SSブログ
趣味・カルチャー ブログトップ
- | 次の20件

告知と放談の部屋☆ 放82「いのまたむつみさんの危機!」 [趣味・カルチャー]

  

 わずか一、二か月の間のことでしたが、やがてイラストの入った表紙の見本が届けられて、いよいよ戦闘の火ぶたが切られる準備が整ったと思いました。


私の書いたあの原稿から、いのまたむつみさんも出版界という不慣れな世界への参入をすることになったのです。しかし今回のような思いを表紙のイラストとして新書版を飾ることは、業界でも異色のことであったに違いありません。


私はこの表紙にまったく不満はありませんでした。


これまでの彼女の仕事といえば、テレビの「プロレス3四郎」と「ウインダリア」での仕事だけですから、現代的なタッチで描かれた作品ばかりですから、日本の古代史の中に登場して活躍する少年や、その仲間となる人物たちを書き分けられるだろうかと、多少心配になることもあるにはあったのですが、私はこの表紙にまったく不満はありませんでしたし、恐らくこれからの時代ではきっとこうした若い人の繰り出すイラストの世界が中心になるという思いでいました。


カナメプロの社長から聞いた、いのまたむつみさんがアニメーションの世界から引退したいという思いは消えてきたかも知れません。私も彼女がもっと活躍する場が広げられるのではないかと満足感を覚えていたのでした。しかしそれはあくまでも長いこと映像の世界で仕事をしてきた者の感想であって、まったく出版界の空気を無視した勝手な感想であったのでした。それだけに「宇宙皇子」は無事に出版されることになるのかどうか、まだ大変不安な状態ではあったのです。


                      「プラレス3四郎・DVD1」1.jpg 「ウインダリアビデオ」1.jpg 「宇宙皇子・新書1」1.jpg


それは間もなく角川書店の内部から始まったのですが、私が作品のイラストレイターに起用したいと推薦した、いのまたむつみさんのイラストについてある部署からくすぶり始めた問題があったのです。恐らく出版の戦略を協議する会議の中で、成人を対象にした新書版を発売してきた角川書店です。スタートの森村誠一氏の「人間の証明」は映画の公開と同時であったということもあって、大変な評判になって好調な売れ行きを示しましたが、それらの表紙を飾っていたのは、当時の第一人者と言わるイラストレーターであったのです。角川から発売されてきた新書版の小説の表紙は、殆どその人が書いているイラストが使われていたのです。新書版の表紙のイラストは当時の一流の方の描く表紙絵で埋まっていたといってもいいでしょう。そんなところへ突然アニメーション畑のいのまたむつみさんのイラストが、「宇宙皇子」の表紙を飾ることになったのです。それはこれまでの雰囲気とあまりにも違いすぎます。出版の準備が進められていくうちに、どこかの部署から持ち上がってきた野でしょう。


 「こんな絵でいいのか」


 恐らく拒否反応を示したのは、営業担当からであったかも知れません。さまざまな書店周りをして営業展開に動き出したところ、これまでの新書版のあまりにも雰囲気と違い過ぎて、書店からでも疑問に近い言葉が投げかけられたのかもしれません。確かにまだいのまたむつみさんは無名に近い存在です。同じころに小説のイラストを描くといっても、アニメーターの描く表紙絵はかなり格下の本の表紙に限られていました。営業に走り回る者にとってはかなり面倒な本を売ることになるわけで、当然ですが会議の席上で問題提起をしてきたに違いありません。そんなところへ予想もしないいのまたさんのイラストが登場したのです。びっくりするのも当然です。というよりは拒絶反応を起こしてしまったのかもしれません。成人読者を狙って作った新書という判型なのに、これまでやってきた販売足品に水を注すことにならないかということです。一気にこれは問題だということになって、彼女は外されてしまうことになりそう出合ったのです。少なくとも私は、彼女の実力を評価したからこそ自分の記念すべき角川書店での勝負作品に、登場して貰うことにしたのです。簡単に社内の空気が否定的だとはいっても、そんな空気に圧されて彼女をひっこめるようなことはできません。


 「今にこうしたイラストが、読者から歓迎される時代が来るはずです」


 必死で編集の上層部に、営業の上層部に訴えていったのです。


 角川春樹社長の現在行っている戦略から、かなり革新的なものを感じていた私は、それに期待して、いのまたむつみさんの援護を訴えたのでした。


 その頃のいのまたむつみさんが、プロダクションの中でどんな立場にあったのかということについては殆ど知りませんでしたが、「プラレス3四郎」から「ウインダリア」の作画で一生懸命に協力してくれていましたので、私は兎に角「宇宙皇子」で一気に彼女がスタートなってくれるのを願いつづけていましたが、有難かったのは、その時私を後押ししてくれたのが若い新人編集者たちでした。


 私は時代の空気がきっとこうしたイラストを受け入れる状態になりつつあると判断していましたので、遠慮もなく自説を強引に訴えていったのです。もしそれが叶わないような事態になってしまったら、作家として角川書店での仕事をすることは出来なくなるでしょう。何日か前に社長と大変いい出会いをしたところでしたが、思わずイラスト問題で、大変緊張させられることになってしまったのでした。


原稿を渡してから発売予定の6月まで三か月しかないというわずかな時間の流れの中で、さまざまな体験をしたものです。確かに角川書店は、これまで作家としての地位を確立していらっしゃる実力者たちの小説を出版してきたところです。恐らくそうした編集部あたりからくすぶり始めた問題だったのかも知れません。それまではそれらの問題提起に対しては編集担当の編集長A氏が、立ち向かっていたのですがついにそれだけではすまない勢いになってきてしまい、私も動員されて営業担当の部長を始め上層部に対して、いのまたむつみを起用した意味について、思うことを力説することになったのでした。まだまだこの世界ではまったくの新人でしかない私は、まるで実績を誇る作家のような自信で訴え続けました。時代はこうしたイラストを求めてきていることに気付かずにいる編集部に危険を感じると、これまでテレビの最前線戦で掴んでいた、時代の要求している感性ということについての感想を訴えつづけたのでした。


「これからは絶対にこうした感性のイラストが尊重される時代になるはずです」


私はかなり自信を持って説明したつもりですが、かなり大胆で、危険を伴う発言をしていたものです。しかしその日の会議から、ようやくイラストについての疑問をいう社員はみあたらなくなりました。会議の様子について新人の編集者で、「宇宙皇子」の担当として決まったS君、Y君、T君といった若者たちは、私の力説したことについて賛同してくれ、上層部の考える時代の捉え方とはまったく違った発想をする私についてきてくれるようになったのでした。


nice!(0)  コメント(0) 

告知と放談の部屋☆ 放81「角川社長と対面」 [趣味・カルチャー]

  

このところの話は、宇宙皇子の一巻目である「はるかに遠き都よ」の原稿を渡してから発売されるまでの三か月間のお話です。結構新しい生活が始まったために、一日一日細かなことで、何が、いつ起こったのかきちんと仕分けしてお話することがでそうもありません。みなさんには大体その頃こんなことがあったのだなと思って読んで頂ければ有難いと思います。


長い映像の世界での生活から、これまで遠くからしか見ていなかった小説という異世界へ、ある日突然飛び込むことになってしまったので、多少は準備をしつつあったとはいっても、いよいよ正式に仕掛かることになると、これまでとは大分違ったことを体験しなくてはならなくなりました。しかし実際に仕掛かったあたりからは、やはり原稿用紙に向かう気持から変わってきていました。大体これまで使っていた200字詰めの原稿用紙から400字詰めのものに変わりましたので、それと向き合う気分も変わりました。当初はあまり落ち着いた気分にはなれないでいましたが、一枚一枚執筆しつづけていくうちにかなり落ち着いた雰囲気に慣れていきました。


