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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言29 [趣味・カルチャー]

「手紙」

 携帯やコンピュータがあるせいで、所謂手紙といえるものをほとんど書かなくなってしまったのではないかと思います。

 それでも私は若い時からワープロなどというものが現われてきても、わりに手紙をよく書く方であったと思っています。

 親しい友人たちへはもちろんのこと、お世話になっている方々、交際中の女性にも、時に応じて手紙はよく書きました。

 当時は文選にも、封筒にも趣向を凝らしたものを使っていましたが、しかし時代が進むに従って、次第にその数は減っていったように思います。

 どうしても携帯によるメールでの単信が多くなってきてしまいました。

 最近はその内容もごく簡単に済ませるものに変わってきてしまいました。

 ところで「手紙」というものは、どうして手紙というのでしょうね。

 そんなことから調べてみました。

 どうも私たちが使い慣れている手紙という言葉は、中国の人にこれまで通りのつもりで使ったりすると、とんでもないことになりますということなのです。

中国語では「手紙」というのは、トイレットペーパーだそうです。私たちが日常的に使ってきた「手紙」は、本来書簡です。それではどうして手紙という言葉が生まれたのでしょうか。残念ながらその定説はないそうです。

 昔ケチな人がいて、知人に手紙を書くのに紙を使うのはもったいないと、木の葉に書くのももったいないというので、使いの者の手に返事を書いたということが伝えられています。しかしこれはどうも落語の小話のように思えてなりません。

 紙は昔から貴重品であったことは確かですから、簡単にすむようなことであったら、使いの者の手に返信を書いたかもしれません。そんなことから、紙の代りに手に書いたので、「手紙」というようになったというのが、意外に正解といえるのかも知れませんね。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑29 [趣味・カルチャー]

  「裏書」


 私もあまり経験があるわけではありませんが、ある時期に経験したことがあります。「手形」や「証券」などを他人に譲渡する場合に、裏書というものが必要になることがありました。


 裏面にサインをするところがあるので、その通りだと思います。


 ところがこの裏書というのは、裏に書かなくてもいいのだそうです。つまり時には表に書いても裏書なのだそうです。


 実はこの裏書というものは、平安時代から始まったといわれているのです。


コピー機もなければ印刷技術もない時代のことです。書物は筆で書き写さなくては副本というものは出来なかったのです。その為にいい加減なものが氾濫する事にもなってしまったというのです。


 そこで、誰がその本を筆写したかをきちんと記して、間違いなく本物であることを証明する習慣が出来たというのです。この署名が裏書の始まりのようです。


 これが鎌倉時代になると、巻物の裏に文句と月日そして、あて名を書き、裏に署名したものを裏書と呼ぶようになったようです。要するに裏書というのは、裏付けた保証という意味なのです。


 これが明治になって法律に定められるようになり、手形、証券などの信用を保証するために、使われるようになったのでした。


 


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嵯峨天皇現代を斬る その十の一 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()


課題「薄らぐ人間関係」


 昨今は人間関係が大変難しくなりました。


 心を許してお付き合いできる人がどれだけいるのでしょうか。


 お友達が欲しいと思えばさまざまな方法で探すことができますが、ほんとに信用してもいいのか不安になります。


 昔は時間をかけてお付き合いがつづいているということが多く、お互いに相手を知る機会がありましたが、昨今の場合はたやすく友人ができますが、それだけ人間観察が充分に行われたとは言えない場合が多いのではないでしょうか。


 出会いもあっさりですが別れもあっさりしています。


 お互いに深くお付き合いを続けているという関係は、大変少なくなっているように思えます。


 今回のお話は、平安時代という、現代とははるかに時をさかのぼった時代のことですが、時代の変遷に従がって、人情が変化してしまう。つまりかつて世話になったり、親しく付き合っていた人なのに、亡くなった後は知らん顔ということもあったようです。


嵯峨天皇が即位して四年たった頃のことです。


 農業が不作となった年は、土着の民も移住してきた俘囚もみなその被災者となるが、物を与えるに当たっては俘囚は対象からはずされている。飢饉の苦しみは一様のはずであるから、恩恵が土着民と俘囚をさべつして施されるのはどんなものであろうか今後は、俘囚にも公民準じて恵みを与えよ。ただし、勲位を帯びたり、村長その他特別に粮枚支給に与っている俘囚は支給する限りではない。


 政庁ではそのような制定したところです。


 肥前国では新羅人が小近島などに着岸して島民たちと闘争となってしまったことが報告されてきましたので従う者と引き返すものとを仕分けして何とか穏便に処理いたしましたが、何もかも安穏にしていられる状態にはありません。


 天皇は皇太子(大伴親王)の南池(なんち)(淳和院)に行幸しました。


 国内に問題がある時には、外部からどんな問題が持ち込まれるか判らないので、結束が必要であるという気持になられたことがありました。


 同行の文人たちに命じて詩を作らせた。右大臣藤原園人も天皇の求めに従って、和歌を献上いたしました。


 


今日の日の池のほとりにほととぎす平は千代と鳴くは聴きつや


(京、池の辺でほとぎすが平安京が千代に栄えると鳴くのを、お聴きになりましたでしょうか)


この歌に天皇が応じて和歌を詠まれました。


ほととぎす鳴く声聴けば歌主と共に千代にと我も聴きたり


(ホトトギスが鳴くのを和歌に詠んだ園人とともに、朕も平安京が千代に栄えると聴いた)


大臣は歓びと感謝を示す舞踏を行い、雅楽寮が音楽を奏して、五位以上の者に衣被、諸王藤原氏の六位以下の者ならびに文人たちに身分に応じて綿を下賜した。


身近な者との結束を確認された天皇は、現在農作業に不作がつづく現実と向かい合うのでした。


為政者・嵯峨天皇


弘仁四年(八一三)六月一日


発生した問題とは


為政に責任を持っていらっしゃる天皇は、その施策の根本についてこのような思いを述べられました。


 「治国の要諦は民を富裕にすることであり、民に蓄えがあれば、凶年であっても防ぐことが可能である。この故に中国古代の聖帝禹は九年間治水につとめ、人民が飢えることがなくなり、殷の湯王の時代に七年間、旱害が続いたが、民は生業を失わなかったのである。ところで、現今の諸国司らは天皇の委任に背き、不適切な時期に百姓を労役に動員して農繁期に妨害をなし、侵奪のみをもっぱらにして、民を慈しむ気持ちを持っていない。このため、人民は生業を失い、自ずと飢饉に陥っている。格別の災害がないのに、絶えず人民が飢えているとの報告がなされえいるのである。このためマイ土地賑給(しんごう)(恵み与えること)を行い、倉庫はほとんど空尽となってしまった。ここで災害が起れば、どうしても(すく)うことができようか。悪しき政治の弊害として、こうなってしまったのである。今後は農業が被損したり疾疫以外で朝廷に対し安易に賑給を請願してはならない」(日本後紀)


 それに関して右大臣の藤原園人が申し上げました。


 「付き合いのあった者を忘れず、苦労した者に報いるのは、優れた賢人の教えであります。生命を重んじ大切にする点で、貴賤の間に相違はありません。いま、天下に僕隷を有する人がいますが、常日ごろ使役しながら、病患となると、道端に遺棄し、看護する人がなく餓死する仕儀となっています。この弊害は言い尽くせません。フジて、京職・畿内諸国に命令して、速やかに禁止することを要望いたします。願わくば、路傍に無残な死体の放棄されることがなく、天下の多くの人が天寿を終えることができますように」(日本後紀)


 それに天皇はこうお答えになられました。


 「病患の僕隷の遺棄を禁止せよ。なお、違反する者がいれば、五位以上の者は名前を記録して報告し、六位以下の者は(おん)(しょく)(財物を納入して実刑を贖う)の恩典の有無を論ぜず、杖打(じょうう)ち百とせよ。弾正台(だんじょうだい)京職(きょうしょく)・諸国が犯を知りながら罪を科さず、条令(坊令)・坊長(京内の役人)・国郡・隣保(りんぽ)が隠して告訴しない場合は、みな同罪とせよ。今後は繰り返し禁断し、主な道路に木札を立て、はっきりと告知せよ」(日本後紀)


為政者はどう対処したのか


 岩見・安芸両国で洪水が発生したので、田租を(ゆる)した。


 大隅・薩摩両国で蝗害が発生したので未納となっている正税(公出挙(くすいこ))を免除した。


 各国からの訴えを処理しながら、辺境地の警備についての指示をいたします。


 「辺境ではと都からの侵略を防ぎ、不慮への備えでは食料がじゅうようである。禁煙、辺境では大軍が頻繁に動員されて、軍粮を費やし尽してしまったが、なお、侵犯事件はあり、何が起るか予測しがたい状況である。軍粮の貯えがなければ、突発事件にどうして対処できようか。そこで、陸奥・出羽両国の官人らへの俸禄の財源である公廨稲は正税に混合し、替わりに毎年、信濃・越後両国で仏・出羽国司および鎮守府官人の俸禄を支給することにせよ。ただし、不作で正税に混合すべき分を確保できず、陸奥・出羽両国官人が公廨(俸禄)を得られないときは、実情に従って信濃・越後両国のいずれかで、相換えて負担させるべきである。この改定は臨時の者であり、停止については、後勅によれ」(日本後紀)


