。余談になりますが、この本の最期の「あとがき」に、私のいくつかの謎について面白く書いてくれたのは、最後の弟子としてすでに作家となっていた若き森川潤君でしたが、彼は現在教育者としても活躍していることをつけ足しておきます。


 いつの時代でもそうですが、新しい時代に直ぐに飛びついていける人、それらしく生きていける人がいると思うと、なかなか器用には生きられない人がいるものです。問題なのは、自分とは違った生き方をする人に対する思いを、「差別」という形で表現してしまうことがあることに気をつけなくてはならないでしょう。それぞれ違った生き方をしながら、それぞれの目標に向かって進んでいくのが人生です。何もかもうまくいくこともあり、うまくいかないままになってしまうこともあります。しかしそれはあなた自身が選んだ選択であったのかも知れません。兎に角そのどちらの道を与えられたとしても、それに負けないことです。あの頃の二冊については出来れば読んで頂きたいと思うのですが、かなり時間を経過しているので、もう手に入らないかも知れませんね。


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思い出作品の部屋☆ 思11「宇宙皇子体験ツアー始まる」 [趣味・カルチャー]

  

当時テレビでは、番組の支持者がこういう風に集まるというケースはよくあるのですが、恐らく出版物にこのようなファンが集まってくるということは、これまであまり聞いたこともありませんでした。そんなことから私は、彼らを担当の編集長A氏に紹介したのですが、彼もそんな読者に接した結果、彼の率いていた「あすか」の編集部の一部をFCの拠点として、会報の編集などに使うようにと貸して下さったのがFCの始まりでした。


会員となることを希望する人々が次々と申し込んできました。やがて彼らには会報や会員証を送るための費用を会費として払って頂いてクラブを維持していくことにいたしました。勿論その中心と働く者はまったくの自弁です。


「鬼笛伝説」の0号が送り出される頃には、会員になることの希望者があまり多いということが判りましたので、この際そうしたファンを一堂に集められたらどんなにいいかと夢を見るようになっていた私は、「宇宙皇子」が作中で活躍する場へ読者も同じヒーローとなって歴史の世界を旅してみてはどうかという提案をいたしました。お陰様で角川書店には旅行を扱う部署もありましたので、それを扱ってくれるということにもなり、その夢の企画は現実的なものとなって動き出したのでした。それが「鬼笛伝説」0号の裏表紙に出された体験ツアーの呼びかけでした。その結果取り敢えずかってなかった「宇宙皇子体験ツアー」が現実のものとなり、第一回目の抽選で決まった200人という参加者と共に、1985年(昭和60年)8月6日~8日までの三日間行われました。会報もその報告を兼ねて、ついに正式な第一号が発行されるようになりました。それに従って角川書店としてもその活動を支援して下さるようになり、小説を担当する編集長のS・Aさんを筆頭に、ベテランのT・Yさん。Y・Tさん。そして若手のK・S君。T・Y君。R・T君も参加して協力してくれるようになりました。


念願の宇宙皇子追体験ツアーは会報の第一号となった「鬼笛伝説」で特集記事として紹介されることになりました。


                「会報・鬼笛伝説1号」1.jpg


      「宇宙・体験ツアー・1」1.jpg 「宇宙・体験ツアー・2」1.jpg 「宇宙・体験ツアー・3」1.jpg


東京(二台)・横浜・大阪からバスで移動してきたファンたちは、金剛山の頂上にある駐車場で合流して、普段は出会うこともできない同じ宇宙皇子ファンとして出会うことになります。みなバスで来るのできっと疲れていたと思いますが、到着するとたちまち若者の活力を発揮していました。


