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告知と放談の部屋☆ 告11 「更新日変更の件」 [趣味・カルチャー]

                                                       「素材・原稿執筆中」1.jpg

  

来週の日曜日(20日)の更新は、都合により日曜日でなく土曜日(19日)に更新いたします。


 急な変更で失礼します。


 


 


                             藤川桂介


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告知と放談の部屋☆ 放90「体験ツアーで思ったこと」 [趣味・カルチャー]

  

はじめて体験ツアーが行なわれたのは、どんな時代であったかを考えてみたいと思います。1985年8月ということですから、もう一度36前を思い出してみませんか。恐らく現在50代から60代あたりの年齢にかかっていらっしゃる方々は、まだかなり記憶に新しいかもしれません。かつて時代の背景について書いたことがあったはずなのですが、兎に角時代自体が変わろうとして苦悶している中でしたので、大変落ち着かない激動している時代でした。恐らくブログをご覧のみなさんも、そんな時に青春時代を過ごしていらっしゃった方が多いのではないでしょうか。


当時は中曽根康弘総理大臣の統治が始まって三年目という頃で、世相は世界的な石油ショクという影響で、そのためにまったく落ち着かない、行き先の見えない混乱という状況にあった時代です。何もかもが新しい生き方を探って必死の時代でしたから、思いもかけない人間像を持った者が跳び出してきたりします。特に今回は若い人たちの集まったツアーの話ですから、当時の若者たちの中から現われてきて世間を騒がせた塊についてお話しますが、この頃話題になっていたのは、若者たちの群がり現象というものです。しかし当然ですが、そういった群れには加わらない・・・いや。加われない真面目で地味な性格の持ち主で、真面目に自分の向かうべき方向を探そうと努力する者たちもいたのですが、そういう人たちをあの群がり族たちは、「ネグラ」といって無視していました。自称新しがり屋で如何にも時代の先端をいっているのだと誇示したがる派手な者が多かったし、気に入らなければ学校でも家庭でも暴力をふるうという傍若無人という若者が激増していたのです。新時代の到来でパソコンが使われはじめると、そうしたものを得意になって新しがる若者が出て来たかと思うと、時代の急激な変化に対応できないでいる者も多くなるのですが、そんな若者たちを「ネアカ」とか「ネグラ」といって差別し合うようなことが起ったり、小中学では校内暴力やイジメが問題になったり、家庭内暴力を振るう者が現われたりする新人類が跋扈する話題ばかりの時代でしたので、その日ツアーで出会った若者たちは、一体どういう範疇に入る人たちなのであろうかと注意して見ていましたが、今回体験ツアーに集まった若者たちは、どう考えてもそれらの人たちとはひと味違っているように思えてなりませんでした。


目下話題になるような荒れる若者たちとはまったく縁のない、気持ちのいい仲間たちといったような集団です。どちらかというと時代の風潮には馴染みようもない若者に見えました。恐らく現在ブログをご覧いただいているみなさんには、そんな時代の混乱期に青春時代を過ごしてきたか、青春時代前期にあった方々であったかもしれません。


 私はそんな時代の若い人たちに向けて、「宇宙皇子」という運命的な誕生をして差別される若者が、そういう理由にならないものと戦いながら虐げられているものが安らかに暮らせる時代を求めて活躍する大河ロマンを考えましたが、その背景にはそんな時代を背負った運命の子だったのです。彼はたまたま起こった壬申の乱の最中に、神と農民の女性との間に生まれるのですが、彼が父と思う人は戦に駆り出されて戦ううちに、悲劇的な死を遂げてしまうのです。謎めいた運命の子の頭からは、なぜか頭髪の中から小さな角が現われていた。そのために「鬼」と言われて差別さる青春時代を生きることになるのです。


出版が始まると同時に思いがけない方から電話を頂きました。身障者の子が通う学校の先生からでした。生徒の中から、私と会いたいといっている者がいるというので、集会があったら行かせてやりたいというものでした。勿論私は講演会に招待して上げて、「宇宙皇子」の誕生秘話についての話をいたしましたが、彼は宇宙皇子が「鬼」と言って差別されるのに負けずに、そういった差別と戦う姿に共感するようになったということを知りました。養護学校の少年は、たまたま身障者として生まれてしまった運命の子です。それに対して現代のような理解が行き届かない時代です。さまざまな差別の中で青春時代を過ごさなくてはなりませんでした。何の配慮もない新人類に対して、彼らに代って立ち向かってくれるヒーローとして、宇宙皇子という存在を発見したのでしょう。彼には決して負けるなと励ましたことがありました。


私は「宇宙皇子追体験ツアー」というものを企画して、はじめて実際にその読者となった人たち・・・時代の影響を受けて暮らしている少年少女の実像を知ることになりました。彼らの現在を生きる若者としての姿を、夜のお楽しみの時間になって知りました。彼らを取り巻いている時代背景や、その影響を受けながら送っている青春時代の日常を受け止めることになったのです。大変素直で明るい若者たちは、七夕祭りの飾りつけを行い、ショートコントを演ずる様子を見ていると、出会った時の印象とはまるで違った姿を見るような気がしました。彼らはそれまで派手なパフォーマンスなど、とてもするようなことの出来ない者たちだと思っていたのですが、実際はそういった想像をまったく覆してしまう姿でした。「宇宙皇子」というヒーローを仲立ちにして集まった、同志たちと結集できたという安心感が生まれていたのでしょうか、とても大胆な自己表現をして楽しんでいたように思えました。


あの数日間の若者たちを見たり、接したりするうちに、彼らは今の置かれている状況に反発できずにいる、いわゆる群がれないでいる地味な性格の若者たちの姿を見たように思ったのです。彼らが普段発揮できないであろう派手なパフォーマンスが、この同じ仲間たちの中だけでは、思い切り発揮できたのではないでしょうか。お互いに宇宙皇子という差別と闘う若者と同じ思いに共感しあう、同志として開放的な気持ちを味わっていたに違いありません。「宇宙皇子」シリーズの勢いが出版する度に、ますますその勢いを増して行ったその背景には、彼らの共感を得た時代感覚を描き出したことになっているのではないかと思いました。熱烈な読者たちは、同じ時代の背景を持った同志として窮屈な環境にあった者たちであったのかも知れません。彼らがあのように開放的で何も遠慮をすることもない自己表現をして楽しむ姿を見ているうちに、閉塞状態にある環境から思いきり解放してあげたいという気持になりました。そんなことから私は、若者に自信を持って生きなさいといって激励するための呼びかけを書いてみようと思い始めたのです。


                                  「ぼくの青春論」1.jpg 「文庫・君が輝いて見えるとき」1.jpg


丁度その頃PHP出版からの依頼があったので、1990年10月には「僕の青春論」・・・という本を出版して頂きましたが、それから暫くして、もう一寸沢山の人に読んで貰おうという意図があって、同じ出版社から1993年5月に「君が輝いて見えるとき」とタイトルを変えて出版して下さいました。余談になりますが、この本の最期の「あとがき」に、私のいくつかの謎について面白く書いてくれたのは、最後の弟子としてすでに作家となっていた若き森川潤君でしたが、彼は現在教育者としても活躍していることをつけ足しておきます。


 いつの時代でもそうですが、新しい時代に直ぐに飛びついていける人、それらしく生きていける人がいると思うと、なかなか器用には生きられない人がいるものです。問題なのは、自分とは違った生き方をする人に対する思いを、「差別」という形で表現してしまうことがあることに気をつけなくてはならないでしょう。それぞれ違った生き方をしながら、それぞれの目標に向かって進んでいくのが人生です。何もかもうまくいくこともあり、うまくいかないままになってしまうこともあります。しかしそれはあなた自身が選んだ選択であったのかも知れません。兎に角そのどちらの道を与えられたとしても、それに負けないことです。あの頃の二冊については出来れば読んで頂きたいと思うのですが、かなり時間を経過しているので、もう手に入らないかも知れませんね。


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思い出作品の部屋☆ 思11「宇宙皇子体験ツアー始まる」 [趣味・カルチャー]

  

当時テレビでは、番組の支持者がこういう風に集まるというケースはよくあるのですが、恐らく出版物にこのようなファンが集まってくるということは、これまであまり聞いたこともありませんでした。そんなことから私は、彼らを担当の編集長A氏に紹介したのですが、彼もそんな読者に接した結果、彼の率いていた「あすか」の編集部の一部をFCの拠点として、会報の編集などに使うようにと貸して下さったのがFCの始まりでした。


会員となることを希望する人々が次々と申し込んできました。やがて彼らには会報や会員証を送るための費用を会費として払って頂いてクラブを維持していくことにいたしました。勿論その中心と働く者はまったくの自弁です。


「鬼笛伝説」の0号が送り出される頃には、会員になることの希望者があまり多いということが判りましたので、この際そうしたファンを一堂に集められたらどんなにいいかと夢を見るようになっていた私は、「宇宙皇子」が作中で活躍する場へ読者も同じヒーローとなって歴史の世界を旅してみてはどうかという提案をいたしました。お陰様で角川書店には旅行を扱う部署もありましたので、それを扱ってくれるということにもなり、その夢の企画は現実的なものとなって動き出したのでした。それが「鬼笛伝説」0号の裏表紙に出された体験ツアーの呼びかけでした。その結果取り敢えずかってなかった「宇宙皇子体験ツアー」が現実のものとなり、第一回目の抽選で決まった200人という参加者と共に、1985年(昭和60年)8月6日~8日までの三日間行われました。会報もその報告を兼ねて、ついに正式な第一号が発行されるようになりました。それに従って角川書店としてもその活動を支援して下さるようになり、小説を担当する編集長のS・Aさんを筆頭に、ベテランのT・Yさん。Y・Tさん。そして若手のK・S君。T・Y君。R・T君も参加して協力してくれるようになりました。


念願の宇宙皇子追体験ツアーは会報の第一号となった「鬼笛伝説」で特集記事として紹介されることになりました。


                「会報・鬼笛伝説1号」1.jpg


      「宇宙・体験ツアー・1」1.jpg 「宇宙・体験ツアー・2」1.jpg 「宇宙・体験ツアー・3」1.jpg


東京(二台)・横浜・大阪からバスで移動してきたファンたちは、金剛山の頂上にある駐車場で合流して、普段は出会うこともできない同じ宇宙皇子ファンとして出会うことになります。みなバスで来るのできっと疲れていたと思いますが、到着するとたちまち若者の活力を発揮していました。


写真はなるべく個人的に困ることにならないように集団中心のものにいたしましたのでご了承いただきたいと思います。


    「宇宙・バスで集結」1.jpg 「宇宙・金剛山頂で集結」1.jpg 「宇宙・緑陰講義」1.jpg


   「宇宙・遺跡へ向かう」1.jpg 「宇宙・史跡での講義」1.jpg 「宇宙・夕食・」1.jpg


   「宇宙・揃ったかな」1.jpg 「宇宙・検討中」1.jpg 「宇宙・どうだ」1.jpg


   「宇宙・七夕コンクール」1.jpg 「宇宙・表彰」1.jpg 「宇宙・夜の講義」1.jpg


ツアーの参加者は、それぞれの地方からのバスに乗って、遠路はるばる奈良県の金剛山頂で集結して合流してから、我がヒーローの宇宙皇子が駆け巡った飛鳥の歴史の跡を探索する旅に向いました。言い出しっぺということもありますが、私は四台のバスを連ねて史跡を訪ねる度に、その遺跡の場が小説の中のどんなところに登場したのかとか、その意味と歴史的な意味につての解説をしながら巡るのですが、その他にすべてのバスを、移動する度に乗り換えて、車内で「宇宙皇子」の執筆にまつわる話、読者との出会いなどについての話をしながら旅をしていきましたが、ツアーから帰ったその日から、また直ぐに次の作品の執筆にかからなくてはならないので、これはかなり重労働の旅でした。


FCの世話役も会長を務めてくれたY・N君。主力メンバーの二人のT・S君。T・Nの君そしてY・Oさんなどは参加者の面倒を見るために参加しましたが、何かと私のかかわったイベントに協力して参加してくれていた弟子の脚本家K・T君。J・T君。そして親しい後輩の脚本家のS・T君が協力してくれていましたので、参加した人たちにとっても通常味わえない楽しみでもあったでしょう。


 兎に角炎熱の夏ですから、史跡、史跡へ移動しながら、なるべく緑陰を見つけながら小説とのかかわりについて説明をしながら強行軍をつづけました。夜は入浴、食事を楽しみ、それからは書く地域の参加者がグループとなって、宿が用意して下さった竹を使って七夕飾りのコンクールとなり、彼らがそれぞれ工夫した寸劇を演じたりして、やがてそれをゲストの参加者による審査が行われて賞を贈りました。


 「宇宙・サイン会」1.jpg 「宇宙・史跡での講義」1.jpg 「宇宙・全員集合」1.jpg


二日目は史跡めぐりをした後は、翌日は朝からサイン会です。いのまたむつみさんも大変だったと思いますが、そのあとまた史跡めぐりをしますが、その度に私は小説の宇宙皇子と史跡のかかわり方などを説明していきますから、まったく休息時間はありませんでした。夜は落ち着いたところで古代史についての簡単なお話をしたりしましたのでくたくたでした。三日目はほとんど帰途の準備ですが、一寸だけ立ち寄るところへ行った後は、それぞれの出発点へ向けて帰途について行きました。