そんなある日のことです。A編集長から社長が会いたいといっているという連絡が入りました。世間的にはその評価はいろいろでしたが、このところ角川春樹社長の独特な生き方がさまざまなメデイアで取り上げられています。一度はお会いしたいと思う青年社長はありました。小説の発売と同時にそれを映画化したものを公開して、その相乗効果でかなりの成果を上げています。森村誠一氏の「人間の証明」という小説の営業展開がかなり派手であったことから、何かにつけて注目を浴びていらっしゃる存在でした。私はこの機会に、「宇宙皇子」という作品で何がしたいのかということを説明して、理解して頂こうと考えました。


目下社長が取り組んでいる作品はかなり現代的なものが中心になってはいるのですが、一方では日本の古代文化への関心も高くて、わざわざ古代の葦船のようなものを作って、同志たちと共に韓国を目指して九州から漕ぎ渡ろうとしていることがマスコミで騒がれていたりしていましたから、いつかで会ってみたいと思っていたところでした。


本社の編集室の奥にある社長室へ案内されましたが、精悍な姿の社長は大変気持ちよく迎えて下さると、特別気張ったところもなく実に気さくに話しかけられたのでした。


多少緊張気味であった私もすっかり解放されて対坐することができたのでした。


 どうやら社長はすでに私の原稿に目を通していらっしゃったようで、いきなり古代という時代についての興味を示されてこられたので、私もすっかり気を許して話し始めました。前述しましたが、当時社長は話題の多い方で古代に関しての関心があるということはさまざまな雑誌で紹介されていましたから、「宇宙皇子」に関してはどんな反応をされるのかとかなり緊張しておりましたが、初対面にしては珍しいくらいに通い合うものを感じる安心感が生まれました。実に通常の対話をするような雰囲気で、気持ちの交歓をすることができたのでした。


私は出版を前にして、「宇宙皇子」の発想の原点となったのはどんなことは始まりであったのかということについて話し始めました。日本の古典である「今昔物語」と西欧のダンテが書いた「神曲」という音楽劇三冊の話です。


             「日本古典文学大系・今昔物語」1.jpg 「神曲・煉獄編」1.jpg 「神曲・地獄編」1.jpg 「神曲・天国編」1.jpg


神の子として生まれた少年が、壬申の乱に駆り出されて戦死してしまった父に代わって、悲惨な暮らしに耐えながら暮らしている農民たちのために、権力を振るって支配する高貴な人々への挑戦を始めるのですが、小子辺(ちいさこべ)・・・宇宙皇子今昔物語に描かれている超能力者である役行者を師として仰ぎ、やがて不動明王に化身して苦界の現世から極楽浄土の来世までのさまざ異世界を経験しながら再び苦界の地上へ戻ってきて、庶民のために活躍するという、長年温めていた構想熱っぽく説明したのです。


 「神曲」では煉獄に生きる者の姿、地獄に生きる者の姿を描きながら、最後に楽園である天国に生きる者の至上の姿を描いて終わるのですが、私はこれとは違った構想を組み立てているのだと説明をしたのです。つまり苦悩する農民のために、宇宙皇子自身が不動明王の化身となって苦界といわれる現世から旅立ち、地獄・煉獄を知りながらやがて楽園である極楽浄土の天国へたどり着くのですが、人間にとって至上の世界を知ったところで再び苦界の地上へ突き落され、庶民のために働くようになるという話になるのですと説明したのです。


社長は笑顔で頷きながら大変乗って下さいましたが、「それでは大変な数の本を書かなくてはなりませんよ」とおっしゃるのです。


私はかつて集英社と出版の話をした時、すべて三冊で終わって欲しいといわれた経験があったことから、多少遠慮しながら「それぞれ異世界を辿るので10巻は必要になりそうなのです」と答えたのです。


ところがそれに対して社長は、「そんな数にこだわる必要はありません。書きたいだけ書けばいいんです」とおっしゃるのです。


あまりにも鷹揚な受け止めかをされたのでびっくりしましたが、あまりの嬉しさに私は、「ひょっとすると50巻ぐらいになるかも知れません」


思わず考えていた勝手な構想を、ぶちまけてしまったのでした。


すると社長は直ぐに、「もし50巻を一巻でも超えることがあったら、100巻ですよ」


釘をさすようにおっしゃるのです。ところが社長はとても冗談とはいえない真顔になって答えられたのでした。


 初対面で確認し合うべきことがすべて話し合えたことも満足しましたが、兎に角どんな話になっても、「頑張って下さい」と励まして下さって、初対面を終えたのでした。


 少なくとも社長とは気持ちの交流が生まれたように思いましたし、今回の出版にはかなり興味を持って下さったように思えました。


 兎に角遠慮気味に言った出版の冊数に対しても、そんなことにこだわらずに書きたいだけ書いて下さいという、思いがけない返答をされたのにはびっくりいたしましたが、


かつて集英社と出版の話になった時に、売れ残りを出さないようにという慎重さで、原則的には三冊で簡潔して下さいという姿勢を崩しませんでした。それで結局「宇宙皇子」の企画は排除されてしまったのでした。しかし集英社はこうした堅実な方針を貫いて会社を守っていたのでしょう。それにしても角川書店の鷹揚な受け止め方には、これから勝負をしたいと思っている作家にとっては、期待と意欲を一気に掻き立てられる体質を持った会社であったと思いました。私はこの日の対面によってますます執筆の意欲に点火されましたが、私のやりたい世界に興味を持って下さったのか、この日を境に社長とは思いがけない親交が始まったのでした。


私はいよいよこれから先は執筆をつづけていくことが保証されたという安心感で、作品世界に没頭していけるようになったのでした。


 


nice!(0)  コメント(0) 

思い出作品の部屋☆ 思7 「出版までの一歩一歩」 [趣味・カルチャー]

  

出版界での作業のあり方にまったく不慣れであったことから、いろいろと困惑することが多いのですが、これまでとは違った異世界での作業です。これからも暫くは恥ずかしながら失敗を重ねることがあろうかとも思います。思えば初めて集英社で「青い鳥」を書いた時のことです。すでにかなり前にブログで紹介したことがあったと思うのですが、「宇宙戦艦ヤマト」であまりにも無理をした作業をさせられていたために、それから時を経ずに書き出したことが原因で、脱稿間近にして胃潰瘍になってしまったことがあったのです。あと100枚というところで激しい腹痛に悩まされてまったく書けなくなってしまい、慌てて出版を延期にして欲しいと申し出たのですが、懇願する私に編集長は「苦しいでしょうが何とか書き上げてくれませんか」といって、延期を懇願する私の申し入れを承諾してくれません。もう原稿が上ると判断して、その後の作業をさまざまな担当の部署に手配をすませてしまっているというのです。もしここで出版が延期となった時は、かなり多くの人の作業がなくなってしまうばかりか作業費を受け取ることもできなくなってしまうというのです。とうとう編集長の必死な懇願に負けて、近くの病院で特殊な治療薬を注射しながら、何とかそのピンチを乗り越えたことがありました。ひょっとするとあの時のことも、実は編集長のお芝居であったのかもしれません。どうも恥ずかしい第一歩のお話をすることになりました。


 お話を本来の予定に戻します。


 1980年を過ぎる頃からは、それまであまり宇宙を舞台にした所謂SFアクションといえる作品が作られ過ぎたために、脚本を書いていた私ですら少々食傷気味になってしまっていたくらいで、何か毛色の変わった作品と巡り合いたいと思い始めた頃のことでした。それで「宇宙皇子(うつのみこ)」の原点となる発想をし始めたのです。テレビ界全体が勢いを失ってしまって、新たな転機を模索している時のことですが、それに拍車をかけたのは「脚本家も四十歳を越えた人はいらない」などと、かなり挑戦的なことを発言した某局のプロデウサーが現われたこともありました。時代の変化が進みつつあることを実感させられたのですが、彼はさまざまな映像関係者から非難されて、現場の視界からは見えないところへ移されてしまいました。ちょうどこの頃問題の四十代を迎えていた私は、彼の発言に反発を感じながらも、物書きとして生き残っていくために何をしなければならないかということを考えるようになったのです。その結果若い頃夢に見たこともあった、将来は作家となって作業をしつづける時が来たのではないかと思い始めたのです。かつてドラマからアニメーションへと転身した時もそうでしたが、時代の流れが私をその方向へと押しやったといっていいでしょう。放送界の流れが大きく変わっていく流れが、今度は私を活字の方向へと押し流し始めていたのです。


