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告知と放談の部屋☆ 告18「お知らせです」 [趣味・カルチャー]

                                                          「素材・原稿執筆中」1.jpg

  これまで映像と出版の足跡を辿る形で続けさせて頂きましたブログを、このへんで終了とさせて頂き、これまでとは違ったものを連載していきたいと思うようになりました。

今年の初めからあれこれと考えてきたのですが、試行錯誤の結果高齢ということを考えると、それほど許された時間も豊富にあるという訳にもいかないという結論に達しました。


そこでいくつかの企画から発表できる一つを出してみようという気持になったのです。


その整理をするために、五月・六月はお休みにさせて頂いて、六月後半で新たなブログの予告がお知らせできるようにしたいと決心しました。


 これまでお付き合いのなかったみなさんにも、是非ブログのドメインを知って頂いて、覗いて頂けたらと思っています。


ドメインは「SSブログ」というものです。


これはソネット関係のブログで一般に公開されているものです。かつてネットをソネットでやっていた関係で、ひきつづきその場を利用させて頂くことにして今日に至りました。


 メインタイトルは「藤川桂介の世界」となっております。


 昨今は時間にゆとりの出来た方も多くなられたと思いますので、一寸した暇つぶしを兼ねてご覧いただければ有難く思います。


 七月からは是非お友達とご一緒にでもご覧いただけたら幸いです。


 場合によってはフェイスブックでもご覧いただけるかも知れません。これから色々と研究してみます。


 長いことお付き合い頂き感謝いたします。


 有難うございました。


                                  藤川桂介


 


令和四年晩春 

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言霊謎解きの部屋」言50「ひとくち言霊」(時の鐘) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                      「若菜イラスト」.JPG
  

昔から公の人に時の経過を知らせるのに、太鼓を打って知らせたり、拍子木を打ちならしがらとか、半鐘を使ってとか、音の出るものを使って時を告げてきましたが、古い時代から使われ始めた者が意外に長く積川つづけられたのが寺の鐘でした。


江戸時代ともなると、


午前零時(夜の九つ)


午前一時(夜の九つ半)


午前二時(夜の八つ)


午前三時(夜の八つ半)


午前四時(明の七つ)


午前五時(明の七つ半)


午前六時(明の六つ)


午前七時(明の六つ半)


午前八時(朝の五つ)


午前九時(朝の五つ半)


午前十時(朝の四つ)


午前十一時は(朝の四つ半)


正午(昼の九つ)


午後一時(昼の九つ半)


午後二時(昼の八ツ)


午後三時(昼の八つ半)


午後四時(昼の七つ)


午後五時(昼の七つ半)


午後六時(暮れの六つ)


午後七時(暮れの六つ半)


午後八時(夜の五つ)


午後九時(夜の五つ半)


午後十時(夜の四つ)


午後十一時(夜の四つ半)


このようにして決められた時刻になると、寺の鐘としてしつらえられたものが、打ち鳴らすのです。現代人の感覚で勝手なことを言えば、時間が来るとガンガンゴンゴンとやられてまたら、さぞかしうるさかったでしょうね。しかしそのようなことを言うのは、あくまでも現代人です。時の鐘のお陰で生活にメリハリをつけてきた江戸時代の人にとっては、欠くことの出来ないものだったはずです。毎日時の鐘の知らせを受けている町人は、その維持費を負担するために毎月何文かの費用を支払っていたようですね。


 しかしこれだけ大事なものであった時の鐘を、不正確な状態であちこちで鳴らされてしまったら、さすがに耐えられるものではありません。


市中八か所には大型の和時計が置かれていて、きちんと時を知らせたようです。上野寛永寺・浅草浅草寺・芝切り通し・本所横川町・市谷八幡・目白不動・赤坂田町成満寺・四谷天竜寺の八か所です。


 ところで余談になりますが、江戸時代の一日中という表現ですが、一日が12時間でしたから、一日中ということを二六時中という言い方をしていましたが、現代では24時間制ですから四六時中などといいます。


 結構時代を表現する言葉として面白いことかも知れませんね。


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思い出作品の部屋☆ 思30「忘れたくない異色作 Ⅱ」 [趣味・カルチャー]

  

次第に運命の時に迫ってきますが、まだ自分にはまったくストレスが蓄積をため込んでいるのかなどという心配はまったくありませんでした。


2000年には、


「トライアングル・ミッション・上下」を小学館から発売していました。


ところが間もなく韓国内で政変が起り、保守政権から革新派政権に変わり、私の小説への対応も大替わりしてしまったのでした。


                                         「トライアングルミッション・上」1.jpg 「トライアングルミッション・下」1.jpg


小説を書く依頼が来た時、私はイラストに若菜等氏を指名しましたが、間もなく彼は私の構想を確認しようというので拙宅へきて下さり、あれこれと雑談まじりで談笑しましたが、その主人公の設定については、彼が送ってくれるデッサンを基に、何回も書き直しをして頂いたりしました。


銀座のど真ん中である四丁目の交差点に、中折れ帽を目深にかぶって顔を隠すようにして立っている謎の若者・・・当時ではスマップの木村拓哉・・・つまりキムタクがいるという姿を想像して、それに見合うようなキャラクターを作り出して貰いました。


 当時は韓国と北朝鮮が対立状態にあったのですが、北を思わせる国の権力者に対して、自由を求めて立ち向かう若者たちによる冒険活劇を目指して書いたものでしたが、思いがけず出版から間もなく、韓国からアニメ化ということの許可を取りたいという電話があったのです。勿論すぐに許可を与えましたが、それかから間もなくのことでした。


韓国の軍人出身の大統領が、副臣の者に射殺されるという衝撃的な事件が起こってしまいます。それを機会に韓国ではこれまでの保守政権から革新派の大統領が権力の場についてしまうことになってしまったのです。これまで対立していた北朝鮮との融和を図る姿勢に変わってしまって、強権で国民を支配する支配者に対して、自由を求めて活動する若者の話は、自動的にご破算となってしまったのでした。


同じ年でしたが、「月の帝の物語」小学館文庫の依頼で書いたものです。この時は異色ということで言いますと、かなり女性のイラストレイターの方の趣向がこれまでとはかなり変わってきていたのでびっくりしました。読者の希望する絵柄だったのでしょうね。


                                 「小学館・狂おしき満月の夜」1.jpg 「小学館・荒野の長され王」1.jpg 「小学館・平安京、万年春」1.jpg


そしていよいよ2003年には、私が倒れた後、「しぐれ舟」廣済堂が発売されますが、何人もの作家の時代小説を出す時に、私が倒れる前に2001年前半に書いた「たまくらを売る女」という作品が掲載されています。


                     「しぐれ舟」1.jpg 「文庫・しぐれ舟とたまくらを売る女」1.jpg


毎年夏休みとして、休養を兼ねて軽井沢の山荘へ長期に滞在することにしていましたので、ここで原稿を書くということもかなりありましたが、その間隙を縫って近くの長倉神社というところへ行って見ました。実は軽井沢の歴史を辿って行きますと、この神社のあるところは中軽井沢の宿場があったところです。旅人はここの沓掛神社へ草鞋を奉納して、旅が無事でありますようにという祈りを捧げて、こころ女街道というわりに楽な道を辿って関東へ行ったのです。険しい碓井峠を越えていくのとはかなり楽であったといいます。


 このあたりの農村に生まれた若者の男性が、苦しい農村での生活を抜け出して江戸の剣術の道場へ行って修業を積み、自立したら迎えに来ると言い残して、旅立ってしまうのです。彼の恋人である少女はそれには反対で、何度も考え直すように説得するのですが、結局彼の決心を変えることは出来ませんでした。何日も心配で暮らしているうちに、彼女は沓掛神社の宮司に相談に行くのです。このあたりの者の相談役でもあった宮司は、彼女の恋心に感じて思案した結果、沓掛神社の宮司に創案した結果、宮司は枕にいい夢が見られる「魂」のこめられた枕を「たまくら」として宿場に留まる客に売り歩くという話です。


 こんな話を作りました。


 しかし毎年軽井沢へ行きながら、「沓掛神社」はどこにあるのかということを、突き止めないまま謎にしてあったところだったのです。それがある日中軽井沢の観光協会の会長とご縁のある者が、「沓掛神社」が現在どうなっているのかということを聞きだしてきてくれたのです。


 何と何年も判らないまま追及もしないままでいたことが、実にあっけないことで片付いてしまったのでした。つまり昔宿場町に近いところにあったという沓掛神社は、現在長倉神社と名称を変えていたのです。時代の変化ということを考えて、観光客の興味からは遠ざかってしまっている歴史的な名称は、集客にはなり難いというのが関係者の判断であったといいます。


このように史実に乗って町の様子を知りたいという興味を持つ者が現われてしまうという皮肉な結果になってしまったのでした。


ここでは長谷川伸という作家が沓掛時次郎という任侠者を扱った戯曲を書いていましたので、長いこと「時次郎饅頭」というものを売り出していましたが、今はどうなっているか判りません。それよりは宿場町を夢見る枕ということで、「たまくら」を売り歩く少女の方が如何にも現代的な冗談にも通じる中軽井沢に相応しい話であったと思うのですがどうでしょうか。


同じ年のことですが、  


 同じ頃書いた作品である「篁・変成秘抄」学研文庫として発売になりましたが原本は1988年に書かれた角川書店発売のもので、これは産経新聞で書評を担当するベテラン文芸評論家武蔵野次郎さんが激賞して下さった作品でしたが、それを学研で文庫として再発行したいという申し出がりましたが、私自身も忘れられない作品でした。


                     「篁1・御霊狩り」1.jpg 「角川・夜盗狩り」1.jpg 「篁3・幻術師狩り」1.jpg 「篁4・風流狩り」1.jpg 「篁5・塾寝狩り」1.jpg


2001年の最期の年になりますが、「ゆきおんな」は光文社の「雪女のキッス」という小説に交じって、掲載されたたものですが、これは「怪奇大作戦」のために書かれたテレビ脚本でしたが、監修の井上氏からの要請で、小説に交じって掲載させて頂きました。


                                     「雪女のキス」1.jpg 「ゆきおんな」1.jpg


そして「トロピカル」光文社で書いた「赤い月」という沖縄に残る話を基にした作品が最後の作品になりました。


                                    「文庫・トロピカル」1.jpg    「赤い月」1.jpg


これを最後に「新宇宙戦艦ヤマト」の制作にかかわり、その途中で脳梗塞に襲われ、数年間の休養期間を経過して京都嵯峨藝術大学(現京都美術大学)で客員教授として頑張ることになるということになるのです。これでブログの一段階を終えるということになったわけです。


長いことお付き合い下さって有難うございました。


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言霊謎解きの部屋☆ 言49「ひとくち言霊」(転生(てんせい)) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                            「若菜イラスト」.JPG

  

宗教界、特に仏教の世界でいわれる言葉に、「転生」ということが言われます。


それでいうとしたら、私たちの暮らす社会・・・つまり現世は、苦界(くがい)ということが言われています。言うまでもなく、楽しく、嬉しい、幸せを感じる時間よりも、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、厳しいこと等々、他得られないようなことを味わうことが多い世界です。


私たちは次の世界・・・つまり何の苦しみもない安穏な暮らしの出来る世界で生きられるような時がきますように、苦界で修業しているのです。だからこそその辛さに耐えられずに、やけを起こしたり、無茶苦茶をやったりしてしまうというようなことをしてしまうと、苦界から別の世界へ移って、別の命として生きることは出来なくなってしまうということになるのです。


「転生」というのは、別の世界で、別の命を貰って生きつづけるということですが、


時には別の姿、別の命となって生きて行くということになります。苦界での徳の積み方に寄りますが、歴史上の人物たちも、現代に転生して、別の姿で生きているということも出来るのですが、時には人間でないかもしれません。昆虫に転生することもあるかもしれません。兎に角、理想の世界へ転生するには、この苦界である現世で、どう生きて行くかが大事なようです。