写真はなるべく個人的に困ることにならないように集団中心のものにいたしましたのでご了承いただきたいと思います。


    「宇宙・バスで集結」1.jpg 「宇宙・金剛山頂で集結」1.jpg 「宇宙・緑陰講義」1.jpg


   「宇宙・遺跡へ向かう」1.jpg 「宇宙・史跡での講義」1.jpg 「宇宙・夕食・」1.jpg


   「宇宙・揃ったかな」1.jpg 「宇宙・検討中」1.jpg 「宇宙・どうだ」1.jpg


   「宇宙・七夕コンクール」1.jpg 「宇宙・表彰」1.jpg 「宇宙・夜の講義」1.jpg


ツアーの参加者は、それぞれの地方からのバスに乗って、遠路はるばる奈良県の金剛山頂で集結して合流してから、我がヒーローの宇宙皇子が駆け巡った飛鳥の歴史の跡を探索する旅に向いました。言い出しっぺということもありますが、私は四台のバスを連ねて史跡を訪ねる度に、その遺跡の場が小説の中のどんなところに登場したのかとか、その意味と歴史的な意味につての解説をしながら巡るのですが、その他にすべてのバスを、移動する度に乗り換えて、車内で「宇宙皇子」の執筆にまつわる話、読者との出会いなどについての話をしながら旅をしていきましたが、ツアーから帰ったその日から、また直ぐに次の作品の執筆にかからなくてはならないので、これはかなり重労働の旅でした。


FCの世話役も会長を務めてくれたY・N君。主力メンバーの二人のT・S君。T・Nの君そしてY・Oさんなどは参加者の面倒を見るために参加しましたが、何かと私のかかわったイベントに協力して参加してくれていた弟子の脚本家K・T君。J・T君。そして親しい後輩の脚本家のS・T君が協力してくれていましたので、参加した人たちにとっても通常味わえない楽しみでもあったでしょう。


 兎に角炎熱の夏ですから、史跡、史跡へ移動しながら、なるべく緑陰を見つけながら小説とのかかわりについて説明をしながら強行軍をつづけました。夜は入浴、食事を楽しみ、それからは書く地域の参加者がグループとなって、宿が用意して下さった竹を使って七夕飾りのコンクールとなり、彼らがそれぞれ工夫した寸劇を演じたりして、やがてそれをゲストの参加者による審査が行われて賞を贈りました。


 「宇宙・サイン会」1.jpg 「宇宙・史跡での講義」1.jpg 「宇宙・全員集合」1.jpg


二日目は史跡めぐりをした後は、翌日は朝からサイン会です。いのまたむつみさんも大変だったと思いますが、そのあとまた史跡めぐりをしますが、その度に私は小説の宇宙皇子と史跡のかかわり方などを説明していきますから、まったく休息時間はありませんでした。夜は落ち着いたところで古代史についての簡単なお話をしたりしましたのでくたくたでした。三日目はほとんど帰途の準備ですが、一寸だけ立ち寄るところへ行った後は、それぞれの出発点へ向けて帰途について行きました。


この「宇宙皇子追体験ツアー」はそれから何回か行なわれるのですが、毎回予定人数をかなり超える応募者があったので抽選は大変でしたが、その度に行けなかった人たちも会員として登録してくるようになったので、当時のアイドルのファンクラブと比べても、それをはるかに越えた会員数を誇るFCとして、各方面からも注目されるようになっていったのでした。


やがてFCの拠点は三番目のところへ移転しましたが、日本歯科医大裏のハーモニ会館という千代田区九段北2-3-7の前川九段ビル (九段下)の賃貸オフィスという狭い作業所でしたが、それから何年もの間はずっとここで頑張ってくれたのでした。


最近でもその頃のことを話す機会があると、主力メンバーの人たちはみな口を揃えて、大変ではあったけれども楽しかったといってくれます。彼らにいとっても青春時代のいい思い出になっているのではないでしょうか。


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言霊謎解きの部屋☆ 言32 「ひとくち言霊」(多多良女(たたらめ))    [趣味・カルチャー]

                                                                                                                     「若菜イラスト」.JPG

   

女性の身だしなみについては、とても簡単には言えないような時代になりました。しかしお会いした時に、こちらが予想もしていないようなところに、さり気無く気を使っているようなことに気が付くと、とても嬉しくなることがあります。そんな時、ふと思い浮かべてしまうのは、古代の女性のたしなみのことなのです。