筑後・肥前・豊前・薩摩・大隅五国に大風が吹いたので、民の租調を免除した。


 出雲国意宇(おう)・出雲・神門(かんど)三郡の未納の稲十六万束を免除した。俘囚の乱が発生したことによる。


 様々の情況を考えますと、かなり困難な時代であることが判りますが、人民の困難に目配せしながら、国を取り囲む不安にとりくまなければなりません。こんな状況は、現代でもまったく無関係ではありません。


 何といっても現代とはさまざまな点で生活環境が違いますから、古代では止むを得ないことでしたが、果たして古代のような悲劇はないのだろうかと考えると、決してそうではないように思えます。それはマスコミの報道で知ることが、増えているように思えてなりません。


勿論生活環境の違いということもあるのですが、路上に死者が転がっていても手のつけようもないというような状況はありません。しかし新聞・テレビの報道の中に、生活苦や高齢化のために、同じ老齢者の面倒が見られなくなったという人が、手続きをして処理することを諦めて、密かに遺体を隠したまま処理をして知らん顔をしていたことが、思わぬ事情が発生したり、事件が発生したりして、その隠していた問題が明らかにされるというようなことが、どうもこのところ増えてきているように思われるのです。古代と違って、現代では社会保障が行き届かないということもあるでしょうが、当事者の生き方の問題もかなりあるように思われます。


温故知新(up・to・date)でひと言


こんな時に先人たちは、こんなことを言っていたことがあったなという、ヒントになるようなことを四字熟語に託して発言している人がいました。何といっても世相というものです。「雲翻雨覆(うんほんうふく)といって世の人の態度や人柄が、軽薄にめまぐるしく変わること。世の人情の移ろいやすいたとえですが、昨今は本当に人間関係が希薄になってきました。そんな中で孤を大事にするという風潮が大事にされ過ぎ、「澆季末世(ぎょうきまっせ)ということが言われています。つまり人情が薄くなり、風俗が乱れて時代にゆとりを失った様子が窺えます。昨今は時代の変化が激しいので、先人は「狡兎良狗(こうとりょうく)というような表現をしていました。功績のあった幹部や部下でも、利用価値がなくなると捨てられるようなことが、当たり前のように言われたり行われたりしています。しかしそんな中で生き抜くためには、「歯亡舌存(しぼうぜっそん)がヒントになるかも知れません。歯のように強くて堅いものが亡びやすく、舌のように柔軟なものがかえって存続するということのたとえですが、目立つことが大事な時代とは言いますが、地道にやり抜くことがあるということを知っておきたいですね。


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「嵯峨天皇現代を斬る」「参考図書」 [趣味・カルチャー]

日本書紀」上(中央公論社)

「日本書記」山田英雄(教育社)

「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)

「女官通解 新訂」浅井虎夫     (講談社学術文庫)

「官職要解 新訂」和田英松     (講談社学術文庫)

「古今著聞集」日本古典文学大系      (岩波書店)

「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)

「四字熟語の辞典」真藤建郎    (日本実業出版社)

「四字熟語辞典」田部井文雄編      (大修館書店)

「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所     (三省堂)

「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)

「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)

「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)

「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書

)

「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)

「遣唐使全航海」上田雄(草思社)

「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)

「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)

「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)

「壬申の乱」(新人物往来社)

「日本の歴史 2」古代国家の成立 直木孝次郎(中央公論

社)

「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)

「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)

「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)

「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)

「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)

「大覚寺文書」(上)大覚寺資料編集室(大覚寺)

「大覚寺」山折哲雄(淡交社)

「宇治拾遺物語」日本古典文学大系 

「続日本紀」(臨川書店)

「新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)

「大覚寺 人と歴史」村岡空(朱鷺書房)波書店)


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言28 [趣味・カルチャー]

     「つき合い」

 最近は個人主義的な暮らしが定着してしまったためでしょうか、昔のように周囲の人との連携で共に楽しむとか、共に何かを達成すというようなことが少なくなってきているようですね。

 昔であったら、「付き合いが悪いやつだ」と言われそうです。

しかしこの付き合いというのはどういうことから起こった言葉なのでしょうね。

 実は昔流行った「連歌」「俳諧」に関係があったのです。

 この両者の五七五の前につける句とか後につける句を付け合せるのを「付合(つきあ)い」といっていたそうなんです。つまり言葉の関連性を付けることなのですが、この付け合いということがやがてレンガや、俳諧の会合を持つための寄り合いの意味になり、交際の意味になっていったようです。

 人と人との付き合いという意味を考えると、おつき合いにはそれぞれお互いに果たす役割というものがあります。

 付き合いを拒否する時代になって、さっぱりしたという人もいるかもしれませんが、人と出会っていいお付き合いを重ねることで、豊かな人生を気づかれている人々も沢山いらっしゃいます。

 もう一度「お付き合い」の原点について考えたいものですが、もう余計な神経を使うような関係にはなりたくないし、すっきりとした付き合いにしたいものだと思っていらっしゃる方もあるでしょう。

時代ですね。

お付き合いがこんなに難しいものであるということを感じたのは、はじめてのことです。


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嵯峨天皇現代を斬る その九の六 [趣味・カルチャー]

      第九章「人間関係をうまくやるために」(六)

        為政者の課題・「約束違反でも、礼には礼を以て応えよ」

 国と国との付き合い方ということでは、大変難しいことがありそうですが、礼を重んじてやって来た客人に対しては、礼を持って応えるというのが、淳和天皇の姿勢でした。

淳和天皇は嵯峨天皇から為政を託されたばかりです。

 本来は弘仁十五年(八二四)正月でしたが、天皇は新年早々に年号を「天長」とすると宣言されました。

早速ですが親交を重ねている渤海国からは、国家間の儀礼として使いを派遣してきましたので、淳和帝は大極殿にお出でになられて、使節をはじめ朝廷の高官たちの祝福を受けられ、紫宸殿では宴が催され、宮中の武徳殿では、祝いの賭弓(賭けで弓技を競う)まで行われたほどで、右近衛、右兵衛が勝利したということです。いよいよ先帝の時代から、新たな治世に受け継がれたのだという、清新な気分が漂うなかでの年明けでした。それでも天皇は使節に対して、

「使人らは荒波を越え寒風を忘れて到来した。これまでの慣例に従い接遇しようと思うのであるが、年来諸国が稔らず百姓も疲弊している上に疾疫も発生した。これからようやく農時に入ろうとしており、送迎の百姓が苦しむことになるので、今回は京へ召さないことにした」(日本後紀)

為政者・淳和天皇

弘仁十五年(八二四)・天長元年正月のこと

発生した問題とは

 美濃国が「百姓が飢え病んでいます」と訴えてきましたので、天皇は物を恵み与える様に指示されました。そしてやがて、この湯女ことをお話になられました。

「朕は天助を得ず、幼児に母を失い、母の教導を受けることができず、慈しみを被っていない。年月は経ち、消息を通じようにも不可能である。天皇位に当る北極星を見ては心が挫け、白雲に亡母を懐い悲しみ倒れ伏す思いである。親の弔いに関し礼に定めがあるが、母を偲ぶ気持ちが胸中から消えることがない。五月四日は贈皇太后(旅子)の忌日である。どうして忌日の翌日に五月五日節を実施できようか。五月五日節は停廃素べきである。しかし皇位を狙う悪巧みを絶つのは、理として武備であり、悪しきものを防ぐのはまことに軍備である。軍事は国の大事であり、欠くことができない。従前の五月五日節と同様に舎人・兵士らを閲覧したいと思う。これは安定した状況下で乱事に思いを致すことである。公卿らは、舎人・兵士らの閲覧について審議し、奏聞せよ」(日本後紀)

それに公卿は応じてこのように答えました。

「天が育てる万物のなかで、人がもっともすぐれています。皇位に即いた陛下の十分な聖徳に孝を加えることがありましょうか。伏して思いますね、皇帝陛下は人を思う気持ちが深く、親の死を切実に受け止め、恩沢をもたらす南風が吹くと親の恩を思いだし、親孝行の子が褒められた寒泉を見て絶えず母を慕っておられます。母后の忌月である五月に行われる五日節を停廃するという陛下のお気持ちにすべても臣下が堪えられない悲痛な思いをしております。しかし騎射はもっとも大切な武備であり、北方の良馬であっても調教いなければ馭しがたく、山西の優れた武人も修練により持ち前の能力が発揮されるものです。すばらしいことに、九月九日はいわゆる重陽の節で、盛大な縁を催し、古の王者は、多くこの日に騎射を見たものです。伏して、この良き節日に射宮に出御されますことを請願いたします。私たちは詔を奉り、諸官司へ指示して施行することをお願いいたします」(日本後紀)

 安芸国が「灌漑と疾病が同時に発生し、多数の夭死者が出ています」と訴えてきました

 そんな間に平城太上天皇が崩御されました。

 「偉大なるかな。譲位して平城宮にいらっしゃった天皇のおくり名のことを謹んで申し上げます。臣(なにがし)(淳和天皇)は、偉大な天皇の、天地と共に長く、日月とともに遠方にまで伝わるおくり名として、日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおすくにたかひこのみこと)と称え申し上げます、と謹んで(しの)び申し上げます。臣末」(日本後記紀)

