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嵯峨天皇現代を斬る その十一の五 [テレビ]

      第十一章 「落書きの思いを知るために」(五)

        課題・「廃太子淳和院へ送る」

 この件については、すでに第五章「決断の時を誤らないために」「その六」「陰謀・密告・序和の変」で細かに紹介しておりますので、ご覧頂きたいと思います。

 敵味方が共に秘策を練って戦う、政庁内での権力争いが原因で、その結果がもたらした噂です。

 政庁内で起こることは、その前から町の人々はさまざまな微妙な動きから情報を得ているようで、政庁では全てを内密に済ませようとはしているのですが、町の者はすでにほとんどの出来事に敏感で、事件のすべてについて知っているようでした。そしてやがて事件についての庶民の痛烈な批判精神が、童謡となって現れてきました。落書きではありましたが、現代の落書きとの大きな差を感じざるを得ません。政界に起こっている事件を、いち早く世間の者に知らしめようとして、実にその事件の真相を落書きで訴えていたのですが、現代の落書きは、ただただいたずら書きをしただけで、迷惑でしかありません。

為政者・仁明天皇

承和九年(八四二)八月十三日のこと

 

発生した問題とは

 嵯峨天皇の孫である、仁明天皇(にんみょうてんのう)の皇太子、恒貞(つねさだ)親王を中心にして、東宮に勤める若い官人たちを中心にして、大納言藤原良房を中心とした政庁の権力者たちが、あくまでも現実主義的な為政を行なうのに反発して、今は病床にある嵯峨太上天皇の為政を理想として改革を行おうとしているのですが、彼らは橘逸勢(たちばなのはやなり)伴健岑(とものこわみね)と共に、大納言藤原良房の元で弟の左近衛少将藤原良相(よしみ)が指揮をする近衛などに急襲されて逮捕され、政権の交替を狙った皇太子の謀反は挫折してしまうのです。そのきっかけとなったのは、かつて「薬子の変」で連座したのを、嵯峨太上天皇の恩情によって官衙へ復活させてもらった阿保(あぼ)親王が、病臥していらっしゃる太上天皇の病状を考えて、知っていた皇太子の企てを嘉智子太皇太后に密告したのがきかけでした。それは直ちに良房にされてしまって、彼に利用されて先手を打たれてしまったのです。世にいう「承和(じょうわ)の変」というものです。恒貞親王は廃太子とされ、新たに右大臣の親族である道康(みちやす)親王が皇太子となってしまいました。その結果を知った恒貞親王の母である淳和天皇の正子皇太后は、嵯峨院へ向かわれると、「(しん)()され、悲号して母の太后を恨む」と史書「三代実録」に書き止められているほどで、阿保親王から謀反の企てがあるという密告があった時に、なぜそれを押しとどめることもしないまま、軽挙妄動して大納言の藤原良房に事態の収拾を託してしまったのかと、母の嘉智子太皇太后に激しい怒りをぶっつけたといいうのです。

同じころ一時は暗雲が漂っていた大納言は、一気に心配事を払拭することができて安堵の吐息をついています。やがて即位することになるであろう道康親王に、娘の明子(あけらけいこ)を嫁がせることができることにでもなれば、彼女は皇后となり天皇の外舅(がいきゅう)(妻の父)となって、絶対的な権力が振るえるはずです。野望実現のための布石は間違いなく敷き終えることができたことに満足しているのでした。そんな様子はたちまち巷での格好な話題となって、風刺歌の童謡(わざうた)として謳われたのでした。

 天には琵琶(びわ)をぞ打つなる、玉児(たまのこ)の裾()くの坊に、

牛車(うしぐるま)()けむや、辛苣(からちさ)小苣(おちさ)の華

 (殿上で音楽を楽しんでいるはずの人が、着飾った女性が行き来する京の大路を、牛車に乗っていくのは快いものであろうか。苦味のする苣のように辛いことだろう)