 「宇宙戦艦ヤマト」の超ヒットの影響で、テレビのアニメーションはほとんど宇宙ものになってしまったために、脚本を書く者にとっても楽しみがなくなってしまいましたし、それを見る視聴者も不満が蓄積していったのでしょう。アニメーションだけでなく放送という事業そのものが危機的な状況になっていってしまったのです。時代が転換を求めてきていたのでしょう。それに応えようとして生み出したのが「六神合体ゴッドマーズ」という作品だったのです。番組は大変人気を得たのですが、実は私が次第に小説の「宇宙皇子」執筆に傾いていったのもその頃からのことだったのです。幸いなことにこれまでの脚本家としての実績を積み重ねてきましたし、ヒット作品もかなりありましたので、私を支えて下さるファンの存在も後押ししてくれました。大変不安はありましたが、いよいよ小説で勝負する時がやってきたのかも知れません。しかしそう思ったからと言ってすぐに転身できるわけがありません。それが具体的に小説として出版されることになったのは実に八年後のことだったのです。その間に新聞で絵物語として毎日曜日に連載という話があったりしましたが、それでは私の考えている物語のスケールではとても書ききれません。一回で書ける分量ではとても一年間の52回という回数では書ききれそうもないと判断しましたので、残念ながらそのお話はお断りせざるを得なくなってしまいました。その後には集英社からも企画の依頼があった野ですが、「宇宙皇子」とSFファンタジー作品の二つの作品の企画を持って行ったところ、結局選ばれたのはSF作品の方で「宇宙皇子」は採用に至りませんでした。間もなく誕生したのは「新銀河創世記伝」の「聖戦士キリー」という作品でした。やってみようという本人の希望は、さまざまな理由で採用されずに、あまり希望してはいない方向へ向かわされてしまうのでした。多少の救いといえば、この時は異色のイラストレイターである若菜等氏との出会いがあったことぐらいだったでしょうか。その後も小説や絵物語を書くお話はあちこちからあったものの、その度になぜかいろいろな条件が揃わなくて実現しませんでした。


もう「宇宙皇子」を実現することはできないのではないかと、絶望的な気分になりかかっていったのですが、しかしそれでもなぜか諦めきることは出来ずに、思いつくアイデアや、歴史的な発見などを書き止めていくようにはしていました。例えば役小角などはかなり年配者でありましたから、若い人に読んで貰う作品としてはちょっと問題になりそうでしたので、物語の中心人物としては若者を設定しておく必要があるということを決めたりして、その作品の方向付けについての研究をしたりしながら、作品に血肉をつけていくのに費やしました。そしてその企画が取り上げて貰える時を、根気よく待ちつづける状態になっていたのです。


もう駄目かと諦めかかっていた時のことでした。


きっかけを持って来てくれたのが少年画報社の編集者で、「銀河鉄道999」などを担当していたS氏でした。私とも雑誌の原稿執筆でかなり関係があったのですが、たまたま打ち合わせをしているうちに、彼が角川書店のアニメーションにも関係していたことから小説の話になり、すでにブログで紹介した通り「角川で書いてみませんか」という話に発展したのです。


思わぬことで私はA編集長と出会うことになったのでした。


直ちに長年温めていた「宇宙皇子」の企画を出してみたのです。まさに縁というものですね。これまであれこれと事情があって実現しないものが、とんとん拍子で話が進み、会社での会議でも編集長の努力のお陰で何とか出版に向って走り出せたのです。


兎に角私はこれまで映像の世界に長く留まっていたこともあって、ほとんど出版界での暮らし方ということについては、その実像についてはほとんど知らないといっていい状態です。私が原稿を渡した時から、これまでまったく知らない人々があの本にかかわって動き出していて、その分予想もしないことが持ち上り始めたのでした。


 アニメーションなどという、まったく異世界から参入してくる者への拒否感があったのかも知れませんが、時代の変化ということもあったのかも知れません。新たな物を求める流れは、じょじょに出版にも浸透し始めていたに違いありません。しかしこれまで映画界と同じで長い歴史を積み上げてきている出版界です。かなり変化しつつあるとはいっても、その態勢はかなりの岩盤が存在しています。どうやら私はまたそういった流れからははじかれそうになりながら、頑張らなくてはならないと決心していたのでした。


nice!(0)  コメント(0) 

思い出作品の部屋☆ 思6「締切りとの挌闘!」 [趣味・カルチャー]

  

 1984年3月24日・異次元童話 宇宙皇子巻1「はるかに遠い都よ」脱稿。400字詰めの原稿用紙で480枚という大作でした。これまではテレビでの30分番組の脚本を、殆ど200字詰め原稿用紙で50枚か60枚前後で一話を書き上げてきましたが、流石に400字詰め原稿用紙で480枚を超えるというと、その重量感は格別の感慨があるものです。


 私はこれまで何度か宣言してきた通り、それをきちんと守って、約束通り月末あたりという期日よりも前に原稿を脱稿いたしました。


 最後のページを書き終わった時には、


 「書き上った!」


 誰に言うということもなく声を上げて吐き出すと、もう次の瞬間には、机の下から毛布を引っぱり出して体にかけると、そのまま爆睡してしまったのでした。


目覚めたのは翌朝昼近かったのではなかったかと思います。


今から考えるともう40年近くも前のことですから、その時のことはすべての記憶がおぼろになってしまっていて正確なことはお伝えすることができません。特に特徴的なことだけが甦ってくるのですが、中でも筆記用具での円鉛筆は一本や二本という限られた鉛筆では、絶えず削らなくてはなりませんから、かなり無駄な時間つぶしをすることになってしまうので、私はその無駄な時間つぶしをしないために、気持ちが乗ってきた時にはそれを途切れさせないために、少しでもその手を休めないで書き通すために、三菱鉛筆の多少芯が柔らかくて手に負担がかからない「B」と決めて書きました。その数は200本くらいだったと思います。


はじめは著名な会社が制作した万年筆がその時のために何本も保存してあったのですが、結局テレビ時代の習性もあって鉛筆での執筆にしました。俄かに使い慣れていないもので挑戦することにすると、結局思うようにはならずに、余計な時間を潰すことになってしまうと考えたからです。やはりこれまで慣れている鉛筆で書こうと決めましたのでした。200本くらいの鉛筆をすべて削っておいて集中的に使い、書けなくなったら直ぐに新しいものと変えていきますが、200本も削ってあればそう短時間で削らなくてはならなくなるということもないでしょう。執筆の途中でいちいち削ったりするために、乗っている気持ちを途切れさせるようなことにはならないと思います。


それに・・・これまで文芸誌などで読んでいますと、ほとんどの作家は原稿を万年筆で書いているために、その途中で気がつくところがあれば何度も同じところに書き入れてしまうことになるようです。如何に精魂込めて書いたかということは推測できるのですが、気になるところの訂正箇所があまり多くなると後で読み返す時には却って読みづらい原稿になってしまって、修正箇所を確認するだけでもかなり神経を使うことになってしまいます。そこで私は兎に角最後まで綺麗な原稿で脱稿しようと決めたのです。書き直したくなった時にはそのページの原稿はすべて放棄してまた同じところをはじめから書き直しました。出版社に渡った時にはすべてのセクションの人が、これまでにない綺麗な原稿だと思って見てくれたに違いありません。当時は角川書店で書いている作家の中にも悪筆の作家がかなりいて、その作家の原稿を読む人は専門の担当がいたほどです。そんな中で私の原稿は異色であったことでしょう。


