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嵯峨天皇現代を斬る その十一の四 [趣味・カルチャー]

   第十一章 「落書きの真意を知るために」(四)


    課題「帝も知っている童謡(わざうた)


 最近の落書きを見ると、ただ悪戯がしたいだけであって、古代のように主義主張があるものは、ほとんど見あたりません。古代のものにはかなり真実を訴える文学的な資質もあったように思えてなりませんが・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁十二年(八二一) 


発生した問題とは


 「弘仁八年、九年には水害・旱害があり、穀物が稔らず、官の倉庫も次第に空洞化してしまった。弘仁九年の公卿の報告によると、しばらくの間五位以上の者の俸禄の四分の一を割き、公用に充てるようにしたが、現在、五穀がよく稔り、国の支出を支えることが可能である。俸禄などの数を旧例に戻すべきである」(日本後紀)


 昨年のことです。天皇が災害について思うことをお話になると、それに対して公卿は、次のような返答をいたしました。 


 「私たちは、臣らが議定して削減した俸禄等を、みな恩旨により旧例に復することになりました。伏して陛下の御膳も同様に常例に復しますことを要望いたします」(日本後紀)


 弘仁九年に四月に、天皇と皇后の用途に充てる物品や日々食事を省減した記録がある。


 状況に応じて天皇もその日常にも気を使っていることが判るのです。しかしいつの時代にも、庶民の感覚と為政者の感覚にはずれがあって、すべてについて満足などということはあり得ないようです。嵯峨天皇にしても、常に民のための為政を行なおうと努めていかれる方なのですが、それでも中には、皮肉をいってみたくなる者はいたようです。


「宇治拾遺物語」や「江談抄」にも紹介されているのですが、文人政治家といわれるだけあって、嵯峨天皇には文筆関係の方とのお付き合いもかなりありましたが、そんな中の一人である小野岑守が、ある日天皇には思いがけないお願いをしてきたのです。岑守の子息である篁が、十代の頃に蝦夷討伐に遠征する朝廷軍に加わってから、それ以来戦うことにばかり興味を持って弓馬に夢中で、すっかり大学の文章生であることを忘れてしまったような毎日だというのです。まったく学問に勤しむということがなくなってしまっているので、岑守は天皇からお叱り頂けないでしょうかというのです。そこで天皇は直ちに篁を呼び出して、様々な問題を繰り出すのですが、篁はまったく動揺するようなこともなく答えてしまうのです。そこで天皇は、これは答えようがないだろうと、意地悪な問題を出します。


内裏に立てられていた木片を取り出されると、「無悪善」という落書きを差し示めされて、それを読むようにおっしゃられたのです。


恐らく篁はそこで息を飲んでしまうのではないかと、その表情を見つめていらっしゃいます。ところが篁はまったく表情を変えるようなところもなく、即座に「サガなくてよからん」と読んだというのです。


為政者はどう対応したのか


 実はこのころ、世の中を諷刺したり批判したりするようなことがかなり多かったのですが、それもその落書の一つだったのでしょう。天皇はそんなものまでも、しっかりと集めていらっしゃったのです。篁はそれに対して、実に機知に富んだ返答をしたのです。つまり悪をサガと読むのと、天皇の嵯峨という名とを重ねて答えたのです。普通であったら、天皇に対する不敬な返答でお咎めを受けても仕方がないところです。しかし帝はそれにはこだわりませんでした。


 嵯峨天皇も在位十二年にもなります。


 最近時期はずれの大雨があって河水が氾濫して災害をお越し、河内国で被害が大になっている。秋の稼ぎがこれによって損なわれ、そのため人民が苦しんでいる 


「朕は今被災地を通過して、状況を目にして、悲しみを増している。人民にいったい何の罪があろうか。損害を被った諸郡に三年の課税免状を行なえ。最も貧しい者に対しては、去年貸し付けた出挙租税の未返済分と今年の租税を免除せよ。山城・摂津両国は、国境が入り込み、河内国と接している。河内国で起きた反乱の被害は両国でも起きているに違いない。水辺の百姓で、財産を流失した者は今年の租税を出すに及ばない。三国共被害を受けた貧窮の者には、事情に応じてものを恵み与えよ」(日本後紀)


苦闘していらっしゃったのですが、庶民にとっては皮肉もいってみたくなる日常だったはずです。普通ならそのような者は無視するか、破棄してしまうはずなのですが、それも民の声として受け止めていらっしゃったのです。あの落書きにしてもその一つだと思うのですが、現代の為政者に対して、洒落た短文で痛烈に批判するような者は出て来ないでしょうか。


温故知新(up・to・date)でひと言


 在野の立場からの、政府に対する激しい批判。為政者や行政に対する民間の厳しい批判を「草茅危言(そうぼうきげん)と言いますが、先ずは「千思万考(せんしばんこう)です。いろいろと考えを巡らす必要があります。それはあくまでも「黄絹幼婦(こうけんようふ)でなくてはなりません。黄絹は色糸であるから、この二字を偏と旁に置くと「絶」の字になる。また幼婦は少女で、この二字を偏と旁に並べると、「妙」の字になる。「絶妙」の意味です。この意味を判読したことも見事ということですが、このように批判された本人も、思わず唸ってしまうようなものであって欲しいものですね。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言33 [趣味・カルチャー]

「須佐能尊」

  須佐能尊(すさのうのみこと)に関しては、様々な調査研究があって、それこそ様々な話が伝えられています。その分だけこれが最も正しいということも言い難いのですが、日本の歴史資料である「古事記」「日本書記」という代表的な史書でも、すべてが間違いないかどうかというと、須佐能尊の略歴を書くにも大変困難が伴ってしまいます。

  私はこれまで彼が記録した足跡を整理しながら、おおむねこのような方であろうと思って、その足跡をまとめてみました。

  天照大神に対する非礼な行為があったということで、天上界から追放されることになってしまうのですが、その時から須佐能尊はかなり破格の性格をお持ちの神であったようです。彼が追放されて去っていくのに合わせて雨が降ったり、風が吹いたりして、水霊神としての奉仕をしたり、やがてやって来た出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、クシナダヒメを娶って宮づくりをしたり、「八雲立つ・・・」という祝婚歌を歌っての豊穣神としての働きを示したりしていきます。しかしこんな働きの中でも一寸変わっているのは、備後風土紀に書かれる蘇民将来(そみんしょうらい)の主人公である武闘神は・・・客人(まれびろ)神の須佐能尊だと名乗っていたようで、どうも異国の神めいた客人神のような性格を持っていらっしゃったところもあるようです。

  実に複雑で、農神、疫神として新興する者も多く、この神を祀る祭事は大体夏祭りを主にしますが、あの京都の八坂の牛頭天王(ごずてんのう)発祥は韓国の神で、疫病を封じる力のあるなのですが、それも須佐能尊であるとも言われているのです。天王(祇園(ぎおん))系の祭りの中心は疫神送り、御霊信仰によるものです。そして夏祭りは春・秋の祭り(氏神)系の祭りとは違って、山車・鉾・風流ものなど派手な祭りであるのが特徴です。

  貴族の祭りである葵祭に対して、疫病を封じる祭りである祇園祭はそれを願う庶民の祭りとして、今でも盛んに行われていますね。その神は何と須佐能尊なのです。

興味深い神ですね。


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嵯峨天皇現代を斬る その十一の三 [趣味・カルチャー]

   第十一章 「落書きの真意を知るために」(三)

    課題「衝撃の記憶」

 誣告(ぶこく)といわれる事件は、おおむねその真相を突き止めることもなく、うやむやになって消滅してしまうことがほとんどでした。訴えといっても、すべてが真実とは言えない時代でした。

為政者・平城天皇

大同二年(八〇七)十月二十八日のこと

発生した問題というのは

 平城天皇が即位した頃、祖霊桓武天皇時代から、政庁でその実力を評価されて天皇からも大事にされていた伊予(いよ)親王は、藤原氏の中で南家に属するために、同じ藤原氏の北家に属する者にとっては邪魔な存在でした。祖霊の死後即位した平城(へいぜい)天皇を支える主要な人物でしたが、十月下旬のことです。すっかり注目を浴びる存在となってきていた伊予親王について、突然いやな噂が流れ始めたのです。彼の家人である藤原宗成という者が、親王に対して謀反をそそのかしているということを、伊予の母吉子の兄である、大納言の雄友(おとも)のところへ密告してきた者がいたというのです。それはただちに右大臣の内麻呂に報告され、それは間もなく帝の耳にも入り、皇太子の神野(かみの)にも伝えられました。

いつかこんなことが・・・と思っていた不安が、ついに現実のものとなってしまったのです。先帝の足跡を辿る作業の中でも、その時代その時代できわめて重要な存在であった、皇后井上(いのえ)内親王、皇太子他戸(おさべ)親王、早良(さわら)親王が、疑いをかけられたままそれを晴らす機会も与えられずに、断罪されて悲劇的な死を遂げてしまった前例があるのです。

(伊予親王に危機が・・・)