 「最近、天が災いを下し、平城太上天皇が死去した。太政天皇の霊は白雲に乗り遠く去り、太上天皇を慕うにも関わらず遥か彼方へ行ってしまった。朕は不徳ながら皇位を守っているが、太上天皇の死を悲しみ、永く哀慕の気持ちを抱いている。服喪の制は古くからいまに至るまで行われ、霊の本意に適うものであり、悲しみを抑え喪を説くことは出来ない。国政に支障が生ずることを恐れるからである。礼制に見る朕の服喪は一月を超えないことになっている。太上天皇の喪に服する必要はないとの遺命には背きがたく、このため悲しみを抑えて、公卿の要請に従おうと思う。広く内外に告げて、朕の意を知らせよ」(日本後紀)

穏やかな所へ移ってもらって、いい風が吹くのを待って帰るようにと心遣いを表されます。しかし元はといえば、百姓たちが疲れ切っていることに対しての配慮の結果でした。しかしその思い遣りの配慮には、もう一つの民に対する配慮がありました。民との苦しみを共有するという、嵯峨太上天皇の思いに共感する天皇の気持ちがよく表れています。もともと大変穏やかな人で学究的なところもある方でしたから、嵯峨太上天皇とは大変ウマが合い、真摯に弘仁の為政を引き継いで行こうとしている姿勢を明確にしていらっしゃいます。

為政者はどう対応したのか

 ところがそれから三年たった天長三年(八二六)三月一日のことでした。その新年早々に朝廷は一寸困った問題に直面してしまいます。

古くから交流がある渤海国が、十二年に一度という来朝の約束を破って、突然使節がやって来たのです。右大臣藤原緒嗣がこう進言してきました。

 「私は接遇せずに帰国させるべきだという意見書を提出したのですが、それについてある人が反論して、『嵯峨天皇から淳和天皇への今回の譲位の素晴らしさは、堯、舜の間の禅譲以上である。これを日本国内に留めて外国使節に告知しなければ、この喜ばしい話題をいかにして海外に広めることができようか』といっております。しかし渤海使節はすでに決められた入朝期限に反して到来していますので、彼らのもたらした信書を受け入れれば、国家の原則に反することになります。それに彼らの実体は商人であって、外国使節ではありません。商人を使節とするのは、国家にとり損失であり、政治の大本に適いません」(日本後紀)

 現在わが国では年来の干害、疫病があって、人、物ともに払底してしまっています。恵みを与えることもできなくなっている上に、もう農繁期になっていて使節の面倒を見ることはできないというのです。

 「天下は一人のものでなく、万人のものです。若し、いま民を損なえば、後代の賢人に対して不徳を恥じることになりましょう。伏して、使節の入京を停止することを要請いたします。私緒嗣は永らく病床に伏し、精神が迷い正しい判断ができない状態ですが、陛下の御恩は忘れません。心中の思いを述べざるを得ず、謹んで重ねて表を奉呈して申し上げます」(日本後紀

 堅実な廷臣として知られる人でしたが、結局その進言は受け入れられませんでした。

国家の威厳を保つべきなのか、永い付き合いのある国に対して、多少の規則違反はあっても礼を尽くすべきなのかと迷うのですが、結局渤海国は大海を隔てているのに、わざわざ新たな政庁の誕生を祝いに来てくれたのだから、その誠意に応えようという、天皇の思いから使節の受け入れを認めることになったのでした。

これは嵯峨太上天皇時代から受け継がれている外交の基本姿勢です。海外との接触が盛んな現代では、こうしたことはごく日常的に行われることでしょうが、まだそれほど海外との交流のなかった時代では、なかなか賢明な判断であったように思えます。

淳和天皇は個人定期なことではかなりきちんと決まったことを実践する方でしたが、国と国との関係を維持していくためには、こうした配慮も欠かせることは出来ないと判断されたのでしょう。

人間関係が薄れている()の時代の現代だからこそ、こんな問題を取り上げる意味があるのではないかと思うのです。現代は確かに人間関係が大変淡白になってきています。できるだけ個人の生活を尊重して、外部との接触によって自由な時間を侵されないようなことを考えなくてはなりませんが、いい人間関係を築くためには、どんな関係を気付いて行く必要があるのでしょうか。

温故知新(up・to・date)でひと言

 やはり「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)といって煩雑な規則や虚礼に近い礼儀作法のことや、手続きなどが面倒で形式的なことは、極力省いていく必要がありそうです。それでも「肝胆相照(かんたんそうしょう)ということを極力心がけなくてはいけないでしょう。お互いに心の奥底まで判り合って、心から親しく付き合うことが根底になければならないでしょう。ひとたび出合った時などは、心の底まで打ち明けられて深く理解し合える関係でいたいと思いませんか。それには先ず「先義後(せんぎこう)()ということは忘れないようにしていきましょう。先ず第一に筋道、道理をよく考えて、利害打算はその後にするという気持ちが必要です。数は少なくてもいいから、いい出会いをしましょう。時間がかかるかもしれませんが、根気よくそんな人と出合えるように努力しましょう。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑28 [趣味・カルチャー]

   「打ち上げ」

 わたしたち映像にかかわる作業にかかわる人にとっては、わりによく知られている言葉ですが、「番組の打ち上げを行いますから、出席して下さい」などという案内状の連絡が送られてくることがあります。また出版関係でも、何人もの人が関係したドキュメント作品などが一冊の本として完成した時など、関係するみなさんに連歌あって、仲間のみなさんと気休めの宴会となるという時などに使われるのが、「打ち上げ」という言葉です。

 言うまでもなく花火を打ち上げようという話ではありません。

 われわれ映像関係者、芸能関係者、出版関係者だけでなく、いわゆる実業界といわれるサラリマンの世界でも、ある企画や事業がまとまったり、その準備が整ったりした時などには、「さ、みんなでパーッと打ち上げでもしましょう」などと景気づけをすることがあります。

 昔は長唄のお囃子で、途中で太鼓の囃子を入れて一段と調子を高めて、お囃子に一段落つけようということだったといいます。

 花火だと打ち上げがあると、必ず「たまや!」「かぎや!」という囃す言葉が叫ばれて、雰囲気を活気立ててくれるのですが、通常の「打ち上げ」ではほとんど、あるところまで時間が経過したところで、中締めといって、一旦参加者一同で手締めを行って宴会の終了をしたことにして、用事のない人はゆっくりと宴会の残り香を楽しんで帰ることになっています。

 昨今は予算のこともあって、あまり派手な「打ち上げ」は聞きませんね。


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嵯峨天皇現代を斬る その九の五 [趣味・カルチャー]

       第九章「人間関係をうまくやるために」(五)


         為政者の課題・「上を削り下を優遇する」


弘仁十一年(八二〇)嵯峨天皇にとっては、大変気持ちの良い新年をお迎えになられました。


この年は新年早々大極殿へ出御された天皇は、臣下からお祝いのご挨拶を受けられると、その後政庁を支える侍臣と豊楽殿で宴を催されました。


そこで天皇は、これまでとは一寸気分の違った挨拶を行いました。


「周では公旦(こうたん)が周朝の基礎固めを褒賞されて、その子孫が七枝族に分かれて栄え、漢では蕭何(しょうが)が功績をあげて礼遇され、一門から十人もの諸侯が出ている。藤原氏の先祖(鎌足)は、朝廷から悪人を追い払った。(大化改新で蘇我入鹿(そがのいるか)を殺したこと)(略)これにより歴代絶えることなく褒賞の封戸を支給され、総計一万五千戸となっている。(略)藤原氏の者は白丁(はくちょう)となった以降も五世までは課税を免除し、これを代々の例とよ」(日本後紀)


その後は踏歌を行い、群臣、渤海国の使節と共に宴を催した。


その時公卿が次のようなことを申し出ました。


掃部(かにもり)内掃部(うちのかにもり)二司は異なる役所ですが、所掌(しょしょう)は共に座席の設営場度です。しかし公会や臨時に座席を設ける時に、両者がお互いに譲り合って、ややもすると、事がなされないしまつです。それだけでなく、所掌が少ないのに官司が多いのは穏やかではありません。私たちが検討しますに、優れた過去の王者は政治を簡素化する手本を示し、昔の賢者は時勢に合わせた改革を重視しました。伏して、両者を合わせて一司西掃部寮として、宮内省の被官とし、職務を遂行させ無駄を省くことを要望します。掃部寮の官員は主殿寮(とものりょう)と同じにしたいと思います。伏して、陛下の祭壇を仰ぎます」(日本後紀)


これは現代の話ではありません。平安時代のことですが、前年とはいささか違った気分で迎えた新年の行事が行わている最中で、天皇の気分も高揚している時を計って、公卿は官人の改革を訴えました。


今年は天皇も去年の収穫がよかったことから、大変気持ちが高揚しております。公卿たちの訴えも、それを許可いたしました。


正月早々に渤海国からの使節も迎えています。


為政者・嵯峨天皇


弘仁十一年(八二〇)四月七日のこと


発生した問題とは


天皇は「上の者の利益を削り、下の民を優遇すれば、民の喜びは限りないとなる」という大胆な発想を生み出したのです。


 神仏への信仰心の篤い天皇は、いつでも天に恥じない姿勢を保とうとしていらっしゃいます。宮中ではそれでなくとも、行わなくてはならない儀式がたくさんあります。その年の始まりの二月には、こんなことをおっしゃいました。