作業中に例のS氏が時々調子はどうかと電話をかけてくれましたが、原稿の進行状況は直ぐに編集長に報告されていたに違いありません。A氏からは原稿執筆の依頼を頂いてから、その後はまったく催促がましい電話がかからなかったのは、ひとえにS氏のお陰だっただろうと思います。お陰様で私はまったく自分のペースで執筆に集中することができたように思います。記念すべき小説の第一作は二十数日で書き終えてしまいました。これまで出版社と作家の間にはほとんどの場合、その締切りの期日を守らせようとする出版社と、少しでも思いのまま書きたいという作家の引き伸ばし作戦がぶつかり合って、大変な舌戦が繰り広げられるのだと聞かせられていたのですが、私はテレビ時代に締め切りをきちんと守る事を心掛けてきましたので、少なくともそんなことでは迷惑を掛けないで済ませることができました。


          「宇宙皇子・はるかに遠き都よ・タイトル」1.jpg 「宇宙皇子・はるかに遠き都よ・生原稿」1.jpg


翌日の午後目覚めてから、改めて机上に置かれた480枚という分厚い原稿を見た時の感動は格別のものだったと思います。現在保存してある分厚い原稿を改めて眺めていると我ながら圧倒されてしまうのですが、それと同時に、はじめて本格的な小説に挑むという当時の思いが甦ってきてしまいます。


25日の午後に高揚する気分で角川書店のA編集長に連絡を入れると、彼は「上がりましたか」とびっくりした口調で言うと、「ご苦労様でした」と労を労ってくれると、近々取りに伺いますといって電話は切れたのでした。きっと愛車を駆ってすっ飛んでくるだろうと思って待ち構えていたのですが、それからが問題だったのです。


それから何日待ってもA氏がやって来る気配はありません。一週間近くたったところで、依然として姿を表さないばかりかまったく連絡がなくなってしまったのです。兎に角三月末までという締め切りを決めた以上、絶対にそれを破らないという固い決心で作業にかかった私は、日常生活で無駄な時間を費やさないために環境を整えて集中してきたのです。編集長の喜ぶ姿が見られると内心ワクワクとして待っていたのですが、まるまる一週間も連絡がないままだったのです。


 脱稿の興奮で張り詰めていた気持ちが、日一日と冷めていき始めましたが、それがついに怒りに変わっていってしまったのでした。連絡があるまで待ちきれなくなった私は、はじめてのおつき合いであるということも忘れて、電話を掛けてしまいました。ところが悪いことにたまたまA編集長が出てしまったのです。


「編集長の言った締め切りを守って原稿を仕上げたというのに、一週間も音沙汰なしというのはどういうことなのですか」


詰め寄ってしまったのです。ところが編集長はまったく慌てた様子もなく笑いながら、「すみませんでした」と応じてきたのです。もうこれを読んでいらっしゃる方は、大方見当をつけていらっしゃるでしょうが、実はほとんどの作家が念を押されても「わかった」と言いながら、ほとんど締め切りを守らないのが常だったのでしょう。そんなことから編集長は、多少脱稿が送れるのを計算に入れて三月下旬といったのです。つまり「サバを読んで締め切りを伝えて帰ったのでした。流石にこの結末には、拳を振り上げてしまった私の負けでした。兎に角締切り厳守ということを基本に作業を進めてきていた習慣が、すっかり身に染みていたことから出版界も同じような世界だと思い込んで抗議してしまった、キャリヤのわりに初心(うぶ)な姿を露呈してしまったのでした。


nice!(0)  コメント(0) 

告知と放談の部屋☆ 放80「意地悪な自問の襲来」 [趣味・カルチャー]

  

脚本家としての作業から離れて活字の世界に没頭していると、時々休息している時などに気になるのは放送界のことです。これまで長いこと夢中で番組の好不調に気遣いながら、必死で脚本を書いつづけて来たのですから、その思い出多い世界での作業の記憶を、一切払拭してしまうということが出来るわけはありません。しかしそんな記憶をある日から突然断ち切って、活字の世界という不慣れな成果での一歩を踏みしめて歩き始めたところなのです。活字に集中している日常から神経を止めて休息することにすると、つい先ごろまで活動していた世界の空気が流れ込んでくるのです。


「超獣機神ダンクーガ」のスタート原案構成脚本は協力できたものの、それから後はすべて総監督就任した奥田氏にお任せして、若い脚本家の弟子に任せきりにしました。一人は「宇宙戦艦ヤマト」制作の末端で働いていた関係から弟子入りを志願してきた若者で、のちにゲームの「ファイナルファンタジー」でヒットした寺田憲史。もう一人はその後輩で「プラレス3四郎」から弟子となった、のちの「ポケモン」でヒットした武上純希です。何とか私の期待に応えて、それぞれ頑張ってくれていると思うのですが、それまで何度も名称を変えることになっていた番組のタイトルも、どうやら「超獣機神ダンクーガ」ということに決まったようでした。二人の新人脚本家を相手に総監督の奥田誠治氏は頑張ってくれているようですが、葦プロの担当であるK氏と旭通のK氏も何とか時代の要求に応えて、何とか目立つ番組にしたいと努力してくれていたようです。


そのお陰で私は「宇宙皇子」の執筆に精を出すことができたのですが、そんな間にも、番組関係者から作業の進行が判るようにという資料が送られてきます。


          「獣戦機ダイガン・スタッフ」1.jpg 「獣戦機ダイガン・構成表」1.JPG 「超獣機神ダンクーガ」1.jpg


しかしそれを改めて眺めていると、テレビの仕事を断って小説を書くために没頭していることについて、思わず斬鬼の念に駆られてしまいます。もう番組のことであれこれと口を出すことはなくなりましたが、それだけにこうした束の間の休憩時間には、ふとこれまで夢中で作業をこなしていた頃のことを、思い出してしまうことがありました。


テレビの仕事を本格的に書き始めた「宇宙戦艦ヤマト」の頃などは、ほとんど家庭生活などというものには気を使えない無茶苦茶なスケジュウルで仕事をこなしましたが、それが終わった頃からは時代の変化もあって、次第に会社の経営にも変化があり、その社員の働き方も変化がありました。忙しいとはいっても土曜日から日曜日などは、放送局をはじめ映像関係会社も休みを取るようになってきましたので、私に連絡してきたり打ち合わせをしに来たりする担当者もお休みということになって、そのお陰で完全に自由な時間を使って拘束を感じないままで脚本を書くことができました。精神的に大変リラックスした状態で作業を進めることができたのです。これまであまり触れあってやれなかった二人の娘を連れて、自宅の周辺の散策や、美術館・博物館・レジャー施設・公園などへ出かけることもできるようになりました。しかし映像時代での基本的な仕事である脚本書きについてはすべて家庭で行ない、原稿ができるとテレビ局の制作部、アニメーションの制作プロダクションの文芸室、特撮制作の文芸室・アフレコのダビング所などへ出かけてツメの作業をすることになるのです。土日を除いてはほとんど家族との楽しめる時間は取れませんでした。


ところがそんな中で1984年の二月からは、同じように自宅での原稿執筆が中心で、放送時代のような毎日忙しなく出かけるということはなくなりました。しかしこれまでとはまったく内容の違った作業になりましたので、その分今回は活字との必死の挌闘をするようになってしまいましたから、またまた家族とゆっくり楽しめる時間などは取れなくなってしまいました。自由にふらふらとしていたら締め切りに間に合わなくなってしまいます。そんなことにならないためには、かなり集中的に書かなくてはなりません。かねてから文芸誌などで知られている作家の生活ぶりは、かなり自分流の生活のリズムを守るために、家族ですらその作家の時間を邪魔することは許されませんでしたし、原稿の締め切りにしてもあってないようなもので、書けないとなれば出版社と激しくやり合いながら、あくまでも自分のペースでやり通していたようです。しかしそんなことが許されたのは戦前の作家のことで、戦後のしかもかなり時を経た昭和、平成時代ともなると、だんだんそういうことでは許されなくなってきています。ある程度はきちんと守らないと出版社からは嫌われてしまうことになってきています。私は映像の世界でも時間の制約の多いテレビの仕事をしていたこともあって、ほとんど決められた時間を外すようなことはしませんでした。私は性格的に几帳面なところがありましたので、人に迷惑をかけることは極力避けたいという気持がありました。そのためにほとんど九割以上きちんと締め切りを守っていたつもりです。そんなわけですから仕事の世界は変わっても締め切りを守ろうとする気持ちはまったく変りません。兎に角三月いっぱいまでには、きちんと編集長に渡したいと思っているのです。