神野は驚愕で体に震えがきましたが、皇太子が動き回るようなこともできません。

伊予はただちに天皇に釈明をいたしました。

宗城が私に勧めたのは己の立身出世のためであって、私のためでもなんでもないと真摯に釈明をいたしました。しかしそれは認められず、二日後には左近衛府へ捕らわれた宗城が、謀反の首謀者こそは伊予親王その人なのだといいはりつづけたというのですそれを知った天皇は一気に怒りを爆発してしまわれて、皇族で侍従であった中臣王(なかとみのおう)を捕えると、伊予と共に謀をしたのではないかと疑い、厳しい詰問と拷問を指示して取り調べを行わせたのです。容赦なく大杖で打たせつづけさせたために、彼の背中はただれて、ついにはこと切れてしまったといいます。

為政者はどう対処したのか

 朝廷は左近衛中将(さこのえちゅうじょう)安倍(あべの)兄雄(えお)左兵衛督巨勢野足(さひょうえのかみこせののたり)と共に百五十人の兵士を送って、伊予の邸を包囲すると、母の吉子ともども逮捕してしまいました。しかし取り調べにあたった兄雄は、帝に対してかなり伊予の潔白を論じたといいます。ところがこれまでの習性で、一度疑いをかけられると、それを覆すことはほとんど叶わないのが通例です。母子は十一月二日に、大和の川原寺へ幽閉されてしまうと、一切の飲食も許されないまま、緊迫した時を過ごした後、十一日には帝が結論を下して事件の関係者の役職を解き、伊予については親王の称号を廃号として、祖霊桓武天皇の陵に報告したというのです。

衝撃的な事件でもあったことから、平城天皇は即位後の大事な儀式である大嘗祭(だいじょうさい)を中止されました。その報告が川原寺へ伝えられた翌日、二人は名誉を守るために、夜明け前に近くの法興寺(飛鳥寺)、橘寺から打ち鳴らされる鐘の音を、この世の別れと聞きながら毒をあおって自害してしまったということでした。

 それにしてもあまりにも誣告による訴えから起こる事件が多すぎます。しかもいったん怪しいと思われてしまうと、どう釈明してもそれを払拭することはできなくなり、最後は自らの名誉を守るために自殺するという結末を辿ってしまうことになるのです。現代の問題として取り上げるにはそれなりに意味があるのではないでしょうか。事件の取り調べで冤罪(えんざい)といわれるものもかなりあり、社会の関心も高いのですが、せめて古代のような誣告のために犠牲になるようなことが起こらないようにしたいものです。果たして現代では、このような事件は皆無ということができるのでしょうか。

 現代ではもっと巧妙な手立てで、権力を奪う熾烈な戦いが行われているかもしれません。

温故知新(up・to・date)で一言

 真相追及の目は閉じてはいけないということです。古代のようにいつの間にか真相追及の声が鎮まり、やがて事件についての関心が消え失せてしまうようなことにはしたくありません。現代でも事件をうやむやにしてしまうようなことがかなりありました。世の中には、「権謀術数(けんぼうじゅっすう)に長けている者がかなり存在しています。口先ではうまいことを言うが、内心では悪い心を抱いている綿裏包針(めんりほうしん)という言葉があります。つまり柔らかい綿の裏に鋭い危険な針を包んでおくように、巧みに人を欺くはかりごとが横行しています。しかし市虎三伝(しこさんでん)といって、事実でないことも多くの者が言うと、いつか信じるようになってしまうもののようです。そんな加害者にならないという自信を持って生きて貰いたいものです。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆お知らせ10 [趣味・カルチャー]

                                                       「原稿執筆中」1.jpg


  「ブログの更新について」

 台風7号の動きに注目していたのですが、どうやら台風は関西方面を直撃して日本海へ抜け出ていくようです。関係ウする地域のみなさんは、充分に用心して頂きたいと思いますが、幸い関東地区からは警戒が薄れましたので、十八日から二十七日まで、夏休みを取らせて頂くことにいたしました。

 そのために二十日、二十七日の日曜日の更新を、ちょっと早目ですが、本日行わせて頂くことにいたしました。

 台風騒ぎもあって落ち着きませんが、時間が取れましたら、是非ご覧ください。

        ☆☆☆☆☆☆☆

 もう一つお知らせがあります。

 現在放送作家協会が公開している作家がリレーでエッセイを書くというブログを行っておりますが、九月に小生に原稿を提出して欲しいといういらいがありましたので、早速提出いたしました。いずれ正式に掲載日が決まりましたら、改めてお知らせをいたします。

 その節はよろしくお願いいたします。

                      藤川桂介

 

 

令和五年八月十六日

 


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嵯峨天皇現代を斬る その十の二 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()


        課題「働く技術の教育」


弘仁六年(八一五)といえば嵯峨天皇即位から六年を経過しています。


嵯峨天皇が文人政治家として古代では異色の為政者であるといわれるのも、格差は当たり前といわれている時代に、底辺にある人々の救済を、教育ということで行おうとしたことではないだろうか・・・。


 この年は嵯峨天皇の臣籍降下という衝撃的な発表があり、国の財政逼迫という問題を、何とか解決しようとし始めていたところです。これが臣下から発案されたものでなく、天皇自らに行われたことに意味があったと思います。


 そのへんの事情についてはすでに第四章「隠れた事情を突き止めるために」「その一」「税制悪化で臣籍降下」で詳しく紹介していますので、天皇の人間性に触れるためにもご覧いただくことをお勧めいたします。


天皇はその後で、為政というものはあくまでも身辺の者の協力なしではなし得ないとおっしゃって、これまで夫人(ぶにん)という身分であった橘嘉智子(たちばなかちこ)を皇后として迎えることにしたのです。如何に時代の困難を乗り切ろうという天皇の気持ちがはっきりと表れています。しかしこれまでの天皇で、女性の立場を認め、その存在感というものをはっきりと宣言なさったのは、異例のことであったのではないでしょうか。これでは公卿たちも真剣にならざるを得ません。天皇は為政の思いを貫くために、あらためて朝議(ちょうぎ)において廷臣たちにこうおっしゃったといいます。


「天が人民を生じ、役人をおいて治めるのは、財物を豊かにして役立たせ、天下に教化を達成するためである。そこで朕は、人民の落ちぶれた状態を救おうと思い、夜明けに到るまで務め、農民が豊作を喜び、婦女が憂えなく、機織(はたおり)できる方法を考えている。しかし、去る五月から洪水が続き、田畑は耕作できなくなっている」(日本後紀)


為政者・嵯峨天皇


弘仁六年(八一五)七月二十五日のこと


発生した問題とは


 百姓が苦しいといっているのに、為政を行う者が、それを無視することはできないと考えられた天皇は、左右京と畿内の今年の田租は、停止すると命じられるのですが、天候は不安定で、日照りが続いて難渋させられたかと思うと、今度は真逆に長雨がつづくようなことが起ってしまいます。言うまでもなく天皇は、その度に伊勢の神、賀茂の神に使者を送って奉幣(ほうへい)して安穏を祈りました。そして更に百姓たちの働くきっかけとなるような施策も発表いたしました。


 「六年ごとに班田することは、条令(田令)で定められている。これより六年間隔で、諸国が一律に班田すべきであるが、大同以来疾疫が起るなどして、規定通りの班田が出来なくなっている国が多い。適法の看点から、あってはならない事である。そこで、遅れて班田した国が六年の間隔を充たすのを待って、全国で一律に校田と班田を行え」


(日本後紀)


 天皇から指示が出た以上は田の作り方も、時に応じたやり方で工夫しなくてはならなかったでしょう。


ところがすぐに天皇は、また新たな発表を行います。


 「畿内・近江・丹波等の諸国では年来旱害が頻発し、稼苗(かびょう)を被っている。他方、罪で処刑されたあと旱魃(かんばつ)に悩まされ、能吏百里崇(ひゃくりすう)が旱天の徐州(じょしゅう)刺史になると、甘雨(よき雨)が降ったと伝えられている。これにより、禍福は必ず国司によることがわかる。今後、日照りとなったら、国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、()れ汚すことのないようにせよ。もし、効果がないときは言上せよ。以上を恒例とせよ」(日本後紀)


古代ですから神仏を大事に扱わない手はなかったでしょう。


まだ即位してから五・六年というわずかな治世でしかありませんが、先帝の平城天皇とは違った為政の在り方というものを印象づけたくても、まだまだ何もかも整理しきれないことばかりです。


為政者はどう対処したのか


 この時の嵯峨天皇は徹底していました。


 それについては、第四章「隠れた事情を突き止めるために」「その二」「皇室費用削減は真剣か」に、天皇の徹底した姿勢を明らかにして、臣籍降下がただ単に思いつきではないことを証明されました。かつては親王として暮らしてきた人にも、働くということを実際に体験する機会を与えたことが紹介してあります。


国を統治する者としての課題もあまりにも多い状態でしたが、十月も終わろうとするある日、天皇は身近に見かける皇族、公卿たちの規律について、放置していると乱れるのが気になりました。


天皇は国の財政を立て直すために、本来の身内の方々を、臣籍降下という大胆なやり方で実行しましたが、それは同時には親王をはじめ皇女に、はじめてどう生きることになるかということを学ぶ機会を与えたに違いありません。