昨今は女性のなみについては、とても簡単には論評できなくなってしまいました。特にファッションなどについてはそうです。迂闊に論評などはできません。実に大胆で、奇抜なファッションを生み出してきたりしますから・・・。それに鮮度や、センスの新しさを感じることもあるのですから。しかしパフォーマンスとしては理解できるのですが、あまりにも行き過ぎと感じるようなものには、納得しかねるものも多くなってきました。価値観の違いによる違和感なのかもしれません。


昨今は男性、女性の中性化という傾向もあって、かつてのように男性は男性らしく、女性は女性らしく振舞うという風習が、大分薄れてきてしまいました。そのために、すべての表現が大胆になって、いわゆる恥じらいなどというものが、ほとんど感じられなくなってしまっています。そしてそれに同調するように、お互いがお互いを気遣うという気風が、すっかり希薄になってきてしまっています。お互いに行きすぎを改めないと、あまりいい雰囲気がなくなってしまうのではありませんか。


そこでですが、男女の性の差がはっきりとしていた時代・・・お互いに、その差を最大限に発揮して生きようとしていた頃のことです。


恋する男と女が出会う約束をした時など、女は大変気を使って出かけて行きました。約束の場へ向かう道すがら、女は小梅の花びらを口に含んでいったのです。それは口臭のために、相手に不快な思いをさせないようにという、ごく常識的な気遣いの風習だったのです。


現代のように、いい医薬品などがまったくない時代のことです。女性はこのような気遣いをして、恋する人と会おうとしました。古代の女性たちは、そうした不自由なところを解消するために、それぞれの知恵を使って、克服していました。


お金を出しさえすれば、すべて用意されてしまう現代の欠点は、工夫することを放棄してしまうということです。そのために知恵も萎えていってしまいます。そしてそれと同時に、恥じらいという感覚も失ってきてしまいました。電車の中で化粧をしたり、足を広げて座ったり、更にはものを食べたりしている人を見かけることがありますが、それが女性なのですから、言葉を失ってしまいます。


女性が人に会う時の心得として、多多良女を口に含んで人に会おうとしていた古代の女性を、妙にいとしく思えたりする梅の季節です。もう、古代の女性のような、心優しい気遣いのある女性に出会うことは、大変難しい時代になってしまったのでしょうか。


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歴史と旅する部屋☆ 歴4「中国取材・演出上手な皇帝たち」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」の成功で大変活動しやすくなった私は、古代日本と政治的にも文化の面でも中国大陸との接触は無視できないということを知ったことがきっかけで、是非その原点を知っておきたいという気持になって、古代日本にとって先進国として君臨していた中国大陸の統治をする唐国の様子を吸収しておこうという気持になっていました。兎に角北京へ行ったらその代表的な博物館へ赴いて、日本と関係の深かった唐国様子を調べたいと思いました。お陰様で「宇宙皇子」は営業的にもかなり貢献していましたから、当然のことで直ぐにも許可が出ました。おおむね自分の言ってみたいところを列挙して、その希望する史跡を書いて提出したところ、角川トラベルという旅行を仕切っている部署が、交通関係その他の手配を済ませてくれましたので、私は北京空港から市内の大きい飯店・・・日本でいうホテルへ着くと、直ちに編集のS君を引き連れて北京博物館へ向かいました。日本の常識からいえば首都の代表的な博物館ですから、ここへ行けばほんど目的は果たせると思っていったのです。ところが実際に行ってみて愕然としてしまいました。博物館自体はかなり立派に見えましたが、その内容に関しては愕然としてしまったのです。ここで中国の唐時代の歴史を調べて、日本とのかかわりを調べてから史跡を探訪すれば、宇宙皇子の作品に活かしていけると思っていたのですが、その期待はのっけからすっかりはずされてしまいました。二十世紀後半に起こった中国の歴史的な激変にほとんど無関心であったことによりました。中国は1976年(昭和51年)・・・ほぼこの時よりも10年前に、中国大陸を支配していた保守的な蒋介石将軍を支配者とした政権に対して、周辺の貧しい弱小地域の民兵を率いて戦いを挑んできた毛沢東・江青夫妻を指揮官とする共産軍が、激しい戦闘の結果、蔣介石一派を台湾へと追いやってしまって、毛沢東を頂点とする政権による共産政権の支配に変わってしまっていたのです。仮に政変はあったとしても、すでにそれから10年を経過していましたからすべては落ち着いていると考えていたのが大間違いだったのです。今は必死で新しい政権の統治を徹底しようとピリピリしている状態だったのです。


