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告知と放談の部屋☆ 放101「若者は変化を支持した」 [趣味・カルチャー]

  

兎に角書籍を買う人が、ビルの入り口の階段からかなりの高い階数まで、その階段を埋め尽くしている若い人が埋めている姿を目撃して、会場まで一歩一歩階段を踏みしめながら私のやったことの結果がこうした若者の集団を作りあげてしまったのだと思いましたが、いったい何が彼らをこのようなことに走らせてしまったのだろうか・・・ふと考えたりしたのですが、まったく答えは出せませんでした。


 もしかつて私が夢を見た作家たちであったら、こんな光景を目撃して何というだろう。


「これは何をしているのだ」


 恐らく不可思議な目をして、見たに違いありません。


恐らくサイン会が開かれるのだと説明しても、それがどういうことなのかまったく理解できないまま無視して立ち去って行ったでしょう。


しかしこの頃は、何につけても旧習を打破して、新たな日常を確立しようとしている時代ですから、かつては出版関係でいえば芥川賞・直木賞の選考が決定する前夜ともなると、その受賞の評判が高い候補作家の周辺にはマスコミが押しかけて、作家と共に選考委員会から連絡の入るのをお祭り騒ぎで待っていたものです。しかし最近は次第にそうしたバカ騒ぎは薄れてきていましたので、仮に受賞したからといってもその受賞者がサイン会などを開いても、それほど読者が集まるということはなくなってきていたのです。文学賞が輝いていた時代は去りつつありました。むしろそういった作品よりも、自分たちでこれは面白いと思った作品は口コミでその評判を広げてくれる時代です。私が各地のファンクラブからの要望に応えるために出かけた時の実体験なのですが、ごく近くの書店で数名の芥川賞・直木賞作家がまとまって合同サイン会を開くという計画があるのを知りましたが、時間がきてもほとんどサインを求める読者がやって来ないというので、作家たちは喫茶店に集まって雑談をして暇つぶしをしながら、お客が集まるのを待っていましたが、結局数名しか読者が集まらずに寂しいサイン会のまま終わったのを知っています。


私たち年配の者にとっては、作家たちの著作物はもちろんのこと、その日常までが懐かしく、憧れであった、ゆったりとした時の流の中にあった別世界の存在だったのです。その世界では数か月に一冊、時には一年に一冊、気の向いた時に執筆する作品を出版して世に送り出すと、読者はその時をようやくできたかといった気持ちで買いに走り、宝物を手に入れたかのように満足していましたし、作家もそれで生計を立てていたのです。良き時代ではそれでも充分に作家はゆとりのある生活ができましたし、出版社もそれで大きな収入を得て経営していました。世の中自体がそんなことでも充分に暮らしが成り立つ状態にあったからかも知れません。文芸で生計を立てる人々の世界に繋がる人は、ゆとりを持って交流を楽しみ、気の合う人との付き合いについてもおおらかなものでした。彼らは数か月に一冊、何年かに一冊出版することに精魂を注いで創作をしますが、その新しい作品にお目にかかれるのを、いつのことかいつのことかと心待ちにしていて、新しい作品が出ればたちまち書店へ行って買い求めていってくれました。それが面白ければ読者が口コミで広げていって何版も数を重ねていきます。作家に支払われる印税も日常の生計と比べても、かなり大きなものになりました。特にそんな熱心な読者を沢山持っている作家を何人も持っている出版社は、当然ですがその作家たちには特別な待遇で付き合って貰おうといたしますから、作家からの多少のわがままも拒否はできません。執筆を条件にかなりの金銭も融通してくれます。みな悠然とした交遊を楽しみ日常も気ままに暮らしていられました。世の中での作家のステータスもその才能ゆえに特別な存在でしたから、読者には滅多に会うこともできないという存在感がありました。私のように旧世代に属する世代の者でしたら、こんな作家たちの世界を多少でも知っていましたから、とても気軽に会いに行けるなどとは思わないでしょう。とてもサイン会などという催しが行われるはずもないということも承知しています。作家はあくまでも読者とは別の世界にいて、ゆったりと流れの中で葛藤する我々に向って、永遠であると確信して語りつづけてこられたことも知っています。


しかし今の私は、あれほど夢見て憧れた世界を具現しているのだろうか・・・いや、すでに明治・大正・昭和・平成・令和と時を重ねていくうちに、私たちを取り巻く世界は、想像もしないほど忙しない時を刻んで変化してきました。読者も刻々と変化を遂げながら新たな価値観を夢見るようになってきました。


かつて私たちに夢を見させてくれた作家たちは、映画・活字・ラジオというわずかな表現の場を利用するだけで、読者にその内容の濃さで勝負してきましたが、現代の作家たちはとてもそのようなのんびりとした作業のあり方では、時代の刻む時の速さに追い付かずに、昨日まで待っていてくれた読者はすでに今日の読者ではなくなっています。


私たちはかつて別世界で暮らしていた作家たちの余裕に憧れてきましたが、今はそれらの一つ一つを点検しながら、現代に置き換えるとしたらどういうことになるのかという、反面教師として存在させなくてはならないのです。あの夢の世界として憧れた世界は、あくまでも反面教師として生かさなくてはなりません。


時代は激しく変化していきましたし、さらに新たな変化を求めているのです。


ぐずぐずしていると、今日の読者は明日の読者ではなくなっているのです。新たな作品を求めてさまよっているしかなくなるでしょう。


現代の作家は、常に新鮮でありつづけなくてはなりません。


ある日若者たちは、変化を支持しようとしました。


現代の若い人々は、あのテレビで親しんでいた作品の脚本家が、今度は意外にも小説で呼びかけているではないか。これまでとまったく違った世界で、(何をしようとしているのだろうか)そんな興味を持って下さったに違いありません。昔であったらそう簡単には作家という存在を知って貰い、やがてそれを広い範囲に広げていくということなどできないで終わっていかもしれません。まさに私はテレビ時代の申し子だったのかもしれません。想像もしないような多くの若い人たちに集まって頂いて、私と「宇宙皇子」の門出を祝って頂きました。私は幸運にもこうした多くの読者に支えられて、八十七歳の高齢になるまで元気でやり通してこられました。


これまでの出版界ではほとんど存在しなかった「月刊宇宙皇子」などと揶揄されてしまうほどの勢いで、連打して出版をつづけていったことが、時代の感性に応えることになったのでしょう。もし昔のようにじっくりと、気の向くままにのんびりと書いていたら、読者は待ちきれなくなって、次の巻を買う意欲を失ってしまうことになってしまったでしょう。かつて私が夢を見た作家たちが悠然と交遊していた時代とは、真逆の忙しない時代の流れを掴みきれるかが勝負でした。話もイラストも変わりました。


若い人たちは私と共に変わることを支持してくれました。


あの想像を越える人気には、そんな秘密があったような気がいたします。


しかし現代の私は、もう一度あの夢の世界であった作家たちの日常に、どれだけ近づけて生きられるのだろうかと考えるようになりました。あとは天命がそれを許すかどうかという問題だけです。すべての制約を取り払って、思いのままに書いていこうと思っているのです。正に荒野独行の心境になっているのです。


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思い出作品の部屋☆ 思20「池袋パルコで初のサイン会」 [趣味・カルチャー]

  

1989年3月4日・・・平成元年に、私にとって作家となったはじめて公に活動することになる催しがありました。これまではファンクラブが主催する「宇宙皇子体験ツアー」であったり、ファンクラブによる様々な地域での「サイン会」であったり、「講演会」が行われてきましたが、今回はいよいよ角川書店が各地の書店と協議を行った上での、はじめてのサイン会としてかなり大掛かりなキャンペンをして行われたものです。。数名の平常の編集担当者はもちろんのこと、文芸作品を担当してきた重役の編集局長であるSさん・編集部長のOさんに、「野性時代」の編集長であるYさんまで様子を見に駆けつけてくれました。私にとってはファンクラブへ入っている人だけではなく、広く一般の読者とのはじめての対面をすることになるので、一体どのくらいの人が集まってくれるのだろうかと大変気がかりでしたが、それとは同時に大変楽しみででもありました。


                          「パルコ三省堂0」1.jpg 「パルコ三省堂1」1.jpg


 確かに「宇宙皇子」という新書版も文庫版も大変な勢いで売れていますが、サイン会となった時に、どのくらい人が集まってくれるのか判りません。これまであまり興味を持っていなかった人で、今回わざわざ出かけてくる人がどのくらいになるか、大変興味深いものが会ったのです。言うまでもなく角川書店の社内でも、担当する編集部や図書の販売を担当する営業部からも、かなり緊張して集まっています。その物々しい雰囲気に、当事者である私は彼ら以上に緊張していました。


その日は自宅を出て池袋のパルコへ着いた時、その入り口で思いがけない若者たちの姿を見てびっくりしてしまいました。彼らは階段に並んでいるのです。丁度「地上編宇宙皇子」が公開される直前であったということもあって、かなりキャンペンは浸透していたのでしょう。明らかにサイン会を目当てでやってきた人たちに違いありません。


パルコの階段を一歩一歩登ってサイン会場である三省堂まで、何階まで上がってきたのでしょうか。現在は新しいビルに建て替えられてしまいましたから想像できないかも知れませんが、私もあの頃の三省堂が何階にあったのかはっきりとしなくなってしまっていますが、それでもかなりの階数を上がって行ったことは覚えています。


パルコに集まっている若い人々は、「藤川先生が到着しました」というアナウンスがピル全体に流れると、思いなしかあたりの熱気が一気に高まって溢れたように思いました。


早速サインをする準備が整えられて、休む暇もなく著作に対するサインを書き始めたのですが、握手をしながら読者の欠けてくれる励ましの言葉に感謝しながら握手をして、次の読者へのサインにかかることになります。その後は私の編集を担当する者がせっせと落款を押して渡すという流れ作業でした。最後はあまりの熱気の高まりで背広をぬがなくてはならない状態でしたが、約束の二時間という間は、作家と読者との距離が考えられないほど近くなったなと思いました。読者の問いかけに応えながら、握手を交わして同志としての交流を確認して別れていきましたが、かつて私が夢を見た作家たちの世界では、まったく見られなかった読者との姿です。現代では作家と読者との間はごく近くなり過ぎました。そのためにマスコミの大きな話題になった事件が起こったりしました。訪ねて行った作家の家で、刃物を出して刃傷沙汰になることもあったのです。憧れる人と憧れられた人との間には、かなりショッキングな事件も報道されました。舞台で熱唱する歌姫に、硫酸を振りかけるというファンの暴挙としか言いようのない事件もありました。スターとファンとの距離が近くなると、その分物騒な事件を呼び込むことになります。読者との距離が遠く別世界の人として崇められていた時代・・・スターとファンとの距離があった時代の方が正しいのかもしれません。


もう娯楽というものの質も大替わりしてきているのです。しかし世の中の多くの人を苦しめている、歪みを正そうとして活躍する現代のヒーローである「宇宙皇子」に、自分の思いを重ね合わせて夢見る若い人に、危険な行為に走らせるような者が現われたりはしませんでした。彼らにとって作家という存在は、私たちがかつて畏敬するという存在であった作家が、現代では敬愛する存在になっていることのためなのかもしれません。


これだけ多くの若い人たちが集まってくれるのを確認した角川書店の面々はもちろん


、今回の催しを受け持って下さった三省堂書店の関係者も大満足であったはずです。兎に角若者たちは本当に欲しかった本を買ったという喜びを伝えてくれました。


私にとっては「やったぁ!」という達成感でいっぱいでした。


サイン会の途中では、背広は脱がなくてはならないほど汗が吹き出してしまいまいました。 


確かに「宇宙皇子」という新書版も文庫版も大変な勢いで売れていますが、サイン会となった時に、どのくらい人が集まってくれるのか判りません。これまであまり興味を持っていなかった人で、今回わざわざ出かけてくる人がどのくらいになるか、大変興味深いものが会ったのです。言うまでもなく角川書店の社内でも、担当する編集部や図書の販売を担当する営業部からも、かなり緊張して集まっています。その物々しい雰囲気に、当事者である私は彼ら以上に緊張していました。


その日は自宅を出て池袋のパルコへ着いた時、その入り口で思いがけない若者たちの姿を見てびっくりしてしまいました。彼らは階段に並んでいるのです。丁度「地上編宇宙皇子」が公開される直前であったということもあって、かなりキャンペンは浸透していたのでしょう。明らかにサイン会を目当てでやってきた人たちに違いありません。


パルコの階段を一歩一歩登ってサイン会場である三省堂まで、何階まで上がってきたのでしょうか。現在は新しいビルに建て替えられてしまいましたから想像できないかも知れませんが、私もあの頃の三省堂が何階にあったのかはっきりとしなくなってしまっていますが、それでもかなりの階数を上がって行ったことは覚えています。


パルコに集まっている若い人々は、「藤川先生が到着しました」というアナウンスがピル全体に流れると、思いなしかあたりの熱気が一気に高まって溢れたように思いました。


早速サインをする準備が整えられて、休む暇もなく著作に対するサインを書き始めたのですが、握手をしながら読者の欠けてくれる励ましの言葉に感謝しながら握手をして、次の読者へのサインにかかることになります。その後は私の編集を担当する者がせっせと落款を押して渡すという流れ作業でした。最後はあまりの熱気の高まりで背広をぬがなくてはならない状態でしたが、約束の二時間という間は、作家と読者との距離が考えられないほど近くなったなと思いました。読者の問いかけに応えながら、握手を交わして同志としての交流を確認して別れていきましたが、かつて私が夢を見た作家たちの世界では、まったく見られなかった読者との姿です。現代では作家と読者との間はごく近くなり過ぎました。そのためにマスコミの大きな話題になった事件が起こったりしました。訪ねて行った作家の家で、刃物を出して刃傷沙汰になることもあったのです。憧れる人と憧れられた人との間には、かなりショッキングな事件も報道されました。舞台で熱唱する歌姫に、硫酸を振りかけるというファンの暴挙としか言いようのない事件もありました。スターとファンとの距離が近くなると、その分物騒な事件を呼び込むことになります。読者との距離が遠く別世界の人として崇められていた時代・・・スターとファンとの距離があった時代の方が正しいのかもしれません。


もう娯楽というものの質も大替わりしてきているのです。しかし世の中の多くの人を苦しめている、歪みを正そうとして活躍する現代のヒーローである「宇宙皇子」に、自分の思いを重ね合わせて夢見る若い人に、危険な行為に走らせるような者が現われたりはしませんでした。彼らにとって作家という存在は、私たちがかつて畏敬するという存在であった作家が、現代では敬愛する存在になっていることのためなのかもしれません。


これだけ多くの若い人たちが集まってくれるのを確認した角川書店の面々はもちろん


、今回の催しを受け持って下さった三省堂書店の関係者も大満足であったはずです。兎に角若者たちは本当に欲しかった本を買ったという喜びを伝えてくれました。


私にとっては「やったぁ!」という達成感でいっぱいでした。


サイン会の途中では、背広は脱がなくてはならないほど汗が吹き出してしまいまいました。


「パルコ三省堂2」1.jpg 「パルコ三省堂3」1.jpg 「パルコ三省堂4」1.jpg 「パルコ三省堂5」1.jpg 「パルコ三省堂6」1.JPG


「パルコ三省堂7」1.jpg 「パルコ三省堂8」1.jpg 「パルコ三省堂9」1.jpg 「パルコ三省堂10」1.jpg 「パルコ三省堂11」1.jpg


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「パルコ三省堂22」1.jpg 「パルコ三省堂23」1.jpg 「パルコ三省堂24」1.jpg 「パルコ三省堂25」1.jpg