数か月前に身辺に変化が訪れたために、ふと小説を書こうと思っているという心境をS氏に打ち明けたのがきっかけで、その話が次第に急テンポで進み出してしまい、こうして小説の原稿を書くようになったのですが、兎に角慣れない分野での仕事ですから、気を散らしていることもできませんから、これまで生活の基盤であった映像の世界に関してどうしようとするのかということなど、まったく考えてもいませんでした。


しかし冷静になって考えてみると、もし今回の試みが成功しない場合には、また映像の世界・・・つまり放送界へ戻らざるを得なくなってしまうのですが、簡単に復活することができるのだろうか・・・かなり不安な自問の声に襲われてしまったのです。勿論今回小説を書くことについて、わざわざそれを発表してこれまでの映像界にさよならをしたわけではありません。それでも私の動きについては、もう噂として広がってしまっているでしょう。そんな状態になってしまった中で、もし小説への挑戦に失敗してしまったら、「やっぱり古巣へ戻ってきました」などと言って、平気で復帰するなどということができる訳はありません。私自身のプライドもあります。現実にはそんなことがすんなりとできる訳はないのです。それでも現実に放送が予定されている番組を降りたりもしているのです。そのことについては、自然に業界に広がっていくでしょう。活字の世界への転身を試みている以上、やがては出処進退についてはけじめをつけなくてはならなくなると思うようになったのでした。ふと原稿を書く休息時間というその心の隙に分け入ってきた、予想もしない自問のお陰で、やがてはそれにはきちんと応えなくてはならなくなるなと言い聞かせたのでした。


nice!(0)  コメント(0) 

告知と放談の部屋☆ 放79「アニメでは成功したが・・・」 [趣味・カルチャー]

  

既に前にお話したことがありましたが、かつて電通へ就職した大学の後輩から、アクション番組である「月曜日の男」というドラマや特撮の「ウルトラマン」などを書いていた新人脚本家の私に、「北欧に「ムーミン」という作品のテレビ化という話があるのですが、やってみる気はありませんか。もしその気がありましたら、担当部長に逢ってくれませんか」という話があったことから、早速M部長に面接を申し出たのですが、彼は「ウルトラマン」が書けるなら「動画」も書けるでしょうと、大変軽い受け止め方をされて、新しい番組の企画を執筆するように依頼されたのです。そんなことで私はまったく未知の世界へ足を踏み入れることになったのでした。


その頃はまだ「動画」の世界は一般的にあまり高い評価を得ているということもありませんでした。いわゆる子供のための番組といった程度の受け止められ方だったと思います。しかし漫画家の手塚治虫氏が設立した「虫プロ」がその中心で、手塚氏を師として仰ぐアーテイストが集まって作業をしているプロダクションが、一寸は目立った存在であったくらいだったと思います。どうしても作業の中心はあくまでも漫画家が雑誌に書いた作品が中心で、それを映像化するために必要な脚本を書くという作業などは殆ど問題にされない状態だったはずです。そのころはドラマという世界で脚本を書いていた私にとっては、「動画」という世界はまったく未知でしたが、兎に角ドラマの作家とはいっても、少しでも稼げる世界という気持が旺盛な新人作家でもありましたから、興味本位の気持ちで参加してみる気持ちになっていたのでした。電通の指示もあったのでしょうか、「アンデルセン童話」の「親指姫」を素材にした作品を書いてみて下さいといって、虫プロの新人脚本家S氏とH氏がやってきたのです。


仕事の依頼を済ませた後での雑談になると、彼らは「動画」の世界の現状がどういう状態であるのかという話をしてくれたのですが、それはいつからかドラマ作家である私に対する訴えに変わっていったのです。兎に角漫画家が中心になって作られている集団ですから、まだ脚本家という仕事をする人などへの配慮などというものはほとんどなかったようで、脚本家が大事にされるドラマの世界で仕事をしている私に現状を訴えてきたのです。私は二人の冷遇される動画界の脚本家の立場に同情して、現状打破のきっかけを作りたいという気持が高まってしまって、その日から「動画界」で活動をしてみようという気追った気持ちでその一員となったのでした。


やがて数年後には出版社の小学館で、漫画の原作を書くきっかけを与えられた私は、幸運にも「さすらいの太陽」という歌手を目指す少女の生活を描いて大ヒットさせて、やがてテレビ化されることになったのです。私はその原作者として俄かに注目されるようになったのですが、それでこれまでの動画界の差別感を一掃できたかというと飛んでもありませんでした。まだまだそんな状態になるわけではありません。いろいろと紆余曲折あって苦闘しながら、「動画界」という世界に馴染んでそれなりの作品が書けるようになったこともあって、その後「マジンガーZ」「宇宙戦艦ヤマト」「ウルトラセブン」「銀河鉄道999」「六神合体ゴットマーズ」という超ヒット作品と巡り合い、視聴者の支持も獲得することになりました。それらを書いていった脚本家としても注目されるようになりましたが、その後「動画界」自体も時代の進展と同時に「アニメーション」などというハイカラな名称に変わって、今日の隆盛を誇る世界にまでになっていきました。そして脚本家という存在感も、それなりに認識して貰えるようになったのです。それでも放送界へ足を踏み入れた1958年にラジオ番組に参加してから、30年弱という年月を経ると、その主戦場として活躍したアニメーション界での仕事も、じょじょに減ってき始めたところから、新たな活動の場を求めて活字の世界の開拓を始めたのでした。


そんな機会に、幸いにも「宇宙皇子(うつのみこ)」という古代の歴史ロマン作品を執筆することになったのです。しかしこれまで映像の世界で成功したような、実績を上げられるかどかはまったく判りません。かつて「ドラマ」の世界から「動画」界へ転身した時と同じように、まったく未知の世界を切り開いていなくてはならないという、まったく不安な状態に身を置くことになったのです。うまくいくかいかないかはまったく見当もつきません。兎に角「宇宙皇子」という作品をもって活字の世界へ足を踏み入れたのでした。物書きという作業のうち映像の分野では、脚本家としてかなり実績も積み上げてこられましたが、いよいよ初めて本格的に活字の世界へ足を踏み入れたところで、作家としてはどんなことが起こるか判りません。これまで書いてきている何冊かの小説は、こうした世界へ足を踏み込むための習作だったように思います。しかし仕事の世界を変えようとするきっかけのような時ですから、果たしてそれを知った映像のファンたちは私の新天地への転身に興味を持ってくれるのか、それとも拒否の反応になってしまうのか判りません。大変不安になり始めたある日のことです。


 代理店の旭通から連絡があり、新番組の企画に参加して欲しいという依頼がありました。実はようやく活字の世界という新天地に、活躍の場を求めて活動し始めたところだったのに、何と久しぶりにテレビ番組への企画です。気持ちとしては直ぐには承知できませんでした。しかもその内容はどうやらロボット物のような作品にしたいようです。これから挑もうとしている活字の世界とは真逆の世界の話です。


予定では1985年4月に始める予定だということで、もうあまり時間的な余裕はありません。切羽詰まったのは私だけではありませんでした。代理店の旭通の担当である「プラレス3四郎」以来付き合いのあるK氏はもちろんのこと、制作会社も葦プロという新興会社です。総監督に決まっていた奥田誠治氏も早く番組の制作ができる状態にしないと春の放送に間に合わなくなってしまいます。企画書には、「獣戦機ダイカン(仮題)」と書かれていました。