「朕が大小の神事を行ったり、十二月に諸陵へ荷前(のざき)奉幣(ほうべい)をするときは、帛衣(はくい)(帛で作った祭服)を着用しよう正月にと思う。朝賀を受ける時は袞冕(こんべん)十二章(天皇の礼服)を着用しようと思う。月の一日の視告朔(こううさく)・日々の聴政・外国使節の接受・奉幣および大小の会式には、黄櫨染衣(こうろぜんのい)を着用しようと思う。皇后は天皇の行う神事を補佐するときは帛衣を着し、□衣を朝賀の時の服とし、大小の会式では鈿釵(でんさい)礼衣(らいい)(飾りのついた礼服)を着用せよ。皇太子は天皇の神事に従う時と正月朝賀の際には袞冕九章(こんべんきゅうしょう)(皇太子の礼服)を着用するがよい。毎月一日と十五日の参内や元日に群臣や宮臣(きゅうしん)の朝賀を受ける時、および大小の会式では黄丹色(おおにのい)を着用せよ。日常の服制は本日の決定に拘束されなくてよい」(日本後紀)


為政に対して真摯な取り組みの姿勢は、このようなところにもあるのではないかと思われるのですが、兎に角民のために尽くそうという気持ちは、如何なる時にも発揮されるようでした。


 「遠江(とおとうみ)駿河(するが)両国に移配した新羅人(しらぎじん)七百人が反乱を起こし、人民を殺害して屋舎を焼いた。両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧することができなかった。属は伊豆国の穀を盗み、船に乗って海上に出たが、相模(さがみ)武蔵など七国が兵士を動員して力を併せて追悼した結果、全員が降伏した。


 若いのに唐国の歴史にも通じる、教養の深さと才気を発揮されて、思わぬ発想をされる文人政治家である天皇は、気分も新たになった四月の朝議の折には、このようなことをおっしゃったのです。


 「上の者の利益を削り、下の民を優遇すれば、民の喜びは限りないとなる。恩徳を施して自らを責めるのは、王者の政治が重視するところである。ところで、最近天候が調和せず、穀物が実らず、家々に貯えがなく、人民は栄養不足で顔色の悪い状態である。一日の飢えは秋三月の飢えに相当する。顧みてこれを思うと、心中深く憐みの気持ちを抱く」(日本後紀)


そして七道諸国の介(すけ)をもって、夷俘(いふ)のことを担当する専当官としたのです。天皇はさまざまな税の免除を指示されるのでした。


 これには政庁の公卿たちもびっくりしたようです。


為政者はどう対処したのか


 天皇は更にこうおっしゃいました。


弘仁八年、九年には水害・旱害があり、穀物が稔らず、官の倉庫もしだいに空尽化してしまった。公卿の議奏により、しばらくの間五位以上の者の俸禄の四分の一を割き、公用に充てることにしたが、現在、五穀がよく稔り、国の支出を支えることが可能である。封禄等の数を旧例に戻すべきである。


この話は第九章「人間関係をうまくやるために」「その四」「心の持ち方で人生が決まる」の閑談の中に詳しく触れていますのでご覧いただきたいと思います。


 それに対して公卿たちが申し上げました。


 「臣らが議定して削減した封禄を、みな恩旨により旧例に復することになりました。伏して、陛下の御前も同様に常例に復しますことを要望いたします」(日本後紀)


 豊作であった年は豊作であったことに相応しい施策をしようと考えられたのでしょう。天皇は次のようなことを提案されました。


 「針生五人を置き、『新修 本草経』『明同堂経』『劉涓子鬼方』各一部に、『少公』『集験』『千金』『広洛方』等の病気や傷の治療法について学習させ四。特に月料を支給して、学業が成就するようにせよ」(日本後紀)


「百歳以上の者に斛四斛、九十歳以上の者に三斛、八十歳以上の者に二斛、七十歳以上の者に一斛を賜うべきである。国司の次官以上が村々を巡行して親しくみずから与えよ」(日本後紀 


 兎に角、今、稲穂が垂れ下がり、豊年になろうとしている。風水害により、被害の出ることが心配なので、秋稼ぎ


が心配なので、秋稼を祈願して名神に奉幣すべきである。


 山城(やましろ)美濃(みの)若狭(わかさ)能登(のと)出雲(いずも)の国が飢饉となった。『倉庫の貯えが尽き、恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。貸付額は(しん)(ごう)(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ』(日本後紀)


 確かに追い込まれるといい知恵も出なくなってしまうことがよくいわれます。どうもこんな時は古代も現代もないように思われます。


 収穫に期待できる時には、施策にもいい知恵がひらめくことのなるのかも知れません。


 事情はそれぞれ違った場合があると思うのですが、追い込まれた時ほど落ち着いて、じっくり打開策を考えるべきですが、その前にそこまで追い込まれないような策を考えておかなくてはなりません。それにしても組織を統括する者は、嵯峨天皇のような思い切った策を決断できるかどうかということは考えておかなくてはならないでしょう。人の考えないことに挑んで行く勇気が必要です。


温故知新(up・to・date)でひと言


 人の頂点に立つ器量を持っている人だったら、「目食耳視(もくしょくじし)といって、見栄えのする御馳走を並べて目を喜ばせ、衣裳を着飾って美しく装い、人の評判を耳にして楽しむようなことを控えて、「一視同仁(いっしどうじん)つまりだれかれの区別をせずにみな平等に愛し扱おうという姿勢であることが大事です。きっとそういう姿勢を貫こうとする人には、「股肱之臣(ここうのしん)といって、主君の手足となって働く家来。つまり行動、運動の根幹をなす手となり、足となる臣下が集まってくるはずです。真に苦しむ者を救うために尽そうとする姿勢が見えれば、それに共感してついて来る同志も沢山集まってくるはずです。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言27 [趣味・カルチャー]

「ゲンノショウコ」

 昔はよく聞いた言葉でした。

 子供が下痢などして一寸お腹の具合がよくないなどというと、近くの世話好きの小母さんは「ゲンノショウコ、ゲンノショウコ」などと言ってなんでも聞くからと言って薬草を煎じた飲み物を持って来てくれた記憶があります。

 このゲンノショウコなどというものは、結構土手の道端などにはえていたようでしたから、子供同士で遊んでいる時なども見つけたりしていたような気がするのですが・・・。

 兎に角よく利くというので、昔は「医者いらず」とか「医者たおし」などともいわれていたようですが、その。名前の由来にしても、兎に角ゲンノショウコがよく利くので、一寸した時の庶民の手当の智識として広がっていたのでしょう。そんなことから通称ゲンノショウコを当て字にして、「現の証拠」などと言われるようになったといわれています。

 ただ現代ではどうでしょうか。


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嵯峨天皇現代を斬る その九の四 [趣味・カルチャー]

       第九章「人間関係をうまくやるために」(四)


         課題「心の持ち方で人生が決まる」


 最近地震が起こり被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して、天がもたらすものであり、朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのではあるまいか・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁九年(八一八 


発生した問題とは


去年は旱魃で秋の収穫が損われ、現在は日照りで田植えを行うことができなくなってしまったことから、嵯峨天皇は自らの不徳のせいだと、天の下す罰を恐れて内裏正殿を避けて謹慎し、使人を手分けして派遣して群神に奉幣しようと思っていらっしゃいます。天皇と皇后の使用する物品、および常の食膳等は、いずれも削減すべきであると指示していらっしゃいます。そして左右京職に指示して道路上の餓死者を収めて埋葬し、飢え苦しむ者には特に物を恵み与えよともおっしゃいます。不順な天候が続き、雨期なのに日照りが十日にもなっているのです。


 そんなところへまた地震が起こります。


天皇は次第に追いつめられています。


 第二章「安穏な暮らしを保つために」その二「為政者として心掛けること」というお話の中で、すでに紹介しましたが、嵯峨天皇の心情を端的に表明していると思われる史実の記録を、もう一度披露しておきます。


 「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者は物を済うことを何より重視し立派な精神を践み行う者である。朕は日暮れ時まで政務に従い、よる遅くなっても寝ずに務めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では点を動かすことができず、充分な調和を達成できないまま、悪徴がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して、天がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。恐らくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのではあるまいか。朕は天が下す刑罰をおそれ、心が休まらない」(日本後記)


 天皇の気持ちはどうあろうと、人民としては安定しない気象状況にはかなり苦しめられています。


 「常陸の国では去年十一月の格に決められている法によって夷俘に支給した口分田は六年後から租を徴収することになりましたが、彼らは手厚い恩恵に浴しているとはいえ、貧しいので、伏して、しばらくの間田租を免除して優遇することを要望いたします」(日本後記)


そうかと思うと陸奥国からはこのようなことが報告されます。


 「反乱を起こした俘囚吉弥侯部於夜志閉らの仲間六十一人を捕らえましたので、慣例に従い身柄を進上すべきですが、犬羊のようなつまらない彼らであっても、なお、家族のことを思っていますので、伏して、城下に留めおき、その妻子を呼び寄せることを要望します」(日本後記)