二時間を経過して、やっと作業の終了ということになったのですが、まったく休みなしで書きつづけるのですからかなり疲れます。記録された写真でもはじめは背広を着たままでスタートするのですが、やがて後半になると下にきているトックリ姿になっています。かなりの重労働です。しかし読者たちが一人一人弾んだ声で励ましの言葉をかけてくれるのは嬉しいことでした。しかしこうした大手の書店でサイン会がやれるということはかなり制約があるようで、今回のような大掛かりなサイン会が開かれるのはかなりいろいろな条件を充たさないと限られるというのです。しかし今回のような催しのニュースが広がりますと、是非私のところでもやって欲しいというお願いが飛び込んでくるようになります。私からも編集長には、それがどんなに不便なところであっても行けたら行ってあげたいという気持で希望を伝えるのですが、やはりそれにはこれまでの実績でその地方での書店の売り上げがどの程度なのかということが、最終的に決め手になるということでした。作家の都合も配慮して出かけて貰わなくてはならないし、担当の編集と営業を担当する者の費用も掛かるということから、ある程度売り上げに期待できないところでは、なかなかいけないのだということが判りました。それだけにこうした大手の書店でサイン会が開けたということは、作家としての位置づけを決定する大きな成果でしたし、それがかなり多くの読者に歓迎されたことは、これからも書きつづけることの自信も与えて貰えたのでした。


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告知と放談の部屋☆ 告13「お知らせです」 [趣味・カルチャー]

                                                          「原稿執筆中」1.jpg

  

   「お知らせです


19日と26日が更新日ですが、連休がありますので、一緒に19日に投稿いたします。どうぞゆっくりご覧ください。


 ようやく落ち着く秋ですが、直ぐに冬将軍が到来してしまいます。


 精々短な季節を楽しみましょう。


 


                                 藤川桂介


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言霊謎解きの部屋☆ 言36「ひとくち言霊」(月夜の自殺行) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                          「若菜イラスト」.JPG

  

 昨今の暗い話題つづきの中で目立つのは自殺という問題です。


 どんな時代にも、思いつめて死を選ぶということはあり得ることですし、それを完全に阻んだり、思い留まらせるための名案もなかなか見つかりません。それは死を選ぶ事情にはそれぞれの複雑な理由があって、それについては誰も迂闊に深入りすることができないという事情があるからです。


 昨今のネットで知り合ったもの同士で死を選んで行くということとは、ちょっと違った死の姿を古代の中に見つけました。これも「宇宙皇子」という小説を書いている間に、熊野を取材していて出会ったものです。


 もちろん現代でそのようなことは、行われてはいないことは当然のことなのですが、それがきっかけで調べて行くうちに、そこには現代でも通じる問題が潜んでいたということに辿り着きました。それは和歌山県の那智の港あたりから、補陀落渡海(ふだらくとかい)ということに挑戦していく者がかなりいたというのです。


 観音信仰の究極の願望は、いつか観音菩薩のいらっしゃる聖地である補陀落へ行きたいと思うことは、信仰に厚い時代のことだけに自然の成り行きであったように思うのですが、現代のそれのように、ただただ時代に絶望して、仲間を誘って死のうなどという、後ろ向きで救いのない自殺とは違って、補陀落渡海をする者には観音様の聖地へ行きたいという熱い思いがあり、希望に満ちたものだったのです。それがどうして現代の自殺行為と同次元で語られなくてはならないのかというと、実はこの補陀落渡海も、取材してから間もなく自殺行為だったということに気がついたからなのです。


 おおむねそれを行った者は老僧が多いようだったのですが、出かける時は小舟を用意して、その中に静かに収まれる囲いを作りその周囲を釘で打ちつけてしまうのです。そして月夜に海へ出て行くのですが、流れに任されるままでそこに乗っている人にはどうにもなりません。


 ということは、表向き観音聖地へ行くのだと言いながら、老人は自ら去るということを美化して表現したに過ぎないのではないだろうか。つまり美名に隠れて行った、自殺行為だったのだということです。それを行う者がかなりの老僧であったことを思うと、尚更その感が強くなるのです。ただ現代のネット心中の場合とは大分違うのは、そこに多少でも希望が存在していたということでしょうか。


 余談ですが、この補陀落という地名の原点は、ダライ・ラマが指導するチベットのポタラ宮から起こったものだと言われています。実はここが観音菩薩の聖地であることを考えると、納得できない話ではありません。兎に角如何なる事情があろうと、如何なる理由があろうと、自ら命を絶つということは、許されるものではありません。生きる目標を是非持っていましょう。


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告知と放談の部屋☆ 放100「テレビでカルチャー講座」 [趣味・カルチャー]

  

1989年(平成元年)2月のことです。


「宇宙皇子」による若い人の人気が定着してきたということもありましたし、三月にはその映画が公開されるということもありましたので、そのスポンサーとしてかなりの肩入れをしてきたテレビ東京からは、私に出演依頼が飛び込んできました。


これまでは講演とはいっても、あくまでも若い世代の人たちに向けた新しい時代に向かうための変化に、勇気を持って臨もうというような激励を兼ねた話をすることにしていたのですが、今回はいきなり若い主婦という、年齢的にも社会人としても大分若者たちとは違った層の人たちに話をして欲しいというのです。つまり新しい時代をどう受け止めるべきなのか、新しい時代の若者とどう向き合えばいいのかというようなことについて、彼らが歓迎している「宇宙皇子」という新しいカルチャーとして受け止めましょうという講座として話して欲しいということでした。


若い人には最近かなり群がり族などという者たちがいて、なんでも新しい流行に乗って日常生活をリードしていくのだという思い込みではしゃぎ切っているのですが、同じ若者でもそういうことには馴染めない・・・つまりどちらかといえば落ち着いた慎重派と言った方がいいと思われるおとなしい若者たちもいるのですが、そんな彼らをネグラなどと言って馬鹿にして押しのけてくることから社会問題になったりしていたのです。


私は時代の変化を慎重に見極めようとしている、おとなしい若者たちを励まそうとする気持ちもあって「宇宙皇子」を誕生させたのです。


私は人を差別する歪んだ世の中を正すために、戦う若者小子辺(ちいさこべ)・・・成長して宇宙皇子とわれる主人公が仲間と活躍する物語を、当時の時代の問題として出版したのですが、世の中の若者たちがどのような反応をしてきたかというと、意外にも群がり族からはじき出されていたおとなしい若者たちが、圧倒的な支持を表明するように書店へ走ってくれました。それが大きなベストセラー化したのですが、その映画化が発表されたこともあって、テレビ東京ではそういった若者に起こった新たな現象について、ヤング主婦を対象にしたカルチャー講座ということで、これまでの旧習から新たな道を探している時代の要求を勘違いして群がるネアカ族に対して、地道に新たな時代の進もうとしている流れを知って貰おうという気持があって講座の主人公としました。


兎に角私にとってははじめての経験で、いささか緊張して局へ出向きましたが、その控室に予定されていたところでは、私の前に話をする予定であった芥川賞作家といわれるN氏が、評判通りでぐでんぐでんに酔っぱらってしまって応接セットに寝込んでいたのです。案内の女性係員は流石に私をその部屋の案内するのをためらって、別の部屋へ向かいました。Nという作家は私と同年の人ですが業界では大先輩ということになりますが、多少良いものは書くといっても好きにはなれないタイプの作家です。そんな部屋で出会ってしまったら、たちまち新人作家として絡みつく標的になってしまうでしょう。時代の転換期ということですが、彼の書いた戦時中の体験を書いた「蛍の墓」がヒットしたこともありましたので、その話の後で私の「宇宙皇子」を歓迎する若者たちとの接点を探ってみようというのが、その日の主婦向け講座の狙いだったのでしょう。あのような泥酔状態でカルチャー講座などというものがこなせるのだろうかと余計な心配をしたものですが、私はどうもああいう無頼を平気でまき散らしているような人は好きになれませんので、テレビ時代もそうでしたがあまり酒癖の悪いアーチストとはほとんど付き合っていないくらいだったのです。


私がいつか作家の仲間になりたいと思って読んでいた「文学界」等の文芸誌では、大正昭和の作家たちの交流する様子が、如何にも優雅な雰囲気であったかが記事となって紹介されていたものです。どうやら同じ昭和でも戦後にのし上がってきた作家は、どうも時代に反逆するようなタイプの人が多くて、私生活も乱れた生活を誇らし気にさらけ出している人が多いのです。これも戦前戦後の価値観が交錯する複雑な時代が生んだ世代の人たちであったと思うしかありません。どうやら私のように戦前の価値観によって育ちながら、戦後の新しい価値観との狭間で育ってきた世代は、サンドウイッチ世代ともいえるもので、大変荒れるタイプになるかおとなしい戦い方をするタイプに挟まれながら、慎重に時代の流れを見つめていました。


カルチャー講座では、なぜ彼らはあのように「宇宙皇子」に夢中になるのかということを、作家としてどう捉えているのかということで話して欲しいということでしたので、


彼らもはっきりとした自己主張がしたいものを秘めているのだという話をいたしました。


人にはネアカ族のようにかなり派手に自己主張する者もいれば、その思いを秘めてはいるけれども、貰がってそれを行うようなことは苦手なネグラ族といわれながら、時代の流れの中でその行方を見ているのですというということをお話しました。


相手は主婦でも若い世代の方が中心でしたから、中には「宇宙皇子」に夢中になっている若者をお子さんに持っていらっしゃる方もいらっしゃると思いますので、若ものに生まれた二つのタイプについてお話してみました。


小説の「宇宙皇子」が登場した時代は、兎に角戦前からつづく価値観を弱めながら、戦後の新しい価値観を定着させようとし始めた時代です。何もかも新しい表現の仕方を尊重するようになってきた頃のことです。卑近な例でいえば表現することの手段として文字で行なっていたことを絵画で表そうとするようなものです。現代のアニメーションの原点ともいえるような絵で自己表現をするようになりつつあった時代で下から、そんな中でいつか世の中では、新しい文化に飛びついて群がるネアカの若者たちは、そういった流行についていけずにいる若者たちを、ネグラな奴といって差別して無視するようになってしまったのです。新しい価値観が浸透しつつあった世の中で群がって自己表現しようとはしゃぐ者と、着実に時代の向かおうとする者との間にはいつか亀裂が生まれて広がりつつありました。


 これまでの「宇宙戦艦ヤマト」のように宇宙を舞台にした仮想現実の氾濫に飽きてしまった若者たちは、時代に逆行するような手段を使って・・・つまり文字によって物語を展開する作品に、これまでアニメーションでしか見ていなかったイラストをその物語の表現の手段としてしまったのです。これまでの出版の常識を覆した価値観の転換として、若者たちは受け止めてくれたと思いました。つまり出版というジャンルの表現のあり方に鮮度を感じてくれたのではないでしょうか。


 古いものはすべて否定する短絡した風潮に抵抗して生まれた「宇宙皇子」は、時代の転換期に登場した新しい形の文化でもあったのです。しかも古いものはすべて無視する風潮に抵抗するように、古代史の面白さを知って貰いたいというつもりで、新しもの好きの風潮には挑戦してみたのです。


果たして私の話したことがどれだけヤングミセスに浸透できたのかは判りませんが、これまでとは違った構想というジャンルで、「言葉」を通して訴えることの難しさを感じました。文章では一度書いてから推敲といって書き直す機会があるのですが、電波に乗って放送されたものは簡単に訂正して提供することはできません。今回の私の主張がどの程度受け止めて頂けたかは判りませんが、書いて表現することから言葉として発信するということの怖さも感じました。間違いはそのまま流れてしまいます。仮に間違ったと思っても簡単には訂正できません。


若い読者と私との距離は一冊の本のお陰で一気に近くなっていきましたが、これを機会にして、俄かに若者と向き合う思いについて、一般の方々にお話する機会がじょじょに増えていったのでした。


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アニメと音楽の部屋☆ ア56「不安な映画制作決定」 [趣味・カルチャー]

  

角川書店で仕事をするようになってから・・・というよりも、「宇宙皇子」という大きなヒット作品を出版するようになってからですが、社内のさまざまなことにかかわっていらっしゃる方が、様々な形で接触してくるようになりましたが、兎に角原稿を書くということに専念している私としては、出会った方々が社内でどういう立場であるのかということに関してはほとんど知りませんでしたし、どちらかといえば無関心であったということでもありました。いろいろなことで話が持ち込まれてくれば、それについての私の判断で対応をしていただけです。ところが多少時間が経過してくると、それらの人々には微妙に色合いの違いがあるということに気が付き始めました。


接触してこられる方々がそれぞれ所属している部署はもちろんのこと、同じ編集部員であっても社長の意向に沿って仕事をしている人と、副社長の意向に沿って仕事をしている人には、それぞれ競い合う気持があるようなところがあるのに気が付いたのです。


あの「天之稚日子」騒動については、衝撃的であったのは社内に二つの大きな流れがあって、それらの亀裂のために思うような仕事ができなかったことに不満を感じて退社してフリーの編集者として活躍していた人でしたが、ベストセラーの執筆者である私が勝手に他社の出版社と接触することに関しては厳しくなってきていたことはもちろんのこと、同じ社内でもその人が所属している部署によっては、突然作家の意向を無視して進行中の作業についてもいきなり変更が行われることも起こりました。あの「幻想皇帝」を書くきっかけを作ってくれたのが、どちらかというと副社長の系列に入る人であったために、五巻まで書き進んだところでなぜか次の作業に入ることができなくってしまったことがありました。「宇宙皇子」の展開に邪魔になる大きな作品は、控えなくてはならないということから、社長の系列ではない人が手掛けた作品は執筆作業を途中で止めなくてはならなくなってしまったのでした。特にその後、その事情についての説明もないままでしたが、その頃その頃社長は「宇宙皇子」を実写の映画にしようと、かなり積極的に動いていたようです。一方で副社長の系列に属する人々は同じ「宇宙皇子」をアニメーションとしての展開を考えていたようで、どちらが映像化という作業に入ることになるのかということについては、原稿の執筆に集中している私にとっては、特別しゃしゃり出ることでもありませんから、その成り行きについてはどのような結果になるのかを楽しみにしている状態で過ぎていました。しかし映画化という計画あるということを聞かされてからは、すべてお任せで無関心という訳ではいられなくなっていました。


ごく最近まで映像関係の作業にかかわっていたということもありますから、出入りしている編集者と雑談をしながら、様々なうわさが飛び込んでくるようになると、その噂には大変興味を持ち始めました。どうやら一番身近なところでは、直接の担当であるA


編集長は、何とあの宝塚へアタックしようとしていたけれども、残念ながら話は進まなかったということがあったりしましたが、社内には「宇宙皇子」の新しいメデイアでの展開ということで、どちらの系列に属しているかということは関係なく、様々な面での展開を競い合っていた気配があるようでした。


その頃から長いアニメーションの脚本を担当してきた私としては、社長、副社長の流の方々が、どのような動きをしているのかということが気になり始めていましたが、どうも社長が考えている実写作品として映画化するということが、様々な条件があるために、それを具体化するということは困難になったようだという情報が入ってきていたのです。それまで俳優たちによる古代作品が登場するかもしれないと、様々な夢を見ていた私でしたが、残念ながらそれは不可能であるということがはっきりとしてきたようです。もしそれが実現するという目安が付けば、社長と出会う機会がありましたので、何らかの意思表示があると考えていたのですが、ある時から映画化ということについては、ほとんど具体的なことについてお話されることはなくなりましたが、それと変って副社長の系列の方による映画化の話が持ち込まれるようになったのです。漠然と私が希望する方向などを探ってくるようになったのです。どうやらあの映画化という話は副社長の系列の人によって動き始めたようです。ところがその中心となって動き出したSさんは大変親しくお付き合いしている編集ではあったものの、特にアニメーションに関してはほとんどかかわりのない方でしたので、このまま実務に向かうことになるのかと思うと不安になってきてしまいました。


