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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑26 [趣味・カルチャー]

「むかしの鶏」

 最近聞えなくなったものの一つは、何といっても代表は犬の遠吠えでしょう。昔は夜などに、町のあちこちから犬の遠吠えが聞こえていたものですが最近はほとんど聞かなくなってしまいました。犬がそれぞれ交信する機会であったのではないかと思うのですが、夜になってあっちこっちから犬に吠えられては、うるさくてたまらないという人が出てきてもおかしくはありません。そんな訴えでも多くなったのがきっかけになったのかもしれませんが、最近は静かな夜を過ごしているのですが、考えてみると昔よく聞いたもので最近聞かない声問えば、鶏の声です。夜明けと共に結構町のあちこちから、コケコッコーという声が聞こえた者でした。最近は都会地の一般の住宅で鶏を飼うという人はいない所為か、ほとんど聞いたことがありません。

 これは雑談になるのですが、昔はコケコッコーと子越えていたはずなのですが、本によってはカカカッカーと鳴いていたというのです。

 カケが鶏のことだというのです。「庭つ鳥かけは鳴く」などと言っていたというのです。

庭で飼う鳥として、もともとカケと呼ばれていたのが鶏であったというおはなしです。一頃からか庭つ鳥が濁って、鶏となったということです。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その九の一 [趣味・カルチャー]

      第九章「人間関係をうまくやるために」(一)


        課題「生き方の違いを理解せよ」


 嵯峨天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。これまで戦いを行いながら、蝦夷の人間の生き方を理解しようという心境に達していたのでした。そして・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁七年(八一六)八月一日のこと


発生した問題とは


 夏のある日のこと、皇太弟の大伴親王と共に、皇后のいらっしゃる後宮で宴が催されると、親王に宝琴を下賜なさり、彼にそれを演奏させたりして皇后と共に楽しまれました。こんなことを催して、後宮と皇太子とを近づかせようとされたのでしょう。こうして身近なところでは、気遣いも充分に発揮できるのですが、民との接点を円滑に作り出すのは大変困難です。地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。帝はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、


 「夷俘の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(おっそ)(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)


 俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。帝は彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように、指示をしていらっしゃったのです。


 嵯峨天皇が治政を率いるようになってから、もう七年にもなります。大分為政についても落ち着きを持って運営していらっしゃるのですが、政庁を悩ませてきた蝦夷(えみし)俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として連れて来て、各国の民と共に暮らせるようにすることはできないかと、いろいろな面で廷臣たちと腐心していらっしゃいました。伊勢神宮司の大中臣朝臣清持(おおなかとみあそんきよしじ)という者が、規則を守らずに仏事を行ったという問題が取り上げられ、神祇官(じんぎかん)卜占(ぼくせん)したところ、そのようなことをすると祟りを招くというのです。天皇は直ちに大祓いをするように命じて彼を解任したりしました 


為政者はどう対処したのか


さまざまな方面に細心の注意を払っていらっしゃるのですが、地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。帝はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、


 「夷俘の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(おっそ)(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)


 天皇は俘囚よりも、むしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように指示をしていらっしゃったのです。


民の中で抵抗民族であった蝦夷がいるが、朝廷に従がった以上民と差別をしてはいけないと諭すのです。


嵯峨天皇の博識による先見性による指摘です。つまり相手を理解せよというのです。こんな問題はまさに現代的な問題でしょう。気の抜けない問題が山積です。


さまざまことに気遣いをなさる帝は、それだけ目に見えない疲労が蓄積してしまわれるのでしょう。その処理のために疲れて、とうとう病臥してしまわれたのでした。しかし天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。蝦夷との共存をするために、その生き方を理解しようという心境に達していたのです。正に異民族との共存ということでは、まさに現代的な問題提起に、なっているのではないでしょうか。