                                            「獣戦機ダイガン企画」1.jpg


 ついこの間まで日本の古代という時代を背景にして、戦乱のために父親を失った農民の子が、権力者への戦いに立ち向かい始めるという話を書いていたところです。そのための緊張感を失いたくありませんでした。これから先の展開にかかわることになる、一巻目の原稿を書くためにすべての生活をそのために没入していたところです。ここでいきなりロボット物に頭を切り替えて、未来向けのSF作品に気持ちを切り替えることは無理であることは明らかです。いくら器用に書きこなす能力を持っているといっても、兎に角気分を古代からいきなり超未来の戦闘物に気持ちを切り替えることは困難です。


 私は現状の状態を説明して引き去ろうとしましたが、これまでの付き合いから、とにかくはじめだけでもかかわって貰いたいという旭通のK氏の懇願もあって、総監督に決まっている奥田誠二氏と共に企画の原案となるものをある程度固めた上で、スタートだけでも脚本をまとめることにしたのでした。それでも何とかスタート台本をまとめたところで、全体的な構成をまとめると同時に、私の弟子となっている若手脚本家に進行を任せることを、K氏にも承知して貰い、私は番組の制作からは暫く退かせて頂いたのでした。


nice!(0)  コメント(0) 

言霊謎解きの部屋☆ 言28「ひとくち言霊」(赤飯) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                         「若菜イラスト」.JPG

  

昔は・・・もちろん今でもないとは言えませんが、お祝い事があると、大抵の家ではお赤飯を炊いて祝ったものです。


ちょっと高齢の方であったら、ほとんど抵抗感もなくそういうものなのだと思っているはずですし、おめでたいことでもあれば、自分から今日はお赤飯にしようなどと指示してしまうはずです。そのくらい一般的に浸透している生活習慣だったのですが、昨今はどうして祝う時にお赤飯なのかといった理屈が判らない人も多くなってしまっているためか、それを祝い事がある時に用意するという習慣も次第に過去の遺物となってきてしまっています。高齢者にはちょっと残念な気がして仕方がないいでしょう。生活習慣が変わって、米飯からパン食になったこともあるでしょうね。今日はこの赤飯の原点が、赤米(あかまい)というものだったということをお話したいと思っているのです。


まだ米が、今のように豊かに取れる時代ではなかった古代のことですが、一般的には五穀・・・麦、粟(あわ)、豆、黍(きび)、または稗(ひえ)を常食としていた時代のことです。所謂、米というものはとても庶民の口には入らない貴重品でした。しかし、仮に古代という昔々ではあったとしても、何か喜び事があった時それを素直に表現したいと思ったり、表現してあげようと思ったりしたはずです。そうかといって、特別贅沢などというものが出来るはずはありません。ほとんどの人が農民でしたから、苦心して祝い事をするとしたら、農作業にかかわりのあるものでしかありません。そこで登場してくるのが赤米というものです。


ちょっと話が飛びますが、京都には丹波(たんば)というところがありますね。あの丹波という名称は、丹()の波・・・つまり赤い色の波ということで、赤い稲穂が波打っていたことから起こったものなのです。これこそが赤米の原点なのですが、こんな米が誰にも自由に手にすることができるわけはありません。白米同様こうした貴重な赤米は、滅多なことでは手に入りません。それだからこそ貴重な食べ物だったのですが、農民たちはそれを、本当に祝いたいようなことがあった時のために、わずかに備蓄しておいて食べたというのです。つまり赤米はよほどのことがなかったら口に出来ない食べ物だったのです。そのようなことから一般に祝い事がある時には、大事な赤米を食べるという習慣が出来るようになっていったのです。


やがて農作業の技術進展で、米も作られるようになって、わざわざ赤米を生産しなくても、小豆(あずき)を使って米を赤く染めることも覚えました。そんなことから、祝い事がある時には、赤米ではなく小豆を使って赤くした所謂赤飯を出すことになったのです。赤米が滅多に口には入らない、貴重な食べ物であったことから、それに類似した赤飯を祝い事のある時に食することになったのですが、パン食が浸透してしまった昨今では、とにかく隅っこへ押しやられてしまったお赤飯ですが、せめてその原点の意味ぐらいは、知っておいて欲しいと思って書きました。


nice!(0)  コメント(0) 

告知と放談の部屋☆ 放78「新たな世界への挑戦」 [趣味・カルチャー]

  

時代が目まぐるしく変わり、生活もさまざまなことで変化してくると、ものの考え方も変化してきます。ああいう「ベテランはいらない」などというような、無茶苦茶なことを言う者は仕事の世界から排除されてしまいましたが、これでいいという訳にはいきません。私はそういった時代の変化が激しくなってきていた時から、これまでアニメーションという世界で中心的な仕事をしてきましたが、年齢を重ねるに従って大変仕事の展開が難しくなるという予感が払拭することができなくなっていました。それでこれまでやりつづけてきたアニメーションの仕事を一旦お休みにして、活字の世界への道を探ろうとし始めたのです。


1984年は2月テレビの仕事から離れて、奈良県の飛鳥へ取材旅行へと出発したのでした。イラストを描くためのイメージを膨らませて貰うためにも、参考になればと思えるポイントを書き上げた資料を基にして、少しでもまとめて史跡を訪ねたいと思っていました。編集長のA氏・イラスト担当のいのまたむつみさん・話のきっかけを作ってくれたS氏と共に旅立ったのでした。


 新しい世界への第一歩をしるすことになる時の、緊張感と躍動感が知らず知らず湧き上がってきます。奈良へついた時にはすでにハイヤーが準備されていましたので、それを駆使して一日八時間も飛鳥古京の主だった史跡を転々と回って、必要な舞台をこの目で確認していったのでした。


                                    「飛鳥史跡歴訪」1.jpg


  


出版の準備としては、兎に角私の原稿が仕上がらないとすべてが動きません。その日から旧藤川家のあの部屋で、夢中になって執筆の作業に入りました。これまでのアニメーションの執筆とは違った作業の始まりで、この日から家族との日常生活は極めて窮屈になってしまいましたが、今思うとよくあの日から娘たちも良く我慢してくれたと思います。


しかし私も映像の仕事から変わる決心を秘めていましたから、気楽に書ける状態ではありません。一応構想は固めてはいたのですが、そのタイトルについても一巻一巻に特色を持たせたいと思って工夫しましたし、その内容についてもあれこれと試行錯誤しながらスタートの話について構想を固めていったのでした。予定では三月末までに脱稿するつもりで六月出版ということですから、兎に角私の執筆が順調に上がらなくてはイラストを描く準備もできなくなってしまいます。


兎に角何もかも忘れて原稿の執筆にかからなくてはなりません。


 時代が目まぐるしく変わり、生活もさまざまなことで変化してくるとものの考え方も変化してきます。あの某局のプロデユウサーのように、如何にも新しがって暴言を吐く者も出てきたりして、世間の常識人たちをびっくりさせてしまったりします。しかし私は彼を笑って見過ごすだけで無視してしまえばいいとは思いませんでした。彼があのような遠慮のないことをいってしまうのにはそれなりに根拠があると思って、ああいう発言に至った背景を推理しながら、将来に向けた仕事の展開ということを考えると、決して安閑とはしていられない時代が来ているのだと思うようになっていたのです。これまでアニメーションの世界に中心的な仕事をしてきたということについても、かなり真剣に考えて見なくてはいけないと思うようになっていたのです。仲間の中には実力だけあれば心配はないということを言う勇者もいましたが、果たしてアニメーションの番組を書くことに安住したままでいられるのだろうか。つまりサブカルチャーは所詮サブカルチャーに過ぎないということなのです。日本を代表する文化としてしてはあくまでもサブでなくてはならない存在なのだということなのです。日本そのものであるという本質を追及していったものではないのです。その評価が文化の担い手として厳然と確立されてはいません。そろそろアニメーションは次代の時代の感性を掲げた旗手たちに任せて、前の時代の旗手たちは別のカルチャーへ挑戦することを余儀なくされる時がきていると思ったのです。幸いなことに年齢的にはまだまだ若かったこともありますから、新たな世界に挑戦するにしても、気力も体力も充分に立ち向かえるものがあるのです。


