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「落穂ひろい 21」夢は見るものではない [趣味・カルチャー]

 

かつて私は若い人へと言うコメントで、「夢は見るものではない」といってきました。答えをはじめに言っておくと、「夢は追うものですと言うことなのです。


そこで再び「夢」ということに話しを戻しましょう。


 若い時には、まだ生きていく間には、さまざまな障害があって、思い描くことはほとんど思うように・・・つまり夢で見たようなことがうまくすすんでは行かないようなことが起こります。そのために若者は、ジタバタとし始めてしまいます。


 「私は運が悪いんだ」といって、落ち込んでしまったり、運が悪いんだと思いがちで、落ち込んでしまったり、やけを起こしてしまったりするものです。


 そこでこんなことを書くことにしたのです。


 年齢を積み重ねてくると、同じように夢は見ることがあっても、それを現実のものとするためには、よほど努力を積み重ねなくては、夢に近づくことが出来ないということを知るようになります。


 その結果、あれもこれも夢ばかりというような、考えなくなります。


 あれこれと考えた結果、「よし、これに挑んでみよう」ということになって、ようやく夢の実現に挑み始めるのです。もちろんその実現に到るまでには、さまざまな困難と出会うでしょう。そして必死でそれを乗り越えるために頑張るでしょう。


 実は夢を見る効用と言うのは、「夢を見ると言うことではなく」「夢を実現するために、さまざまな苦難と遭遇するということに意味があるのです。


 そういうことを考えると、本当に「夢を追ってみないと、その味わいを知ることもないでしょうし、夢見たことの喜びに浸ることも出来ないでしょう。


 若者は施肥沢山夢を見て、それだけで終えずにその夢を現実の物にするために、必死で起きかけて貰いたいのです。その時本当に夢を見る意味を知ることになるように思えます。


 何事も、願ったものが直ぐに手には入らないということを知っているだけでも、かなり前進して行けるような気がいたします。


 


 


         藤川桂介


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「落穂ひろい 20」 嬉しい連休の事情 [趣味・カルチャー]

 九月は連休が何度かあり、思わずかつて連休が嬉しい贈り物であったことがあったのを思いだしてしまいました。

 丁度脚本家として活動できる機会がかなり多くなり、家庭ももって子供も二人持った時代は、寝る時間もいらないほど執筆の依頼が多くて、とにかくその原稿の締め切りに追われていた頃のことです。執筆依頼も一本、二本と言わず申し込みがあって、必死であった頃のことです。兎に角原稿の執筆でほとんど家庭生活には、ほとんど関与することが出来ない状態だったのですが、脚本家としては息抜きが出来る日は土曜日、日曜日ぐらいで、後はほとんどや進むという時間はとれませんでした。プロダクションの担当が催促の電話をしてきたり、やってくるということもない土曜日、日曜日だけは、私の自由なのですが、原稿を間に合わせなくてはならない事情がありますから、まったくサボる機会にも鳴りませんし、子供と遊んでやる時間もありません。


そんな中で働き方改革という問題が議論される時代の走りで、ついに土日はほとんどのプロダクションから原稿の催促にやって来る端とはいなくなり、やっと原稿の執筆をサボって子供の生きたいところへ行ってやったりする機会も出来たのですが、そういった家庭サービスをした分は、原稿執筆が遅れるきっかけとなってしまいます。脚本家たちにとっての唯一自由になる土日ですが、大変苦労していたのですが、そんな中で連休がある時は、ほとんどプロダクションのスタッフはやって来ないということが判った時には、兎に角土日と連休の時間をうまく使って、なんとか原稿の執筆と、普段まったく面倒を見てやれない日常生活に、やっと首を突っ込んでやれる機会となったのでした。


遠い昔のことですが、兎に角連休が来たときには遅れる原稿を間に合わせたり、家庭に多少でも面倒を見てやったりすることが出来る唯一の休息の時ででもありました。


 思わず連休がつづく九月といういうことで、嬉しかったり、ほっとしたりした連休の効用について書く気持ちになり巻いた。


 


          藤川桂介


 


 


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「落ち穂ひろい 19」 弱くなったなあ [趣味・カルチャー]

 

何でもやろうと思うことはやるべきで、我慢などしなくてもいいという時代です。しかし・・・。最近の事件に思うことがあります。


 人の命が軽くなってしまったなと思う事件が、テレビ・新聞・雑誌でしばしば報道されます。特に十代、二十代、三十代の失恋した男性が、ほとんど相手の女性が男性の意のままにならないと言うことで、感情の高ぶるままに殺人に走ることが大変多いように思います。


