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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ4 [趣味・カルチャー]

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 「更新変更のお知らせ」

 

 次週は18日の日曜日が更新日ですが、19日が敬老の日でお休みですし、同じ週の23日は春分の日でおやすみですので、ブログの更新は18日の更新の時に、次週の25日日曜日の更新と同時に開くことにいたしました。二回分を同時に開きますので、混乱のないようにして下さい。

いよいよ秋がやってきます。ゆっくり歴史の世界と現代についてのつながりについてお考え下さったら幸いです。

更新日に変更がありますので、お知らせしておきます。

  

                          藤川桂介 

令和四年九月


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ 3 [趣味・カルチャー]

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「更新のお知らせです」


 いつもご支援下さり、ありがとうございます。


 私事の都合により、八月二十一日の更新日には、同時に八月二十八日の日曜日の分も更新させて頂くことにいたしました。


 突然の変更で申し訳ありませんが、ご了解ください。


 よろしくお願いいたします。


藤川桂介


令和四年八月二十日


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 追記 1 [趣味・カルチャー]

「参考図書」

 

「日本書紀」上(中央公論社)

「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)

「女官通解 新訂」浅井虎夫     (講談社学術文庫)

「官職要解 新訂」和田英松     (講談社学術文庫)

「古今著聞集」日本古典文学大系      (岩波書店)

「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)

「四字熟語の辞典」真藤建郎    (日本実業出版社)

「四字熟語辞典」田部井文雄編      (大修館書店)

「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所     (三省堂)

「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)

「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)

「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)

「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書

)

「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)

「嵯峨王朝史 新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)

「遣唐使全航海」上田雄(草思社)

「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)

「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)

「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)

「日本古代人名辞典」第一巻(吉川弘文館)

「日本古代人名辞典」第三巻(吉川弘文館)

「日本古代人名辞典」第四巻(吉川弘文館)

「日本古代人名辞典」第六巻(吉川弘文館)

「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)

「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)

「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)

「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)

「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)

 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の世界☆ 閑7 [趣味・カルチャー]

「感性の復活を!」

「遠くて近い、古代の魅力」

 こんなことを言ったら、

 「いい加減にしてもらいたい。今は超科学の時代ですよ」

 こんな皮肉が跳ね返ってきそうです。

しかしちょっとお待ち下さい。

古代がそれほど現代人とかけ離れた時代なのでしょうか。

 私にはとてもそうは思えないのです。

 たしかに昨今は、我々の昭和でさえも、すでに歴史となったと言われるくらいですから、古代などといったらまったく問題にならないほど遠い過去の時代のことになるかもしれません。

しかしわたしが古代という意味は、若者たちの中で盛んに昭和の感性を懐かしむ対象として取り上げていることとは一寸違うのです。それでは私が問題にしたいことの表面を撫でて楽しむだけで通り過ぎて行ってしまうだけのように思えてなりません。

 昨今は超科学時代がもたらす、その恩恵を享受しているために、いつの間にか、一番大事なものを欠落していってしまっているのではないかと心配になるのです。その先導役が、驚異の進化を遂げている科学というものです。

その影響で何につけてもテンポが速くなり、急き立てられて前へ前へと進んでいかなくてはならなくなりました。そんな時代の勢いに抵抗するように、「スローライフ」とか「癒し」ということなどが盛んに叫ばれるのですが、なかなか大きな声にはなりません。時代のうねりに圧倒されてしまうのです。今のうちに拾い上げておかないと、もう二度とそれを拾い上げることもできなくなってしまうでしょうし、突然出会う機会もなくなってしまうような気がするのです。

しかし・・・こんなことをお話しているうちに、わたしのやろうとしている探し物というのは、超科学時代と古代という、極端に環境の違う時代を重ね合わせるという大胆なことをすることで、より鮮明になってくるような気がしてきたのです。

昨今の世の中の有様を見つめていると、人間が本来持ち合わせていたものを、すべて超科学の魔力に魅せられて、それに委ねてしまったのではないかと思うのです。このままでは早晩、人間が本来神から与えられていた大事なものを、完全に失ってしまった時代がやって来てしまうのかもしれないという、絶望的な時代がやって来てしまうと思うようになったのです。

 古代の人々は、神から与えられたもの・・・それを鍛えることで、自然の驚異にも立ち向かって生きていました。

それこそが「感性」というものです。

 超科学が日進月歩の現代では、生きていく上で、不都合と思われるようなことがあれば、直ちにそれはことごとく払拭され、解決されてしまいます。望むことのほとんどは、ほとんど叶えられてしまいます。しかし古代ではとてもそんなことを期待することができません。彼らは同じ「超」でも、「超自然」の驚異の中で生きていました。起こることのすべては「神」の啓示だと思って謙虚に受け止め、自らの生き方を質して、人として天下に恥じない生き方をしようと務めていました。

科学などというものの手助けを、まったく受けられない古代の人々は、自らの五感によって、圧倒的な勢いで襲いかかってくる障害を、いち早く察知して対処しなくてはなりませんでした。

 天の声の示唆することを、いち早く受け止めて、生活の中で活かしていくには、先ずそれぞれの「感性」を常に研ぎ澄ませていなければ、危険からいち早く逃れることもできません。しかも彼らのほとんどは、教育もろくろく受けられない農民たちなのです。

 古代人は皇族も、貴族も、農民も、それぞれの五感が鈍らないように務め、季節の微妙な変化でさえも、時には優しく、時には鋭く、時には緊張して向き合っていました。互いに生きる仲間への配慮もし合って、共に未知の驚異から逃れ、安全に生き抜く工夫をしあっていたわけです。

 ところが・・・超科学時代の昨今、わたしたちは、そんな鋭い感性を、持ち合わせていると言えるでしょうか。

 ちょっと不安になってしまうのです。

わたしたちは、科学の万能ぶりに魅せられて、自らの感性を磨くことを放棄してしまいました。

便利と言うことは、人間本来の感性と引き換えにして、手に入れるものに過ぎません。

 わたしが敢えて古代を持ち出したのは、まだその感性というものを、大事にしようとしていた昭和という時代に、青春時代を過ごしていたからかもしれません。

超科学時代の現代人には、想像のつかないほどの楽しみもあったし、むしろ日本人として失いたくない、美しいもの時にはあまりにも素朴なものではあっても、温かなものがいくつもあった時代でした。

人間が本来持っていた「感性」というものを、最大限に発揮しながら、暮らしの不便さと戦い、驚異と戦って、困難を克服しながら、未来に夢を描いていました。

 わたしたちは時代の進歩と同時に、神が与えてくれた、感じるという繊細なものを失っていきつつあるのではないでしょうか。

 至れり尽くせりの時代です。

 自分に関することがそんなわけですから、他人のことなどについては、余計に無関心になり、感じ取るなどということがなくなってしまうのかもしれません。時の流れの速さについていくのが精一杯で、とても人のことに気を使っている余裕もないのかもしれません。

これでは自然も、人も、他人がさり気なく発信している情報などには、ほとんど気づかず、関心を持たずに行き過ぎてしまいます。

現代人は、もっぱら超科学の判断だけを受け入れて生きています。

その分、人間が本来持ち合わせていた、感性とか感覚というものは鈍化してきているように思えてなりません。

 昨今、目を背けたくなるような事件が、次から次へと起こっていますが、社会でのことも、家庭内でのことも、人間関係でのことも、すべてについて敏感であった古代人のような、鋭く繊細な感性をもう一度取り戻す努力をし始めなくてはならないのではありませんか。

いや、少しでも古代人のそれに近づけるように、心がけなくてはならないのではありませんか。何もかも便利になって、人間が何もしなくても用が足りる時代になってきています。だからこそ、それに浸りきってしまっていていいのかと、しきりに思う今日この頃なのです。もう一度自然の微妙な変化に、驚いたり、感動したり、喜んだりするような、素朴で繊細な感性を持ち、周囲への気配りも、自然に行えるような社会を取り戻したいものです。

 遊びの感性は磨かれて、次から次へと楽しいことが生み出されて、共有する時代になっていますが、人間として失ってはならない、「心」の「感性」が、さっぱり磨かれていないのではないでしょうか。

もう一度、わたしたちは、古代という時代について、じっくりと考え直してみる必要があるのではないでしょうか。きっとその時、私たちは、先人たちが、何を大事にしてきたのかということにも出会えるし、その息使いにも、出会えるような気がするのです。

 「遠くて近い古代」

 現代とは遥かに遠い古代ではあるのですが、超科学時代の我々に、ちょっと立ち止まって、生き方を点検してみたらどうだろうかと、呼びかけているように思えてならないのです。

        「今こそ、真の(感性)の復活を!」

 新しい時代を生きる人たちに、是非、真剣に考えて頂きたいと思って書きました。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の六 [趣味・カルチャー]

      第二章「安穏な暮らしを保つために」()

        為政者の課題・「情報の必要不可欠」

  早いもので、承和九年(八四三)を迎えています。

仁明天皇(にんみょうてんのう)はすでに在位十年になります。

父である嵯峨太上天皇は病勝ちになっていたこともあって、為政についても、父の病状の回復を願う気持ちも真剣そのものでした。

恒例により天皇は嵯峨院へお尋ねして、新年のご挨拶を済ませると、雅楽寮(うたりょう)が音楽を奏し、公卿は酔いに任せて感興の赴くままに、それぞれ立ち上がって舞いました。

体調の思わしくない嵯峨太上天皇を、少しでも元気づけようという配慮でもありました。

このところあまり異国の使節が来朝することが無なくなっていたのですが、異国ではいろいろな動きがあるようですが、兎に角海を越えた国で起こっていることについては、ほとんど情報が入ってくることはありません。それだけに様子が知れないということは不安の原因になるものです。

そんなところへ筑紫(つくし)大津(博多津)へ李少貞(りしょうてい)に率いられた四十人の新羅(しらぎ)人が到来するのです。直ちに大宰府は役人を送って来朝の理由を問いただしたのですが、李少貞はそれに対してある情報をもたらしたのです。

 これまで嵯峨太上天皇は常々、

「治にいて乱を忘れずとは、古人の明らかな戒であり、将軍が驕り、兵が怠けるようなことは軍事の観点からあってはならない。たとえ事変がなくて慎むべきことである」(日本後紀 

こうおしゃっていたのです。

かつて「対岸の火事に学ぼう」ということで、日本から離れたところでどんなことが起こっているのかという情報を得て、それを鑑にして自分たちの暮しで、糺しておかなくてはならないことがあれば、正常に整理をして万一に備えるようにしようと致しましたが、今回は一寸その頃の状態とは違った状況があります。

嵯峨太上天皇の病臥という状態にありましたから、政庁は勿論のこと官衙で絶大な信頼感のあった方だけに、様々な不安を抱えている最中のことだったのです。

大宰府から、取り調べの結果を報告してきました。

新羅(しらぎ)国の集団の長である張宝高(ちょうほうだか)が死去したことから、その副将である李昌珍(りしょうちん)たちは反乱を起こそうとしたのですが、武珍州(ぶちんしゅう)(韓国光州)列賀閻丈(れつがえんじょう)が兵を率いてそれらを平らげ、心配はなくなったのですが、その時捕足を逃れた賊徒が、日本へ向かい人々を騒がす心配があるということでした。政庁では一時騒然としましたが、どうやらこの少貞は現在列賀閻丈の使人となって動いているということが判ったことから、あまり深入りは出来ないということが判ったために、それ以上深入りはせずに、適当な時期に帰国させることにしました。何か不穏な空気が漂う平安京になりましたが、そんな中に不安を更に掻き立てるように、得体の知れない怪しいものが、宮中にも現れたりするようになったのです。なにか不安が漂う世相ですが、そんなところへ異国に起こる異変が、日本へ飛び火して来るかも知れないという事態になってしまったのです。正に新羅国の事件は、対岸の火事と高みの見物を決め込んでいるわけにはいかなくなってしまいました。

何かにつけて頼りにしていた、嵯峨太上天皇の病状がよくないということもあって、天皇は不安を掻き立てられてしまっています。

しかもそんな中で、天皇も体調を崩してしまいます。

為政者・仁明天皇

承和九年(八四三)正月十日のこと

発生した問題とは

 政庁では使人を平安京の七寺と平城京の七大寺へ派遣して、天皇の体調回復を祈らせました。

その甲斐があったのでしょうか、間もなく天皇は快癒されました。ところがそうこうしているうちに、貢調の期限と納入する物品について、様々な問題が生じていることが判ったので、それについていろいろと指示をしなければなりませんでした。

この頃貢調の期限と納入する物品については、賦役令(ぶやくりょう)に詳細に規定されているですが期限に遅れたり粗悪品があることが判ったのです。

こういう者には決まりが明記されているのですが、しかし国司は朝廷の委任を果たさず多く怠慢している。ある者は桑麻の不良を理由に絹布が粗悪になったと偽り、ある者は貢納途次の事故により納入が長延いてしまったと巧みに申し出ている。これは徒に法を定めるだけで、守ろうとしない仕業である。そこで、五畿内・七道諸国・大宰府に命じて、従前の怠務を改めさせ、今後このようなことのないよう戒めるべきである。また、貢納途次の諸国では公のことと思わず、安易に事故によるとの遅延状を発給しているが、今後はそのようなことをしてはならないと仰いました。