この「宇宙皇子追体験ツアー」はそれから何回か行なわれるのですが、毎回予定人数をかなり超える応募者があったので抽選は大変でしたが、その度に行けなかった人たちも会員として登録してくるようになったので、当時のアイドルのファンクラブと比べても、それをはるかに越えた会員数を誇るFCとして、各方面からも注目されるようになっていったのでした。


やがてFCの拠点は三番目のところへ移転しましたが、日本歯科医大裏のハーモニ会館という千代田区九段北2-3-7の前川九段ビル (九段下)の賃貸オフィスという狭い作業所でしたが、それから何年もの間はずっとここで頑張ってくれたのでした。


最近でもその頃のことを話す機会があると、主力メンバーの人たちはみな口を揃えて、大変ではあったけれども楽しかったといってくれます。彼らにいとっても青春時代のいい思い出になっているのではないでしょうか。


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言霊謎解きの部屋☆ 言32 「ひとくち言霊」(多多良女(たたらめ))    [趣味・カルチャー]

                                                                                                                     「若菜イラスト」.JPG

   

女性の身だしなみについては、とても簡単には言えないような時代になりました。しかしお会いした時に、こちらが予想もしていないようなところに、さり気無く気を使っているようなことに気が付くと、とても嬉しくなることがあります。そんな時、ふと思い浮かべてしまうのは、古代の女性のたしなみのことなのです。


昨今は女性のなみについては、とても簡単には論評できなくなってしまいました。特にファッションなどについてはそうです。迂闊に論評などはできません。実に大胆で、奇抜なファッションを生み出してきたりしますから・・・。それに鮮度や、センスの新しさを感じることもあるのですから。しかしパフォーマンスとしては理解できるのですが、あまりにも行き過ぎと感じるようなものには、納得しかねるものも多くなってきました。価値観の違いによる違和感なのかもしれません。


昨今は男性、女性の中性化という傾向もあって、かつてのように男性は男性らしく、女性は女性らしく振舞うという風習が、大分薄れてきてしまいました。そのために、すべての表現が大胆になって、いわゆる恥じらいなどというものが、ほとんど感じられなくなってしまっています。そしてそれに同調するように、お互いがお互いを気遣うという気風が、すっかり希薄になってきてしまっています。お互いに行きすぎを改めないと、あまりいい雰囲気がなくなってしまうのではありませんか。


そこでですが、男女の性の差がはっきりとしていた時代・・・お互いに、その差を最大限に発揮して生きようとしていた頃のことです。


恋する男と女が出会う約束をした時など、女は大変気を使って出かけて行きました。約束の場へ向かう道すがら、女は小梅の花びらを口に含んでいったのです。それは口臭のために、相手に不快な思いをさせないようにという、ごく常識的な気遣いの風習だったのです。


現代のように、いい医薬品などがまったくない時代のことです。女性はこのような気遣いをして、恋する人と会おうとしました。古代の女性たちは、そうした不自由なところを解消するために、それぞれの知恵を使って、克服していました。


お金を出しさえすれば、すべて用意されてしまう現代の欠点は、工夫することを放棄してしまうということです。そのために知恵も萎えていってしまいます。そしてそれと同時に、恥じらいという感覚も失ってきてしまいました。電車の中で化粧をしたり、足を広げて座ったり、更にはものを食べたりしている人を見かけることがありますが、それが女性なのですから、言葉を失ってしまいます。


女性が人に会う時の心得として、多多良女を口に含んで人に会おうとしていた古代の女性を、妙にいとしく思えたりする梅の季節です。もう、古代の女性のような、心優しい気遣いのある女性に出会うことは、大変難しい時代になってしまったのでしょうか。


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歴史と旅する部屋☆ 歴4「中国取材・演出上手な皇帝たち」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」の成功で大変活動しやすくなった私は、古代日本と政治的にも文化の面でも中国大陸との接触は無視できないということを知ったことがきっかけで、是非その原点を知っておきたいという気持になって、古代日本にとって先進国として君臨していた中国大陸の統治をする唐国の様子を吸収しておこうという気持になっていました。兎に角北京へ行ったらその代表的な博物館へ赴いて、日本と関係の深かった唐国様子を調べたいと思いました。お陰様で「宇宙皇子」は営業的にもかなり貢献していましたから、当然のことで直ぐにも許可が出ました。おおむね自分の言ってみたいところを列挙して、その希望する史跡を書いて提出したところ、角川トラベルという旅行を仕切っている部署が、交通関係その他の手配を済ませてくれましたので、私は北京空港から市内の大きい飯店・・・日本でいうホテルへ着くと、直ちに編集のS君を引き連れて北京博物館へ向かいました。日本の常識からいえば首都の代表的な博物館ですから、ここへ行けばほんど目的は果たせると思っていったのです。ところが実際に行ってみて愕然としてしまいました。博物館自体はかなり立派に見えましたが、その内容に関しては愕然としてしまったのです。ここで中国の唐時代の歴史を調べて、日本とのかかわりを調べてから史跡を探訪すれば、宇宙皇子の作品に活かしていけると思っていたのですが、その期待はのっけからすっかりはずされてしまいました。二十世紀後半に起こった中国の歴史的な激変にほとんど無関心であったことによりました。中国は1976年(昭和51年)・・・ほぼこの時よりも10年前に、中国大陸を支配していた保守的な蒋介石将軍を支配者とした政権に対して、周辺の貧しい弱小地域の民兵を率いて戦いを挑んできた毛沢東・江青夫妻を指揮官とする共産軍が、激しい戦闘の結果、蔣介石一派を台湾へと追いやってしまって、毛沢東を頂点とする政権による共産政権の支配に変わってしまっていたのです。仮に政変はあったとしても、すでにそれから10年を経過していましたからすべては落ち着いていると考えていたのが大間違いだったのです。今は必死で新しい政権の統治を徹底しようとピリピリしている状態だったのです。


 私は「唐時代」の朝廷の様子が詳しく知りたかったのですが、現代の新政府は古代の朝廷は人民を苦しめる皇帝という権力者の時代だということで、古代の展示物はほとんど排除されていて、そこに出されているのは簡単な紹介が書かれている説明書だけでした。博物館内の展示はほとんど毛沢東が率いて攻め込んできた共産軍の進行状況や、どうやって蔣介石軍を大陸から追放して行ったのかといったといった、共産軍の勝利までの歴史が補トンです。ほとんど資料となるような図書を買うこともできませんでしたが、ついでにお話すると日本から輸入されている角川新書などは、表紙が刺激的で許せないというので、ほとんどのイラストが描かれた表紙ははぎ取られてしまっていました。そんな状態ですから、取材の目的であった古代の歴史についての資料はまったく手に入れることは出来ず、わずかに古代の三国志の政界での戦いなどに使われたという武器の、常に南を指すという羅針盤である指南盤というものを乗せた指南車を見つけたので、それを模型にして売っていたので購入してこられただけでした。最近はどうか知りませんが、さまざまな競技でその指導者を柔道指南とか県道指南とかいうのは、必ず南の方向を示すという指南盤からきた言葉です。


                             「中国・指南車」.jpg  「中国・指南盤」1.jpg


 こんな状態でしたが、宿泊するホテルも大きなものでしたが、設備はほとんど昔の儘で、新しいものはまったくありません。日本へ電話をかけるにも、廊下に一台だけあって止宿するものの共用で、いちいち電話を繋いでもらうように交換手に申し込んで、部屋で待っているという状態のものでした。あくまでも1985年頃のことですが、それでも私には、当時の中国は日本と比べて100年以上遅れていると思ったものです。


 市民の暮らしもまだまだほとんど昔の儘で、とても新しくなったといえるようなものは見られません。S君と市内へ出かけた時には、街角ではじめて人民裁判というものを実際に見かけました。多くの人々に取り囲まれた中で、争いになっている二人の男が激しく自己主張をし合うのです。それに対して集まっている人民がどっちの言い分が正しいかを判定するのです。


 とても日本では見ることもないような風景を見ることもありましたが、予定されているタクシーで史跡の探訪に出かけた時にびっくりしたのは、まったく整備されない広い大通りを爆走するのです。しかもその間に青島ビールを瓶のまま飲みながらです。S君とひやひやしっぱなしでした。


 郊外に到達して万里の長城へ行った時には、流石に古代の戦いが想像できました。 


こんな状態でしたが、宿泊するホテルも大きなものでしたが、設備はほとんど昔の儘で、新しいものはまったくありません。日本へ電話をかけるにも、廊下に一台だけあって止宿するものの共用で、いちいち電話を繋いでもらうように交換手に申し込んで、部屋で待っているという状態のものでした。あくまでも1985年頃のことですが、それでも私には、当時の中国は日本と比べて100年以上遅れていると思ったものです。


 市民の暮らしもまだまだほとんど昔の儘で、とても新しくなったといえるようなものは見られません。S君と市内へ出かけた時には、街角ではじめて人民裁判というものを実際に見かけました。多くの人々に取り囲まれた中で、争いになっている二人の男が激しく自己主張をし合うのです。それに対して集まっている人民がどっちの言い分が正しいかを判定するのです。


 とても日本では見ることもないような風景を見ることもありましたが、予定されているタクシーで史跡の探訪に出かけた時にびっくりしたのは、まったく整備されない広い大通りを爆走するのです。しかもその間に青島ビールを瓶のまま飲みながらです。S君とひやひやしっぱなしでした。


 郊外に到達して万里の長城へ行った時には、流石に古代の戦いが想像できました。


                      「中国・山を回る長城」1.jpg 「中国・万里長城・攻撃壁」1.jpg


  古来中国は匈奴という騎馬民族によってしばしば侵略されるというので、それに抵抗して戦うために築いた城壁が、取り敢えず観光施設としては解放されていましたが、こんなものを何年もかけて完成させる中国という国の国民性というようなものを感じました。


 


古来中国は匈奴という騎馬民族によってしばしば侵略されるというので、それに抵抗して戦うために築いた城壁が、取り敢えず観光施設としては解放されていましたが、こんなものを何年もかけて完成させる中国という国の国民性というようなものを感じました。


                  「中国・宮殿から見た庭」1.jpg 「中国・香炉の置かれた階段」1.jpg


北京市内へ戻ってから案内して貰ったのが、皇帝の使っていた宮殿の様子でしたが、彼らはその宮殿から現れる時には、そこから下へのびて作られた階段のすべてに巨大な香炉のツボが置かれていて、それから香が立ち昇っているのです。臣下たちはその階段の下の下にいて、やがて合図の妙なる演奏と共にまるで天空から現れるようにして薫香に包まれた宮殿から現れるのです。皇帝は正に神々しい天空から現われる神のような姿となって臣下たちの目には映ったことでしょう。当時の中国皇帝が実に演出上手であったことは、天壇公園というところで皇帝が臣下たちに演説をするところも、岡の上のあるところから演説すると、その声は地上よりも高いところから聞こえてくるように響いて、丘の下に控える臣下たちのいる庭に聞こえたといいます。今もその場は残っていて、観光客がみなその場へいって試しています。皇帝たちの残した遺跡をいくつも見ましたが、彼らは自分を如何に偉大であるかを知らしめるために、さまざまなことを利用して神格化を演出していたのを知りました。北京市内へ戻ってから案内して貰ったのが、皇帝の使っていた宮殿の様子でしたが、彼らはその宮殿から現れる時には、そこから下へのびて作られた階段のすべてに巨大な香炉のツボが置かれていて、それから香が立ち昇っているのです。臣下たちはその階段の下の下にいて、やがて合図の妙なる演奏と共にまるで天空から現れるようにして薫香に包まれた宮殿から現れるのです。皇帝は正に神々しい天空から現われる神のような姿となって臣下たちの目には映ったことでしょう。当時の中国皇帝が実に演出上手であったことは、天壇公園というところで皇帝が臣下たちに演説をするところも、岡の上のあるところから演説すると、その声は地上よりも高いところから聞こえてくるように響いて、丘の下に控える臣下たちのいる庭に聞こえたといいます。今もその場は残っていて、観光客がみなその場へいって試しています。皇帝たちの残した遺跡をいくつも見ましたが、彼らは自分を如何に偉大であるかを知らしめるために、さまざまなことを利用して神格化を演出していたのを知りました。


                     「中国・天壇公園」1.jpg 「中国・円丘の下」1.jpg


いろいろ紹介したいこと、紹介したいところはあるのですが、最後に日本から唐へ渡って、そのまま中国の朝廷に仕えて生涯を終えた阿倍仲麻呂の記念碑を見た時には、ちょっと複雑な気持ちになりました。きっと彼は夜を迎えると、故国日本の平城京の三笠の山に昇る月を思い出して、望郷の思いを噛みしめていたことでしょう。


                                       「中国・吉備真備記念碑前」1.jpg


残念ですが今回は北京での取材を断片的に紹介しましたが、とにかく36年もの昔のお話です。何だか嘘のように思えるかもしれませんが、何もかも旧政権の痕跡を排除するのに必死であった、共産政権の姿だけが印象付けられた取材でした。残念ですが今回は北京での取材を断片的に紹介しましたが、とにかく36年もの昔のお話です。何だか嘘のように思えるかもしれませんが、何もかも旧政権の痕跡を排除するのに必死であった、共産政権の姿だけが印象付けられた取材でした。


 


 


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言霊謎解きの部屋☆ 言31「ひとくち言霊」(白鳥) [趣味・カルチャー]

 