 私は「唐時代」の朝廷の様子が詳しく知りたかったのですが、現代の新政府は古代の朝廷は人民を苦しめる皇帝という権力者の時代だということで、古代の展示物はほとんど排除されていて、そこに出されているのは簡単な紹介が書かれている説明書だけでした。博物館内の展示はほとんど毛沢東が率いて攻め込んできた共産軍の進行状況や、どうやって蔣介石軍を大陸から追放して行ったのかといったといった、共産軍の勝利までの歴史が補トンです。ほとんど資料となるような図書を買うこともできませんでしたが、ついでにお話すると日本から輸入されている角川新書などは、表紙が刺激的で許せないというので、ほとんどのイラストが描かれた表紙ははぎ取られてしまっていました。そんな状態ですから、取材の目的であった古代の歴史についての資料はまったく手に入れることは出来ず、わずかに古代の三国志の政界での戦いなどに使われたという武器の、常に南を指すという羅針盤である指南盤というものを乗せた指南車を見つけたので、それを模型にして売っていたので購入してこられただけでした。最近はどうか知りませんが、さまざまな競技でその指導者を柔道指南とか県道指南とかいうのは、必ず南の方向を示すという指南盤からきた言葉です。


                             「中国・指南車」.jpg  「中国・指南盤」1.jpg


 こんな状態でしたが、宿泊するホテルも大きなものでしたが、設備はほとんど昔の儘で、新しいものはまったくありません。日本へ電話をかけるにも、廊下に一台だけあって止宿するものの共用で、いちいち電話を繋いでもらうように交換手に申し込んで、部屋で待っているという状態のものでした。あくまでも1985年頃のことですが、それでも私には、当時の中国は日本と比べて100年以上遅れていると思ったものです。


 市民の暮らしもまだまだほとんど昔の儘で、とても新しくなったといえるようなものは見られません。S君と市内へ出かけた時には、街角ではじめて人民裁判というものを実際に見かけました。多くの人々に取り囲まれた中で、争いになっている二人の男が激しく自己主張をし合うのです。それに対して集まっている人民がどっちの言い分が正しいかを判定するのです。


 とても日本では見ることもないような風景を見ることもありましたが、予定されているタクシーで史跡の探訪に出かけた時にびっくりしたのは、まったく整備されない広い大通りを爆走するのです。しかもその間に青島ビールを瓶のまま飲みながらです。S君とひやひやしっぱなしでした。


 郊外に到達して万里の長城へ行った時には、流石に古代の戦いが想像できました。 


こんな状態でしたが、宿泊するホテルも大きなものでしたが、設備はほとんど昔の儘で、新しいものはまったくありません。日本へ電話をかけるにも、廊下に一台だけあって止宿するものの共用で、いちいち電話を繋いでもらうように交換手に申し込んで、部屋で待っているという状態のものでした。あくまでも1985年頃のことですが、それでも私には、当時の中国は日本と比べて100年以上遅れていると思ったものです。


 市民の暮らしもまだまだほとんど昔の儘で、とても新しくなったといえるようなものは見られません。S君と市内へ出かけた時には、街角ではじめて人民裁判というものを実際に見かけました。多くの人々に取り囲まれた中で、争いになっている二人の男が激しく自己主張をし合うのです。それに対して集まっている人民がどっちの言い分が正しいかを判定するのです。


 とても日本では見ることもないような風景を見ることもありましたが、予定されているタクシーで史跡の探訪に出かけた時にびっくりしたのは、まったく整備されない広い大通りを爆走するのです。しかもその間に青島ビールを瓶のまま飲みながらです。S君とひやひやしっぱなしでした。