 時代はどうもうまくいっていない状態でした。

 思い出すのは、前の年の秋です。

遣唐使船の乗船拒否という大きな罪を犯して、配流にあった小野篁(おののたかむら)は赦されて、一年で官衙へ戻ったのですが、天皇はその後の様子が気になっていました。

実は篁が遣唐福使として出発した後、大変な海難事故にあって、その後遣唐使として出帆することを拒否して流刑になるのですが、その真相については、第三章「時代の変化にたえるために」「その三の六」「遣唐大使の要求に小野篁拒否」の閑談のところで、詳しく触れてありますので参考までにご覧ください。

やがて無位の篁に、正五位下を授けて力になって貰いたいというお気持ちでした。

その時このようなことをおっしゃったようです。

 「篁は国命を承け期するところがったものの、失意の情況となり、悔いている。朕は以前の汝のことを思い、また文才を愛する故に、優遇処置をとり、特別にこの位置に服することにする」(続日本後紀)

 政庁の手助けとなって欲しいと、しきりに思うのですが、

絶対的な存在感を保ってこられた嵯峨太上天皇も、病臥していらっしゃるのです。その為に何かと騒がしいことが官衙に漂っているのです。

 「近頃、春のほどよい時雨が少なく、日照りのため水が涸れてきている。百姓は耕作ができず、播種不能の状態である。そこで弘仁九年四月二十五日の格に倣い、王臣の田如何に問わず、水のあるところを百姓に耕させて種子を下ろし、田植えにより苗を他の田へ還したあと、そこをもとの土地の所有者に戻せばよい。神社・寺の田地についても同様の扱いとすべきである。また、田に灌漑するに当たっては、貧しい者の田に先に水を灌ぎ、富貴の者の田を後にせよ。ただし、これは臨時の処置であり、恒法としない」(続日本後紀)

 天皇は更に次のようにおっしゃいました。

 「ことが深刻になる前に災いを(はら)わないと播種(たねまき)の時期を失する恐れがある。そこで、五畿内・七道諸国に命じて、不退転の心意気で修業している者二十人を選んで、国分寺において三日間、昼は「金剛般若経」を読み、夜は薬師悔過(やくしけか)を行うべきである。この善き修行の間は殺生を禁止し、仏僧への布施には正税(しょうぜい)当てよ。もし疫病が発生している地域があれば、国司が出かけ、疫神を防ぐ祭礼を行い、精進、斎戒(さいかい)して、ともに豊年を祈願せよ」(続日本後紀)

 天皇の指示で使人を貴布禰(きふね)住吉(すみよし)垂水(たるみ)丹生川上(にふかわかみ)などの神社に派遣して祈雨(あまごい)をした。

 間もなく五月五日重用(ちょうよう)の節句を間近にして天皇は 

 供奉(ぐぶ)する四衛府(しえふ)(左右近衛府(このえふ)・左右兵衛府(ひょうえふ))の六位の官人以下の者の装束は、甲冑の飾り意外に金銀や金銀の箔(金銀を薄く伸ばしたもの)・泥(金銀粉を膠水(ろうすい)にまぜとかしたもの)を使用してはならない。五位以上の者の走馬の鞍と飾りは新旧を問わず、金銀を用いても良い。ただし、箔・泥を私用してはならない」(続日本後紀)

 節約を指示された。そして更に 

 「近頃、ものの怪が出現したので占ってみると、疫気のとがめの兆しと出た。五畿内・七道諸国および大宰府に命じて、謹んで疫神を祀り、この咎めの兆しを防ぐべきである」(続日本後紀)

先帝である淳和太上天皇は三年前に崩御してしまわれていますし、四十代を間近にした天皇は、為政を率いる者としての責務を果たしていかなくてはならなくなり、何もかも不安な状態になっていたころのことです。

 不安な情報といえば、現在日本では、三十年以内に大きな地震が起こるということが半ば確かな情報として伝えられているのですが、その中でも東南海地震が一番危ないということが言われたりしています。関東地区などはもうとっくに危険な周期を越えてしまっているというところもあります。そんな不安を感じながら、近隣の国際問題にも神経を使わなくてはならない現代です。今の内に何らかの態度は決めておかなくてはならないでしょう。

温故知新(up・to・date)でひと言

マスコミの発展、インターネットの進展によって、現代ではありとあらゆる情報が入り乱れて飛び交う状態ですが、「抱薪救火(ほうしんきゅうか)といって、世界各地の騒動の様子が伝わってきています。どこか世の中に落ち着きがなくなっているように思えるのです。古来「用意周到(よういしゅうとう)という教えがあります。あらかじめ用意して手抜かりのないようにしておくことが大事だということです。用心深い段取りを整えておくようにしなくてはなりません。さまざまな情報を集めるのはいいのですが、得てしてそれらの情報が雑多で、「玉石混交(ぎょくせきこんこう)という状態でもあります。中には貴重な情報もあるけれども、中にはまるであてにはならないものまであるものです。情報の取捨選択をしなければなりません。それを可能にするためにも情報の選択を誤まらないだけの落ち着きと、判断をどう受け止めるかということで、それぞれの素養を蓄えておかなくてはなりません

  


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言6 [趣味・カルチャー]

   「思いがけない千秋楽」

 恐らく多くのみなさんは、「千秋楽」といえば、きっと大相撲の最期の日、最後の取り組みを行う時に、行司が「○○山と○○川とのこの一番にて、千数楽にございます」と宣言いたします。恐らくほとんどの方は、それは相撲の世界で使われている言葉であると思っていらっしゃったのではないでしょうか。

しかし調べてみたところ日本では、長いこと芸能の世界で使われてきたので、その世界で生きていた方々は、興行の最期の日などに「今日は楽日ですから」とか「ようやく何ごともなく楽を迎えることができました」という風に使われてきましたので、一般的にはそういった芸能界の慣習が浸透しているので、それは芸能界で使われている言葉であると思っていらっしゃると思います。

ところが本当は、法会の雅楽の最期に「千秋楽」という曲が演奏されたことから生まれたことのようなのです。

 大体仏教関係の集会などでは、芸能・音楽などの大きなパトロン的な役割を果してこられましたから、宮廷の雅楽が断絶してしまった後でも、これを伝えていたのは大阪の四天王寺などが伝えていたものだったそうで、このおかげで再興されたものだといわれているのだそうです。

兎に角法会の時に奏される楽の順は決まっていたそうで、回向が終わった時の楽が「千秋楽」だったというのです。これが芸能の世界で興行の最期を意味するものとして使われるようになって、やがて歌舞伎や大相撲で使われるようになり、一般の人の耳になじまれてきたということです。

一寸した閑談の話題にはなりそうですね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の五 [趣味・カルチャー]

      第二章 「安穏な暮らしを保つために」()


        為政者の課題・「武力研究の戦略転換」


承和四年(八三七)のことです。


仁明天皇(にんみょうてんのう)が即位されてから四年たっていますが、すでに退位されていらっしゃる嵯峨太政天皇は健在ですし、十年という統治で譲位された淳和(じゅんな)天皇も、今は今は後継に嵯峨太上天皇の御子に後継を託して、太上大臣として国の行く末を見つめていらっしゃいます。


かねてから嵯峨太上天皇が望んでいらっしゃった遣唐使の派遣という行事も、御子としては何とか成功させたいと思う熱い願いから、何度かの渡海失敗をしながらも、目的達成を祈りつづけています。これもこのところいささか沈滞している時代の空気を、転換したいという思いもあって日夜腐心していらっしゃいます。


 そんなある日のことです。


仁明天皇が豊楽殿へお出でになられようとしたところ、殿上に設けた天皇の座の近くに、突然得体の知れない「ものの怪」が出現して、慌てて逃げたりしたのですが、別の日には、内裏から見ると、虹が六つも同時に現れたりするという不可解なことが起ったりします。


あまりにもこれまでと違った不可思議な現象が起こるので、心理的には穏やかではいられないのですが、そんなところに地震まで襲来するのです。


既に淳和太上天皇の治世の折にも、ものの怪が何度か現れたということが知られていましたが、何か不穏なことが起こる予兆ではないかと、大変不安になってしまいます。


「天皇は聞くところによると、疫病が間々流行し、病に苦しむ者が多いという。災いを未然に防ぐには般若(仏教の知恵)が何より優れている。そこで五畿内・七道諸国の修行者、二十人以下、十人以上に命じて、國分僧寺において、七月八日から三日間、昼は「金剛般若経」を読ませ、夜は薬師悔過(けか)を行わせよ。これが終わるまで、殺生を禁断せよ」(続日本後紀)


と指示をされたのでした。


 仏の呪力を信じて、必死で困難と闘おうとしていらっしゃったのです。


為政者・仁明天皇


承和四年(八三七)四月二十一日のこと


発生した問題とは


 陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)坂上大宿禰浄野(さかのうえのおおすくねきよの)が伝えてきました。


「去年の春から今年の春にかけて、百姓が不穏な言葉を発して騒動が止まず、奥地の住人は逃亡する事態になっているので、守備に就く兵を増やし、騒ぎを鎮めて農に向かうようにすべきです。また栗原(くりはら)賀美(かみ)両群の逃亡する百姓は多数にのぼり、抑止することができませんという知らせが来ています。私浄野が考えますには、未然の内に処置すべきです。それだけでなく栗原・桃生(ものう)以北の俘囚(ふしゅう)は武力に優れたものが多く、朝廷に服属したように見えながら、反抗を繰り返しています四、五月は所謂馬が肥えて、蝦夷らが(おご)り高ぶる時期です。もし非常事が発生しますと、防御が難しくなります。伏して援兵として一千人を動員し、四、五月の間、番をなして勤務させ、暫く異変に備えることを要望します。その食糧には当地の穀を使用し、慣例に従って支給することにしたいと思います。ただし上奏に対する返報を待っていますと、時期を失う恐れがありますので、兵を動員する一方で上奏する次第です」(続日本後紀)


というのです。


為政者はどう対処したのか


政庁は直ちに、


「ことに対処するには時期が大切なので、上奏を許可する。ただしよく臨機応変に対処して、限界と恩恵を併せて施すようにせよ」(続日本後紀)


と指示をいたしました。


しかし政庁では、蝦夷(えみし)との戦いの経験を通して、武器は時を経ると古くなるということが判っていましたので、新しい武器の開発に苦心していたりしていたのです


それでもこれまで静かになっていた陸奥(みちのく)あたりに住まう蝦夷が、突然息を吹き返して政庁に立ち向かってきたりするのです。


政庁ではそれに必死で立ち向かい、鎮圧しようとするのですが、なかなかそれがうまくいきません。それを検討した結果、武器の優劣ということがあるのですが、その前に戦略に間違いがあるのではないかといった問題が持ち出されたのです。


確かに新しく開発された武器の力もあって、ある程度は立ち向かえるものの、弓馬を使った戦いとなると、たちまち機動力は落ちて蝦夷に押し返されてしまうのです。そこで朝廷は武器を含めて検討したことがありました。


かつては嵯峨天皇の温情作戦ということもあって、かなりおとなしくしていた蝦夷でしたが、どうしてもその猛々しい性格は収まらず、また歯向かうようになってきていたのです。


剣戟(けんげき)(つるぎとほこ)は交戦の際に役立つ武器であり、弓弩(きゅうど)(大弓)は離れたところから攻撃する際の強力な仕掛けです。このために、五兵、弓矢(きゅうし)(しゅ)()()(げき)からなる五種の武器)は適宜用いるものであり、一つとして欠けてはなりません。まして弓馬による戦闘は蝦夷(えみし)らが生来(なら)いとしているので、通常の民は十人いても蝦夷一人に適いません。しかし、弩による戦いとなれば、多数の蝦夷であっても、一()の飛ばす(やじり)に対抗できないものです。即ちこれが夷狄(いてき)を制圧するに当たり最も有力です。ところで、今、武器庫の中の弩を調べると、あるものは全体として不調であり、あるものは矢を発する部分が壊れています。また、弩の使用法を学ぶ者がいますが、指導する者がいません。これは事に当たる責任者を置くに必要な財源がないことによります。そこで鎮守府(ちんじゅふ)に倣い、弩師(どし)を置くことを要望します」(続日本後紀)


 


 新たな武器を開発するよりも、戦略の工夫が必要なのではないかということになったりもするのですが、これは現代直面している問題でもあるのではありませんか。


 世界の環境が厳しくなるに従って、国を守るためにはどうすべきなのかという問題に突き当たります。周辺の国が新たな武器の生産に勢力を尽くしている時代ですが、思い切って同じような武器の開発に進まずに、ピリピリとする国際関係を上手くやるための戦略の工夫が必要なのではないかと思うのです。


 どうしても他国に負けない武器の開発という欲求が、強くなっていきそうな気配には不安を感じざるを得ません。


更に進んだものという欲求によって、武器の開発が盛んな現代ですが、すでにそのような者から戦略を練ることに転換しようという動きに変わろうとしているのです。


現代のわれわれとしては、どう対処すべきなのでしょうか。


 日本ではしばらく前になりますが、北朝鮮からのロケット攻撃に備えようとして、アメリカから購入しようとしていた四千億という費用の陸上イージスといわれるイージスアショアなどというものも、結局交渉はまとまらずに、新たな直面を迎えてきています。


こんなことを、もし企業間に行われる商戦ということに置きかえてみたらどうでしょうか。それぞれの企業が戦うための商品を繰り出して相手と戦うことになるのですが、相手を圧倒するために、常に新しい商品を武器として開発をしなくてはなりません。各国がそのための国家の軍事予算を膨大にしつつあるのと同じで、結局企業はその資金の確保に苦慮することになってしまうのではないでしょうか。


しかしもし一度戦いが始まってしまったら、これでもか、これでもかと新たなものを生み出して、他の会社と戦うことになるのですが、やがてそれも飽きられてしまうことになり、経営を苦しくしてしまうことになってしまいます。状況が変わった時にどう備えるのか、すでに商戦を展開中に考えておく必要がありそうです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 