というのです。


天皇はすべて望む通りに許しました。


 「朕は才能がないのに、謹んで皇位につき、民を撫育しようとの気持ちは、わずかの間も忘れたことはない。しかし徳化は及ばず、生気は盛んにならず、ここに至りはなはだしい咎めの徴が下されてしまった。聞くところによると、『上野國(かずさのくに)等の地域では、地震による災害で、洪水が次々と起こり、人も物も失われている』という。天は広大で人が語れるものではないが、もとより政治に欠陥があるため、この咎めをもたらしたのである。これによる人民の苦悩は朕の責任であり、徳が薄く、厚かましいみずからを天下に恥じる次第である。静かに今回の咎のことを思うと、まことに悲しみ痛む気持ちが起こって民が危険な状態にあるとき、君一人安楽に過ごし、子が嘆いているとき、父が何も心配しないようなことがあろうか。そこで、使者を派遣して慰問しようと思う。地震や水害により住居や正業を失った者には、使者らが現地の役人と調査したうえで、今年の祖調を免除し、公民・俘囚を問うことなく、正税を財源に恵み与え、建物の修復を援助し、飢えと露宿(ろしゅく)生活を免れるようにせよ。圧死者は速やかに収め葬り、できるだけ慈しみ恵みを垂れる気持ちで接し、朕の人民を思う気持に副()うようにせよ」(日本後紀)


 


為政者の対応つい鬱積しがちな気分を開放しようとされた帝は、嵯峨別院へ行かれたり、神泉苑へ出かけられたりされるのですが、従った重臣達に、こんなことをおっしゃるのです。


 「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者は物を済(すく)うことを何より重視し立派な精神を践()み行う者である。朕は日暮れ時まで政務に従い、夜遅くなっても寝ずに努めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では天を動かすことができず、充分な調和を達成できないまま、悪い徴(しるし)がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して、天がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。恐らくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのではあるまいか。朕は天が下す刑罰を恐れ、心が安まらない」(日本後紀)


 各地では農民たちが中心になって、空海の作った、呪力の籠った言霊である「雨を喜ぶ歌」(精霊集)を神仏に捧げて歌い、箕(みの)や笠をつけて雨乞いの踊りを神仏に捧げています。そんな時でした。天皇は空海に講和を依頼するのです。


「あやまちを犯すものは暗い迷いの心をもち、福をなすものは明るいさとりの心をもつ。明るさと暗さは一つにはならない。迷いの心の強いときは、さとりの心は弱く、さとりの心の強いときは、迷いの心は弱い。さとりの知恵が強ければ、あらゆる徳が完成し、愚かな迷いにより、さとりの心が弱ければ、あらゆる災禍が侵してくる。この主旨を充分理解しているのは、わが師釈尊のいわれる全智というものである。伏して思うに、わが皇帝陛下は、安定した心と、深い知恵を身につけられ、知恵と、慈悲の心が、その胸中にあふれておられる。自らの足を、この汚れた世に踏み入れられ、その手をあらゆる生ある者のためにさしのべられ、この世の万民の父とし、あらゆる国の母となっておられる。堯の子の丹朱は不詳の子であって、釈尊の子善星は、凶暴であった。そのように、万民は愚かであって罪深く、旱魃、疫病と、病がいたるところに起こっている。この塗炭の苦しみをあわれまれて、尊い御身を屈して仏を請かれた。心を清らかな香りのように洗いきよめ、身体を花のようにつつしみ深くされた。多くの僧は思いを凝らして、「大般若経」を転読し、三つの解脱の教えに思いを深めた。なにとぞ願わくば、すべての災禍も、空の一字によって、万民の悪業を融かし去って、すべての存在は仮のものにすぎぬという、人無我、法無我の二つの道理によって、わが大王に幸せを多くもたらせたまえ。風雨が激しく吹き降らずとも、恵みの水は田にあふれ、柳の枝を用いずとも、疫病はすべてほろびるようにさせたまえ。上御一人は、苦しみにただよわせられることなく、下、万民も何事もなく安んじさせたまえ。五種の天神、八道の神々、ともに法のめぐみを浴びて、ひとしくさとりの道へ登らせたら」(性霊集)


これは天皇だけではなく、現代の我々にとっても、心の支えとしておいてもいいのではないでしょうか。


温故知新(up・to・date 


 なにか一人ぼっちを感じたりしている人の心の支えとして、秘かに胸に秘めていてもいいのではありませんか。古くから


和光同塵(わこうどうじん)」という言葉があります。賢人が自分の才智を目立たないようにして、俗塵にまみれ世間一般の常識に従うことも大切だと心得ておきましょうということです。これが誠の知恵ではないかということなのです。矢鱈に知識や博学をひけらかすことがいい時代に思えてしまうのですが、善悪を心にとどめて、「体元居正(たいげんきょせい)」正しい立場に身をおいていることが大事です。「精神一到(せいしんいっとう)」でいきましょう。つまり精神を集中して事にあたれば、どんな難事でも成し遂げることができるように思えます。余計なことに気を散らしている余裕はありません。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑27 [趣味・カルチャー]

   「イモリとヤモリ」

私も戦争時代には、茨城県の潮来にある潮来旅館に集団疎開をしていたことがあったのですが、それから暫くして東京大空襲があってから、母と弟、妹を岐阜県の山にある親族の別宅を貸してもらって疎開しましたので、私と長女の妹も、潮来から引き揚げて、岐阜県の山へ移転していた母たちと合流して、いわゆる山里での暮らしを始めることになったのですが、ここでびっくりしたのは、天上に這っている数匹のヤモリを見た時でした。

 しかしこの時はまだその名称ははっきりと知りませんでした。しかもその後で、壁を這っているのも見つけたのですが、どちらにしても気持ちが悪い存在でいた。

 ところがそれから間もなくびっくりしたのは、先刻天井にいたのは「ヤモリ」で壁を這っていたのは「イモリ」だということを教えられたことでした。

 母屋の若者たちはまるで私がびっくりして話すのに興味がなさそうで、あっさりと私たちが天上に這っているものは「ヤモリ」壁を這っているのが「イモリ」だと答えただけでケロッとしていたのです。

 まだ私も小学校4年生の頃の体験です。

 これまでの東京での暮らしとはまったく違った、山の中での暮らしに興味半分、びっくり半分の暮らしをしたことがありました。

 「イモリ」と「ヤモリ」は当然ですが違う存在だったのです。

 「イモリ」は池や沼、小川、田んぼ、井戸などに住んで、ミミズや小さな虫などを食う両生類なのですが、「井戸」を守っているところから「イモリ」と呼ばれるようになったのだそうです。特徴はお腹のあたりが鮮やかな赤で黒い斑点があって、背中は黒か暗褐色です。

 それに対して、「ヤモリ」は家に住み着いているもので、天井や壁、戸袋の中などに張り付いているものなのです。蚊や蛾、ハエ、クモなどの人間にとっては害になる虫などを食べてくれる存在なのです。

 まさに家を守ってくれる「やもり」出会ったのでした。「ヤモリは「イモリ」よりも扁平で、体は暗褐色の斑点がある灰色で爬虫類です。

 大東亜戦争のお陰で、「イモリ」と「ヤモリ」の違いを知った、思い出の一つでした。


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嵯峨天皇現代を斬る その九の三 [趣味・カルチャー]

 


   第九章 「人間関係をうまくやるために」()


    為政者の課題・「朔旦冬至(さくたんとうじ)と神霊の不可思議」


延暦二十三年(八〇四)十一月一日に、はじめて桓武天皇が行ったと「続日本紀」に記されているのですが、現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるのではありませんか・・・。


為政者・桓武天皇


延暦三年(七八四)十月三十日のこと


発生した問題とは


天応元年(七八一)四月三日。光仁天皇はほぼ十年というワンポイントリリーフの役割を果たされて、四十五歳の山部親王へ譲位して桓武天皇として即位されるのですが、きわめて困難な時代でした。その年の十二月二十三日に、上皇は崩御してしまわれると、葬儀を終えたばかりだというのに、延暦元年(七八二)には朝廷の要人であった氷上川継が、兵を率いて朝廷の転覆を図ろうとしていることが発覚しましたし、三方王もそれに関したりで、長いこと国の為政を支配してこられた天武天皇という伝説的な皇統と違って、まだ皇統としては歴史の浅い天智天皇の系列の方々にとっては、平城京というところはかなり住み難いところであったのです。


「朕は天下に君主として臨んで、人民を慈しみ育んできたが、官民ともに疲れ衰えて、朕は誠に心配している。ここに宮殿の造営などを中止して農業につとめ、政治は倹約をこころがけて行い、財物が蔵に満ちるようにしたい。今、宮の住居は住むのに充分であるし、調度品も不足していない。また寺院の造営も終了した。貨幣の流通量もふえ、銭の価値がすでに下がっている。そこで造宮省(宮城の造宮修理を司る)と、勅旨省(勅旨の伝達と皇室用品調達を司る)の二省と造法花寺司(法華寺造営を司る)と、鋳銭司の両司を止めることにするそれで蔵の宝を婦や市、無駄を省いた官位の政治を尊ぶようにしたい。ただし、造宮省と勅旨省の各種の技術者はその能力によって、木工(もく)寮・内臓寮などに配属し、余った者はそれぞれ配属以前のもとの役所に(かえ)せ」(続日本紀)


 この二年後そんな延暦三年(七八四)ついに十一月十一日には、七十年もの間都として栄華を誇った平城京を去って遷都を行うことにしたのです。しかし遷都を実のある形にするために、政情の安定を願っていたのですが、蝦夷(えぞ)の抵抗が激しいために、その討伐、鎮圧にかなりの財を費やさなくてはならないという問題を抱えていました。その頃は平城京中では盗賊の数が市外に増えるという、物騒な世の中になっていて、街路で物を奪い取ったり、家に放火したりしているという。担当の役所が厳しく取り締まることができないために、暴徒が盗賊となってこのような被害を起こしているのです。