温故知新(up・to・date)でひと言


 確かに人にはそれぞれ違った暮らしのスタイルがあります。まして今回の問題のような違った文化をもった民族の場合は、その暮らし向きについての理解をするということは、容易なことではありません。しかしそれだからと言って、お互いの無理解をそのままにしてしまっていては、永遠に対立は解けないでしょう。先ずはそれぞれの生活の情報を手に入れておいて欲しいということが大事ですが、先ずはマジョリテイ側のマイノリテイに対する度量が必要です。広く包容力が求められるような気がします。清濁(せいだく)併呑(へいどん)といって、すべてを飲み込んで向かい合う、気持ちの広さが必要です。しかし古来磨斧作新(まふさくしん)という言葉があり\ますが、どんなに難しいことでも、忍耐強く努力すれば必ず成功するということが云われます。人間生来の善意でもって、打算抜きの安らかな気持ちが無くてはなりません。そして生知安行(せいちあんこう)という言葉を思い出しましょう。人間生来の善意でもって、打算抜きのやすらかな気持ちで行うことで、困難な問題も解決の道が開かれます。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ8 [趣味・カルチャー]

                                                          「原稿執筆中」1.jpg

                                               「更新変更のおしらせ」

 


   本日四月三十日は更新日ですから、いつも通り行いますが、今週末の昭和の日のお休みがあるのをきっかけに、いよいよ五月の連休に入りますので、今週は来週の五月七日の分も更新することにいたしました。


お出かけになられるのもいいし、自宅でゆっくりなさるのもいいでしょう。そんな時のためにブログでもゆっくりご覧になられるのもいいでしょう。


私もこの機会にゆっくりと休ませて頂きます。


どうぞよろしくお願いいたします。


 


                          藤川桂介


 


令和四年四月三十日 

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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言25 [趣味・カルチャー]

「転生」

宗教界、特に仏教の世界でいわれる言葉に、「転生」ということが言われます。

それでいうとしたら、私たちの暮らす社会・・・つまり現世は、苦界(くがい)ということが言われています。言うまでもなく、楽しく、嬉しい、幸せを感じる時間よりも、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、厳しいこと等々、他得られないようなことを味わうことが多い世界です。

私たちは次の世界・・・つまり何の苦しみもない安穏な暮らしの出来る世界で生きられるような時がきますように、苦界で修業しているのです。だからこそその辛さに耐えられずに、やけを起こしたり、無茶苦茶をやったりしてしまうというようなことをしてしまうと、苦界から別の世界へ移って、別の命として生きることは出来なくなってしまうのです。

「転生」というのは、別の世界で、別の命を貰って生きつづけるということです。

時には別の姿、別の命となって生きて行くということです。苦界での徳の積み方に寄りますが、歴史上の人物たちも、現代に転生して、別の姿で生きているということも出来るのですが、時には人間でないかもしれません。昆虫に転生することもあるかもしれません。兎に角、理想の世界へ転生するには、この苦界である現世で、どう生きて行くかが大事なようです。

一生懸命に生きて行きましょう。結果を考えないで、真っ直ぐに生きて行きましょう。そんなことが出来難い世の中ですが、それを貫くことが大事なのです。果たして、あなたはどんな世界、どんな命として「転生」することが出来るのでしょうか。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の六 [趣味・カルチャー]

     第八章「説得力のある訴えをするために」(六)


       為政者の課題・「地方は特色を活かせ」


 地方はその地方の特色を取り上げて魅力的にしていかなくては、苦境から脱することが難しいということに気が付いて努力し始めたのですが・・・。


為政者・仁明天皇


天長十年(八三三)五月十日


発生した問題とは


 この都の二月に淳和天皇から譲位されて、皇太子の正良親王が即位して、仁明天皇となりました。


 「武蔵国は広いので、旅をするのに困難が多く、公私の旅行で飢病に陥る者が多数にのぼります。そこで多摩・入間両郡の郡境に悲田院を置き、六人の官人の俸禄をさいて、食料の原資とすることを企画いたしました。割いた俸禄は出挙に登録(利息付貸付)しておきます」(続日本後紀)


朝廷はそれぞれの国の特色を活かそうと考えた結果、相撲が民の娯楽でもあるし、武事の訓練にも欠かせない、最も大事にしているものであるという知らせがあったので、それを利用しようということになって、越前・加賀・能登・佐渡・上野・下野・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・安房等などの国に指示して、強力の持ち主を探し出して、朝廷へ差し出すように指示したりいたしました。これまでは豊作を祈念して、神泉苑などではしばしば相撲を取らせたりしてきたのですが、武事にもその訓練のために力が利用できるということで工夫されたのでしょう。地方によって問題も多く、それを解決してくれという要求も多いところから考えられた施策でした。