四字熟語にはそんな状態を表現する言葉として、古来「光彩離陸(こうさいりりく)というものがあります。光が入り乱れてまばゆいほどに美しく輝くさまをいうのですが、判断がし難くなって、結局これでもかこれでもかと商戦のための武器開発をしつづけることになるということにも通じます。そのための資金の投入に苦慮することになってしまうのではないでしょうか。商戦と違って武器の開発にのめっていくことは、賢明に思えて結果的に愚かなことであるのに気づくのではないでしょうか。しかし先人たちは、こんな言葉も残しています。「騎虎之勢(きこのいきおい)という言葉です。虎に乗って走り出したら、途中で降りることができないという喩え通り、行くところまでいかなくては終えられなくなってしまいます。そんな過ちを犯して、企業本体の維持を危うくしてしまっていいわけはないはずです。武器の開発に勢力をつぎ込むよりも、「樽俎折衝(そんそせっしょう)という武力を用いないで外交交渉によって、問題を解決することを各国で模索することは出来ないのだろうかと思います。どの世界においても、お互いに競争することで発展していくことはいいことなのですが、つい相手を打倒してしまわなくては気が済まないという、本心が頭をもたげてくるようになると、永遠に解決不能の地獄を味わい続けることになってしまいます。平安時代という古代であっても、武器の開発だけではなく、戦略を工夫してみてはどうかと、考え方の転換を図ったのです。現代の人々がそう言ったことが出来ないはずはないのではないかと思うのですが・・・。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑6 [趣味・カルチャー]

「傲慢な自己中心」


古代ではまだまだ正確な世界地図などというものが存在しているはずがありませんから、世界的な視点に立って自分がどんなところに存在しているのかなどという、大局的に見つめることができませんし、確かめることもできません。


記録によれば、飛鳥時代にはかなり東南アジアあたりからもやって来る人がいたようなのですが、それでも彼らの国が、一体どのあたりに存在しているのかなどということを、確かめることはできなかったはずです。


 恐らく朝廷の重臣たちにしても、韓国(旧朝鮮半島)、中国(中国大陸)がどのあたりに存在しているかということぐらいは、知っていたと思いますが、まだまだ東南アジアに関しては、やって来た者から話を聞く程度で、詳しく知ろうとするような努力はしなかったのではないかと思います。


まぁ、知っているのは、韓国と中国ぐらいというだけといってもいいのではないでしょうか。


 外国に対する認識というものは実にお粗末なものでしたから、時の皇帝


はすべて自国が世界の中心であるという、誇らしい認識に立って政治・外交を行っていたと思われます。


 それはどうやらすべての国の認識のようでしたが、特に四千年の歴史を誇っている中国としては、すでに中華思想というものが徹底していて、その誇り高い態度は今も昔も変わらないようですね。


 とにかく自分たちが世界の中心であるという思想です。


 そういった尊大な態度に対して、日本もその誇りにかけて対抗した人物がいました。


隋の煬帝(ヨウダイ)に送り出す遣隋使の小野妹子(おののいもこ)に持たせた親書の仕掛け人である聖徳太子です。煬帝への親書にはこうしたためてありました。


「日出ずる処の天子、日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや、云々」


これはあまりにも有名ですが、これも自国から判断すると、確かに太陽は東から登りますし、太陽が沈む時は中国の存在する西の方向に沈みます。聖徳太子にとっては、やはり日本が世界の中心にあるのは自分たちなのだという自負心があったに違いありません。


実に先方にとっては失礼そのものの親書を送ったものですが、わざわざ先方の皇帝に対して、失礼千万な新書を持たせることにしたのは、それなりに理由があったのです。これまでの中国の煬帝との尊大な態度には、相当我慢が出来なくなる尊大な態度を取られてきていたからです。


誇りを持って対処しようとした太子の心情に同情してしまいます。


中国のほうは国が広大であったし、わが国と同じようにその大平原の彼方から日が昇るのですから、まさに日は自分たちの国から昇るのだと自負していても止むを得ないことだったと思います。


彼らはあくまでも世界の中心の国であると思っていたし、日本などは、東海の小島に過ぎないと考えていたはずです。


使者がやってきたといっても、その受け入れる態度が尊大になるはずです。その後日本を(極東)などと呼ばせているのは、まさにそういった認識によるものだと思います。


 自分は世界の中心にあるという自負心が、その後の国の思想となったものが、所謂(中華思想)というものだと思います。


聖徳太子の煬帝に当てつけた誇らしげな表現などは、実に可愛いものだと思います。


中国などはその国の広大さから考えても、彼らが世界の中心にあると認識しても仕方がなかったかもしれません。しかしそれでも、これはあくまでも古代なのだからといって許されても、現代では全てが明らかになっていますし、通信網も複雑に広がっている時代です。


それなのに中国は、今日でも依然として自分たちが世界の中心的な存在であるというような、傲慢なほど誇らしい姿勢を保ちつづけているように思えてなりません。確かに国土の大きさは確かですが、その中にはかなり弱小民族を支配下に置いているという、誇りがあるからでしょう。


そろそろ大国であるという誇りはいいとして、各国と協調するということも考えないと、これからの世界の覇者となることを目指すのであれば、大変な障害になるのではないかと思います。道遠しになるのではないでしょうか。


 さて、あなたはどう思われますか?  

 


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の四 [趣味・カルチャー]

 

      第二章 「安穏な暮らしを保つために」()


        為政者の課題・「武器は時と共に古くなる」


今回は承和二年(八三五)のことです。


嵯峨太上天皇の御子正良親王(まさらしんのう)が、淳和天皇(じゅんなてんのう)から譲位されて、仁明天皇(にんみょうてんのう)として為政に取り組み始められているところです。


実はこの譲位については、かねて嵯峨太上天皇が在位中に知った皇統の引継ぎについては、常に騒動が起こっていたということを実体験していたのです。


それは「第二章の安穏な暮らしを保つために」(一)「その二の一」「戦力の不足を知る」という閑談で詳しく触れていますが、嵯峨天皇は十四年という統治を行ったところで、同じ桓武(かんむ)天皇の御子である大伴(おおとも)親王に譲位して淳和(じゅんな)天皇(てんのう)して政庁を指揮されてられたのですが、天皇もこれまで繰り返されてきた権力闘争の原因を調査した結果、先帝のおっしゃる通り、権力の継承はきちんとした決まりとしおきたいという気持になられて、十年という統治を行ったところで、嵯峨太上天皇の御子皇太子として勤めてこられた正良(まさら)親王に譲位されることにしたのでした。それから二年し頃の話です。


為政者 仁明天皇


承和二年(八三五)三月十二日のこと


発生した問題とは


相変わらず各地に地震が起って、民心を騒がせているというのに、その最中に夜盗が跋扈したりするようになり、その取り締まりに腐心していらっしゃいます。ところがそんなところへ、更に心配なことが大宰府あたりから報告されてきたりしたのです。


 承和二年(八三五)も三月になりますと、これまで親密に使節がやって来ていた渤海(ぼっかい)国の使節が、ほとんど姿を見せなくなっているということが気になっていたところなのですが、大宰府の政庁から緊張する知らせが入ってきたのです 


壱峻島(いきとう)は遠く離れた海中にあり、土地は狭く人口もわずかで、危急に対処するのが困難です。年来新羅(しらぎ)商人が絶えず狙っていますので、防人(さきもり)(東国から派遣される北九州の守備兵士)を置かないことには、非常事態に備えることが出来ません。雑徭(ぞうよう)(民に課した無償の労働義務)を負担している島人三百三十人に武器を持たせ、十四か所の要害の岬を守らせたいと思います」(続日本後紀)


古代でも武器が時代と共に古くなってしまうということが問題になっていたことがあったということが判ります。まして二十一世紀の今日では、新しい武器の開発は日進月歩という状態で、各国では自国の防衛ということに関しては、神経を使わなくてはならなくなっています。言うまでもなく我が国についても、どうしておくことが安穏でいられるのかという問題は、武器が新しいか古いかということではすまない問題がありますね。


 政庁では遣唐使船の派遣を前にしていたこともあって、大宰府に命じて、綿甲(めんこう)(表裏を布で作り、その内側に綿を入れて矢石を防ぐ)百領、(かぶと)百口、袴四百(よう)を用意して、遣唐使船が予期せぬ事態に遭遇した時のために、備えさせたりいたしました。しかしそんな治安という問題から離れると、若い天皇はいつか御子への皇統の継承という夢をふくらませていらっしゃったのです。


後ろ盾に嵯峨太上天皇という強力な方が存在していらっしゃるとはいっても、全てが望むように進められるまでには、まだ充分に条件が満たされているとはいえません。


(時よ、緩やかに歩め)


ひそかにそう祈っていらっしゃったのではないでしょうか。


それから間もない三月二十一日のことです。


嵯峨太上天皇の心を通わす友であった密教の空海は、六十三歳で遷化してしまわれたのです。


これまで何かの時に政庁の支えとなってこられた彼がいなくなるということは、為政者にとって不安な要素が広がります。どうも近隣の国の動きに気になるところがあるのです。天皇にとっては遣唐使の唐国への派遣という大きな事業を控えているところです。


為政者はどう対処したのか 


 海外の文化芸術、政治の様子を知ることはもちろんのこと、異国の動きを知るためにも欠かせない大きな役割を果すことになることから、嵯峨太上天皇が望んでいた大きな事業でしたが、これまでそれを成功させることができませんでした。そんなこともあって、その御子である仁明天皇は父の夢を果すことになると、必死な気持ちでいらっしゃったのです。


 時代が新たな時を刻みながら変化していくのに対処するために、天皇は次のようなことを発表されました。


「『易経(えききょう)』に上を損じて下を益すれば民が喜ぶとあり、安らかで(つつま)しくすることが礼に適っている。王者はこの原則に従うことで古今一致している。朕は才能がなく愚かであるがよきあり方に従い(ととの)えようと思う。おごりを辞め倹約に務めたいというのは、早くからの朕の気持ちである。今いる朕の子には親王号を避けて、朝臣姓を与えることにする。嵯峨太上天皇は限りない御恩の上にに恩沢を加え、子を一様に源氏とし世々別姓を設けず本流も分派も同様とした」(続日本後紀)


 政庁の内にもかなり源氏を名乗る者が入り、皇族の援護ができるようになっていましたから、天皇は嵯峨太上天皇の為政を受け継ぐことを強調して、公卿たちに不安感を抱かせないようにしていらっしゃるのです。


 時代の変化によって、何事にもあまり積極的な意志決定をせずに、流れるままに生きるような無気力な気風が広がっていきつつある世相であった上に、諸国で疫病が流行って苦しむ者が多いという知らせが入れば、その元凶である鬼神を封殺するために、般若(仏教の知恵)の力を信じて祈祷をするように指示をしたりいたします。


六月には東海道、東山道の川では渡船が少なかったり、吊り橋が整備されていなかったりするために、京へ調(ちょう)(現物納税の一種)を運ぶ人夫らが川岸まで来たところで、十日も渡河が出来ないなどということがあるので、そのために川ごとに船を二艘増やしたり、浮橋を作ったりもいたしました。


天皇はかつて嵯峨太上天皇が行った、「弘仁」という為政の精神に立ち返ろうと発表したり、努力を積み重ねていらっしゃるのですが、そんな九月のことです。


時代と共に変化してくる近隣諸国の様子も無視できませんでしたが、政庁の者が着目していたのは、蝦夷(えみし)との長い抗争という経験から戦いを有利に導くには、武器は常に新しい威力のあるものでないと有利な状態に持ち込めないということでした。


そのようなことを解決するために、強力な武器の開発も必要だと考えていたのです。万一の時に備えなくてはならないということがあって、辺境での軍事を整えるために嶋木真(しまきまこと)という者が作った、四方に射かけることができる回転式の新しい大弓が注目されました。


大臣以下公卿たちをはじめ諸衛府の者を朱雀門へ招集して、その大弓を試射させたのです。ところがその結果、飛び出す音は聞こえたものの、矢はあっという間に見えなくなって、どこへ落ちたかも判らなかったというようなことが、話題になったりいたしました。


このような問題を取り上げることにしたのは、現代ともかなり接点のある話題だと思うからなのです。


 国の安穏ということで、真剣に考えておかなくてはならないことだとは思うのですが、平安時代とは違って、軍事費の費用が増額されることと、国民の暮らしがどう運営できるようになるのかということが、現代の大きな問題として注目されます。


 これまでマスコミでは、政府は専守防衛という基本に則って日本の安全を守ろうとしていましたが、このところの世界情勢の変化から、ただ単に専守防衛と言っているだけでは対抗できないという考え方から、攻撃を仕掛けてきた敵に対して、どの範囲で先制攻撃をするかということが議論されるようになっています。それを叶えようとすればかなり高額の予算を立てなくてはなりません。


兎に角平和であるための話し合いが進まない限り、いつまでこのような状態でいられるか、保証されるわけではありません。日常生活においても、生活の利便性ということでは家計と相談しながらやらなければなりませんし、利便性だけを優先して考えてしまうと、暮らしそのものの基本を崩してしまうかも知れません。