                                                                                                                           「若菜イラスト」.JPG

  白鳥といえば、幼いころから、童話の世界で、美しい存在として捉えられて、物語になっていますが、やはりそれだけ目立つ存在であったのでしょうね。芸術の世界でも、白鳥と言えば、すぐにバレーの「白鳥の湖」を思い出してしまうほどよく知られ、親しまれてきています。それだけ古代からそれは、人びとに大変大きな存在感を持っていたのだということもいえます。

皇居の堀にもいますし、清浄な場に相応しい存在ですね。


多分、その美しい姿から考えられたのでしょうが、それは冥界と現世をつなぐ存在だという認識だったようです。誰もが知っていると思うのですが、古代の英雄であるヤマトタケル命が、山へ分け入った時に、魔除けのヒレを身につけていなかったのが原因で妖魔に襲われて命を失ってしまうという話が伝えられていますが、その時亡くなったヤマトタケル命は、白鳥になって飛び去ったといわれています。つまり彼の魂は白鳥となって冥界へ飛び去ったということなのですが、つい最近の新聞報道によりますと、そうした古代の認識を実証するようなことが伝えられています。


奈良時代に編集された常陸国風土記の中にも、鹿島郡白鳥郷のところに白鳥が舞い降りて昼間は少女となって堤を築き、夜は白鳥となって天に帰るという伝説が出ているのだそうですが、千葉県の佐倉市にある高岡新山遺跡から出て来た八世紀の後半の骨壷から、人骨と一緒にハクチョウの翼の骨が入っていたという新聞の報道がありました。


これは冥界と現世をつなぐ存在として、白鳥を捉えている話だと思うのです。通常ハクチョウの骨と人骨が一緒に入っているということは、とても珍しい記録ですが、当時、ハクチョウが冥界と現世をつなぐ存在であると捉えられていた例証のようなものです。そのころの人びとにとってはやはり清浄な姿として捉えられていたのですね。しかし魂が美しい白鳥となって天国へ向かうなどということは、何とも幻想的でロマンチィックな光景ではありませんか。 

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告知と放談の部屋☆ 放89「井戸は最初に掘った人のもの」 [趣味・カルチャー]

                         「宇宙皇子・新書7」1.jpg 「宇宙皇子・新書8」1.jpg 「宇宙皇子・新書9」1.jpg 「宇宙皇子・新書10」1.jpg

  

今回は1985年に発売された第七巻「まほろばに熱き(わだち)を」第八巻「愛しき太陽(てだ)に死す」第九巻「さらば夢狩人たち」第十巻「愛、果てしなき飛翔」という宇宙皇子シリーズの地上編という締めくくりに関係する後半の四冊にまつわる話を書きたいと思います。それにしても前年の1984年に始まった「宇宙皇子」は、わずか二年の間に10冊もの作品を書ききってしまうという驚異的な勢いが、出版界に及ぼした影響についてのお話です。


この間に出版界はびっくりするようなさま変わりをしてきていたからです。これまでほとんど現代物の作品が中心であったそれぞれの出版社の刊行物が、雑誌を含めてほとんど古代物中心に変わってきてしまってきたということです。


明らかに「宇宙皇子」の勢いが止まるどころか、ますます勢いづいて行くからです。


 かつてテレビで番組を書いている頃は、「宇宙戦艦ヤマト」が大当たりした影響を受けて、それから後登場する番組には、宇宙を舞台にしたものが中心になってしまったことがありました。視聴者の支持が得られるということになると、どのテレビ局もみなそろって宇宙もののSF作品になってしまったことがありました。どこかの局でそういった流に抵抗して独自色を出した別の作品を放送するようなところはないものかと、随分熱望したことがありました。しかしそれはほとんど駄目でした。依頼のくる話は、くる話もくる話も全て宇宙ものでした。昨今の出版界を見ると、まるであの頃の放送界とそっくりではありませんか。


これは間違いなく私が古代物でベストセラーを連発していることがきっかけで、読者の指示を受けて大騒ぎになっていることが影響したことが原因であることは間違いがありませんが、どこもここも同じ古代物ばかりでは、きっと飽きられてその反動が襲いかかってくるものです。作家まで現代物から突然歴史ものを書き出すありさまで、いささか嫌になってきていました。少しは違った話に挑戦できないものかと考えていた頃のことでした。私を担当する三代目の「野性時代」の編集者となったY氏が、拙宅へきて雑談中に現在の出版界についての不満を話し出した時、彼は思いがけないことを言って気にするなというのです。


彼はお兄さんが著名な占い師であった人でしたが、特別その人との影響を受けるわけでもない自由人で、編集者ではありましたが大変苦労人でした。日本酒の好きな人でしたので、彼が打ち合わせに来る時には様々な出版社から送られてきた日本の銘酒を保存しておいて、それを楽しんで貰うことにしていたのですが、彼は毎回一升すべてを飲み干して帰るようになっていましたので、ついには拙宅に隠匿していた数々の銘酒はすべてこの酒豪によって飲み干されてしまったくらいでした。それは何といっても彼のキャリヤが言わせるのかもしれませんが、時々業界にまだ馴染んでいない私に向って、思いがけないアドバイスをしてくれるようになったのです。


昨今の出版界のさま変わりについて訴えると、彼ははっきりとした口調で言い切るのです。


 「井戸は最初に掘った人のものですよ」


流石に年季を積んでいる編集長としての名言でした。


みんな同じような古代歴史ロマンを手がけて出版はしますが、それで評判になるものはほとんどありません。確かに「宇宙皇子」の独走状態でした。


営業担当の社員から入った情報によると、書く書店は東販、日販という問屋から送られてくる新刊本の箱も、私と赤川次郎さんの本が入っていないと、開封もしないで返してしまうということが起こっているということです。そのお陰で私は、毎月出版できる態勢で原稿を執筆しなくてはならなくなってしまったということになるのですが、それが無理だと感じるようになってしまうようでは、やがて自分で自分の首を絞めてしまうことを世間に知らしめることになってしまうでしょう。


(絶対にそんなみっともない結果だけにはならない)


私はそれからも精一杯頑張るつもりでした。


特に「宇宙皇子」で大ヒットをつづけている最中には、若手編集への嫌がらせ電話を入れては、溜まりつづけているいらいらを解消しようとしていたのでしょうが、Y氏は流石に年季を積んでいた苦労人であったこともあって、さまざまなことで業界に馴れずにいる私を励ましつづけてくれていたのでしょう。珍しい同志でした。彼は何度も強調していたのは誰が流行に乗って慌てて古代物を書いたとしても、決して私の書いている古代物を越える作品は生み出せないということなのです。いささか激しい現状の変化に嫌気を感じている私を、まったく気にすることはないといって励ましてくれたのでした。


それから間もなく彼の報告もあったのでしょうか、連続する作業に対する慰労のためにと、編集部長のO氏が中心となって、かかわる編集たちと共に銀座の高級料理店へ案内して下さった時には、その編集部長からもこんな名言が伝えられました。


「作家はみなそれぞれ看板づくりをして苦闘しているのですが、それを先生はいきなり(金看板)を作ってしまったのです。どうぞ自信を持ってお書き下さい」


という激励でした。


世間のさまざまな商店は、まさにその店先に掲げている看板に対する信頼度が増して、あの店の者なら間違いないといって、通ってくれるお客さんが増えるということと同じようなものだということです。作家もそれぞれ○○○○という名の人が書くものは面白いとか確かだとかいう評価がついて、その売れ行きもある程度は間違いなく消化できるということにもなりますということなのです。確かに私は思いがけない機会を得て、大きなベストセラー作品を送り出すことができてしまった幸運時であったことは間違いありません。


文学界の代表的な賞を頂いた人なのに、なぜか私が書く作品と同じようなタイトルをつけて出版してくる人もいました。


嫌らしいことをする人もいるものだなと思ったりしたものです。


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思い出作品の部屋☆ 思10「FC活動始まる」 [趣味・カルチャー]

  

はじめは私のところへファンの一人として訪ねて来た人たちから始まりました。その人達の熱烈な思いを聞いているうちに、その思いを大事にしてあげたいという気持になったこともあって、「宇宙皇子」の推進のために活動して下さっている編集長A氏にして彼らを紹介して、その熱意に応えられないものかと相談したのが始まりでした。女性のグループもいましたし男性のグループもいましたが、やがて編集長は彼らを一つにして、FCという塊となって活動するようにしたのでした。


恐らく1985年・・・つまり「宇宙皇子」が発売された翌年当りであったように思えます。ところがもうその頃には、横浜、名古屋、岡山、福岡にも、そして北海道、四国にもそれぞれ「宇宙皇子」を支持するファンが集まり出して、そのリーダーが生まれていった様子が毎日送られてくるファンレターを見ているうちに、このままにしておくとそれぞれがばらばらに活動するようになってしまって、私のところでは収拾できなくなってしまうと考えて、このそれぞれの地区のFCを一つにして統率していく組織が東京にないととんでもないことになってしまうと編集長に連絡しました。その結果編集長の下に集まった若ものたちが中心になって「宇宙皇子」を統括した組織として、正式に「宇宙皇子」の中心のFCとして形づくられていったのでした。


 その間にどんなことがあったか、途中経過については私にはまったく判りません。兎に角作品を執筆するのが精一杯でしたので、「ここがFCの拠点いなりました」と角川書店の「あすか編集部」の部屋の一角に場を作って頂いて活動し始めたという報告は受けましたが、直ぐには様子を見に行くことができませんでした。


 兎に角ファンクラブの原型は「宇宙皇子」が発売された直後からその動きがあったようなのですが、編集長であるA氏に働きかけて集まってきた人たちをバックアップして上げて欲しいという申入れをしてからは、活動について作家がいちいち指示をしない方がいいという気持でいましたので、編集長へ橋渡しをしたところでその内容に関しては、若い人達の気持ちを尊重して、大人はそれを見守るという形にしたのです。


それから暫くは基礎的なことに関してはどう話し合って固めていったのかは、まったく判りませんが、これからどう進んでいくのかはまったく見当がつきませんでしたが、全国のファンが上手くまとまっていけるようになってくれればいいがと祈るばかりでした。かつてテレビの番組がきっかけとなって、さまざまなファンクラブが結成されていましたし、私が脚本を執筆していた番組のファンクラブも出来ていたことは知っておりましたが、いずれにしてもそれらはあくまでもファンの間で思いの通い合う人たちが結集して、愛する番組を後押ししてくれるようになっていたように思いますし、あの「ゴットマーズ」のように、ファンの熱意を結集して映画まで制作させてしまほどの力を発揮したことさえもありましたが、確かにどのグループもばらばらで点在しているといった状態です。我がファングラブは千代田区富士見2-13-3にあった角川本社ビル、旧角川本社ビル別館にあった「あすか」編集部の一角の狭い部屋に長い作業台を置いたところが最初の拠点になりましたが、楽しみながらその方向付けのために、喧々諤々の議論を重ねながら次第にファンクラブの形を整えていきました。「宇宙皇子」が三巻までの出版が終わった頃には、ファンクラブの中心になる人たちのメンバーも固まり始めましたのと、ファンクラブに入りたいという希望が寄せられてくることが増えてきたことから、かかわったすべての方の紹介はできませんが、その後のことも含めて最後までまとめていってくれたのは、会長を務めてくれたY・N君。主力メンバーの二人のT・S君。T・Nの君。そしてY・Oさんその他数名の女性群人です。すべて写真を載せて紹介したかったのですが、もう今は社会人としてそれぞれの分野で活躍していますので、プライバシーを尊重して写真は省くことにいたしました。


                                  「FC会員手帳」1.jpg


会員証も決まったということもあり、その会員となった人たちを繋ぎ止めていくもとして、会報を作る作業が進み、そのタイトルも「鬼笛伝説」となりました。何とかその体裁を整えて、会員から寄せられたさまざまな投書を選択して編集したりして、何とか会報の0号を完成することができたのですが、私はその途中経過の報告は聞いてはいましたが、常に訪ねていくということは作品の執筆に追われていましたのでほとんど自由になりませんでした。それでも作業の合間に楽しんで貰おうと茶菓子などを差し入れしていましたが、FCに関しては何かにつけて私たちがあれこれと指示をしないで、若い人たちの知恵を絞り合って運営していく方がいいと考えて静観していました。私も相変わらず原稿執筆に追われていたのですが、それでも彼らの様子が知りたくてたまには差し入れの果物を持ってFCのたまり場という編集室を尋ねることがありました。兎に角彼らは狭いところで頑張ってくれていました。ただ折角宇宙皇子というヒーローが生まれたのですから、そのヒーローが駆け巡る飛鳥という歴史舞台を、ファンもヒーローと同じように体験してみる旅行でもできるようになるといいなというようなことを提案したことがありました。それがやがてファンクラブの会報となって、会員を正式に募集するのと同時に、「鬼笛伝説」の0号となった会報に「追体験ツアー」という誘いとなって掲載されることになったのでした。


二つ目のFC拠点になったのは、靖国神社横のアスカ編集部内の部屋で、ここでは会員証が生まれたりしましたが、さまざまな準備が整えられ、会報もついに正式な第一号が発行されるようになったのでした。


                            「会報・鬼笛伝説0号」1.jpg 「会報・追体験ツアー参加募集」1.jpg


ツアーを間違いなく運営してくれるところとして、角川書店の中にあった「角川ツアーズ」というところが協力してくれるようになったことが判りましたので、私もその運営に関して安堵いたしました。


 この頃からは、さまざまな事務的な作業も多くなってしまいましたので、間もなく始まることになるまったく予測のつかない「体験ツアー」の準備にかからなくてはならなくなってしまったのでした。