一生懸命に生きて行きましょう。結果を考えないで、真っ直ぐに生きて行きましょう。そんなことが出来難い世の中ですが、それを貫くことが大事なのです。果たして、あなたはどんな世界、どんな命として「転生」することが出来るのでしょうか。


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思い出作品の部屋☆ 思29「忘れたくない異色作 1」 [趣味・カルチャー]

  

もう一度、あの時のことを思い出しながら、私が倒れる前に書いた作品を、まとめて紹介しておこうという気持になりました。


すべては「キビツヒコ・上下」を出した後の作業になるものなのですが、私のその後を決定したあの日のことは忘れることはありません。あの日・・・2001年10月25日はこうして始まったのです。


 (あれ、寝違えたか・・・)


 目覚めた時の左腕に異変を感じましたが、まだ特別な事件が起こったという気持にはなりませんでした。いえ。異変は起こったとは思いたくないという気持が強かったのです。


私はそれでも起きて書斎の机へ向かったのですが、それから間もなく、友人の会社社長からテニスの誘いの電話がありました。ところがその時、彼が話しかけてくることに返答をしている自分が、(おかしい)と思い始めていたのです。


言葉がもつれ出していたのです。


電話を切ると階下から食事の支度ができたという家内の連絡があり、直ぐに食卓へ向かったのですが、どうも茶碗を持つことに不自由を感じていたのです。やっとこの時に脳梗塞が起ったのではないかと感じました。


 それから私は一気に行動し始めました。


数分で行ける国立療養センターへ向かって、自動車を運転していました。


外来診察へ呼び込まれて、簡単に診察を受けたところで、医師は直ちに有無を言わさず車椅子に移され、病室へ運ばれて点滴が始まったのでした。


「脳梗塞」と知らされたのはその後からでした。


既に家内に連絡が入って、私はそのまま入院ということになったのでした。


自動車で来ていたので、私は思わず「自動車を家に届けに行ってもいいですか」といったために、担当医師は怒ったような口ぶりで、「何をいっているんですか。そんなことをしたら死ぬだけですよ!」と突き放されてしまいました。


 まったくその通りです。私も動転してしまっていたのでしょう。


 あの時は気持ちが錯綜して冷静ではなくなっていたのですね。


丁度「新宇宙戦艦ヤマト」の原作にOKが出て、いよいよ映画の制作の打合せに入ろうとするところでしたのですから、広がり続得ていた視界がいきなり閉ざされてしまったかのように、目の前がみえなくなりました。


 脳梗塞で倒れたということがどんなことかを知ったのは、それから後で様々な診察と手当てを受けた後、新たな「新宇宙戦艦ヤマト」の制作事務所のスタッフへ連絡をしてからでした。


 すべては私が倒れたこともあって、計画はすべて流され、会社自体も経理上の無理があったゆで、解散ということになってしまったという報告だったのです。


私は20日間という入院生活を送ることになりましたが、ここまでひた走ってきた作家としての生活はすべて終わったと思いました。


医師からは容赦なく、


「ストレスと喫煙が原因です。兎に角ストレスを溜めることは止めて下さい。それに喫煙もきっぱりやめて下さい」


厳然と申し渡されたのでした。


 これから後は4年間という脳梗塞からの回復のために費やすことになったのでした。


その間に左手の力が入らないこと、言葉がまとも発せられない不自由な生活からの回復を願って、ついにチェーンスモーカーであったタバコを止めることに専念しました。


 もう完全に仕事から退くという決心でした。


 ところが幸運なことがあるもので、京都の嵯峨芸時術大学の事務局の方がいらっしゃって、私に新たにできる分野の教授に就任して欲しいという依頼を受けたのです。


稚度はもう二度と社会復帰は叶わないと諦めていたところでしたが、もうかなり前から、これまでの物書きというキャリアを活かして、若い人に脚本家として、また作家として世に出たいと思う人に、経験した様々なことを伝えることができたら、それを引退の時としようといっていたことがあったのですが、それが本当のことになってしまったなと、運の良さに感謝したのでした。


 これで私が脳梗塞で倒れるまでの経緯は大まかに書くことができましたが、「キビツヒコ」を出版してから倒れるまでの数年間に、かなりの本を書いていたので、それらをまったく紹介しないで終わるのは忍びないという気持になってしまいましたので、その期間にまとめた本を紹介しておこうということにしたのです。


 すべては担当医師の診断にありましたストレスのたまりすぎと、チェーンスモーカーといわれる喫煙による障害のためであるので、今後は絶対に厳しいストレスになるほど仕事はしないで下さいという事と、タバコについては一刻も早く禁煙にして頂くしかありませんという宣告でした。幸いなことに急所をやられてはいないので、点滴による体力の回復を図り、健康を回復できたら退院できますというお墨付きを頂きました。しかし仮に退院できても、禁煙を厳守できないと保証はできませんと宣告されましたので、CMで評判になっていた・・・・の助けを借りながら、禁煙を達成して兎に角休養に勤めました。


 脳梗塞ということで一時はすべての作業を諦めることになってしまった私にとって、その直前まで一生懸命に書いてきた作品についてはほとんど紹介もいないまま映像と出版関係の軌跡を追ってきたブログの一区切りをすることになったのですが、1996年に「キビツヒコ」の上下巻を毎日新聞社・「光源氏様それは恋の病です」創芸社・「歩き巫女忍び旅」学研新書を出したあとも、かなり出版の予定を消化していくために、かなりの数の作品を書いていましたので、それらの作品についてまったく触れずに終わることは出来なくなってしまいました。


  そのママにしておくには残念ですので紹介しておきます。



1996年から97年には、


「勝者の戦略」をワニ文庫・「この発想が勝敗を分ける」をベネッセ・「神語部遺文」ネスコ文芸春秋社・「暮らしの歴史散歩」TOTO出版・「アニメ特撮 ヒーロー誕生のとき」ネスコ文芸春秋社・「・・・陰謀が歴史をつくる」KKロングセラー新書などで書きました。

 勝者の戦略」1.jpg 「この発想が勝敗をわける」1.jpg 「ネスコ・役小角、憑依す」1.jpg 「ネスコ・竜神月下を飛ぶ」1.jpg 「ネスコ・呪力戦、壬申の乱」1.jpg 「ネスコ・遣唐使を呪殺せよ」1.jpg 「ネスコ・道教、狂恋を操る」1.jpg              

                   「暮らしの歴史散歩」1.jpg  「アニメ・特撮 ヒーロー誕生のとき」1.jpg 「陰謀が歴史を作る」1.jpg


  ストレスを積み重ねながら書きました。


1999年には


シナリオ集の「熱い思いをもう一度」風塵社・「シギラの月・上下」を廣済堂で・その文庫版を講談社で出版しました.

                           「熱い想いをもう一度」1.jpg 「シギラの月」(上)1.jpg 「シギラの月」(下)1.jpg 「シギラの月」(文庫)1.jpg

  シギラの月」は前にも紹介した宮古島の歴史探訪から生み出されたもので、やがて沖縄を舞台にしたサミットで集まる世界の大統領たちに、日本を知って貰うために制作しようという意図から、映画で制作するための原作として書かれたものでした。

残りの本については、「忘れたくない異色作 Ⅱ」で書いておくつもりです。



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言霊謎解きの部屋☆ 言48「ひとくち言霊」(聖徳太子のなぞ) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                        「若菜イラスト」.JPG

  

現代では権力者に圧倒的な力がない時、数名が協力して事に当たる、連立内閣という策がありますが、同じような例が古代にもありました。


 崇峻天皇崩御後、群臣に推挙されて、炊屋姫は豊浦宮(とゆらのみや)で即位して推古天皇となった時、はじめての女帝であるということもあって、彼女を支える者が必要でした。しかし実力者ではあるけれども、蘇我馬子では片寄り過ぎるという心配があって、天皇の甥で聡明な聖徳太子を摂政に就けて、馬子との両輪とすることを考えたのでした


。いわゆるトロイカ方式というやつです。


彼女の子で竹田皇子を登用しなかったことは、天皇の賢明な処置であったように思いますが、とにかくこれで、誰にもよく知られている、推古天皇、摂政聖徳太子、蘇我馬子の三頭政治がスタートしていくのですが、この朝廷は先ず仏法僧という、三宝興隆を行おうということを宣言することから始まりました。


 何もかも順調な滑り出しと思われました。


 推古十二年には、太子はあまりにも有名な十七条憲法を制定したりもしました。


 ところが摂政となってから九年後のこと、大子は斑鳩に造宮し始めたのです。


思わず「なぜ?」と呟いてしまいます。


 そこは朝廷のある豊浦宮から、間もなく移った小墾田宮(おはりだのみや)から、十六キロもあるというのです。


 出仕するにも、毎日遠いところを、行き来しなくてはならないはずです。なぜ太子は、そのような不便なところへ宮を作ったのでしょう。それは馬子から、遠ざかりたいということのように思えますが、もっと他にも理由があったのではないだろうか。その一つが、彼の愛していた妃の一人である、菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)が、ここに拠点を持っていた膳(かしわで)氏の出身がであったということもあります。しかしそれもちょっと違うようです。


 わたしはここに、先進の知識を持った客人(まれびと)・・・帰化人たちが多く住んでいたからだろうと思うのです。確かにここには、その後朝鮮半島から渡って来た学生、学問僧も沢山住んでいました。


 太子はここを拠点にして、朝廷の目指す方向と違う国家を作ろうとしていたのではないだろうか。しかもここは、海外に出て行くための道が、龍田道を通って河内へ出て、やがて難波に出る街道がありましたし、飛鳥から二上山の麓を通って竹内街道をへて難波へ抜けられる道もあったのです。ここに拠点を持つということは、大陸文化を積極的に摂取しようとしていた大子にとっては、極めて都合のいいところであったということになるのです。


 太子による国家は、ここから誕生したかもしれないのです。そういう意味で、朝廷からかなり離れたこの斑鳩の里を選んだ理由は、かなりはっきりとしてくるのではありませんか。


 この頃から、やがて平安京とも関係の深い客人である、秦河勝とも付き合いが深まっていくのです。


太子の斑鳩の里への移転には、さまざまな謎が秘められていたように思えてなりません。


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思い出作品の部屋☆ 思28「紅のサザンクロス」 [趣味・カルチャー]

  

タスマニアへ取材に出かけた本来の目的は、日本ではアイヌ、アメリカではインデアン、そしてオーストラリアでは、イギリスの植民地時代のタスマニアにいたはずのアボリジニという所謂現地人として存在していた彼らは、その後入って来るイギリスの凶悪犯・政治犯という、本国では手に負えないものたちが囚人としての流刑地として送り込まれてきたり、その後開拓を目的として入って来た入植者という移民族による敵対的な対象として、想像のできない苦闘を強いられながらやがて自立していくまでの話をまとめようということが、タスマニア探訪の目的でもあったのです。


 しかしここへ着てから苦労したのは、兎に角まったく不慣れな上に、片言でしか話せないという貧弱な語学力という問題があった上に、こちらで使われている英語…私たちが学校教育で教わっている本来の英語とはまったく違うものであったために、兎に角どう話しかけても通じません。同行の編集担当のA氏もかなり苦闘して郵便局などへ行って行き先を確かめようとしてくれたのですが、結局正確なところまでは掴めないままでした。レンタカーの運転で700キロを運転していた私などは、その途中で警官に何度か止められることもありましたが、兎に角片言英語と日本語も交じった表現でやり抜けましたが、途中休憩中に自動車のキイを車内に置いたまま閉じてしまった時は、何とかそれを解消するために、ハイウエイで誰かに助けを求めようとしあのですが、やっと通りかかった警官に手ぶりも含めた説明で、やっと意味を理解して貰うという状況でした。