国を経営する者として考えれば、ただ古くなったからといって武器を処理してしまうのも一考を要する問題です。


日常生活の安定と、危険を排除する用心とをどうバランスよく配慮するかは、為政者の大事な配慮でしょうね。


温故知新(up・to・date)でひと言


 如何に優秀な武器を持つかという利便性ということだけを考えないで、まず平和であるということを考えた時、先人の中には「偃武修文(えんぶしゅうぶん)を心がけてみませんかと呼びかけたものがあります。これは戦争を止めて、文化を高めるということです。(えん)は伏せるということで、偃武は武器を仕舞って使わないこと、修文は文徳を修め法律を整備することです。あくまでも平和主義を唱えるものですが、しかし時代は滄海桑田(そうかいそうでん)といわれます。時勢の移り変わりが激しいものです。兎に角いろいろなことを解明して、果たすべき事業を完成させなくてはなりません。「開物成務(かいぶつせいむ)というのはそのことです。破壊につながる武器の開発ではなく、平穏な状態の中で文化、芸術が開花した中で、暮らしが豊かに実るように心がけたいというものです。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言5 [趣味・カルチャー]

「現世と来世について」

 日本の創世記といえば、まず神々の歴史から始まったことは、ほとんどの方がご存じでしょう。

 一応日本の国史ともいわれる「古事記」があるので、そこに乗っている神話時代というものを素直に受け止めると、やがて天孫降臨が行われて、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)が作られて、そこに生きるか弱い人間たちが生きていけるように、さまざまな試練を与えながら支えてくれたことになっています。

 やがてその中から日本の各地に(おうきみ)といわれる者が現われて、民を率いていくようになりましたが、の中から王の中の王が選ばれて大王となり、やがて天皇という存在になって、民を統治するようになったわけです。

 つまりここまでは天に存在する神が暮らしのほとんどを支配して来たのですが、地上での支配をする王の時代から大王の時代に移って行く頃になると、海を越えて異国の神が入って来るようになりました。

 それが仏という存在です。

 とにかく古代においては、神仏共に威力のある力を持った存在であるところから、民は神と同格の者として、仏も畏敬の念で接するようになっていきました。

 日本では自然のすべてのところに神が存在している八百万神(やおよろずのかみ)という思想でしたが、彼らは清冽な暮らし方を指示して、民に折り目正しい生き方をするように厳しく教育をしていったのです。ところがその一方である仏の場合はそういった神の厳しい生き方よりも、慈悲の精神で民と接したのです。これまで神の厳しい指導の下で暮らしてきた民にとっては、仏と接している時だけが救いになったはずです。しかも現世を指揮する神に対して、仏は来世を取り仕切っていましたので、死後の世界を知ることができない民にとって、兎に角来世については仏に庇護を願うしかありませんでした。

 現世の神か、来世の仏か・・・次第に神の国であった日本に定着していって、神仏混淆という状態が始まったのですが、それは現代でも同じようなものですね。

神社へ祈願に行ったり、結婚の仲立ちを頼んだりしながら、やがて現世から去る時には、寺院へその橋渡しを頼んだりしているのが現状です。

 日本はこの他にもキリスト教も受け入れているし、一神教の国々とはちょっと違う宗教観を持っていますが、とにかく宗教に関してはかなり寛容な民族であるように思います。

 明治時代のある時期、廃仏毀釈などという不幸な時代がありましたが、とにかく現代は古代から引きつづいて、現世は神に願い、来世は仏に願うということを、なんの抵抗もなく受け入れている日本です。

 この神仏混淆というファジーな感性は、はたしていいことなのかまずいことなのかを時々考えてしまいます。しかし一神教の国がかなり挑戦的であるのを考えると、やはり神仏混交というのは、日本らしい穏やかな国民性の基本なのかも知れないと考えたりもしているのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。


 


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の三 [趣味・カルチャー]

 

      第二章 「安穏な暮らしを保つために」()


        為政者の課題・「対岸の火事に学ぼう」


弘仁十年(八一九)です。


嵯峨天皇は即位してから十年経過していましたが、決して平坦な道筋ではありませんでした。しかし有能な腹心の藤原冬嗣(ふゆつぐ)に助けられて、政庁を危うくするような事態にはならずに運営して来られました。


嵯峨天皇は先進の国の先達が残した図書から、様々な知識を得ていらっしゃいましたが、今異国では何が起こっているのかというような、生きた情報を得ることについては簡単に手に入れることは難しかったはずです。


そんなところへ大唐(えつ)州(ベトナムの国境)の人である周光翰(しゅうこうかん)言升則(げんしょうそく)という者たちが、新羅(しらぎ)船に乗って到来いたします。そして彼らは、政庁にとっては通常得られないような唐国の情報をもたらすのです。


「三年前の弘仁七年(八一六年)頃のこと、節度使(せつどし)(唐五代の軍団司令官)の李師道(りしどう)が、兵馬五十万という精鋭を率いて反乱を起こしたというのです。唐十一代皇帝の憲宗は各地の兵士を集めて討伐しようとしたものの、平定することが出来ずに目下天下騒乱中です」(日本後紀)


こんな情報でした。


その一年前といえば、戊戌(ぼじゅつ)の大疫の年といわれて、天皇はその困難を突破するのに大変苦闘されたばかりです。


そのような時に、もし異国の騒乱が飛び火してきたら、国内の問題も穏やかに治めることが難しくなってしまいます。


幸い目下のところ、政庁の周辺に困難な問題は存在しませんが、こうして異国の状況を知っておくことは、なかなか貴重な情報となるものです。


為政者・嵯峨天皇


弘仁十年(八一九)六月十六日のこと


発生した問題とは


天皇にとっては国を護るためには、絶対に欠かすことが出来ないのが、用心であるということを、改めて印象づけられた新羅船の来訪でした。


 平安京は東西に市が開かれたりして、高貴な者、民、百姓に至るまで、すべての者が入り乱れて、買い物を楽しむようになっていたのですが、どうもこの頃唐国には、反乱があって騒がしい状態になっているという情報がもたらされてきたわけで、天皇は日本国内の安穏な状態に、満足しているわけにはいかないものを感じていました。


 まだ世界の国々の国交が、開かれている時代ではありませんし、近隣の国についても、ごく限られたところとの交流があるだけでしたから、たまたまやって来た異国の者から得る情報には、神経を尖らせることもあったのです。


 目下のところ我が国の政庁の周辺には、困難な問題は存在しませんが、こうして異国の状況を知ることは、国を護るためになかなか得られない貴重な情報です。国を護るためには絶対に欠かせない用心ということになります。仮にその情報が唐国の事変であったとしても、それがどんな形で我が国へ飛び火してくるかもしれないのです。


為政の指揮を執る天皇は、神経を尖らせても止むを得ません。しかしその頃、平安京では数十日もの間厳しい炎暑がつづき、旱魃(かんばつ)が起ってしまっていたのです。


降雨を願って伊勢神宮、井上(いのえ)内親王の宇智陵(うちりょう)へ使者を派遣しました


その祈りが通じたのか、京には暴風雨をともなって白龍(はくりゅう)が現れ民の家屋を破壊するという事件があったりしたのです。


政庁の者にとっては、心理的に嫌なものを感じざるを得ません。国内の問題を解決しなければならない時だっただけに、異国に起こる事件にも神経を使わなくてはならなかったのです。それがいつ我が国に影響を及ぼすことになるかも知れないからです。気持ちを引き締めなくてはなりませんでした。


為政者はどう対処したのか


近隣の国の様子にも目配せしながら、国内の問題である炎暑と旱魃が数十日も続き、ほどよい降雨を見ていないのです。〈略〉そこで十三大寺と大和国の定額諸寺の常住の僧侶に、それぞれの寺で三日間「大般若経」を転読させようとしています。適当な雨を願ってのことです。


 同じ頃ですが、政庁では公卿が意見を交わしていました 


 「倉庫令では「官倉の欠損分を責任者から徴収するに際し、納入責任者が在任中は本蔵に納れ、離任している場合は転任先ないし本貫(ほんかん)(郷里)において納入することを認める」と定めていますが、今畿内の国司は偏にこの令条により、納入せねばならない欠損分をみな転任先の外国(畿外)で填納しています。ところで畿内には京に近接していて、そこの稲穀は京に関わる様々な用途に費用されています。それだけでなく稲の値段を見ますと、畿内と畿外では大きく相違し、畿内の方が高価となっています。このような事情がありますのに、畿内で失われた分を畿外で填納するのは、まことに深刻な弊害となっています。伏して、今後は、畿内の欠損を畿外で埋め合わせることを停止しますよう。要望します」(日本後紀)


天皇はそれを認めました。


 国内での細かなことでの手当てを、しなくてはならないことが起ってきています 


「安芸国は土地が痩せていて、田の品等は下下である。このため、百姓は豊作であっても貯えを有するに至っていない。このため、去る大同三年に六年間を限り国内の耕作田の六分を得田、四分を損田として田租を収納することにした。今その六年の年限が過ぎたが、衰弊した民はまだ十分となっていない。そこで更に四年間の延長を行え。(大同三年九月庚子条参照。安芸国では、弘仁五年に不四得六制の延長が行われ、本日条で再度の延長が行われているらしい)(日本後紀)


 国内に起こる違和感の解消に神経を使いながら、異国に起こる小さな出来事が、いつ飛び火してくるかしれないのです。とても無関心ではいられないはずです。


現代ではさまざまな方法を講じて、他国の情報を得るように努力はしていると思うのですが、異国人の来訪が唯一の情報源であった平安時代とはまったく違っています。


スケールの広がり、情況の複雑さということでも、とても古代のそれとは比べようもありません。それだけ国際関係には神経を使うことになっているはずです。情報問題に関しては、古代だから、現代だからと、関心の違いを言って済ませる問題ではありません。むしろこのような事件があった時を利用して、近隣諸国との関係についても、これまでとは違った気構えで考えておく必要があります。特に日本は国の目指す方向の違う国が、ごく近くに存在していますから、そんな環境を考えると、安定を保つということは至難の業です。


 平安時代のように、他国の情報は殆ど実際に行って見るか、こうしてやって来た者によってもたらされる情報以外には、他国の様子を知る機会はまったく存在しませんでした。


現代ではフェイクニュースと呼ばれる偽情報も含めて、インターネットなどという情報網を使って、世界中に飛び交います。あとは受け手の判断による、取捨選択次第という時代になってきています。それだけ為政者は神経を使わなくてはならないでしょう。判断を間違ってしまったら、命取りになってしまいます。


それがどこであろうと、異国で起こっていることだからといって、無関心でいることは許されません。その不用心が大変危険な火種になってしまうかも知れないのです。


 日常生活の中で起こる「おれおれ詐欺」という問題がそうです。


あれは被害にあっている人の不用心が原因ですよなどといって、笑っている場合ではありません。私が家と親しい関係にあった方の中で、まさかと思える人が、危うく数百万円にもなる金銭を用意して、相手に渡してしまいそうになったケースがあるのです。幸い最後の段階で親族が現われて、お金の受取人に渡さずに済んだという話をしに来てくれましたが、その方は確かにしっかりした方でしたから、まさかこの人が・・・信じられないことでした。


自分は大丈夫と思っていても、用心を越えた巧妙なやり方で詐欺を仕掛けて来ることが多いのです。飛び交い情報についても、私は引っかからないという過信が被害者になってしまうかもしれません。


温故知新(up・to・date)でひと言


現代は情報を如何に活かしていくかということを、考えておかないといけない時代です。


私だけは絶対にやられないという変な自信はもたないことです。その自信過剰が、逆効果となってしまうような神経戦となって、相手のぺースに乗せられてしまうようです。


日常生活の周辺のことであっても、自分の周辺の状況がどんな風になっているのかということぐらいは、知っておきましよう。そういうことを無視していると、思わぬ落とし穴に堕ちることになってしまいます。現代は親しい人からもたらされる情報についても、その真偽を確認しながら進まなくてはならない、慎重さが必要な時代です。こんな時には昔から先人が残している四字熟語という者があります。その一つに、「他山之石(たざんのいし)というものがあります。他人を参考にして、自分の啓発向上に役立てようということです。他山から出た山石でも砥石として使えば、自分の宝石を磨くのに役立つということから出た言葉のようですが、情報を胸に収めたら、ただそれだけで終わらせないで、我が身の時の素材として活かすくらいの気持ちになっていたいものです。まさに「深謀遠慮(しんぼうえんりょ)という言葉どおり、深く思い巡らして、将来のビジョンまで慎重に慮らなくてはなりません。「改過自新(かいかじしん)ということがありますが、もしミスでもあったらそれを素直に認めて、新たな気持ちで取り組んでいかなくてはならないでしょう。


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     「遷都しすぎです」

 何をやるにしても、大がかりになってしまうのが現代です。たとえば首都を東京から京都へ移すなどということがあったら、それこそいろいろなもの、いろいろなことが停滞してしまうことになるでしょう。政治を司る人たちも容易ではないと思います。そんなことを考えながら古代の遷都の跡を訪ねてみたのです。

 私がこれまで、調べたり、その場へ行ってみたりしたところは、大体次のようなところです。大雑把にその場を書き上げてみると、次のようなところです。

飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)長柄豐崎宮(ながらのとよざきみや)藤原京(ふじわらきょう)平城(へいじょう)(きょう)()()(きょう)紫楽宮(しがらきのみや)平城京(へいじょうきょう)長岡京(ながおかきょう)平安京(へいあんきょう)

 といった状態です。

勿論そのほとんどのところは、その元の形を残してはいません。精々大極殿の跡が復元されているだけです。飛鳥から藤原京へ移って、かなり本格的な京が出来たはずなのに、持統天皇(じとうてんのう)文武天皇(もんむてんのう)元明天皇(げんめいてんのう)元正天皇(げんしょうてんのう)という女帝三代を中心に、694年から710年というわずか16年間だけで平城京へ移って行ってしまいます。どうしてあれだけ立派な都を作りながらと思ってしまいます。