これまでとは違った暮らしのあり方を、それぞれ模索しなくてはならなくなったように思います。


新たな指示に関しても、天皇にはそれなりに思うことが秘められて谷違いありません。


衣裳についても、親王・内親王・女御および三位以上の者の嫡妻(ちゃくさい)(本妻)とその子は蘇芳(すおう)の色と象牙の刀子(とうす)(古代の小型の刀)の着用を許可することとか、六位以下の者は、金銀を用いた装飾をしてはならない。内親王・孫王(そんおう)(二世女王)・女御(にょうご)以上の者・四位以上の内命婦(うちみょうぶ)・四位参議以上の者の嫡妻とその子および大臣の孫は、みな金銀を用いた装車に乗ることを許可するが、ほかはすべて禁止するといった命をいたします。


厳しくなった分、これからの暮らしをどうすればいいかということなど、改めなくてはならなくなったのですです。


現在五畿内といわれる大和(やまと)山城(やましろ)河内(かわち)和泉(いずみ)摂津(せっつ)だけに限っても、絶えず旱魃という飢饉に遭遇していて、その手当に腐心しなくてはならない状態にあります。


宮中であろうと官衙であろうと、気持ちを引き締めていないと、どこからほころびが出てくるかもしれません。年も押し詰まる十一月のある日のこと、天皇はこれまで諸国の国司の任期は六年となっていたものを、いきなり四年といたしました。


働き方を考えなさいという、天皇が投げかけた問題だと思います。


あまりにも想定外のことで国司たちはみな困惑してしまいましたが、まだ任期があるからといって、のんびりとしている彼らの気持ちを、引き締めようとされたに違いありません。


勿論天皇がその働き方を行使なさいと言っているわけではありませんが、現代人としては、こうした話につけて、ある問題提起であると受け止めないと、まったく意味がなくなります。


兎に角古代であっても、天皇の提示されたことについては、どうすれば叶うのかということについて考えたに違いありません。


今回敢えてこのような問題を持ち出したのは、現代にも通じる問題提起になるのではないかと思われたからです。経済的な引き締めということは充分に納得できる処置ですし、高所得者の引き締めについても納得ですが、何といっても弱い立場にある者に、生きる術を持たせようという配慮があることに、これまでの為政者とは違った提案であったということなのです。


これまでのんびりとして暮らしてきた方々にも、暮らし方を工夫しなくてはならなくなり、昨今は自分にとって適職ではないと判断すると、あっという間に転職してしまう時代になっていますが、そんなことをしてもアルバイトで暮らしを繋ぎ、適職探しに時間稼ぎをする者の姿を見ますが、それはまさに現代を生きる者の余裕というものです。


天皇が文人政治家として古代では異色の為政者であるといわれるのも、格差は当たり前といわれている時代に、底辺にある人々の救済を、教育ということで行おうとしたことです。果たして現代の若者の余裕のある適職探しについて、どう受け止めればいいのだろうか。そのためにただ自分に甘い判断をして、自由な時間を過ごしているだけの者はいないだろうか。思うようにならないからと言って、それで犯罪を引き起こすというのは、まったく理解できません。


温故知新(up・to・date)でひと言


為政者はあくまでも「呉下阿蒙(ごかあもう)」といって、いつまでたっても学ぶことの進化のないということをいうのですが、それではいけませんね。何事も必死でことに当たらないと達成できないという「射石飲羽(しゃせきいんう)」という言葉の意味を噛みしめて、目標について立ち向かってみましょう。間違って大して努力もしないで、「富貴浮雲(ふうきふうん)」という、地位や財産を得て安住するという夢などは見ないようにいたしましょう。「謹厳実直(きんげんじっちょく)」でなくてはなりません。無心で目標に向かって努力することです。


 


 


 


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「嵯峨天皇現代を斬る」「参考図書」 [趣味・カルチャー]

「日本書紀」上(中央公論社)

「日本書記」山田英雄(教育社)

「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)

「女官通解 新訂」浅井虎夫     (講談社学術文庫)

「官職要解 新訂」和田英松     (講談社学術文庫)

「古今著聞集」日本古典文学大系      (岩波書店)

「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)

「四字熟語の辞典」真藤建郎    (日本実業出版社)

「四字熟語辞典」田部井文雄編      (大修館書店)

「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所     (三省堂)

「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)

「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)

「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)

「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書

)

「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)

「遣唐使全航海」上田雄(草思社)

「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)

「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)

「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)

「壬申の乱」(新人物往来社)

「日本の歴史 2」古代国家の成立 直木孝次郎(中央公論

社)

「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)

「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)

「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)

「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)

「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)

「大覚寺文書」(上)大覚寺資料編集室(大覚寺)

「大覚寺」山折哲雄(淡交社)

「宇治拾遺物語」日本古典文学大系 

「続日本紀」(臨川書店)

「新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)

「大覚寺 人と歴史」村岡空(朱鷺書房)波書店)


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆言32 [趣味・カルチャー]

「ビヤホール誕生」

 夏になると直ぐに思い出すのはビヤホールです。

 仕事の帰りはいうにおよばず、一寸立ち寄りたくなってしまいたくなるところです。しかしこうしたビヤホールが日本に誕生したのは、いつ頃だったのだろうかと調べてみる気になりました。

実は明治32年8月4日に、ビヤホールが誕生したという広告が出たようです。

「今般欧米の風に倣い、8月4日改正条約実施の吉辰を卜し、京橋区南金六丁目五番地(新橋際)においてビール店BEER HALLを開店し、常に新鮮なる樽ビールを氷室に貯蔵致置、最も高尚優美に一杯売仕候間大方諸彦賑々しく御光来、恵比寿ビールの真味を御賞玩あらんことを願う。売価半リーテル 金拾銭 四半リーテル 金五銭 日本麦酒株式会社」

こんな広告です。

まだこの頃、ビヤホールという名前がありませんでしたから、会社ではかなり迷ったようです。そんな苦心の末についに誕生したのがビヤホールという和製英語だったということです。この年には資生堂からは、はじめてアイスクリームが発売されたということもあったようで、どちらも夏では忘れることの出来ない、飲食の代表と言っていいのではないでしょうか。不快指数80を超えると厚さから逃れるために、ビールやアイスクリームが特別な嗜好品になるようで、それは現代でも充分に通用する話ですね。


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嵯峨天皇現代を斬る その十一の一 [趣味・カルチャー]

     第十一章「落書きの思いを知るために」(一)


       課題「藤原雄田麻呂の画策」


    課題「策士あり」


あまり聞こえはよくありませんが、策士ということがよくいわれます。判りやすい言葉で言うと、やり手ということでしょうか。一般的には気の許せない人ですが、時にはそういった人があって、困難な状況が突破できるということもありますね。


為政者・光仁天皇


宝亀元年(七七〇)八月四日


発生した問題とは 


宝亀元年(七七〇)のころのことです。


 女帝の称徳(しょうとく)天皇の体調がひどく悪くなっていたこともあって、群臣たちの間では、やがて践祚(せんそ)することになる皇太子を誰にするかということで、密かに激論が交わされていました。


 天武天皇系から候補を立てようとしていらっしゃる右大臣吉備真備(きびのまきび)に対して、天智天皇系の大納言白壁王(しらかべおう)を推していらっしゃる左大臣藤原永手(ふじわらながて)、内大臣藤原良継(ふじわらよしつぐ)が対立してしまって、なかなか決着がつきそうもありません。しかし結局は、結束して迫る藤原氏の勢いには勝てずに、真備は敗退してしまったのです。そうした朝廷内での激しい主導権争いが行われている間に、さまざまな人脈を使って奔走していたのが、同じ藤原一族の雄田麻呂(おだまろ)という人物でした。彼にはかなり豊富な人脈があったようで、和気清麻呂(わけのきよまろ)という人物もその中の一人でした。彼は吉備国美作(みまさか)の下級官人であったころ、播磨(はりま)国県境の坂越(さこし)というところで、飛鳥から蘇我入鹿(そがのいるか)に追われて逃げてきた、秦河勝(はたかわかつ)と出会っているのです。その清麻呂の人脈は雄田麻呂の暗躍に、かなり活かされていたのではないかと思われるのです。


 このころ巷では、世相の風刺歌といわれる次のような童謡というものが歌われていました。これは現代でいいますと、日常の鬱憤を晴らす落書きのような落書きだったのですが、このころのものは現代の町の中で見かける落書きとは違って、世相を反映した庶民の心情を訴える鋭い主張があって、かなり広がりがある庶民の共感を得た伝達手段でもあったのです。影響力ということでは、現代のそれとは大きな差がありますが、それは大変的を射たものが多かったように思います。


 葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや


 おしとど としとど


 桜井に白璧しづくや 好き璧しづくや


 おしとど としとど


(葛城寺の前だろうか 豊浦寺の西だろうか 桜井の井戸に白璧が沈んでいる 好い璧が沈んでいるよ)


 然すれば 国ぞ昌ゆるや 吾家らぞ昌ゆるや おしとど としとど


(そうすれば 国が栄えるか われわれの家が栄えるだろうか)


 この時白壁王の妃は、聖武天皇と光明子の皇女であった井上(いのえ)内親王であったので、識者は「井」というのは井上内親王の名のことであり、「璧」とは天皇の(いみな)のことだと指摘しています。恐らくこれは、彼が即位するであろうということを風刺したものであったのでしょう。