 私はこれまで脚本家としてアニメーションに深くかかわってきていましたので、もし宇宙皇子を映画化する時には、その制作する会社が決定的な力を持つことになると思いました。つまりどんなスタッフが揃っているのかということが決定的な要素になるということです。映画の制作ということについては、特別作家が口をさしはさむことは出来ません。それには営業的な様々な問題がありますから、不安になりながらもほとんどその進行に口を出すことはないままになっていたのです。それでも映画化が具体化してくれば、企画書が提出されるとは思っていましたが、アニメーションに不慣れな人が中


心となって動いて入りということがはっきりとしてくるに従って、不安なことが一気に増えて行ってしまったのでした。私の勝手な願望として、小説の宇宙皇子をイメージアップするのに貢献をしている、いのまたむつみさんが所属している映像づくりの仲間たちを要する、カナメプロにして欲しいという希望を伝えておきました。


 しかしその願いは叶わなかったようです。


 S氏が得意満面ということで報告に現れると、想像もしなかった日本アニメーションという会社が制作会社として決まったというのです。S氏はそれで私が喜ぶと思ってのことでした。かつてあの「宇宙戦艦ヤマト」が、視聴率で苦杯をなめていた制作会社の「世界名作童話」を制作していた会社です。確かにそれはその通りなのですが、それぞれの会社には向き不向きがあります。家庭漫画を制作するということでは定評のある会社ではありましたが、今回のような仮想現実作品がその時代に向けた作品として描けるかということを考えると、一気に私の不安は高まってきてしまいました。どうやら念を押すように推薦したカナメプロダクションは完全に外れてしまっています。こうした会社との話し合いでは金銭的な問題もかなり大きな要素となりますから、そんなことが災いとなってしまったのかもしれません。


 映画化についてはまったくお任せしておかなくてはなりません。


 私は思い描く「宇宙皇子」が世間でいう優良家庭漫画となってしまうのかという、不安と戦うことになってしまったのでした。流石に中心となる「日本アニメーション」もスタッフの編成に不備があるのに気が付いたようで、東映動画からその中心となる田宮武氏を呼び、監督には特撮映画を演出した吉田憲二氏を決めてきたのでした。私にとって貢献できると思い込んで決定してくれた態勢でしたが、結局後から後へと必要なスタッフを補強しなくてはならなくなってしまったのでした。そんな様子をはたから見ていて、「宇宙皇子」は時代の要求する感性で描く画期的な歴史物となることは、不可能であると覚悟しなくてはならなくなってしまったのでした。


 作家にとってはあくまでも小説を書くということが出版社とかわした本来の務めではありますが、たまたま私が目指すアニメーション映画と深くかかわってきただけに、その実績に配慮して頂けなかったのは、実に残念なことではありました。残念ながらそれから暫くは、一体どんな作品作りになるのであろうかという不安が、暫く高まるのを堪えながら、持ち掛けられる進行への協力をすることになったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放99「生きることの難しさ」 [趣味・カルチャー]

  

多少業界で目立つ存在になるということは、いろいろな意味で有難いこともありますが、そのために今回のように新年会で思いがけない出版社の重役同士が激突するところに立ち会うことになってしまったことは、私にとってあまりにも衝撃的な出来事でした。会社同士が仕事上のことでぶつかり合うことは通常よくあることで、友人同士の日常の会話の中でもよく聞かされる話ですが、ぶつかった原因である本人がいるところで、その存在のあり方が原因でぶつかり合ってしまったのは、とてもよくある話とは受け取れませんでした。とにかく私としては二人の間に入って仲裁するという器用な処理ができるほど修練を積んではいませんから、兎に角議論をぶっつけてきOさんの気持ちを静めて頂いて、その場から離れて頂けるように、「近々連絡を入れますから」と言ってその場から去るようにお願いいたしましたが、華やいだいい気分でいたところに持ち込まれた議論のために、すっかり激してしまった角川書店の副社長には、精々不快な議論の基になってしまったことに申し訳ありませんでしたと、本来はとても謝らなくてはならないような状況でもなかったのですが一応お詫びをしておきました。きちんと両出版社のぶつかり合いが解決したわけではありませんでしたが、取り敢えず新年会からはそのまま退出することになりました。


私が何をしたからという訳ではありませんでしたが、新年会でのぶつかり合いはあまり気分のいいものではありません。しかし二人の議論を聞かされているうちに、現在業界に私が登場してからは、これまでのように平穏な状態ではなくなっていたのです。それはすべて「宇宙皇子」という大きなヒット作品を生み出してしまったことによるのです。その間に状況は一変してしまっていたのです。


私に落ち度はないはずです。しかしO氏が敢えて新年会という場ではあったのですが、


すでに角川書店以外の社が立ち入れないような状況にされているということについて、抗議してきたのは、そこに私もいたことが原因であったかもしれないと考え始めたのです。


 帰宅したあとで平静さを取り戻して考えるのですが、確かに私と「アニメージュ」との付き合いはかなり密であったかもしれませんが、映像の世界でのアニメーションの変化に従って、新たな生き方を模索し始めるようになってからは、若い頃からの目標であった出版界への転身を目標にして活動し始めました。映像への関心が消え失せてしまったとか、興味がなくなったということはありませんが、時代の流れが私を特に必要だとは思わなくなっていたのでしょう。次第に業界の人々との接触も薄れていたのです。従ってあの徳間書店の・・・「アニメージュ」との接触も薄れて行きました。私の出版への働きかけについては、かなり前にお話しましたが、集英社から角川書店との出会いが生まれました。映像界での実績の積み重ねを知っている編集者が、私について橋渡しをしてくれたのがきっかけで、やがて「宇宙皇子」の誕生までに到達したのでした。幸運にも社長との出会いも幸運でした。まったく別の業界での実績を実感していなかったものの、そんな私がこれまでとはまったく違った日本の古代史に挑むという挑戦に興味を持って頂いたのが始まりましたが、これまでとは違った業界への挑戦ということを考えて、兎に角ぐずぐずしている余裕はありません。一気に勝負に出たのです。それが「宇宙皇子」という小説でした。私は映像界からの転職をするきっかけを作り出すために必死で、目標となった角川書店での出版を確実にするために、精一杯エネルギーを注ぎつづけてきていたのですが、そのために配慮しておかなくてはならないことがあったということに、神経がいき届かなくなっていたことに気が付きました。あの時一寸でも前に転身のために角川書店と仕事のきっかけを掴んだので頑張っていますとでも、Oさんに挨拶をしておけば、今になって余計な心配をしないで済んだのにと、転身に夢中で執筆中の「宇宙皇子」の連打に没頭してきたのです。


 千慮の一失ということがありますが、「仕事のはじまりであった頃に、ちょっとO氏に挨拶をしておけばよかった」


 私はこの業界で上手く生きていくために欠かせない気配りが足りなかったと後悔しました。


 確かに映像界でもこうした配慮には事欠かないことが多かったことがかなりありましたが、忙しい時は忙しいなりに、その時ご無沙汰になっている人間関係への気配りはかなり神経を使っていました。そんなことを考えると、まず転身する時に、すでにお世話になっていたO氏への挨拶をしておくべきであったのかもしれません。改めてはじめてといっていい世界への転身に夢中で、映像界におけるかなり細かな目配りを考えると、今回は兎に角夢中で飛び込んできてしまったことで、いささか気配りを怠ったかもしれませんでした。


 ところが後悔先に立たずで、新年会から数日後に、Oさんから電話があり徳間書店にはすでに受け皿を用意してあったようです。書店としてはかつての青春物語として映画化されて、藤山一郎の歌う主題歌と共に大ヒットとなった、石坂洋二郎原作の「青い山脈」の現代版の原作を書いて、映画化をしたいというお話でした。しかもその映画は私の監督で制作して貰いたいというのです。その為のバックアップ態勢は出来ているというのです。普通であったら直ぐにも話を受けて、そのつもりになるだろうと思われるような話です。


 私はかつてアニメージュ文庫で、「エプリルシャワー物語」という学園を舞台にした青春物語を書いたことがありましたので、その後の私の成長ぶりを考えた結果、成人向きのドラマを映画にしようという企画になったようです。私はかなりOさんのお話には興味がありました。しかしその時は迂闊にそれ以上に乗っていくことだけはしないでいました。しかもその時は、「宇宙皇子」のアニメーション映画の監督も依頼したいという話になりました。つまりその出版までも徳間に移してやることもできるという、実に挑戦的な企画でした。スタッフに関しても徳間が責任を持って編成できますからということでした。いろいろと有難い依頼ではありますが、現在お世話になっている角川書店の立場を考えて、温めてお返事をいたしますといって電話は切ることにしました。


 私は暫く前に、作家としての活路を広げたいという思いから、サンケイ出版社の「WOWO」という雑誌に古代史の大作になる「天之稚日子」という連載を承知してしまったことがあったのですが、それが角川書店の社長の目に留まってしまったことから、それに絡んだフジテレビ・ニッポン放送も巻き込んだ騒動になってしまったことがあり、業界のしきたりに不案内であったことを反省しなくてはなりませんでした。


 私は今回の徳増書店からの好条件を、簡単には受けられないという平静な判断が迂闊な動きを制止してきました。さまざまな補佐をして貰ったにしても、特別にそんな分野の訓練をしたこともないのです。ドラマにしてもアニメにしても、自分のスタッフを持っているわけではありませんから、映像作品を作る上での力不足は決定的です。迂闊に徳間の出してきた条件を呑むわけにはいきません。しかも今となっては角川書店の「地上編宇宙皇子」の映画の公開が迫って来ていたのです。もしそんな矢先に徳間書店の話が表になってしまったらかなりの打撃になってしまいますし、私に対する信頼感も一気に薄れてしまうでしょう。ついに私はさまざまな要件を検討した結果、ついに今回のお話には乗れないという丁重な言葉を添えて返事をさせて頂いたのでした。


 業界でたまたま目立つ存在にいたお陰で、生き方を問われるような問題に直面することになってしまったのでした。それにしても同じ業界で上手く生きていくということは、実に難しいことなのだなと、つくづく思ったものでした。私はあの日からこれまでのような姿勢で安閑としては生きられなくなるのではなかという不安が、常につきまとうようになってしまったのでした。しかし徳間書店の重役にとっては、あの頃の角川書店の勢いに何としなくてはならないものを感じていらっしゃったのかも知れません。


 今回はちょっと堅苦しいお話になってしまいました。


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告知と放談の部屋☆ 放98「新年会で角川・徳間両書店激突!」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」が出版された1985年から1989年という間は、作品も大変元気であったこともあって、この間にはいいこと有難くないこと、思いがけないことが次々と起こるものです。私はようやく出版界に多少でも存在する場を見つけたばかりでしたが、


そのお陰で多少目立った作家になってしまったことに、困惑してしまうようなことに出くわしてしまうことになってしまいました。


 ようやく出版界で生きるきっかけとなった角川書店で、現在「地上編宇宙皇子」の映画を制作する副社長と、これまで映像界でヒット作品を連打していた時代に、何かとお世話になっていた徳間書店の重役で、「アニメージュ」というアニメーションを中心とした映像雑誌を率いていらっしゃるO氏が、1987年の出版界と関係がある業界との新年会で激突してしまったのです。


                                    「宇宙皇子映画パンフ1」1.jpg 「映画宇宙皇子・パンフ内容」1.jpg


  


出版と同時に「地上編宇宙皇子」の映画化を発表して、その宣伝に力を注いでいる角川書店は兎に角注目される存在でしたが、そんな正月の新年会に私は角川書店の副社長から誘いを受けて出席をいたしました。ところが華やいだ宴が進むうちに、もうすでに一杯ひっかけていたと思われるOさんが、笑顔を浮かべながら角川書店の副社長に対して、


 「藤川先生を独占しないで下さいよ」


 いきなり挑戦的な言葉で話しかけてきたのです。


 困ったことになりました。


 これまでざっと映像界での私と徳間書店の・・・「アニメージュ」との付き合いを考えると、特に若者を対象にしたテレビ番組・・・つまり(映像作品・特撮編)の「忍者部隊月光」「怪奇大作戦」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「ミラーマン」「突撃ヒューマン」「怪獣ブースカ」「チビラくん」「マイティ・ジャック」「怪奇大作戦」「ウルトラセブン」「ロボコン」「緊急指令10・4・10・10」「Xボンバー」。(映像作品・アニメーション編)の「新ムーミン」「さすらいの太陽」「マジンガーZ」「グレートマジンガー」「新エースを狙え」「超人バラタック」「新鉄腕アトム」「新鉄人28号」「キューティハニー」「プライム・ローズ」「マリンスノーの伝説」「キャッツアイ」「プラレス3四郎」「銀河鉄道999」「1000年女王」「六神合体ゴットマーズ」「童話めいた戦記・ウインダリア」「キョウダイン」「氷河戦士ガイスラッガー」「機甲艦隊ダイラガー」「超獣機神ダンクーガー」と、主だった私がかかわった作品だけでも、かなりの数の作品は徳間書店の「アニメージュ」に協力して頂いてバックアップして頂い、Oさんは私にとっておつき合いの濃い方で、大変親しくお付き合いさせて頂いていた方でした。私の仕事を見つめていて下さって、かなり評価をしてきて下さっていたのはいいことなのですが、こんなところでいきなり挑戦的な物言いで迫ってくとは想像もしていないことでした。私はあわててOさんを制止しようとしたのですが、それよりも早く角川副社長はかなり激した目つきになって、


 「冗談じゃない。先生はうちの大事な作家です。他に渡すわけにはいきませんよ!」


 突き放したのです。


 お互いにお酒が入っている状態で、遠慮のない激しい主張のし合いになってしまいました。私はお二人の間に入って、何とか気持ちを静めて下さいという素振りで抑えにかかるのですが、とてもそんなことで収まる気配ではありません。


 たしかにこのところ私がほとんど角川書店での仕事で忙殺されていて、ほとんど他の会社での仕事ができなくなってきていたのです。これまでかなり業界ではアニメーション界は徳間書店の「アニメージュ」という雑誌が中心になってリードしてきている状態になっていたところでしたから、新番組が出る時は「アニメージュ」で取り上げられる機会が多くなるほど注目作品になるといった状態でしたから、私の場合でも「六神合体ゴットマーズ」の成功以来、それまでの私に対する評価を変えてきていたのが、Oさんであり「アニメージュ」でした。しかし現在は角川書店が「宇宙皇子」の出版をし始めてから、その勢いに乗って「ニュウタイプ」という新しい感性のアニメーション関係の雑誌を出版してきたりしましたので、かなりその販路を広げてきていたのです。これまでは文芸作品や歴史作品などの小説を出版してきた角川書店ですが、時代の進展に従って社長がその才能を活かされて映画の監督を行って出版と小説とのコラボレーションを行うようになって、いつか徳間書店とは小説の出版以外の、若者志向の映像にかかわる若者志向の雑誌でも、お互いに無視した状態ではいられなくなってきていたのです。


そんなところへ数年前から一気に業界の注目の人となってしまったのが、両社と縁の深くなってしまった私が登場しえしまったのです。その取材活動はもちろんですし仕事を依頼することも自由なはずなのですが、このところの情況では、角川書店以外の出版社が私に執筆依頼をする余地がないように思えるのです。俄かに業界の注目の人となってしまった私は、大変難しい存在になってしまっていたのです。