「今後はもっぱら令の規定にあるように、隣組(となりぐみ)(五戸で作る。相検察させ違反を防ぐのが狙い)を作り、間違ったことを検察するようにせよ。職に就かず暮している者や、博打(ばくち)内の輩は、(おん)(しょく)(高官の孫や子の特典)からはずし、杖百叩きの罰とせよ。放火や略奪・恐喝の類は必ずしも法律に拘らず、死刑の罰を持って懲らしめよ。つとめて賊を捕え悪者を根絶せよ」(続日本紀)


 厳しい指示をしていらっしゃいます。


 天皇にとって忘れられない大事な日がもう目の前に来ているのです。それは交野(かたの)百済王(くだらおう)から聞いた朔旦冬至(さくたんとうじ)という吉日だったのです。


為政者はどう対処したか


 桓武天皇は若いころから親族とも思っていた、百済王(くだらおう)のところへ長岡京からよく通ってきていたのですが、そんな時に十九年に一回巡って来る、朔旦冬至といって、陰暦十一月一日が冬至に当たる日が吉日になると言って、その日に大事な祀りごとの日であると言って、郊天祭祀(こうてんさいし)に招かれたことがありました。皇統が正しいかどうかが決まるというのでした。もし即位した者の徳が無くて、天が認めないようなことになったら、政変が起こるというのです。桓武天皇はその時のことを忘れてはいませんでした。そしてこうもおっしゃるのでした。


 「人民は国の根本であり、本が難ければ国は安らかである。人民の生活のもととしては、農業と養蚕がもっとも大切である。この頃諸国の国司たちはその政治に不正が多い。人民を慈しみ治める道の方法に背いていることを恥じず、ただ人民からの収奪が上手くいかないことを畏れている。林野を広く占有して人民の生活手段を奪ったり、多くの田畑を経営して人民の生業を妨げたりしている。人民が弱り憑かれるのはこれが原因である。これらの行為を禁止し、貪りと汚れた心を懲らしめ改めさせるべきである。今後、国司らは公廨田(くげでん)(地方官の俸給として支給される田)の他に水田を営んではならない。また私に欲深く開墾して人民の農業や養蚕の地を侵してはならない。もし違反する者があれば、収穫物と開墾した田はすべて官が没収し、ただちに現職を解任して違勅の罪を科す。国司の同僚と郡司らがそれを知って罪をかばいかくしたならば、ともに同罪とする。もし糾弾して告発する人があれば、その罪を犯した者の田の苗を糾弾告発した人に与えることにする」(続日本紀)


 そうこうするうちに、朝廷にとって大事にされている朔旦冬至の十一月一日がやって来ます。


 「神の霊妙な働きは功をなしても自らの手柄とせず、万物は声明を全うすることを楽しみ、その聖徳は広大無辺で、多くの民がその隠れた働きを明らかにしている。こうして広く天下に徳が及び、陰陽を治め整え、生物を守り育て、偉大な手柄を世に現すのである。朕は拙い身をもって皇位に就き治世に当たっているが、薄氷を踏み奔馬に乗る思いで、常に恐れの気持ちを抱いている。ところで最近、役所の者が、『今年十一月は朔旦冬至です。一の時代が終わり、新しい時代が始まる区切りとなります。冬至に至り寒気が極まると、陽気が少しづつ起こるようになるのでして、この(よろこ)びには謂れがあります』と報告してきた。朔旦冬至のもたらす寿福については以前から聞いている。徳の少ない朕一人のみこの幸運に浴せようか。天下と共にこの幸せを承けたいと思う」(続日本紀)


天皇はそこで、弘仁十三年十一月二十四日の夜明け以前の、懲役刑以下軽重を問わずすべて(ゆる)すと、蔭の途絶した者と才能・功績の顕著な者には、特に高位を授け高い地位につけ、内外の文武官の主典以上の者に位一階を与え、在京の上位の官人たちには物を与え、朔旦冬至の有り難い巡り合わせを天に感謝するようにと布告しました。


 天災による苦闘の中から、民のためにということを先行する姿勢を打ち出し、朔旦冬至という貴重な吉日を使って、様々な階級の者にも幸運を分け与えようとされたのでした。


 天災による被害は古代だけの問題ではないことが、昨今の天災の被害を見ると、決してそれは古代のものではなく、現代の問題としても取り上げる価値があるのではないかと思われてきます。


 古代の為政者たちのように、天災に打ち勝とうとする必死な思いが、現代の為政者はあるのだろうかと考えてしまいます。天災なんだから仕方がないと割り切って、あとは予算次第で援助と割り切れているのでしょう。為政者の思いが伝わりません。こんな時は、むしろ国民が自発的に動き出すことのほうが大事です。


温故知新(up・to・date)でひと言


現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるでしょう。まさにそれが朔旦冬至の行事なのです。それは一つの時代が終わり、新たな時代が始まるという区切りともなる儀式をあらわしているのです。平安時代では宮中へ文武百官が集結して盛大な祝宴が行われます。つまり冬至に至って寒気が極まると、陽気が少しずつ起こるようになるので、寿福をもたらすということを知っていらっしゃった嵯峨天皇は、その幸運は独り占めせずに天下と共にその幸せを分けたいとおっしゃって、刑罰を受けている者を赦したり、才能のある者を顕彰したりして、恩沢と栄誉を施して、朔旦冬至という有難い巡り合わせを広く知らしめたのです。まさに「経世済民(けいせいさいみん)」です。国を治め人民の暮しを整えて。管理するということです。それにも「吉日良辰(きちじつりょうしん)」・・・よい日柄というわけです。まさに大安吉日です。これぞと思うことを「熟慮断行(じゅくりょだんこう)」しましょう。よく考えて充分に検討した上で、思い切って実行することです。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言26 [趣味・カルチャー]

「全然」

 若い人が話す言葉には、とても理解できないような子流行語らしいものがありますが、これ以外に年配者としては、どうもどうしても不可思議儀思えて仕方がないのは、「全然」という言葉の使い方です。

 私たち年配者は、「全然」問えば、否定的な意味で使われることが多かったのですが、若者はそれを極めて反対の意味で使っていることが多いのです。

 映画を観た時でも、気に入らなかった時などは、「あれはまるで感動てきではなかったな」というのが年配者の感想でしょうが、同じ映画を観ても稚も出会ったら「あれは全然感動だったよ」となるでしょう。これは本人の受け止め方の違いによる表現の違いではなく、ごく日常的にテレビなどに登場する年配者と若者の「全然」というという言葉の使い方なのです。つまり我々年配者は否定的なことの時に使うのが「全然」で「とても満足できなかった」とか「とてもとても我慢できなかった」というふうに、否定の意味で使ってきたのですが、若者のように肯定的には使いません。しかし若者はそれをまったく我々とは違った「肯定」の意味で使うのです。

「全然いい」とか「全然助かった」という風にです。しかも・・・テレビなどではそれに対して、訂正するような様子を見せません。

 どうしてなのだろうかと思いだしてから、大分たつので、ついに調べてみましたが、どうやら私の受け止め方に間違いがあったらしいのです。

 東京などでは「とてもきれいだ」とか「とても満足です」という風に

「大変に」とか「非情に」という時に使ってきたのですが、これは本来否定的な表現として使われてきたものであったのに、別の使い方をしたためだということなのです。

 どうやら明治時代ごろからのようですが、実に紛らわしい使い方をしたもののようです。

 したがって若者が「全然」とい言った時は、決して否定的ではなく「とっても」とか「非情に」とかいう皇帝の意味での表現に使っているので、

それを間違っているというのは、明治時代ごろから「否定」の言葉を「肯定」として使ってきた我々の先人に間違いがあったということでした。

 話は藪蛇でしたね。


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嵯峨天皇現代を斬る その九の二 [趣味・カルチャー]

      第九章「人間関係をうまくやるために」(二)

        為政者の課題・「生き方の違いを理解せよ」

 嵯峨天皇が治世を託されてから、これまでと違って刻々と蝦夷に対する意識は明確になってきています。これまで戦いを行いながら、蝦夷の人間の生き方を理解しようという心境に達していたのでした。そして・・・。

為政者・嵯峨天皇

弘仁七年(八一六)八月一日のこと

発生した問題とは

 夏のある日のこと、皇太弟の大伴親王と共に、皇后のいらっしゃる後宮で宴が催されると、親王に宝琴を下賜なさり、彼にそれを演奏させたりして皇后と共に楽しまれました。こんなことを催して、後宮と皇太子とを近づかせようとされたのでしょう。こうして身近なところでは、気遣いも充分に発揮できるのですが、民との接点を円滑に作り出すのは大変困難です。地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。天皇はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、

 「夷俘(いふ)の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(おっそ)(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚(ふしゅう)担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)

俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。帝は彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように、指示をしていらっしゃったのです。

 信濃国が「去年は不作となり、国内は食糧不足です。伏して、穀一万穀を払い下げて商布を買い上げ百姓の窮状を救うことを請願します」と訴えてきたので許可を与えましたし、延暦二十年の強化では「強化に馴染んでいない俘囚らは、内国の風俗に馴れていないので、田租を収納しないことにする。徴収開始については後の詔を待て」と指示している。いま夷俘らは帰化して年数が経ち、教化に馴染んでいるので、口分田を授けて六年後から田租を収めよといい、また大宰府が「新羅人清石珍ら百八十人が聞かして来ました」と訴えて来たので、「時服と路次の間で必要とする食料を提供して、幸便の船で入京させよ」と指示しました。