 称徳天皇は八月四日のこと、五十三歳で崩御してしまわれましたが、その日先帝の遺言によって直ちに皇太子となられた白壁王は、さらに十月一日には即位なさって光仁(こうにん)天皇となられたのです。


 後ろ盾を失ってしまった道鏡(どうきょう)坂上刈田麻呂(さかのうえのかりたまろ)様の讒言(ざんげん)もあって、造下野国薬師寺別当(べっとう)として平城京から追われてしまい、宝亀二年(七七一)には、天武天皇系の後押しをしてこられた右大臣の吉備真備も引退させられてしまいます。その結果これまで朝廷を支配してきた、天武天皇の縁者たちによる影響力は排除されてしまい、天智天皇の縁者による為政の形が整えられていったのです。 


為政者はどう対処したの 


 圧倒的であった天武天皇系の皇統は、ここで天智天皇系に変わっていきます。群臣たちの支持も厚く評判の光仁天皇は、さらに慎重に身辺を整えられて、即位すると同時に皇后には天武天皇系の井上内親王様を迎えるのです。一触即発状態になっていた天智、天武両天皇の系列にかかわる方々の確執を、それによってさりげなくかわしてしまわれたのでしょう。


一月二十三日に、皇后との子である他戸(よそべ)親王様を皇太子に立てられると、沈滞しきっていた朝廷の姿を思い切って立て直そうとし始められました。


称徳天皇の体調を整えるといって信任を得ていた僧の道鏡が、皇位を奪おうとして宇佐八幡宮の信託があったとして策略下のを見抜いたために、大隅国へ流されていた和気清麻呂(わけのきよまろ)備後(びんご)国へ流されていた姉の広虫(ひろむし)も、許されて京へ戻り、朝廷の中には為政の姿を歪めてしまった、平城京から一刻も早く抜け出して、新たな京で再出発しようという気分が高まっていったのです。たちまち廷臣たちから出される長岡京への遷都という建議も、真剣に取り上げられるようになっていました。


 そんな空気の中で、天皇は為政者としてある切実な問題に直面しておられました。長いことつづいている陸奥(みちのく)国の蝦夷との抗争のために、それに費やす財が膨れ上がっていて、国の財政が逼迫してきていたのです。財を立て直すために、まず内裏の経費の節約を行い、官衙の出費も極力抑えるために、膨れ上がった官人の数も整理していかれました。しかしそれは言葉でいいきれるほど容易なことではありません。官衙の機構の改革を行うなかで、若手の登用を妨げている名前だけの博士も排除して、大学寮の改革もしていかれたのです。


 ようやく政庁は本来の姿に立ち戻りつつあったように思われましたが、そんなある日のことです。舎人(とねり)の一人が密かに訴えてきたのです。このころ藤原雄田麻呂様は、名も藤原百川(ふじわらももかわ)と変えられて参議という要職にも就いていらっしゃるのですが、近ごろ皇太子の他戸親王様よりも、年長である山部(やまべ)親王と盛んに接触していたといわれます。天皇は朝廷の改革も着々と進めていらっしゃるのですが、百川は他戸皇太子を無視して、山部親王に接触していらっしゃるというのです。常識的にいえば、皇統は皇太子が践祚(せんそ)することになるはずです。しかし百川が頻繁に通うところというのは、天皇の妃といっても百済系帰化氏族である和史乙継(やまとのふひとおとつぐ)の娘で、皇后の井上内親王とは比べようがない高野新笠(たかのにいがさ)のところです。しかもそこには、才能を認められている山部親王がいらっしゃるのです。


 いかにも強引な百川の動きです。


 天皇は即位して一年もしない宝亀二年(七七一)に、これまで頼りにしていた左大臣藤原永手の死に遭遇してしまったために、そうした百川(ももかわ)の動きを止めさせることもできなくなっていたのでした。やがて光仁天皇は退位して、山部親王が皇位に就き桓武天皇となったのでした。


こんなことは現代にもかなりありそうです。内閣の交代には複雑な政界の人間関係によって決定されていくように思えてなりません。策士というのはいつの時代にも存在するように思われて仕方がありません。


温故知新(up・to・date)でひと 


 暫く前のことですが、文部科学省を巡ってフィクサーが暗躍した話があって、汚職事件にまで発展してしまっています。相手に失礼なことにならないように注意しなくてはいけませんが、いい状態にあるものを陰謀によって覆ることを知って動く者がるのを知ると、警戒してしまいますが、時にはそうした策士が大変役に立つ人物で、大いに助かるということもあったり、あまり疑い過ぎて、頼りになる人を失ってしまうということもあります。


 


兎に角人を籠絡(ろうらく)してその術中に陥れるということでは、「朝三暮四(ちょうさんぼし)という言葉があります。口先で人を騙したり、言いくるめることを言いますが、気を付けなくてはいけないのは、「狡兎三窟(こうとさんくつ)といって、悪賢い兎は、隠れる穴を三つも持っていて、万一の場合、そのどれかに逃げ込んで身の安全をはかるということ。危機に際して、身を守るのは上手いことをいいます。いずれにしても策士という人は、「隙穴之臣(げきけつのしん)といって、秘かに目的の相手に通じたり、隙を窺がうことが出来る人です。利用しようと思っても、こちらも賢明でいないと、却って利用されるだけになってしまいます。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑32 [趣味・カルチャー]

 「太陽暦」

 現在我々が使っている暦は、太陽暦というものだということは、ほとんどの方が承知していらっしゃると思いますが、これと対照的な暦も存在しているということはご存知でしょうか。こちらは太陰暦といって、月の満ち欠けの周期を使った暦ですが、農業関係の方は、現代でも旧暦という太陽暦とは対照的な暦に従って、農作業を進めていらっしゃる方々はかなり多いのではないでしょうか。

しかし今回は太陽暦の紹介をしたいと思います。

 作られたのは享和年間(1801-2年)でしたが、中井利権履軒(いりけんりけん)山片蟠桃(やまかたばんとう)たちが立春を年始めとする暦を作ったのですが、問題にされませんでした。長いこと太陰暦を使ってきた日本が、太陽暦に改めたのは明治六年からのことでした。明治五年十一月に「朕思うに・・・」で始まる時代がかった調子で始まる証書で改暦のことが発表され、同年の十二月三日が明治六年一月一日と切り替えられました。

 いきなり暦がかわったので、月給をどう払おうかと困ったということが言われていますね。何よりも影響が大きかったのは年中行事だったようです。兎に角今でも旧正月の風習が残っているようで、時刻の呼び方が午前○○時、午後〇〇時となったのもこの改暦の時からでした。

 

 こういうことでも暮らしの風習は変わっていくものですね。

 


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嵯峨天皇現代を斬る その十の七 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()


        課題「知識を競う楽しさ]


 これまでは複雑な政治の世界で成功したり、悲劇を味わわされたりといって、様々な激しい変化を味わいながら生きてきた人々の話をしてきましたが、今日はちょっと雰囲気のがらりと変わったお話をしたいと思います。それは


社会的にまったく違った立場にある、嵯峨天皇と僧の空海の楽しみについてです。


 天皇と空海は、お互いが吸収しているさまざまな知識を基にして楽しんでいらっしゃいますが、このような機会を得ることで、更に不足している知識を得ることが出来ます。いわば知的なゲームとでもいいましょうか・・・。 


為政者・天皇と空海・嵯峨天皇


弘仁十一年(八二〇)


発生した問題とは


 年の始まりに当たって、天皇は文武の王公や渤海使節などの朝賀を受けた後、近くに仕える臣下たちと豊楽殿で宴を催して、天皇を支えてきている藤原氏を称えて列席している者たちを喜ばせると、やがて渤海使節との歓談をする中で、天皇は国王の近況を聞きながら、思い出にある印象についてお話になりました。


 「渤海(ぼっかい)王は生まれつき信義を身に付け、礼儀をもって処している朝廷に仕える蕃国としての立場を守り、以前からの友好関係を継承して、雲の様子を観察し、風のさまを窺がい、誠意をもって使節を送り出した。使節は適切な時期に来航し、朝廷の倉がいっぱいになるほどの素晴らしい贈り物をもたらしてくれた。更に前使感徳(ぼかんとく)らは船が難破して渡海出来なくなり、朕が一艘の船を与え帰国させたところ、その恩恵を忘れることなく前代のよき例に倣い、謹んで使いを出立させ、遠方から感謝の意を述べたのであった。ここに汝の誠意を思い深く喜ぶものである。渤海国は大海により隔てられた遠方の地域であるが、朕には渤海を望み見て遠い国と思われない。施設の帰国にあたり贈り物を託す。種類は別紙に記した。春のはじめでまだ寒さが残っている。いま息災である。汝の国内が平安であるように。ほぼ意を述べたが、充分に尽くしていない」(日本後紀)


 異国の使節に対する丁寧な応対をされたりして、政務に就かれるのですが、その間には親交のある僧の空海がやって来て、気楽な歓談を楽しまれます。


 そんな時には芸術論、文化論を楽しまれるのですが、その時の様子は古書の「古今著門集」などで紹介されています。


空海が高雄山寺へ落ち着いたころのことです。平安宮と近くなったこともあって、ふらりと立ち寄られた時のことです。天皇はそんな時のために、かねてから用意していたのでしょうか。訪ねて来た空海に対して、特に大事にしているものだとおっしゃって、ある書を取り出されたのです。