 現状のまま私を取材することになれば、それは自動的に角川書店での私の活動に勢いをつけるだけで、徳間書店についてはほとんど効果が薄れてしまいます。


そこでO氏は角川書店の副社長に対して、「藤川先生を独占しないで欲しい」と申し入れてきたのです。現状ではとても仕事を頼みたくても、とてもそんなことができる状態にないことは、連打する「宇宙皇子」の出版状況を見ていても明らかです。そんな不満もあって、私をもっと自由に他社で仕事ができるような、自由を与えて欲しいという直談判だったのです。もちろんそんなことに角川書店が同意するはずはありません。


それからは暫く笑顔を浮かべながらではあったものの、Oさんの追及は厳しいのに対して、角川の副社長の反論はそこに私がいるということもあったのでしょうか、かなり真剣な気持で角川書店の立場で押し返すのでした。お互いに会社の立場にたっての主張


をぶっつけ合うといった調子の激論がつづきましたが、ようやく二人の言葉が切れた時を狙って、「そのうちご挨拶に伺いますから」と言って、Oさんをなだめながらその場から離れるように仕向けました。


 角川の副社長は暫く気持ちが収まらないといった調子でビールをあおっていました。


 会社間の戦いというものはいくらもある話で、絶えず耳にはしていたのですが、問題の私をそばにおきながらの激論を聞かされるのは、非常に困惑してしまいます。


現在お世話になっている角川書店に加担すべきなのか、それとも映像時代からのおつき合いを考えて、徳間書店に加担すべきなのかと迷った結果、近々ご挨拶に伺いますということで引き取って頂きましたが、薄笑いを浮かべながらその場から去っていったOさんの姿が頭から離れなくなってしまいました。


余りにも強烈な光景を見つめることになってしまった結果でした。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド42「天上編ビデオ発売の謎」 [趣味・カルチャー]

  

副社長が指揮したアニメーション映画「地上編宇宙皇子」が公開されてから二年後に当たる1991年10月に、社長名で制作・販売された「天上編宇宙皇子」のビデオが発売されました。前回お話した映画の公開前に発表された「カセットブック」でのラジオドラマの発売と、今回の「天上編宇宙皇子」のビデオ制作には、あくまでも社長の指揮によるものなのですが、私は現代まで長い年月を経て、やっと二つの行為には共通の思いが込められていたと思うようになったのです。


社長はなぜあのような謎めいたことをしたにかということを考えると、当時はその真意が呑み込めないでいたのですが、映画の公開後から三年近く経たところで「天上編宇宙皇子」のビデオをわざわざ東映動画に依頼して制作販売をされた行為の真意を推測しているうちに、社長の行った不可思議な決断にはなぜか私に対する配慮をして下さった結果、私は今回の作業には納得していないということを、別の形で表現したのではないかと思うのです。そしてそれは親交のあった社長が私にその行為で思いを伝えてくれたように思うようになりました。


 すべては「宇宙皇子」が副社長のラインで、アニメーション映画として制作されるということが決まった時から、行き違いが始まっていたように思えてきます。一応建前としては映画の制作者としては社長の名前で製作されてはいたのですが、実際に制作の指揮を執っていたのは副社長です。角川書店としては「宇宙皇子」の出版をきっかけにしたブームに乗って、映画化という積極的な展開で決定的な勢いをつけたいという思い込みがあったのですが、その制作が始まるに従ってあまり喜ばしくない話が現場から漏れてくるようになってきていたのです。それが決定的になったのは制作途中である部分だけですがラッシュで見てみようということになって、原作者の私も試写室へ招待されたことがあったのですが、その日見せられたシーンの展開の感性がとても現代的であるとは言えないことから、そのまま黙認してしまえるものではありませんでした。映像作家としてのプライドが許せなくなってしまったのです。出版という仕事にかかわるようになってから、もし自作が原作として映像化される時には、必要以上に作業には干渉しないと決めていたのですが、この時ばかりは失望が先走って、思わず同席していた副社長に対して宇宙皇子が幻想の空間を激走するシーンの撮り直しを要求してしまったのでした。恐らく映画監督を何作も行っていたことのある社長は、きっと私が指摘した問題点に納得していらっしゃったに違いありません。


いつかこんなことが起るのではないかと心配していたことが、ついに起こり始めたのですが、どうも今回の映画制作のために決定された制作会社の選定には、はじめから問題が潜んでいたのです。どうも副社長から任されたTさんは私がテレビで活躍していた頃のことを知っていたことから、一寸軽率な判断をしてしまわれたのではないでしょうか。やがて大きなヒット作品になった「宇宙戦艦ヤマト」がテレビ放送をしている時のことですが、同じ時間帯の別の局で放送になっている、「世界名作童話」の制作をしていた「日本アニメ―ション」は常に視聴率で「宇宙戦艦ヤマト」をリードしつづけていたのです。私はいつも無念な思いをさせられていましたので、そのことが頭にあったのでしょう。今回の映画制作の中心となる会社として、その「日本アニメーション」を決定したのです。私にとってはきっと積年の悔しい思いを解消する機会になったのではないかと思ったのかも知れません。しかしその憶測はあまりにも人間観察力に問題があったようです。あのヤマトを圧倒していた作品作りをしていた会社に制作させるのだから、原作者も満足するに違いないという思い込みがあったに違いありません。変更を求めてもすでに状況は不可能でした。当初私が望んでいた「カナメプロ」という制作プロダクションで製作できれば、作画の中心に宇宙皇子のイラストを担当している「いのまたむつみ」さんが中心になって絵作りをしてくれるという計算があって、安心して世に評価を問える作品になるという計算があったのですが、まったくアニメーションについての智識に乏しい人が、あまりにも勝手な判断で映画制作という要となるプロダクションに決めてしまいました。そんな判断の間違いが、このようなことで跳ね返ってきてしまったのでしょう。作業の進行と同時にほころびが噴出してしまったのを社長は逐一情報を得ていたに違いありませんでした。映画制作は副社長が行うということになっている以上、下手に口出しは出来ない社長は、自分が思い描いていた古代史の世界ではない作品になってしまっています。私が感じている無念な思いと共感があるのでしょう。それを解消しようとする思いから、「天上編宇宙皇子」のビデオで制作をしてやろうと決心したに違いありません。古代を背景にした現代的な感性でアクションも描ききれなくてはならないということは、プロダクションとしてもそれに相応しいスタッフが欠いていることをスタッフからも指摘されて、あちこちからそれらの接ぎ当てをするように補充したりしましたが、それ以後制作が進むに従って問題が続出してしまっていました。ざっと見まわしたところ、メインスタッフもただ寄せ集めをしただけという状態で、完成を待つしかありませんでした。私の不満はもちろんですが、制作の中心となっていた副社長も、同時に上映される「ファイブスター物語」との兼ね合いということを考えると、今のままでは私に不満を募らせてしまうだけだと判断されたのでしょう。これまでいくつもの作品の監督を受け持ってこられた社長としては、このままでは期待を裏切られることになると感じられたのは当然です。必死で小説の執筆をしているであろう私自身が作品に対する期待感が薄れ、やがて小説を執筆する勢いを失うと心配されて、情況を挽回するために、映画のプロデユウサーとして俄かに東映動画から呼ばれてきたT氏に対して、「天上編宇宙皇子」のビデオを制作したいという依頼をされたのです。


新たなチーム編成を整えると、もちろん古代を描くための条件を理解して頂き、少なくとも視聴者を楽しませる作品作りということでは、実績をつみ重ねてきたプロデユウサーだけあったこともあって、古代史をエンターテイメント作品として仕立て上げるために、用心して貰いたい要点についての綿密な打ち合わせも行い、お陰でその作業は実に順調な手続きで準備が整えられていったのです。私も折角の機会でしたので、背景になる絵に関しては特別に注文して、時代の背景として、視聴する人のイメージを妨げないようなものが描ける方ということで、松本健治氏に美術監督を依頼したりいたしました。


はじめの制作会社決定に計算違いをしてしまったことから、俄かに私が前から付き合いの濃い東映動画からT氏に依頼して映画の仕切りをして貰っていたことから、現在の苦境を打開するために私のいう基礎的な条件を充たした「天上編宇宙皇子」のビデオの制作しようということになりましたが、映画の公開に先立った地上編宇宙皇子の「カセットブック」の発売をしたりしたこことも、すべては映画制作の時にその制作会社の選択を誤ったことに対する作家の思いに応える社長の思いやりであったということを感じたのでした。1991年10月です。ビデオが完成して発売になりました。 


                                    「天上編宇宙皇子・プレビュウブック」1.jpg 「天上編宇宙皇子ビデオ」1(1991).jpg


すでに新書版と文庫の「天上編宇宙皇子」10巻は発売されていますが、私にとっては「地上編宇宙皇子」とこの「天上編宇宙皇子」は、古代を背景にした世界を描く基本的な約束事が描かれたシリーズでしたので、かなりつづけて書いてきたブログも、宇宙皇子に関してはこの話が発売になるのを機会に終わりにしたいと思っていました。


 シリーズは「地上編」「天上編」で語り尽くされています。その後シリーズとしては「妖夢編」「煉獄編」「再び地上編」とつづいていますが、時代の経過によって次第にその勢いは薄れて行きました。しかし宇宙皇子が発散した困難な時代を生き抜こうとする清冽な思いは今日でも生きつづけています。


まだもう暫く「宇宙皇子」に関係するお話はつづきますのでお付き合い下されば感謝です。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド41「カセットブック発売の謎」 [趣味・カルチャー]

  

1985年の「宇宙皇子」シリーズという小説の発売された時から数年間・・・つまり1989年ぐらいまでの四年強という時代は、小説の大きなヒットということもあって、兎に角私の身辺はこれまでとは違って、とても表現できないくらいに過剰なくらいの作業に立ち向かわなくてはならなくなっていましたが、時間がたって思い返すと、その間に関係者が行った様々な行為には、秘められた思いというものが込められていたのだということが次第にはっきりとしてきます。


今回は1988年年12月に、社長が行った「宇宙皇子カセットブック」の製作・発売ということと、やがて1991年10月に制作・発売した「天上編宇宙皇子」のビデオとの行為には、思いがけない社長の思いが込められていたように思えてくるのです。すべては1989年3月に行われた、「地上編宇宙皇子」のアニメーション映画の公開の前後に行われたということです。今回はそのはじめの行為である「カセットブック」の発売についてお話しようと思いますが、社長はどうして映画が公開される直前にわざわざ「宇宙皇子」のラジオドラマを発売するようなことをしたのでしょう。どうも公開されるアニメーション映画との関係があったとしか考えられません。


 実は「宇宙皇子」の映画に関しては副社長が指揮を執っていたのですが、一応映画の制作者は社長ということになっています。しかしその内容は社長の意に叶った者とはなっていないということに気が付いたからではないでしょうか。


 しかしあの頃「宇宙皇子」は連打する状態で、の出版界の空気というものは大変な勢いで、出版社が絡んだ依頼ではなくさまざまな公共機関からの講演会の依頼が私のところには飛び込んできていたのです。冒頭の話とは違ってしまいますが、当時の私を取り巻く空気というものもお話しておこうと思います。1985年に出版されるとその半年後には、私の住んでいるところのごく近くの図書館もある深沢区民センターから講演の依頼があって、市民のみなさんとの対話をさせて頂くことになりました。前にも書いたことがありましたが、この時を機会に書店へ伺うと若い読者とも出会うことがあり、そこで率直な意見を聞くことができましたが、意外にも小説の内容についての注文ではなく、このあたりの書店だとなかなか目的の「宇宙皇子」を手に入れることが出来ないというのです。いつも渋谷・新宿の大手の書店まで早めに出かけて、やっと手に入れるということでした。作家としては地元で自作が容易に買って頂けないのは残念なことですから、帰宅してから直ちに角川書店にお願いして、出版と同時に近くの書店に配本をして頂けるようにお願いしたことがありました。


                         「宇宙・深沢区民センター1」1(1988313).jpg 「宇宙・深沢区民センター2」1(1988313).jpg


これは講演会を行ったいい結果ということであったと思うのですが、もう一寸高齢の社会人である「学校図書館研究会」という方々は、若い人にどんな映像作品が好まれるのか、そしてどんな小説が好まれるのかということで、私に「宇宙戦艦ヤマト」についての話と「宇宙皇子」を生み出したきっかけについての話をして欲しいということで中央沿線の三鷹の教育関係の会館へ招かれたことがありましたが、この時の講話が大変によかったということで、その後も再び同じようなテーマでお話をしたことがありました。


やがて上尾図書館。亀有図書館、八潮図書館などからの講演依頼がつづきました。


                           「宇宙・学校図書館研究会1」1(199873).jpg 「宇宙・学校図書館研究会2」1(199873).jpg  


兎に角作家が講演会のような形で一般的に姿を現してしまいますと、社会人として覚悟しておかなくてはならないのは、日常生活の場で様々な人々とすれ違うことも多いのですが、もちろん私はこれまで通り自由に散策に出て、近くの文房具店や書店を数軒巡って息抜きをすることがあるのですが、その間に自宅に電話が入って、「今、お宅のご主人が散歩している姿を見かけたわよ」という報告が入ってきたりしたようで、講演会などで姿を公にさらしてしまうと、今までのように見知らぬ存在として気楽な散策などは出来なくなります。更に広げたお話をすると、電車などでの車内広告でその月の出版物が公表されることにもなります。そんなことがきっかけで、「神戸学院大学女子高」や「奈良智辯学院」から講演の依頼があったり、集英社の文化振興団体と中国新聞が共同で企画をされた週国地方の高校を巡る講演会に駆り出されたりいたしました。


 「地上編宇宙皇子」の映画制作が発表されたのは、そんな最中のことでした。


やがてその制作の進行状態が盛んにマスコミに発表されて、映画の公開が待ち遠しという状態になっていた最中に、1988年12月1日に「宇宙皇子カセットブック」というラジオドラマ集が日本コロンビアから発売になりました。その制作・発売はあくまでも社長名で行なわれています。


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私にとっては脚本家になるきっかけとなった分野で、学生時代には脚本賞などを受賞したりしていた世界でしたが、大学を出る頃から始まったテレビという新しい文化に活路を求めて飛び込んで行きましたが、兎に角ラジオドラマという世界には、ある種の郷愁という感慨もありましたが、すでにお話しましたが今回は脚本家としてではなく、あくまでも原作者として向かい合うことになりました。ドラマを制作するのは、当時芸術祭参加作品を制作しつづけてきた文化放送の演出家の鈴木久尋さんが制作するということで、私は若手の放送作家の中から富田祐弘・寺田憲志・武上純希氏という面々は映画制作のための脚本を共同で執筆してもらいましたので、今回のラジオドラマには若手の放送作家から神戸一彦・武上純希に若手の作家で弟子でもある森川潤氏を指名して執筆して貰い、出演者はほとんど青二プロダクションの実力者が中心になって固めて貰いました。映像とは違った独自色の出せる分野での演技で楽しんで頂けたのではないでしょうか。思いがけずプロローグの語りを私がやれということになりましたが、かつてラジオの構成番組を担当していた頃、今回は思い切って脚本家が語ってみて下さいという提案があって、音楽番組の中の一ページを語ったことがありましたので、恥ずかしげもなくデレクターの提案に乗って、オープニングを録音させてもらったのでした。


兎に角大学時代を思い出すようなスタジオの雰囲気を思い出しながら、30分のドラマが録音されていくのを見学させて頂きました。しかしおそらく小説が朗読作品としてはかなりの数の作品が制作されてきたと思うのですが、今回のように本格的なドラマとして制作されるということは実に珍しいことではないでしょうか。私はそんな意味でも大事にしているシリーズなのです。