 嵯峨天皇が治政を率いるようになってから、もう七年にもなります。

大分為政についても落ち着きを持って運営していらっしゃるのですが、政庁を悩ませてきた蝦夷(えみし)俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として連れて来て、各国の民と共に暮らせるようにすることはできないかと、いろいろな面で廷臣たちと腐心していらっしゃいました。伊勢神宮司の大中臣朝臣清持(おおなかおみあそんきよしじ)という者が、規則を守らずに仏事を行ったという問題が取り上げられ、神祇官(じんぎかん)卜占(ぼくせん)したところ、そのようなことをすると祟りを招くというのです。天皇は直ちに大祓いをするように命じて彼を解任したりしました。

神祇官が「高畑山稜の樹木を伐採したので、亀卜を行たところ、祟りの予兆が現われました」と訴えてきましたので、天皇は次のように答えられました。

「朕は心から山稜を敬っているが、官司が監督を怠り、今回の咎徴(きゅうちょう)の出現となった。法を調べると、山稜内のに木の伐採は軽罪ではない。今後は厳しく禁断せよ」(日本後記紀)

風雨が不順で、田畑が損なわれるのは、国司が祭礼を大切にしないからである。ところで、「いま青々とした苗が繁茂している」と耳にしたが、神祇を敬い、おおいに豊作をもたらすようにすべきである。願わくは、良い穀物が畝に満ち、人民が豊かになることを、畿内・七道の職に指示して、官長が慎み物忌(ものいみ)をして名神(みょうじん)に奉幣し、風雨の止むことを祈願し、手抜かりの内容にせよとおっしゃいました。

為政者はどう対処したのか

さまざまな方面に細心の注意を払っていらっしゃるのですが、地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。天皇はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。天皇はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように指示をしていらっしゃったのです。

民の中で抵抗民族であった蝦夷がいるが、朝廷に従がった以上民と差別をしてはいけないと(さと)すのです。

嵯峨天皇の博識による先見性による指摘です。つまり相手を理解せよというのです。

こんな問題はまさに現代的な問題でしょう。気の抜けない問題が山積です。さまざまことに気遣いをなさる天皇は、それだけ目に見えない疲労が蓄積してしまうのでしょう。諸問題の処理に疲れて、とうとう病臥してしまわれたのでした。

しかし天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。蝦夷との共存をするために、その生き方を理解しようという心境に達していたのです。

正に異民族との共存ということでは、まさに現代的な問題提起に、なっているのではないでしょうか。

 確かに人にはそれぞれ違った暮らしのスタイルがあります。まして今回の問題のような違った文化をもった民族の場合は、その暮らし向きについての理解をするということは、容易なことではありません。しかしそれだからと言って、お互いの無理解をそのままにしてしまっていては、永遠に対立は解けないでしょう。先ずはそれぞれの生活の情報を手に入れておいて欲しいということが大事ですが、先ずはマジョリテイ側のマイノリテイに対する度量が必要です。広く包容力が求められるような気がします。

温故知新(up・to・date)でひと言

 理解し合うということを、四字熟語ではどのようなことを言っているでしょうか。清濁併呑(せいだくへいどん)といって、すべてを飲み込んで向かい合う、気持ちの広さが必要です。しかし古来磨斧作新(まふさくしん)という言葉があり\ますが、どんなに難しいことでも、忍耐強く努力すれば必ず成功するということが云われます。人間生来の善意でもって、打算抜きの安らかな気持ちが無くてはなりません。そして生知安行(せいちあんこう)という言葉を思い出しましょう。人間生来の善意でもって、打算抜きのやすらかな気持ちで行うことで、困難な問題も解決の道が開かれます。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑26 [趣味・カルチャー]

「むかしの鶏」

 最近聞えなくなったものの一つは、何といっても代表は犬の遠吠えでしょう。昔は夜などに、町のあちこちから犬の遠吠えが聞こえていたものですが最近はほとんど聞かなくなってしまいました。犬がそれぞれ交信する機会であったのではないかと思うのですが、夜になってあっちこっちから犬に吠えられては、うるさくてたまらないという人が出てきてもおかしくはありません。そんな訴えでも多くなったのがきっかけになったのかもしれませんが、最近は静かな夜を過ごしているのですが、考えてみると昔よく聞いたもので最近聞かない声問えば、鶏の声です。夜明けと共に結構町のあちこちから、コケコッコーという声が聞こえた者でした。最近は都会地の一般の住宅で鶏を飼うという人はいない所為か、ほとんど聞いたことがありません。

 これは雑談になるのですが、昔はコケコッコーと子越えていたはずなのですが、本によってはカカカッカーと鳴いていたというのです。

 カケが鶏のことだというのです。「庭つ鳥かけは鳴く」などと言っていたというのです。

庭で飼う鳥として、もともとカケと呼ばれていたのが鶏であったというおはなしです。一頃からか庭つ鳥が濁って、鶏となったということです。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その九の一 [趣味・カルチャー]

      第九章「人間関係をうまくやるために」(一)


        課題「生き方の違いを理解せよ」


 嵯峨天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。これまで戦いを行いながら、蝦夷の人間の生き方を理解しようという心境に達していたのでした。そして・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁七年(八一六)八月一日のこと


発生した問題とは


 夏のある日のこと、皇太弟の大伴親王と共に、皇后のいらっしゃる後宮で宴が催されると、親王に宝琴を下賜なさり、彼にそれを演奏させたりして皇后と共に楽しまれました。こんなことを催して、後宮と皇太子とを近づかせようとされたのでしょう。こうして身近なところでは、気遣いも充分に発揮できるのですが、民との接点を円滑に作り出すのは大変困難です。地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。帝はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、


 「夷俘の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(おっそ)(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)


 俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。帝は彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように、指示をしていらっしゃったのです。


 嵯峨天皇が治政を率いるようになってから、もう七年にもなります。大分為政についても落ち着きを持って運営していらっしゃるのですが、政庁を悩ませてきた蝦夷(えみし)俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として連れて来て、各国の民と共に暮らせるようにすることはできないかと、いろいろな面で廷臣たちと腐心していらっしゃいました。伊勢神宮司の大中臣朝臣清持(おおなかとみあそんきよしじ)という者が、規則を守らずに仏事を行ったという問題が取り上げられ、神祇官(じんぎかん)卜占(ぼくせん)したところ、そのようなことをすると祟りを招くというのです。天皇は直ちに大祓いをするように命じて彼を解任したりしました 


為政者はどう対処したのか


さまざまな方面に細心の注意を払っていらっしゃるのですが、地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。帝はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、


 「夷俘の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(おっそ)(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)


 天皇は俘囚よりも、むしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように指示をしていらっしゃったのです。


民の中で抵抗民族であった蝦夷がいるが、朝廷に従がった以上民と差別をしてはいけないと諭すのです。


嵯峨天皇の博識による先見性による指摘です。つまり相手を理解せよというのです。こんな問題はまさに現代的な問題でしょう。気の抜けない問題が山積です。


さまざまことに気遣いをなさる帝は、それだけ目に見えない疲労が蓄積してしまわれるのでしょう。その処理のために疲れて、とうとう病臥してしまわれたのでした。しかし天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。蝦夷との共存をするために、その生き方を理解しようという心境に達していたのです。正に異民族との共存ということでは、まさに現代的な問題提起に、なっているのではないでしょうか。


温故知新(up・to・date)でひと言


 確かに人にはそれぞれ違った暮らしのスタイルがあります。まして今回の問題のような違った文化をもった民族の場合は、その暮らし向きについての理解をするということは、容易なことではありません。しかしそれだからと言って、お互いの無理解をそのままにしてしまっていては、永遠に対立は解けないでしょう。先ずはそれぞれの生活の情報を手に入れておいて欲しいということが大事ですが、先ずはマジョリテイ側のマイノリテイに対する度量が必要です。広く包容力が求められるような気がします。清濁(せいだく)併呑(へいどん)といって、すべてを飲み込んで向かい合う、気持ちの広さが必要です。しかし古来磨斧作新(まふさくしん)という言葉があり\ますが、どんなに難しいことでも、忍耐強く努力すれば必ず成功するということが云われます。人間生来の善意でもって、打算抜きの安らかな気持ちが無くてはなりません。そして生知安行(せいちあんこう)という言葉を思い出しましょう。人間生来の善意でもって、打算抜きのやすらかな気持ちで行うことで、困難な問題も解決の道が開かれます。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ8 [趣味・カルチャー]

                                                          「原稿執筆中」1.jpg

                                               「更新変更のおしらせ」

 


   本日四月三十日は更新日ですから、いつも通り行いますが、今週末の昭和の日のお休みがあるのをきっかけに、いよいよ五月の連休に入りますので、今週は来週の五月七日の分も更新することにいたしました。


お出かけになられるのもいいし、自宅でゆっくりなさるのもいいでしょう。そんな時のためにブログでもゆっくりご覧になられるのもいいでしょう。


私もこの機会にゆっくりと休ませて頂きます。


どうぞよろしくお願いいたします。


 


                          藤川桂介


 


令和四年四月三十日 

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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言25 [趣味・カルチャー]

「転生」

宗教界、特に仏教の世界でいわれる言葉に、「転生」ということが言われます。

それでいうとしたら、私たちの暮らす社会・・・つまり現世は、苦界(くがい)ということが言われています。言うまでもなく、楽しく、嬉しい、幸せを感じる時間よりも、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、厳しいこと等々、他得られないようなことを味わうことが多い世界です。