 


「これは唐人の手跡である。誰の書か判らないが、なかなかこのように書くことは出来ないものだ。実に素晴らしい重宝である」 


 自慢げにおっしゃるのです。


すると空海はいつもの天皇の悪戯だなと感じて、


 


「それは私の書ですが、それがどうしたとおっしゃるのですか」 


笑顔で答えていました。


ところが天皇は真顔になられて、空海の返答には不満げで、まったく信用いたしません。 


「あなたの今の手跡と違うではないか。何だかこの書は、


あなたの書よりずいぶん上であるように思われる」


しかし空海もまったく納得致しません。天皇の追及にいささかも動じる様子を見せずに 


「その軸をお放し下さい。その上で合わせ目のところをご覧下さい」


 指示をされるのです。


天皇もいわれるがままにやってみます。すると折り曲げてあったところを開いてみると、そこには「某日某月、青龍寺に於いて之を書す。沙門空海」という空海の署名が出てきたのです。


それでも天皇はまだ納得されません。また別の書を持ち出されたのです。そしてあまりに書が大きすぎるので、梯子を立てても読めないではないかとおっしゃるのです。ところが空海もまったく動じませんでした。


為政者はどう対処したか


 天皇と空海は橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に、平安時代の三筆といわれる書の達人でしたが、これまで書を交換しあったりすることもあったのです。そんなある日のことです。天皇は特に大事にしているといって書を取り出したのですが、あまりに書が大きすぎるので、梯子を立てても読めないではないかとおっしゃるのです。ところが空海はそれでもまたまったく動じる様子がありません


「筆跡が違うのは、国によって手跡を変えたからです。唐のような大国では、それにふさわしいように、勢いよく大きく書いたためです」


空海の説明を聞かれた天皇は大いに恥じられたということです。


何といっても空海は、篆書、隷書、楷書、行書、草書というあらゆる書体を自由に書きこなせることから、唐国の皇帝から五筆和尚という称号を与えられたほどで、更に彼はうねるように書くという、飛白体という新しい書体も考案していたのです。帝は学ぶということが如何に大事だ


ということを、強く心に刻んでいらっしゃったのでした。


 時代の頂点に立つ大人同士が、意外にもこのようなことをして楽しんでいらっしゃったということなのですが、あなたはこのようなことをしながら楽しめる友人を、何人持っていらっしゃいますか。お互いに切磋琢磨できる友人は仮にわずかでも持っていたいですね。


温故知新(up・to・date)


 歌うことでもいい、走ることでもいいでしょう。親しい人と競い合いながら高まっていって欲しいものです。そういった刎頚之友(ふんけいのとも)を見つけましょう。相手のためには、自分の首が切られても悔いはないと思える友人です。そんな人と、理路整然(りろせいぜん)とした議論を楽しむのもいいのではありませんか。その結果筋道がよく通っていて、整然とした話ができるようになります。そんな友人と出合えたら、きっともつれた麻糸も快刀乱麻(かいとうらんま)です。もつれた麻糸もすぱっと断ち切るように、物事を明快に処理することもできるようになるでしょう。


 


お互いの智識というものを高めていくためにも、より豊富な知識、知恵を持った者と、競うことを楽しみにしながら、自らの能力を更に高めていくということを楽しんでいたというお話でした。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆言31 [趣味・カルチャー]

                     「斟酌」


「斟酌」という言葉は、一時期新聞・報道などマスコミで政治面の話題を扱う時に、盛んに使われました。誰の耳にもお馴染みになってしまったでしょう。特に故安倍内閣総理大臣の頃には、そのお友達といわれる人々との間に、厄介な書類がやり取りされる取引などが行われる時などに、どうしても厳しい取り決めがあっても、総理大臣という立場の人との関係が判ると、たちまち「斟酌」というものが働いて、困難な取引も意外にたやすく許可が出てしまうということが起ったりしました。つまり取り調べも手加減されてしまうことがあったらしいといわれていました。しかしこの「斟酌」という文字は、酒などを酌み交わすことを表わすもののようです。杯をかさね、周囲の人とも酒を酌み交わして関係が深まり、縁が深まります。そんなことから、先方の事情を汲み取るということで使われるのが「斟酌」だったというのです。


 


こういう思いやり、気づかいというものは、自然に日本人には備わっているらしいのですが、時代が進むにつれてこの美徳も、悪用されてしまうようにもなってしまっています。せめてこうした気遣いをする気風だけは、いつまでも大事にしておきたいと思うのですが、政治家のみなさんには、是非「斟酌」を悪用しないようにお願いしておきたいと思いました。


 


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嵯峨天皇現代を斬る その十の六 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()

        為政者の課題・「有能な直言居士・篁・復職」

 相手が時の権力者であっても、言うべきことはきちんというという性格の、篁のような人物は現代でも必要なのではないでしょうか・・・。

為政者・仁明天皇

承和八年(八四一)九月十九日のこと

発生した問題とは

 「天は公平で、その奥深い働きにより人を(すく)い、聖人は自分の利害を忘れて優れた徳を広め、仁政を行うものである。神霊の咎めには実があり必ず悪政に応ずるものである。過去を顧みて、恥じ入る次第である。古典に、人が国の本であり、本が固まって国が安定するといっているではないか。朕は心から人民の養育を切に思っている。そこで今、格別の思いで、宮中からの使人(しじん)(命を受けて使いをする人)を派遣して慰問し、住居が破壊し生業が失われた者については、使人と所在国司が検討を行い、今年の租調を免除し、併せて物を恵み与え、家屋の修理を援助し、死者は努めて埋葬せよ。政化に内地と蝦夷地の違いはなく恩恵の施しは中外共に同じである。内地民であろうと夷であろうと普く手厚く対処し、度量の広い慈愛の方針を隅々まで伝え、朕の思いやりの心に適うようにせよ」(続日本後紀)

 今上の思いの背景には、嵯峨太上天皇の施策の在り方を進言した、右大臣源常(みなもとのときわ)の存在があったに違いありません。どうやらそれには勢いを増してきている中納言良房に対する牽制の意図が感じられるのですが、彼はそんなことをすればたちまち不遇になるということに対しても、まったく頓着せずにしきりに政庁の改革を訴え続けてきているのです。今上の務めが厳しくなってきているというのに、天はさらなる試練を課してくるように思えます。今回はいつもの干天とは違って、おびただしい雨が降り続けるので、それを止めるための祈りを捧げなくてはならなくなったりするのです。洪水のために百姓の家屋が流されたり、京中の橋や山崎橋が全て壊れてしまったりしているという報告があって、気分的に落ち着かないでいるというのに、官衙には規律の乱れが表われてきているのです。今上はそのためもあって、小野篁の存在に注目されたようでした。ある日彼に正五位下を授けるとおっしゃるのです。

 「篁は国命を承け期するところがあったものの、失意の状況となり悔いている。朕は以前の汝のことを思い、また文才を愛する故に、優遇処置を取り特別にこの位階に復することにする」(続日本後紀)

 清廉潔白な生き方をすることで知られている彼を、官衙の粛正に役立たせようとしたのでしょう。間もなく正五位下刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆ)にも任命されました。かつて今上が即位されると嵯峨太上天皇は将来を予見して、今上の周辺を近臣で固めるように指示されたことがありました。あれは結局このような時を予見していらっしゃったからかも知れません。もともと今上は虚弱体質でもありましたので、病に倒れることが多いものですから、篁はそんなところへお邪魔して、気の置けないお話などをしながら、官衙での動きなどについての情報を伝えたり、さまざまな進言をしていたように思われるのです。

 はじめに右大臣が藤原三守(ふじわらのみつもり)から源常に変わったのも、帝を支える援護者が、藤原氏に傾き過ぎたのを修正し始めたのではないかと思われるのです。それと同時に嵯峨は、桓武から平城という皇統の流れが、いよいよ嵯峨から仁明(にんみょう)へと繋がり、嵯峨王朝を確立する時がやって来ているのではないかと思わせる雰囲気がありました。帝の周辺には、嵯峨とのかかわりの濃い者が集められてきています。その時に備えるための、力をたくわえつつある藤原氏との間には、ついに確執が生まれ始めていたようにも思えるのです。間もなく赦されて隠岐島から戻る小野篁についても、嵯峨にとっての近臣であった小野岑守(おのみねもり)の子として、その才帝はその能力を高く評価されていたのです。野狂(やきょう)といわれる直言居士という変わった性格ではありましたが、配流を解かれ旧職にも復帰させて、帰京させることにしたのです。

為政者はどう対処したのか

官人として復活することになれば、目をかけてくれた嵯峨に対しては当然ですが、死罪になってもおかしくない、朝命に背いた篁を救ってくれた右大臣の藤原三守(ふじわらのみつもり)に対しても、申し訳が立ちません。

あの年はじめに長いこと嵯峨院へお務めしたあと、右大臣に昇任された三守に対して、その娘と結婚したいという文書を送っていたのです。その時の文面は名文として「本朝文粋」に残されているくらいで、その甲斐あって結婚も出来たのですが、それから数か月後に起こしてしまった事件では、岳父(妻の父)が嵯峨と昵懇であったということもあって、死罪を逃れることになったと思われるのです。