為政者はどう対応したのか

承和九年八月十三日。廃太子として恒貞親王は小車に乗せられて宮中を出ると、神泉苑の東北の隅で牛車に乗り移り、淳和院へ送られることになったのです。

廃太子が宮中から退出されるという噂を聞きつけた不拘の人在原業平は、神泉苑の近くへ駆け付けると、じっとその様子を見つめていました。

政治の世界の醜い権力闘争というものが、こんな風にして収められていくのかと思うと、ますます政庁との間には距離が生まれていくのを抑えられませんでした。

朝廷からは淳和院へは誰も行ってはならないという命が出され、万一それを犯す者があれば、処罰されるという厳しいお達しまで出されました。恒貞親王は淳和院の中にある東亭子という御殿に幽閉され、悲嘆に打ちのめされたまま暮らすことになったのでした。

そんな承和十四年(八四七)十二月のある日のことです。政庁の動きとはまったく縁のない、淳和院の東亭子御殿に幽閉されていらっしゃる恒貞親王は、思いがけない方の訪問を受けることになったのです。

祖霊平城天皇の第三皇子で、祖霊嵯峨天皇の皇太子であった高岳親王(たかおかしんのう)です。薬子の変で連座したために廃太子となってしまったために、失意のうちに宮中を去って僧衣をまとう人となるのですが、その後嵯峨太上天皇の配慮があって空海の弟子真如法親王と名のり、政治の世界とは無縁の存在になっていた彼は、正子皇太后から連絡でもあったのでしょうか、親王の甦りのために手を貸そうとしてやってこられたのです。

すっかり望みを絶たれて生気を失った恒貞親王を誘って、東亭子御殿を出られると、苑池を巡りながら静かに語り掛けられました。

「廃太子となられて、現世での生命は終えられたとしても、新たに生きる道はございます。自然に還りませんか」

それこそが、祖霊嵯峨天皇が長年心に秘めていらっしゃった思いに通じることではないでしょうかと話し掛けます。

一度は現世での道は断たれても、甦るための道筋まで断たれたわけではないのだと訴えるのです。そのためにも仏道修行をしてみませんかというのです。それによって自らの世界を切り拓くこともできると熱心に訴え続けるのでした。

(かたく)なになっていらっしゃった恒貞親王も、いつか新たな生きる世界が開けるという説得に、心を動かされていきました。

(私が生きることで、幾多の命が活きることに・・・)

恒貞親王(つねさだしんのう)はその言葉の一つ一つを、母の正子皇太后の思いとして受け止めるようになっていらっしゃいました。仏道修行を決断されると、真如法親王(しんにょほうしんのう)の手によって髪を落とし、沙弥戒(しゃみかい)(修行僧として護るべき規則)を受けられて衣を僧衣に変えられると、法名も贈られた恒寂(こうじゃく)となさって、修行の世界へ飛び込んでいかれる決心を固められたのでした」(後拾遺往生伝)

(多くの生を活かすために、新たな道を切り拓く・・・)

その思いを成し遂げる道を歩き始めようとしていらっしゃる恒寂親王は、立ち去っていかれる真如法親王の後ろ姿に、清冽な美しさを感じ取っていらっしゃいました。そして二十五歳の親王はこの時から、十一年の間秘かに消息を絶つようにして仏道修行を積み重ねていかれ、その後大覚寺の門跡として復活するのです。

人生の変転は、今も昔も変わりません。

 まったく人生がどういう形で終わることになるのか、誰も判りません。しかしそれぞれが自ら選んだ道筋が平たんであるか、茨の道であるのかは、誰も予測して選ぶことができません。

どう生きるのか。それはその人、その人が決めることです。成功もあれば、しくじりもあるでしょう。しかし人生の最期を決めるのは、所詮あなたでしかありません。

温故知新(up・to・date)でひと言

 人生。最後まで諦めてはいけないという教訓です。いつか甦る機会が巡って来るかもしれません。昔からいわれる「禍福糾(かふくきゅうぼく)の言葉どおりの世の中です。幸福と不幸は表裏一体で、昨日まで皇太子であった者が、企みの象徴に祭り上げられていたために廃太子となってしまうのです。世の中は常に移り変わり留まることがありません。「有為転変(ういてんぺん)です。非常にその立場境遇をも変えていってしまいます。加害者、被害者の立場を冷静に見届けている目が必要です。そんな中で一時不遇であっても「百折不撓(ひゃくせつふとう)いく度挫けても志を曲げずに、信念に従ってやがて復活して貰いたいと祈りたいと思います。


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