やがて三つ目のFCの拠点へと移転することになるのですが、それはもう一寸先の話になります。それまでは日本全国から寄せられる会員となる申請を整理しながら、慌ただしく活動していったのでした。そのへんのお話は、また別の機会にいたしますね。


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言霊謎解きの部屋☆ 言30「ひとくち言霊」(国の魂) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                            「若菜イラスト」.JPG    

   超古代の話になりますが、日本は天上の神々の世界から追放された須佐男命の孫に当たる大国主命(おおくにぬしのみこと)が中心となって、黄泉の国が存在する出雲に君臨していました。彼らは主に先祖の霊を祭るということを大事な務めとしていたのですが、天上界はかつて須佐男命と戦って勝ったこのあるという者に、その出雲を統治させようとしたのです。それを大国主命は拒否したのです

。天上界の天津神(あまつかみ)と地上界の国津(くにつ)神々(かみがみ)との戦いが起こってしまいました。しかし結局は、天上側の勝利に終ってしまい、所謂国譲りをしなくてはならなくなってしまったのです。


このあたりの経緯については、「古事記」等をお読み頂くといいと思うのですが、やがて天上から降臨してきた神々は、すでに手に入れている「権力」「武力」の他に、統治には欠かせないもう一つの資格である「祭り」という権威をも手中に収めようとしました。


地上の支配を、より確実にするために、これらの三権といわれるものを有効に機能させなくてはなりません。そのために、長らくこの出雲国を中心にして日本を支配してきた、大国主命の魂を封じ籠めることにしたのです。彼の魂を封じ込めるということは、絶対に大和朝廷の支配に逆らわないということが必要です。そのためには、どうしても出雲国で大事にしている国の魂を封じ込めてしまうことが必要だったのです。


 神々は大国主命の魂が籠っていると思われる、太刀をはじめ日常的に使われていたものを、大和朝廷の本拠地へ持ち去ってしまったのです。それが飛鳥の天理市にある石上神社(いそのかみじんじゃ)だったのです。


 祭神は魂を活性化したり鎮めたりする布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)ですが、大和朝廷はここに、各国から集めてきたさまざまな国魂を収めて封じ込めたのです。魂を閉じ込める・・・それは恨みで復讐をしないようにという狙いから起こったことに違いありません。当時は国の統治のためには、極めて重要なことでした。ここはそうした魂を、各国・・・今で言う各県を治める支配者を代表としたものが大事にしている魂ともいえるものを、しっかり閉じ込めてあったり、納めてあったりした武器を納めてあったところだったのです。    

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告知と放談の部屋☆ 放88「古谷徹さんの純情」 [趣味・カルチャー]

 

これはパーテイの後で上映された時の話ではありません。いよいよ映画「童話めいた戦史 ウインダリア」の公開試写が劇場で行われた時のことです。


 若い女性たちの間で、「約束」を守らなくなっているということが社会的な問題でではないかと話題となっていたことがあったのですが、私はそんな社会状況に一矢報いようとして、アニメーションで若い人たちに問題提起がしたかったのです。最近時代を一巡りして現代でも、同じような問題がマスコミの話題になったことがありました。その人の都合が優先されるという現代的な処理がされるようですが、あなたは約束事を勝手に破られた時、どんな思いになるでしょうか。


そこでもう一度拙作の映画の原典となった、「雨月物語」とそれからヒントを得て書かれた映画の「童話めいた戦史 ウインダリア」話を簡単に紹介しておきます。


          「雨月物語・上田秋成集」1.jpg 「雨月物語・本文」1.jpg


この場合は戦国時代の話なのですが、貧しいながらも仲良く暮らしている農家の若い夫婦なのですが、ある日近くで起こった戦乱がきっかけとなって、若い夫はその戦に加わって功績をあげれば出世して武将にでもなれば、これまでの暮らしとは大替わりして姫君として暮らすことができると・・・。勿論、妻はそんな夢のような話には乗りません。これまで通りに農産物を作って市場へ売りに行って稼ぐわずかな稼ぎで暮らせばいいではないかと窘めるのですが、一度夢を見た青年は野心に燃えて旅立つといって聞きません。若い妻はその時、たとえどんなことがあってもあなたが戻ってくるまでは待っていますというしかありませんでした。


              「ウインダリア設定」1.jpg


この日を境にして貧しい農村で残って夫の帰りを待つ若妻マーリンと、野心に燃えて武将になることを夢みる若者イズーの、それぞれの劇的な日々が始まるのです。


 言うまでもなく何年かの間に二人の運命には大きな変化が刻まれます。


 イズーは戦乱の片方の軍に加わって、出世に出世を重ねて、ついにはその軍の総指揮官ともなるのですが、その頂点に達したところで裏切りに合ってたちまち運命は頂点から突き落とされるように逆転されて、やっとのことで生き延びながらあの愛する妻マーリンの待っている、貧しい村へ戻ろうとするのです。


すでに村は戦乱で荒らされてしまったのか、すっかり昔の姿を失ってしまっていました。これではあの愛するマーリンもとても無事ではいられないだろうと、絶望になりながらやっとのことで村はずれまでやって来ると、イズーの目に飛び込んできたのは、一軒の貧しい農家です。そこからはぽつんと明りさえも漏れています。


大分姿は荒れ果ててはいるのですが、どう見ても我が家ではないか、戦乱に巻き込まれて村はほとんど荒廃してしまっていましたが、


(わずかに我が家は残っている)


イズーは絶望的になっていた気持ちを希望に変えて近づいていきます。


 やがて家に近づいてその小窓から覗くと、何とあの愛するマーリンがいるではありませんか。思わず「マーリン」と叫ぶと入口へ向かうのです。そこへ跳び出して来たのは若妻マーリンでした。二人の若者は、やっとのことで数年ぶりに抱き合ったのでした。


 マーリンは疲れはてて返ってきたイズーを抱えながら、暖炉の火の方話へ連れてくるのです。


 イズーはこれまで野望を夢見て出て行ったけれども、結局その夢は手に入れられた途端に裏切られることになり、追われ追われて生きるか死ぬかの瀬戸際でやっと必死で戻ってきたのだと訴えるのです。ところがそこへ駆けつけてきたのはやっと生き残ってきた村人でした。彼らは誰もいない暖炉の前で、必死で姿のないマーリンに向って謝罪するイズーに呼びかけます。


 「お前は誰に話をしているのか!?」


 はじめて正気に戻ったイズーはそこにはマーリンの姿などないことに気が付くのです。


 村人は呆然とする彼に、マーリンは戦乱の中で非業の死を遂げてしまったというのです。間もなく死霊を集めにくる幽霊船がやって来るといいます。


 イズーの帰りを必ず待っているという約束を果たしたマーリンは、死霊となっても彼を待ちつづけていたのです。


 やがてイズーとの約束を果たしたマーリンの死霊は迎えの幽霊船に向って走っていきます。それを必死で追うイズーの叫び日は悲痛です。


 「マーリン!!」


 約束を守ってイズーの帰りを待ちつづけてくれていた、あまりにもけなげなマーリンの思いは、いつまでもいつまでも幽霊船を見送る村人の心に残りつづけるのでした。


 この悲劇を味わった若者のイズーを演じてくれたのが、声優の古谷徹さんです。


 今回そのことをお知らせしたかったのは、映画が公開された時に観客と共に鑑賞して下さったから絵は、試写が終わって劇場の支配人室へ引き上げてきた途端に、そこにはスタッフ、事務室の人々がいるのもかまわずに、大泣きを始めたのです。


 一体何があったのでしょう。


 きっと映画で描かれた、死んでも彼との約束を守ろうとしたマーリンの思いと約束を破って野望に挑んだイズーの姿が、何か古谷さんの実体験の何かを揺さぶったのかもしれません。


 その場にいた私はもちろんのことほとんどの人は、事務机に泣き伏して思いきり泣いている彼を、誰も止めようともせずに、気持ちの治まるのを静かに見守ったのでした。


今でもその時のことを思い出すたびに、彼の優しさ、純な気持ちを思い出して、懐かしく思う今日この頃です。現代でも約束を守らないで平気でいる人がいるということが、マスコミで取り上げられるほどになっていますが、もう一度あの映画のことを思い出して頂きたいと思います。


 制作配給・あいどる カメプロダクション 


 プロデユウサー・長尾聰浩


 原作脚本・藤川桂介


監督・湯山邦彦 演出助手・政木伸一


作画監督キャラ設定・いのまたむつみ 美術監督・勝又激 音響監督・松浦典良 音楽・門倉聰


出演・古谷徹・神田和佳・井上和彦・松井菜桜子・高島雅羅・柴田秀勝・永井一郎・岩本紀昭・斎藤晶・吉田理保子・矢尾一樹


「童話めいた戦史 ウインダリア」


 もう一度アピールしておきたいと思います。


 


 大事なスタッフが沢山いますが、今回は残念ですが割愛させて頂くとにいたしました。


 


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アニメと音楽の部屋☆ ア55「放送作家30周年とウインダリア公開」 [趣味・カルチャー]

  

1986年「童話めいた戦史 ウインダリア」公開をまえにして1985年11月29日には、新宿のセンチュリーハイアットで、放送作家30周年の記念パーテイが開かれましたが、これはさまざまな分野からの来客があって大パーテイになりました。


 放送作家としての一つの到達点でした、ある程度やろうとしたことができたという達成感がありましたが、時代の進化によって変化が求められていると判断して、影像の世界から活字の世界へと転換して角川書店で「宇宙皇子」という古代歴史ロマンを発売して、大きなヒットのきっかけを作ったところです。幸いなことに私の親しい大学の先輩が、ここの総支配人であった縁を利用させて頂いて、その会場にさせて頂いたわけです。


                                            「パーテイ挨拶」1.jpg  


殆ど自己資金でのパーテイが目的でしたので、スタッフはもちろんですが、かなり沢山の会社からの寄付もして頂き、「宇宙皇子」の出版をして下さった角川書店からは、副社長の角川歴彦さんを始め、イラストを受け持って下さっているいのまたむつみさん、


フオーク・デユオのダカーポ、歌舞伎俳優の中村又蔵さんが、私が東京下町の出身ということで、お付き合いのある親方以下50人という親しい火消しのみなさんと共に駆けつけて下さって、パーテイに華やかさを添えて下さいましたが、それ以上に嬉しかったのは、小学、中学、高校、大学の親友たち、お仕事関係のみなさんが、大きな会場いっぱいに駆けつけて下さったことです。しかしプライバシーの保護のために、写真で個人の情況が察知できる方々の紹介はしない方がいいと判断して残念ですが省くことにいたしました。


                                              「放送作家30周年のひ・記念升」1.jpg


  手塚治虫先生にもご招待状を出してはあるのですが、何しろ多忙な方で、その日も大阪で所用があるというお返事を頂いていたので、やはりおいで頂くのは無理ではないかと思っておりました。お祝いの鏡割りをして、参加者にはそれぞれ記念にお渡ししましたが、やがてそれが大変なことに役立つことになりました。それはもう暫く時間経過が必要でした。今回は私の企画した放送作家30周年を記念して、それまでの仕事で支援しつづけて下さったさまざまな番組の制作会社やスタッフはもちろんのこと、その一つ一つの作品を支援して頂いたファンのみなさんへの感謝をこめたものにしようとしたのですが、それを知った映画「童話めいた戦史 ウインダリア」のプロデュウサーであるO氏の申し出を受けて、この機会に映画のアピールがさせて貰えないかということに、協力することになりましたが、その日のパーテイの様子をビデオで記録するという約束をしたものの、残念ながらほとんど使い物にならずに失敗してしまいましたので、私の手元に残ったのは親しい後輩たちに依頼しておいたカメラで撮ってくれていた写真だけということになってしまいましたが、この日の雰囲気の高まりはいつまでも私の心の中に残りつづけていますが、残念ながらプライバシーを考慮して、写真は一切削除することにいたしました。


 


                    「ウインダリア原作」1.jpg                                     


          「ウインダリア・小説」1.jpg 「ウインダリア」1.jpg 「ウインダリア・AR台本」1.jpg


  前にこの作品を書くことになったきっかけについてはかなり書きましたが、今回はこのタイトルについて触れておきたいと思います。


 これは当時の総合雑誌として評判であった花森安治編集の「暮らしの手帳」という雑誌に載っていたフランスのセーヌ川を起点にして、富豪を載せて運河づたいに旅をする青年男女のドキュメントの中で、二人は故郷の「ウイリンダリア」という樹木を使って作った船で、いつか今のようにヨーロッパを運河つたいに旅をしたいと夢を話していたのです。


 私はこの二人の若者の夢を託した故郷の樹木に惹かれて、いつかそれを使った作品を書く時に使おうとしていたのですが、それが今回のきっかけとなったのでした。本当は「ウイリンダリア」というのが正式な樹木の名ですが、映画を観た人たちが直ぐに覚えて頂けるようにという配慮から、少しでも簡単な名称にしようと考えて「ウインダリア」としたのです。


ところで余談についてお話をしている間に、問題の手塚治虫先生がほとんど参加不可能と思われたパーテイの終了近くに、「愛は地球を救う」という日本テレビの番組で、先生原作の「プライム・ロ-ズ」の脚本を書いたお礼にといって、大阪での所用があったにも関わらず、帰途を急いでパーテイに間に合うようにと、わざわざセンチュリーハイアットまで駆けつけてきて下さったのでした。写真は割愛いたしました。