こんな作品を社長が、なぜ映画の公開が迫っている時に、制作・販売などしたのだろうか。時を経て考えると、どうもその行為には、何か秘められたものが会ったのではないかと思えてきたのです。しかもそうした社長の不可思議な行為の裏には、もう一つの謎があったのではないかと思われるものが会ったのです。それは映画が公開された後から発売された「天上編宇宙皇子」のビデオの発売です。じっくりと思い返してみると、社長の二つの行為には、ある思いが込められていたのではないかと思うようになってきたのです。兎に角今回の「カセットブック」発売は1988年12月ということですから、はもう30数年も前のことです。手に入れたくても容易には出来ないと思います。


ラジオドラマが好きだという方がいらっしゃいましたら、是非発行所の角川序店か制作協力の日本コロンビア株式会社にお問い合わせ下さい。しかし現代ではそんなことをするよりも、


「ネットで検索すれば、たちまち手に入ることができるのではありませんか」


あっさりとそう言われてしまうかも知れませんね。


 それよりは、先ず次のお話を読んでみて下さい。


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告知と放談の部屋☆ 放97「イベントとファンクラブ2」 [趣味・カルチャー]

  

 ファンクラブの東京の拠点であるだけに、各地のファンクラブからの私が参加して貰いたいという希望に、どう応えていくのかということではスタッフの会議でのおおきな問題でもありました。そんな中から浮かび上がってきたのが東京での大きなイベントです。まだファンクラブが発足して間もないのです。とても大きなことは行っておりません。宇宙皇子体験ツアー」という行事の企画と実行ということだけでも、容易なことでは運営できるものではないのです。それを行いながらそれが毎年夏の行事として定着していましたから、その時期を外したところで各地へ出かけて行って、読者と一般の興味のある人達との親睦を図ってはきたのです。それぞれの町で行なわれたイベントは、わざわざ東京から出かけて行く私を楽しませてくれました。いや、当日集まって下さったみなさんも、同じ思いでいて下さったことでしょう。


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  二回目の時は読者から私に感謝状が贈られるという思いがけないことが用意されました。勿論東京ではこの後からもクリスマスのファンクラブ祭りは行われましたが、東京についで大きな集まりになったのは大阪でしたが、お母さんに連れられてやってきた小学生までいました。


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 次は仙台で行なわれたクリスマスイベントです。この日は角川書店からS編集部長が若い人の様子を知りたいと同行してこられました。先生に案内されてきた学生たちは、かなり緊張していたことを思い出します。


 


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次もクリスマスイベントを兼ねて、宮城の野口英世記念館がファンクラブの催しとなりました。私に対する質問コーナーでは、かなり女性から活発な質問があって、参加者たちも楽しんだように思います。


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次は福岡ですが、ここでは編集長としての作品の受け止め方についての講演もあり、実作者である私との作品の受け止め方が面白かったのではないでしょうか。


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こうした各地でのイベントの開催は、ただ読者たちの受け止め方を生な形で受け止めて貰えて、角川書店の幹部社員の方々にも、かなり参考になったのではないかと思います。最後になりましたが、広島の読者のみなさんとの記念写真を紹介いたします。残念ながら、みなで原爆記念館などを訪問した記録写真が見つかりませんでした。


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若い世代の人々との映像時代からの接触がありましたので、京都のPHP出版から依頼があって、何冊かの若い人に向けたエッセイを出版いたしました。


 


機会がありましたら、是非若い人に読んで頂きたいものです。


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これは少しでも多くの人に読んで貰いたいという希望から、タイトルも変えて新しいものも加えた物にもいたしましたが、やがて徳間書店からも、いろいろなところへ出かけて行ったおかげでしょうか、かなり違った青春を生きている若者がいるということを知りました。そんなことから珍しい若者の人生相談ということを狙った「せいしゅん隣組」という本も出版しています。


 この頃は「宇宙皇子」をはじめとした若者文化が様々なことで広がり、さまざまなことで波紋を広げていました。


 宇宙皇子ファンクラブはそんな時代をリードしていく中心的な活動をしていきました。


 


 1985年から1988年という4年間というものは、まさに「宇宙皇子」がさまざまなことで話題であったことは間違いがありません。それは激烈な時代を生きる人々の暮らしを背景にした「地上編宇宙皇子」と、極楽浄土のあるという「天上界編宇宙皇子」の作品が連打さていった時代でありました。


 


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思い出作品の部屋☆ 思17「イベントとファンクラブ1」 [趣味・カルチャー]

  

ファンクラブの東京の拠点であるだけに、各地のファンクラブからの私の参加を希望するという希望に、どう応えていくのかということではスタッフの会議での大きな問題でありましたが、そんな中から浮かび上がってきたのは、東京での大きなイベントというものがまだ行われてはいないということでした。地方からの希望は沢山あるのですが、「宇宙皇子体験ツアー」という行事の企画と実行ということだけでも、容易なことでは運営できるものではありませんが、それを何とか事故もなく終了することができたばかりです。


「宇宙皇子体験ツアー」というものは、小説の援護射撃ということでは大変有効な企画したから、ファンクラブとしては発足すると同時に大きな役割を演じてくれたことになりました。この企画は1985年から毎年陰の大役を見事に演じ切ってくれたのですが、ツアーに参加できる読者は200人弱という幸運な方だけに限られていましたので、あれだけ大きなヒット作品になりましたので、ツアーに参加できなかった日本全国各地に存在している読者からは、次第に欲求不満が出てきます。特に東京はファンクラブの拠点として確立していましたから問題はないとしても、横浜・名古屋・大阪・福岡などの地方の都市はもちろんのこと、それぞれ県単位でも独自のファンクラブが生まれていて、それぞれの土地に相応しいリーダーが生まれて独自に活動をし始めていましたから、東京の本部に対して、私を中心に各地へ来て貰って直接話ができる機会を作って欲しいという要求が、頻繁に入ってくるようになっていたのです。


その結果編集長との協議をした結果、地方へ出かける予算が取って頂けるようにというお願いをしなくてはならなくなってしまいました。兎に角ファンクラブには大量の資金が与えられていたわけではありません。ほとんどは自発的な活動だったので、兎に角援助して頂かなくては思うような活動もできません。まして全国の各地からの集会要求に応えるためには資金が必要になりますので、編集長の協力は絶対に必要でした。しかしそれ以上に問題なのは角川書店としての出版の予定がありますから、私の都合でそれが思うようにならなくなってしまうということには出来ません。ファンクラブのスタッフは相談ということで、よくやって来るようになっていました。確かに彼らの全国のファンの要望に応えて上げたいという純粋な熱意を思うと、無碍には拒否は出来ません。結局いろいろ検討した結果、私が現状を更に厳しくする過密スケジュウルを我慢するという決心をすることで話し合いは決着したのでした。


そんな中でようやく第一回目の体験ツアーをやり遂げたのですが、ファンクラブのスタッフたちには、ツアーに参加できなかったファンたちから、読者たちとの親睦を図って欲しいという希望が集まり、ファンクラブとしては「体験ツアー」という大役を果たしてほっとしていたのですが、そのまま息継ぎをしている暇もなく読者から寄せられる希望に応えることについて新たな知恵を絞らなくてはなりませんでした。そこで考えられたのが、「クリスマスイベント」を行ってはどうかという提案でした。勿論私はまったくそうした独自の計画にはかみこむ余裕がありませんから、そのプロセスに関してはまったく判りません。次の出版に向った作業にかかっていましたので、スタッフからイベントについての報告を聞くだけでやり過ごしていました。しかし宇宙皇子が出版され、体験ツアーが行われ、畳み込むように東京のファンクラブ主催のクリスマスイベントが12月22日に行われることになったのでした。


やはり東京の中心であるファンクラブとしての存在感を示すためにも、みなそれなりに意味のあるものにはしておきたいという気持になってきたところです。しかし1985年ですからまだファンクラブが正式にスタートしてから数か月のことです。銀座のヤマハホールで「クリスマスイベント」を行ったのでした。勿論私は会場いっぱいの読者を前にして、冒頭の挨拶をいたしました。ファンクラブのお披露目という意味もありましたが、日本の各地域の人たちがわざわざ東京まできて参加してくれたことには感謝でしかありません。作家の私もその反響の大きさに、改めて感動しながら宇宙皇子に対する反響は普通ではないと実感いたしました。


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これが毎年年末の行事として定着していくことになったのですが、それは東京だけに限られず、地方各地に誕生している「宇宙皇子ファンクラブ」の活動に組み入れられていきました。


 全国の若い人たちと出会って話をするということができるということでは、出版で言うお客様の時代意識や生活感というものが生で知るいい機会に恵まれるのです。これまで何度か経験しましたが、所謂出版社の編集者は、大体会社にいて持ち込まれる作品に目を通すという作業はするものの、生の読者の動向についてはほとんど受け取る機会を得られないままでいることがほとんどだったのです。


 私にとって大変厳しい日程をこなさなくてはならないことではありましたが、その分各地の若者たちと直に話ができるという収穫もあるのです。私は彼らが組んできた予定のイベントには喜んで参加をすることにしたのでした。すべての記録を紹介することは出来ませんが、それぞれの地方へ編集長をはじめファンクラブのスタッフは、私と共に出かけて行って親睦を図りました。宇宙皇子についての話と読者たちからの質問に応える時間は、これまでには考えられない和やかで親しみを増した時間になりました。しかしどこへ行っても必ず最後はサインをしなければならなかったのは、なかなかくたびれるものでした。


 私は若い人が、小説をどのように受け止めてこられたのか、若者としての受け止め方を、生の声として受け止めることができた、大変参考になるしんぼく会でしたが、ファンクラビのスタッフは、地元の世話役との親睦に務めながら、東京がその中心であるために地方の会員の要望を受け止めながら、角川書店の意向、私の意向に配慮しながらほとんど問題を起こさずに、ファンクラブの維持を見事に果たしていったのでした。しかしこの頃、当時はまだジャニーズ人気もそれほど大きなものではなく、特に現代ようにアイドルを追い回すようなこともそれほど大きな動きにはなっていませんでしたので、それぞれの歌手についているファンも宇宙皇子の会員の数には叶わないほどであったといわれました。まして作家にとってのファンクラブというものが、これほど大きな形で運営されていたものはありませんでしたから、みなさん異様に思われたでしょうね。


そんな人気を支えてくれていた縁の下の力持ちたちは、みな二十歳前後のスタッフで、ファンクラブという大きな親睦組織を維持しながら支えていくということに、ほぼ四年間という間を充実したものにしてくれました。その中でも毎年行われるようになったクリスマスのイベントは、東京だけでなく各地で行われるようになっていきました。次回はそんな中でも目立った地方のグループによる「クリスマスイベント」の催しを、大座パですが紹介したいと思います。


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告知と放談の部屋☆ 放96「宇宙皇子体験ツアー 3・4」 [趣味・カルチャー]

  

こうして爆発的に読者たちから受け入れられている「宇宙皇子体験ツアー」でしたが、私はこの企画から鮮度が感じられなくなった時には止めなくてはならないと思っていました。つまり若い人に歴史の跡と小説の進行とが、読み進めていく間に更に古代への興味とつながっていける手掛かりとでもなればいいのですが、ただだらだらと企画だからということでつづけていては、やがて一気に興味を失うことになりますし、様々な問題も噴出してくるものです。そこで私はファンクラブにも「地上編」と「天上編」が終わるころまでには、残念だけれども読者に新鮮な歴史世界と出会って貰うところはほとんどなくなってしまうので、そろそろ体験ツアーも終わることを考えておかなくてはならなくなると、ツアーの反省会の時に話しました。


 そこで・・・今回はこれまでとは違う、歴史を楽しもうという目的で、これまでとは違ったゆとりのある企画にいたしました。そのきっかけとなる天上界を知って貰うためにも、現在生きている世界には、須弥山という現世と天上との境だと思って進行するところがいくつも存在しているので、これまでは関西中心の体験ツアーであったので、三回目のツアーは関東の須弥山といわれている妙高山を中心にその周辺を巡る旅にしてみなかという企画を提案したのです。第三回「宇宙皇子体験ツアー」は1987年8月1日に行われたのでした。


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  ファンクラブは史跡といえるところがほとんど見当たらないところでの企画にかなりましたので、これまでのようなかなり強硬な予定で史跡を巡るというようなことは避けて、妙高山を須弥山と考える信仰があることから、天上界についての知識となるような話をいろいろとしたり、ファンクラブが工夫して企画した運動会が行われて、会員同士の連帯感を生むリラックスしたツアーになりました。しかしお気づきになられるかも知れませんが、恒例の七夕祭りに異変があります。これまでのような見事な笹が手に入らなかったので、短冊での勝負になってしまいました。それではこれまでとはいささか気分を変えた「体験ツアー」の一部始終をご覧下さい。宇宙皇子を愛するファンの懇親会といった雰囲気のイベントでありました。


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    「体験2みんな集まれ」1(198782).jpg 「体験3軽井沢」1(198783).jpg 「体験3タケシの店だ」1(198783).jpg


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  異色の体験ツアーではありましたが、ここでいよいよ締め切りとなる最後の企画を考えることになりましたが、もう一度原点に立ち戻って「体験ツアー」を行って企画の目的を思い切って終了しようということで終わりました。


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          「体験4金剛山へ」1(198881).jpg 「体験4高いな」1(19881).jpg 「体験4ここは金剛山」1(198881).jpg


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          「体験4明日香の村」1(198882).jpg 「体験4岡寺」1(198882).jpg 「体験4参拝」1(198882).jpg


      「体験4楽しみの一つ」1(1988828).jpg 「体験4大変です」1(198882).jpg 「体験4緊張」1(198883).jpg


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  こで1988年8月に、炎熱の中を四回目の「宇宙皇子体験ツアー」が行なわれることになりました。かつてと同じような炎熱の中をかなり強行軍の旅程になりましたが、かつての多くの体験ツアーがこうであったようなことを思い出しながらでした。これで「体験ツアー」となった古代歴史の故郷であった明日香村を中心とした旅は終焉ということになりましたが、こうした大きな集団を事故もなく運営してこられたのは関係した角川書店のみなさんはもちろん、私のおつき合いを通して協力して下さったみなさん、そして完全に陰の人となって働いてくれたファンクラブの諸君には、感謝のしようもありません。関係者一同、協力をして頂いたみなさんへの感謝の気持ちを噛みしめながら、ファンクラブとツアーとのかかわりについてのお話を終わりたいと思います。


有難うございました。


 


   


  


 


  


  


 


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告知と放談の部屋☆ 放95「宇宙皇子体験ツアー1・2」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」が出版された直後から、自発的にその支持者が三々五々集まって拙宅へやってきたのは1985年のことでした。その後で彼らの思いに応えるために編集長のA氏に彼らを紹介したのが始まりで、やがて編集部の一部を活動の拠点として提供して頂き、独自に活動を始めることにしたのが「宇宙皇子ファンクラブ」のスタートでした。しかし「宇宙皇子」の方向については間違えないように、多くの読者との協調をして貰いながら、独自に活動するとしてもまったく私の知らないことを、勝手に働きかけてはいけないということもあって、編集長に目を光らせて頂きながら、「あすか編集部」の一部をお借りしてそこをファンクラブの正式な拠点としたのでした。その後その時の事情から拠点を転々と変えながら、スタッフも次第に固まってきて「宇宙皇子」の出版に合わせた会報も制作されるようになりました。