私たちは次の世界・・・つまり何の苦しみもない安穏な暮らしの出来る世界で生きられるような時がきますように、苦界で修業しているのです。だからこそその辛さに耐えられずに、やけを起こしたり、無茶苦茶をやったりしてしまうというようなことをしてしまうと、苦界から別の世界へ移って、別の命として生きることは出来なくなってしまうのです。

「転生」というのは、別の世界で、別の命を貰って生きつづけるということです。

時には別の姿、別の命となって生きて行くということです。苦界での徳の積み方に寄りますが、歴史上の人物たちも、現代に転生して、別の姿で生きているということも出来るのですが、時には人間でないかもしれません。昆虫に転生することもあるかもしれません。兎に角、理想の世界へ転生するには、この苦界である現世で、どう生きて行くかが大事なようです。

一生懸命に生きて行きましょう。結果を考えないで、真っ直ぐに生きて行きましょう。そんなことが出来難い世の中ですが、それを貫くことが大事なのです。果たして、あなたはどんな世界、どんな命として「転生」することが出来るのでしょうか。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の六 [趣味・カルチャー]

     第八章「説得力のある訴えをするために」(六)


       為政者の課題・「地方は特色を活かせ」


 地方はその地方の特色を取り上げて魅力的にしていかなくては、苦境から脱することが難しいということに気が付いて努力し始めたのですが・・・。


為政者・仁明天皇


天長十年(八三三)五月十日


発生した問題とは


 この都の二月に淳和天皇から譲位されて、皇太子の正良親王が即位して、仁明天皇となりました。


 「武蔵国は広いので、旅をするのに困難が多く、公私の旅行で飢病に陥る者が多数にのぼります。そこで多摩・入間両郡の郡境に悲田院を置き、六人の官人の俸禄をさいて、食料の原資とすることを企画いたしました。割いた俸禄は出挙に登録(利息付貸付)しておきます」(続日本後紀)


朝廷はそれぞれの国の特色を活かそうと考えた結果、相撲が民の娯楽でもあるし、武事の訓練にも欠かせない、最も大事にしているものであるという知らせがあったので、それを利用しようということになって、越前・加賀・能登・佐渡・上野・下野・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・安房等などの国に指示して、強力の持ち主を探し出して、朝廷へ差し出すように指示したりいたしました。これまでは豊作を祈念して、神泉苑などではしばしば相撲を取らせたりしてきたのですが、武事にもその訓練のために力が利用できるということで工夫されたのでしょう。地方によって問題も多く、それを解決してくれという要求も多いところから考えられた施策でした。


ところがようやく新たな天皇による為政が始まったばかりだというのに、平安京には相変わらず異常気象が襲いかかり、北山に黒雲がたちこめて山嶺が見えなくなり、終日寒くて多くの人が綿入れを着こんだということがいわれました。しかし現実には、そんなことでは片付かない問題が持ち込まれてくるのです。即位間もない時には馴れないさまざまな行事に遭遇しても、実務に詳しい廷臣たちが就いていますから、為政に関しては支障のないように処理してくれています。間もなく持ち込まれたのは大和国の問題です。年来穀物が稔らないために、規定の稲の貸し付けもできないので、富裕な者から稲を借り受けて飢民の生活の足しにするのですが、その後官人は稲を貸し付けたまま利子を回収することを怠ってしまうということが起こっているのです。国の財政を考えると、収穫時にはきちんと返済させるようにしなくてはなりません。そんなところへ後追いするように京、畿内・七道諸国が飢饉に見舞われてしまいます。


為政者はどう対処したのか 


 「ひとたび穀物が不足すれば、百姓は不満を抱くものなので、必ず貧乏の者を救済するという原則に従い、併せて勧農を行うことにする。これは病む者を救い、国家の基礎をかため、民の生活を安定させることである。時々に沿革はあっても、みなこれを目的にしている。朕は謹んで天命を受けて人民を労り、世界を和平にする方策を立て、仁徳が行き渡り、人々は長命を享受できるようにしたいと思っているが、聞くところによると昨年は穀物がはなはだ稔らず、民は飢え病になっているという。朕は支配者として臨みながら、民を安らかにすることができていない。静かにこの事を思うと憮然たるの気持ちの止むことがない。ここに暑季が始まり作物が繁茂する時期に当たり、人民を憐れむ気持ちがなければ、恐らくは努力がたりないことになろう。京・および畿内・七道諸国の飢民に対して、物を恵み与え、その生活を支え済うことが出来るようにせよ。ことは国司に委ねるので、充分に考慮し、努めて恵みが行きわたるようにし、朕の意とする所に沿うようにせよ」(日本後紀)


天皇はそうした厄介な困難に対処することで、お疲れになって、病を得てしまわれるのでした。


公卿たちは殿上に控えて、京の西山で修行する仙樹(せんじゅ)という


名の呪術で知られた僧侶と僧都らが、共に天皇のために祈祷を行った襖七条と錦七百屯を七大寺(東大・興福・元興・大安・薬師・西大・法隆寺)に分けて送り、転経・薫修(香気が残るように影響を生み出すよき修行)を行って、直ぐに病が癒えるよう祈願した。しかし諸国では疫病によって若死にする者が多いということを聞いた天皇は、修善(しゅうぜん)(仏教の良き修行)なくしてどうしてこの災いを(はら)うことができようか。諸国に司令して修練を積んだ僧侶を、大国では二十人、上国では十七人、中国では十四人、下国では十人程呼んで、三ヵ日間、昼は『金剛般若経』を転読し、夜は薬師悔過(やくしけか)(薬師如来を本尊として懺悔する仏寺)を行なえ。布施は、仏前に穀十斛、僧侶に三斛を施せ。正税をもって当てがうこととし、精進に努めさせよと指示されると、更にこうおっしゃいました。


「雲雨により天は広く慈しみを下し、恥を耐え忍び他人の欠点に寛容であることが君主のとるべき態度で、これより恩沢を施すものである。朕は謹んで皇位に就き政治のあり方について諮詢(しじゅん)し、人民を大いに庇護し、安んじて生活できるようになることを期している。ところで、罪人を放免する赦令は、本来悪人にとり好都合で、暴れ馬に喩えられる危うさを伴う施策である。朕はこのことをしらないわけではないが、悪を悔い自らを新たにし、旧悪変じて善へ遷(うつ)るようにさせたいと思う」(続日本) 


罪人に対する扱いについての指示をされると、この頃疫病が発生し、しばしば若死にする者がいると聞いている。天下諸国に司令して、疫病をもたらす疫気を謝絶し、この災いを攘うべきである。ただし、病人に対する加薬や潔斎については従前の決まりに従ってやれとおっしゃったのでした。


地方の問題に取り組み始めた時に病臥してしまわれたのですが、間もなく回復されるのでした。


兎に角地方の特色を活かしていこうとし始めたところです。正に現代的な課題だったのです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 現代の地方創世大臣はそれを強力な形で行おうということだったはずですが、はたしてそれは適切に、有効な形で行われているでしょうか。それぞれ地方には地方の特色があるのだから、それを活かしてその地方を活性化しなさいと言うのはすでに平安時代に行われた大変先進的な発想に思えてなりません。つまり地方は情勢の変化によって「臨機応変(りんきおうへん)に適切な対応処置をとることを促しますし、為政者はそこに住む民が何を求めているのかということについて施策を考えて、政治家はよく気が利いて世話のいき届く公僕でなくてはなりません。そんなことから使われる言葉に、「麻姑掻痒(まこそうよう)という言葉があります。中国の伝説的な仙女といわれる麻姑は、爪が長いので背中が痒い時に借りて掻いてあげるという伝説から生まれたものです。民がこうあって欲しいと思うことを、少しでも早くやるということが大事です。そんなことを考えると、地方にとっては、先ず大都会との連携を速やかにする、


通八達(しつうはったつ)が大事です。つまり道路が四方八方に通じていて交通が便利であることです。さまざまな経済、文化が取り入れられるようにしておくことが大事ということではないでしょうか。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑25 [趣味・カルチャー]

  「領袖」

 最近の自民党の派閥について触れますと、安倍派、茂木派、麻生派、岸田派、二階派、森山派、無派閥というものがあります。それぞれは清和政策研究会94人、平成研究会志公会50人、宏池会45人、志帥会43人、近未来政治研究会7人という具合に、派閥には従う同志がいるのですが、どの派閥にもそこの繋がる議員を束ねる統率者がいますが、それを一般的に「領袖」という言い方をいたします。この他に派閥を離脱している衆議院議長の細田博之(安部は)、参議院議長に山東昭子(麻生派)という人がいます。が、いずれにしても、銀たちは領袖の目指す方法に向った活動をしているのですが、やがてその領袖が国の為政を託された時には、その手足となって活躍する大臣に指名されて、その時その時の政治を動かして行きます。

 もうご存じでしょうが、現在は第三派閥である岸田派の領袖である岸田文雄氏が総理大臣となって為政を仕切っていらっしゃいます。

 それぞれの派閥では、その領袖が為政の最高責任者・・・つまり総理大臣になるのを目指して活動するのですが、その結果目的を果せば、自分にその恩恵が回って来るわけです。

 その弊害のために、どうしても年功序列が尊重されたために、委員会での野党との質問に満足な返答が出来ない大臣が登場して顰蹙を買ってしまうということがかなりありました。


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