ところがようやく新たな天皇による為政が始まったばかりだというのに、平安京には相変わらず異常気象が襲いかかり、北山に黒雲がたちこめて山嶺が見えなくなり、終日寒くて多くの人が綿入れを着こんだということがいわれました。しかし現実には、そんなことでは片付かない問題が持ち込まれてくるのです。即位間もない時には馴れないさまざまな行事に遭遇しても、実務に詳しい廷臣たちが就いていますから、為政に関しては支障のないように処理してくれています。間もなく持ち込まれたのは大和国の問題です。年来穀物が稔らないために、規定の稲の貸し付けもできないので、富裕な者から稲を借り受けて飢民の生活の足しにするのですが、その後官人は稲を貸し付けたまま利子を回収することを怠ってしまうということが起こっているのです。国の財政を考えると、収穫時にはきちんと返済させるようにしなくてはなりません。そんなところへ後追いするように京、畿内・七道諸国が飢饉に見舞われてしまいます。


為政者はどう対処したのか 


 「ひとたび穀物が不足すれば、百姓は不満を抱くものなので、必ず貧乏の者を救済するという原則に従い、併せて勧農を行うことにする。これは病む者を救い、国家の基礎をかため、民の生活を安定させることである。時々に沿革はあっても、みなこれを目的にしている。朕は謹んで天命を受けて人民を労り、世界を和平にする方策を立て、仁徳が行き渡り、人々は長命を享受できるようにしたいと思っているが、聞くところによると昨年は穀物がはなはだ稔らず、民は飢え病になっているという。朕は支配者として臨みながら、民を安らかにすることができていない。静かにこの事を思うと憮然たるの気持ちの止むことがない。ここに暑季が始まり作物が繁茂する時期に当たり、人民を憐れむ気持ちがなければ、恐らくは努力がたりないことになろう。京・および畿内・七道諸国の飢民に対して、物を恵み与え、その生活を支え済うことが出来るようにせよ。ことは国司に委ねるので、充分に考慮し、努めて恵みが行きわたるようにし、朕の意とする所に沿うようにせよ」(日本後紀)


天皇はそうした厄介な困難に対処することで、お疲れになって、病を得てしまわれるのでした。


公卿たちは殿上に控えて、京の西山で修行する仙樹(せんじゅ)という


名の呪術で知られた僧侶と僧都らが、共に天皇のために祈祷を行った襖七条と錦七百屯を七大寺(東大・興福・元興・大安・薬師・西大・法隆寺)に分けて送り、転経・薫修(香気が残るように影響を生み出すよき修行)を行って、直ぐに病が癒えるよう祈願した。しかし諸国では疫病によって若死にする者が多いということを聞いた天皇は、修善(しゅうぜん)(仏教の良き修行)なくしてどうしてこの災いを(はら)うことができようか。諸国に司令して修練を積んだ僧侶を、大国では二十人、上国では十七人、中国では十四人、下国では十人程呼んで、三ヵ日間、昼は『金剛般若経』を転読し、夜は薬師悔過(やくしけか)(薬師如来を本尊として懺悔する仏寺)を行なえ。布施は、仏前に穀十斛、僧侶に三斛を施せ。正税をもって当てがうこととし、精進に努めさせよと指示されると、更にこうおっしゃいました。


「雲雨により天は広く慈しみを下し、恥を耐え忍び他人の欠点に寛容であることが君主のとるべき態度で、これより恩沢を施すものである。朕は謹んで皇位に就き政治のあり方について諮詢(しじゅん)し、人民を大いに庇護し、安んじて生活できるようになることを期している。ところで、罪人を放免する赦令は、本来悪人にとり好都合で、暴れ馬に喩えられる危うさを伴う施策である。朕はこのことをしらないわけではないが、悪を悔い自らを新たにし、旧悪変じて善へ遷(うつ)るようにさせたいと思う」(続日本) 