 わたしの喜びはもちろんで、約束を果たして下さったことには、本当に感謝の思い出いっぱいでしたが、この時はもっと喜んだのは会場にいたファンたちでした。たちまち先生を囲んで、その日記念に配った記念の「升」にサインをして頂いたようです。


 その角川書店で仕事をする中で、同じ角川で映像関係の仕事をすることで角川春樹社長と会う機会のあった手塚先生は、「宇宙皇子」についてあんな作品は私が書きたかったと仰ったということを、のちに角川社長から聞かされました。


 いろいろな思いの籠った放送作家30周年の記念パーテイは、無事に終了することができましたが、このホテルはその後、私はその四間もある広い日本間で、所謂缶詰め作業で原稿を書くところになったりしたものです。         


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告知と放談の部屋☆ 放86 「若い編集者たちの協力」 [趣味・カルチャー]


1984年6月に発売された地上編宇宙皇子の第一巻目である「はるかに遠い都よ」をきっかけにして、半年の間に第二巻目の「妖かしの道地獄道」第三巻の「妖かしの道地獄道」が発売されて、すべて順調な売り上げを記録していきました。若い世代に対する影響力が勢いづいて、これまでにはなかった新しい読者層の掘り起こしをしたようです。


 その頃から角川書店は、A編集長の下に若手の編集として三人の若者をつけてきました。何かと私の手足となるようにということでしたが、これまでの編集スタッフではない体制を作ってきたのです。S君はこれまで他の出版社で人気作家であったN氏のデーターマンとして働いていた経験がありましたので、A編集長のアシストとして、私と直接接触しながら原稿の受け取り役をして、それを次の作業に受け渡す役割を果しながら、私の原稿の進行状態からイラストのいのまたむつみさんに連絡を取りながら、次回出版予定の本のどのあたりにどんなイラストを描いて貰いたいかを注文したりして、出版のためのさまざまなセクションに連絡を取って、その準備をしていく中心的な役割を果すようになりました。


一寸個性的なセンスを発揮しそうな若者であるY君は、 某社において人気の主婦向雑誌の編集長をしている父親を持ちながら、彼は角川書店で修業中という若者でしたが、父親が業界ではかなり著名な方であったことから、どうしても父親とは気質が折り合わないというので、独自の世界を築きたいと思っている意欲的な青年でしたが、もう一人のT君はそれまで角川春樹社長の監督する眉村卓原作の「時をかける少女」で、新人女優の原田知世さんの相手役に選ばれた、新人俳優の主役を演じて人気俳優となった慶応大学出身の異色編集で、私の企画物に関しての編集をしてくれることになったようです。


次第に新参の作家藤川支援の空気は広がりつつありましたが、それでもまだまだ社内には新しい流れが動き始めているということに気が付かない、旧態依然とした体質のままの編集者もかなり存在していますから、それらの人とどこで巡り合うか判りません。ところが「宇宙皇子」が1・2・3巻と極めて重要なヒット作品になったということもあって、社内の空気がかなり変わってきていたのですが、あっという間に半年が過ぎて1986年が来ると、「野性時代」という青年層を狙った総合誌から依頼のあって、小説の執筆依頼があったのですが、なぜかその作業の間で編集長と連載の方向についての食い違いがあって、ぶつかり合うことが多くなってしまったのです。そのために暫く頓挫してしまったまま連載執筆を拒否するといいう状態にまで発展してしまったのです。


「宇宙皇子」のヒットが続いている最中の連載執筆という依頼ですから、そのシリーズとは当然のことですが違ったタイプの作品を書こうということで、重量感というよりも多少軽量の青春物を書こうと考えたのです。これまで宇宙をドラマチックな海だという発想でヒット作品をかなり書いてきていましたので、今回は宇宙を青春の広場として、自由に動いて楽しむ若者たちを書こうということで、「銀河AV0番地」という企画を考えて執筆し始めたのですが、その原稿にあれこれと注文を付けてきたのが始まりで、編集長とはその基本的な方向性で完全にすれ違ってしまって、ぶつかることになってしまったのでした。


                               「野性時代1986年3月」1.jpg 「野性時代・1986年3月」1.jpg


もう連載の一回目を書き直すのも拒否することになってしまいましたし、二回目はもう連載を止めることにしたのでした。編集長はこれまで「野性時代」を率いてきいているのは自分だということを前面に出して、強引に原稿の変更を主張してまったく時代が求めている変化には頓着していない様子です。彼の頭にはこんな宇宙を遊び場にするような青春物などというものは存在していなかったのでしょう。どうやら時代認識ということでまったく私とは違っているようです。如何にも昔のままの感覚で連載小説を組み立てようとするのです。新しいものを欲しがっている若い読者の思いというようなことについては、まったく関心がないようなのです。兎に角キャリアを振りかざして、新参の作家に注文を付けてくるのです。どうもこういう人に出会ってしまうと、戦って決着をつけるか、自らその作業から退いてしまうかの二つに一つの私流です。こと時はついに一番よくない戦う方向に向かってしまったのです。私には「宇宙皇子」という大きなヒットになってきている作品の執筆もあり、とても「野性時代」での悶着に気持ちを乱すことはしたくないという気持になってきましたので、社長に問題を訴える気持ちになっていったのですが、会社の中にはその編集長問題は副社長に訴えられた方がいいのではないかとアドバイスをする方もあったのですが、いろいろと考えた末に私は会社のトップということでは社長に訴えることで筋を通すべきだと判断して、当初の思いのまま社長に直訴の手紙を送ったのでした。結果はあまりにも鮮やかな結論が出てしまいました。「野性時代」の担当編集長は新しい人に交代ということになってしまったのでした。あまりにも早い決定を知って、はじめて仕事をし始めた新参作家としては、いささか出過ぎたことをしてしまったのかもしれないと、しばらく心につかえてしまうことになってしまいましたが、もう次の「宇宙皇子」の執筆に向わなくてはなりません。そんな姿を見ていた若い編集者たちは、前任の編集長は時代感覚のない古いタイプの編集者であったといって、却って新編集長への交代を喜んでくれましたが、それから数年後には私が書き下ろすことになった作品の出版を前にして、Y君とT君は「野性時代」での私の仕事の担当をする編集として働いて貰うことになりました。新作のアピールを兼ねて特集を企画して「野性時代」に載せてくれたのでした。


    「野性時代・1989年10月」1.jpg 「野性時代1989年・特集1」1.jpg 「野性時代1989年・特集2」1.jpg 「野性時代1989年・特集3」1.jpg


本来の「宇宙皇子」の出版についてはS君が担当してくれているので、イラストの打合せもすべて任せてありますが、彼とも連絡を取りながら、Y君とT君は雑誌「野性時代」に私のアピールができるような企画者を考えたりしてくれたりしていくようになったのでした。


 兎に角1984年から始まった角川書店での仕事は進められましたが、それから数年間というものは、兎に角私にとっても不慣れなことが多くて、戸惑うことが多く、いろいろとこれまでとは違った体験をすることになってしまうのでした。


 


 


 


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告知と放談の部屋☆ 放87「嫌がらせ電話の正体」 [趣味・カルチャー]

  

お陰様で私の角川書店での仕事は大変いい状態で進行していました。


 まさに「宇宙皇子」シリーズのスタートであった1984年(昭和59年)はハラハラする緊張のれんぞくの日々でしたが、幸いにも予想を越える売れ行きで、はじめてお付き合いすることになった角川書店との出会いも大変いい関係を築くきっかけとなりましたので、それまでかなり緊張しっぱなしであった気持ちもかなり開放されて、年越しをして直ぐに発売が予定されている作品の執筆には、嫌でも高揚する気分で書き進み、


第四巻「西街道(さいかいどう)(しの)び流し」第五巻「名もなき花々の散華(さんげ)」第六巻「一会(いちえ)に賭けた日々」と、隔月に連打していったのです。通常小説を書く作家としては、なかなか信じられない勢いです。


                     「宇宙皇子・新書4」1.jpg 「宇宙皇子・新書5」1.jpg 「宇宙皇子・新書6」1.jpg  


  もう角川書店の中で嫌な雰囲気が漂うはありません。私を囲む環境は大変いい状態になっていたのです。若い編集たちも大変気分よく作業にかかわってくれているように思えました。


 私も売れ行きが快調であったこともあって、前述しましたがその分だけものを書くという活力もみなぎってきましたし、第一作家本人がシリーズを書くことに楽しみを感じながら書けるので、このへんで休んでしまおうなどという怠惰な気持になるはずもありません。一作書ければすぐに次の作品を書こうという意欲に急かされるのです。それが嫌にならないのですから、自然に作品が考えられないほどの勢いで出版されることになるのです。


 私の作業に協力してくれる若い編集者たちからは私の励ましともなるような提案があったりして、「宇宙皇子」以外の企画についての展開につての話し合いをしたりしていたのですが、そんなある日のことです。「宇宙皇子」のシリーズを中心になって編集作業を進めてくれているS君が、原稿を取りに来たところで雑談をしている最中に、ふと漏らした話があったのです。


最近編集部へ嫌がらせの電話をかけて来るベテラン作家がいるというのです。


テレビの作品を書いている時には、まったくそのような話に出会ったことがありませんでした。特に私の主戦場であったアニメーションという分野では、それにかかわるアーテイストもさまざまな分野にわたった人々でしたから、私のように脚本を書く者に対して、何か注文を付けてくるというようなことはありませんし、まして嫌がらせの電話をかけてくるなどということなど、聞いたこともありませんでした。噂にしても同志の脚本家の中でも、個人的にそれらしいことをされて困っているというような話は聞いたこともありません。しかしそれでも作品やその作家に夢中になった読者が、飛んでない迷惑をかけることがあります。その作品を書いた人に対する思いが集中してしまうことが多いことから、時には作家の家に押しかけてきてまで、その内容に影響され過ぎて困った要求をして迫って来る読者もいましたし、現実と創作の間の微妙な空間が楽しめないまま、すべて現実のものとして受け止めてしまって、つい騒動にまで発展してしまうこともあるようです。幸い私の場合はまともに正面から文句を言ってくるような不埒な人はいませんが、今回は文句を言うのでもなく、ただ単に嫌がらせの電話をかけて来るのですが、それも正面からはねつけるようなことの出来ない、弱い立場である若い編集者にいやがらせの電話を変えてくるというのですから対処の仕方もありません。しかもそれが読者ではなく、作家として生計を立てている人だということを知って、あきれ果てました。角川書店でも何冊かは出版したこともあるのでしょうが、多分その結果が思わしないままでいるのかもしれません。出版社からはいい顔をして貰えないでいるのかもしれません。どうしようもない人ですが、それでも出版社に勤める編集者としては、相手が作家である以上いつお世話になるかもしれませんから、無碍に電話を切るわけにもいきません。適当に先方の嫌がらせを受け止めながら暫くは聞いていてやらなくてはなりません。


さぞかし嫌な時間つぶしをさせられてしまうようになっているのだということを、ついに報告してきたのです。


いつの時代でもありそうなお話です。


 あまり「宇宙皇子」の評判が良いために、妬ましくなってしまったのでしょう。時代が要求している作品を書く工夫もないまま当たり前のミステリー風な仮想現実的な大衆小説を書いている彼の図書については、まったく読者の反応が集まって来ないことから、一番いじめやすい若手の編集者に対して電話をかけてきては、彼をからかいながらその後私がどんな調子で原稿を書いているのかなどと聞いてくるというのです。出版の勢いが考えられないので、藤川桂介には影武者がいて、そいつが書いているとでも言いたいのでしょうが、はっきり言ってそんな邪推は意味のないことです。私は弟子として認めた者たちにも、決して私の書くようなものを追うようなことはせずに、自分独自の世界を開拓するように努力せよといってきているのです。私はシリーズとしての「宇宙皇子」を書き下ろしながら、時には「野性時代」への連載が始まったりしたので、その執筆がどうこなしているのかを探ろうとしたのかも知れません。あれこれと嫌味な質問をしながら、私の執筆情況を探ってくるというのです。


 これまで映像時代には、ほとんどこう言ったたぐいの電話を掛けてくるような同業者はありませんでしたから、私にとってもはじめて聞く話です。しかしテレビ作品を書いている最中では三日に一本三十分番組を書き、その決定稿を一日で仕上げてまた次の作品にかかるという過密状態でも、まったく制作現場に支障をきたすようなことをしたことがなかった私にとっては、兎に角体調が許す範囲で書きつづけていましたから、活字の世界へ移ったからと言って、そのペースを変えることもなく書こうと思った作品を書きつづけているだけで、まったくその仕事の仕方に関して特別な気持ちにはなっていなかったのです。


 いつの時代でもありそうなお話ですが、私はまだ活字の世界へ来てたまたま角川書店で仕事がやれる状態になったばかりで、現在のいいスタートの状態のまま作業ができるのかどうかということについては全くわかりません。もちろん現在の調子は確かに上々の始まりであるということは実感しています。なんとかこの状態をつづけていきたいものだと、日夜願いながら角川書店に対してはここで絶対的な信頼関係を確立しておきたいと気持ちでいっぱいでした。


 まだはっきり言ってテレビの世界での仕事からはっきり手を引いてしまうということにしたわけでもありません。テレビ界全体の不調から抜け出すために、できればこれまで多少ではあるのですが手始めに数冊の小説を書いたり、物語を書いたりしてきましたので、それを土台にしてこれまでとは違った世界にも生きる道筋を作っておきたいという気持ちで挑戦することにしたのですが、しかしそれだからといって、あくまでも取り敢えずやってみようと言うような気楽な挑戦ではありませんでした。