私も若い頃から、何度失恋を経験して悔しい思いをしたことが何度もあります。その度にしばらくは残念な思いに悩みましたが、結局は縁がなかったのだからと思って諦めました。そんなことは友人たちにもかなりあったようですが、これまで事件に発展したような事はありません。しかし昨今はいささか男性が弱くなってしまったのでしょうか。努力をしてももつれたまま問題が解決しないといって、感情の赴くままに相手を傷つけてしまう若い男性が多いようです。そんな事態に追い込まれてしまったら、もっと自分の思いをくみ取ってくれる女性との巡り会いを期待して、頑張ろうという気持ちにはならないのでしょうか。


そんな時にめそめそしているのでは、相手から見ると、かえって魅力のない男性に見えてきます。自分の良さが判ってもらえないのであれば、思い切って捨て去ってみてはどうでしょう。もっと気持ちのいい女性と巡り会う機会もあるはずです。そのくらいの我慢と、切磋琢磨する自分がなくては、やはり相手にとっては、とても魅力的であるとは思ってくれません。男性は男性らしく毅然として生きましょう。思い通りにならないからということで凶器を振るうというのは、あまりにも子供っぽいし女々しく思えてきます。失恋による殺人事件の報道を見る度に、どうして最近の男性は我慢が出来ないだろうかとイライラとしてしまいます。現代は、女性たちが大変自立心が高まっている時です。男性はそのことをじっくりと考えてみる必要があるようです。昔は日常生活のなかで、我慢しなければならない事が沢山あったので、辛いことがあっても、いつかそんなつらさから抜け出してやろうという、苦難と闘う気力も生まれてきたものです。甘えて育てられた事による結果なのだろうか。男性はただ優しいだけでなく、時には毅然として自分を律することが出来る人が、多くなってくれることを祈りたいと思っている昨今です。


 


           藤川桂介


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「落穂ひろい 18」 二律背反の結果 [趣味・カルチャー]

 

今年わたしは卒寿を過ぎました。


まだ先の話だと思っているうちに、年齢を積み重ねてきました。


若いころは年齢的に二十年も先のことを考えても、まだまだ先のことだからということで、とてもそんな先のことについては、まったく想像の世界でしかありませんでした。


しかし・・・まだまだ先のことだからといって考えもしないでいた年齢に達してみると、たしかに若いころま二十年も先だからとか、だ三十年も先のことだからとか言って無視してきたはずなのに、知らないうちにその年齢に達してしまったことに気が付いて。愕然としていまいます。


 あっという間に九十歳を越えてしまったのです。まだまだ到達するには、かなりの年月を費やすと言って、ほとんど気にしないでいたのですが、実際には心理的に思いがけことにぶつかることが多くなりました。


 沢山の親しくおつきあいをしてきた人、共に仕事をしてきた人そして小学校・中学校・高等学校・そして大学で出会った友人たちの多くの方々が、早々と他界してしまって、気楽に雑談をすることもできなくなってしまったということがあります。しかし私は幸いにも健康であるために、多少の老化現象は否めませんが、元気で動き回ることもできますし、このような雑文をしたためたりもできます。大変有難いことだと感謝したいと思うのですが、しかしそれだからと言って、特別元気でいることが、一概に「有難いことだ」とは思えなくなってきているのです。時には真反対に、このまま生きつづけて行くことが、「虚しい」と否定する声が心の奥から聞こえてきてしまうのです。つまり「有難うございます」とお礼を申し上げながら、一方では「いえ」と長寿が虚しくなってしまうという、二律背反の問答を繰り返すようになっていたのです。 そこで、その虚しいという気持ちと戦えないかと考えた末に、夢中で最後の一作を書いてみようかと決心したというわけです。出版するとか、しないとかは別問題です。二律背反の「虚しくなる」気持ちと戦おうという気持ちで、必死で原稿を執筆しているのです。その一日、一日は決して虚しくはありません。そんな積み重ねをしながら天命が尽きるまで生きてみようと思うようになりました。


 そこで作家ではない方々にお勧めです。別にお金をかける必要もありません。何か夢中で追いかけてみるものを探してみませんか。きっと二律背反の、長寿でいることに付きまとう、「虚しい」という思いをしないでいられるような気がいたします。


 


         藤川桂介


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「落穂ひろい 17」季節の変化を知る [趣味・カルチャー]

 