 まさに珍騒動を重ねながらの一週間の取材旅行を終えましたが、お陰様でその成果の形として、一冊のドキュメント作品を完成させることになりました。


                                            「素材・紅のサザンクロス」1.jpg


  


この作品については、タスマニアの現地人であったアボリジニが新たにやって来る入植者との接触に苦闘しながら、ようやく1901年に独立を果たしてオーストラリアが始まった時に、やっと自立を見止められて新たな生活を始めるまでの話を組み立てたものです。これは幸いにも当時の週刊誌であった「サンデー毎日」の書評に取りあげられ、高い評価をして下さいましたが、現在のオーストラリアからは想像のできない、未開の大地で行われていた人間たちの葛藤する姿を理解していただけるでしょう。しかしこのオーストラリアの原点としてのタスマニアの取材に苦労したことが役に立って、この頃から六年後に歴史発掘という依頼を受けて行った、沖縄宮古島の歴史的な苦闘の姿と重なり合って、どちらにも共通するものがあるのだなということを、改めて知ったのでした。


 沖縄本島から見ると300キロも離れた宮古島は、あくまでも弱小の小島に過ぎませんでしたので、中国が使者を送って来たのは、あくまでも那覇の政庁に対してでした。


 そこの指導者からすれば、大国である中国には一目置かなくてはなりませんが、はるかに離れた小島に対しては、それほど存在感などは認めないでいたのです。指示を受けるとすれば中国の皇帝からで、政庁の運営に関してかなりの指導を受けていたのです。


沖縄を代表する皇帝は、中国の皇帝から認められなくてはなりませんでした。


 宮古島その他の群島はほとんど眼中にありません。兎に角政治はあくまでも那覇の政庁が中心で行われていったのですが、そういった中で政庁のやり方に反抗する者が出てくると、それらの厄介者はことごとく300キロも離れた宮古島へ送られてしまったのです。つまり昔は遠流ということで厄介払いをされてしまったのです。


 私は宮古島の歴史発掘をし始めたのが、オーストラリアというイギリスの植民地時代に、イギリスの政庁に反抗する者は、みなタスマニアという未開の地に作られた監獄へ送られ、そこの開発に駆り出されていたということを知りましたが、あれから七年後に訪ねた宮古島の歴史開発を行う途中で、那覇の政庁から如何に差別をされながらやがて自立していく姿を知りました。


 しかし沖縄を含めて日本の本土の政治を司っていた大和の朝廷にとっては、ほとんど沖縄は問題外の状態でありましたが、その頃大和の朝廷は政庁にとって厄介な者は、関西方面では隠岐島、佐渡、関東では伊豆半島・八丈島などという島へ送っていました。


 兎に角政府にとって厄介な者たちは遠流といって、政庁から離れた島へ送ってしまうということが行われていましたから、世界のどこでもその頃の実権を握っている者たちは、彼らに反抗する者はもちろんのこと、社会によくない空気を生み出す犯罪者は、ことごとく政治の中心地から遠い島へ送ってしまうということをしていたようです。


 つまり、その大和朝廷が無視していた沖縄は沖縄で、宮古島を厄介な罪人たちは宮古島へ流すことにしていたのです。


 そうした風習と言うものは時代がかなり新しくなっても・・・つまり当時から二百年以上も経過した民主主義の時代になっているのに、沖縄では宮古島に対する偏見は根強く残っていました。私が「宇宙皇子」という小説を書いていた時には、沖縄の読者もかなりいたのですが、彼らから宮木島は罪人の島だというようなことを、親から話されていたということを訴えて来たことがありました。


 もうそういった歴史時代から数百年たっても、依然としてそういったことが日常的な言葉の中に出てくるということにはびっくりしましたが、タスマニア取材をした後であったこともあって、宮古島の置かれた状態という者が逆に鮮明となってきました。


 タスマニアへ送られていた政治犯の中から、やがて時代が変わって解放された時には、


オーストラリアの政治を動かす要人となって復活しましたが、宮古島に関しても、流されてきた政治犯たちの中から、沖縄県庁で政治を動かす要人となっていった人がかなりいたということを知りました。


 平安時代であっても、結局時の権力者に背いて、遠流となってしまった人がかなりいますが、凶悪犯という所謂犯罪とは違った知能犯などは、頭脳が鮮明であるが故に、権力者に背くことになるわけで、その能力を上手く使えれば、権力者にとっても役に立つことは間違いありません。


 今回の探訪によって同じような政治犯の運命をたどっているうちに、どこの国でもそういった人々が辿った道筋は、決して悲運の人ばかりではないということが判りました。


これまでの支配者とは違った発想によって、復活を遂げた世界では大変な出世をしています。


 人も物も使いようということですが、なかなかそれを許さない時代であったり、それが存在する意味が理解されないままであったりしたために、不遇のままに終わる人もあれば、思わぬ幸運を得て生きるものも登場します。


 それが苦界といわれる現生を生きる者の宿命なのかも知れません。


大変小難しいお話になりました。


 これで長いこと眠らせておいたお話は終了です。


 お話が後先になって混乱されたかもしれませんが、新しい「宇宙戦艦ヤマト」の映画が制作に入る直前に、仕事のし過ぎが原因になって、自ら新たな挑戦を断念せざるを得なくなってしまいました。長いこと映像と出版に関しての足跡を辿るブログも、このへんでひと区切りする時が来たように思います。


 次回は倒れる前に出版しながら、その紹介もできないできた作品を、すべて公開しておきたいと思っています。


 どうぞよろしくおつき合い下さい。


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告知と放談の部屋☆ 放117「囚人の島・頭能集団の島」 [趣味・カルチャー]

   この頃になると、先住民についての興味と同時に、ここにある本国から遠く離れたところの流刑地の監獄で、政治犯といわれる知識もあり、主義主張もある者たちは、どう暮らしているのだろうかということが、大変強くこみ上げてきていました。

  

                                                「素材・タスマニア」1.jpg


  「素材・ホバート湾1」1.jpg 「素材・ホバート湾2」1.JPG 「素材・ホバート湾3」1.jpg


 「素材・収容所1」1.jpg    「素材・収容所3」1.jpg   「素材・収容所2」1.jpg   


 果たして流刑となった者はどんな暮らしをしていたのだろうか。


彼らは少なくとも頭脳集団でもあるのです。ただの凶悪犯とは違った存在であったは            ずです。いろいろな姿を想像しながら、植民地での監獄というものがどんなものであったのか知りたくなっていたのでした。


間もなくポート・アーサーの流刑地へ着きましたが、その全体の様子を見てびっくりしたのは、その規模がかなり大きいということでした。全体の外壁は昔の儘の残されているように見えるのですが、やはり特殊な刑務所といった雰囲気を感じます。しかし創建した当時のことを考えると、相当年月を経過していますから、その外壁は何とか残っているものの、かなり破損してしまっていることは想像できます。もう骨組みはほとんどまともには残っていないでしょう。しかし残された骨組みの残骸からは、何となく昔日の様子が窺えます。


上の写真の真ん中が囚人を収容されていた主要部分ですが、もうその姿は失ってしまっています。ガイドの説明によると、1830年から77年にかけて、イギリスから一万三千人もの罪人がポートアーサーに送ってきていますが、兎に角遠国の流刑地でしたから大変恐れられたようです。しかし一般の囚人は窓のある四階建ての監獄で過ごし、昼間は木材を切り出す作業や教会を建設する作業に回されるのです。その時、看守に逆らったり脱走を企てたりした囚人は、コンクリートで作られた窓もない独房暮らしとなることになっていたようです。


大分前にアメリカ映画の「パピオン」で見たステーブマックイーンが独房でゴキブリを掴まえて、スープへ入れて食べるシーンがありましたが、子でも思わずそうした凄惨な姿の囚人たちの姿を思い浮かべたりしたものです。


探訪した時には公園のように手入れされた自然のなかに建つポート・アーサーの監獄は、山火事によって外壁だけを残している廃墟になってしまっていましたが、独房見学をした後、私たちは一般の囚人たちが収容されていた監獄や礼拝堂、武器庫兼用の監視塔、囚人建築家ブラックバーンの設計による教会など案内されましたが、どこもし壁と建材の残骸が残されているだけになっていました。


兎に角収監されていた者たちにとっては、過酷な暮らしを強いられていたとしか言いようがありません。


                                           「素材・収容所6」1.jpg 


                


   「素材・収容所4」1.jpg 「素材・収容所8」1.JPG  「素材・収容所5」1.jpg

  訪問した時はすでに落ち着いた世界となっていて、建物の他は緑も鮮やかな庭園に恵まれ、澄んだ海にはのびのびとカモメが舞い、とてもここが囚人たちが苦闘したところであったということなど、獄舎の残骸を見るだけでしたが、囚人たちがどのような暮らしをしていたのかを、想像しながら、遺跡の残骸の中を想像しながら歩くしかありませんでした。囚人とは言っても、殺人・強盗謎とは一寸違う政治犯たちです。囚人の多くはそれなりに教養もあり、主義主張もある成人です。

彼らを教育する集会では、兎に角隣の席に据わった者と話をかわすこともできないように、それぞれの席の左右は完全に仕切りがされています。


 やがてこの中ら1901年にイギリスの植民地から独立してオーストラリアとなるのですが、その時にはあの監獄に捕らわれていた政治犯の中から、その能力を発揮して本土の指導者としてのし上がっていった者も出てきます。


 中には窃盗犯として収監されていた少女が、やがて最初のロンドン銀行の支店をシドニーに操業したりする大実業家となるという話も出てきます。兎に角さまざまな苦闘の末に独立を果たして、新たなオーストラリアの一員として、みなそれぞれ活躍していくことになりました。


 私たちはポート・アーサーから一時間かけて、シドニーに次いで二番目に古い都市であるホバート港を間島にしたところで一泊。


植民地時代の商人の家を改造した民族博物館を尋ねたりして、ここのホバート港から、東海岸を通って、タスマニアの北の玄関ともいえるローンセストンを経由して、再びホバートへ戻るというロング・ドライブ。時速110キロで快適に運転を楽しむ。日本では直ちに逮捕ですが、草原での大自然と牛の群れとの広大な絵画を望みながら、途中で面倒な経緯はありましたが、なまじ中途半端な英語を断片的に話すと、ここでは特別純粋な英語は通じないらしく、ますます混乱してしまうという珍騒動となってしまいましたが、何とかやがてローンセストンというオーストラリアでは三番目に古い町のホテルで一泊。翌日ボノロング・パークという自然動物園を楽しみ、ミッドランド・ハイウエーから最後の訪問地であったリッチモンドという田舎町に行きましたが、ここではかつての囚人たちが作ったという、石の橋のリッチモンド・ブリッジを見たりいたしました。


                                  「素材・リッチモンド・ブリッジ」1.jpg


このあたりには幽霊伝説が残っているらしいのですが、それは1823年から3年かけて、囚人を動員して架けられたものでしたが、あまりにも厳しい監督であったために、ついに怒った囚人によって殺害されたということでした。こうした不気味な伝説に触れたりしながら、お伝え出来ないような珍騒動を繰り広げた旅の記録でした。


 監獄での暮らしの様子を調べたり聞いたりしたことで、これからかこうとしている小説の構想がかなりまとまってきたようにも思えました。


 すべては東京へ戻ってからの作業です。


 というようなことになりまいたが、兎に角大分昔になってしまったこともあって、あちらで購入してきた監獄についての記録なども、すでに処理してしまっていたので、もっと詳しく取材の様子をお話したかったのですが叶いませんでした。


 


 辛うじて同行のA氏の記録が頼りになりました。最後に感謝しておきたいと思います。



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告知と放談の部屋☆ 放131「タスマニア・ロングドライブ」 [趣味・カルチャー]

  

ブログが一段落したところで、これまでに紹介できなかったお話を四月中に順次発表していきたいと思っています。それから後は新連載のための準備に使わせて頂こうと思っているところです。