 上京するにあたって、再び迷惑はかけられないという思いはあるはずです。きっとその強運と英才ぶりを発揮してくれることになれば、時代の変化に翻弄されている、御子仁明天皇の政庁を支える者として働いてくれることを期待したのではないでしょうか。

 「篁は命を承け期するところがあったものの、失意の状況となり悔いている。朕は以前の汝のことを思い、また文才を愛する故に、優遇処置をとり特別にこの位階に復することにする」(続日本後紀)

 今、天皇にとって為政者としての生命を維持するために、はずせない存在であると考えていたのです。あの直言居士という性格も貴重だと思うようになっていらっしゃったのでしょう。間もなく天皇は更に篁に対して正五位下刑部少輔(ぎょうぶのしょうふ)任命しました。さまざまなことに気配りをしていらっしゃった嵯峨太上天皇は、病を得て伏してしまわれ、政庁は使者を大寺へ送って誦経(声を上げて経文を読む)を行わせ、皇太子(恒貞(つねさだ)親王)、親王以下五位以上の者が左右の陣頭(宮中の衛士の詰所)に控えさせたりしました。

 温故知新(up・to・date)でひと言

 現代では私利私欲で発言する人はいるかもしれませんが、自らの死を賭しても正論が吐ける人がなかなか現れてきません。古来「撥乱反正(はつらんはんせい)という言葉があります。乱れた世を治め正しい平和な世界に返すことをいいます。そんな時にはどうしても「用行捨蔵(ようこうしゃくら)という言葉どおり、出処進退の態度が立派で、巧みな人の登場を願うしかありません。たとえ自分が用いられるなら、理想を追求して行動し、捨てられるなら一時理想を仕舞いこんでチャンスを待つという我慢のできる人でもいいのです。その時その人の評価である「毀誉褒貶(きよほうへん)」は決まります。つまり何が良くて何がよくなかったのかが決まるのですが、先ずは篁のように行おうとする決意と決断が必要なことで、それに対してはあくまでも真摯で清冽な思いが籠められていなくてはならないでしょう。

 

 

  


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ9 [趣味・カルチャー]

                    

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                   「更新日の変更」

 

本日14日急遽ブログの更新をすることになりました。明日から三連休となりますので、そのまえに16日の更新予定を繰り上げて更新することにしました。

連休の間を利用してお読みください。

 

                                             藤川桂介



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑31 [趣味・カルチャー]

   「火ぶたをきる」

歴史物が好きであったり、戦国時代が好きな方でしたら、タイトルを見ただけで、火縄銃の話だろうと見当をつけてしまうでしょう。まさにその通りなのですが、最近は歴史物に限らず、スポーツ界でも、まるで関係のない政界でも、予算委員会などでは、野党が総理大臣に対して新予算の真の目的を吐き出させようとして、論争を挑もうとしている時などに、

「いよいよ立憲民主党は、野党の第一党として論戦の火蓋をきろうとしています」

 こんな風に盛んに使われます。

 戦争やスポーツの戦いの幕開けの表現として、常套句となっているようにも思えます。

 特にスポーツ界での試合の始まる時、相撲などにも大関○○は、優勝と横綱を賭けた千秋楽などに盛んに使われます。

 サッカー・ラグビーなどでは

 「いよいよ日本とベトナムとの最終戦の火蓋が切られました」

 「いよいよ南アフリカとの第一戦の火蓋が切られました。この勝敗の結果がリーグ戦の優勝を約束するゲームとなるでしょう」

という風に使われます。

 この語源となっているのは、日本に最初に入って来た鉄砲・・・つまり種子島銃にあるのです。

 兎に角当時の銃は所謂火縄銃で、銃身についている縄に火をつけて、それを火皿に盛った起爆薬に点火して弾を発射するようになっていることから、この銃身には蓋があって、その蓋を「火蓋(ひぶた)」と呼んだのです。

 「火蓋」を操作してはじめて発射可能になるのですから、それが戦闘開始のキーワードとなったのも無理がありません。ミサイルを打ち合うよりは、どこか牧歌的な響きが伝わってくるような感じがしてしまいませんか。


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嵯峨天皇現代を斬る その十の五 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()


        課題「最後の不羈放縦(ふきほうしょう)の男業平」


 正義のために戦い続けた小野篁(おののたかむら)とも通じていて、官衙へ務めながらその姿勢を貫くことは、かなり不利になるのですが、それでも業平は・・・。


為政者・文徳天皇


斉衡(さいこう)元年(八五四)のこと


発生した問題とは


 嵯峨天皇が崩御されてからも、その治世に希望を感じる者が現れます。その一人が死を覚悟して勅命に背いて直言した小野篁であり、もう一人が父の平城天皇が巻き込まれた「薬子(くすこ)の変」で連帯責任を問われるところであった皇太子阿保親王(あぼしんのう)は、嵯峨天皇の配慮によって遠流として処罰さるだけで済まされたのですが、そんな親王の子として生まれたのが在原業平(ありわらのなりひら)です。勿論彼は父が巻き込まれた「薬子の変」などについては知りませんでしたが、やがて嵯峨天皇のお陰で父は政界に復帰することができましたし、子供たちは在原朝臣(ありはらのあそん)という称号を頂いて天皇の恩情を受けて暮らすようになるのです。しかし業平は本来不拘(ふく)といわれる性格で政治を動かす藤原氏に反発して不遇な暮らしを強いられてしまいますが、彼はいつか嵯峨天皇の民を思う為政の姿勢に憧れ、小野篁とも通じるようになり、二人は嵯峨天皇の行った為政の理想を追っていこうとするようになるのです。


嵯峨天皇の後、淳和(じゅんな)天皇、仁明(にんみょう)天皇から文武(もんむ)天皇となると、祖霊の理想を目標にしながら、藤原氏の妨害にあってしまって思うような為政ができません。間もなく文武天皇は病で倒れ、言語不能な状態になってしまい、数日後にはわずか三十二歳で崩御してしまわれます。噂では暗殺されたのではないかということも囁かれたのですが、元来今上(きんじょう)が虚弱体質であったということで、結局はうやむやになってしまうのでした。


斉衡(さいこう)元年(八五四)に左大臣源常(みなもとのときわ)が亡くなり、さらに三年後には祖霊嵯峨天皇の内親王で彼に嫁いだ源潔姫(みなもとのきよひめ)も、鬼籍へ入ってしまったこともあって、藤原良房はそれを機会に一気に存在感を際立たせるようになりました。それにしてもこのころ、短期間のうちにたびたび年号が変えられるのはその呪力によって危惧する世の中の不安を解消しようという政庁の焦りがあったのかもしれません。ところがこの頃から十三年という間、業平の消息がはっきりとしなくなってしまうのです。原因は単純なことです。藤原氏に対して不拘の姿勢を変えようとしないので、完全に嫌われてしまったのでしょう。嵯峨王朝の残照の中で、その世界をわが物にしようとする右大臣と、それに批判的な業平の秘かな戦いは、ますます熾烈になっていたのです。


 


為政者はどう対処したのでしょう 


頼りにしている温和な左大臣源常も亡くなってしまって、天皇は宮中を去って冷然院(れいぜんいん)へ移ってしまわれます。しかし本来なら皇太子として君臨することになるはずであった天皇の第一子である惟喬(これたか)親王も藤原氏の妨害で皇太子の候補から外されてしまうのです。業平はそんな皇子をずっと庇いつづけていったのです。


業平は理想とする為政の実績を残された祖霊嵯峨天皇の業績を追おうとした文武(もんむ)天皇の遺志を受け継ぐように、嵯峨王朝の残照を見届けようと決心しました。これまで業平は「伊勢物語」によって、もっぱら女好きの歌詠みで喧伝されてきたのですが、二十五歳になった業平は、「体貌閑麗なり」(日本三代実録)といわれるほどの美貌の貴公子は、ただの女狂いだけの男ではありませんでした。本来はその正義感のために、権力者の藤原良房に嫌われて出世の道筋を閉ざされるのですが、彼はそんなことに一向に構わず、女官たちの援護射撃を受けながら、理不尽な政庁と戦いつづける人だったのです。


大嘗祭(だいじょうさい)を飾る「五節(ごせち)の舞」を縁にして、高子姫との束の間の出会いを楽しんだ業平は、その二年後に母の伊都(いと)内親王を失うという不幸に遭ってしまったり、官人としては相変わらず不拘(ふく)という性格を貫いているために、出世とは縁遠い生活をしていたのですが、それでも彼はこれまでごうり、藤原氏のために不遇な境遇に置かれている、祖霊文徳天皇の御子である幼い惟喬(これたか)親王の心の支えになろうとし続けていたのでした。その姿勢の在り方は、親しい友のために自らは清貧に甘んじながら援助していたという、小野篁(おののたかむら)の心意気を受け継いだのかもしれません。しかしその頃の政庁は次第に緊張感を失ってしまっていて、官人は保身のためだけに腐心するという状態になっていますし、民もそういった風潮にすっかり失望しています。そんな間隙(かんげき)を縫うようにして、野盗が跋扈(ばっこ)するようにもなっていたのです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 すべてが権力者の忖度(そんたく)で動くような官人が多く、それがうまくできる者が出世していくという現代の政界、官庁の様子は、古代も現代もないのですね。すべて民の願う官人とはなってくれないようです。そんな時いつも小野篁、在原業平という二人を思い出してしまいます。二人は自分の私欲や私情、つまり我が儘を抑えて、社会の規範、礼儀に従がって行動する克己復礼(こっきふくれい)の人であると思いますし、虎に対して素手で立ち向かったり、黄河を歩いて渡るような無謀な者とは行動を共にすることは出来ないと思われる暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)人といわれながら、しかしその勇気を称賛したくなってしまう人に、秘かに憧れを抱いてしまいます。もしそんな人がいるとしたら、助長補短(じょちょうほたん)です。長所を伸ばし短所を補って生き残っていて欲しいと切望いたします。