その場へ行ってみると、その頃のことが想像できて暫く古代を楽しむことが出来るのですが、それにしてもこんなに絶えず遷都していては、財力も大変ですし、それにかかわる人材、資材も必要ですから馬鹿には出来ないはずです。みな疲れてしまうのではないでしょうか。そんなことを考えていると、どうしてこんなに絶えず遷都をしてきたのだろうかという疑問に突き当たってしまうのです。

それは学者の間でも謎の一つになっているようなのですが、私が一番不思議に思ったのは、聖武天皇の短期間での遷都があまりにも多かったということなのです。

大阪にある難波宮のことなのですが、天武天皇が平城京という京を持ちながら、ここの長柄豐崎宮に遷都してくるのです。ごく近くには海があるので、異国から船でやって来た使者は、目の前の高いところに聳え立つ宮殿を見て感動したかもしれません。ところが間もなく、聖武天皇は恭仁京へ遷都してしまうのです。ところがまたたいして時間もたたないうちに、紫楽宮へ遷都してしまいます。しかし更にびっくりするのは、それから暫くするとまた平城京へ還都してしまうのです。

簡単にいいますと平城京から難波宮。難波宮から恭仁宮。恭仁宮から紫楽宮。紫楽宮からまた平城京というわけです。

 天皇は晩年に、どうしてこのごく近くの地へ転々と遷都を繰り返したのでしょう。

政治的な課題があったのか、地理的経済的理由か、それとも宮殿建設の耐用年数の問題なのか、それとも健康的な理由があったのだろうか。いろいろと原因はあると思われるのですが、そのどれもが決定的なことではなかったようです。それではどうして・・・。あなたもいろいろと推理しながら、史跡探訪を楽しんでみませんか。

 というところで、どうしてと思われる古代のお話の中で、嵯峨天皇の子で仁明天(にんみょうてんのう)がいらっしゃいますが、その子である文徳天皇(もんとくてんのう)の話なのです。ややこしい人脈のお話からいたしましたが、こんなに血統も正しい天皇なのに、どうして元号を度々変えなくてはならなくなってしまったのでしょうかという問題です。

 文徳天皇は850年から857年というわずか7年間という短い統治期間の間に、

 「庚午」「仁寿」「斉衡」「天安」

 絶えず年号を変更しました。

 実は彼の場合にはかなり深刻な問題があったのです。

 彼には第一子として惟喬親王がいるので、彼を皇太子にしたかったのですが、どうしても政庁の実力者である藤原良房が政敵の紀名虎の娘である静子(せいし)だったので許しませんでした。

 何をやっても思うようにはならないことから、年号を変えていい流れでも呼び込みたかったのでしょう。ところが天皇の支えとなるはずの嵯峨天皇の皇后であった嘉智子が、彼の即位と同時に他界してしまって、後ろ盾となる人がいなくなってしまいます。そのために一気にのし上がってきたのが右大臣です。文徳天皇を苦しくさせる原因でした。

しばらくして良房は、嵯峨天皇の娘潔姫との間に産んだ娘明子(あきらけいこ)ついに仁明天王との間に惟仁(これひと)親王を誕生させるのです。良房はその惟仁親王を皇太子としたかったのです。

その詳しい経緯については省きますが、結局文徳天皇は息子を即位させられずに、右大臣の孫を天皇とせざるを得なくなってしまったのです。それが清和天皇誕生前後の政界での出来事でした。

聖武天皇の場合とは別の意味で、為政の内で「そんなことを、どうしてたびたびも・・・」と思わせることをなさった、文徳天皇のお話もしておくことにいたしました。彼はツキを変えようと思ったのでしょうね。

政治の世界には、庶民の判らない様々な問題が潜んでいるのですね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の二 [趣味・カルチャー]

      第二章「安穏な暮らしを保ちために」(二)


        為政者の課題・「為政者として心がけること」


弘仁九年(八一八)です。嵯峨天皇が即位なさった時から、九年がたっています 


 「去年は旱魃で秋収が損なわれ、現在は日照りで田植えを行うことができなくなってしまった。これは朕の不徳の聖で、百姓に何の罪があろうか。(略)今、天の下す罰を恐れ、内裏正殿を避けて謹慎し、使人を手分けして派遣し、速やかに郡神に奉幣しようと思う。朕と妃の使用する物品および常の食前等は、いずれも削減すべきである。また、左右馬寮で消費する飼料の穀物もすべてしばらことにする。(略)そこでしばらく停止する。そこで左右京職に指示して、道路上の餓死者を収めて埋葬し、飢え苦しむ者には特に物を恵み与えよ。監獄の中には冤罪の者がいると思われるので、役所(ここは刑部省と京職)に今回の処置の趣旨を述べさせた上で釈放せよ。(略)また近ごろ、不順阿天候が続き、浮名も二日照りが十日にもなっている。(略)今月二十六日から二十八日まで三日間、朕と公卿以下百官がもっぱら精進の食事をとり、心を仏門に向けよう。僧綱も精進して転経を行い、朕の平成の思いに副うようにせよ」(日本後紀)


流石にこれまでとは違った対処をなさいます。


 これまで民族の違いから差別的に接してきた皇室と違って、嵯峨天皇は相手を理解するという姿勢を貫いてきていました。


それは天災による被害を受けた者は、これまでの民は勿論のこと、異民族と思われる人々に対しても、まったく差別は行わないということです。大きな組織を率いる者は、如何なることが起こっても、その被害が従う人々には及ばないように心がけながら、葛藤しなくてはならないと思うのですが・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁九年(八一八)九月十日のこと


発生した問題とは


 兎に角平安京は、絶えず襲いかかって来る地震には、畏怖の念を抱くことはあっても、みなそのために苦しくなってしまう暮らしを、何とか凌げるようにならないかと思うものです。


 平安京では地震が起こって、大きな被害を出したばかりだったのですが、九月に入って間もなく、政庁にはまたまた厄介なことが持ち込まれました。


奈良・平安時代の内憂といえば、陸奥(みちのく)国の地域に拠点を持つ蝦夷(えみし)という民族との間に起こった悶着が、未だに解決することが出来ないまま抗争をつづけているというのです。そのために朝廷は大軍を率いて遠征するのですが、そのために莫大に出費してきていますので国の財政はかなり苦しくなっていました。


はじめは抵抗する蝦夷を一掃しようとするばかりを考えていたのですが、平安時代になる頃からは戦いに敗れた蝦夷の中からも、朝廷に従う者たちも現れてきていたのです。そして丁度その頃に、為政の頂点に立たれたのがこれまでの為政者とは発想の違う、文人政治家の天皇だったのです。


期待通り天皇はこれまでの権力者とは違った発想で、蝦夷と向かい合おうとされるようになりました。


つまり彼らをただ排除するのではなく、政庁と彼らとの距離を縮めるための努力をするように指示されたのです。兎に角為政の基本は民を愛して、飢餓・貧困から救うことで葛藤しなくてはならないというのです。


そんなある日のこと、禁苑である神泉苑へ大臣たちを引き連れて遊宴に出かけられた時に、天皇はこんなことをおっしゃいました。


為政者はどう対処したのか


 「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者は物を(すく)うことを何より重視し立派な精神を()み行うものである。朕は日暮れ時まで政務に従い、夜遅くなっても寝ずに努めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では天を動かすことが出来ず、充分な調和を達成できないまま、咎徴(きゅうちょう)(悪いしるし)がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して、転がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。恐らくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのではあるまいか。朕は天が下す刑罰を恐れ心が安まらない。ところで亀甲(きっこう)筮竹(ぜいちく)で占うと、今回の地震は天の咎であることが判った。往時、天平(てんぴょう)年間にこのような異変があり、疫病により国内が衰弊したことがあった。過去のこの異変を忘れてはならず、教訓として役に立たない遠いものではない。百姓が苦しんでいれば、いったい誰と共に君足り得ようか。災難を朕が引き受けることを避ける気持ちはない。周の文王は責を己に帰したというが、まことに仰ぎ慕うに足る。朕のいっていることは、光り輝く太陽のごとく確かなものである。広く遠方にまで告げ、朕の意を知らせよ」(日本後紀)


 ところがこの数年来不作がつづいています。


 公卿が次のように報告いたしました。


 「年来不作で、百姓が飢饉になっています。官の倉は空尽化して、恵み施すに物がありません。困窮した民は飢えに迫られると、必ず廉恥の精神を忘れてしまいます。私たちは伏して、使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収時に返済させることを要望いたします。こうすれば富者は自分の富を失う心配がなく、貧者は命をまったくする喜びを持つことができましょう」(日本後紀)


 暮らしに対する要求というものは際限がないものです。


 それをどの程度まで引き上げられるのかを、国力の支えられる能力から判断して国民に納得して貰わなくてはなりません。


為政者にその能力があるかどうかは、要求するだけではなく、為政者を選ぶ国民の責務だと思えてなりません。


現代人にとっては、それを行使する機会として「選挙」という機会があるのですが、よほど国民に意思表示をする機会なのだという自覚がないと、なかなか思い通りの政庁は出来ません。


 組織を率いる指導者には、運営していく最中に起こる様々な問題が、あくまでも従って来る人々にその被害が及ばないようにという配慮が求められます。そのためにどんな施策を行っているのかということなどを訴えて、納得していて貰わなくてはなりません。それが困難の突破ということであったら、なおさら従って生きる者は、協力してくれなくてはなりません。しかし時に予期せぬことが起こってしまったために、不都合なことが生じたりした時など、力のない人々の訴えを理解することよりも、自分の立場の困難振りを訴えることに専念してしまう指導者がいるものです。


指揮を執る者は、そこに起こることのすべては、自らの責務と感じて必死に務めることが必要です。それが信頼を得るきっかけとなるということがあるはずです。人智では解決できない天災によって民が苦しんだり、同じ国土に暮らしている者と対立して戦ってしまったりして、ますますその立場を危うくしてしまって、慌てて神仏に助けを願うしかなくなるという過ちに気付かれた天皇は、先ず自らの生きざまを検証しようと考えられたのでしょう。


こうした状況を現代の我々の世界への提言として受け止めるとしたら、どういうことになるでしょうか。


矢張りやろうとすることをただ強行してしまうのではなく、その組織によって救われたり、活かされている人々が沢山いるのだということを、考えなくてはならないということです。彼らがそれで、感謝する気持ちになってくれないと、結局意味のない努力になってしまいます。


為政を行なう者、それに従う者には、微妙な問題があり、その微妙なことを無視して推し進めると、却っていい結果は生まれないということです。そうしたことを知っておくことが組織を運営していくための基本になるということだと思います。仮に障害となるようなことが起こったとしても、お互いに責任の転嫁をし合ってしまっていては、決していい結果は得られないからです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 


それでも組織を率いる者には、どう努力しても恨みを抱く者が現れるかもしれません。しかしそんな時には、四字熟語の「講演遺徳(こうえんいとく)という言葉を思い出してみて下さい。仮に怨みを抱いている者がいたとしても、慈愛と徳をもって接することが大事だということです。悩みごとや問題解決を図ろうと「千思万考(せんしばんこう)」しても、容易には満足な答えは得られないといわれます。いつまで悩んでいても解決はしません。前向きに第一歩を踏み出してみましょう。「息慮凝心(そくりょぎょうしん)という言葉があります。今やるべきことに専念せよという言葉を思い起こして努力しましょう。いつまで悩んでいても解決はしません。前向きに第一歩を踏み出してみましょう。そうしたことの積み重ねが、「修身斉家(しゅうしんせいか)といって、天下国家を治めるには、先ず個人の身の修身からはじめることが統治の始まりだということに気が付くようになるでしょう。何が起こっても狼狽して事に当たらず、釈明のために屁理屈(へりくつ)を述べて逃げるのではなく、ふと古代における為政者の、ひたむきさを思い出してみることが大事なのかもしれません。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言4 [趣味・カルチャー]

「銀座ここにありき」

 歴史の流れからいいますと、東京というのは実に最近の都で、それほど古いという印象はありません。特に古代という時代を背景にした小説を書いてきた私にとっては、あまりにも新しい都でしかありません。しかしそんな新しい都である東京ではありますが、そんな中で多少歴史を感じるものを、銀座に発見いたしました。

 今や世界のファッション・ブランドが、軒を並べるように出店している銀座ですが、地名の原点がここに銀を生産する「銀座」があったからだということを知っていらっしゃる方はごく少ないのではないでしょうか。それにしても「○○銀座」と謳った街路は、日本中どこへ行っても商店街のあるところには「○○銀座」があります。それだけ銀座というところは、注目を浴びる街になってしまったのだということです。

はじまりは慶長十七年。江戸幕府直轄の銀貨の鋳造、発行所・・・「銀座」役所が置かれたところで新両替町と呼ばれていたところなのです。しかし通称は銀座町と呼ばれていたところで、当時はこの銀座をはじめ、伏見と駿府に同じような役所を設置したものでしたが、やがて京都と江戸に移され、大阪、長崎にも設置されました。

ところがやがて千八百年(寛政十二年)のことですが、不正事件が起こってしまったために、その四つの座は廃止されてしまったのですが、間もなく江戸一か所だけを再興したのです。

それが現在の銀座発祥の原点となったところだったのでしょう。

とにかくそんな経緯のあった「銀座発祥の地」の記念碑が、文房具でお馴染みの伊東屋の前あたりに建てられています。

          「東京・銀座」1.jpg

ほとんど行き交う人々は慌ただしく通り過ぎて行ってしまうだけですが、私も所用で出かけた折にふと気がついたというものだったのです。東京にとっては江戸幕府の拠点であり、都であった証ともなる、記念すべき貴重な歴史的な碑ということができるのではないでしょうか。銀座散策のついでに、ちょっと立ち止まって見るのもいいのではありませんか。