兎に角今回はもっと早い時期に紹介しようと考えて来たのですが、何といっても今からかなり昔の・・・1992年(平成4年)1月のことですから、今から考えますと30年近くたっていますから記憶も薄れてきていますし、薄れてきていることもあるのですが、あちらで買ってきた様々な資料となるものもかなり処理してきましたので、一時は取りあげるのを止めようかと思っていたこともあったのですが、そんな中で幸いにも何か参考にあるような資料を持っていたら協力して欲しいと頼んであったものが届いたのです。取材旅行に同行してくれた当時新人物往来社の編集担当出あったA氏もほとんど資料になるものを整理していたのと、記憶も薄れてきているといって、同時勤めていた出版社の雑誌に書いたものがあるといって送ってくれたのです。奥様の体調がすぐれないという状況でもありましたが、小生からのお願いに応えて下さりようやく今回の作業ができることになりました。


私にとっては観光旅行を除くと、アメリカのNASA取材、中国北京、西安取材、オーストラリア・タスマニア取材は、かなり多忙な中で行っためずらしい記録です。多少記憶の曖昧なところはご容赦下さい。


 オーストラリアは流刑の大陸として始まったといわれていますが、タスマニアの州都ホバートに近いポート・アーサーに凶悪犯や政治犯の収容所として決められたのは、1830年の植民地時代のことでしたが、その時すでにこの土地には原住民がいたはずです。


 日本の古代史を辿っているうちに、先住民族の問題に突き当たってしまったことがあって、アイヌと大和朝廷との関係は無視できませんでしたし、世界の歴史に触れてみると、先住民族といわれる者たちが彼らの犠牲の上に今日の反映が築かれてきている姿をかなり見ることができました。アメリカにはインデアン、中国は周辺の漢民族以外の異民族、オーストラリアではアポリジニなどが典型的に目に入ってきたのです。


そんなところへロータリー活動で出会った新人物往来社の社長である菅さんから、ある雑誌の連載のための原稿を書いてくれないかと頼まれたのです。まだあまり構想を詰めてはいなかったのですが、かつて「幻想皇帝」を書いているうちにフランス革命の前哨戦となった産業革命が起ったイギリスでは、政府の意向に反対する者・・・つまり政治犯はみな本国から追放ということで、新しく発見した新大陸のオーストラリアに付属するタスマニア島へ追放しているという話を知ったことがきっかけでした。


日本のアイヌ。アメリカのインデイアン。そしてオーストラリヤのアポリジニという本来の原住民たちであった人たちの苦闘の歴史を探ってみたいということもあって、タスマニアの探訪をしたという申入れをしたのです。幸い新人物往来社の菅社長はロータリー活動で知己を得て居たことから、協力をお願いしたのですが、早速雑誌の連載を書くという話があって、取材に許可が下りました。同行予定の編集担当のA氏がまったく自動車の運転ができないというので、私は早速国際免許証も取って準備を整え、日本では厳しい冬の真っ最中という正月明けを狙って、真冬の日本から一転して南半球の夏の国であるオーストラリアのタスマニアへ向かうことになったのでした。


        「オーストラリアのシンボル」.JPG  「素材・タスマニア空港2」1.jpg 「素材・タスマニア空港1」1.jpg


               「素材・タスマニアホテル前」1.jpg 「素材・タスマニアホテル正面」1.jpg 「素材・打ち合わせ中」1.jpg


1991年(平成3年)一月19日から一週間かけたタスマニア探検が始まったのでした。ホテル打ち合わせをした後で、島のみなみにあるポートアーサーから北のローンセストンまでをレンタカーで遠征しなくてはなりませんでしたが、ドライブが好きであったこともあって、多少楽しみながら道中のすべてを運転することになり、まさに700キロのロングドライブとなったのでした。


「素材・草原の道4」1.jpg 「素材・草原の道3」1.jpg 「素材・草原の道2」1.jpg 「素材・草原の道1」1.jpg


兎に角ポートアーサーにある、イギリスの凶悪犯、政治犯という厄介な者たちを収容していた監獄があったというところまで、往復すべて運転手を務めました。


白いボデイのレンタカーを飛ばして、果てしなく続く草原の中の道をひたはしりましたが、そのまま目的地へ直行できたわけではありません。同行の編集担当はせめて南国の流刑の島の探訪を記録にしたいというので、途中で何度も遠慮なく車を止めさせて、あたりの写真を撮るのです。運転手の私は、残念ながらこれには協力してやらなくてはなりませんでした。


           「イーグルホークネック」.JPG   「素材・ホバートの町1」.JPG                          目的地へ向かう途中では、イーグルホーク・ネックというまで来た時、この辺りは監獄から脱走してきた囚人たちを、このあたりで逮捕するために、かなり多くの大型犬を飼育していたり、入江には人喰いサメを招き入れていて、囚人はこの辺りまで逃げてきても結局逮捕されて、再び監獄へ送り返されてしまうか、場合によっては処刑されてしまいます。


 1830年から77年までの遠国流刑地として使われていたのですが、結局逃亡に成功したのは47年間のうちたった4人だけであったということです。


 時折こうした寄り道をしながら、後はひたすら走って目的地であるポートアーサーへ着いたのでした。


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言霊謎解きの部屋」言47(暗殺に歴史) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                           「若菜イラスト」.JPG

   

新ヤマトを書きながら、あまりにもそれをなぞったような言霊を選んでしまいましたが、まったく他意はありませんのでお断りしておきます。


 暗殺などということは、すでに現代では死語といってもいいのではないかと思っていたのですが、わりに最近の事件として思い出されるのは、チェチェン戦争の真相を追っていた女性記者アンナ・ボリトコフスカヤが暗殺されたり、プーチン政権とチェチェン問題を批判したFSBの元大佐であったアレクサンドル・リトビネンコが、ロシヤ政府の者によって暗殺されたという話があります。必死で否定する政権の声を押しのけるようにして広がっていましたが、トロッキーの暗殺事件以来、暗殺事件については枚挙のいとまがないロシヤです。改めて政権にまつわる陰部がクローズアップされたような気がしたのですが、それではわが国ではどうだったのであろうかと調べてみると、これがまた暗殺に次ぐ暗殺で、血なまぐさい事件がつづいてきているのです。


 超古代である大王(おおきみ)の時代でも、その権力の座を巡って血なまぐさい事件がいくつも記録されています。暗殺によって皇位を得たと言われる綏靖(すいぜい)天皇。本来は初代天皇だとも言われている崇神(すじん)天皇は、百襲姫命(ももそひめのみこと)の予知能力のお陰で暗殺から逃れたと言われています。そしていささかショッキングではありますが、古代の英雄である大和武尊(やまとたけるのみこと)は、暗殺者ではなかったかという話も囁かれてもいたりするのです。


時代をへるに従って、暗殺の危機から逃れられなかった者、運よく逃れた者などが次々と現れてきます。いずれにしても政権を維持するために、政権を覆すためにと、立場はまったく違っても、権力をめぐるうず潮に入り込んでしまうと、いつ暗殺という事件に見舞われるかも知れないという不気味なことを覚悟しなくてはならなくなってしまいます。蘇我入鹿、有馬皇子、井上皇后、藤原種継、早良(さわら)親王、菅原道真、源頼家、源実朝、吉良上野介、井伊直弼、吉田東洋、清河八郎、芹沢鴨、考明天皇、坂本竜馬、中岡慎太郎と枚挙にいとまがありませんが、権力にかかわると、否応なく暗殺の危機に晒されてしまいました。しかしそうした政権が不安定な時代が去ったとしても、権力に近いところにいる者は、時代の古い、新しいに関係なく、暗殺の危機を覚悟しなくてはならないのかもしれません。


 現代はもっと巧妙に抹殺することが考えられているかもしれませんし、すでに行われているかもしれません。それだけに、政治は命をかけなくては出来ないもののようですね。果たしてそんな覚悟をして国政に立ち向かっていらっしゃる方が、どれだけいるのでしょうか。


 


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告知と放談の部屋☆ 放130「脳梗塞で倒れる!」 [趣味・カルチャー]

  

新たな「宇宙戦艦ヤマト」を制作するという話がきてから、半年が経過しています。新たな作品作りに参加してくれるスタッフの招集も進み、まったく新しいスタッフである若手の脚本家も富田祐弘氏、隅沢克之氏、千葉克彦氏という三人に、私の後を継いでもらうということをお話して、彼らもその大役に感動してくれていつでも作業に入れる態勢を整えてくれていました。


 私は彼らの作業に入る前に、原稿料に関しての責任を持つという約束をしていましたので、制作会社との話し合いを何度かしながら、兎に角通常支払われている原稿料を上乗せして貰い、更にこれまでとは違った手間をかけることもあることが考えられますので、それなりに報奨金も考えようという返事をもらっていました。


 こうなったらあとは私が新たに書き上げる原作がすべての鍵を握るということになってしまいました。


 幸いにもこの作業中に、松本氏からは何も連絡と言こともなく、原作を書くという作業がまったく問題なく行われていました。


 長いこと「宇宙戦艦ヤマト」の作業にかかわってきた気意見からすると、一番問題が持ち上がりそうな作業ですが、今回はよほどの事情があるのでしょうか、まったく松本氏からは何も藩王はありませんでした。


恐らくその辺については制作会社もこれまでの情報をえていたようで、事前に原作は別の人・・・はっきり言えば私に書いて貰いますという連絡はした上で少々して貰っていたようです。現在は新しいヤマトに相応しいさまざまなデザインの開発に向っていたのかもしれません。


 幸いにも私はうるさい雑音に煩わせられずに構想を練っていました。


 それだけに大雑把な形ではわりに早くまとまりましたので、会社側の二人のプロデユウサーとの打ち合わせを何度か行ない、おおむね話としては承知して頂き、原作としての形でまとめていきました。


 時代の気分もありますから、ただ戦いざまで見せていくのではなく、これまでの話ではほとんどやれないでいた、宇宙のヒロインであるスターシアと彼女に恋心を抱くデスラーと、地球の命運を担って戦いを挑んだ古代進の、その後の出会いと対決を描くことになったのです。デスラーが我がものとしたいスターシアのところには、古代の兄が存在しているのです。三人の微妙な思いを兼ねながらの戦いとなってしまうのでした。


 会社側のプロデユウサーとの話は、あまりもめることもなく、「これで生きましょう」という決定がありました。


 2001年10月25日のことです。


 取り敢えず大役の第一歩を踏み出した早朝のことです。


 私は久しぶりに布団に寝ていたのですが、目を覚ました時に、左手が鉛のようになっているのです。


 私は咄嗟に「寝違ってしまったのか」と思いましたが、兎に角そのまま寝ていることも出来ずに、寝室の前にある書斎向いました。


その頃から「どうもおかしい」と思いだしていたのですが、たまたまテニスの仲間と集まる約束があって、その一人から神宮で出会おうという誘いの電話がかかったのです。


ところがその時に友人と対話をする私は、完全に言葉がもつれだしていたのです。


 (ひょっとして脳梗塞ではないか)


 不安が頭をかすめましたが、早朝に出かける予定になっていたので、食事の用意がしてあったことから、簡単に食事を済ませたのですが、しかし茶碗をまともに持てなくなっていたことから、これは間違いなく脳梗塞だと判断した私は、救急車を呼ぶということなどまったく考えもせずに、近くの孤立病院へ行くといって自動車を運転して出かけたのです


 病院へ行って症状について報告した途端に、担当の医師は直ちに私は車椅子へ移されて、病室へ運ばれてしまったのでした。


                                      「国立イリョウセンター」1.jpg


  


それから後は家内がすべての手続きを済ませてくれて、私は暫く入院ということになったのですが、先ずは点滴での治療ということになったのでした。


 特別それ以外に問題はないことから、翌朝新札に来た担当医師のAさんに、乗ってきた自動車を自宅まで持って行っていいかなどと、あまりにもノウ天気なことをいったので担当医師はびっくりして、何おいっているのかという口調になると、「そんなことをしたら、死ぬしかありませんよ!」と一喝されてしまったのでした。


