「畏怖と恐怖の谷間」


 流行というものが作られるということを、つくづく考えることがあります。何かをきっかけにして、一気に広がっていくためにはそれなりに必要なものがあります。そのきっかけとなるのに必要なものは、起爆剤・・・つまり関心を呼び起こす素材がなくてはなりません。そしてそのあとには、それが更に大きな爆発にしていくための誘発剤・・・大きな組織や資金が必要になることがあります。つまり動き始めた気分的なものを更にその気にさせるようなものです。そうした努力と投資を積み重ねて、市民の関心を高め、口から口を通してその裾野を広げていくかということが、もっとも大事なことになります。


 今回取り上げたいのは、ただの「流行」ということではありません。


私たちはいつもこの「流行」ということで揺さぶられつづけていますが、


かつて社会的な現象になった「朝シャン」というものがありました。特に若者を中心にして大流行したことです。企業が仕掛けたことはあったのですが、それまで化粧などして学校へ行くなどということがなかった若者に火が付て、大ブームとなって広がりました。今ではそんなことが一般的に行われるようになったのか、特別騒がれることがなくなりましたが、あの時は大手の化粧品会社が宣伝機関を使って仕掛けた流行でした。


 まぁ、特にファッション、化粧品などに関しては、アパレル産業が仕掛けて流行を作り出すことはよく知られていますが、どうも流行とか風潮などと言うものは、確かにある仕掛けがあって、うねらせることができます。


 昨今のように、いろいろなものに国境がなくなってきていると、或る国で起こった風潮が、そのまま日本へも入って来て、その時代の気分とフィットしてしまうということが起こりやすくなっていきます。


そんなことの一つに、恐怖物とその周辺の推理物の流行というものがあるのではないでしょうか。出版物の不調ということが言われていますが、心理的に不安な時代にぴったりとフィットしてしまって、映像も小説もそういった類のものが好まれているようです。これは私たちの世代がまだ若かったころからの流行り物で、この十数年は同じようなものがつづいているようです。


 かつて拙作「宇宙皇子」が出版されたのをきっかけにして、古代史ブームが何年もつづきましたが、今は所謂ホラーと推理物が生きているようですね。私はそういった類のものはあまり好きではないのですが、それだけ時代が複雑になり、厳しくなって、心理的にもゆったりとはしていられなくなったことが原因でしょう。お笑いブームもそろそろ限界を感じます。


多分、それまでゆったりとした生活を支えてきた、経済的なバブルが崩壊したり、時代の風潮で家族が崩壊したりといった、生活の根底を支えてきたものが、みるみるうちに崩れていってしまうといった、時代の転換期でもあります。


現実を見つめるということは大事だと考えるのですが、その不安に便乗して恐怖をあおるようなものは好きではありませんので、そういった作品はほとんど書いたことはありません。まだそれらをその人の楽しみだと割り切って捉えている範囲ではまったく問題ないのですが、世の中にはすぐに便乗する輩が登場してきます。模倣する軽薄な輩も登場します。人を恐怖に陥れると言うことが、実際には起こってもらいたくないことです。そこで私が敢えて訴えたいものがあります。


同じようなおそれということなのですが、所謂恐怖とはまったく異質な「畏怖」というものを思い出して欲しいのです。


この「おそれ」には、敬うという意味が含まれていますが、前述の「おそれ」というものには、「敬う」という要素はありません。


 この敬い恐れる対象物は何なのでしょうか。その代表的な存在はといえば、「神」という存在です。しかしそういった絶対的なものの存在が薄れていったときから、どうも社会道徳も、倫理観も薄れてしまって、人を恐怖に陥れるような事件が頻繁に起こるようになったのではないかと思ったりするのです。かつては絶対的な存在で、侵しがたい存在であった「神」というものが、現代ではただ単に信仰の対象物であって、信仰と関係のないものにとっては、まったく無関心といったものに変ってしまいました。


 「神」に咎められ、裁かれ、罰を科せられるという「恐怖」も、まったくなくなってしまいました。


現代にはそういった、超自然的な存在が存在しなくなってしまったのでしょう。それと同時に、人間関係においても、その人の前では絶対的に圧倒されてしまって、言葉も容易に発せられなくなってしまうという人は、ほとんどいなくなってしまいました。つまり「畏怖」ということが当てはまる存在が、ほとんどなくなってしまったということです。


 そういったものを失ってしまった人々は、人工的に生み出される「恐怖」というもので、面白がっています。


 果たしてそんなことでいいのでしょうか・・・。


 「神」にひれ伏すような謙虚さというものを失った人間たちは、傲慢不遜に生きるばかりです。人が人を恐怖に駆り立てるような事件が続発しています。それは絶対に、「恐怖」でなく、「畏怖」する存在を失ってしまったからです。


 神を信仰せよなどということは言いませんが、少なくともその人・・・またはある存在の前では、思わず頭を下げざるを得なくなるような畏れ多い人、畏れ多いものを持っていたいものです。


もしそういった人が増えていってくれたら、少しは謙虚さが甦ってくるし、自分勝手に振舞う事件は起こらなくなるだろうし、被害者も出ないですむかもしれないと思うのです。