 郊外に到達して万里の長城へ行った時には、流石に古代の戦いが想像できました。


                      「中国・山を回る長城」1.jpg 「中国・万里長城・攻撃壁」1.jpg


  古来中国は匈奴という騎馬民族によってしばしば侵略されるというので、それに抵抗して戦うために築いた城壁が、取り敢えず観光施設としては解放されていましたが、こんなものを何年もかけて完成させる中国という国の国民性というようなものを感じました。


 


古来中国は匈奴という騎馬民族によってしばしば侵略されるというので、それに抵抗して戦うために築いた城壁が、取り敢えず観光施設としては解放されていましたが、こんなものを何年もかけて完成させる中国という国の国民性というようなものを感じました。


                  「中国・宮殿から見た庭」1.jpg 「中国・香炉の置かれた階段」1.jpg


北京市内へ戻ってから案内して貰ったのが、皇帝の使っていた宮殿の様子でしたが、彼らはその宮殿から現れる時には、そこから下へのびて作られた階段のすべてに巨大な香炉のツボが置かれていて、それから香が立ち昇っているのです。臣下たちはその階段の下の下にいて、やがて合図の妙なる演奏と共にまるで天空から現れるようにして薫香に包まれた宮殿から現れるのです。皇帝は正に神々しい天空から現われる神のような姿となって臣下たちの目には映ったことでしょう。当時の中国皇帝が実に演出上手であったことは、天壇公園というところで皇帝が臣下たちに演説をするところも、岡の上のあるところから演説すると、その声は地上よりも高いところから聞こえてくるように響いて、丘の下に控える臣下たちのいる庭に聞こえたといいます。今もその場は残っていて、観光客がみなその場へいって試しています。皇帝たちの残した遺跡をいくつも見ましたが、彼らは自分を如何に偉大であるかを知らしめるために、さまざまなことを利用して神格化を演出していたのを知りました。北京市内へ戻ってから案内して貰ったのが、皇帝の使っていた宮殿の様子でしたが、彼らはその宮殿から現れる時には、そこから下へのびて作られた階段のすべてに巨大な香炉のツボが置かれていて、それから香が立ち昇っているのです。臣下たちはその階段の下の下にいて、やがて合図の妙なる演奏と共にまるで天空から現れるようにして薫香に包まれた宮殿から現れるのです。皇帝は正に神々しい天空から現われる神のような姿となって臣下たちの目には映ったことでしょう。当時の中国皇帝が実に演出上手であったことは、天壇公園というところで皇帝が臣下たちに演説をするところも、岡の上のあるところから演説すると、その声は地上よりも高いところから聞こえてくるように響いて、丘の下に控える臣下たちのいる庭に聞こえたといいます。今もその場は残っていて、観光客がみなその場へいって試しています。皇帝たちの残した遺跡をいくつも見ましたが、彼らは自分を如何に偉大であるかを知らしめるために、さまざまなことを利用して神格化を演出していたのを知りました。


                     「中国・天壇公園」1.jpg 「中国・円丘の下」1.jpg


いろいろ紹介したいこと、紹介したいところはあるのですが、最後に日本から唐へ渡って、そのまま中国の朝廷に仕えて生涯を終えた阿倍仲麻呂の記念碑を見た時には、ちょっと複雑な気持ちになりました。きっと彼は夜を迎えると、故国日本の平城京の三笠の山に昇る月を思い出して、望郷の思いを噛みしめていたことでしょう。


                                       「中国・吉備真備記念碑前」1.jpg


残念ですが今回は北京での取材を断片的に紹介しましたが、とにかく36年もの昔のお話です。何だか嘘のように思えるかもしれませんが、何もかも旧政権の痕跡を排除するのに必死であった、共産政権の姿だけが印象付けられた取材でした。残念ですが今回は北京での取材を断片的に紹介しましたが、とにかく36年もの昔のお話です。何だか嘘のように思えるかもしれませんが、何もかも旧政権の痕跡を排除するのに必死であった、共産政権の姿だけが印象付けられた取材でした。