 いろいろ検査をした結果、スケジュウルがあまりにも過密すぎる生活をつづけていたことがストレスを積み重ねることになった上に、ヘビースモーカーであったことが災いとなってしまったという結論になり、兎に角仕事はほどほどにすると同時に、タバコはは完全にやめて下さいという、厳しい宣告を受けることになったのでした。


 二十日間の点滴治療によって、回復できるか後遺症が残るか、その時に判断いたしますということになりました。


 もう申し上げるまでもなく、私が「宇宙戦艦ヤマト」の新作品にかかわることは無理だと判断しましたので、制作会社のプロデユウサーへ連絡して、仕事からは引きますという連絡をしたのです。


 ところがそれから間もなくのことでした。


 思いがけないことが起っていたのです。


 X氏はあまり派手な展開をし過ぎていたことが祟ったのでしょう。資金がつづかなくなってしまったということで、私が倒れると同時に会社の経営を断念して、会社をたたんで、「宇宙戦艦ヤマト」を作るという夢も放棄して姿を消してしまいました。


 実に不可解な会社の引き揚げ方です。


 その後、どこへ行ってしまったのか、まったく行方はつかめなくなってしまったのでした。


 私はこの時から、禁煙という指示を守ろうという決心をして、CMで流行っていたパイポを使って苦闘し始めたのでした。


 入院患者としての生活の中で、私が脚本家でかつての「宇宙戦艦ヤマト」にかかわっていたということが広がってしまったようで、朝の新札の時には担当医師に従って、仮多くのインターンがついてくるようになり、まるでファンがするような質問をしてくるようになってしまったのでした。


 この時ばかりは、もうここで仕事に復活することは出来ないと覚悟しました。


 お陰様で後遺症が残るということもなく20日間の入院で、病院から脱出することができましたが、これから数年間は、まさにすべての仕事は放棄して、兎に角体調の復活に努める日々となってしまいました。


 長い間これまでの足跡を大雑把に書いてきましたが、ブログはこのへんでひと区切りするのもいいのではないかと考えました。


 勿論、数年間の苦闘する日々の後で、新たな幸運が訪れたのですが、それはそれとして、これまでのブログはここでひと区切りとして、新たな連載を考えようと思いました。


 その時はまたよろしくお願いいたします。


 来週からは、これまで取りあげられなかったお話をまとめて書いておこうと思っております。


 どうぞよろしくお願いいたします。


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言霊謎解きの部屋☆ 言46「ひとくち言霊」(祈る)                                          「ひとくち言霊」(祈る) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                        「若菜イラスト」.JPG

  

日常的に神社仏閣へ行った時、手を合わせることが多いと思うのですが、しかし常識的に、神に祈る場合と、仏に祈る場合では、ちょっとその作法は違います。


それはご存知ですね。


手をパンパンと叩いて祈る神社と、静かに両手を合わせて祈る寺院という違いぐらいは、ほとんどの人が知っていると思うのですが、もうちょっと詳しくその違いを知っておく必要があるようです。


仏様には、わたしたちの知らない、いえ、如何なる先人たちも知り得なかった、死後の世界・・・天上界へ行く時が来ましたら、よろしくお願いいたしますということでお参りするのですが、それに対して神様に対しては、そのような情けない祈り方をしては、とても願いは叶えて貰えないということは、すでに(二の気涸れ)の項で触れましたから、重複はさけますが、とにかく誓わなくてはなりませんし、このくらい活力を持って生きているんだぞと、その気概をぶっつけていかなくてはならないのです。


それなのに初詣の時、ほとんどの方は、今年の幸運をお願い、お願いとやっています。しかしここが問題なのです。そんな弱々しいことを言っているようでは、神様はまったく受け付けてくれないのです。その年一年を、どう生きようとしているのかを、気迫を籠めて誓わなくては、その意気込みに応えようということにはならないはずなのです。


古代の人は、みな信仰深かったので、それぞれが自分の守り神というものを持っていました。当然のことですが、何か重大なこと、一大決心をして事を行う時には、その信仰する神様のところへ行って、「イ・罵(の)る」のです。つまり「祈る」ではなく、命がけで進行する神を罵るのです」


古代では、「イ」というのは、現代でもよく使われる、「大事に取り組む」などという時に使われる「命をかけて」「命を賭して」などという時の、「命」のことですが、つまり「イ罵る」ということは、生命をかけて罵るということなのです。しかし神を真剣に畏怖していた時代です。通常神を罵るなどということは、とても恐ろしいことで、下手をすれば命を落とすかも知れないのです。それでも真に神の加護が欲しい時には、一大決心をして神に挑戦しなくてはならないのです。宿敵を討つ時などは、思い切り激しい言葉で神を罵って、怒り狂ってその威力を誇示しようとする神の力を引き出そうとしたのです。


「もしこのわたしの決心に力を貸してくれないようであったら、そんな無力なあなたを、今後二度と信仰することはないだろう!」


こんな風に罵ったようなのです。


すると挑まれた神様は、命を失うかも知れないという、危険も顧みずに敢えて挑んできた強い意志に対して、


「よーし。よくも命を失うことも恐れずに、わたしを罵ってきたな。わたしの威力を思い知れ」


と、いうことで、その力を発揮して祈願する者に力を与えるというのです。


神に祈るといことは、現代の初詣、日常の参拝で行うような、のんびりしたものではなく、命がけという行為だったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放128「新宇宙戦艦ヤマト・スタッフ集め」 [趣味・カルチャー]

  

 社長のX氏とは初回に合っただけで、その後は会社側から出てきたプロデユウサーA氏とB氏との接触で、私は今回の映像化についての姿勢についてはっきりとスタンスを説明しました。


 兎に角前回の「宇宙戦艦ヤマト」から17年もの時間がたっていますので、その間に私はかなり多くの作品を抱えてしまっているという状態にありましたので、脚本を書くという作業からは遠慮して、現在生きのいい若い脚本家を登用したいということです。


 勿論、彼らの作業については責任を持ってチェックしていきましょうということを承知して貰い、メンバーの選定はお任せいただきたいということを了解して貰いました。


そこで彼らから思いがけない発言があったのです。


 つまり映画の原作はどうするのですかということなのです。その問いかけをされた時一寸とまったのは、これまでの様子からすると、イラストはもちろんですが、内容の原作についても、松本氏が書くといって承知しないはずです。今回のこうした作業にかかるには、そういった話もX氏との話し合いが済んでいるはずだと思っていたのです。


 ところが二人のプロデユウサーはそれを真っ向から否定して、所謂原作は私に書いて貰いたいというのです。


 私は唖然として二人の話を聞きました。


 これまでの仕事の取り決めの様子から判断すれば、何もかも松本氏がやるといって聞かないはずです。私は二人の発言の真意を問い質さなくてはならないと思いました。


 ところが二人はわたしの心配を一蹴してきたのです。


 「まったく心配いりませんから、是非藤川さんに書いて頂きたいと思っています」


 まったく迷った様子もなく言い放って、承知して欲しいと迫ってきたのです。


 私はようやくこれには社長のX氏も承知していることなのだと受け止めることにして、これから行おうとしていたスタッフ集めや脚本家の選考などについての、私の考えを伝えましたが、ほとんどは受け入れられました。


 これまでの松本氏のプライドなどを考えると、とても信じられないことが起っているのだということを感じました。時代はこれまでとは違ったものを求めているということを実感したのでした。それと同時に原作を書くものとしての責任というようなものを感じさせられたことでした。


 その日の結果を持って、まず私は監督となる人の人選をしたのですが、やはり原点の姿を熟しているアニメーション監督であった東映動画の勝間田具治氏に連絡を取って、作品の指揮を執って貰いたいという申入れをしたのですが、二つ返事で承諾の返事を頂きました。そして彼を中心にして必要なスタッフは集めて貰う事にしました。


 やがて兎に角会社側のプロデユウサーと会ってもう手はずを整えました。そして彼らのギャランテイは直接話し合って頂くということにして、私は脚本家の選定に入りました。勿論弟子の中にも数名の候補者がいましたが、作品が作品なので、これまでの実績に合わせて、「宇宙戦艦ヤマト」としての特色を受け継いで、更に今回の旅立ちをきっかけにして「宇宙戦艦ヤマト」の新たな旅立ちとなるようなものを生み出せるのかどうかということなどを考慮して選考いたしました。


 私が放送作家協会の動画部長をしているころから注目していた後輩の一人である、富田祐弘氏が、そのころ拙作「宇宙皇子」の映画化に当って、若手の弟子たちを率いてまとめてくれた実績を考慮して選ぶと、あの頃のヒットアニメ作品で目立つ活躍をしている脚本家であった隅沢克之氏を決めたところで二人に協力できそうな脚本家として勧められた千葉克彦氏を決めました。


 長いこといろいろな苦労をして気付きあげたアニメ史上の画期的な作品であったものですから、その財産を受けついて貰った上に、新たな出発を達成して貰えるような人たちにかかわって貰いたいという気持を伝えるために、帝国ホテルの事務所へ来てもらい。会社のプロデユウサーをはじめ若手のスタッフたちに対面して貰って、作品に向かう姿勢と、それを若い彼らに託す思いというものをお話して協力を促しました。


 勿論のこと彼らにとっても、夢の作品にかかわれるという幸運な話です。


 大変熱気を感じる意気込みで答えてくれましたが、少なくても今回は通常の原稿料ではなく、ある程度は苦労も承知して貰うために、通常の原稿料+アルファということで、私が代表で交渉をして決めました。


 もうこの頃宮崎駿氏は「天と千尋の神隠し」という映画の公開を前にして勢いづいていました。私がいよいよ原作づくりに入った頃のことです。


「千と千尋の神隠し」の公開が迫っていて、ファンの注目がたかまっていましたので、そのキャンペンが盛んにおこなわれているのを横目で見つめながら、新たな「宇宙戦艦ヤマト」の原作づくりにかからなくてはなりません。


今回のプロデユウサー氏はどういう事情で博報堂からやってきたのか、その事情についてはまったく知りませんが、X氏はジブリの人気を意識していたのかも知りません。それに対抗する気持ちで、白鳳度からプロデユウサーを引き抜いてきたのかもしれません。彼は盛んに「千と千尋の神隠し」を気にしていました。


これまでの男性作家が番組をリードするという次代から脱却して、80年頃からは。圧倒的に女性漫画家が漫画界をリードするようになっていました。大和和紀、山本鈴美香、高橋留美子、池田理代子、里中満智子、山岸涼子と勢いづいて登場してきた女性群が活躍する時代になってきていました。


あの「キャッツアイ」をきっかけに、テレビアニメーションにも、女性脚本家が輩出してきましたし、NHKの大河ドラマからも、その脚本家は男性から女性へとバトンタッチされたかのようです。これまでの男性作家による価値観から、女性が生み出す価値観が尊重されてきていることを証明しているようです。ジブリ作品はそういう点で、ファンの動きを的確に掴んでいるようでした。


「千と千尋の神隠し」は完全に女性を意識したもので、少なくともこれまでの男性路線の映画ではありません。私はこうした時代の転換ということを考えながら、原作を考えなくてはならなくなったのでした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言45「ひとくち言霊」(月待ち) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                      「若菜イラスト」.JPG

  

「ツイてないな」


ふと呟いてしまうことがありそうな言葉です。


 そうかと思うと、


「ツイてるんだ」


ついはしゃぎたくなって、叫んでしまいたくなることもあるでしょう。


「ツキ」


不思議な言葉です。


 それはいつの時代にも耳にしましたし、二十一世紀の今日でもよく耳にします。しかしこの言葉の原点は、かなり古い時代にあったのです。


 いったい、この「ツキ」というのは何のことなのでしょうか。


 実はこの「ツイてない」ということは、何かが憑いていないということに違いありません。昔は、キツネ憑きなどという怪しげなことも言われていましたが、冒頭の会話のようなツキというのは、どんなものが憑いていないというのでしょう。それは言うまでもなく、「月」のことだと思います。