 若者たちにはそうした編集にも特技を持っている者もいて、編集長と私はほとんど口出しをせずに、自分たちでどういう形で運営していかれるのかということを考えて貰いました。時間を経過していく中で、かなり優秀な若者たちも集まってきたこともあって、さまざまな意欲的な企画も出てきて、先ずはその機関紙である会報の0号である「鬼笛伝説」が誕生することになったのですが、そこで私はファンクラブの推進力となることを考えて、彼らの注目の対象になるファンクラブの企画として、小説の中で主人公である宇宙皇子が駆け巡る歴史的な世界を、読者もその体験を共有するという意図で、古代史に世界を旅することはどうだろうかと提案しました。それが「宇宙皇子体験ツアー」の旅の始まりでした。幸い旅行を扱うところが角川書店の中にありましたのでその協力も約束されて、ましごく少人数のスタッフではありましたが、企画の推進を任されて動き始めたのでした。それぞれ知恵を絞ってその大きな企画を動かすことになったのですが、編集長がその責任者についていて下さって、読者への呼びかけが行なわれたのです。ほとんどファンクラブのスタッフによってその案が練り上げられて進行していったのでした。みな二十歳前後の若者ばかりですが、経理的なことは会社に任せるとしてもその他のかなりなれない大きな事業の運営に関しては、数名のスタッフが知恵を絞って行うことになりました。私は小説の執筆に追われていましたので、彼らの実務に関しては書くことができません。作業に立ち会っていたわけではありませんでしたので、困ったことがあればいつでも相談に乗るということを約束して仕事をつづけていたのでした。


 第一回の体験ツアーの様子については、すでにブログで紹介いたしましたので、その時の解放を紹介するだけにしておきますが、現地では私が史跡と小説の主人公とどうかかわって登場したところなんかということを開設するということにんありましたが、横浜・東京・名古屋・九州という四か所からそれぞれ50人ぐらいの希望するファンを載せて、最終の集結点として決めた、奈良の金剛山の頂上にある駐車場で出会うという企画で出発いたしました。実はこの第一回の試みには幸いにも予想を越える応募者がって、やむを得ず抽選での当選者が参加者ということになりました。


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私はもちろんでしたが、イラスト担当のいのまたむつみさんも参加されて、大変な賑わいでしたが、それ以外にもかなり多くのゲストが作家して下さいました。


 第一回目の「宇宙皇子体験ツアー」が大変な評判となって、つづけてやって欲しいという熱望があつまりましたので、一年後の1986年の夏休みを利用して第二回の「体験ツアーが行われました。前回と同じで、抽選で当たった方180人が参加しましたが、お婆ちゃんがお孫さんの付き添いで参加してこられたのはびっくりしましたが、大変嬉しくも思いました。しかし行き先は大峰山です。宇宙皇子が師と仰いで存在した修行者の役小角が開いたというところです。大丈夫かな。


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  みなハードスケジュールの中炎熱の八月ですが、誰も倒れた人がいませんでした。


近くの天河神社へも行ったんですよ。


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 兎に角宇宙皇子が小説の中で走り回り活躍する古代史の遺跡を尋ねながら、男子は自分が宇宙皇子になったつもりで、鬼笛を持って参加してきたりしましたが、物語の中に飛び出した龍と戦うつもりのような気持ちだったのでしょう。七夕遊びについては前回と同じように、ツアーの大きな楽しみ多いイベントになりましたが、願いを書き止めた願い事を吊るして飾る竹を宿に頼んでおくということも、ツアーを支えているファンクラブスタッフの努力の一つです。しかし私も言い出しっぺとして、バスが次々と遺跡へ移動するたびに乗り換えて、それぞれの地域から来た読者に宇宙皇子の活躍する古代についてのお話をしながら、現地へ着いたらそこで史跡の解説もしましたので、ほとんど休みがなく大変な苦労でした。しかしファンクラブのスタッフは、地方のファンから寄せられる様々な希望に、どう答えるべきなのかということで、東京へ戻ったらまたみなでデスカッションをすることになるのでしょう。出版の勢いと同時にファンクラブの活動も、かなり精力的な活動をしていくようになりました。それは「宇宙皇子体験ツアー」が紹介できた後で、イベントなどの活動についても、いずれお話したいと思っています。


 


 


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アニメと音楽の部屋☆ ア58「脚本家としてやれることは」 [趣味・カルチャー]

  

かつて活躍していたテレビ・アニメーションの世界が大替わりしていく中で、突然出版界に出現したのが「宇宙皇子」でしたが、どうしてあの本があのように出版と同時に火がついてしまったのでしょう。ほとんどの方は気が付かなったに違いありません。出版界の方はこれまでまったく無視をしてきた映像の世界から、俄かに移動してきたような混乱状態になってきていました。そんなところに開花したのが「宇宙皇子」だったのです。


 これまでとまったく異質な進化したロボット社会が跋扈するアニメーションに馴染めない、ある意味で映像の世界から見放された世代の人々は、かつて夢を見てきた世界を、別の形で展開する「宇宙皇子」にのめり込んできたのではないでしょうか。これまでには考えられない小説の世界に、希望を求めた若い集団が想像を越えた社会現象をもたらしてきたように思えます。何もかも時代の進展で起こる社会現象であることに違いありません。そんな時代の変化の中でもみくちゃになりながら、私は活字の世界と映像の世界に挟まれながら、何とか「トランスホーマー・ザ・ヘッドマスターズ」のテレビシリーズ第一話を書き上げなくてはなりませんでした。


今回はこれまでと違った進化した世界を描こうという意図のもとで、新たな魅力をグレードアップしたロボットの姿を展開して見せようというのです。しかしなかなかそこに展開する世界に馴染めないのです。


私はこれまで映像作家として活動している頃には、慕ってきた若い脚本家に対して「引き出しの多い作家となるように努力しなさい」とアドバイスしつづけていたのですが、実はこの頃になると携帯でもパソコンでも、「検索」という便利なものが用意されていて、知りたいことのあらましについては簡単に手に入れられる状態になってきていたのです。これまでの脚本家には、生きていく中で広がる人間関係、社会生活を通して、自然に体感したりしていく知恵というものがあって、脚本家が話の進行上で困難にぶつかっても、「あの時の経験を利用して、ドラマの中での困難な情況を突破すればいいのではないかということが閃いて、そのお陰で困難を突破することが多かったのです」が、実社会生活が複雑化してくる中で出て来る問題が多くなってきている現代では、ただ「検索」を利用しただけで簡単に困難を乗り越えられることを知ってしまうと、特別その人の特色のある智恵の発揮ということが見られなくなってきていました。しかも現代のように日進月歩で進化していく時代になっている時に、このロボットたちを使ってどう表現すれば、今起こっていることが表現しきれるのだろかと考えこんでしまうのです。


私は兎に角与えられた映画の「トランスフォーマ」の設定書を見つめながら、このロボットのメカをどう動かすことが、そのシーンの中で生きるのであろうかと考えると、とても文章的に書ききれないということにぶつかってしまったのです。


これまでの人生経験上、様々なことに出会い、思いがけないことを発見するようなことがいろいろありましたので、それらのものが知識となって脳裡に蓄積されて、編集者やプロデユウサーから、ここは他にもっと面白いアイデアはありませんかとか、ここで人生が変わるようなきっかけは作れませんかとか、何とかこの危機を突破するアイデアはないでしょうかなどという要求が出た時にそれではこんなものはどうでしょうと、書かれたものとは違ったアイデアが提案できる状態であったのです。それで脚本家としての真価を認めさせることになったのです。そんなことから様々なアイデアがいろいろな心の中の引き出しの引き出しにしまってあることが、作家たちの誇りでもあったのですが、現代の映像界では、そういったため込んできた知識では解決しないものが、縦横無人に動きまわるのです。そうした生命体の動きは一体どうしたら脚本家として書き止められるのでしょうか。そんなことを考えると、現代の進化した生命体であるロボットを描くには、活字でその動きを描ききるということは不可能なのではないかと思うようになったのです。影像を動かして縦横に活躍させるには、もうアニメーターでなくては不可能ではないかと思うようになったのです。知能まで持ってしまったメカニズムは、もう文章で書き止めることは無理だと思うようになりました。とても人間的な発想をするわけありませんし、ロボット同士にそうした心の働きと言うものがどう働くのだろうかと考えると、とても表現することは不可能だと思うしかなくなってしまうのです。


 「とても脚本家としてこのロボット社会を描ききることは出来ない」


 これらの社会現象も、すべて時代の進展で起こる社会現象であることに違いありません。そんな時代の変化の中でもみくちゃになりながら、私は活字の世界と映像の世界に挟まれながら、何とか「トランスホーマー・ザ・ヘッドマスターズ」のテレビシリーズ第一話を書き上げていたのでした。


                                             「トランスフォーマー」(テレビ台本)1.jpg


  私は悩んだ末に、当面の話の進行となる目安を書くと同時に、これ以上は書きつづけることが困難であるということを申し出て、後は脚本家の仲間であるTA氏とYAにシリーズを書いて貰うことにして、実作業からは遠ざからせて頂いたのでした。


 時代は変化と変身の時代だということで、その後ミリオン出版から出たトランスフォーマの雑誌に、「時代はメタモルフォーゼ」ととらえたエッセイを書かせて貰いましたが、


テレビ・アニメーションはロボットが、これまでにない生命体として動きまわる様子を、如何に生き生きと描かれるかによって勝負するようになっていったのでした。


もう脚本家がその姿を書ききることには限界があります。もはや現代のアニメーションは、アニメーターの手腕で出来不出来が決まってしまう時代になってしまったのでした。


私は悩んだ末に、当面の話の進行となる目安を書くと同時に、これ以上は書きつづけることが困難であるということを申し出て、後は脚本家の仲間であるTA氏とYAにシリーズを書いて貰うことにして、実作業からは遠ざからせて頂いたのでした。


 時代は変化と変身の時代だということで、その後ミリオン出版から出たトランスフォーマの雑誌に、「時代はメタモルフォーゼ」ととらえたエッセイを書かせて貰いましたが、


テレビ・アニメーションはロボットが、これまでにない生命体として動きまわる様子を、如何に生き生きと描かれるかによって勝負するようになっていったのでした。


もう脚本家がその姿を書ききることには限界があります。もはや現代のアニメーションは、アニメーターの手腕で出来不出来が決まってしまう時代になってしまったのでした。


                                       「トランスフォーマ談話」(平成23年8月2日・ミリオン出版)1.jpg


私に時代の進化を知らしめた番組でしたが、もう何年も前から私のするべき世界ではなくなっていたということを、改めて知らされたのでした。そしていずれ私は、活字の人間になったのかそれとも映像の世界に留まりつづけるのかということを、そろそろきちんとしておかないと、私自身その立ち位置に混乱が起ることになってしまうだろうという時が訪れると思えてきたのでした。


 たかがアニメ―ションされどアニメーションです。


 「トランスフォーマ」という番組にかかわったお陰で、これからの進むべき道筋を決定的にした瞬間でした。


                                        「ザ・ヘッドマスターズ台本」1.jpg


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アニメと音楽の部屋☆ ア57「トランスフォーマの不安」 [趣味・カルチャー]

  

 1988年。


時代は大きく変化してきていました。


 私が出版界へ転身を図って、角川書店での作品の発表の場を得て、幸いにもその最初の機会に大変なヒットを出すことに成功したところです。「宇宙皇子」という大長編になる歴史世界での若年層に向けた小説です。出版されてから一年もしない頃に、読者の中からの発意で出版界では珍しいファンクラブなどというものが発足した翌年のです。


これまで「宇宙皇子」が短期間の間にベストセラー化してしまったこともあって、ブログではそれらの出来事を次々と書いてきてしまいましたが、ここらあたりで話は後先になってしまうのですが、「宇宙皇子」が発売されてそれほど時がたたない1988年3月の出来事について、お話しておかなくてはならないことがあったということについて思いだしました。これまで長いこと仕事を積み重ねてきた映像の世界から、転身を図って間もない私に、何と映像の世界から声がかかったのです。「宇宙皇子」というシリーズは間断なく必死で書きつづけ、それと同時に人気を日増しに上乗せ行く状態でしたが、そんな最中に映像界から久しぶりに仕事の依頼が飛び込んできたのです。


「マジンガーZ」「機構戦史ガンダム」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」「六神合体ゴットマーズ」などというテレビ視聴者を熱狂させたテレビアニメーションが、時代の推移で姿を消していくのに合わせて私のテレビを通した活動も勢いを失い、新しい活動の世界を求めて出版界へ転身を図り始め、そのきっかけとなったのが「宇宙皇子」という作品のヒットだったのです。その読者たちによって結成されたファンクラブが活動を始めて間もない1988年の3月のことでした。久しぶりに思いがけない話が飛び込んできたのでした。暫く実作業から遠ざかって新天地での作業に専念していた時のことなのですが、長年親しくお付き合いをしてきた東映動画のYプロデユウサーから仕事の依頼があったのです。優秀な若い演出が率いる新番組にかかわってくれないかという話でした。


 「トランスフォーマ・ザ・ヘッドマスターズ」というアメリカ映画の第三作目で、この映画で新しいロボットが開発され、玩具として発売されるということなのです。


 かつて私がその開発に夢中であった、SFアクションという世界は、どうやら玩具販売に欠かせない世界に変身してきていたのです。


 時代の変化によって、アニメーションの世界では中心的な推進役を担ってきた世界は、完全に玩具と切り離しては存在しなくなっていたのでした。力をこめたテレビ版を制作するという話ですが、兎に角出版界へ転身したばかりで思いがけない大ヒットを記録したところでもあります。久しぶりに映像界から頂いたお話ではあるのですが、お話に乗ることは、一寸難しい雰囲気になっていたのです。まだこのまま映像の世界に戻るきっかけを放棄してしまっていいのかという気持もありましたが、現在出版界で起こっているブームを無視することもできません。そのへんの難しさを理解して貰った私は、兎に角スタートのあたりでの協力は約束しました。大雑把な話の運びと、シリーズ構成を執筆するということを約束して帰りましたが、兎に角第一話に関しては、何とかまとめなくてはなりません。ところがそれからこれまでにない脚本家としての新たな格闘をしなくてはならなくなってしまったのでした。


                                                「トランスフォマー2011」1.jpg


この時私には6年前のことが甦ってきました。


「機構艦隊ダイラガー」という作品を東映本社制作で行なった時です。その設定書を含めてメカのデザインが届けられましたが、もうこのころからそれまでの玩具の世界では大変な変革期にきていて、「マジンガーZ」のような巨大ロボットが活躍する世界から、やがて「六神合体ゴットマーズ」のように、そのスタイルがどうであれ、さまざまな役割を分担するロボットが何体も合体しているロボット物に変わって行きました。そのために純粋な思いで番組を制作しようとしていたスタッフからは、そういった武骨さをあからさまにして活躍させることに抵抗を感じさせてしまって、かなりスポンサーとの間に挟まって苦労したことがありましたが、それから数年もしない内にテレビ界では時代と共に受け止める視聴者の感性も大替わりしてきていて、陸上で活躍するロボットも、これまで以上に何体ものロボットをみにつけていて、相手によって次々と戦うための戦力として送り出すようになりました。これまでは地上での活躍をするヒーローととして活躍する存在であったものだったのですが、それは宇宙の場にまで広がり、時によって陸上と同じように武器のロボットを送り出して活躍するようになりました。いうなればあの「機構艦隊ダイラガー」はそれでもかなり初期的なロボットを扱うように、艦隊として繋がるロボット戦隊を宇宙で活躍させました。私は理屈抜きでこうしたロボットが宇宙に存在した上にまるで地上の生物であるかのような縦横無尽の活躍をする話には、どうしてもついていくことができなくなっていたのです。これも全体の流れを決めたところで、弟子である二人の脚本家にその後の作業を託して、私自身は身を退いてきたのです。生々しい歴史上の事件に翻弄されながら、必死で生きていこうとする人間たちを書くようになっていた私にはあまりにも時代の生み出す異常な世界との接点が生み出しにくくなっていたのです。今回の話も結局話の流れは作りましたが、どうも脚本として執筆し始めると、映画で描かれている進化したロボットっと世界を書ききれないという問題と直面してしまったのです。実際にそうした世界を描くには、新しい時代の波に乗って生きようとする若い世代の人の方の方が、視聴者の波長と上手く一緒に生きて行けるのではないかと思って、脚本を執筆することは後輩のT氏に任せることにしました。