罪人に対する扱いについての指示をされると、この頃疫病が発生し、しばしば若死にする者がいると聞いている。天下諸国に司令して、疫病をもたらす疫気を謝絶し、この災いを攘うべきである。ただし、病人に対する加薬や潔斎については従前の決まりに従ってやれとおっしゃったのでした。


地方の問題に取り組み始めた時に病臥してしまわれたのですが、間もなく回復されるのでした。


兎に角地方の特色を活かしていこうとし始めたところです。正に現代的な課題だったのです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 現代の地方創世大臣はそれを強力な形で行おうということだったはずですが、はたしてそれは適切に、有効な形で行われているでしょうか。それぞれ地方には地方の特色があるのだから、それを活かしてその地方を活性化しなさいと言うのはすでに平安時代に行われた大変先進的な発想に思えてなりません。つまり地方は情勢の変化によって「臨機応変(りんきおうへん)に適切な対応処置をとることを促しますし、為政者はそこに住む民が何を求めているのかということについて施策を考えて、政治家はよく気が利いて世話のいき届く公僕でなくてはなりません。そんなことから使われる言葉に、「麻姑掻痒(まこそうよう)という言葉があります。中国の伝説的な仙女といわれる麻姑は、爪が長いので背中が痒い時に借りて掻いてあげるという伝説から生まれたものです。民がこうあって欲しいと思うことを、少しでも早くやるということが大事です。そんなことを考えると、地方にとっては、先ず大都会との連携を速やかにする、


通八達(しつうはったつ)が大事です。つまり道路が四方八方に通じていて交通が便利であることです。さまざまな経済、文化が取り入れられるようにしておくことが大事ということではないでしょうか。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑25 [趣味・カルチャー]

  「領袖」

 最近の自民党の派閥について触れますと、安倍派、茂木派、麻生派、岸田派、二階派、森山派、無派閥というものがあります。それぞれは清和政策研究会94人、平成研究会志公会50人、宏池会45人、志帥会43人、近未来政治研究会7人という具合に、派閥には従う同志がいるのですが、どの派閥にもそこの繋がる議員を束ねる統率者がいますが、それを一般的に「領袖」という言い方をいたします。この他に派閥を離脱している衆議院議長の細田博之(安部は)、参議院議長に山東昭子(麻生派)という人がいます。が、いずれにしても、銀たちは領袖の目指す方法に向った活動をしているのですが、やがてその領袖が国の為政を託された時には、その手足となって活躍する大臣に指名されて、その時その時の政治を動かして行きます。

 もうご存じでしょうが、現在は第三派閥である岸田派の領袖である岸田文雄氏が総理大臣となって為政を仕切っていらっしゃいます。

 それぞれの派閥では、その領袖が為政の最高責任者・・・つまり総理大臣になるのを目指して活動するのですが、その結果目的を果せば、自分にその恩恵が回って来るわけです。

 その弊害のために、どうしても年功序列が尊重されたために、委員会での野党との質問に満足な返答が出来ない大臣が登場して顰蹙を買ってしまうということがかなりありました。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の五 [趣味・カルチャー]

   第八章「人間関係をうまくやるために」(五)

    為政者の課題・「管理のあり方を考える」

一つのことを徹底させるためには、それに関わることについては、徹底的に気配りをしていなければ、一方では成果を挙げても、一方では危い面が出てきてしまうのではありませんか。

 かなり前から親交のある、朝鮮半島北部の渤海(ぼっかい)國はもちろんのこと、異国からの来訪者も、次第に多くなってきていたのですが、その宿泊、接待などに使われていた東西に作られている鴻臚館(こうろかん)(筑紫、平安京に設けられた外交使節の宿泊施設)が、昨今は病人が寝泊まりしたり、喪に服している者が謹慎生活をするための場として使ったりしているというのです。そのような勝手な使われ方をしていては、いつの間にか建物や垣根を壊したり、庭を汚したりすることを、きちんと管理できないことは明らかです。帝は京の中の取り締まりをしたり、官人の綱紀粛清に努めている弾正台(だんじょうだい)(京内の官人の綱紀粛正を司る)や、京の行政、訴訟などを取り扱う、左右の京職(京の行政、訴訟、租税、交通の事務を行う)に取り締まるように命じたりもされました。迎賓館の整備と同時に、しっかり警備せよと指示したことは大事なことです。公共施設も管理が杜撰(ずさん)だと荒れてしまうはずです。