 


 世界の中での日本という存在が、どういう方向を目指していこうとするのか、無関心ではいられませんね。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言30 [趣味・カルチャー]

「高みの見物」

 自分には関係がないという場合に、よくこんな言葉を聞くことがあります。何か騒動が起こっている最中ですが、「私は高みの見物だよ」と落ち着いて騒動の鎮まるのを見つめている人を見たりします。

 政治の世界などでは、絶えずこんなことがありますね。

 「保守派と革新派の主導権争いが山場へ差し掛かっているけど、もともと私は中立派だから、高みの見物だよ」

 如何にもその人は、如何にも高いところから見ているという風に聞こえるのですが、この「高見」の「見」は当て字なのだそうで、「白い」というのを「白さ」とか「厚い」を「厚さ」と言ったり、「深い」を「深み」という風に形容詞に「さ」とか「み」をつけて名詞の方たちを取ることがあるそうで、「高見」は本来「高み」であって、高いこと、高い所の意味なのです。

 つまりあの常套句は「私は高いとこるにいるので、騒ぎ儀巻き込まれないでどう落ち着くかを静観しています」というようなことになるのです。

 なかなか厄介なのが日本語ですね。

 これを使えば「甘味」「苦味」「辛味」の「味」は当て字で形容詞に接尾語の「み」がついているので「甘味」といって「味」が付いているのは当て字なのですね。

 もう一度文法を勉強しなくてはと思ったりします。


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嵯峨天皇現代を斬る その十の四 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」(  


        課題「四十歳の祝いと初老を知ること」


 四十歳は初老の始まりです。ここから新たな人生が始まると言っていいでしょう。これは古代も現代もないのではありませんか。ここを起点としてこれからどう生きようとされるのでしょうか。


為政者・淳和天皇


天長二年(八二五)十一月二十八日のこと


発生した問題とは


「人生、いつまでも若くはない。その時その時やって置かなくてはならないことがある、新たな人生が始まるということを知るべきだ」


そんなことをおっしゃって淳和(じゅんな)天皇に譲位されたのですが、その皇太子には御子の正良(まさら)親王が就いていらっしゃいます。嵯峨天皇から太上天皇となられて間もなくのことです。


そんな十一月二十八日のこと、四十歳を祝賀する宴が太上(だじょう)天皇ご夫妻がお住いの、冷然院(れいぜんいん)で行われることになりました。


そのことについては、すでに二年前の淳和天皇に譲位された後、身軽になられた太上天皇は、幼少の頃乳母を務められ、その後侍読としてもお仕えになっていらっしゃる、今は後宮の(みかどのいし)という地位に就いている笠朝臣道成(かさのあそんみちなり)を呼んで、太上天皇の在位中の為政について振り返ってみようとなさったことがありました。その時道成は思わず四十歳の祝いについて触れたことがありました。


堯・中国古代の伝説の聖王は星の運航をみて農耕の暦を定め、舜(中国古代の説話に出る五帝の一人)は暴雨、雷雨に迷わず天子の位に就きました。孔子は『天命を受けた王者が出た後一世代三十年を経て仁の世になる』と述べています。漢の高祖より恵帝・少帝・孝文帝まで四代、四十年となりますが、祖霊桓武聖帝から淳和天皇まで、暦を調べますと四十年、天皇は四帝であり、嵯峨太上天皇と淳和天皇の年齢は四十歳におなりになられます。真に立派な政治によるめでたい(しるし)です。伏して考えますに、陛下の四十の算賀の後は、これまでの四十年が終わり、陛下を初代とする新しい四帝の時代が始まりますということでした。


 多分祝いの日には、皇太子がそんなことを唐国の篆書(てんしょ)から学ばれてお祝いを言葉を述べられるでしょうと説明されたことがありました。


為政者はどう対処したのか


 盛大な宴は華やいだ雰囲気に包まれ、朝から延々と続けられて太陽が西に傾くと燭を(とも)し、更に興趣を盛り立てるように雅楽寮の者たちが音楽を奏し続けています。そんな中を中納言良岑安世(よしみねやすよ)が、冷然院の正殿の南の階から降りて舞い、群臣もそれに続きます。これまでの形式に則った宴とは違った、形式通りというものではなく、楽しむということを優先して考えられた、大変気持ちが解放された、いわゆる遊宴といわれるものなのでしょう。嵯峨太上天皇が今上であったころから行われるようになったもので、これまでにない新しい宴の形でした。


その日の宴はやがて夕暮れになったころ、雪が降り出したのですが、今度はその中を妓女たちが、舞器を持って舞います。豪華で大変華やいだ宴になりましたが、やがて皇太子正良親王が進み出て、太上天皇に対して挨拶を致します。


 かつて道成が予言したように、皇太子は太上天皇の前に進み出て、こうご挨拶いたします。 


「私は『礼の極致にあっては格別責めることなく天地が互いに合致し、大音楽にあっては個別楽器の音や声は弁別できないものの法則に適っている』と聞いております。堯(中国古代の伝説の聖王)は星の運航をみて農耕の暦を定め、舜(中国古代の説話に出る五帝の一人)は暴雨、雷雨に迷わず天子の位に就きました。「孔子は『天命を受けた王者が出た後一世代三十年を経て仁の世になる』と述べています。漢の高祖より恵帝・少帝・孝文帝まで四代、四十年となります。桓武聖帝から淳和天皇まで、暦を調べますと四十年、天皇は四帝であり、嵯峨太上天皇と淳和天皇の年齢は四十歳におなりになられます。真に立派な政治によるめでたい徴です。伏して考えますに、陛下の四十の算賀の後は、これまでの四十年が終わり、陛下を初代とする新しい四帝の時代が始まります。天子としての良き運が集中し、至徳はますます盛んになり、陛下の行いは虞舜に一致し、仁は漢の文帝よりも敦く、いよいよ礼楽につとめ寿命は長くなりましょう。私は皇太子として、陛下の長寿を仰ぎ見、天下が歓びを同じくし、人々が慶んでいるのが判ります。私も大変幸せであり、心からの喜びです。わずかな贈り物で陛下を汚すことになりますが、謹んで衣・琴などを献上いたします。これは物というより私の誠意を示すものです。およそ聖人の寿命は天から受けるもので、臣下がそれを祝福しても利益はありません。しかし心中の思いを言葉に表さずにはいられません。願わくは陛下が日月星辰と共に皇位の坐を守り、遠く長寿を仰ぎ、変わらぬもののたとえである南山(比叡山を北というのに対して高野山をいう)と同様でありますことを」(日本後紀)


 確かに四十歳は人生の内で一つのくぎりです。古代も現代もありません。


温故知新(up・to・date)でひと言 


 


 昨今は全体的に長寿になっているようなので、四十歳といってもまだ青年といった印象で、昔で言う初老という印象はまったくありません。しかしそれだからと言って、まったく年齢というものを意識せずにのんびりとしていることには疑問を感じます。時は知らぬうちに過ぎ去っていきます。いろいろなことで、間違っている余裕はありません。取り返すことが出来ない時間が過ぎていくのです。前車覆轍(ぜんしゃふくてつ)などという言葉をご存知でしょうか。 前の車のひっくり返った轍の跡は、あとから行く車にとって良い戒めであると言います。先人の失敗はよい教訓になるということです。虚心平気(きょしんへいき)です。先入観やわだかまりを持たず、人の意見も素直に聞ける心穏やかな気持ちになって進んで行きましょう。竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)いう言葉があるように、竹の切れ端木の削りくずのような、取るに足らないつまらない物でも、何らかの役に立つことがあるということを頭に置きながら、注意深く周囲を観察して、学べるものは学んで心豊かな人になっていきましょう。


 


 


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑30 [趣味・カルチャー]

「浮足立つ」

なにかそわそわとして、落ち着かない状態を「浮足立つ」といいますが、そんなことはよくあるのではありませんか。特に憧れの人と会えると判った日などがそうで、何か今にも飛び立って生きそうな受胎になったりします。

こんな状態になった話が、日本の歴史の中にないかとさがしていたら、やっぱりありました。典型的な例として有名な「浮足立つ」話が残っています。

治承四年十月・・・1180年にあった源平合戦の時のことです。

平家の東征軍と源氏の頼朝・武田信義連合軍が、富士川を挟んで対峙した時のことです。勢力はほぼ互角といわれていたのですが、その頃平家側はその地盤である西日本が飢饉で苦しんでいたり、京都を出発する時に、幹部クラスの将軍同志が喧嘩してしまったりして、軍の士気は落ちてしまっていましたし、どうも軍の士気は浮足立っていたのです。そんなところに、水鳥が一斉に飛び立つ音にびっくりして、兵士たちはわれ先に逃げ出してしてしまったりしてしまいました。それが有名な富士川の合戦でした。

