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「嵯峨天皇現代を斬る」「参考図書」 [趣味・カルチャー]

 

「日本書紀」上(中央公論社)

「日本書記」山田英雄(教育社)

「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)

「女官通解 新訂」浅井虎夫     (講談社学術文庫)

「官職要解 新訂」和田英松     (講談社学術文庫)

「古今著聞集」日本古典文学大系      (岩波書店)

「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)

「四字熟語の辞典」真藤建郎    (日本実業出版社)

「四字熟語辞典」田部井文雄編      (大修館書店)

「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所     (三省堂)

「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)

「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)

「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)

「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書

)

「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)

「遣唐使全航海」上田雄(草思社)

「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)

「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)

「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)

「壬申の乱」(新人物往来社)

「日本の歴史 2」古代国家の成立 直木孝次郎(中央公論

社)

「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)

「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)

「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)

「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)

「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)

「大覚寺文書」(上)大覚寺資料編集室(大覚寺)

「大覚寺」山折哲雄(淡交社)

「宇治拾遺物語」日本古典文学大系 

「続日本紀」(臨川書店)

「新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)

「大覚寺 人と歴史」村岡空(朱鷺書房)波書店)


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言19 [趣味・カルチャー]

「冬至余談」

新しく太陽が甦る日として重要視されている日が冬至の日です。

この日を境にして日が伸びたり短くなったりするのを知った人間は、この日を境にして日脚が伸び出すこともあって、どうも夏至よりもこちらの方を大事にする傾向がありますね。

日本はもちろんですが、世界各地でも、その日のためのいろいろな行事が行われたりしますが、日本では柚子湯につかって体を温めるようなことが、日常的に行われていますが、日あしの伸びるこの日を年の始まりと考えた結果、冬の最中にお正月を迎えることになりました。欧米諸国が孤陽当たりをクリスマスの行事の始まりにしているのはそのためなのでしょう。

にほんでもブラ里などでは神の子が村の中を巡るという行事を行うところが大分あるように思いますので、クリスマスのような行事はすべて外国からの輸入品ということでもなさそうです。

昔から言われる言葉の中に、「冬至冬なか冬はじめ」というのがあるようですが、暦の上で冬至は立冬から立春の丁度真ん中にあたるのですが、実際は寒さの厳しくなり出すのが,冬至の頃からだという意味でしょう。

一月一日から二月十日までは最低気温が氷点下になったりしますが、こうした寒さが新年の始まりとなるのは古代人の太陽信仰の名残だということになりますね。

余談になりますが、日本の神社ではこの当時の日に「一陽来復(いちようらいふく)」というお札を出すところがかなりありますが、こうした事のためだと思います。

平安時代では桓武天皇(かんむてんのう)がこの当時の日でも朔旦冬至(さくたんとうじ)といって、ほぼ十九年に一回巡って来る十一月一日の冬至を大変大事にしていたという記録があるのです。

これからいよいよ一年が始まるのだという新鮮な気持ちになって正月を迎えたのでしょうね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の七 [趣味・カルチャー]

      第六章「非情な現世を覚悟するために」(七)


        為政者の課題・「神を利用するな」


弘仁三年(八一二)嵯峨天皇にとっては政庁を率いるようになって三年目のことです。


 嵯峨天皇はさまざまなことに余裕を持って為政を率いるようになっていらっしゃいましたので、早春には神泉苑へ行幸されて、文化人たちと共に花宴を開かれ、詩を作ったりして楽しみました。この時の催しが、花宴の始まりであったといわれているのですが、これまでの天皇とは確かにひと味違っています。


平安宮の改革にも手をつけられ、それまで日常お使いになっていらっしゃった正寝(おもて御殿)は、仁寿殿といって紫宸殿の北にあったのですが、その西に清涼殿をお造りになられて、休息を兼ねて日常の生活をなさる所として、仁寿殿と交互に使われるようになりました。それともう一つ、平城天皇の退位なさった時の教訓でしたが、お住まいになる「院」というものが存在していなかったということです。そのことについては、第二章「安穏な暮らしを保つために」「その二の一」「戦力の不足を知る」の閑談で詳しく書いてありますのでご覧下さい。


 天皇は巷の様子を見届けながら、さまざまなことに目配りをしていらっしゃるのですが、神仏に関わる者たちには、決められたことはきちんと守るように、毅然とした姿勢をお示しになられました。 