若いときは動く時代の変化については敏感で、何か流行っているのかとか、どんな食べ物が流行っているのかとか、特にファッションに関しては敏感なものです。しかし季節の微妙な変化・・・つまり植物などの変化などという物に気が付くこともないし、興味も関心も薄いものですが、高齢化すると、時代の波については関心が薄れて、それまでほとんど無関心であった季節の変化に敏感になったりしてきます。


私などもそうですが、朝などの目醒めが早くなってくるのに従って、夜明けの時間が刻々と変わっていくのが、敏感に変わっていくのを感じます。


特に激しく感じるのは、食べ物でしょうか。その代表的なものといえば、おでんや鍋物などしょうか。真夏におでんはありませんからね。


季節の変化といえば、ああ、日の出がこんなに遅くなってきたのかとか、こんなに早くなったのかということで、季節の変化を感じます。兎に角微妙に変化するものに対しての反応です。


 高齢化すると、激しいもの、派手なもの、激しいものにはあまり興味を持ちませんが、普段見落としがちなものに気がついたりするものです。そのために口うるさくなって、若い者から嫌がられたりするものです。


 お互いに年齢差というものがあるのだなということを知っておくべきですね。


それを理解さえしていれば、悶着を起こすようなことはなくなります。


 


         藤川桂介


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「落穂ひろい 16」 昨今の外出事情 [趣味・カルチャー]

 

昨今は家族がそれぞれ独立したために、いわゆる実家といわれるところには、高齢化した親だけが住んでいるというご家庭が多くなりました。隣近所が同じ家族同士でお付き合いしていた時代がなくなって、昨今では家族構成が激しく変化してきました。高齢化した方が亡くなってしまって、一人暮らしという老人が増えてきたために、ある日突然近所付き合いの方がいなくなってしまうことが多くなり、身近な環境が大きく変わりつつあります。残された人が一人きりになった高齢の方が、若者のところへ引き取られてったり、施設へ入ってしまったりすることも多くみられます。


拙宅の場合は両隣の方が、それぞれの事情で一人暮らしを解消して、長年住み慣れた土地を離れて、若い家族に引き取られたり、老人施設へ移って行きました。


 これまではちょっと数日間家を空けることがあっても,左右どちらの家の方に、留守にしますのでよろしくお願いたしますと頼んでおけば、ほとんど多くの場合心配なく外出できていたのですが、昨今はそういった関係がすっかり崩壊してしまいました。現在では住宅地の事情がすっかり変わってしまって、古くからその土地に住み続けるという家庭が少なくなり、新たな住民が移り住むようになってきました。そのためもあるのでしょう。昔の隣組という付き合いは崩壊してしまいつつあります。


 長期に外出する時なども、ネットを使って外出を、知人・友人たちに知られてしまうと、却って良くないことを考える者の標的になってしまうので、下手に家を空けることは明らかにできません。老人施設へ入ってしまったり、他県にお住いの親族のところへ引っ越してしまったりで、おつきあいのあったおとなお隣りにお願いすることもできなくなってしまいました。


 兎に角数日家を空けるということは、大変気楽にというわけには、いかなくなってしまった昨日今日の外出事情です。


 時代なのですかね。


        藤川桂介


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「落ち穂ひろい 15」猛暑のなかで [趣味・カルチャー]

 

物書きの作業をしている時は、書斎に籠っていますから、兎に角猛暑に襲われている時は、まったく周囲への遠慮なく、半パンに裸という姿で作業をしているのですが、突然来客のあったときには、大慌てになってしまいます。


兎に角浴衣を取り出して格好をつけることになります。


しかし最近の夏の暑さは、ちょっと我慢するのに参ります。


あまり家に籠っているのも良くないということで、時には手紙を出しに、ポストまで歩くんですが、最近はその一がかなり減ってしまったこともあって、ポスとまで猛暑の中を歩くのはかなり負担ですが、もう一つは図書館へたのだった本を鳥に行ったり、返しに行ったりという事も、その往復には高齢になった私たちには負担になります。しかしこれもわずかな運動であると思って、時々書斎から抜け出すことにしています。


昔はこんな時には必ず自動車を運転して、仕事場にしていた軽井沢の山荘へ逃げて仕事をした者ですが、昨今は運転免許証を返却してしまったために、娘の会社での勤務状態次第で、送って貰うことが思うようになりません。


やはり猛暑の中で、書斎に籠って頑張るしかないようです。


 


     藤川桂介


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「落ち穂ひろい 14」 運転免許返納のこと [趣味・カルチャー]

 