つまり月の霊力を頂いているか、頂いていないかが、「ツイてる」か「ツイてない」の分かれ道になってしまうということです。


しかしちょっと待って下さい。


 「わたしはツキに見放されている。さっぱりいいことがない」


 そんなことを言って意気消沈している人がいたら、自信を持って励まして上げましょう。


 月は必ず、毎日東から西へとめぐっているではありませんか。


 そうです。月は巡るんです。ツキも巡るんです。


 だから古来「月待ち」などという信仰も生まれたのです。


諸説あるでしょうが、「月を待つ信仰」それは「ツキを待つ信仰」でもあったはずです。


 最近は、あまり月を見て楽しむような習慣を、お持ちの方は少なくなってしまったように思えます。特に都会地に住んでいる者にとっては、とても月を眺めて楽しむ気分になれないせわしない生活環境に置かれているし、あまりにも照明器具が発達しすぎて、夜の闇を失ってしまいました。


そのために私たちは、天の白王である月の存在を見失ってしまいました。さらに昨今は、視界を遮るようにそそり立つ、高層ビルのお陰で、ますます月との出会いが失われてしまいました。かつて月は、太陽と同じくらいに大事にされ、より身近に存在していたのです。


とにかく月は、日輪と同じように、決して同じところに留まってはいません。つまり「ツキ」は必ず巡ってくるのです。今は運に恵まれなくても、いつかは必ず運が向いてくると信じられ、心の支えとなっていたのです。


十三夜待、十九夜待、二十三夜待、二十六夜待などと言うそれぞれの月待ち信仰の講がありますが、それぞれには、月の霊力とかかわりのある仏様のご利益と、関連付けていったのでしょう。しかし、まぁ、そのような難しいことはさておいて、月は眺める人にさまざまな思いを抱かせる存在であったことは間違いありません。


立待月(十七夜の月の出は早いので立って待つ)


居待月(十八夜は少し遅いので、座って待つ)


伏待月(十九夜は更に遅れるので、伏して待つ)


寝待月(二十日の月は寝て待つ)


どんなに慌ただしい日々に追い立てられていても、せめて束の間でも、こんな風に「月待ち」をして月の出を楽しむような、ゆったりとした気分を、少しは持ってみたらどうでしょうか。現代人はそんな暮らしを失ってしまったので、その分ツキからも見放されてしまっているのかもしれません。しかしその前に現代人の我々は、先ず月を待つ絶好の場所を探しておく必要があるかもしれませんね。


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告知と放談の部屋☆ 放127「突然!新宇宙戦艦ヤマト」 [趣味・カルチャー]

  

2000年・・・平成12年10月のことでした。漫画家松本零士氏からの突然の電話で、考えてもいなかったことが起りました。


 時代は80年代をきっかけにして、新しい方向を求めてまるで今の時代とそっくりな、これまでの暮らしの常識をすべて転換して新たな方向を模索し始めていたころのことです。兎に角思いがけないことが跳び出して来る時代でした。


 これまでの暮らしのルールに従っていては、とても生きられない暮らしの基本をすべてこれまでとは変えていかなくてはならない、大転換が求められる時代になりました。政治、文化、経済のすべてについて、これまでとは違う形のものを生み出そうとしている最中だったころのことです。文書で済ませてきた様々な決まり事も、すべて映像化して判りやすく表現しようとし始めていましたので、誰にも判りやすい説明が求められることが尊重されると同時に、それぞれの人は自由に自己表現をすることが求められる、なんでもありの時代になっていました。新たな価値観に基づいたものが歓迎されるようになりつつあった時代です。そうした価値観の新展開ということで送り出した私の歴史大河ロマンの「宇宙皇子」が思いがけないほどの大ヒットとなり、影像に関しても「宇宙戦艦ヤマト」「マジンガー―Z」「銀河鉄道999」「ゴットマーズ」とかかわった作品は矢継ぎ早にヒットとなる時代です。超多忙な日常を迎えていました。熱狂の余波があちこちに広がっていたために、高校生のための講演会や、成人式での記念講演などをこなしながら、角川書店以外の出版社からの執筆依頼もこなしていましたし、海外に飛び出して、オーストラリヤのタスマニヤへ取材に出かけたり、沖縄の宮古島の歴史発掘という事業にかかわって、スタッフと共に宮古島を走りまわっていたりしていました。そしてその間には久しぶりにテレビのアニメーション番組からの依頼で、取材の合間に「キャッツアイ」という作品に脚本を書きながら、2000年に予定されたサミットで世界の首脳たちに沖縄へ集まるという情報から、沖縄の宮古島の歴史発掘は日本の南国の島を理解して頂く絶好の機会になるという目論見があって、アニメーション映画を制作するという話に発展していたのです。そのための原作になる取材を基にした小説「シギラの月」を執筆したりしていたのです。その目標の達成のために地元沖縄からの資金的なバックアップをして貰う必要がるということになって、地元の大手会社に協力を要請するためにスタッフと共に駆け巡る日々が続きましたが、しかし残念ながらそのアニメーション映画の制作という計画は、結局当時の沖縄の経済的な事情では援護射撃が期待できないということになってしまいました。そんなところへ持ち込まれたのが、新しい「宇宙戦艦ヤマト」をリメイクするという話だったのでした。しかし兎に角あの作品を発表してからもう十数年もたっているのです。もうほとんどその思い出となるものは消えていて、その後から起こった映像、出版での新たな世界での騒ぎに巻き込まれてしまって、ほとんど寸暇もないほど過密なスケジュウルで活動していましたので、それほど興奮するような気持ちにはなりませんでした。恐らく松本氏も「宇宙戦艦ヤマト」の話を持ち込まれたとしても、すぐに相談に乗るような人が簡単に見つかるわけがなかったのでしょう。私はたまたまその後松本氏の原作によるアニメーション番組で、ほとんど私が主導して番組を制作していましたので、彼はその関係で私を思い出したのではないでしょうか。しかし残念ですが現在私の記憶でも誰から映画の制作を申し出られたのか、思いだそうとしても兎に角漠然としていて、明確なことはお話できないのですが、ただその新しい「宇宙戦艦ヤマト」を作るというお話に関係して、私に起った様々なことについては鮮やかに浮かび上がってくるのです。


話の都合上・・・仮にX氏といたしますが、松本氏から聞いたところでは、80年代の若者の間で爆発的に流行っていた、原宿あたりのホコ天で奇妙な衣装で踊りまくるパフォーマンスが話題になっている時に、その若者たちとは違った立場でストリート・パフォーマンスを展開している一群があったのですが、彼らは一世風靡という劇団から飛び出した若者たち・・・現在でもよく知られている哀川翔、柳葉敏郎氏も同じメンバーであったといわれていたように思いますが、今回の話のきっかけとなったのは、その中の一人であったX氏が、時代が大きく変わっていこうとしているに呼応して、あの時代を象徴する作品となった「宇宙戦艦ヤマト」をリメイクしようとして松本零士氏に連絡をしたのでしょう。その結果新たにリメイクする許可をして貰うことになったのでしょう。二人の間でどのような話が行われたのかということは判りません。その結果私に映画の制作にかかわってくれないかという電話をくれたのです。しかし前述したとおり、すぐに受け入れられませんでした。最後の作品となった1983年の「宇宙戦艦ヤマトⅢ」から実に17年も経過しているのです。松本氏はそんなことも承知の上で許可を出したのであろうか・・・暫くは躊躇いましたが、原作者といわれる彼が、それを許可した以上制作をすることになったのだと納得しました。


丁度この頃にこれまで東映動画で仕事をしていたアニメータの宮崎駿さんが独立して、制作会社を立ち上げてアニメ界へ登場してきたところです。かつて「宇宙戦艦ヤマト」がテレビに登場した頃、常に同じ時間帯に放送されて、いつも視聴率で敗北させられてきた「世界名作童話」のアニメ作品の制作の多くを受け負っていたのが、宮崎駿さんだったのを思い出します。そんな時に「宇宙戦艦ヤマト」をリメイクしようなどという話が起るというのは、何と皮肉な巡り合わせではありませんか。それにしても私にとっては実に忘れ難い思い出でもありましたので、あえて再び戦いって見たいなとも思いました。


X氏は時代の要求する思いきった発想という気風に乗って、かつて世の中を大きく動かした「宇宙戦艦ヤマト」を、もう一度浮上させようと決心したのかもしれません。しかしそれにしても、こうしてブログを書く段階になっても、今回のプロジェクトにどういう経過で参加することになったのかということについては、ほとんど記憶に甦ってくるものがないのです。自分が何をしたのかということだけははっきりしているのですが、その途中経過や周辺の事情についてはほとんど記憶に甦りません。


そのくらい当時はやることが複雑に交錯していた時代だったということなのかも知れません。兎に角原点の「宇宙戦艦ヤマト」以来松本氏とは昵懇の間にあったということから、X氏がいかなる人物であるかなどということは確かな情報も確認しないまま、映画制作についての協力要請を受け入れることにしたのでした。


 X氏は帝国ホテルが関係するビルを数階借り切って動いていたようで、大変余裕のあるような雰囲気を発散していました。時代の先端をいくつもりであったのでしょう。すでに制作のためにスタッフも集めていていちおう制作部にはプロデユウサー以下若手のスタッフが動きまわっていました。しかし二度と西崎氏の時代のような心理的に負担を負わされるようなことのないようにということで、様々な条件は出しましたが、X氏からはすべて条件を呑んでくれましたので、いよいよ次の作業にかからなくてはならないと思うようになっていました。


 ただこれまでの経験から、今回リメイクにかかわるとしても、前と同じ立場で加わることは出来ないと考えて、あらたな仕事とのかかわりについての取り決めをすることになりました。その条件が満たされるのであればかかわってみようと決心したのです。


死後が多忙であったこともありますが、これまでのように、何もかもかかりきりにはなれません。


 私の出す条件を呑んでくれるかどうかにかかっていました。


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告知と放談の部屋☆ 放125「知られざる宮古島の姿」 [趣味・カルチャー]

  

宮古島は沖縄本島からも300キロも離れているところから、沖縄本島が中国の影響を色濃く受けているのに対して、この宮古島はどちらかというと東南アジアの影響を受けていることがはっきりとしてきました。博物館長に確認を取ったところ、やはりその印象は確かで、「ここは東南アジア文化圏です」とはっきりとおっしゃいました。中国文化圏に似た沖縄本島とも300キロの海を隔ててはっきりと違うのです。


もちろん時代の経過に従って、中国の支配と影響を受けましたからそれほど違和感はありませんでしたが、とにかく日本本土の歴史に馴染んでいるわたしにとってはやはり沖縄は異国としての雰囲気をかなり持っている島だと思っていました。取材で得る知識は実に興味深いことばかりで、宮古島の本島ばかりでなく、船を出して池間島、伊良部島、来間島、平間島、大神島、多良間島、下地島、水納島という八つの群島のほとんどの島を探ねたりしました。時には陸上ばかりでなく、島を海側から見てみたいということから、船で一周したこともありました。調査したこと、判ったことは、一々宮古島の地図へ書き込んで行きました。島の全体像を掴むためにも、それは大いに役立ったと思っています。今回が最後ですからもう一寸お話をしますと、宮古島は東シナ海と太平洋がぶつかりあうところで、その景観にはかなりみどころのあるところですが、島の大きな特徴としては川というものが存在していないということなのです。