 


 


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言霊謎解きの部屋☆ 言31「ひとくち言霊」(白鳥) [趣味・カルチャー]

 

                                                                                                                           「若菜イラスト」.JPG

  白鳥といえば、幼いころから、童話の世界で、美しい存在として捉えられて、物語になっていますが、やはりそれだけ目立つ存在であったのでしょうね。芸術の世界でも、白鳥と言えば、すぐにバレーの「白鳥の湖」を思い出してしまうほどよく知られ、親しまれてきています。それだけ古代からそれは、人びとに大変大きな存在感を持っていたのだということもいえます。

皇居の堀にもいますし、清浄な場に相応しい存在ですね。


多分、その美しい姿から考えられたのでしょうが、それは冥界と現世をつなぐ存在だという認識だったようです。誰もが知っていると思うのですが、古代の英雄であるヤマトタケル命が、山へ分け入った時に、魔除けのヒレを身につけていなかったのが原因で妖魔に襲われて命を失ってしまうという話が伝えられていますが、その時亡くなったヤマトタケル命は、白鳥になって飛び去ったといわれています。つまり彼の魂は白鳥となって冥界へ飛び去ったということなのですが、つい最近の新聞報道によりますと、そうした古代の認識を実証するようなことが伝えられています。


奈良時代に編集された常陸国風土記の中にも、鹿島郡白鳥郷のところに白鳥が舞い降りて昼間は少女となって堤を築き、夜は白鳥となって天に帰るという伝説が出ているのだそうですが、千葉県の佐倉市にある高岡新山遺跡から出て来た八世紀の後半の骨壷から、人骨と一緒にハクチョウの翼の骨が入っていたという新聞の報道がありました。


これは冥界と現世をつなぐ存在として、白鳥を捉えている話だと思うのです。通常ハクチョウの骨と人骨が一緒に入っているということは、とても珍しい記録ですが、当時、ハクチョウが冥界と現世をつなぐ存在であると捉えられていた例証のようなものです。そのころの人びとにとってはやはり清浄な姿として捉えられていたのですね。しかし魂が美しい白鳥となって天国へ向かうなどということは、何とも幻想的でロマンチィックな光景ではありませんか。 

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告知と放談の部屋☆ 放89「井戸は最初に掘った人のもの」 [趣味・カルチャー]

                         「宇宙皇子・新書7」1.jpg 「宇宙皇子・新書8」1.jpg 「宇宙皇子・新書9」1.jpg 「宇宙皇子・新書10」1.jpg

  

今回は1985年に発売された第七巻「まほろばに熱き(わだち)を」第八巻「愛しき太陽(てだ)に死す」第九巻「さらば夢狩人たち」第十巻「愛、果てしなき飛翔」という宇宙皇子シリーズの地上編という締めくくりに関係する後半の四冊にまつわる話を書きたいと思います。それにしても前年の1984年に始まった「宇宙皇子」は、わずか二年の間に10冊もの作品を書ききってしまうという驚異的な勢いが、出版界に及ぼした影響についてのお話です。


この間に出版界はびっくりするようなさま変わりをしてきていたからです。これまでほとんど現代物の作品が中心であったそれぞれの出版社の刊行物が、雑誌を含めてほとんど古代物中心に変わってきてしまってきたということです。


明らかに「宇宙皇子」の勢いが止まるどころか、ますます勢いづいて行くからです。


 かつてテレビで番組を書いている頃は、「宇宙戦艦ヤマト」が大当たりした影響を受けて、それから後登場する番組には、宇宙を舞台にしたものが中心になってしまったことがありました。視聴者の支持が得られるということになると、どのテレビ局もみなそろって宇宙もののSF作品になってしまったことがありました。どこかの局でそういった流に抵抗して独自色を出した別の作品を放送するようなところはないものかと、随分熱望したことがありました。しかしそれはほとんど駄目でした。依頼のくる話は、くる話もくる話も全て宇宙ものでした。昨今の出版界を見ると、まるであの頃の放送界とそっくりではありませんか。