 さあ、銀座のお話をしたところですから、今度は金座のお話をいたしましょう。

 仕事の関係で、私は京都へ行くことが多かったのですが、小説の取材のためというと、どうしてもその時の執筆に関係するところを取材するということになってしまいます。かなりいろいろなところへ行きましたが、仕事で取材するということから解放されて、また別の目的で京都の街を探ることが多くなったのは、京都嵯峨芸術大学の客員教授として奉職するようになってからでしたが、その授業の中でも時に日本の歴史に関しての講義をすることもありましたので、そんな時のためにも町のあちこちを気ままに散策した成果です。

親しい教授の誘いで、思いがけないところへ出かけることもあるのですが、その頃開館して間もない通称マンガ博物館・・・「京都国際マンガミュージアム」がその一つでした。ま、これまでかかわってきたアニメーションという分野のことを考えると、まったく無関係というわけではありませんから、二つ返事で出かけましたが、もちろん今回の話の中心になる話ではありません。実はここを訪ねた収穫が思いがけない発見のきっかけになったのでした。

 この博物館はかつてそこにあった瀧池小学校が廃校になるのを利用して、そのまま博物館にリニュウアルしたもので、全体像はそのまま残っていて、校庭はそのまま庭として利用されていました。ただ取り壊してしまうよりも、大変にいいことだなと感動したのは、その校舎の裏手に回った時に、その道端にさり気なくひっそりと立っている、記念碑を発見したのです。

何とそれは、徳川時代ここに金座が存在したということを記す記念碑だったのです。京都のような千年を超える古都では、江戸時代といってもそれほど古いものとは思えないようで、どこかこの記念碑も寂しげに見えてくるのが不思議なことです。因みに住所は京都市烏丸通御池上ルです。

「マンガミュージアム・京都金座)1.jpg 「マンガミュージアム・京都金座」1.jpg

 金座も銀座も、古代存在していたところが、現代ではかなり賑やかなとこにあったようですが、果たして当時はどんなところであったのでしょう。

そんなことについての推理をしながら、訪ねてみるのも旅を楽しむ一興かもしれません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の一 [趣味・カルチャー]

     第二章「安穏な暮らしを保つために」(一 


       為政者の課題・「戦力の不足を知る」


今回は嵯峨天皇が大同四年(八〇九年)に無理矢理平城天皇から譲位されて、践祚(せんそ)されてから間もなくのことです。まだ皇太子神野親王から天皇に変わられたばかりで年齢もまだ二十三・四歳という若さで


 ようやく平安京を統治し始めたばかりだというのに、とんでもない事に遭遇させられてしまいます。


為政者・嵯峨天皇


弘仁元年(八一〇)九月七日のこと


発生した問題


 平城太上天皇は、突然何の前触れもなく、平城旧京への還都をすると指示されました。あまりにも突然の発表です。しかも坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)紀田上(きのたがみ)たちを造宮使に任じてきたのです。


引退して平城太上天皇となって、平城京で悠然とお暮しかと思っていた平安京の政庁の公卿たちは、あまりにも突然のことで、その真意がまったく理解できないでいました。ところがその指示はすでに動き始めていたのです。


 嵯峨天皇が践祚したばかりだというのに、何をさせようとしているのだろうか。


 事態の進行に疑念を持つ平安京側はその真意を糾そうとしたのですが、それに対して平城上皇は朝廷軍を招集して動き始めたのです。


事件というのはこういうことで始まったのです。


嵯峨天皇としては践祚なさって、ようやくこれからどう平安京を建設していこうかということを、真剣に取りかからなくてはならないといった時です。



これはあくまでも、尚侍(ないしのすけ)となって宮中に権力を振るっている藤原薬子にせがまれて行ったことに違いありません。何もかもが準備もない戦いの始まりでしたが、為政の道筋を糺したいという若い嵯峨天皇の迅速な決断と、それに従った将軍の迅速な統率力で要所の警備を固めた上で少ない兵士を動かしました。


そして更に天皇に呼応した空海は、弟子たちと共に高雄山寺に立てこもり、真言密教による鎮護国家の熱によって後押しをした結果でしょうか、大戦になりかけた事変は、わずか七日という短日のうちに鎮静化してしまったのでした。


しかしこれで政庁のあり方は糾せたのですが、天皇には心にかかる問題を残してしまいました。


ご自身の在位中に、皇太子とした者は絶対に悲劇的な立場には追いやらないと、密かに心に刻んでいたはずなのですが、事件に関与はしていないということは判っていても、高岳(たかおか)親王は上皇の御子であったために連座させられて廃太子とされ、第一皇子である阿保(あぼ)親王も大宰府へ左遷されることを、認めざるを得なくなってしまったのです。


高岳は直ちに春宮を出て、宮中からも去っていかれます。そんな姿をご覧になっていらっしゃった天皇は、心に誓っていたことを違えてしまったと、心中深く痛みとして沈潜していったのでした。


 (いつか救ってやらなくてはならぬ)


 声なき声がそう叫んでいるのでした。


 天皇は直ちに新たな皇太子として、天皇の異母弟であり、中務卿で三品の位を持つ大伴(おおとも)親王を、皇太子として指名しました。それは祖霊桓武天皇の描かれた嫡子による皇統の継承という理想からは遠のいてしまうことになってしまいましたが、いました。それでも若い天皇は祖霊の思いは必ず新たな皇統に活かさなくてはならないと決心していたのでした。


九月十九日。年号も大同五年(八一〇)に弘仁と改められると、仁の気持ちを広めたいという、思いの溢れた年号の元で、民と共に生きようとするのです。若き文人政治家は、さまざまな問題を秘めながらも新たな平安朝の建設に立ち向かったのでした。


為政者はどう対処したのか


 事変は「薬子の変」と呼ばれて、受けて立つ政庁には、当初狼狽がありましたが、天皇は迅速な指揮と的確な判断で、上皇の復権を阻み平安京を守ることができました。


 事件を知った時、政庁ではあまりにも予想外であったこともあって当初狼狽がありましたが、結束して平城上皇と薬子の無謀な企みを排除して、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻したのでした。


それは協力してくれた国々にとっても同じで、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻しましたが、間もなく、播磨(はりま)国から万一の時の備えについて、次のような提言があったのです。


 「これまで勲位を頂いた者を健児に起用することになっているのですが、国内の勲位の人は死亡あるいは逃亡していて、現在存在している者は老人や病人が多く、軍事の役には立たなくなってしまっているために、この際白丁(はくちょう)(公の資格を一切持たない無位無官の一般男子)を徴発して、欠員に充てることを要望いたします」(日本後紀)


万一の事変が起こった時に、戦う兵士に事欠くというのです。それは平城天皇の頃から財政の引き締めを行ってきたために、いざという時の兵が、集められなくなってしまっているということだったのです。


 まさにこのようなことは現代の問題としても、考えておく必要があるのではないかと思えます。


いたずらに兵力を蓄えることではなく、そのようなことをしなくてもいい環境を作らなくてはならないのではないかということは周知のことなのですが・・・。


最近は永世中立を建前にしてきた北欧の国々も、万一のために国を守るということのための心構えをしておかなくてはならないという方針を立てて、NATOへの加入を申請しました。我が国についても、周辺の環境が極めて緊張したものとなっています。最近は俄かに軍備に関しての費用を上積みしなくてはならないのではないかという議論が盛んになってきていますが、ロシアによるウクライナ攻撃、北朝鮮の挑発する軍備の拡張、中国の海域の拡大など、日本を取り巻く環境は、かなり激しく危険な状態になりつつあります。もうこれからの国際関係には、無関心という訳にはいかなくなってしまいましたね。


 島国であるための国際関係の難しさを感じます。兎に角舵取りをする指導者の英知が、真摯に問われる時代になってきていることを実感します。


温故知新(up・to・date)でひと言


 兵力を充実して、万一のことが勃発した時の対処をどうするのかという問題ではなく、現代の問題としては、やはり暮らしを優先するか、護りを重視するかという問題にぶつかってしまいます。そのどちらを選ぶとしても、予算というものが伴います。それは平安時代も現代もありません。しかし現代では備えるという理由で軍事費が年々肥大化しています。この問題については、簡単に無視できないものがあるのではないでしょうか。しかしそうかといって、平安時代のように、ただ軍事費を縮小すればいいという訳にはいきません。軍事費を縮小するべきか、それとも福祉の充実によって暮らしを豊かにすることを優先すべきか大きな課題になります。現代ではそうした暮らしの安穏を維持するためには、様々な国かからの挑戦に、どう立ち向かうのかということについて、慎重に考えなくてはなりません。戦う能力を備えることと、国民の暮しの安定を図るという問題は、古代と違った現代の至難な課題です。


 日本自体の経済がどんな状態にあるのかということも考えながら、どう経済を上手く利用して行けるかということを、じっくり考える必要がありそうですね。


昔から「殷鑑不遠(いんかんふえん)ということが云われています。身近な失敗例を自分の戒めとせよという譬えです。また自分の戒めとなるものは近くにあることでもあります。徒に規模を拡大したり戦力を増やしたりするのではなく、自分の私欲や私情、つまり我儘を抑えて、社会の規範、歴偽に従って行動しましょうという「克己復礼(こっきふくれい)という言葉を思い出して、地道に地歩を固めていきましょう。「巣林一枝(そうりんいっし)という言葉もあります。軍事を豊かにするのか、暮らしを豊かにすべきか。鳥は深い林の中に巣を作っても、たった一本の枝を使うに過ぎないという言葉を思い出しながら、じっくりと考えて欲しいものです。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑4 [趣味・カルチャー]

「神仏にも守護神?」

 

 古代では神も仏も神として認識されていましたから、基本的には神仏混交ということになります。しかし現代人にとっては違和感があるかもしれませんが、日本では基本的に神仏混交という習慣を今も続行していることを考えられます。そんなことから、もっと不思議なことがあるのに気が付きました。

寺院にも守護神があって守っているのです。

日本の伝統の宝庫である皇居も、守護神を置いてその安泰を祈っています。今回はその代表的な見本というものを紹介したいと思っています。

平安京が誕生した頃、京の守護のために最澄が創建したという比叡山延暦寺がありますが、この寺を守るために琵琶湖畔にある日吉大社があるのです。ここでは山王の猿が大事に飼育されていますが、神の使いであるという考えによるものです。

 「比叡山延暦寺・根本中堂」1.jpg 「日吉大社」1.jpg 「山王の猿」1.jpg

この神の使いの猿が、京都御所にも活かされているのをご存じでしたか。この猿を木彫りにして鬼門にしているところに飾っているところがあるのです。

 神は絶対的な存在ですから、彼らを守護するなどということは笑止千万と言うことになりそうですが、どうも実際にはそんなものの存在を無視できないものがあるようです。京都御所にはその鬼門である東北の角には「猿が辻」いうところがありますが、その守護には日吉大社の山王の猿がいます。

        「猿が辻・東北の鬼門」1.jpg  「皇居・猿が辻の猿」1.jpg          

京都御所の鬼門に当る猿が辻の猿・・・日吉大社の木彫りの猿が、御幣を持って飾られています。

機会がありましたら御所の東北の角・・・つまり鬼門へ廻ってみてきませんか。これの基となっている日吉大社では、山王の猿を実際に飼っているのですが、何度もここへお参りしていた後白河法皇は、自宅近くに新日吉神社を建てて、その本殿前の左右に日吉大社の神の使いである猿を彫刻にして祀ってあります。いちいちお参りに大津にまで通うことが出来な

くなったのか、じれったくなったのか、自宅の直ぐ裏手に新日吉神社を建立してしまったのでした。

平安時代においては、こうした信仰が浸透していたわけですが、それだけ政争も激しかったのでしょう。京都ではこの他にも、修学院離宮の近くに、赤山禅院というところがあるのですが、猿の彫刻が屋根に挙げられて存在しているようです。別の面から京都を探るきっかけにでもなると面白いですね。

「赤山神社山門」1.jpg 「赤山神社本殿前」1.jpg 「赤山神社・山王の猿」1.jpg

かつて高野山へ行った時のことなのですが、その地に住んでいらっしゃる方から、「ここへ来て荒神社へ行かないというのは、手抜きになりますよ」と注意されたことがあって、早速足を延ばして「荒神社」へ出向きました。つまり高野山を開いた空海は、この高野山を守るために鬼門に当るところに「荒神社」というものを創建したというのです。

「金剛峰寺の回廊」1.jpg 「平安京・高野山・荒神社参道」1.jpg 「荒神社」1.jpg     

  それを言われて思い出したのが、同じ空海が中國から戻って間もなく、京都西北にある古刹神護寺で修行しましたが、やがて空海はこの寺の守護のために平岡八幡宮を創建いたしました。

 「神護寺山門」1.jpg 「平岡八幡神社・本殿」1.jpg  「神護寺守護神・平岡八幡神社・日月神」1.jpg

現在の皇居である江戸城には、日枝神社がありますが、これは日吉神社の霊力が協力であることを知った徳川家康の希望で、京都の日吉大社と同じ神・・・つまり大津の日枝山から勧請した大山咋神を祀っているのです。 

「皇居と堀」1.jpg 「日枝神社・山門」1.jpg 「日吉大社」1.jpg 

何処をとっても風水の思想が、現代でも大事にされえいるということがお判り頂けたのではないでしょうか。こんな智識でも旅行なさった時に発揮されれば、ただの観光ではない発見の旅にもなるのではないでしょうか。