川がないということを聞いて、わたしたちは実に不可思議な気持ちになったものでした。それでは島の人はどうやって生活水を得ていたのかという疑問にぶつかってしまいます。実は地下水盆といって、地下に雨水が自然にろ過されて貯蔵されているのです。現在はその地下水盆からポンプでそれをくみ上げて使用しているのですが、その理由(わけ)を知るには、この島の成り立ちについて知っておくべきでしょう。それが昔々このあたりで、海底火山の爆発が何度もあって、宮古島とその周辺の群島が誕生したということになるのです。実は珊瑚でできた島だったのですが、長い長い年月をかけて今日のような形に落ち着いたのですが、川がないのもそのあたりに原因があるのですが、そのために雨が石灰質の土地を通過してろ過されて、地下に蓄えられていったわけなのです。そのためにその地下水盆に蓄えられた水が崖っぷちから海へ流れ出ているところがあります。古い時代では、男は海で漁をし、女性はその危険なところまで出て行って生活水を得るのが務めだったようで、大変な作業だったろうなと推察しました。


島の目だった特長としては、こうした川がないということの他に、なぜかハブが存在していないということがあります。昔々・・・多分150億年前頃に繰り返された火山爆発によって、生態系がかわってしまったことによるのでしょうということです。そしてもう一つが、シギラという女性と恋に落ちながら、台湾へ帰らなくてはならなくなってしまった使節が、毎年春の大潮の日に消息を知らせると言って立ち去り、翌年からその季節の頃となると大量の竹がシギラ浜へ流れ着くようになったというのです。やがてそれが一つの伝説になりました。


一年以上東京から沖縄の宮古島へ通って、取材を始めさまざまなことにかかわって、「シギラの月」の映画化に向けて、さまざまな事業主と交渉をしたのですが、時代の景気後退が沖縄をかなり深刻なものにしていたようです。宮古島の産業関係からの援護が得られないということがはっきりとしましたので、ついに映画化という事業プランも白紙撤回しなくなってしまったのでした。


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小説の取材ではとにかくいろいろなところへ行きましたし、各地での講演会へ呼ばれたり、イベントへ呼ばれたりしましたが、拙著の「シギラの月」では、これまでの場合とはちょっと趣の違った体験をいたしました。私にとっては、「地上編宇宙皇子」の八巻目である「愛しき太陽に死す」を書くために、沖縄本島の万座毛へ滞在して取材した時以来の長期にわたる接触をしたことになるのですが、地元の人々と出会っていくうちに知ったことは、あの頃はまだ可成り寝ず良い差別感があって、沖縄本島の人にとっては、宮小島は流罪に生ったものの島であるということが言われていました。しかしそれを突き詰めていくと、特に政治犯といわれる者はかなりの知能の持ち主でしたし、知恵者であったということで、その子孫の中からはかなり優秀な才能を持った者が現われて、宮古を離れて沖縄本島に渡ると県庁のかなり幹部となって活躍していたようです。


 そんな話を聞いているうちに、やがてお話しようと思っていたオーストラリアとタスマニアとのかかわりと、実に似たところがあるところだなと思いました。


 本島からかなり険しい海の流もあって、一旦タスマニアに流されてしまったら、簡単には戻れない島でした、当時はイギリス本土の政治からはじき出された者たち・・・つまり政治犯などを植民地として開拓していたオーストラリアの孤島である、タスマニアへ起こりこんだということなのですが、やがての島から初代オーストラリヤの大統領も生まれたほどで、それまで政治犯として送り込まれてきた人々は、時代の転換によって有力な指導者として復活していったのです。


 沖縄本島から更に300キロも先にある宮古島もそれに似た歴史があったということを思い出しました。そんな今から沖縄の指導者が次々と出て行ったという話を聞いて、思わず時の権力者にとっては、それに反対するような知恵者は邪魔になる者なのだなと、改めて考えたものでした。


美しい珊瑚の海を見詰めながら、遠い昔の歴史を追っていると、中国とのかかわり、台湾とのかかわり、海賊の出没、東南アジアとのかかわりと、さまざまな近隣諸国との交流があって、実に変化があって活気づいていた宮古島の、在りし日が彷彿としてきます。ついこんな歴史を辿りながら、壮大な海洋ロマンを夢見てしまうのは、私だけではないだろうと思います。確かに沖縄本島とは違った環境にありました。


 日本列島の中でも、京都を政庁としていた時には、佐渡ヶ島をはじめ、島根県の沖にある孤島の隠岐の島などへ厄介な者は送ってしまいましたが、江戸が政庁の中心となった時には、八丈島が島流しの罪を犯した者の行き先とされていました。それがこの沖縄では宮古島が厄介者を流してしまうところとして利用されてきたのです


 もう昔の歴史的な事情で差別が起るようなことがあったかもしれませんが、何か新たな使命感を背負ったような気持ちになって、こんなお話を書くことになりました。


 私はハワイまで行かなくても宮古島があると思っているのです。


 是非、一度は訪ねて見るのもいいかも知れません。そんな時、是非、「シギラの月」を忘れずにお持ちになって行かれることをお勧めいたします。


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告知と放談の部屋☆ 放126「シギラパーテイ!」 [趣味・カルチャー]

  

映像の原作となる「シギラの月」が完成して、ある成果を上げていることを知ったユニマット高橋社長とシギラ浜のある上野村が中心になって、ホテルブリーズベイマリーナで、出版を祝ってそのご苦労さんという意味を兼ねて、記念のパーテイが開かれました。


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  平良市の有力者を中心に数百人という招待者を前にして、先ず上野村の村長である川田氏がご挨拶をされて、私に感謝状と赤珊瑚の記念品が授与され、私の執筆に至るまでの苦心談などをお話しながら、やがてこれの映像化が実現しますように、宮木島としてのバックアップをお願いいたしました。


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  今回は上野村が中心となった祝賀会でしたが、平良市長も出席して下さって、これからの作業が上手く進められるように支援すると励まして下さいました。


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  そで宮古高校の女生徒が、「シギラの月」の感想を発表して下さいましたが、素晴しい報告で思わず握手してお礼を述べましたが、彼女も感激して涙を流してしまうという、何とも微笑ましい光景もあって、プロジェクトの仲間らは「女学生を泣かせてしまってしようがないな」などと冗談めかしてからかってきました。


 そのあとでこの日の止めとなる企画の発表が行われることになりました。ユニマット社長高橋洋二氏が登壇して、あるデザインのデッサンを示しながら、映画が完成することになったら、ニューヨークのデザイナーによってデザインされた、こんな女神シギラ像をシギラ浜に作って、ここを恋人の集う浜にいたしますという発表をしました。


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  いよいよパーテイの儀式は終了して、酒宴となり、宮古の舞踊団による祝いの舞が演ぜられる中で、酒宴は一気に盛り上がって、かなり遅くまでつづきました。


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  何かこれですべてが終了してしまったような気分になるところでしたが、実はこれからアニメーション映画をサミットに出席する世界の要人に置見せるという段取りを作ることを準備しなくてはなりません。


 プロジェクトのスタッフはそれぞれの分野で協力を取り付けなくてはなりません。勿論私はTMSの作業が取り掛かって貰えるように整えなくてはなりませんが、その段取りまでで、金銭的なことは委員長である菅原氏に任せ、私は沖縄の各放送界へご挨拶をするために、沖縄放送・琉球放送・沖縄朝日放送などの重役に協力を要請して連日走り回りました。財界関係へのあいさつ回りなどは小川・藤本氏が担当し、政界関係への働きかけは、菅原氏が結婚の時の仲人が政界での大物であったこともあって任せていたのですが、そんな彼から沖縄議員の下重氏と会うというので同行して欲しいという連絡があって、霞が関の議員宿舎へご挨拶に出向いたりもいたしました。


 兎に角必要なところへは、くまなく挨拶をして協力を要請したのですが、その成果について協議することになったのですが、当時の沖縄経済界の情況はとても沖縄サミットなどに協力と呼び掛けても、ほとんどいい返事はなく…というよりも、とても変事のしようがないほど疲弊していたのです。


 これはプロジェクトのみなさんが動きまわっていく間に感じたことでしたし、時には私にも、成果への働きかけ、経済界への働きかけで私が同行していったほうはが効果が期待できるという計算がある時には出かけました。


 しかし現在のままで作業にかかることは出来ないということになってしまって、TMSも実際の作業にかかることをためらい始めてしまいましたが、それを完全に否定してしまうこともできませんので、ついに「シギラノ月」をアニメーション映画として制作することは、断念せざるを得なくなってしまったのでした。


 会社の計算もあったのでしょうが、かなり後押しをして下さったユニマットニモ、これ以上協力をお願いすることは出来ないということになって、沖縄サミットに賭けた戦略は、ここですべて取り下げることになり、二年近くその実現のために奔走してきたチームは解散せざるを得なくなってしまったのでした。


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  1999年(平成11年)710日廣済堂出版から上下二巻が同時に発売されるのですが、影像化に関してはスタッフの努力にもかかわらず、頓挫してしまうことになってしまったのでした。お陰様でそれから3年したところで、講談社から話があり、歴史作品として大事にしたいので文庫として残したいというお話があり、2003年(平成15年)2月15日歴史作品として、講談社文庫として発売され命脈を保つことができたのでした。


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  1999年(平成11年)710日廣済堂出版から上下二巻が同時に発売されるのですが、影像化に関してはスタッフの努力にもかかわらず、頓挫してしまうことになってしまったのでした。お陰様でそれから3年したところで、講談社から話があり、歴史作品として大事にしたいので文庫として残したいというお話があり、2003年(平成15年)2月15日歴史作品として、講談社文庫として発売され命脈を保つことができたのでした。


 


 


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言霊謎解きの部屋☆ 言44「ひとくち言霊」(知識寺) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                     「若菜イラスト」.JPG

 

いつの時代でもそうかもしれませんが、巨大なプロジェクトを動かす時には、よほどその企画に対する賛同者がいないと、目的を達成することができないようです。


 古代における大プロジェクトといえば、何といってもあの奈良の大仏の建立ということになると思うのですが、それを発願した者が聖武天皇だったのですが、彼があの計画を立てるきっかけになったのは、西暦704年に河内の「知識寺(ちしきでら)」へ行って、丈六(じょうろく)の大仏を見たことがきっかけでした。


 この知識という言葉は、聞きなれない言葉でしょう。


 これは信仰を中心とした姿勢を保つ者たちのことで、異邦人たちが仏恩に感謝して功徳を積むと考えて、行われる事業にそれぞれの資力、財力を寄進したり、労力を提供することを言うのです。その素晴らしさを知った聖武天皇は、その知識によって寺を建設しようと思い立ちました。つまり勅願したものだったのです。


はじめは近江の紫香楽宮(しがらきぐう)に近いところに作ろうとしたのですが、それが果たせずに奈良の金鐘寺(こんしょうじ)・・・その後の金光明寺を造ることになったのでした。


  当時の日本の人口は、ほぼ八百万人と言われていますが、そのほとんどの者が東大寺の建立に動員されたと言われています。


 昨今はボランティアという社会活動が定着してきましたから、呼びかけ次第ではかなり大がかりなことでも出来るかも知れませんが、奈良時代という古代でのことです。ほとんどの人が農民として生計を立てている時代です。大規模なプロジェクトを組織して実行するにしても、それを実際に動かして行くのは各地から集められてくる成人男性たちだったので、彼らが半年も農作業から離れて東大寺の建設に駆り出されていくのですから、その留守を預かる者たちの苦労は更に大変なものでした。


 天皇の願いどおり、西暦七百五十二年に、「知識寺」の大仏の十倍もある大仏・・・蘆遮那仏(るしゃなぶつ)が完成したのでした。


やがて聖武天皇は、落慶法要の時、盧舎那仏と結ばれた紐を握りながら、病の平癒を祈ったといいます。


 それにしても現代では、これほど大きなプロジェクトを具現できるだけの知識の力は、結集できるだろうか・・・。


 国家権力の強さもありますが、それ以上にその実現を願う思いの深さが、果たしてあるかどうかが問題だなと思います。


 