これは間違いなく私が古代物でベストセラーを連発していることがきっかけで、読者の指示を受けて大騒ぎになっていることが影響したことが原因であることは間違いがありませんが、どこもここも同じ古代物ばかりでは、きっと飽きられてその反動が襲いかかってくるものです。作家まで現代物から突然歴史ものを書き出すありさまで、いささか嫌になってきていました。少しは違った話に挑戦できないものかと考えていた頃のことでした。私を担当する三代目の「野性時代」の編集者となったY氏が、拙宅へきて雑談中に現在の出版界についての不満を話し出した時、彼は思いがけないことを言って気にするなというのです。


彼はお兄さんが著名な占い師であった人でしたが、特別その人との影響を受けるわけでもない自由人で、編集者ではありましたが大変苦労人でした。日本酒の好きな人でしたので、彼が打ち合わせに来る時には様々な出版社から送られてきた日本の銘酒を保存しておいて、それを楽しんで貰うことにしていたのですが、彼は毎回一升すべてを飲み干して帰るようになっていましたので、ついには拙宅に隠匿していた数々の銘酒はすべてこの酒豪によって飲み干されてしまったくらいでした。それは何といっても彼のキャリヤが言わせるのかもしれませんが、時々業界にまだ馴染んでいない私に向って、思いがけないアドバイスをしてくれるようになったのです。


昨今の出版界のさま変わりについて訴えると、彼ははっきりとした口調で言い切るのです。


 「井戸は最初に掘った人のものですよ」


流石に年季を積んでいる編集長としての名言でした。


みんな同じような古代歴史ロマンを手がけて出版はしますが、それで評判になるものはほとんどありません。確かに「宇宙皇子」の独走状態でした。


営業担当の社員から入った情報によると、書く書店は東販、日販という問屋から送られてくる新刊本の箱も、私と赤川次郎さんの本が入っていないと、開封もしないで返してしまうということが起こっているということです。そのお陰で私は、毎月出版できる態勢で原稿を執筆しなくてはならなくなってしまったということになるのですが、それが無理だと感じるようになってしまうようでは、やがて自分で自分の首を絞めてしまうことを世間に知らしめることになってしまうでしょう。


(絶対にそんなみっともない結果だけにはならない)


私はそれからも精一杯頑張るつもりでした。


特に「宇宙皇子」で大ヒットをつづけている最中には、若手編集への嫌がらせ電話を入れては、溜まりつづけているいらいらを解消しようとしていたのでしょうが、Y氏は流石に年季を積んでいた苦労人であったこともあって、さまざまなことで業界に馴れずにいる私を励ましつづけてくれていたのでしょう。珍しい同志でした。彼は何度も強調していたのは誰が流行に乗って慌てて古代物を書いたとしても、決して私の書いている古代物を越える作品は生み出せないということなのです。いささか激しい現状の変化に嫌気を感じている私を、まったく気にすることはないといって励ましてくれたのでした。


それから間もなく彼の報告もあったのでしょうか、連続する作業に対する慰労のためにと、編集部長のO氏が中心となって、かかわる編集たちと共に銀座の高級料理店へ案内して下さった時には、その編集部長からもこんな名言が伝えられました。


「作家はみなそれぞれ看板づくりをして苦闘しているのですが、それを先生はいきなり(金看板)を作ってしまったのです。どうぞ自信を持ってお書き下さい」


という激励でした。


世間のさまざまな商店は、まさにその店先に掲げている看板に対する信頼度が増して、あの店の者なら間違いないといって、通ってくれるお客さんが増えるということと同じようなものだということです。作家もそれぞれ○○○○という名の人が書くものは面白いとか確かだとかいう評価がついて、その売れ行きもある程度は間違いなく消化できるということにもなりますということなのです。確かに私は思いがけない機会を得て、大きなベストセラー作品を送り出すことができてしまった幸運時であったことは間違いありません。


文学界の代表的な賞を頂いた人なのに、なぜか私が書く作品と同じようなタイトルをつけて出版してくる人もいました。


嫌らしいことをする人もいるものだなと思ったりしたものです。


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