本日は意外にも古代のお話をしているようでありながら、現代のお話にもなっているのではないかと思います。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の七 [趣味・カルチャー]

      第一章「卓越した指導者といわれるために」(七)


        為政者の課題・「評価は天が決める」


今回は承和八年(八四一)のことです。


王朝を率いてから十四年もの間、政庁をひきいていらっしゃった嵯峨天皇は、かつての経験から朝廷に騒乱が起る原因となる、後継をきちんとした決まりに従うということがなかったことから、次は我が子ではなく同じ桓武天皇の子であった大伴親王(おおともしんのう)に譲位なさったのです。それからは太上天皇として政庁から退かれたのですが、れから十年淳和天皇の為政となりましたが、やがて彼は嵯峨太上天皇との約束どり、皇太子として協力してこられた太上天皇の第一子である正良(まさら)親王へ譲位して、政庁から退かれたのです。


その時から仁明天皇の施政の時代となり、もうすでに七年が経過しています。


嵯峨太上天皇も正確ではありませんが、即位された時が八〇九年で二十四・五歳といわれていましたから、それから考えると五十七歳前後になっていて、この頃は体調を崩し気味でしたが、時に応じて訪ねてくる仁明天皇を相手に、政庁での問題については報告を受けながら指示を与えていたように思えます。しかし英邁の為政者も、いよいよ晩年の時を迎えているように思えます。一体、太上天皇の気構えはどのような状態だったのでしょうか。


為政者・仁明天皇(にんみょうてんのう)


承和八年(八四一)三月二十八日のこと


発生した問題とは


 仁明天皇を取り巻く環境はかなり騒がしく、厳しいものがありました。


嵯峨太上天皇とご縁の深かった空海が興した、高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)が、定額寺(じょうがくじ)として認められて真言密教の修行の場として活動し始めましたが、の頃は日照りが続く上に風害があって、政庁は出羽国の百姓二万六百六十八人の税について一年間免除しましたのですが、信濃国がってきたのは、地震が起って一夜の間に雷鳴のような音がおよそ九十四度も聞こえ、(かき)や建物が倒壊して、公私ともに損害を被ったといいます。農民は勿論のこと町に住む民も暮らしに厳しいものがあったのです。


神仏に頼ろうとする政庁の思いは勿論ですが、ついに強い神霊を期待して、古の神功皇后(じんぐうこうごう)の霊に頼ったりもいたしました。ところがそのうちに、宮中にものの怪などという得体の知れない怪物が現れたりするようになるのです。


一気に不安が高まる中で、今度は日照りがつづき、更に激しい風雨に見舞われてしまって、そのために洪水が起こって家屋を流されてしまうという被害が、続出してしまうのです。


やがて天皇は災害がつづくのをご覧になってこうおっしゃいました.


 


「天平勝宝四年謄勅符によれば、『先に寺の周辺での殺生を禁止したが、今聞くところによると、時間がかなり経ち、禁制がほとんど行われていないので、もし違反者がいれば違勅罪とする』とあるが、春秋に猟をし魚を釣ることが行われていても仕方なく、殺生の止むのをひたすら待つだけの状態である。しかし、寺の周辺や精舎の前は固より仏教の悟りの土地であり、漁猟の地ではない。聞くところによれば、有力者が法を憚ることなく、国司・講師が監督していないのにつけ込んで、寺内で馬を走らせ、仏前で鳥を屠るような濫りがわしいことが、数えきれないほどだという。災いの兆しは必ずしも点が下さず、民が自ら招く者である。はなはだ嘆かわしいことである。重ねて五畿内・七道諸国に命じて、寺の周囲二里内における殺生を厳しく禁止し、もし違反者がいれば、六位以下の者には違勅の罪を科し五位以上の者は名前を言上書。(おもね)り、見過ごすことのないようにせよ」(続日本後紀)


 この後は、「直により、大和国添上郡の春日大神(春日大社)の山内に「おける狩猟と木帰を、透谷の軍司に命じて、特に厳しく禁止させた。


そんなところへ大宰府(だざいふ)から連絡があって、新羅(しらぎ)張宝高(ちょうほうこう)が先年十二月に、馬の鞍を献進してきたというのです宝高は新羅王の臣下です。そのような者による安易な貢進は古来の法に背いているいうので、礼をもって辞退し、早急に返却せよと指示されました。


彼らが持参してきた物品は、民間での売買を許せと指示します。


人々が不適切な購入により、競って家産を傾けるようなことのないようにせよ。また手厚く処遇し、帰国に要する食料を、従前の例に倣い支給せよと指示いたしました。


 


 同じ頃病床の嵯峨太上天皇は、これまでの自らの為政について、天帝がどのような評価を下そうとしているのだろうかと、思い巡らしていらっしゃったのです。


 見舞いに現れた今上が、官民共に太上天皇の積み上げて来られた為政を評価して、ひたすら回復を祈っていると伝えるのですが、太上天皇からは、


「朕の評価は天帝がお決めになられる」


そうお答えになられただけでした。


為政者はどう対処したのか


 「優れた人物が規範を定めると、天の意向に従って事が運び、天は手本となるものを弘め、人の行動によって感応するものである。朕は徳が少なく愚かであるが、謹んで行為に就き、己を虚しくして励み、日々に慎み、古の聖君子の治国の道を追求し、先代の民を安んじた方針をたどって採り、人に疫病がなく世が安らぎ治まることを期してきた。しかし、朕の誠意は実現せず、咎めのしるしが出現し、大宰府は肥後国阿蘇郡神霊池が、例年ならば水を湛えて水旱(すいかん)出来(しゅったい)しても変化がないのに、今年は四十丈も()れたと言上してきた。朕は静かにこの災異のしるしをはなはだ恐れるものである。亀卜によると、日照りと疫病の前兆だという。そこで過去の優れた人物に倣い、前代の手本に即して恩恵を施し、この災害を防ごうと思う。旱魃は異常な大規模災害にならないかぎり、日頃の努力より対処できるものである。灌漑用の池を修理し水不足にならないようにすべきである。また、大宰府管内は西日本の鎮めの地域であるだけでなく、災異のしるしが出現した土地である。府官人は最大限に慎み、不虞に備えよ。遠方にまで布告し朕の思いを知らせよ」(続日本後記)


 そんなある日のこと、日食がありました。それに対して天皇はこうおっしゃいました。


 「神霊の感応は、誠意がなくては通じず、帝王の功績は、道理によらなければ、達成することが出来ないものである。五畿内・七道諸国に命じて、国司・講師が相共に斎戒して、管内の諸寺において「金剛般若経」を転読し、朝廷にあっては天皇の寿命が延び、国内で若死の心配がなく、併せて適切な風雨により穀物が豊稔となるようにすべしである」(続日本後紀)


 太陽は血のように赤く見えたが、間もなく常態違に戻った。


 「この頃ほどよい雨が降らず、農民は農作業を取り止めている。もし神霊に気がしなければ、よき苗を損なう恐れがある。松尾・賀茂・乙訓・貴布禰・垂水・住吉・雨師の神に奉幣して、よき雨を願い、風災を防ぐべきである」(続日本後紀)


 天皇は災害に対して、どう備えるべきなのかということで苦悩していましたが、同じ頃為政のすべてを終えて、天帝は太政天皇の生涯に、どんな評価を下さるのだろうかと思い巡らしていました。


 様々な形で襲いかかる現代の我々にとって、それはどんな問題提起になっているのでしょうか。


 すべてを淡々と受け止めて、その生涯の評価を天帝が下して来るのを受け止めようとしている太上天皇ですが、今為政を預かる天皇は必死で、次々起こる困難を乗り越えようとしています。それはあくまでも天命の評価を受ける時のためにも、まず民・百姓の困難をどう解消してきたのだろうかと真摯に考えるのです。


 現代の為政者がすべてこれほどまでに、自らの為政に対しての責任を感じながら責務をこなしていらっしゃるとは思えませんが、せめてこれまでの政治生活について、天帝にその評価を問いかけてみるだけの真摯さを持って頂きたいと思います。しかしそれと同時に、我々はどうでしょうか。生涯を終える時に、天帝からの評価がどうあるのだろうかと考えたりするでしょうか。やはり嵯峨太上天皇の心境に近いのではないでしょうか。すべて一生懸命に生きた結果です。それをどう評価してくれるか、淡々と受け止めるしかないように思えるのです。


 災害と必死で戦う我が子今上天皇を思いながら、病床の


嵯峨太上天皇はその時を静かに待っているのでした。


温故知新(up・to・date)でひと言


 


そんな時こんな言葉を思い出すといいのかなと思ったりしています。「蓋棺事定(がいかんじてい)という言葉です。生前にやったことについての評価は当てにならないものなので、棺の蓋をした時にはじめて、その人の真の値打ちが決まるということが言われます。あなたは生涯を終える時、天帝からどんな評価が得られると思っていますか。地位も名誉も財産も、所詮自分の思い通りにはならないものだという言葉に、「富貴在天(ふうきざいてん)というものがあります。富や位を手に入れるのは天命によるので、人の思うようにはならないということです。卑近な例として紀州の大富豪が不可思議な死を迎えたという事件がありました。あの富裕ぶりが羨ましいと思ったりしたでしょうか。ほとんどの人は否とお応えになられたでしょう。結果はあまりにも悲惨です。人生の評価を決めるのは天帝です。富を得たり、地位を得たり、名誉を受けたりすることに腐心するよりも、先ず目指すことについて誠心誠意努力して生きましょう。「陰徳陽報(いんとくようほう)ということも言われます。人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現れてくるということもあります。心澄ませて生きましょう。その結果は最後の最後に決まります。天帝のいい評価が出るように、気持ちを整理して精一杯頑張ってみましょう。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言3 [趣味・カルチャー]

「禁断の木の実に異説」

 古代の歴史の中で、いわゆる正史からこぼれてしまいそうになりながら、なぜか忘れられないでいるお話があります。

非時香菓(ときじくのかぐのきのみ)というものがそのお話です。

これにはあまりにも涙ぐましい物語が残されていて、いつまでも語り伝えられているのですがご存知だったでしょうか。

 現代でもできれば元気で長生きしたいと思っていらっしゃる人は、かなり多いのではないかと思うのですが、古代においては現代人とは比べ物にならないくらいに短命であったためもあって、庶民はそれも天命であると思ってあきらめながらも、出来ることなら少しでも長く生きたいと思っていたに違いありません。

そうなると、何でも思うことは手に入れられると考えている時の権力者にとっては、現在の権勢を維持しておくには、不老だけでなく長寿である必要があると、常に考えつづけていたに違いありません。

勿論われわれ平民であっても、病気で長生きしても楽しむということは出来る訳はありません。人生を楽しむには、まず健康第一でなくてはなりませんから、様々な健康維持のためのサプリメントを取り寄せて飲んでいたりしているということが伝えられたりしています。

長寿・・・特に不老長寿は、万人の願いです。

それは古代人も現代人も変わりがありません。

 現代のように医学などの発達のお陰で、長命を願った様々な工夫・研究されていますが、この不老長寿という願いは、日本よりもはるかに古い歴史を誇る中国では、強大な権力を欲しいままに行使してきた秦の始皇帝などは、不老長寿の妙薬が欲しいと願いつづけていたことで知られていました。

ある日。そんな彼のところへ呼び出されたのが徐福(じょふく)という男がいました。

東海の小島に不老長寿の樹の実があるという噂を手に入れると、一刻もじっとしていることができなくなって、徐福に「非時香菓」探し求めてくるようにという使命を申し渡したのです。

徐福は直ちに童の男女三千人と、五穀の種、百種類の工人を伴って船出をしたというのです。始皇帝は直ちにそれを認めました。

不老長寿の樹の実があるという東海の小島は、わりに近くにあると考えていたのでしょう。直ぐにでもそれは手に入れられて帰って来るだろうと考えていたのです。その時こそ不老長寿は約束されることになると、心を躍らせながら待っていることにしたのです。目指して行けば、それほど時を費やさなくても手に入れて戻れるとでも思っていたのでしょう。

始皇帝はその時の徐福の願いについては、まったく疑いもしませんでした。多少は苦労したとしても、童の男女三千人と五穀の種、百種類の工人を伴っていくほど大袈裟な旅をしなくてはならないのでしょうか。しかもあれほど多くの種類の工人たちを連れて行くのは不自然です。皇帝の身近に仕えている要人たちは、ちょっとおかしいと思ったに違いありません。

案の定です。当時秦は法治国家になっていたこともあって、大変息苦しくなっていたのです。どうも徐福は皇帝の命令をいい機会にして、亡命を図ったのではないかと疑っていたというのです。しかしその程度のことには、始皇帝も気が付いていないはずはないのです。

重臣たちの進言を聞きましたが、そんなことは承知の上で「非時香菓」を手に入れてくるようにという命を下したというのです。彼はこの頃中央集権を確立して西、南、北の国境は固めたのですが、東は海でその向こうは未知の国だったのです。やがてそのあたりも征服してしまえば、周辺ばかりでなく世界をも手に入れることになると考えていたのでしょう。

彼は如何にも徐福の目的には気がついていないふりをして、東の未知の国の情報を得るために、噂で名高い東海の小島にあると言われている不老長寿の妙薬を取って来るようにと指示したのです。もしそれが手に入れられれば、まさに一挙両得ということになるとほくそ笑んでいたのです。