 連休が来ました。


 お出かけになられる方も多いと思いますが、きっとあちこちで事故のニュースが出るでしょうね。その度に思いだす事があるのです。


 新聞・テレビの報道で、高齢者の自動車事故がかなり頻繁に報道されると、運転免許証を早く返納してしまった私は、大変複雑な気持ちになるのです。


 人それぞれに住んでいるところでの自動車事故についての問題については、一律には言いにくい問題があるのですが、想い出すのは、運転免許証の返納を決断した時のことを、改めて想い出します。


 現役であった頃は、自動車は不可欠でしたから、盛んに使いましたし、気休めにも充分に使うという自動車好きであったのですが、運転免許証の返納のために出向いた世田谷警察署では、担当の女性警官から、「よく決心なさいましたね」と言われるほど、まだ返納はもったいないと言われる状態でしたし、私自身もうちょっとは運転を楽しみたいとも思っていたのですが、仕事にけじめをつけたこともあって決心したのです。八十歳前後の事でしたが、その時はきっぱりと決断したつもりだったのですが、その後日常生活の中で、如何に自動車が使われてきたかということを知る機会が、様々な機会に起こりました。来客があった時、前は近くの駅まで送りますよと言ってハンドルを握った利、日常生活の中でも一寸買い物に行こうか、一寸遊びにいこうかと、「ちょっと」という時に利用してきていたのですが、免許証の返納をしてから暫くすると、つい自動車があったら、「ちょっと」済ませることが出来たのにと、ぼやいてしまうようになったのですが、それから暫くした頃から、テレビ、新聞などで高齢者による交通事故のニュースが、さかんに報道されるようになりました。


 その度に、やっぱり早めに決心して返納したことは、正解であったと思えるようになリましたし、事故を起こした高齢者の姿を見るにつけて、どうして決心できなかったのだろうかと思ったりしているのです。事故後の家族の話が報道されることになると、なおさら決断のしどころを失った結果であったなと思うことしばしばです。


卒寿の年を過ぎて、やっと車社会から縁が切れた思いを書くことにいたしました。


 今はバスと電車で移動をしていますが、ゆっくり生活を満喫出来るようになりましたので、ある程度高齢に達した方は、是非思い切って運転免許証の返納を決断出来る人になってほしいと、説にお祈りする次第です。


 


                                       藤川桂介


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「落穂ひろい 11」 卒寿のご挨拶 [趣味・カルチャー]

 

    卒寿のご挨拶をいたします。


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本来は一六日の当日に公開する予定でしたが、PCの不調で遅れてしまいました。今回はその時の原稿のままで公開いたします。


失礼のお詫びです。


どうぞよろしく乙行き会い下さい。


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 せめて最後の作品ぐらい、締め切りなどというせせこましい作業ではなく、まとめておきたいと思って、好きな題材を用意して取り組んでいるところです。


 じっくりと、納得できるまで考えて、執筆を続けように心がけているのですが、次第に記憶力が衰えて来てしまって、昔だったら間違いなく古代の組織の規則、官職など、簡単に思い出せるのに、次第に高齢になると、簡単な決まりに関してでも、なかなか思い出せなくなっています。


 そんな中でどうして原稿を書き続けようとするのかと言えば、一つは脳の活性化のためです。真剣に忘れたことを思い出そうとしたり、アイデアを煮詰めたりする作業は、それなりに健康維持に役立っているようです。


 お陰様で歩行することに多少頼りなさを感じたりして、昔の颯爽と歩いていた頃のことを思い出しては苦笑してしまいます。


 それでも映像時代、作家の時代と、応援してくれる若者・・・すでに五十代後半であったり、六十代になっていますが、これまでと変らずに声援してくれています。そんな励ましに勢いを得て、今日も創作に取り組んでいるところです。


 6月16日に卒寿を迎えましたが、まったく先が見えません。つまりどこが終わりなのかはまったく見えませんから、兎に角見えない目標を見つめながら、真っ直ぐに生きていこうと思っています。


 今年はこの日が「父の日」と言うこともあって、改めて娘たちから贈り物を頂いてしまいましたので、終わりが見えない人生に挑みます。


あなたの天命はここまでですという生存に限りが見えれば、それまで頑張ろうと言うことになるのですが、今のところそういった限界が見えないのが、なんとも困ったことです。


そろそろ終活の問題も真剣に考えなくてはなりません。


 こうなったら倒れた時が天命の尽きる時なのだと思って、それまでは、兎に角頑張っていようと思っているのですが、老齢化するにしたがって、やることが兎に角多くなるようです。