                     「機甲艦隊ダイラガー」1.jpg 「ダイラガー台本 1」1.jpg


その後1985年には、またまた「超獣機神ダンクーガ」という話が飛び込んできた時には、再び地上での活躍をする存在としてのロボットではあるのですが、時代の進展によってその存在そのものが更にこれまでを越えた存在とは違う者にしなくてはならなくなりました。更に進化したロボットの世界を描こうという話が持ち込まれてきたのです。アニメーションの世界も、時代と共にどんどん視聴者の要求に応えようと、業界は苦闘していたのです。思えばかつて私が夢を求めて取り組んできたSFアクションというジャンルは、夢の物語を受け付けない鮮烈な現実と対峙していく姿を描かなくてはならなくなってしまいました。ここには珍しい記録が残っていましたので紹介いたします。「超獣機神ダンクーガ」の初期的な作業の記録です。私はこれも弟子の寺田憲史・武上純希に任せて実作業からは身を退いたのでした。


            「獣戦機ダイガン・スタッフ」1.jpg 「獣戦機ダイガン企画」1.jpg 「獣戦機ダイガン・構成表」1.JPG


時の経過とともにあまりにも生きる世界に変化が起ってしまいまって、安住できる場を失ってしまったように思います。これまで私の書いてきた夢の世界はどんどん遠ざかってきてしまっていたのでした。


 


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告知と放談の部屋☆ 放94「武蔵野次郎氏激賞」 [趣味・カルチャー]

   

「宇宙皇子」の映画化ということのキャンペーンが盛んにおこなわれ始めている最中のことです。注目はその内容について読者の話題を集めている最中でしたが、そんな最中に「野性時代」での私の成人向けの作品の作業は粛々と進行していました。


 会社の状態は兎に角「宇宙皇子」と「ファブスター物語」の同時封切りということで、そのキャンペーンが盛んに行われていまして、そのための素材の仕方についての相談があれば、言うまでもなく協力していました。その間にも脚本家たちからもたらされる制作現場の様々な問題については、あまり予算をかけないで製作するという方針もあって、私としても一部内容の撮り直しをお願いしたこと以外は、もうこれ以上はお願いできないという気持になっていましたので、多少の不満は我慢するしかないということを伝えて頑張って貰うしかありませんでした。


 映画の完成まではもうほとんどかかわることもないことから、私は挑戦し始めた成人物作品の二巻目の執筆に没頭していました。一巻目の「御霊狩り」は宇宙皇子の読者とは違った人々の間で注目を浴び始めていましたが、世間的にはほとんど騒がれることはありません。勿論、これまで成人物の作品の読者は、恐らく「宇宙皇子」の影響もあってあまり興味を持たなかったかも知れません。しかし若手編集者たちが工夫して私をアピールするための特集をしてくれましたので、取り敢えずこれまでとは違った読者の開拓ということでは大いに役立ったのではないかと思っていました。これで若年層の読者とはまた違った読者にも、様々な素材を発表できることになりそうだなと思っていたところ、二巻目である「野盗狩り」の発表を前に、大変なニュースが飛び込んできたのです。


 産経新聞の文芸欄にベテラ評論家である武蔵野次郎氏が、拙作「御霊狩り」について激賞してきたというのです。早速新聞を読ませて頂きましたが、作家として物語を書く者はこうでなくてはならないという熱烈な一文でした。「野性時代」の編集部では直ちに第二巻目である「野盗狩り」の発売に当って、その一文を転載させて頂くことになったのです。


                                                 「野性・篁・変成秘抄2」1.jpg


             「野性特集 5」1.jpg 「篁2・野盗狩り」1.jpg


  若手編集者たちはその反響の大きさに感動して大騒ぎでしたが、私はあくまでも成人向きの小説は書けないのではないかという偏見を、一掃する切っ掛けになるのではないかと、氏の一文は私にとって大変な激励文だと思って感謝の手紙を書いたのを思い出します。


 ところがこの頃から編集部内には二つの微妙な空気が生まれてしまったようです。言うまでもなく社長からはこれで大きな賞も狙えるという雰囲気になりましたが、一方の副社長は、目下進めている映画の公開で大きなヒットを考えている最中です。


 勿論このあたりの様子については、現在だから冷静に判断できるのであって、当時は兎に角社内には微妙な空気が漂ったことだけが感じられただけで、自体が様々に動くのに翻弄されるばかりでした。副社長から映画の新しいキャンペン用というポスターが完成したので、是非お会いしたいというお誘いがあったのです。しかも今回は家内も一緒にということで、赤坂の料亭で会いましょうというのです。評論家としても名の知れた方の大変高い評価をして頂いた評論が発表された直後のことです。私は大変気分よく出かけました。


 当初は公開を間近にした映画の二メーターもある新しいポスターなど、新しいキャンペン用の素材を紹介して頂き、是非映画の成功が実現できますようにという、大変嬉しい意気込みを聞かせて頂き、間もなくお食事が用意されて雑談をたのしみました。


 ところがその後で、私にとってはあまりにも意外なお願いが始まったのです。


 改めて私と家内を前に副社長は丁重に申し出たのです。


 「先生。お願いですから、賞狙いだけはしないで頂きたいのです」


 私はあまりにも突然の発言でしたので、一瞬呆然としてしまいました。


 何と答えればいいのか、返答に窮してしまいましたが、これまでも○○賞が欲しくて書いてきた作品はまったくないのです。恐らく今回の武蔵野次郎さんの激賞する作品のことを言っていらっしゃるのでしょう。しかし私自身は、かつて書いた「天之稚日子」「幻想皇帝」そして今回の「篁・変成秘抄」にしても、〇〇賞を狙いたいという思いで書いたものではないのです。


 「私は正直に、ああした作品を書くのは、あくまでも若年読者だけでなく、成人読者に向けた作品も書きたいという気持から、書かせて頂いただけで、決して〇〇賞が欲しくて書いたものではありません。しかし今回のことをきっかけにして、時にはそういった作品も書くことがあるかもしれません。これは作家としてはどうしようもない性の様な気がするのです。基本的にはこれまで通りに娯楽作品を書きつづけるつもりですが、どうか時にはそんな作品を書くかもしれません。その時はどうかお許し下さい」


 私は妙に堅苦しくなってお答えしたのでした。


 「よく判りました。どうかこれまで通り、よろしくお願いいたします。実はこれまでに例がありまして、人気作家が賞を狙って書き始めるとたちまち売れない作家になってしまうことが多いのです」


 副社長も本音と思われることを、堅苦しい口調で訴えてこられたのでした。


 利に徹する人として当然のことかもしれませんが、私は作家として書きたいという自然な発想だけは譲れないことだけは伝えたはずです。それからは間もなく帰宅となったのですが、どうやらその日の重要な要件出会ったはずの映画のキャンペンということよりも、実はあの「篁・変成秘抄・御霊狩り」の出来栄えに関して、私が本格的に〇〇賞を狙い始めるのではないかと考えられた副社長は、「宇宙皇子」のような売れる作品を書かなくなるのではないかと心配になった結果、釘を刺すのが目的であったように思えます。映画の制作は大詰めになりましたが、それでも「篁・成秘抄」も「幻術師刈り」「風流狩り」「熟寝狩り」とい若手編集者たちはその反響の大きさに感動して大騒ぎでしたが、私はあくまでも成人向きの小説は書けないのではないかという偏見を、一掃する切っ掛けになるのではないかと、氏の一文は私にとって大変な激励文だと思って感謝の手紙を書いたのを思い出します。


 ところがこの頃から編集部内には二つの微妙な空気が生まれてしまったようです。言うまでもなく社長からはこれで大きな賞も狙えるという雰囲気になりましたが、一方の副社長は、目下進めている映画の公開で大きなヒットを考えている最中です。


 勿論このあたりの様子については、現在だから冷静に判断できるのであって、当時は兎に角社内には微妙な空気が漂ったことだけが感じられただけで、自体が様々に動くのに翻弄されるばかりでした。副社長から映画の新しいキャンペン用というポスターが完成したので、是非お会いしたいというお誘いがあったのです。しかも今回は家内も一緒にということで、赤坂の料亭で会いましょうというのです。評論家としても名の知れた方の大変高い評価をして頂いた評論が発表された直後のことです。私は大変気分よく出かけました。


 当初は公開を間近にした映画の二メーターもある新しいポスターなど、新しいキャンペン用の素材を紹介して頂き、是非映画の成功が実現できますようにという、大変嬉しい意気込みを聞かせて頂き、間もなくお食事が用意されて雑談をたのしみました。


 ところがその後で、私にとってはあまりにも意外なお願いが始まったのです。


 改めて私と家内を前に副社長は丁重に申し出たのです。


 「先生。お願いですから、賞狙いだけはしないで頂きたいのです」


 私はあまりにも突然の発言でしたので、一瞬呆然としてしまいました。


 何と答えればいいのか、返答に窮してしまいましたが、これまでも○○賞が欲しくて書いてきた作品はまったくないのです。恐らく今回の武蔵野次郎さんの激賞する作品のことを言っていらっしゃるのでしょう。しかし私自身は、かつて書いた「天之稚日子」「幻想皇帝」そして今回の「篁・変成秘抄」にしても、〇〇賞を狙いたいという思いで書いたものではないのです。


 「私は正直に、ああした作品を書くのは、あくまでも若年読者だけでなく、成人読者に向けた作品も書きたいという気持から、書かせて頂いただけで、決して〇〇賞が欲しくて書いたものではありません。しかし今回のことをきっかけにして、時にはそういった作品も書くことがあるかもしれません。これは作家としてはどうしようもない性の様な気がするのです。基本的にはこれまで通りに娯楽作品を書きつづけるつもりですが、どうか時にはそんな作品を書くかもしれません。その時はどうかお許し下さい」


 私は妙に堅苦しくなってお答えしたのでした。


 「よく判りました。どうかこれまで通り、よろしくお願いいたします。実はこれまでに例がありまして、人気作家が賞を狙って書き始めるとたちまち売れない作家になってしまうことが多いのです」


 副社長も本音と思われることを、堅苦しい口調で訴えてこられたのでした。


 利に徹する人として当然のことかもしれませんが、私は作家として書きたいという自然な発想だけは譲れないことだけは伝えたはずです。それからは間もなく帰宅となったのですが、どうやらその日の重要な要件出会ったはずの映画のキャンペンということよりも、実はあの「篁・変成秘抄・御霊狩り」の出来栄えに関して、私が本格的に〇〇賞を狙い始めるのではないかと考えられた副社長は、「宇宙皇子」のような売れる作品を書かなくなるのではないかと心配になった結果、釘を刺すのが目的であったように思えます。映画の制作は大詰めになりましたが、それでも「篁・成秘抄」も「幻術師刈り」「風流狩り」「熟寝狩り」という五巻は確実に書ききったのでした。う五巻は確実に書ききったのでした。


              「篁3・幻術師狩り」1.jpg 「篁4・風流狩り」1.jpg 「篁5・塾寝狩り」1.jpg


  実はこの後で武蔵野次郎氏から、私にとって人生の内でも衝撃となるような知らせが飛び込んでくるのですが、私が求めた理想の世界にもどろどろとしたものが支配していることを知ることになったのでした。その真相については、私の胸の内にだけ仕舞っておこうと決めました。あの「篁・変成秘抄」を発想した時の純粋な思いだけは、終生大事にしたいと思っているのです。大変入手が困難になってしまっているかも知れませんが、機会がありましたら、是非、「御霊狩り」「野盗狩り」でもお読み頂きたいと思います。


 今回は私が「荒野独行」を決意した始まりのお話になってしまいました。


 


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思い出作品の部屋 思18「篁・変成秘抄・御霊刈り」 [趣味・カルチャー]

    「宇宙皇子」は確かに大きなヒット作品となりましたが、その読者となった人はやはり若い世代の人のものとして評価されてしまいましたので、作家としては満足できなくなっていたのです。そんなところへサンケイ出版の雑誌である「WOWO」へ執筆をすることになったのですが、その結果角川書店との間で一寸した大問題が持ち上がってしまって、私も大変苦しい立場に立たされてしまったのですが、よやくその問題が鎮まった頃、書きたいものがあったらやってみませんかという話を持って来て下さったのが、これまで「宇宙皇子」の作業には直接かかわってはいなかったのですが、編集部とかなり近いところにいて私とも接触のあったTさんでした。前から今の勢いがあるうちに成人向けの作品も書きたいというある欲求がかなり前からあったところだったこともあって、「幻想皇帝」という仮想現実の大作にかかったのですが、ヒットしつづけている「宇宙皇子」に支障があるかも知れないという危惧から出版の途中で打ち切りということになってしまったのです。勿論そのことにはまったく説明されることはありませんでしたので、今になって推測することではありますが、間違いはないように思えます。

しかしそんなことがあったためでしょうか、成人向けの小説が書きたいという気持は次第に膨らんでいってしまっていたのです。

そんなところへ今度は社長のラインからの話として「野性時代」への連載のための企画を考えてという話が飛び込んできたのです。

 1987年の年末近くに、「野性時代」の新編集長として就任したT・Y氏が、私に逢いたいということでやってきたのですが、成人に向けた小説が書きたいという気持が次第に膨らみ始めている最中のことです。これまで文芸作品を執筆する作家を相手にして仕事をしてきたT・Yが「野性時代」の編集長として就任して私の担当として動くようになったのでした。その結果1988年2月号の「野性時代」に新たな成人向きの作品として執筆したのが、「小野篁・変成秘抄・御霊狩り」でした。

 「宇宙皇子」を執筆するようになってから古代史に興味が広がって取材するうちに、これまでいつからか興味を惹く人物として、平安時代に「野狂」と揶揄される実に異色の政治家がいたのです。すでに私はこれまでに、彼の故郷である小野の業・・・小野妹子の出身地を取材に出かけたことがあったのです。ところが篁資料館というものはあるにはあったのですが、謎めいた彼らしく、その軌跡がたどれるほどの資料は得られません。興味があるという私に所長はいいものが見つかったら教えて下さいというくらいでした。私はますます篁を主人公にした話が書きたいと思っていたところでした。

 すでにその頃、平安時代の朝廷の上層部の中では娘を天皇のところへ嫁がせて、やがて男子を生ませることが出世の糸口であるということが、貴族の中で囁かれていた時代に、数奇な生まれ方をしたのが小野篁ではないのかという発想で、成人向けの仮想現実作品を書いてみようということになったのです。

編集長は直ちに若手で「宇宙皇子」の作業で手伝っているK・YとR・Tを呼んで、企画ページの準備をするように指示したようです。小説の連載に入る前に、私のアピールができるような企画をするようにということのようです。

私は久しぶりに「幻想皇帝」以来の成人向きの小説となる企画の構想を練り始めました。この頃の私は兎に角書くということについては異常なくらいにのっていましたので、その素材探しに困るようなことはまったくありません。

実は古代の世界を調べたり書いたりしているうちに、平安時代の小野篁という人物に興味を持って、彼の出身地である小野郷まで取材に行ったことがあるのですが、現地にはまとまった資料がなくて、博物館とは言いながら、いいものが会ったら教えて下さいと言われてしまうほど、篁という人は謎多い人はいないように思うのです。