 ところが徐福の村では、それ以来始皇帝の希望に応えることもなく、行方不明になったまま帰国しなくなってしまった彼に、怒りを燃やす者が多くなったといいます。

 ところが日本の場合ですが、私たちの年齢の者は「修身」という教科書の中で、必ず載っていた話がありました。

不老不死の妙薬を探して来いという、垂仁天皇の命を受けて旅立った田道間守は、もうそんなことがあったということさえも忘れ去ってしまったと思われる、十数年という長い長い月日をへて、やっと神仙国から「非時香菓」という不老不死の木の実を探し出して戻ってきたという話を、役人の美談として紹介されていました。

 ところが彼に「非時香菓」を取って来いと命じた崇神天皇は、彼がやっとのことで手に入れた橘の香菓を持って戻ってきた時には、崇神天皇は崩御してしまわれていたのです。田道間守は橘の香菓を天皇の陵に献じて、嘆き悲しんで亡くなってしまったということが、伝えられてきています。

現代では欲しいと思うものは容易に手に入れられる上に、「飽食」という問題さえも抱えている時代でもあります。

足もとから健康を害するような誘惑が、身の回りを取り巻いているということがあるということを、決して忘れてはならないと思います。

余談になるのですが、古代では滅多なことでは食べられないものといえば、天上にある楽園でアダムとイブが、禁ぜられている木の実を食べてしまったという伝説があります。それはリンゴであったということになっているのですが、本当はエデンの園で二人が食べてしまった禁断の木の実は、リンゴではなくアンズだったのではないかという説を言っている人があります。大島正満博士という方だそうですが、旧約時代の聖書聖地付近にはリンゴはなかったというのです。後の画家たちが、アンズとリンゴ間違えて描いたに違いないといっているのです。事例や植物学的な見地から様々な反証があるようですね。

洋の東西を問わず、手に入れることが困難であるといわれながら、いつかそれを手にしたいと夢を見るのが、永遠の命というものかもしれません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の六 [趣味・カルチャー]

      第一章「卓越した指導者といわれるために」(六)


      為政者の課題・「民への気遣いはいつも」


    今回は弘仁十四年(八二三)のことです。


 嵯峨天皇は右大臣の藤原冬嗣ふゆつぐ冷然院れいぜんいんへ呼び、「朕は位を皇太弟(大伴親王)に譲ろうと思う(日本後紀)


かねてからの計画を伝えました。


そして間もなく冷然院正殿に大伴親王をお招きになられると、あれると、手を引きながら、これまでの在位に当った十四年という治世に当った経緯を述べられた後で、こうお話されたのです。


 「朕は少ない徳乍ら、十四年間在位してきた。皇太弟と年齢が同じである。朕は人を見る才能がとぼしいとは言え、皇太弟と長年一緒に過ごしてきており、皇太弟が賢明で仁と孝の特に優れていることは、よく判っている。そこで皇位を皇太弟に譲ろうと思いながら、すでに数年となっている。今、かねての志を果そうと思うのであり、よく理解してほしい」


 勿論、大伴親王は拒否をするのですが、天皇の真剣さには背けなくなり、ついに第五十三代の淳和天皇となられたのでした。


これは皇統を巡って無用のいさかいをしなくてはならなかった過去を思い出して、今後嵯峨天皇の系列の親王と、大伴親王の系列の親王とで、交代に政庁を率いていってもらおうという、若い時からの決心であり、大伴親王にも承知して貰っていたはずです。彼は直ちに淳和天皇として践祚すると、嵯峨太上天皇の清冽な思いを引きついていくことになられたのです。


 まだ嵯峨太政天皇は四十歳を前にしたばかりで、勢いを持ったまま譲位されましたので、政庁にはまったく心配は存在してはいません。新天皇も民への気遣いには、先帝と同じ思いで向き合おうとしていらっしゃったからです。


 嵯峨天皇は在位十四年ほどで太上天皇となりましたが、これは皇統を巡って無用のいさかいをなくそうという思いから、今後嵯峨天皇の系列の親王と、大伴親王の系列の親王とで、交代に政庁を率いていってもらおうという、若い時からの決心であり、大伴親王にも承知して貰っていました。彼は直ちに淳和天皇として践祚すると、嵯峨太上天皇の清冽な思いを引きついていかれることになりました。


 まだ嵯峨太政天皇は四十歳を前にしたばかりの勢いを持ったままの状態での譲位でしたので、政庁にはまったく心配は存在してはいません。


新天皇も民への気遣いには、先帝と同じ思いで向き合おうとしていらっしゃいました。しかし・・・


為政者・淳和天皇


弘仁十四年(八二三)四月二十七日のこと


発生した問題とは


 百姓からの生活が容易ならない状態という訴えがあって、新たな天皇も様々な配慮をしなくてはなりません。救助を与える側、救助を受ける側のそれぞれの思いには、古代も現代もなく、永遠の課題が横たわっているように思えてなりません。


 統治する者と統治される者との信頼感・安定感ということでは、現代に生きる我々と政府との信頼感というものは、平安時代のそれとは、かなり距離感があるような気がいたします。


 淳和天皇(じゅんなてんのう)が嵯峨天皇から譲位されて即位されたたばかりことですが、天皇は年齢的にはすでに三十七歳に達しておりましたので、長いこと嵯峨の皇太子として仕えてきたということもあって、職務をこなすのに不足はない状態なのですが、こうして為政の頂点に立って臣民を率いていくには、まだその気構えが出来ているとはいえません。


かなり学ぶということでは大変熱心な方でしたし、才覚という点ではかなり優れたものをお持ちでしたが、しかし臣民の信頼感ということでは、とても嵯峨太上天皇とは比べようがありませんでした。存在感が違い過ぎるのです。


 (つまび)らかに従前の帝王を見ると、それぞれ事情に因んで名前を立て、時に従って号を変えている。嵯峨太上天皇は、見たり会ったりすれば、利益を与える祥気を漂わせながら、皇位に就き適切な治政を行って、学問や教化を推進し、軍事の功績を上げた。あらゆる場所で人々が嵯峨太上天皇を天子として喜んで推戴し、治政を謳歌する声は全国に聞こえた。物事を成し遂げても誇らず、安住せず、皇位に執着していない。全世界に恩徳を施し、その徳の高いことはどこの国も及ばないほどである。高い身分でありながら、謙遜して人臣と同列につくと仰せになっている」(日本後紀)


天皇は先帝を太上天皇、皇后に太皇太后(だいこうたいごう)と呼ぶことにしようと決めました。天皇は民に対しても、官人に対しても、どう向かい合えばいいのかということについて、まだ判らないことも多かったのです。


勿論、先帝を越えた為政者になろうという気概は持っていらっしゃいましたが、即位前には何度か嵯峨太上天皇に問い掛けられたことがありました。


 嵯峨太上天皇はこうお応えになられました。


「天地が開闢(かいびゃく)すると、天子が置かれるようになりましたが、天命を受けて天子となる者は定まっているわけではなく、徳のある者を助けて天子としているのであり、天は賢く才能のある者を天子として選ぶものであります。私は(かたじけな)くも徳が少ない身ながら天皇として十余年政務を執り、朽ちた手綱で馬を御し、薄氷を踏む思いできました。しかし皇位を陛下(淳和(じゅんな)天皇(てんのう))に譲り、長い間抱いてきた譲位を果たすことができました」(日本後紀)


為政の始まりに当たって、天皇として幾多の山稜へ使いを遣わして即位の報告を行いながら、太上天皇に対してこうお応えしました。


(あした)は君主であった人が、(ゆうべ)に人臣となるようなことがありましょうか。誠に人を教諭し俗を正すとなれば礼が伴わなくてはならず、君臣の上下は礼に従わなければ定まらないものです。陛下は皇太子から即位し、天下に君臨して十二年を超えています。人民は陛下の実力を知り、風俗は教化に馴染んでいます」(日本後紀)


 すると太上天皇からは、次のような文書が寄せられました。


『天皇として天下を治めるには賢い人の助力を得て平安に治めることができる』


というのです。


確かに嵯峨太上天皇には、藤原冬嗣という有能な太政官をおいて為政を動かしていました。淳和天皇はまだとても太上天皇のようにはいきませんが、親王たちをはじめとして、王・諸臣らの援助によって天下の政事を平安に遂行できると思うので、正しく素直な心でみなの者が朝廷に助力せよと、協力を促したのでした。


為政者はどう対処したのか


天皇は兎に角身近な者たちの協力を訴えましたが、それと同時に平安京の左右京・五畿内の(かん)(妻を失った男、夫を失った女)・()(ひとり者)・()(両親のない子)・(どく)(助ける者がいない者)で自活できない者たちに物を恵み与え、諸国の飢えている公民に貸し付けてある、借貸稲の未納分はすべて免除するとおっしゃったのでした。敢えてこのようなことを取り上げるのも、現代の為政者に通じる問題が潜んでいるように思えるからなのです。しかし現代のような時代で平安時代と同じようなことをしようとすると、不公平問題とぶつかってしまいます。貧しい家庭とはどんな状態の家庭にたいして言うのかということについて、きっちりとした基準を決めておかないと、差別的な問題とぶつかってしまいます。


現代でも生活に困窮する家庭の救済ということの援助が行なわれるようになっては来ていますが、最近になってやっと本格的に動き始めているという状態です。古代との時間を考えると、何という長い時間がかかったものだなと思えたりいたします。


 まだまだ為政者と国民との関係ということでは、とても信頼感で繋がってはいないように思えてなりません。


温故知新(up・to・date)でひと言


 現代は古代とは比べようもなく、困窮者に対して福祉の手が差し伸べられているように思われるのですが、それでもこの程度では足りないという不満を述べる報道をよく見かけます。国としての規模が大きくなっていることや経済的な規模が広がっている現代だからこそ出てくる不満なのですが、古代で救済される人々との暮らし向きは、とても現代のそれとは比べようもありません。嵯峨天皇、淳和天皇が鰥・寡・孤・独などに救済の手をさしのべたのは、それなりに救助をさしのべる必要に迫られている人々であったはずです。現代のそれらの環境にある人たちとは比べようもありません。もっとその規模を広げて欲しいとは思っても、それまでの追い詰められた環境からすれば、もっと援助して欲しいとはいえなかったでしょう。為政者として人の上に立つ時には、まずこれから共に働くことになる人々に、期待感を持って頂かなくてはなりません。内閣総理大臣にしても、道を究めて、広く道理に通じて全体を公平に見て、正しい判断を下して貰いたいものです。


古い言葉に「達人大観(たつじんたいかん)というものがありますが、それを実践して欲しいし国民の信任を得るためには、ただ権力を誇示するだけでなく、道を究め、広く道理に通じた人は、決して部分に捉われずに、全体を公平に見て正しい判断を下すといいます。多くの人の心を集める「人心収攬(じんしんしゅうらん)のためには、国民に心ある為政者としての思いを真摯に訴えて欲しいし、「外寛内明(がいかんないめい)ということを知っておいて頂きたいものです。つまり外部に対しては寛大、寛容に接し、自分自身はよく顧みて、明晰に己を知り、身を慎むということです。どうでしょうか。それがリーダーといわれる人の心構えというものです。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑3 [趣味・カルチャー]

「白塗りに理由(わけ)あり

 

昨今は2017年時代に始まった伝統的で支配的な文化に対する抵抗として起こった、ピーコック時代から今日まで男性も大変身だしなみに気を遣うようになってきました。

 今回はその問題については、直接的にはあまり関係がありませんが、それにつて、つい思い出してしまうことがありましたので、平安王朝時代の、公家たちの化粧のことについてお話したいと思います。

 薄暗い光の中でも美しく見えるようにという工夫から、白塗りにしていた女性の場合は別として、ほとんどの男性たちが白塗りというのは、どういうことなのでしょうか。

我が国における、男性のピーコック時代の始まりだったのではないのかと考えてしまうのですが、実はこれには深い理由が秘められていたのです。

 平安時代の貴族は、湯につかるという習慣がなく、時折サウナ風な蒸気へ当たるだけだったのです。当然ですが不潔なために皮膚病が多かったということが言われています。そして更に、伝染病の一種である痘痕(とうそう)が流行っていて、それが治る時にはアバタが顔面に残ってしまったというのです。それを隠すために白塗りが行われたという現実的な説があります。

現代の俳優さんが、女性であることを表現するために行う白塗りともまったく違った、ごく日常的な問題だったのです。つまりおしゃれとは全く無縁な、現実的な事情によるものだったのでした。

 私には当時の食糧事情による影響ではないかと思うことが多いのですが、兎に角現代とは比較にならないほど貧しく、限られた食糧事情のためであったとしか思えませんでした。

調味料といえば塩、酢、(びしお)しかなくて、甘味はありませんでしたから、まさに味気がない食事でした。食べる時にそれらの調味料を使うしかない上に、塩蔵と乾物の魚で蛋白質、ビタミンAを取るだけで、運動不足です

しかも近親結婚のために体質が低下していたので、消化吸収が悪くて栄養失調が少なくなかったのではないかと思われるのです。死因に結核や脚気が多かったということを読んだことがあったのですが、その上に体臭があり、それを消すために香が焚かれていたのです。しかし食糧事情がよくなくて、栄養状態が保てないということを考えると精神的にも健康が保てなくなり、極楽往生に憧れて、現世を否定する生き方になりがちです。

更に冬の夜は寒いし照明が暗いので、ものの()を見てしまうということも起こりがちになってしまいます。

今日の話題である公家の白塗りという状況も、現代の男性のお洒感覚とはまったく違う切羽詰まった日常生活に原因があるということが判って、かなり同情したくなってしまいます。

今考えるとお気の毒としか思えません。


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