今後ともよろしくお願いいたします。


        藤川桂介


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「ひろいひろい 13」防災訓練について [趣味・カルチャー]

 この数年来すっかりなれたといってもやはり親しい方との別れは、やはりさびしいものですね。取り留めのない話題にしても、遠慮なく話し出せる友人と話をする機会がなくなってしまうと言うことが、次第に寂しいものだと感じられるようになりました。

そこでという訳ではありませんが、近隣の隣組で開かれる地震に対する講習という呼びかけに応じて、家内と共に参加してみました。きっとかなりの人が集まると思っていたのですが、集合する場に設定されていた中学校の講堂へ行ってみると、いきなりびっくりしたのは、近隣の住民がかなり集まっているのではないかと予想していたのが、まったく見当違いで、かなり少人数での講習会になってしまいました。


どうも近隣の人たちは、ほとんど地震などが起った時でも、近くの収容所へ逃げ込むというよりも、ほとんどの人は、震災に遭っても自宅で過ごしたいという人が多いと言うことが判明しました。避難所には行きたくないという人が多いと言うことなのです。そういう人は、最低限水だけは常にそれぞれの家庭で蓄えておいて頂きたいということでした。兎に角震災に対する人々の意識が、都会と地方では大きな違いがあるという言ことを知らされただけでも、大いに役立ったのですが、もう一つこれから考えておくべき子t歩ことで考えておかなくてはならないことの一つに、収容されるところが区立の少・中学校なのか都立・私立の小・中学学校なのかということでは、担当が区になるのか都になるのかということで、まったく扱いが違ってくると言うことを知ったことは大きな収穫でありました。


テレビでは他経ず防災のアピールが行われているのですが、旧住宅地か新住宅地かということで、地震など災害の受け止め方に、大きな差があるということを知っておくべきだという大きな収穫があったという報告でした。


水の備蓄・防災ベット・排泄の備え・発電装置・炊き出しの方法・救急用具の使い方の講習などの知識を得ることなどは、大変役に立ちましたが、あまりにも参加者が少く、防災と言うことで考えておかなくてならない問題が、かなりあるなということを知っただけでも参考になりました。


 


     藤川桂介


 


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「落ち穂ひろい 12」 ぱなしのこと [趣味・カルチャー]

 

この頃しきりに思うことがあります。


原稿を書くと言うこともあるのですが、書斎はなるべく綺麗にしておきたいと言うことがあって、時々は掃除機を遣って簡単な掃除をいたします。


通常作家というと、原稿の書き潰しを丸めて無造作に放り出しておくとか、資料に使っている図書を積み上げたり、広げっぱなしでいたりします。中にはタバコもそんな中で吸うという状態を想像し手島いますが、どうも私は几帳面な一面があって、どうもあまり散らかしっぱなしの部屋で作業をすることができないので、時々は自分で自分の城は綺麗にしているのですが、そんな最中に気がついたのですが、私はどうも「ぱなし」ということが出来ないたちだなと言うことに気がつきました。


「やりっぱなし」「約束しっぱなし」「汚しっぱなし」「食べっぱなし」「忘れっぱなし」「ご無沙汰しっぱなし」「世話をかけっぱなし」


数え上げるときりがない「ぱなし」があると思います。やはりこの「ぱなし」で困ることは、その始末をしないことが多いと言うことなのです。


あなたはどうでしょうか。


少なくてもこの程度のことはしておかなくてはいけないと思いながら、ついつい「ぱなし」のままでいることはありませんか。


 


藤川桂介


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「落穂ひろい 10」 [趣味・カルチャー]

 だんだん季節が変化して温度も高くなっていきますと、お世話になるのが扇子です。


私は若い頃、京都の古寺の大僧正から、扇子に「花開蝶自来」・・・つまり花が開けば、蝶は自ずと集まってくるものですという意味ですが、物書きの私に、焦ることなくゆうゆうと執筆して行きなさいと言う、戒めの言葉と思って大事にしているのです。



 単なる暑さしのぎの材料でしかないかもしれませんが、ちょっとした工夫で、大変興味深いものにもなりますということで書くことにしました。



男性も女性も持ち歩いて、暑さしのぎに使いますが、もともとこれは中国から紙張りのうちわが入ってくるようになると、日本ではこれを真似て、ビロー樹というシュロの一種の葉で団扇を作りました。それがヒントになって、やがて木の板を薄く集めて糸で閉じ合わせて開いたり、閉じたりできる檜扇という板扇が考え出されました。それがやがて糸で止めてあったものを紙で張って止めるようになり、平安時代になると紙が主流になって、板が薄くなって骨になったのでした。これが現代でも使われている紙扇ですが、当時の扇は五本骨で、たたむと二センチぐらいの幅の扇になるので、これが珍しいと評判になって、平安末期ともなると京都で作られて輸出されるようになると、国内でも広がっていきました。