そんなことから、水泳で足を浮かせて泳ぐテクニックが浮足立つ感じがあるとも言いますし、相撲では爪先立って勝負する時などに浮足立つ感じを活かした技があったりしますが、通常はあまりご縁のない世界・・・つまり証券界でも株の取り引き相場の値が不安定であることを「浮足」というようになった様ですね。

いいことで「浮足立つ」のはいいのですが、よくないことでこんな状態になるのだけは避けたいものです。


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嵯峨天皇現代を斬る その十の三 [趣味・カルチャー]

      第章 「いい人生を生き抜くために」()


        課題「朔旦冬至(さくたんとうじ)と神霊の不可思議」


延暦二十三年(八〇四)十一月一日に、はじめて桓武天皇が行ったと「続日本紀」に記されているのですが、現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるのではありませんか・・・。


為政者・桓武天皇


延暦三年(七八四)十月三十日のこと


発生した問題とは


天応元年(七八一)四月三日。光仁天皇はほぼ十年というワンポイントリリーフの役割を果たされて、四十五歳の山部親王へ譲位して桓武天皇として即位されるのですが、きわめて困難な時代でした。その年の十二月二十三日に、上皇は崩御してしまわれると、葬儀を終えたばかりだというのに、延暦元年(七八二)には朝廷の要人であった氷上川継が、兵を率いて朝廷の転覆を図ろうとしていることが発覚しましたし、三方王もそれに関したりで、長いこと国の為政を支配してこられた天武天皇という伝説的な皇統と違って、まだ皇統としては歴史の浅い天智天皇の系列の方々にとっては、平城京というところはかなり住み難いところであったのです。


「朕は天下に君主として臨んで、人民を慈しみ育んできたが、官民ともに疲れ衰えて、朕は誠に心配している。ここに宮殿の造営などを中止して農業につとめ、政治は倹約をこころがけて行い、財物が蔵に満ちるようにしたい。今、宮の住居は住むのに充分であるし、調度品も不足していない。また寺院の造営も終了した。貨幣の流通量もふえ、銭の価値がすでに下がっている。そこで造宮省(宮城の造宮修理を司る)と、勅旨省(勅旨の伝達と皇室用品調達を司る)の二省と造法花寺司(法華寺造営を司る)と、鋳銭司の両司を止めることにするそれで蔵の宝を婦や市、無駄を省いた官位の政治を尊ぶようにしたい。ただし、造宮省と勅旨省の各種の技術者はその能力によって、木工(もく)寮・内臓寮などに配属し、余った者はそれぞれ配属以前のもとの役所に(かえ)せ」(続日本紀)


 この二年後そんな延暦三年(七八四)ついに十一月十一日には、七十年もの間都として栄華を誇った平城京を去って遷都を行うことにしたのです。しかし遷都を実のある形にするために、政情の安定を願っていたのですが、蝦夷(えぞ)の抵抗が激しいために、その討伐、鎮圧にかなりの財を費やさなくてはならないという問題を抱えていました。その頃は平城京中では盗賊の数が市外に増えるという、物騒な世の中になっていて、街路で物を奪い取ったり、家に放火したりしているという。担当の役所が厳しく取り締まることができないために、暴徒が盗賊となってこのような被害を起こしているのです。


「今後はもっぱら令の規定にあるように、隣組(となりぐみ)(五戸で作る。相検察させ違反を防ぐのが狙い)を作り、間違ったことを検察するようにせよ。職に就かず暮している者や、博打(ばくち)内の輩は、(おん)(しょく)(高官の孫や子の特典)からはずし、杖百叩きの罰とせよ。放火や略奪・恐喝の類は必ずしも法律に拘らず、死刑の罰を持って懲らしめよ。つとめて賊を捕え悪者を根絶せよ」


 厳しい指示をしていらっしゃいます。


 天皇にとって忘れられない大事な日がもう目の前に来ているのです。それは交野(かたの)百済王(くだらおう)から聞いた朔旦冬至(さくたんとうじ)という吉日だったのです。


為政者はどう対処したか


 桓武天皇は若いころから親族とも思っていた、百済王(くだらおう)のところへ長岡京からよく通ってきていたのですが、そんな時に十九年に一回巡って来る、朔旦冬至といって、陰暦十一月一日が冬至に当たる日が吉日になるので、その日に大事な祀りごとの日であると言って、郊天祭祀(こうてんさいし)に招かれたことがありました。皇統が正しいかどうかが決まるというのでした。もし即位した者の徳が無くて、天が認めないようなことになったら、政変が起こるというのです。桓武天皇はその時のことを忘れてはいませんでした。そしてこうもおっしゃるのでした。


 「人民は国の根本であり、(もと)が難ければ国は安らかである。人民の生活のもととしては、農業と養蚕がもっとも大切である。この頃諸国の国司たちはその政治に不正が多い。人民を慈しみ治める道の方法に背いていることを恥じず、ただ人民からの収奪が上手くいかないことを畏れている。林野を広く占有して人民の生活手段を奪ったり、多くの田は竹を経営して人民の生業を妨げたりしている。人民が弱り憑かれるのはこれが原因である。これらの行為を禁止し、貪りと汚れた心を懲らしめ改めさせるべきである。今後、国司らは公廨田(くげでん)(地方官の俸給として支給される田)の他に水田を営んではならない。また私に欲深く開墾して人民の農業や養蚕の地を侵してはならない。もし違反する者があれば、収穫物と開墾した田はすべて官が没収し、ただちに現職を解任して違勅の罪を科す。国司の同僚と郡司らがそれを知って罪をかばいかくしたならば、ともに同罪とする。もし糾弾して告発する人があれば、その罪を犯した者の田の苗を糾弾告発した人に与えることにする」(続日本紀)


延暦二十三年(八〇四)十一月一日に、はじめて桓武天皇が行ったと「続日本紀」に記されているのですが、現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるのではありませんか・・・。


 そうおっしゃった後で、様々なしがらみがあって生きにくい平城宮から長岡宮に移られたのです。


 これほどまで天皇が大事にする日は、現代ではどうかと調べたら、今日でもそれは生きていました。


温故知新(up・to・date)でひと言


現代でもお正月に「一陽来復」というお札を頂いて来る方がいらっしゃるでしょう。まさにそれが朔旦冬至の行事なのです。それは一つの時代が終わり、新たな時代が始まるという区切りともなる儀式をあらわしているのです。平安時代では宮中へ文武百官が集結して盛大な祝宴が行われます。つまり冬至に至って寒気が極まると、陽気が少しずつ起こるようになるので、寿福をもたらすということを知っていらっしゃった嵯峨天皇は、その幸運は独り占めせずに天下と共にその幸せを分けたいとおっしゃって、刑罰を受けている者を赦したり、才能のある者を顕彰したりして、恩沢と栄誉を施して、朔旦冬至という有難い巡り合わせを広く知らしめたのです。まさに「経世済民(けいせいさいみん)です。国を治め人民の暮しを整えて。管理するということです。それにも「吉日良辰(きちじつりょうしん)・・・よい日柄というわけです。まさに大安吉日です。これぞと思うことを「熟慮断行(じゅくりょだんこう)


 


しましょう。よく考えて充分に検討した上で、思い切って実行することです。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言29 [趣味・カルチャー]

「手紙」

 携帯やコンピュータがあるせいで、所謂手紙といえるものをほとんど書かなくなってしまったのではないかと思います。

 それでも私は若い時からワープロなどというものが現われてきても、わりに手紙をよく書く方であったと思っています。

 親しい友人たちへはもちろんのこと、お世話になっている方々、交際中の女性にも、時に応じて手紙はよく書きました。

 当時は文選にも、封筒にも趣向を凝らしたものを使っていましたが、しかし時代が進むに従って、次第にその数は減っていったように思います。

 どうしても携帯によるメールでの単信が多くなってきてしまいました。

 最近はその内容もごく簡単に済ませるものに変わってきてしまいました。

 ところで「手紙」というものは、どうして手紙というのでしょうね。

 そんなことから調べてみました。

 どうも私たちが使い慣れている手紙という言葉は、中国の人にこれまで通りのつもりで使ったりすると、とんでもないことになりますということなのです。

中国語では「手紙」というのは、トイレットペーパーだそうです。私たちが日常的に使ってきた「手紙」は、本来書簡です。それではどうして手紙という言葉が生まれたのでしょうか。残念ながらその定説はないそうです。

 昔ケチな人がいて、知人に手紙を書くのに紙を使うのはもったいないと、木の葉に書くのももったいないというので、使いの者の手に返事を書いたということが伝えられています。しかしこれはどうも落語の小話のように思えてなりません。

 紙は昔から貴重品であったことは確かですから、簡単にすむようなことであったら、使いの者の手に返信を書いたかもしれません。そんなことから、紙の代りに手に書いたので、「手紙」というようになったというのが、意外に正解といえるのかも知れませんね。


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