嵯峨天皇は施設の管理を指示すると同時に、それに使う馬についても考えました。この頃馬に関しては軍用としても大変重要なもので、管理ということを徹底させるためにも警備に使う馬も不足してしまっては意味がなくなってしまうし、備えるといっても馬の整備ができていなければ、目的を果たすことができません。

 軍では馬が重要だが、今聞くところによると、「権門貴族や富豪の者たちが辺境に使いを遣わして、夷狄(いてき)から馬を求め、そのため辺境では騒動が持ち上がり、兵馬が不足している」という。延暦六年(七八七)でも陸奥・出羽国での馬を買い入れは禁止しているが、それを守らなくてはならないと考えられ、違反する者は厳しく取り締まり、買った馬は没収としました。こんな指示を出されたのです。一つのことを徹底させるためには、それに関わることにも気配りをして指示をしなければ、一方では成果を挙げても一方では危い面が出てきてしまいます。このようなことは現代にも起こりそうで、注意を要するのではないでしょうか。

為政者・嵯峨天皇

弘仁六年(八一五)六月二十七日のこと

発生した問題とは

 春になると嵯峨天皇は、神泉苑で花宴を催して文人たちに詩を作らせて楽しんでおられましたが、そんな中でさまざまな情報も手に入れていらっしゃいました。

やがて天皇は四月に祖霊との邂逅を求めるために、気になっていらっしゃった近江國の韓埼(からさき)へ、皇太弟の大伴親王と共に行幸されました。

その時崇福寺(そうふくじ)の門前へさしかかると、大僧都永忠(ようちゅう)や護命法師たちが、僧を率いて門外においてお迎えいたしました。帝も輿(こし)を降りられて金堂に上がられ、仏に敬礼(きょらい)されると、その後、永忠大僧都の案内で、祖霊桓武天皇が天智天皇を追慕して長岡京時代に建立されたという梵釈寺へ向かわれたのです。天皇はそこでも輿を降りられ、眼前に広がる琵琶湖の眺望を楽しまれ詩を作られましたが、それを皇太弟と多くの群臣たちが唱和いたしました。文人でもある帝にとって、最も満足できる瞬間であったかもしれません。やがて帝は琵琶湖へ船を浮かべられ、国司が用意したその土地の歌舞をお楽しみになられました。やがてそんな天皇に永忠は、唐国で留学中に学んだと思われる、茶を点じて給仕されたといいます。それはそのころの最も新しい文化であった、唐風のおもてなしであったはずです。祖霊との絆もつなぎとめられた天皇は、清新な気分で京へ戻られると、近江で大変気に入られた茶を作るように、畿内と近江、丹波、播磨などに指示をなさって、毎年献上するように命じられたのでした。ここでいう茶というのは団茶(だんちゃ)といわれるもので、茶をボール状にまとめたものに湯を通して使ったと思われるものです。

国の財政がひっ迫してしまっているのを知った天皇は、自らの子供が多く、皇族たちを養育するためにかなりぼうだいな経費を要するということも、財政を苦しくさせている原因の一つであることを知って、前代未聞の臣籍降下という思いきった決断を行われたのですが、それは口先だけの、思いつきで済ませるような、いい加減な決心を述べられた決心ではありませんでした。

為政者はどう対処したのか

 天皇は六月になると臣籍降下させた、はじめの皇子、内親王たち八人を、右京から左京に移しましたのです。町の人と接しながら、生きていけということだったのでしょう。

 天皇は各地からやって来る訴えに応えていきます。

 「畿内・近江・丹波等の諸国年来旱害が頻発し、稼苗が損害を被っている。他方、国司は漫然として何もせず、百姓の被害が大きくなっている。中国では孝婦が無実の罪で、処刑されたあと旱魃に悩まされ、能吏百里崇が旱天の徐州