 私は四十歳を越えていますが、影像とは真逆の活字の世界へ挑戦し始めたのでした。


 机の下に毛布を潜ませておいて、疲れたらその毛布を退き釣り出して体にかけて休みますが、ほどほどに頭を休めるとまた執筆をつづけるという繰り返しをしながら書きつづけました。


 これまではじめて書き下ろした「さすらいの太陽」ははじめて小説らしい小説を書いた時は、今思いだすだけでも恥かしくなる経験をしましたが、その後はノベライズ作品を含めて、何冊かのSF作品を文庫で書いてきたお陰で、かなり活字作品を書くということが、脚本を書くということとは大分違った修練になっていたのだと思えました。大分気構えが違っていましたので、それが負担になって苦しくなるということはありませんでした。その分今回は版型も新書版という成人向きの作品になるということで、別に勢いづく気分を味わうようになっていました。


 もう余計なことは一切考えないことにして夢中で書きつづけました。


 ゆっくり階下の部屋で家族と一緒に食事をするということは諦めて、握り飯とみそ汁を運んで来てもらって、執筆の勢いを止めないようにしました。


 お陰様でこうした切羽詰まるような作業をしながら、締め切りをほとんど破った事無く大量の作品を書きこなしてきたこともありましたので、小説だからと言ってまったく進行のペースが崩れるということもありません。


 事件が壬申の乱で主人公の父親が戦死するところから始まるということもあって、さまざまな資料を机の周辺に置いて、直ぐに役立ちようにしておきましたが、かつて設定のイラストが次々と運ばれえきて、それに目をとしながら脚本を執筆していたことになれていましたので、特に面倒と思うようなこともなく過ぎていきます。こうした形での原稿の執筆は、テレビの脚本の執筆していた頃と変わりはありません。編集長と約束した締め切りは絶対にはずさないつもりで作業はしつづけていたのでした。


 時々紹介者であったS氏はやって来て立つ団で気分転換をしてくれましたが、きっとそんなことをしながら私の筆に進み具合を探って、「火の鳥」の制作で関係のある編集長のA氏に報告をしているのかもしれません。時々他の作家たちはこんな風に締め切りを引き延ばすのですよなどと、強引にも約束通りに書かせようとする編集との攻防戦を面白おかしく話してくれたりして、私の緊張を解いてくれたりもしたのでした。


そんなことがあるので、編集長のA氏はまったく「調子はどうですか」などと様子を探るようなこともありませんでしたので、静かに書かせておいてくれたのでした。


来る日も来る日も書斎からほとんど離れずに、編集長と約束した締め切りは絶対にはずさないつもりで書きつづけたのでした。


nice!(0)  コメント(0) 

告知と放談の部屋☆ 放76「古代作品が受け入れられるか」 [趣味・カルチャー]

  

これまで映像の世界では、視聴者という見えない相手に向って頑張ってきたのですが、結局今回もまた読者という姿の見えない相手を目指して戦わなくてはならなくなりません。すべては角川書店があの企画を承諾してくれるかどうかです。


 テレビの企画では、時代が要求しているものを敏感に察知して、楽しみながら何か心に残してもらえる話にするのが脚本家です。出版という分野では、これまでの経験がほとんどありませんから、改めて読者がどんなものを待っているのかということを考えても、これで絶対なのだという自信を持つことができません。大雑把にどんなものをやろうとするのかということについては、ある程度充分に編集長には伝えましたが、やがて開かれる最初の編集会議で、A氏がどのようにプレゼンテーションしてくれるのかまったく判りません。もうこの段階からは「宇宙皇子」という作品はA氏の努力次第でどうなるかまったく判りません。もう、私があれこれと想像していたところでどうなるものでもありません。A氏が編集会議で他の担当者たちに、あの企画を納得させることができるかどうかにかかっているのです。どのような結果がもたらされるか判りません。


どちらにしても近々まずS氏に報告されるのを待つしかありません。


 S氏の説明によると、角川書店ではA氏は雑誌部門を担当する編集長ではあるのですが、毎月さまざまな部門の編集長・編集者によって開かれる会議において、それぞれの編集部から来月出版する企画を持った者がやって来て、出版する候補を大雑把に選考して、更に上部の者によって開かれる営業部門の責任者、編集長による会議で生き残らなくてはなりません。しかもその企画の出版が決まるまでには、社長を中心とした重役による会議での選考で決定が確認されなくてはならないというのです。


 それにしてもそれぞれの出版社でも同じような選考が何度も開かれて、その月の数点の出版物が決まっていくのだということを知って、これまでの世界では春と秋にそれぞれの放送局において行われる大きな番組の編成会議に提出された企画が提出されて、番組が編成されることになり、その結果がそれぞれその作品の制作会社に連絡があって、ようやく脚本家には原稿執筆の依頼が来ることになるのですが、かかわり方という点では、今回の出版における場合とは比較にならないものがあるということを実感しました。はじめからその中継経過まで、出版の場合は「あとはお任せ」という訳にはいきません。作家と編集者との連携プレイがどう機能するかがすべてを決するようです。あのA氏はなかなかの頑張り屋ではあるということですが、何度も開かれる編集会議の審査でその難関を突破してくれるだろうか・・・今となっては、素材が古代であるということが、変化しつづける時代の要求に逆行するのではないかという心配があるのですが、敢えてそんな時代を描こうとしている私の企画意図を、会議に参加した関係者が理解してくれるだろうか。暫くはそのことが気がかりではありました。


1983年は本当にさまざまな動きが錯綜していた時代でした。私自身がそのスケジュール表をみると、とても普通の作業ではやりきれないと思うような過密スケジュールになっていました。


       「旧藤川家」1.jpg 「書斎1」1.jpg 「書斎2」1.jpg


当時の旧藤川家の書斎あたりはこんなものでしたが、この書斎で机の下に毛布を置いておいて、眠くなったらそれを引っぱり出してかぶり、目が覚めたらそのまま起き上がって書きつづけるといった状態だったのです。


布団にネル時間はほとんどありませんでした。


 その間に映画の制作に入ったカナメプロのみなさんは、着々と制作を進めていたのでした。私の制作はスタッフがみな若手とはいってもかなりの実力者が揃っていましたし、それにさらに他からも実力者が参加してくれたので、それをどうまとめていくかは、ほとんど監督の湯山邦彦氏に託してあります。「ウインダリア」の制作は順調に進められているようでした。


                                          「ウインダリア設定」1.jpg


 こんな最中に、どういうプロセスがあってそういった結論に達したかはまたあとでお話をするとして、我が宇宙皇子」は編集会議の最期の難関といわれる社長・副社長、各セクションの局長が加わった会議にも、社長の決済が出て出版の許可が出たという知らせがありました。もうこれで「宇宙皇子」の出版は決定的になったようです。


1983年の年末近くのこと、私は狂喜してA編集長の報告を聞きました。


 予定は来年の六月の私の誕生日を目指して作業を行うということになったのでした。


 私は兎に角話の舞台になる飛鳥の地を取材したいという提案をしてあったのですが、この段階になって正式に許可が出て、角川書店にあるトラベルの担当者が私の取材したい史跡のリストに基づいてスケジュウルを決めて手配しておいてくれました。来年の二月に出発するということになりました。「プラレス3四郎」以来の付き合いになったカナメプロの社長から、兎に角いのまたむつみがアニメ界から去らないようにしたいので、何か仕事を与えて貰えないでしょうかというかなり真剣な相談を受けていたこともあって、彼女を「宇宙皇子」のイラストレイターとして使いたいという申入れをしたのです。まだ業界ではほとんど無名に近い彼女でしたが、私はその感性が時代の要求に合うと考えたので、すでに編集長には申し入れて許可を貰っていましたが、彼女を紹介するいい機会になると思って、取材には彼女も同行して貰うことにしました。