平安時代を書いた「嵯峨王朝史 新嵯峨野物語」(大覚寺刊)にかなり詳しく彼の足跡を書きましたので、読んで頂けると有難いと思いますが、朝廷では左大臣になるほどの要人でありながら、京の大路で霊体に出会ったとか、珍皇寺の井戸から地獄へ行って閻魔大王の秘書として働き、黄昏には西の清凉寺の井戸から現世に戻ってきたなどという逸話も残っている人です。しかし性格はかなり異質な方のようで、時には絶対的な権力を持っている遣唐大使にも曲がったことが許せないといって、遣唐副使という大役を拒否してしまったりもする人でした。私はこの「野狂」と揶揄される異色の人を主人公にして仮想現実の話を組み立てようと考えた結果、「篁・変状秘抄」というシリーズを起こすことにしたのです。

「幻想皇帝」では様々な社内事情から途中でそれを完結できない状態になっていましたので、どうしても別の話で仮想現実の世界を描いてみようと考えるようになっていたのですが、どうもあの時私に企画のきっかけを持ち掛けて下さったTさんは、今考えてみますと社長とは関係の薄い副社長のラインにいらっしゃる人だったのだということに気づきます。そんなことを考えますと、微妙に社内での力関係が影響していることが感じられました。しかし書きたいという意欲が横溢していた状態にありましたので、「宇宙皇子」のシリーズは決められた時間で執筆して、その空き時間を使って映画の制作に協力しながら、新たな成人向けという作品の創作に熱中していったのでした。

 「篁・変成秘抄」の第一巻として「御霊刈り」が仕上がりました。

 イラストには天野喜孝さんにお願いすることにいたしました。これまでアニメーションでの活躍は知っていましたが、書籍での作業でどういう仕事をして下さるか楽しみでした。

  

                                                「野性・篁・変成秘抄1」1.jpg 「篁1・御霊狩り」1.jpg

  「宇宙皇子」は確かに大きなヒット作品となりましたが、その読者となった人はやはり若い世代の人のものとして評価されてしまいましたので、作家としては満足できなくなっていたのです。そんなところへサンケイ出版の雑誌である「WOWO」へ執筆をすることになったのですが、その結果角川書店との間で一寸した大問題が持ち上がってしまって、私も大変苦しい立場に立たされてしまったのですが、よやくその問題が鎮まった頃、書きたいものがあったらやってみませんかという話を持って来て下さったのが、これまで「宇宙皇子」の作業には直接かかわってはいなかったのですが、編集部とかなり近いところにいて私とも接触のあったTさんでした。前から今の勢いがあるうちに成人向けの作品も書きたいというある欲求がかなり前からあったところだったこともあって、「幻想皇帝」という仮想現実の大作にかかったのですが、ヒットしつづけている「宇宙皇子」に支障があるかも知れないという危惧から出版の途中で打ち切りということになってしまったのです。勿論そのことにはまったく説明されることはありませんでしたので、今になって推測することではありますが、間違いはないように思えます。

しかしそんなことがあったためでしょうか、成人向けの小説が書きたいという気持は次第に膨らんでいってしまっていたのです。


そんなところへ今度は社長のラインからの話として「野性時代」への連載のための企画を考えてという話が飛び込んできたのです。


 1987年の年末近くに、「野性時代」の新編集長として就任したTY氏が、私に逢いたいということでやってきたのですが、成人に向けた小説が書きたいという気持が次第に膨らみ始めている最中のことです。これまで文芸作品を執筆する作家を相手にして仕事をしてきたTYが「野性時代」の編集長として就任して私の担当として動くようになったのでした。その結果1988年2月号の「野性時代」に新たな成人向きの作品として執筆したのが、「小野篁・変成秘抄・御霊狩り」でした。


 「宇宙皇子」を執筆するようになってから古代史に興味が広がって取材するうちに、これまでいつからか興味を惹く人物として、平安時代に「野狂」と揶揄される実に異色の政治家がいたのです。すでに私はこれまでに、彼の故郷である小野の業・・・小野妹子の出身地を取材に出かけたことがあったのです。ところが篁資料館というものはあるにはあったのですが、謎めいた彼らしく、その軌跡がたどれるほどの資料は得られません。興味があるという私に所長はいいものが見つかったら教えて下さいというくらいでした。私はますます篁を主人公にした話が書きたいと思っていたところでした。


 すでにその頃、平安時代の朝廷の上層部の中では娘を天皇のところへ嫁がせて、やがて男子を生ませることが出世の糸口であるということが、貴族の中で囁かれていた時代に、数奇な生まれ方をしたのが小野篁ではないのかという発想で、成人向けの仮想現実作品を書いてみようということになったのです。


編集長は直ちに若手で「宇宙皇子」の作業で手伝っているKYRTを呼んで、企画ページの準備をするように指示したようです。小説の連載に入る前に、私のアピールができるような企画をするようにということのようです。


私は久しぶりに「幻想皇帝」以来の成人向きの小説となる企画の構想を練り始めました。この頃の私は兎に角書くということについては異常なくらいにのっていましたので、その素材探しに困るようなことはまったくありません。


実は古代の世界を調べたり書いたりしているうちに、平安時代の小野篁という人物に興味を持って、彼の出身地である小野郷まで取材に行ったことがあるのですが、現地にはまとまった資料がなくて、博物館とは言いながら、いいものが会ったら教えて下さいと言われてしまうほど、篁という人は謎多い人はいないように思うのです。


平安時代を書いた「嵯峨王朝史 新嵯峨野物語」(大覚寺刊)にかなり詳しく彼の足跡を書きましたので、読んで頂けると有難いと思いますが、朝廷では左大臣になるほどの要人でありながら、京の大路で霊体に出会ったとか、珍皇寺の井戸から地獄へ行って閻魔大王の秘書として働き、黄昏には西の清凉寺の井戸から現世に戻ってきたなどという逸話も残っている人です。しかし性格はかなり異質な方のようで、時には絶対的な権力を持っている遣唐大使にも曲がったことが許せないといって、遣唐副使という大役を拒否してしまったりもする人でした。私はこの「野狂」と揶揄される異色の人を主人公にして仮想現実の話を組み立てようと考えた結果、「篁・変状秘抄」というシリーズを起こすことにしたのです。


「幻想皇帝」では様々な社内事情から途中でそれを完結できない状態になっていましたので、どうしても別の話で仮想現実の世界を描いてみようと考えるようになっていたのですが、どうもあの時私に企画のきっかけを持ち掛けて下さったTさんは、今考えてみますと社長とは関係の薄い副社長のラインにいらっしゃる人だったのだということに気づきます。そんなことを考えますと、微妙に社内での力関係が影響していることが感じられました。しかし書きたいという意欲が横溢していた状態にありましたので、「宇宙皇子」のシリーズは決められた時間で執筆して、その空き時間を使って映画の制作に協力しながら、新たな成人向けという作品の創作に熱中していったのでした。


 「篁・変成秘抄」の第一巻として「御霊刈り」が仕上がりました。


 イラストには天野喜孝さんにお願いすることにいたしました。これまでアニメーションでの活躍は知っていましたが、書籍での作業でどういう仕事をして下さるか楽しみでした。


                                        「野性特集1」1.jpg


         「野性特集2」1.jpg  「野性特集3」1.jpg 「野性特集4」1.jpg 


  1988年7月にはその二巻目である「野盗狩り」を発表いたしましたが、それをきっかけに、営業を展開しつづけている副社長とその周辺の人々からは、微妙な反応が生まれてきていたのでした。


 


 



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告知と放談の部屋☆ 放93「的中した混乱」 [趣味・カルチャー]

  

テレビの時代を思い出すのですが、番組を維持していくためには、先ず優秀なスタッフを抱えている制作会社を決めてから、番組の方向や意図に基づいて足りないアーテイストを補足そして行きます。何チームも制作チームを組んで番組を維持していくのですが、兎に角最初に組んだチームがメインになっていくのですが、今回の映画制作で何が不安なのかと考えると、やはり映画を制作するメインとなるスタッフの中心となる会社が、どうも今回の素材を動かして行くのには不向きであるということなのです。


 私にとって不安でならなかった原因はそのことでしたが、それに気が付いたのでしょうか、メインとなる監督にしてもプルデユウサーにしても、「日本アニメーション」とは関係のないところから呼びました。小説のイラストを執筆してくれているいのまたむつみさんは欠かせない存在ならば、彼女を中心としたスタッフを持っているカナメプロに映画の制作の中心になって貰うのが常道だと思うのですが、今回は作画の一員として参加して貰うだけです。


 原作者がいちいち制作に口を出すということは控えようと考えていた私は、細かな制作の様子についてはほとんど連絡がありませんが、かつての「さすらいの太陽」での原作者としての立ち位置に失敗して、大阪電通と対立してしまった経験から、推薦した脚本家たちからその進行状態の情報を得るだけです。しかし彼らから漏れてくる情報はどうもあまり芳しくないものばかりなのです。古代を背景にしたアクションに関しては、現代感覚で制作していかなくては若い観客を満足されることは出来ないのではないかということばかりです。全体を動かして行く会社としては、かなり畑違いな分野の作品を受け入れたようですが、一体角川書店とどういう話で今回の制作を引き受けることになったのかまったく判りません。


 脚本に関しては彼らの中で一番年上である富田祐弘君が上層部からの要求、指示についての問題を、上手くまとめていってくれているようですが、ちょっと異質の感性を持っている寺田憲史はかなり不満が高まっているようです。次第に作業は富田、武上という二人が苦心しているようです。そんな不満を聞かされても、その制作には口を挟まないというという立場にありましたから、制作の進行中には沈黙を守りました。


 しかしそれから間もなく制作途中のあるアクションシーンのラッシュを見て欲しいというしらせがあって、プロダクションの試写室ではじめて映画のワンシーンと対面させて貰うことになりました。


 その日は副社長も同席していて、スタッフはかなり緊張しているようです。


 そんな中で東映動画から派遣されて動画に関しての指揮を執っている田宮氏は、私の反応はかなり神経を使っているように思えましたが、その日のラッシュで主人公が連続してアクションを展開する、かなり見せ場になるシーンが転回しましたが、大変満足であるという感想をメインスタッフに残して立ち去った後ですが、当時のアニメーションを知っている一部スタッフからは、かなりその表現の仕方についての不満が出て田宮氏に迫っていましたが、結局資金面・・・つまり製作費の問題を角川から託されている彼には、そう簡単にスタッフの要求に応えることも出来ないでいました。その結果原作者である私に判断を委ねてきたのです。


 勿論若手スタッフの主張するように、私もその感性的な表現があまりにも古臭くて納得出来なと思っていたところだったのです。これまでさまざまなことで原作者でありながら、細かなことにはほとんど口を挟まないで来ていましたが、やはり初めから不安に持っていたことは、現実のものになってしまったように思いました。私にとってはやはり映画制作の原点である制作会社の選定から、すべての問題が始まってしまったのだと、改めて思わざるを得なくなりました。


 問題のアクションシーンについては、もう一度作り直しを求めました。


 田宮氏も我々の要求は判っているのでしょうが、予算についての指示がされているのでしょう。非常に苦しい返答を繰り返したのでした。


 それから間もなくのことでした。田宮プロデユウサーから聞かされたのは、あまりにも思いがけない返答でした。今回の映画製作にかける予算は、6千万円から7千万円であるということです。すでにアニメーション業界では、映画制作ではほぼ二・三億円はかかるといわれている時代です。それを考えるとあまりにも低予算ということになってしまいます。しかも今回は「ファイブスター物語」の二本を同時に上映するというのです。気に入らないところを作り直して欲しいという製作スタッフの希望は僅かに許可されただけで終わりました。私はこの時に社長と副社長の性格が、大きく違うことを始めて知りました。いいものには充分に予算を組んで仕掛かり、それにかかわる人に対する扱いが大変温情的で業界では大変評判だったのですが、今回の話を聞いていると、副社長の指示は明らかに低予算での勝負をしようとしているわけです。どちらがいいのかということではありませんが、夢見る芸術家タイプの社長と現実を見つめる実務派の副社長という二人の性格の違いを知った貴重な体験でした。私にとってはかなり期待していた映画化という話でしたが、如何に低予算で集客ができるかという現実との戦いに挑まなくてはならないということを知らされたのでした。しかし会社としてはあくまでも制作の指揮は副社長が撮っているのですが、作品の制作者としては社長の名前が出ます。果たして完成した時どんな感想をお持ちになるのかと思ったりしたものでした。


その後映画の完成を記者発表する会に、私は副社長と共に出席しましたが。作品についての率直な感想を述べるわけにはいきません。記者の遠慮のない質問にどう答えなくてはならないか大変苦しかったことを思い出してしまいます。


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                        「宇宙皇子・主題歌楽譜」1.jpg 「映画宇宙皇子主題歌」1.jpg


主題歌は「夢狩人」「かりなき愛を」の二曲の詩を書かせて頂き、歌手にはかねてからお付き合いのあったダ・カーポにお願いいたしましたが、作曲は異色の作曲家で東京工大の教授であった河野洋さんで、すでに「宇宙皇子」を主題にした交響組曲「宇宙皇子」を作曲してコロンビアから発売した方ですが、この時の音楽担当であったデイレクターは、かつて宇宙戦艦ヤマトで音楽を担当した小暮一雄さんでした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言34「ひとくち言霊」(東西南北に敵あり) [趣味・カルチャー]

                                        「若菜イラスト」.JPG

 

孤立無援の状態でいることを、よく四面楚歌という言葉で表現されますが、古代においては自ら敵を作っていたとしか思えないのが中国でした。


努力してもどうしても融和することができずに、止むを得ずそのような状態になってしまうというのではなく、あくまでも自国の優位を誇らしく思うが故に、周辺の国々を蔑むしかなく、敢えて四面楚歌状態を作り出していたのが中国であったということなのです。


あくまでも、政治、経済、文化、すべての点で、中国が世界をリードする中心の国なのだという、中華思想に基づいた考え方なのですが、彼らは中国を取り巻く周辺の国を南蛮(なんばん)北狄(ほくてき)東夷(とうい)西戎(せいい)と言って蔑んでおりました。進んでいるのは自国だけで、周辺の国々は、すべてかなり遅れている野蛮な者たちだという考え方から生まれた呼び名であったわけです。


ところがこの中華思想というものは、決して中国の独占物であったわけでもなくて、自国の尊厳というものを大事にしようとする者たちにとっては、中国と同じような立場でその周辺の国を見るようになっていったのです。


 中国にとって南蛮とは、インドシナなどの南方の民族のことを差しましたが、室町、江戸時代の我が日本では、タイ、ルソン、フィリッピン、ジャワなどの南方諸島を指していましたし、中国にとっての北狄(ほくてき)とは、北に位置する匈奴(きょうど)鮮卑(せんぴ)柔然(じゅうぜん)突厥(とっけつ)契丹(きったん)、ウルグアイ、蒙古などの遊牧民族のことを指し、東夷といえば、満州、朝鮮、日本を指していますが、わが国では都のあった京都中心として考えれば、関東、東北の武士を指していました。そして最後に、西戎にあたる民族といえば、中国にとってはチベット、トルコのことですが、わが国にとっては、都から遠く離れた所に住まう民、田舎人のことを指していました。特に京都の人は、荒っぽい東国武士のことを指して、そのように言ったりしていたのですが、江戸の末期には、西洋人を蔑んで、西戎などと呼んだりしていたようですが、結局国も、人も、周辺の存在を蔑むことで、自らの存在の優位を確認しながら満足しているのではないのかと、自戒の思いを込めて考えたのでした。


 自己中はいつの時代にも避けられない問題なのかもしれませんね。


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