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告知と放談の部屋☆ 思28「シギラの月発売!」 [趣味・カルチャー]

  

映像については、取材を重ねていくうちに、自由に物語が展開できそうなアニメーションがいいということになって、宮古特有の自然現象である神の島といわれていて、その島に住む者以外は絶対に島へ立ち入らせないという古来の伝承を護っているという大神島の近くで、毎年旧暦三月ごろの大潮の日に、それまで海面に見届けることが出来ない八重干瀬という珊瑚の島が浮上するという不思議な現象が起こるというのです。


 平良市総合博物館館長砂川玄正氏から与えて貰った資料を基に、小舟をチャーターしてその時まで待ってアタックしたこともありました。この日を待ち構えていた人々は観光船を繰りだしてその近くまで行き、あるところからは神秘の島へ向かって歩き、珊瑚の島に上陸して楽しむことができるのですが、実はこの海底から現われる島についての伝承に、シギラという女性が存在していたという伝承があるというのです。


 取材の拠点としたブリーズベイマリーナのあたりに広がるシギラ浜は、まさに伝承とロマンの海への近道であったように思えるのです。私はその伝承を村人から聞いた時から、一気に物語の世界を組み立て始めていました。勿論八重干瀬にも、ほとんど海水が引いて浮き上がってきた陸地を十数分歩いて渡り、暫く滞在して契約した船に戻ったこともありましたが、宮古厚生園保護課長で民話、伝承作家の佐渡山靖公氏などとの対話から、これまで日本でも本土で聞いているものとは違った、かなり南国の宮古特有の自然現象であったり、伝承伝説というものが、かなり現実のものとして存在していたような説得力で語られるのです。


 私たちはその度に現地へ赴いて調べました。


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フロリダ、ハワイといった世界のリゾート地が存在する北緯24度~25度、東経125度~126度に存在する南海の楽園は、古代では密牙古島といったそうです。


 半年ほど費やして、点々と調査をしながら、私たちは平良市総合博物館館長砂川玄正氏としばしば対話の機会を作って頂き、誕生以来宮古がどのような歴史を積み重ねて来たのかということも話して頂いた物です。


 これは高橋社長から教えて頂いた、上野村の村民である新里清治氏から聞いた伝説のシギラという女性にまつわる伝承がヒントになりましたし、毎年決まった時に海を越えて大量の竹がシギラ浜に流れ着く話についても、シギラとのかかわりがあって台湾へ逃れた者が流してくるのではないかとまでいう推理をさせたりしました。


 まだまだ当時は一般の方に、沖縄はある程度認知されていましたが、それから300キロも彼方にある宮古島については、それほど広く認知されていなかったと思うのですが、今回のプロジェクトによって、少しでも多くの方に興味を持って頂けたらと思っていました。


 せっせと取材を積み重ねて行きましたが、その一端は地図に書き込んだところをご覧いただいただけでも理解して頂けると思いますが、珊瑚の島として誕生してから、さまざまな歴史の積み重ねをしながら、中国、台湾との密接な交流がありながら、今日に至るまでの、神秘のロマンに彩られた島の歴史物語が組み立てられたように思います。


 取材から東京へ戻って構想する歴史物語を組み立てながら、やがて伊豆一碧湖畔に立つ高橋洋二氏の経営になるホテルへ籠って、ついに「シギラの月」という南国に誕生した神秘的なロマンを書き上げたのでした。


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イラストにはまえからお付き合いのある天野喜孝さんにお願いいたしましたが、装丁に京極夏彦さんが加わって頂きました。現在では考えられない組み合わせだったように思いますが、如何にいろいろな点で異色作品であったことは言うまでもありません。


 当初からサイン会が企画されていましたが、まだ宮古島といってもそれほど認知がされていない時代でしたから、これまで関西空港を理利用されてやって来られる観光客がほとんどでしたので、東京方面でのサイン会はほとんど組まれていませんでした。


 お陰様で小説は発売と同時に、地元の宮古島では直ぐにベストセラーとなって書店に発表される状態でしたが、その前には放送にも出演したりして、宮古島というところを改めて認識し合っていくきっかけになったら嬉しいと思いました。


 当初出版を担当してくれた廣済堂からは、早草れいこさんという編集が宮古でのサイン会にも参加して手伝って下さいましたが、それから後の関西を中心にしたサイン会にも付き合って貰いました。


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お陰様で小説は発売と同時に、地元の宮古島では直ぐにベストセラーとなって書店に発表される状態でしたが、その前には放送にも出演したりして、宮古島というところを改めて認識し合っていくきっかけになったら嬉しいと思いました。


 当初出版を担当してくれた廣済堂からは、早草れいこさんという編集が宮古でのサイン会にも参加して手伝って下さいましたが、それから後の関西を中心にしたサイン会にも付き合って貰いました。大阪の紀伊国屋書店、ジュンク堂、名古屋の丸善、三省堂では大変多くの方が集まって下さったように思います。


        「シギラ・大阪紀伊国屋」1.jpg 「シギラ・大阪・ジュンク堂本店」1.jpg 「シギラ・名古屋・丸善栄店」1.jpg 「シギラ・名古屋・三省堂」1.jpg


  


出版と同時に沖縄大学の教授で知り合いになっていた方の呼びかけで、講演会まで用意されました。それほど宮古島に関しては、沖縄ですらあまり関心の集まるところではなかったのです。


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 大学の嗅いだ教室にはいっぱいの聴衆に集まって頂きましたが、中にはミス沖縄まで「シギラの月に感動してやってきて下さったのは、嬉しいことでした。


 いよいよ私たちはこの作品の映像化に関して、動かなくてはならなくなりました。


 すでにユニマットからは3億円は出資して下さることになっていたのですが、映画を沖縄サミットで各国の首脳に見て頂くためと、それ以外の観客動員を考えると、各方面での支援が必要です。その為の活動をしなくてはなりませんでした。


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告知と放談の部屋☆ 放124「ああ、喫煙で苦闘!」 [趣味・カルチャー]

  沖縄の宮古島へ一週間単位で取材に向かうことになりましたが、その前に一寸気になる問題に直面いたしました。


 現在はまったく喫煙はしなくなっているのですが、当時は大変なヘビースモーカーで、原稿執筆中も常に左手に喫煙中のタバコを持ったまま、右手一本で作業をつづけていましたのですが、作業中に一本吸い終わったら直ちにまた新たなたばこを左手の指に挟んでいるという状態でした。そして夜遅くなっても、買い置きを忘れた時などはどんなに遅くなっても、その購入に出かけてしまったくらいでした。



 勿論健康に良くないということから、何度も禁煙をしてみようと挑戦したこともあったのですが、その試みはほとんどの場合失敗していたのです。しかし宮古島の取材が決まった時などは機内での喫煙はかなり厳しくなっていて、ごく限られた場所として後部座席の一部を喫煙に解放されていた程度になっていたのです。ところがそれも次第に厳しくなり、愛煙家にとっては実に厳しい制約が行われるようになって、よほど覚悟をしないと旅客機には搭乗できなくなってしまったのです。


兎に角今日のお話は、辛うじて喫煙が許される席が用意して頂ける時代でのお話なのです。折角宮古島の取材の話をしようというのに、どうしてこうして真っ先に喫煙についてお話をすることにしたのかといいますと、今回のプロジェクトチームとして活動することになった四人・・・私をはじめ菅原・小川・藤本氏は、揃って大変な愛煙家であったからなのです。


 羽田の国内線に登場するのですが、一同は兎に角宮古島まで行くには、待合室で待機する時間を入れると、5時間は我慢をしなくてはなりませんので、兎に角許された時間のぎりぎりまで思い切り喫煙して、搭乗してからは兎に角我慢しきろうという決心でいたのです。



 刻々と我慢の時が過ぎていくのですが、四人とも素知らぬ顔をしているのですが、なんとか一時間は我慢できたものの、たちまち苦しくなってしまって、菅原氏がスチュアーデスに頼んで最後部に席を作って貰って移動していきました。それを見た途端に我慢をしていられなくなった私を含める残りの三人も、慌ただしく席を立って後部座席へ移ったのでした。嫌煙が嫌煙となった現在の自分を思いますと、何とも懐かしい思いでの位置ページではあります。宮古空港に着いた時には、真っ先に喫煙所へ走って、思い切り喫煙をして一息入入れてたのでした。



 沖縄といえば、私はこの時から考えると10年以上間に、「宇宙皇子」を執筆中に、「愛しき太陽(てだ)に死す」という作品を書きましたが、沖縄取材を申し出て那覇へ行ったことがありました。イラストのイノマタムツミさんも同行しましたが、全日空ホテルのある万座毛というところは、万人が集まれるという平原ですが、観光地としてもよく知られたところで、眺望の素晴らし所です。そのスイートルームに一人づつという贅沢な部屋を取って頂きましたが、兎に角南国らしい雰囲気があって素晴らしい景観が一望に臨めます。しかしあまり広い部屋がいくつもあった上に豪華で広いお洒落な部屋ばかりなので、一人で過ごすにはいささか時間を持て余してしまいます。



 この時は沖縄の神の島といわれる久高島へ渡ったことがあったのですが、星の砂浜というところで楽しみ過ぎて、帰りの船に間に合わなくなりそうになって閉まったために、私もいのまたむつみさんも大疾走で船着き場へ戻ったという、危うく小島に置いてきぼりになってしまいそうになった経験がありました。



そんなある日宿泊している全日空ホテルのあたりの丘は・・・で古代では深夜男女の縁があって、その最後には男女たちが舞を舞いながら一緒になる相手を決めていったといいます。その最後に女性が身に着けていた領巾(ひれ)という女性の魂の籠った肩掛けを、気に入った男に与えることで二人は闇の中に消えていったという伝承があったのを知りました。古代では日本でも沖縄でも同じような男女の出会いを求める深夜の宴が開かれていたようです。



 この時の取材では文化人の会に招待されて宴会に出席いたしましたが、私もいのまたさんも沖縄料理には一寸馴染めなくて困りましたが、今回の宮古島の取材は、スタッフが一緒なのですべて一緒に行動しましたので、飛行機に搭乗する時以外に喫煙問題で苦しむことはなく取材活動に精を出しました。


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  出発前に集まって、取材にいい成果があるようにと、会食をして最後の情報を整理したのでした。



 既にユニマットの宮古島開発担当の大塚昭人氏は宮古島の指揮権を握っている平良市市長に連絡とってくれていたので、ホテルへ着いてから早速市長に挨拶に伺い、宮古島の新しい魅力を発見するために取材を始めますというご挨拶と、支援をお願いしてホテルのある上野村の村長にも挨拶に向いました。


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「ブリーズベイマリーナ・2」1.jpg 「ブリーズベイマリーナ・3」1.JPG 「ブリーズベイマリーナ・5」1.jpg 「ブリーズベイマリーナ・6」1.jpg 「ブリーズベイマリーナ・4」1.jpg


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スケジュウルとしては一回の取材で一週間を費やして帰京して素材の整理をしながら次の取材地を決めようということにして、兎に角取材のはじめは先ず博物館へ行って、館長から取材の目安になる情報を手に入れることにいたしました。


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  かなり丁寧に宮古島についての情報を手に入れましたし、普通では手に入れることの出来ない資料をかなり頂きましたが、その中でも宮古島の誕生についての話にはびっくりさせられました。


何と宮古島は、海底火山の爆発で誕生したサンゴの島なのだということです。


これまでほとんど沖縄についての知識のなかった私たちには、驚異の情報だらけでした。その中でも一番の情報は、沖縄ではハブに襲われるという心配があったのですが、宮古にはハブが存在しないということが館長からもたらされたことでした。これも海底火山の爆発で誕生したことと関係があるようで、実に新鮮な情報ではありました。



 


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