この貿易が足利時代までつづき、やがて中国でも供給過多となって売れ行きが悪くなってしまいました。そこで日本の扇商人は脅かして買わせるようになり、やがて手ぶらで行って略奪して帰ってくるようになったといいます。



ところで扇は開くことができるところから、心を開くという縁起がいいものになり、開くと手の形になるところから、手で神を招くようにできるということで神社の祭礼に使われるようになったといいます。紀州熊野の那智神社の火祭りは、扇を焼きあうお祭りといわれていますが、神の前で行う芸能を猿楽といいますが、これが阿国歌舞伎になり必ず扇を使うといいます。そこには扇で神を招きよせようという宗教疑行為が秘められているということです。



これが踊りの一派である花柳流の踊りとして誕生したといいます。花柳流は扇の舞といわれているのはそのためです。昔は、中国人は日本から買った扇をヨーロッパに輸出していたといいますから、一種の伝達貿易というものですが、調べて見ると、かなり興味深いもののようですね。



 



                                  藤川桂介


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「落穂ひろい 9」 [趣味・カルチャー]

この頃天気予報の開設を見ているとテレビなどでは通常使われている太陽暦のほかに、盛んに太陰暦・・・つまり旧暦による紹介が紹介されることがよくあります。

当たり前の天気予報だけでなく、同時にあまり使い慣れていない旧暦の照会をしてくれると、大変天気予報が興味深く聞いていられます。

果たしてあなたはどう思っていらっしゃるでしょうか。

私などはなぜかその旧暦による天気予報の方に、親しみを覚えてしまうのですが、この太陰暦というのは、毎月規則正しく満ち欠けする月の観測から生まれたものです。

古来日本人は農耕中心で生活をしてきましたので、満月から数えて何日目にどういう作業をするかということを考えてきましたから、自然にそうなるのですが、しかし現在の暮らしぶりといえば、和食よりも洋食が中心になって来ていますから、昔のように月の満ち欠けにそれほど興味を持たないかもしれません。しかし私のように月の満ち欠けに興味のある者にとっては、どちらかというとどうしてもその太陰暦で紹介される方に親しみを感じてしまうのです。

大自然の現象は天体の運行と密接に関係があるわけですから、天体の観測が自然のリズムを読み取るための大事な要素になるように思うのです。そんなことを考えながら、太陽暦の紹介の間に、ちょっと挟んで太陰暦の紹介があると、特に親しみを感じてしまう今日この頃です。

自然の歩みと共に暮らして行くことが出来なくなっている現代の生き方には、なぜか滅びの道筋を早足で進んでいるようで残念でなりません。超科学によって、それらを解決していけるようになるといいのですが、もうそんな時代とは巡り会えないのでしょうね。

ちょっと残念です。

         藤川桂介


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「落穂ひろい 8」 [趣味・カルチャー]

 昨今は出かけるときも、あまりはっきりと発表して家を空けることができません。その留守を狙ういやなやつがいるからです。

先日は久しぶりに一週間郊外の作業場で生活を楽しんで来たのですが、帰宅して異常がなかったのでほっとしたところです。

 今日はその時に書いたブログを紹介いたします。

毎日食事をする度に思うのですが、我々が箸というものを使うようになったのはいつごろからなのだろかということです。

ヨーロッパ人でも15世紀までは野蛮な状態で食事をしていたようで、手づかみで食事をしていたようです。

スプーンやフオークが使われ出したのは15世紀ごろだったといいます。

それでは日本の場合はどうかというと、「古事記」という歴史書によれば、崇神天皇のところでヤマトトトヒモモソヒメが大物主神の妻になった時、大物主神の本体が蛇である知り、驚いて橋で陰をついて死んだといいます。橋がいかに古くから日本人の生活に登場していたかが判りますね。

 しかし箸については中国・韓国もあるのですが、日本の場合には、やってはいけないはし使いというものがかなりあります。

 箸を握る、いわゆる握り箸はタブーです。使いにくいだけではなく、握ったままで箸の頭を親指で押さえれば、攻撃の武器になりますし、礼儀作法でいえば相手に対して恭順の意思表示ですから、攻撃しないことが大事です。