の刺史になると、甘雨(良き雨)が降ったと伝えられている。これにより、禍福は必ず国司によることが判る。今後、日照りとなったら、国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、狎れ汚すことのないようにせよ。もし、効果がないときは言上せよ。もし、効果がないときは言上せよ。以上を恒例とせよ」(日本後紀)

 するとそれから間もなく、右大臣藤原園人が、先祖のことについて政庁に訴えてきました。

 「私たちの高祖である大織冠(だいしょくかん)内大臣藤原鎌子(ふじわらかまこ)(鎌足)は、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代に天下を統一して(ただ)し治めた功績により、封一万五千戸を賜り、嗣子(しし)正一位太上大臣不比等(ふひと)などは父を継承して大臣を排出する家風を立て、これにより慶雲四年に勅により封五千戸を賜りました。不比等(ふひと)大臣が固辞しましたため、天皇はその願を許し、二千戸に減定して、子孫に伝えることになりました。天平神護元年に従一位右大臣豊成(とよなり)が上表して返還しましたが、宝亀元年に勅により返賜され大同三年に正三位守右大臣内麻呂(うちまろ)が上奏して返還を申しましたが、許しを得られませんでした。伏して格別の封戸支給の理由考えますと、先祖の功労によると思いますが、いま私たちは陛下のますますの寵愛を受けながら、僅かな功績もなく、御恩を(こうむ)りながら深い山中に姿を隠すように責務を果たしていません。それなのに重ねて格別の恩寵(おんちょう)を貪り、久しく年月を経て、転地に俯仰(ふぎょう)して恥じ恐れるばかりです。これでは満ちれば欠けるという天の戒めに背き、必ずや大臣としての任に堪え得ないことになりましょう。伏して、伝えられてきた功封を返還してわずかでも国の経費を補い、少しでも職責を果たさず禄を貪るという事態をなくすことを請願致します。よく考慮され、私たちの心からの願いを許して下さい。これにより私たち一門の幸いが永続し、世の批判も止むことでしょう。真心に迫られるままに、謹んで表を奉呈してお願いいたします」(日本後紀)

 嵯峨天皇はそれを許しませんでした。

 現在は、とてもそれを許す余裕はまったくありません。

 天皇には実に様々な問題を処理していかなくてはなりません。そのために一つのことを徹底させるためには、一方のほうで不都合が起こってしまうということもあるようです。如何に天皇も真剣である限り、こういうことも起こることがあるでしょう。組織の頂点にある者は、様々なことに関わって処理しなくてはなりません。それは現代でも同じと言っていいでしょうし、現代は更にこれ以上の問題を処理しなくてはなりません。鴻臚館のことについても、現代ではあちこちにインフラといわれる公共工事で無駄なものを作ってしまって、ほとんど使われないという状態で放置されていたものがかなりありました。

 兎に角指揮を執る者は、それなりに毀誉褒貶(きよほうへん)が問われることを覚悟で問題の処理をしていかなくてはなりません。一方ではいいが、一方では困った状態になっていることもあります。よく廃屋となった建物を新たに再生しようとは思っていても、予算の関係で放置しているうちに、いつの間にか犯罪の巣窟になっているといったことが報道されるようなことが起ったりもいたします。

温故知新(up・to・date)でひと言

 そんなところを利用して困った人を助けようとする企画があっても、そこが悪用されてしまったら、「浮石沈木(ふせきちんぼく)というものです。善悪が転倒して物事が逆さまになるということです。「家之狗(そうかのいぬ)といって、見る影もなく元気をなくして痩せ衰えている人のような者は、救ってやらなければなりません。「窮鳥入懐(きゅうちょうにゅうかい)困窮して頼ってくる者があれば、どんな理由があっても助けてやろうという気持ちは大事にしなくてはならないのではないでしょうか。

 忙しさにかこつけて、手落ちがあまり多くならないようにしなければなりませんね。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言24 [趣味・カルチャー]

「てるてる坊主」

 季節がそろそろ本格的に夏になる頃ですが、その前にどうしても避けて通れないのが梅雨の季節です。今日は久しぶりに裏通りを歩いている時に見つけた、珍しいものについて書くことにしました。

私が小学校に通っていた頃は、遠足や運動会がある時などは、その前の晩になるとテルテル坊主を作って、家の軒先にぶら下げて翌日の晴天を祈ったものですが、21世紀の現代ではどうでしょうか。