 いよいよこれまで温めてきた「宇宙皇子」という作品の企画は動き出したのです。数えてみると、やがてこんな話を書こうかと考えた時から、さまざまな紆余曲折を経験しながら何と八年近くも経過していたのですが、ようやく長い年月を経て念願の小説を書くという状態になったのです。


 これで年末はじっくりと話の展開を含めて考え直してみようという余裕さえも生まれました。ところがそんなところへ、一寸気になる話が飛び込んできたのです。


 秋の番組の編成期に、春スタートになる番組が審議される頃のことですが、某テレビ局の部長が、「新たな時代の到来に向けて、もう四十歳を過ぎたアーティストは作業からは退くべきだ」などと、遠慮のない激しい口調で公言してきたというのです。


 激しい時代の変化を背景にして、思いきったことをいったつもりなのでしょうが、あまりにも配慮のない暴言です。たちまちさまざま文化関係の業界界から、その発言についての抗議の声がくすぶり始めたようです。


 私にとっても四十歳を過ぎた頃のことです。


 時代が大きく変化していこうとしていることは間違いないけれども、時の変化に便乗してかなり勝手なことをいう奴だなと、激しい苛立ちを感じていたところでした。


そんなところへ東映動画のYプロデユウサーから久しぶりに電話があって、春から始まる番組に力を貸してもらいたいという依頼があったのです。それが何ということか、このところ問題発言の原点となっているあの某局の番組だったのです。


nice!(0)  コメント(0) 

告知と放談の部屋☆ 放75「編集長きたる」 [趣味・カルチャー]

  

これまでテレビでは、確かにテレビではあまりSFファンタジー作品を発表しつづけてきてしまいましたから、視聴者は食傷気味になっていたのでしょう。すっかり飽きられてきています。それに楽しめる作品に熱狂してくれる世代もこれまでとは変わってきているのです。みなそっぽを向き始めているのかも知れません。そんな風潮を敏感に感じていましたので、私は現代のSFにも通じるような役行者という超能力者を使って、これまでの歴史上の人物としての捉え方とは違った人物として登場させて、その行者を師として仰ぐ少年を設定することにしました。しかも彼は時代の転換期であった壬申の乱の戦乱によって父を失うという厳しい運命を背負った子です。つまり時代の荒波に揺さぶられている少年を設定したのです。現代という時代の波に揺さぶられている、若者が体感しているような感覚に通じる体験していくようにしておきました。しかしそれでも新しいものに興味を抱く若い人にとってはあまりにも違う世界が舞台です。果たしてそんな作品を角川書店は受けつけてくれるでしょうか。久しぶりに不安がこみ上げてくるのでした。


 さまざまな推測をしているうちに、意外にも早く角川から編集長がやって来るという連絡が入りました。しかしこれまでまったくお付き合いがない出版社です。しかもあの頃は、かなり作品の展開に大胆なことをするということも話題があって、社長の角川春樹氏の意欲的な事業展開にも話題があって注目されていました。発売する小説を素材にして映画化することで、その宣伝も兼ねて書籍も販売促進をするという、他の出版社ではやらない手法で営業をしていました。その最中のことだったのですが、S氏に話をしてから一週間もたたないうちに編集長がやってくるというのです。動きも早いのだなと思ったりもしました。「宇宙皇子」についてはどんな受け止め方をしてくるのだろうかと、多少緊張して待ち構えているとこへ、編集長のA氏は自動車を運転してやって来たのでした。勿論その日はS氏が付き添ってきたのですが、いきなり自己紹介をして落ち着いたところで、乗用車の助手席に乗っていたS氏は、その車内には様々な日用品の小物が雑多に放り込まれているので、それをどけながら座るのに苦労したなどと冗談風に話し出したので、編集長も思わず苦笑してしまい、それをきっかけにしてたちまち砕けた雰囲気になってしまいました。A氏もS氏の冗談めかした社内の机の上の混乱を否定もせずに自ら認めて話す気さくさで、所謂編集として構えたようなところもありませんでした。用心していた私はそんな彼の雰囲気にすっかり緊張感を失っていました。勿論私についてはS氏からレクチャーも済んでいましたので、その日はまずA氏の作業についての説明に大分時間を割くことになりましたが、どうやら現在担当しているのは所謂角川書店でもさまざまなエンターテイメントの雑誌やアニメーションなどを扱う分野が中心で、いわゆる通常の小説が中心ではなく、会社ではどちらかというと傍系の作業になるかもしれません。勿論、小説も出してはいるのですが、あまり世間的に評判になる作品ではないようです。そんなところであの「宇宙皇子」はどういう小説として受け止めて貰えるのだろうかと、多少不安も含めて興味を持っていました。私の希望としてはいわゆる文庫ではなく、親書版という新たに成人向きに起こした判型を狙っていたのです。これまでどうしても若い人を中心とするということで考えると文庫で気安く買える廉価なものが中心となってしまうので、今回はもう一寸大人の人に読んで貰いたいという気持が会って、敢えて判型についての申し入れをしたのです。


 A氏はそれに対して、特別拒否をするようなことがなく、「そうですか。わかりました」といって聞いていてくれました。あらかじめ用意していた「宇宙皇子」の構成表を出して、その内容について、どんな内容のものを、どう展開していきたいのかということを説明していきました。


                            「宇宙皇子構成1」1.jpg 「宇宙皇子構成2」1.jpg


   日本の古代史を背景にした面白さを説明していったのですが、編集長は興味深そうに頷きながら特にそれに対しての反論もなく、私の狙っている世界の魅力というものを聞き止めていこうという様子で、時々感心しように「ああ」とか「ほう」とかという相槌で応じてくれていました。構想についてかなり詳しく説明したように思うのですが、流石に現代の先端をいくような分野の雑誌や、趣味を楽しみ人のための雑誌を手がけているA氏です。本当のところはどうなのでしょうね。かなり興味深く聞いてはくれてはましたが、どこまで理解して訊いてくれていたのか一寸不安になります。やがてA氏は「検討してみます」という返答を残して帰ることになったのでした。


 後に残ったS氏と私はそれから暫くの間、A氏の反応についての分析をしていました。結局どう推理をしたところで、何度も開かれる編集会議であの企画が承諾されなくては、出版という手はずには到達できないという結論になって、その日の話はそれで終わることにしたのでした。A氏との会見の手はずを整えてくれたS氏とは、それまでほとんどお付き合いのあった人ではなかったのですが、なぜかこの日を境にして不思議な連帯感が生まれたような気がしてきたのでした。


 A氏はかなり営業を担当する社長の弟さんの副社長に近い人で、かなり積極的にさまざまな仕事にかかわって頑張っているというので、認められているということなのですが、彼の日常についての噂はかなり常識を超えたものがあるようです。兎に角自家用車を駆使して走り回っているので、いつ自宅へ戻るのかもはっきりとしないほどだといいます。それを証明するように、自動車のトランクにはそのまま車で寝てし待ってもいいように、日用品をすべて積み込んでいるという名物編集長です。


 考えてみると、影像の世界にもそれに近いプロデュウサーがいました。


 東映本社の特撮作品の原作者としても名を知られているH氏で、彼も愛車のトランクに日用品をすべて積み込んで走りまわっていたようです。この頃最前線で仕事をしていた人たちは、みな同じように大変な思いで動きまわっていたのです。しかし今回例に挙げたA氏とHはやはり異例の人として書き止めておいてもいいのではないかと思って書きました。


余談になってしまいましたが、A氏は特に私の説明を聞いて感動したとか、納得したとかいう反応もせずに、「判りました。そのうちお返事いたします」そう言って帰っていったのです。そんな彼の反応の様子から、S氏にはそれほど悪いものではなかったと受け止めたようです。兎に角「宇宙皇子」の運命はA氏に託したのです。結果はどうであろうと、そのうちS氏を通して返答があるはずです。


半分楽しみ、半分心配の気持ちで、その日はS氏とも別れたのでした。 


nice!(0)  コメント(0) 
- | 次の20件 趣味・カルチャー ブログトップ