そのほかには、渡り箸、突き箸、透かし箸、迷い箸、及び箸、探り箸、回し箸、ねぶり箸、かため箸、こめ箸、箸やすめなど、さまざまなタブーがあります。

時間がある時に、試してみるのも一興ではありませんか。

                                    藤川桂介


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「落穂ひろい」7 悩み多い取材 [趣味・カルチャー]

最近テレビのコマーシャルの宣伝や料理の紹介がされる時に、かなり冷凍食品が紹介され、使われることが多くなってきています。私も暫くは躊躇っていたことがあったのですが、物は試しだと思って使用してみたところ、美味しくないという潜入感は完全に一掃されてしまって、その後いろいろな冷凍食品を購入して使わせて頂いているのですが、この冷凍食品というものは、19世紀に欧米で発達した冷凍技術のお陰だったようですね。

 冷凍といえば関西の取材地への探索が、すっかり冷凍状態になっています。異国の人が次々やって来てくれることは大変いいことだとは思うのですが、観光地のあの混雑の様子を見るにつけて、一寸そんなところへは行かなくてもと思ってしまいます。しかし取材したい所がその近くにあるということを考えると、どうしても気持ちがすくんでしまうのです。

その内と思いながら、取材は凍結です。

                           藤川桂介


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「落穂ひろい」6  怖いこと [趣味・カルチャー]

 

最近は最後の一作に取り掛かるために、ほとんど遠出をせずに書斎で頑張っているのですが、その間に飛んでもないことに出くわしてしまいました。


クレジットカードを無断で使われてしまうということが二度も起こりました。しかしいずれもドコモと三井銀行が疑問を感じて支払を停止してくれ、私に被害は及んできませんでしたが、テレビ・新聞では様々な所でインターネットの住所録などが流出してしまうという事件が報じられていますが、私のもそんな中の一つとして引っかかったのでしょうか。


 恐ろしい時代になりましたが、若い人に聞くと、そのような事件は絶えず起こりますということをあまり平然と答えるので愕然としてしまいました。今は、そんなことを気にしていては生活できないということのようです。


どうも怖い時代になってしまったようですね。しかし高齢者である私などは、とてもIT時代に生きる若者のような達観した気持ちにはなれません。


セキュリテイ関係の会社には、精々頑張って貰って、危険分子は極力早く排除できる状態にして貰いたいものです。


 どうも今回はとんでもない落穂ひろいということになりました。


                                                    藤川桂介


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「落穂ひろい」 1です [趣味・カルチャー]

もう間もなく年越しをして、新たな年を迎えることになりますが、最近の話題といえばおせち料理のことでしょうか。

このところすっかり物価高で参りますが、そんなこともあって、江戸時代の魚などはどうだったのだろうかなどと考えました。新聞の切り抜きの中で、ドイツ人医師のシーボルトがまとめた食品リストがあるそうなのですが、魚の7割が米一升(1・5キロ)より高かったと書いてあります。特にタイ・カツオが大変だったようで、三両(一万2000文)から~一分(1000文)だったそうで、現代でいうと18万円もしたそうですが、それを粋がって食べたというのですが、現代の江戸っ子はいくら格好をつけたとしても、とてもそのような出費をするわけにもいきません。兎に角少しでも安く手に入るものを、上手に調理して食べるのではないでしょうか。時代の差ともいえるのですが、文化・文明の差によって、魚を捕まえるということでの苦労の差で、かなり高価なものでも口にすることができる現代です。江戸の庶民との差を大いに感じたものです。

 どうか来年は少しでも生きやすい時代になって貰いたいものですね。

 私は来年卒寿を迎えますので、最後の一作を書きたいと思い、密かに下準備を始めました。完成できるかどうかはまったく判りませんが、締め切りに追われることもなく、楽しみながら挑戦しようと思っているところですが、この作品だけはあくまでもひそかにいどみたいので、ブログで発表もする予定もありません。

 しかしブログからさよならするのは寂し過ぎるので、気楽な談話を書きつづけたいなと思っているところです。

 令和六年もよろしくお願いいたします。

 春頃にはいいお知らせができるといいなと思っています。

暫くは気まぐれな「落穂ひろい」を時々発表いたします。

 よい新年をお迎え下さい。

藤川桂介


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「落穂ひろい」 5です [趣味・カルチャー]