もう角川書店の中で嫌な雰囲気が漂うはありません。私を囲む環境は大変いい状態になっていたのです。若い編集たちも大変気分よく作業にかかわってくれているように思えました。


 私も売れ行きが快調であったこともあって、前述しましたがその分だけものを書くという活力もみなぎってきましたし、第一作家本人がシリーズを書くことに楽しみを感じながら書けるので、このへんで休んでしまおうなどという怠惰な気持になるはずもありません。一作書ければすぐに次の作品を書こうという意欲に急かされるのです。それが嫌にならないのですから、自然に作品が考えられないほどの勢いで出版されることになるのです。


 私の作業に協力してくれる若い編集者たちからは私の励ましともなるような提案があったりして、「宇宙皇子」以外の企画についての展開につての話し合いをしたりしていたのですが、そんなある日のことです。「宇宙皇子」のシリーズを中心になって編集作業を進めてくれているS君が、原稿を取りに来たところで雑談をしている最中に、ふと漏らした話があったのです。


最近編集部へ嫌がらせの電話をかけて来るベテラン作家がいるというのです。


テレビの作品を書いている時には、まったくそのような話に出会ったことがありませんでした。特に私の主戦場であったアニメーションという分野では、それにかかわるアーテイストもさまざまな分野にわたった人々でしたから、私のように脚本を書く者に対して、何か注文を付けてくるというようなことはありませんし、まして嫌がらせの電話をかけてくるなどということなど、聞いたこともありませんでした。噂にしても同志の脚本家の中でも、個人的にそれらしいことをされて困っているというような話は聞いたこともありません。しかしそれでも作品やその作家に夢中になった読者が、飛んでない迷惑をかけることがあります。その作品を書いた人に対する思いが集中してしまうことが多いことから、時には作家の家に押しかけてきてまで、その内容に影響され過ぎて困った要求をして迫って来る読者もいましたし、現実と創作の間の微妙な空間が楽しめないまま、すべて現実のものとして受け止めてしまって、つい騒動にまで発展してしまうこともあるようです。幸い私の場合はまともに正面から文句を言ってくるような不埒な人はいませんが、今回は文句を言うのでもなく、ただ単に嫌がらせの電話をかけて来るのですが、それも正面からはねつけるようなことの出来ない、弱い立場である若い編集者にいやがらせの電話を変えてくるというのですから対処の仕方もありません。しかもそれが読者ではなく、作家として生計を立てている人だということを知って、あきれ果てました。角川書店でも何冊かは出版したこともあるのでしょうが、多分その結果が思わしないままでいるのかもしれません。出版社からはいい顔をして貰えないでいるのかもしれません。どうしようもない人ですが、それでも出版社に勤める編集者としては、相手が作家である以上いつお世話になるかもしれませんから、無碍に電話を切るわけにもいきません。適当に先方の嫌がらせを受け止めながら暫くは聞いていてやらなくてはなりません。


さぞかし嫌な時間つぶしをさせられてしまうようになっているのだということを、ついに報告してきたのです。


いつの時代でもありそうなお話です。


 あまり「宇宙皇子」の評判が良いために、妬ましくなってしまったのでしょう。時代が要求している作品を書く工夫もないまま当たり前のミステリー風な仮想現実的な大衆小説を書いている彼の図書については、まったく読者の反応が集まって来ないことから、一番いじめやすい若手の編集者に対して電話をかけてきては、彼をからかいながらその後私がどんな調子で原稿を書いているのかなどと聞いてくるというのです。出版の勢いが考えられないので、藤川桂介には影武者がいて、そいつが書いているとでも言いたいのでしょうが、はっきり言ってそんな邪推は意味のないことです。私は弟子として認めた者たちにも、決して私の書くようなものを追うようなことはせずに、自分独自の世界を開拓するように努力せよといってきているのです。私はシリーズとしての「宇宙皇子」を書き下ろしながら、時には「野性時代」への連載が始まったりしたので、その執筆がどうこなしているのかを探ろうとしたのかも知れません。あれこれと嫌味な質問をしながら、私の執筆情況を探ってくるというのです。


 これまで映像時代には、ほとんどこう言ったたぐいの電話を掛けてくるような同業者はありませんでしたから、私にとってもはじめて聞く話です。しかしテレビ作品を書いている最中では三日に一本三十分番組を書き、その決定稿を一日で仕上げてまた次の作品にかかるという過密状態でも、まったく制作現場に支障をきたすようなことをしたことがなかった私にとっては、兎に角体調が許す範囲で書きつづけていましたから、活字の世界へ移ったからと言って、そのペースを変えることもなく書こうと思った作品を書きつづけているだけで、まったくその仕事の仕方に関して特別な気持ちにはなっていなかったのです。


 いつの時代でもありそうなお話ですが、私はまだ活字の世界へ来てたまたま角川書店で仕事がやれる状態になったばかりで、現在のいいスタートの状態のまま作業ができるのかどうかということについては全くわかりません。もちろん現在の調子は確かに上々の始まりであるということは実感しています。なんとかこの状態をつづけていきたいものだと、日夜願いながら角川書店に対してはここで絶対的な信頼関係を確立しておきたいと気持ちでいっぱいでした。


 まだはっきり言ってテレビの世界での仕事からはっきり手を引いてしまうということにしたわけでもありません。テレビ界全体の不調から抜け出すために、できればこれまで多少ではあるのですが手始めに数冊の小説を書いたり、物語を書いたりしてきましたので、それを土台にしてこれまでとは違った世界にも生きる道筋を作っておきたいという気持ちで挑戦することにしたのですが、しかしそれだからといって、あくまでも取り敢えずやってみようと言うような気楽な挑戦ではありませんでした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言29(神奈備山(かんなびやま)) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                        「若菜イラスト」.JPG

  

神の鎮まる山。


蛇がとぐろを巻いた形の丘。松、檜、杉、樫、椎、樟(くすのき)榊などに覆われた常磐木の森。神社の森、鎮守の森はそれですが、この奈良県明日香村の神奈備山も、古代では神が鎮まる山として、かなり大事にされてきたところです。


飛鳥の大事な儀式の場であった欟(つき)の木広場に近く、飛鳥寺の近くにあったのが、よく知られている甘橿岡(あまかしのおか)ですが、ここが神奈備山でした。


この神奈備山というのは、ほとんどの場合、松、檜、樫、椎、樟(くすのき)、榊などの樹木に覆われた常緑樹の森が備わっていたのですが、いわゆる神社や、鎮守の森などはこの類のものです。しかし昨今は、都会はもちろんのこと地方でも開発が進められた結果、森を失った神社がかなり存在しています。鎮守の森のような元日本の風景である姿が失われていくようで、大変残念でなりません。


ところでこの神奈備山が、きわめて大事であったことを表わした事件が古代にはありました。飛鳥時代に、蘇我馬子、蝦夷、入鹿という権勢を誇った一族がいましたが、この中で入鹿は、伝統を重んじる父の反対も押し切って、この大事な神の山である甘橿岡に、大変豪華な別邸を作ってしまったのです。


兎に角ここは神の山なのです。そんなところへ遠慮もなく邸宅を作ってしまうというようなことをしてしまうなと思いますが、それだけ蘇我一族の権力が絶対的になっていて、誰もそれを留めることができなかったということでもあるのです。


案の定、その思い上がりに怒りの火を点じてしまった若き同志たち・・・中大兄皇子が中心となった者によって、所謂大化改新の陰謀が進行していったのでした。


入鹿は暗殺。


蘇我一族はこれを機会にして抹殺されてしまったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放85「お詫びの会とは・・・」 [趣味・カルチャー]

  「宇宙皇子」の衝撃的な売れ行きについては、恐らく誰も考えてはいなかったのでしょう。テレビでは多少知られていた私も、所謂小説を書く作家としてはこれまでの小説ファンにとっては殆ど関心のなかった存在ですしいく、何もかも先端をいくものに興味のある時代です。古代などという先端の文化とはまったく縁のない時代の話です。

そんな本が爆発的に売れたというのですから、一体何が起ったのかとでも思われたに違いありません。発売と同時に興味を持ってくれたのはどうやら若者たちであったようです。テレビでも思いきった企画の作品が見られる状態ではなかったこともあるのでしょう。恐らく小説の世界ではじめて登場した表紙のいのまたむつみさんのイラストに、新鮮な衝撃として映ったに違いありません。そんなこともあってわずか半年の間に、一巻目である「はるかに遠き都よ」が快調な売れ行きを記録して順調なスタートを切ることになると、その勢いを引き継ぐように2巻目である「明日香風よ挽歌を」も八月の夏休みの商戦で同じようないい結果を出しました。角川書店からはここで休んでしまわないで、一気に出版を考えて欲しいという要望が入りましたが、わざわざそのような申し入れをしてきたのには、出版社としての苦い経験があったからなのです。これまでたまたま大きなヒットを出しても、そこで作家がお休みしてしまって次の作品を書かなくなってしまうので、折角盛り上がっていた読者の気分を褪めさせてしまって、それ以後出版社がどう売ろうとしてもまったく勢いは戻らなくなってしまったというのです。そんなことをわざわざ私に伝えてきたのは、営業の上層部から依頼を受けた私を担当する編集長Aでしたが、私自身も映像から活字の世界へ転身が叶うかどうかの瀬戸際でしたから、一気に勝負を決めてしまおうという決心でいたところです。直ちに第三巻目の「妖かしの道地獄道」の執筆にかかっていったのでした。これまでの勢いをそいでしまわないように準備したのですが、10月の秋の商戦である読書週間も勢いは止まりませんでした。


出版の世界へ入ってから、兎に角これまで体験してこなかったようなことが起るので、正に作家としては新人並みの私にとってははじめて出合うようなことばかりなので、半分戸惑わされたりしていたのですが、一巻目、二巻目、三巻目と連打したことが効果あってか販売に勢いがつきました。ここで勢いを止めたくないという角川書店からの要望もあって、作品の執筆はそのまま辞めずに続行して、年明けに原稿を渡すという約束をしました。ほとんど休みもない作業ですが、一見して無茶苦茶な依頼でしたが、私も勝負に出た以上決着をつけるために、あるところまでは頑張ろうという決心をしていたところなので、特別反対もせずに作業にかかったのでした。これまで通常文芸作家が、こんなに間隔を狭めた出版に応じることは応じる作家はありません。一作書き上げるのに一年もの時間をかけることも多いし、多くの場合もっと長期間の時間をかけて仕上げた作品を出版するのがほとんどの作家の仕事のありか方でしたが、時代の影響でしょうか、そうしたのんびりとした作業のしかたが許されたのは昔のことで昨今の業界ではあまり歓迎されません。文芸作品といわれる特別なものは別として、大衆向けの作品では、あまり時間のかかりすぎる作家は歓迎されなくなっていました。


毎月の出版予定を狂わせてしまっては、会社を経営する上でも歓迎されなくなってきています。売れても売れなくても社格を高める文芸作品を出版することも大事ですが、会社としてはよく売れる大衆作品がなくては、出版社として経営が成り立たなくなってしまいます。現在角川書店が行なっている映画と連動して小説を売るという戦略は大変奇抜な戦略で、その評価についてはいろいろあるようでしたが、時代に向いた経営ということでは的確な狙いでした。社長自ら映画の監督も行うという大活躍をしている中での「宇宙皇子」の発売です。本当に売れるかどうかが判らないでいたのは確かな印象でした。


ところが結果は誰も予想しなかった三冊ともベストセラー作品となって、たちまち会社としては衝撃が走り出していたのです。発売前に社内にあったさまざまな不安、不満を一蹴してしまう勢いです。発売については営業的な考慮した結果でしょうが、私に対する評価があまりにも低くて、とても納得できないような気持ちになっているところへ、突然担当のA編集長から連絡があって、是非お詫びの会を開きたいというお知らせでした。角川書店としては、これまでもさまざまな失礼をしてしまったこともあることから、それらについての失敗について、解消しておかなくてはいけないと考えられたのでしょう。このところの「宇宙皇子」の売れ行きを見て、あまりにもこれまでの予想を覆す結果に仰天してしまったのに違いないでしょう。年が変わった1985年の春の商戦を前にして、これまでのさまざまな待遇についての失礼を詫びして解消しておきたいというので、今回出版の営業を指揮する副社長の角川歴彦氏が、赤坂のプリンスホテルの最上階にあるレストランで、食事会を催したいといってきたのです。


 出版前の失礼のために怒り狂って私がどんな態度をとるかによっては、角川書店にとっては大変な収入源を失ってしまいます。そんなことになってしまったら、兄である春樹社長の期待も覆してしまうことにもなりますし、営業を担当する副社長としての大きな失敗になってしまうということを考えられたのでしょう。いささか緊張気味で出かけた私を出迎えて下さったのは、副社長以下営業部長、営業部員の責任者、そして担当のA編集長など上層部の面々でした。


席へついた時には早速副社長が一同を代表して挨拶をされました。


 「これまでいろいろと失礼なことがありましたので、今回はそのお詫びをしたいので、今日はすべて解消して頂いてお楽しみ頂きたいと思っています」


 簡単でしたが「お詫びの会の趣旨について説明をされました。勿論私もこんなことがあるとは思ってもいませんでしたから、


「こんなおもてなしをして頂いて恐縮いたしております。有難うございます」


お礼を述べるのが精一杯でした。


 恐らくテレビの仕事をしている時には、とても考えられない事後処理の仕方を体験することになりました。確かに出版社にとっては、読者を獲得した作家はかけがえのない宝物なのだということを表明してくれたのです。