都会の住宅地でもあまりテルテル坊主の姿を見ることはなくなってしまいました。

調べてみると中国ではサオチンニャン・・・掃晴娘という人形を作って軒につるして、お天気になるようにと祈ったようです。紅と緑の着物を着せて箒を持たせた人形だそうですが、これがいつごろからか日本に伝わって、テルテル坊主になったといいます。

平安時代の日記文学として知られる、藤原道綱の母の書いた「蜻蛉(かげろう)日記」というものがありますが、五月四日に参詣するのを前にして、同行している侍女でしょうか、彼女は女神・・・ひな人形に新しい着物を三つも縫って着せ替えてやり、翌日の晴天を祈ったことが書いてあったりします。余談になりますが、まだこの頃では雛祭りは三月の風習とはなっていなかったのだそうですね。

本題に戻りますが、いわゆる通称てるてる坊主と言われているものには、本来「てれてれ法師」とか「てるてる法師」「てりてり法師」等とも呼ばれていたということが言われているようで、もしそれをやって効果があった時には、墨で人形に目を書き入れてお神酒を備えた後で川へ流したということです。

思わず少年時代を思い出したので、いろいろと調べてみました。

兎に角スポーツも行楽も活発になっていく季節になりますが、コロナ・オミクロンに対する用心だけは、しっかりと忘れないで欲しいと思います。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の四 [趣味・カルチャー]

   第八章「説得力のある訴えのために」(四 


    課題「貧すれば鈍する」


 今回敢えて現代の問題として取り上げたのは、怨霊による被害という問題ではありません。冒頭にあった公卿の言葉の中にあった「貧すれば鈍する」ということですが・・・。


為政者・嵯峨天皇


光仁十年(八一九)二月二十日のこと


発生した問題とは


 新年を迎えたのですが、天災による困難は前年から引きずったままで、朝議において公卿たちからは、次のようなことが訴えられます。


 「年来不作で、百姓が飢饉になっております。官の倉は空洞化して、恵みを施すに物がありません。困窮した民は飢えに迫られると、必ず廉恥(れんち)の精神を忘れてしまいます。私たちは使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収穫時に返済させることを要望いたします。こうすれば冨者は自分の富を失う心配がなく、貧者は命を全うする喜びを持つことが出来るでしょう」(日本後紀)


 それには天皇も直ぐに納得されて許可を出しましたが、ふと昨年のことを思い出していたのです。


 天皇は鬱積しがちな気分を開放しようと嵯峨別院へ行かれたり、神泉苑へ出かけられたりされるのですが、従った重臣達にこんなことをおっしゃいました。


 「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者は物を(すく)うことを何より重視し立派な精神を()み行うものである。朕は日暮れ時まで政務に従い、夜遅くなっても寝ずに努めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では天を動かすことができず、充分な調和を達成できないまま、悪い(しるし)がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して、転がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。恐らくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのではあるまいか。朕は天が下す刑罰を恐れ心が安まらない」(日本後紀)


 それでも民が理解してくれているか判らないのです。


その日任官のあった者に対しては、次のような(みことのり)をされました。ところがそれから間もなく霧のかかった天空には、凶兆といわれる白虹が現れたりするのです。それから間もなくのことです。山城(やましろ)美濃(みの)若狭(わかさ)能登(のと)出雲(いずも)の国が飢饉となったという知らせがあったのです天皇は直ちに


「倉庫の貯えが尽き恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。貸付額は(しん)(ごう)(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ」(日本後紀)


 なんとか困難を克服したいというお気持ちでいっぱいでした。


一度は青麦を馬の飼料にすることも許可したのですが、それを再び禁止せざるを得なくなってしまうのです。それほど飢饉の広がりは危機的だったのですが、前の年は「天下大疫す」といわれるほどの国家的な危機に襲われたのですが、それを嵯峨天皇と皇后の努力で何とか克服することができたのに、依然として天候の不順の影響が続いているのです。