暫くご無沙汰してしまいました。実は先年から考えていたのですが、高齢ということも考えて、そろそろ最後に何か一作を作っておこうと決心して、下準備を始めたのですが、締め切りに追われる事無く、自分で納得できるまで作業を詰めていこうと考えましたので、じっくりじっくりと進めております。そんなわけでブログに乗せてつづけていこうと考えていた落穂ひろいがお休みという状態になっております。期待して下さった方々にはお詫びするしかありませんが、現在のような状態がしばらく続くとおもいますので、とにかく最後の一作の執筆に夢中になっていつと思ってお許しください。また機会を見てごあいさつするつもりです。どうぞよろしくお願いいたします。果たして自分が思う通りの一作が仕上がるかどうかはまったくわかりません。とにかく頑張っています。またお知らせができるようにしたいと思っております。ときどきブログを覗いてみて下さい。


                           藤川桂介



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「落穂ひろい」 4です [趣味・カルチャー]

最近は山間の村にもコンビ二が車に品物を摘んで売りに行くということが報道されるようになっていますし、都会では宅配というシステムがあって、スーパー、コンビニが、食品などを宅配してくれるというビジネスが広がっています。

 高齢者が次第に増えてきたために、必然的に生まれた新しいシステムでしょう。

 高齢社会ともなると、買いたいものを買うのはいいとして、それを持って帰ることが難しくなってしまいます。嵩がかさんだ時など、男性は何とか頑張れますが、女性は高齢になると力仕事が困難になってしまいますから、ついついもちょっと買っておこうと思っても買い控えてしまうということになってしまいます。そんな不便を解消しようということで、わざわざ家まで届けてくれるというのですから、大変時代にあった工夫だと思いますが、しかしスーパー、コンビニの経営者にとっては、わざわざ配達する人を雇わなくてはなりません。そんなことを考えると、少子化時代という現実が恨めしく感じられますね。

 特に山間では、必要な物、欲しいものなどを、直ぐに欲しくても、車に乗ることもできないし、近くにはお店がないなどというところでは、冒頭で紹介したような形で、営業に来てくれる店がありますし、最近はドローンを使って空中から届けるということも試み始めていますが、興味深い江戸時代ではどうだったのだろうかと調べてきたら、棒ふりといって、天秤棒の左右両端から、生鮮食品などを吊り下げて、町の路地から路地へと売りに来てくれたようで、高齢者や力不足の女性なども、容易に必要なものを手に入れることができました。

 現代ではそうした高齢者の要求に、どう応えてくれようとしているのでしょうか。大いに興味があります。

 

     藤川桂介


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「落穂ひろい」 2です [趣味・カルチャー]

 

おめでとうございます。

 最近は電子メールの時代ということもあって、ブログで新年の賀状を紹介してきたのですが、今年は漢ゲルところがあって、メールでのご挨拶は止めることにいたしました。

 つまり数百人のみなさんが、今でもハガキによる賀状を送って下さっていますし、私もそれにお応えしてきました。

 時代の流行ということもあって、IDによってご挨拶をするという方もあるのですが、この際時代に逆行してはがきによる年賀状を出して下さるみなさんに感謝して、私も賀状ははがきでお出ししようと思うようになったのです。

 申し訳ありませんが、今年からは新年のご挨拶はさせて頂きますが、はがきでの賀状を紹介することは取りやめることにいたしました。

 ご挨拶の形は変わりますが、ブログでは新年のご挨拶をお届けするだけにいたします。

 今年もよろしくお願いいたします。

 毎年の催しとしてデパート・町の書店街などで賑やかに開催される「福袋」は、今年も変わらない人気があるのでしょうか。

 特にデパートなどでは、それぞれ福袋などを用意して大売り出しをするのでしょうね。

 こんなことは調べて見ると、19世紀のフランスにも、新年の初売りに百貨店が賑わったという記事がありました。

 これは英国で起った産業革命のお陰で、衣類などが大量生産できるようになったことによる影響だと思われます。安く仕入れて安く売るという条件にぴったりであったことから、1852年には、百貨店「ボンマルシェ」では、「お買い得の店」として、低価格で大量の商品を大量に陳列したといわれています。日本ではどうでしょう。1904年に三越呉服みせが、欧米の呉服店を目指すと宣言して、全国紙で宣伝しました。

 商品の品定めが行われ、お客が自由にできる工夫もしたようです。やはり日本は、「顧客本位」という姿勢がかなり昔から根付いたようで、現代の福袋の工夫は大変なものですね。

 経済が低迷していると言われている現代ですが、年末の宝くじや、お正月の福袋に関しては、多少贅沢してみようという気持になるのでしょう。賑やかな買い物風景は変わらずに報道されるのでしょうか。

 

藤川桂介


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