 かつて社長にお会いした時にも説明をいたしましたが、同じように「宇宙皇子」を執筆する基本的な姿勢について説明させて頂きました。


 もう堅苦しい話はそれで終わって、今後の予定についての激励をされて会食は終了したのですが、これまで多少心の片隅に残りつづけていた、これまでの映像時代で積み上げてきた実績に対する認識が無視されてきたことに対する不満は、その日の対応を受けてすっかり解消することができたのでしたが、もし他の会社で同じようなことがあった場合に、このような仕切り直しをして下さるのだろうかと考えると、決して期待できるものではないと思うようになりました。それだけに角川書店に対しての感謝は特別なものとなったように思いました。


 


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思い出作品の部屋☆ 思9「迂闊には歩けない」 [趣味・カルチャー]

  

本がヒットすると、思いがけないところにその反応が現われるものです。


 拙宅のある深沢というところは、かつて農地の多い沢地であったところが開発されたところであったのですが、私がここへ引っ越してきた1973年(昭和48年)の頃は駒沢オリンピック競技場だけがやたらにめだつところで、それ以外は目立ったところもない地味な住宅地になっていたところです。マスコミで騒がれるような芸能人、文化人といわれる人にとっては、あまり目立つことのない隠れ家として暮らせるところだったので、ほとんど目立ないほど静かで落ち着いたところだったように思えます。


町内やその周辺にはパチンコ屋のような遊興施設などはほとんどなくて、都立の小学校、中学校、高校の他に、私立の学芸大学の付属小学校、中学校、駒澤大学、日本体育大学があるという文教地区のような雰囲気のあるところでした。大変のんびりと下雰囲気のあるところでしたので、私は気分転換を兼ねて町内の文房具店を覗いたり、小さな書店へ入っておかみさんと拙著の売れ方についての雑談をしたりしていたのでしたが、この書店での会話には思いがけない利用者である図書の好きなお客の貴重な動向についての情報収集にもなったものです。お客さんの中の若者が書店のおかみさんに、「宇宙皇子」について何といってきているのかというような、率直な思いが伝えられました。そんな中で嬉しくもあるのですが、作家として何とかして上げたくなってしまう情報もあったのです。「宇宙皇子」があまり売れるために、東販、日販という問屋筋は、各社が制作する図書を書店に収める業務を行っている会社なのですが、売れる本は大手の書店を中心に納品してしまうので、とても深沢の小さな書店にはごく少数の本しか入ってこないというのです。そのために欲しい読者が次々と現れてもその欲求に応えられないという情報でした。その訴えを聞いた私はそのままにしておくことができなくなってしまって、作家の地元である書店へはある程度余計に搬入してくれないかと角川書店へ申し入れしたくらいです。


こうして気楽な散歩をしながら文房具店でも拙作の評判を聞いたりしていたくらいでしたので、それだけ地元には大きな出来事だったのでした。 そんなある日のこと家内から思いがけないことを言われました。


 町内の商店街を気持ちの赴くままに歩いているものですから、たちまち目ざとい主婦たちに留まってしまって、日用品を買いに出た家内へ通報されてしまうことになってしまいました。これまでテレビの仕事をしていた時では仮に評判の番組を書いていたとしても、主婦が関心を持って私の姿などを見つめるということはなかったのですが、小説を書くようになってからは、マスコミでの露出が多くなるということもあって話題にされる機会が多くなってしまうようです。それが若い人の話題になったりすると余計に家庭でも話題になりがちです。拙宅近くの商店通りを歩いていたりすると、どうしても気になる対象になるようで、「お宅のご主人、商店街を散歩していたわよ」などと報告されたりするようになってきてしまったのです。


                                「深沢不動交差点」1.jpg


                                 (深沢不動の交差点)


  まさかこんなことで人の目に就くようなことになっては、あまりみっともない格好で散歩しているわけにもいかなくなってしまいます。窮屈なことが起るのだなと思うようになりました。近所の図書館から講演会を開く申入れがありましたので、同じ町内の奉仕のために協力したりしましたので、かなり多くの主婦の方にも姿をさらすことになってしまいました。そんなこともあって、あまり毎日ふらふらと出歩くことは出来なくなってしまったのでした。


 そんなある日のことです。


 私は家内と新宿の紀伊国屋まで芝居を見るために出かけたのですが、ついでに「宇宙皇子」の状態を見に行って見ようかといって、ごく当たり前の客として書店内を見て回ったのですが、かなりの新書版の図書を集めた本棚のところへ来た時、そのしばらく前から私たちが動くのに合わせて動いてくる青年がいるような気がしていたのです。


 「誰か我々をつけているような気がする」


 こっそり家内に伝えて、急いで店を出ようと移動し始めた時のことでした。後をつけていると思われた男性が慌てて駆け寄ってきて、


 失礼ですが、藤川先生ではありませんか」


と、声を掛けてきたのです。


 「どうもおかしいと思っていたよ」


 思わず私は笑ってしまいましたが、彼は切羽詰まったような勢いで拙作の本とサインペンを差し出しながら、署名を入れて頂きたいと申し出たのです。


 こんなところで見つかってしまうということを知って、情報が流布していくと、こんなところで姿を見破られてしまうということを知りました。


 勿論、サインを入れて渡しましたが、彼は映像時代からファンでしたといって、興奮気味になりながら如何にも思いがけないところで出会えたと興奮気味にいって別れていきました。


 出版の世界での出来事であっただけに、今回の出版が大成功であったということを、町内から繁華街で実感した体験談を紹介いたしました。


 この頃は赤川次郎氏がいろいろなことで取り上げられて評判になっていましたが、出版界の転換期でもあったのでしょう。従来の作家とはちょっと違ったタイプの読み物がもてはやされる時代に突入していたのです。私の作品もそんな運気の中で、大きな成功を収めることができたのでしたが、その分だけ一寸窮屈にならざるを得なくなってしまったのでした。


 多忙な日常の中で、一寸した話題として好事家の研究というものが読み物になっているのを思い出すのですが、赤川、藤川と地上より下に存在するものを筆名にした作家には、女性のファンが多くつくということが書かれていたように思うのですが、それに対して男性受けの筆名を持った作家はファンが限られているということまで書いてあったような気がいたします。兎に角1984年の6月以降の半年間は、映像時代とはまったく違ったことを次々と体験することになってしまったのですが、もうその頃には来年の年明けに出版される予定があるために、その準備にかからなくてはならなくてはならなくなっていたのでした。


 


 


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告知と放談の部屋☆ 放84「テレビファンの支援嬉し」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」の地上編といわれる10巻が出版され始めたのは1984年(昭和59年)の6月に一巻目が発売されたのをはじめに、二巻目は8月・三巻目は10月とそれほど間を開けずに発売されたこともあったためか、その半年間というものは私自身想像も出来ないような変化に直面してしまいました。短期間なうちにベストセラー作品になってしまったこともあって、ファンクラブが結成されたり、地方の文化関係機関からの講演会とサイン会の申し入れがあったりいたしました。思いがけないことが次々と起こったりしましたので、とてもこれまでとは違い過ぎる日常が始まりました。これから暫くは、この半年間に原稿を書くこと以外に起ったあれこれについてのお話をしたいと思います。


                                   「藤川桂介公開講座」1.jpg


                               (京都嵯峨美術大学での公開講義風景)


  既に前述したことではありますが、今回俄かに人気作品として注目を浴びるようになってしまった「宇宙皇子」の発想をしたのは、テレビ界全体が勢いを失ってしまって、放送界はもちろんですが、私も新たな転換を模索している時のことでした。時代の波に便乗して、脚本家も四十歳を越えた人はいらないなどとかなり挑戦的なことを発言した某局のプロデウサーが現われたりしましたが、いささか新しいものには飛びつくといった時代で、ちょっと古くなったものはみな無視するような風潮がある時代になってきていました。この頃すでに四十代を迎えていた私は、彼の発言に反発を感じながらも、これからアニメーションで生きていくには、かなり困難を伴うようになるだろうと真剣に考えるようになっていた、時代の変わり目のような時でした。一世を風靡した「宇宙戦艦ヤマト」への深いかかわりから抜け出したものの、依然として宇宙を舞台にしたアニメーションが作られていたのですが、そろそろそういった傾向の作品もそれを楽しんでくれる視聴者たちから飽きられてきていたところで、東京ムービーが立ち上げたのが、バンダイという玩具制作会社がスポンサーとなったSF作品である「六神合体ゴットマーズ」という番組でした。お陰様でこれまでとは違った発想で作られましたので、すっかり宇宙を舞台にした作品は飽きられていましたが、この作品から「17歳の伝説」というサブストーリーまで生み出すことに成功はしたものの、そろそろ私のアニメーションでの脚本家としての活動には終止符を打たなくてはならない時が来たのではないかと思って、声から先に転身する場はどこにあるのだろうかと真剣に模索し始めている最中のことでした。


  「このままでは作家として生き残れない」


 そんな危機感から抜け出すために密かに苦闘し始めていたのです。


 私が「六神合体ゴットマーズ」が終わる頃から、あまり次のアニメーション番組に対しての積極的な姿勢を見せないのを知って、ファンの間では何か次に出す作品の準備をしているのではないかと思い出していたのかもしれませんが、私はまったく別の次元で葛藤していたのです。兎に角表向きにはそんな気配を出すようなことはありませんでしたから、きっとファンのみなさんはこれからもきっと仮想現実に基づいた異色作品を生み出そうとするだろうと考えていたと思います。ところが私はドラマ界からアニメーションという世界へ転身してある程度の成功を収めてきたものの、そろそろこの世界での限界を感じ始めていたのです。


 「これから先のことを考えなくては・・・」


 そう思えば思うほど、アニメーションの世界というのは、年齢を積み重ねていくことは大変困難な世界だということを実感するようになっていたのです。これまでかなりヒット作品にかかわってきたとはいっても、それが実績として評価の対象にならないのを実感し始めたのは、「六神合体ゴットマーズ」が人気作品として注目され始めた頃からなのです。アニメーションでは何といっても大事なのは若い感性です。年を経て来たことは決して勲章にはならないのです。この番組の人気が冷め切らない内に、新たな転身の世界を開拓できなかったら、前途に希望は無くなってしまうと考えるようになっていた私は、これまでにない自分に変わってきてしまいました。


「六神合体ゴットマーズ」の番外編として制作した「17歳の伝説」をはじめ、「プラレス3四郎」「キャッツアイ」にはメインライターとしてかかわってはいながら、シリーズを一気に書ききるという熱意が伝わらずに、途中で番組から抜け出してしまいましたし、私らしさを発揮することもないままでした。しかもそれから後、これまでの人気番組に通じると思われる仮想現実の世界を描く「超獣機神ダンクーガ」で勝負をするのかと思っていたら、いきなりその期待感を裏切るように番組のスタートだけで、後を弟子に託して去ってしまいました。


 「藤川桂介は何を考えているのだろう」


 多くのファンはそんなことを考え始めていたところでしよう。


 この間に私は紆余曲折の道筋をたどりながら、やっと宇宙皇子の実現に向かい始めていたのでした。そこで先ずお話しておかなくてはならないのは、「宇宙皇子」というタイトルのことです。これはかなり話の構想を固めていきつつあった頃に、ある歴史書を読んでいるうちに、あの富士山麓の村の中には、「宇宙村」というところがあったという記述があるのを知ったのです。古代の村でありながら、「宇宙」などという言葉を使っていたということに異色な発想を感じた私は、その「うつのむら」という名称から頂いて、物語の主人公を「宇宙皇子(うつのみこ)」としようと決めたのでした。


 これまでは殆ど超未来の仮想現実の世界を描いてきていた私が、日本の古代というこれまでのイメージをすべてひっくり返してしまった世界で、権力によって支配する者たちに戦いを挑む若者・・・小子辺(ちいさこべ)が、超能力者役小角の弟子となって不動明王を具現しようと葛藤する歴史物語として、ファンたちに訴えかけていったのです。テレビで私の作品のファンとなって下さった人たちは、ここでもう一つの驚きに接したことでしょう。


 イラストにいのまたむつみさんを起用したことです。


「プラレス3四郎」で一緒に仕事をした彼女は、業界のあちこちからあまりにも若くして作画監督をやってしまったことに対して反発されて、すっかり嫌気がさして洋画を勉強したいといって、アニメからさよならをすると言い出していたのです。それを思い留まらせるために、拙作原作「ウインダリア」を担当して貰ったり、活字の世界でのイラストを描いて貰うことにしたのでした。私はもちろんのことですが、彼女についても、これまで積み重ねてきていた現代的な世界の表現とはとは違った、古代の歴史世界に挑んで貰うことになったのでした。その分テレビファンのみなさんは意表を衝かれたのではないでしょうか。まさか私がいわゆるSF的な仮想現実を放棄して、小説の世界で勝負し始めるとは思わなかったのでしょうし、当時はまだ無名といわれていた(いのまたむつみ)さんが、まさか予想もしていなかった小説のイラストへ進出するとは思わなかったことでしょう。ファンのみなさんはその日から、「宇宙皇子」の支援者として書店へ走ってくれたのではないかと思います。さまざまな困難を乗り越えた上での私と彼女の初体験する出版でしたが、テレビのファンであった人々が、我々の新しい出発を後押ししてくれたのでしょう。大変嬉しいことでした。