為政者はどう対処したの 


 それほど飢饉の広がりは危機的だったのですが、前の年は「天下大疫す」といわれるほどの国家的な危機に襲われたのですが、それを嵯峨天皇と皇后の努力で何とか克服することができたのに、依然として天候の不順の影響が続いているのです。天皇はその翌日水生野(みなせの)で狩猟を行うのですが、夕刻になって河陽宮(かやのみや)へ入り、水生村の窮乏の者に身分に応じて米を賜った。しかし飢饉の状態はひきつづいています。なぜこうまで辛い日々がつづくのだろうかと心労が続くのですが、その脳裏に思い出されることがありました。


「朕に思うところがあり、故皇子伊予と夫人藤原吉子らの本位・本号を復せ」(日本後紀)


突然命じられたのです。


天皇がまだ神野親王と呼ばれていた時代の政庁で実力を発揮していた伊予親王が、突然平城天皇を呪詛したという訴えがあって、不孝にも逮捕されて飛鳥の河原寺へ送られ、祖霊桓武天皇に愛されていた母の吉子と共に自決してしまったのです。その後この事件については藤原氏による誣告(ぶこく)(事実を偽って告げること)ではないかということが秘かに囁かれるようになっていたことから、二人の名誉を回復して、その怨念を鎮めようとなさったのです。それほど飢饉の広がりは深刻だったのです。しかし今回敢えて現代の問題として取り上げたのは、怨霊による被害という問題ではありません。冒頭にあった公卿の言葉の中にあった「貧すれば鈍する」ということです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 暮らしに追われるようになってしまうと、その日、その時をどう生きられるかと動くだけで、現状がどう回避できるのかと、知恵を働かせることも、そのための努力をしてみる余裕もなくなってしまいます。ただただ為政者の施しが少ないと言って、不満を言うだけでまったく現状打破という希望が生まれる糸口も生まれません。我々に必要なのは、貧した時にこそ、なぜそうなのかということを考えて、その状態から抜け出るには、何が欠けているのかを突き止めて、それを払拭するための努力をしてみなければ、明日に続く希望は何も見つからないでしょう。古代も現代もなく、どうしても貧すると鈍してしまいます。貧する前にやるべきことがあるのではないでしょうか。これも「南橘北枳(なんきつほっき)」といって、風土によって人の気質が違うということもあります。「酔生夢死(すいせいむし)」といって、酒に酔い、夢を見ているような心地で、無為に一生を過ごしながら、それに気が付かないでいるような人もいます。今何が起こっているのかをしっかりと知って、そのために何をしなければならないのかということを、真剣に考えなくてはなりません。つまり「実事求是(じつじきゅうぜ)」という言葉を頭に叩き込んでおくことが大事です。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑24 [趣味・カルチャー]

                     「板についた」

 今回は板についたとは言っても、蒲鉾のことではありません。

 さまざまな仕事の世界でよく使われることばですが、特に演劇の世界ではよく耳にする言葉です。

 その世界に入って、長年研鑽を積んだ結果、1人前になったねという褒め言葉としてよく使われます。

「あいつもようやく板についたようだね」

 つい蒲鉾を連想してしまいがちですが、本来はこの場合に使われているのは「舞台」のことです。

 それを演劇の世界では舞台を「板」という慣例があることから、若手の俳優などが長年の修行の甲斐があって、演題の中でもいい役を無難にこなす様子を見て、「あいつもすっかりいたにちったね」などといって、芝居の中で違和感がなく演じられている姿を見た人がいう言葉です。

 それに対して「いや私はまだまだ蒲鉾役者ですよ」などと謙遜した言葉を受かったりするものから、青野とは蒲鉾から出た言葉と勘違いする人がおいのだと思います。

 これはやがて一般的な日常の中でも使われるようになって、結婚したばかりで手伝いにでた奥さんも、当座は物慣れなくて魚屋の雰囲気にはなっていなかったのだが、数年もするとすっかり威勢のいい魚屋の奥さんとして働いている)姿を見て、

 「あそこの魚屋の女将もすっかりいたについたね」

 お得意さんたちからそんな言葉が飛び出すほどになったりします。

そうだ国会でも何度も大臣の経験を積んでいくうちには、

「最近は質問されても、すっかり答弁も板についてきたね」

などといわれるような人もいますね。


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