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思い出作品の部屋☆ 思8☆ 思8 「宇宙皇子スタート快調です」 [趣味・カルチャー]

  

 出版が始まる前までは、兎に角「売れるのか、売れないのか」まったく姿の見えない読者という存在が頭から離れなくて、まったく落ち着かない日々を過ごしましたので、発売当日はとてもじっとしていることは出来ませんでした。兎に角書店へ出かけて行って、実際に本を買うお客さんの実像を目撃したいという気持になっていました。確か都心の大きな書店へ行ったと思うのですが、何といってももう30年近くも前のことですから、その書店がどこであったのかも思い出すことができません。


1984年6月は私の誕生月でしたので、これは当初から編集長にお願いして決めていたことでした。地上編宇宙皇子の第一巻である、「はるかに遠い都よ」は、ついに日本全国の書店で発売されることになったのでした。


                                                「宇宙皇子・新書1」1.jpg


  


当然のことですが、その日の新聞の朝刊には他の人の新刊と並んで、角川書店の新刊本の広告が載せられていました。起き抜けに何誌もの新聞を買ってきて、はじめて世間に対して自己主張をしている広告を確認しました。映像で見る藤川桂介と活字の広告に見る藤川桂介には、なぜかそこに重量感の差が出たような気がしました。あとは実際に書店で、拙作の本を購入していく読者の姿を確認することです。


 一体彼らはどんな反応を示すのだろうか・・・。


いささか緊張しながらも、極力平静を装って、大きな書店へ出向いて行きました。しかし書店は静まり返っていて、読者が入り乱れて新刊本を購入するなどという光景はありません。嫌でも真っ先に見たのはレジのところでした。書店さんも協力して下さったのでしょう。そこには「宇宙皇子」が目立つように展示されていましたが、まだそれに手を伸ばして購入していく客はないようです。いわゆる新刊が展示されている平場には、十数冊が数列も積んでありますが、まだ時間が早いということもあって、積まれた山から本が買われていった形跡がありません。夢中で書いた作家としては、その作品がそこに展示されているだけでも、これまでとは違った感慨がありましたが、しかしそれらにまったく手を伸ばして取り上げていくお客の姿が見届けられなかったのは、新たな不安となってつきまとい始めたのでした。暫く店内を一周しながら終始レジのあたりの動きを観察するのですが、特に変わった動きは見られません。


出版界での販売の成否ということについては。その判断の基準となるデーターを持っていませんから、その日の動きについてはまったく判断ができません。映像時代のように、放送になればその直後から、その評判が伝わってくるものですが、出版に関しては、まったく静まり返ったままです。いずれ数日経過したところで、編集長に判断を聞いてみるしかありません。しかしその日の収穫としては、私の三番目の妹が電話をかけてきて、勤めている銀座付近の書店で十冊も購入してくれたということですので、その調子だときっと大変な売り上げを記録するのではないかと思ったものです。翌日編集長から電話があった時に、その話をしたのですが彼はその話にはまったく興味を示しませんでした。


 「なぜだ!?」


 たまたま一人の人が10冊も買ってくれたことはいいことですが、その程度のことでは、決してベストセラーになるということは言えないということだったということです。


 どうやら発売した図書の売れ行きの予想は、出版界独特のやり方で行うというのです。


つまり角川書店が指定した書店があって、そこで三日間のうちで何冊売れるかによってその図書のその後の動きが判断できるというのです。角川ではその調査店で行う調査を、「三日統計」「十日間統計」といって、販売の参考にしているというのでした。その調査店での記録はたとえ一冊でもほとんどその後の展開が読めるというのです。編集長A氏は自信を持って答えてくれたのでした。どうしてそのような統計でその図書の売れ行きが判断できるのかまったく信じられません。案の定指定の調査店で二冊の本がはけたのですが、わが「はるかに遠き都よ」は快調な売れ行きは記録となって、短期間に重版を繰り返していったのです。


映像時代にも毎週ビデオリサーチ・ニールセンによる視聴率の結果が出ていましたが、その計器が一般家庭にセットされているという噂は聞いていましたが、果たしてそれがどういう家庭なのかまったく明らかにはなっていません。角川書店が調査店としている書店が、どこの何という書店なのかはまったく秘密にされていて一般的にはまったくそんなものが存在しているということすら知りません。恐らく上層部の人たちだけが、そこでの結果を知って次の戦略を練ることになるのでしょう。もうこうなるとイラストに対する不安も、古代という時代背景についての疑問も、まったく消滅してしまいました。きっとイラストはもちろんですが古代という作品世界についても、結果として受け入れざるを得なくなってしまったのでしょう。たちまち社長から全軍に指示が下されて、「宇宙皇子」に対する支援が決定したのでした。その結果わたしは直ぐに次の話を書くことになり、八月を目指して出版ということになったのでした。また400枚以上の原稿を一か月以内に仕上げて、その準備に入っていったのでした。2巻目である「明日香風よ挽歌を」も、夏休みの商戦で同じような結果が出てきました。角川書店からはここで休んでしまわないで、一気に出版を考えて欲しいという要望が入りました。これまでの多くの作家は、大きなヒットが出せるとそこで次の作品を書かなくなってしまうというのが通例で、そのために折角盛り上がってきた人気の機運を降下させてしまうことが多いというのです。特に営業部からはそうならないで欲しいという要望が出されましたが、私自身も映像から活字の世界へ転身が叶うかどうかの瀬戸際です。一気に勝負を決めてしまおうという決心でいたところです。直ちに第三巻目の「妖かしの道地獄道」の執筆にかかっていったのでした。


                                「宇宙皇子・新書2」1.jpg 「宇宙皇子・新書3」1.jpg


八月の夏休みの商戦も見事に制覇してしまい、その勢いを決定的にするために10月の毎年行われる出版界の秋の商戦である読書週間に備えて出版されましたが、予想通り一巻目、二巻目と積み上げてきた発行部数はうなぎのぼりとなっていきました。まさにベストセラーを連打していったのです。その頃からついに若い読者からは、「月刊宇宙皇子」という異称を生み出してしまうほどになっていました。しかし私自身はそんなことが言われているということもまったく知らずに、夢中で次の作品の準備にかかっていたのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放84「果たして売れるかどうか」 [趣味・カルチャー]

  

いのまたむつみさんの起用について、一部不満のある方がいるということを知りましたが、まだまったく無名の彼女ですしこれまで角川新書の表紙を飾ってきた一流のイラストレーターのそれとはまったく異質の画質です。拒否反応が起こっても止むを得ないことですがその彼女を推薦したのは私です。社内に疑問視する声があるということを放置しておくわけにはいきません。やがてその反応は私自身に振りかかってくるからです。あまり不満の声が広がってしまえば、彼女を諦めて別のイラストレーターを選択し直すようにと言われかねませんし、それに不服であれば今回で角川書店では執筆をつづけることもできなくなってしまうかもしれません。


  


はじめてお付き合いする会社であるということでもあるし、現在いろいろな点で注目されている角川書店を根城にして戦場へ飛び出して行こうとしている矢先でのことです。こんなことで出足を削がれてしまったら勢いを失ってしまいます。先ず味方の陣地での問題を解決しておかなくては身動きが取れなくなってしまいます。時代の空気を読むということでは、テレビ作品を作る中でかなり敏感であったこともあって、いのまたむつみさんをイラストレーターとして推薦したのは、時代の先取りをしたのだという自信でもあったのですが、私がやろうとしていることはこれまで角川書店が積み上げてきたブランドイメージを壊してしまうことになるかもしれないのです。


現在俄かに社内にくすぶり始めた問題には危険を感じてしまいます。私は担当の編集長と編集部員たちはもちろんのこと、書店を巡って販売促進をすることになっている営業担当の説得から始めることにしました。出版についてはすでに社長が許可を与えているということもあって、あからさまに疑問についてぶっつけてくることはありませんでしたが、予想通りいのまたむつみさんのイラストが、読者に受け入れられるかどうかは判りませんよと迫ってきました。しかしこれでそのまま彼らのいうことに屈してしまったら、私の確信はまったく否定されてしまうことになってしまいます。


 「彼女のイラストは、時代が要求していると思っているんです。きっと読者はこれからのイラストとして受け入れてくれるはずです」


 経験上の確信について訴えました。


 「そうですかね。テレビと小説の世界は違いますよ」


 なかなか受け入れてくれる気配はありませんでした。


 疑問を持ちつづけていた彼らは、最後までどうしても納得できないといった様子で終始していましたが、頭から否定してくるようなことはなくなってはいました。結局社長の決済が済んでいるということで、今から大きな変更はできないということなのかもしれませんが、それぞれの書店へ販促を行う営業部員の士気に影響が出るのではなかと心配です。もし今回「宇宙皇子」の出版が読者によって受け付けて貰えないようなことになってしまったら、いのまたむつみさんが出版界への転身を試みることに支障が出てきてしまいます。私自身についても彼女の起用に失敗して、そのままおめおめと映像界へ戻るなどということは出来そうもありません。今は先日の角川春樹社長の出版についての好意が唯一の支えでした。それだからと言ってそれがすべての保証であるはずがないということぐらいは判っています。時代が求めているというものがどんなものなのか、感覚的にかなり自信を持って勝負に出たはずだったのですが、冷静になって考えていると、いつか不安になってきてしまうのでした。                                         「宇宙皇子時計」1.jpg


                                    (キャンペンに使われた時計)


  この頃ほとんど出版界では登場していなかった古代という時代を背景にした企画を出すことにしたのはかなり冒険でしたが、放送界では所謂SF的な作品が作られ過ぎたために、視聴者はみな食傷気味になっています。それを実感していましたから、そのSF的な要素を日本歴史の古代を支配していた超能力という術者に託してみたのです。おもいきり楽しむ世界の背景を変えてみたのです。確かにかなり挑戦的な試みではあったかもしれませんが、角川書店では私の意図を受け止めてくれて、A編集長にはいくつもの編集会議を突破してくれましたし、最終的にそれを面白がって受け止めて下さった社長の英断にも感心いたしました。


 あれこれとややこしい問題はありますが、結局は問題の「宇宙皇子」という作品が売れるかどうかということでしかないということになりました。今回は文庫でなく新書版という成人用を狙った判型の希望を入れて下さったことも問題かもしれません。果たして私の狙ったさまざまな大冒険は成功するのか、はたまた大失敗ということになってしまうのか、発売が近づくに従ってその売れ方については不安ばかりが高まっていったのでした。


 映像時代ではさまざまな番組のメインライターを指示されることが多かったために、毎週出て来る視聴率調査の結果については、大変興味を持ってみるようにしていたことを思い出します。公にはほとんど気にしないということを発言する人がかなりいますが、聴取者の反応次第で番組の行方を決定的にするのです。絶対に無視することは出来ない問題です。気にならないというのは嘘です。しかしそうかといっても、仮に思ったほどいい結果が出なくても脚本家が責任を取らなくてはならないということはありませんでしたが、今回はそんな状態で鷹揚に放置されることはなさそうです。結果次第によっては出版社の経営に影響を及ぼしてしまうことになるかもしれません。当然それを書いた作家自身のこれからの作業にも影響が及んできてしまいます。


 「売れるかどうかなどということは無視だ」


 とてもそんな呑気なことはいってはいられないはずです。


 今回は見えない視聴者を対象にした映像の世界から、出版という見えない読者を対象にした世界にかかわることになりましたが、売れなくてもまったく作家にその責任がのしかかるということはありませんとは言っていられません。まったく読者の共感が得られずに出版社の経営を危うくするような結果になってしまったら、その影響は直ちに作品を生んだ作家自身に降りかかってきます。作家の生活を支えることになる印税が入ってこなくなってしまいます。放送局のように規模が大きい出版社ではありませんから、そんな失敗作品を次々とだすようになってしまったら、会社の存続にもかかわってきて来てしまいます。噂によれば、そうした失敗作品を生んだ編集者はそれらの失敗作品を処理してしまう断裁所へ呼び出されて、制作した図書を目の前で無残にも裁断されていくのを見つめなくてはならないという、残酷な処置を目撃しなくてはならないことになるといいます。売れない本を倉庫に仕舞っておくなどという余裕はなくなっているのです。倉庫に保存していると、それらはすべて財産となってしまって税金の対象になってしまうからです。もしそんな作品ばかり作るようなことになれば、編集者として生き残ることもできなくなってしまいますが、それを書いた作家も執筆する機会は次第になくなってしまうでしょう。出版という異世界に突入した途端に、あまりにも映像時代とは違った厳しさを知って、次第に緊張感は高まってしまうのでした。


 そんな日を何日味わったのだろうか。


 私にとっては将来を決する運命の日は、刻々と近づいてきていたのでした。 


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告知と放談の部屋☆ 告10「GWを前にして・・・」 [趣味・カルチャー]

                                                     「素材・原稿執筆中」1.jpg

  

今週28日の日曜日は4月最後のブログ更新日ですが、同じ週の29日には昭和の日のために休日があり、つづいて5月2日の日曜日はGWの最中の日曜日の更新日ですので、今回は4月28日、5月2日のブログを纏めて更新させて頂きます。


 お楽しみ頂ければ幸いです。


 今回はコロナ禍との我慢強さの戦いです。どうか充分に用心なさって頑張って下さい。


 


                                  藤川桂介


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