為政者・嵯峨天皇


弘仁三年(八一二)二月十二日のこと


発生した問題とは


 いつの時代になっても、社会的に不安のある時などになると、どういう訳かおかしな神様が登場してきて、何かと不安を抱えている庶民を、巻きこんでいってしまうことがありますが・・・。


 天皇は大変気になることがありました。神仏に関することで次々と指示をされています 


「近年、諸寺の僧尼は多数に上り、うわべは真面目に修行しながら、実は戒律を守らず、きちんと精進しないで、しばしば淫犯をなす者がいるという。取り締まるべき僧綱は、阿って取り締まらず、役所の方も糺すことをしていない。また、法会で懺悔を行うに当たっても男女が混雑して区別なく、挙げきれないほどの非礼の行動がなされている。これほど仏教の教えを破り、風俗を乱すものはない。永くこの弊害のことを思うと、懲粛しなければならない。そこで、京職と諸国に命令して、部内の寺・道場などのすべてに立て札を立て、淫犯の類を禁断せよ。もし、禁制を守らず、男女別であるべきところへ一人でも混入するのを容認すれば、三綱(儒教で社会の根本となる君臣、父子、夫婦)と混入した者らには違勅罪を科せ」(日本後紀)


いかにしたら為政を落ち着いた状態にしておけるかということに腐心していらっしゃるのです。社会の乱れがやがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃることからでした。それでこれまで秘めておられた心情を、朝議において示されたのです。


 「近頃、多くの僧侶が法律を犯しているが、薬傷は放置して戒律に委ねるのみで、取り締まりを行っていない。国法が蔑にされ、深刻な弊害となっているので、今後は、僧侶が罪を犯したならば、軽重を問わず、すべて僧尼令により糾せ」(日本後紀)


この頃は雨期だというのに雨の降らない日がもう十日も続いているのです。その影響で京中でも米価が高騰してしまうのですが、官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたします。天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって早くいい雨が降ってほしいと、急いで畿内の神社に奉幣せよと指示いたしました。神仏の霊威に対して絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。


 「封戸(神戸(じんこ))を与えられている神社では、神戸が修造に当たるが、封戸のない神社では修造に当たる者がいない。今後は禰宜(ねぎ)(はふり)(神官)が修造に当たるようにせよ。小さな損壊が出来するたびに修繕し、怠って大破に到ることのないようにせよ。国司が頻繁に巡検すべきである。もし、禰宜・祝らが任務を怠り破損が出来した時は、解任せよ。有位の禰宜・祝は位記を没収し、無位無官の者は(じょう)百に処せ。国司が巡検せず、破損した場合は、交替のときに解由を拘留せよ。ただし、風災・火災などの非常の損に遭い修繕できないようなときは、言上して判断を仰げ」(日本後紀)


 いかにしたら為政を落ち着いた状態にしておけるかということに腐心していらっしゃるのです。社会の乱れがやがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃることからでした。それでこれまで秘めておられた心情を、朝議において示されたのです。


 「伊勢国の神郡(しんぐん)である多気(たけ)渡会(わたらい)両郡および飯高(いいたか)飯野(いいの)等七郡の神戸百姓(ひゃくせい)らは正税(しょうぜい)の授受・返納過程での不正や遅延があると刑罰が加えられ、これにより、神事執行に当たって円滑な決済ができなかったり、逃亡する仕儀となっている。このため、以前から出挙を停止しているが、公出挙(くすいこ)に与かれないため民は富民(ふみん)から稲を借り、返済する額は元本の数倍にもなっている。このため、違法な出挙を行う者は犯罪者となり、返済する側は弊害を受ける事態となっている。そこで、らいねんからはじめて(しん)(ぜい)の他に、正税十三万三千束を出挙し、その利息は斎宮の経費に充てよ」


(日本後紀)


 この頃は雨期だというのに雨の降らない日がもう十日も続いているのです。その影響で京中でも米価が高騰してしまうのですが、官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたします。


天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって、早くいい雨が降ってほしいと急いで畿内の神社に奉幣せよと指示いたしました。


神仏の霊威に対して絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。


夢中で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのような受け止め方をしているのだろうかと、気にされるようにもなっていらっしゃったのです。


すべて満足な状態ではなくなっていることは承知していらっしゃるのですが、そのような思いを抱かせるということは、やはり為政者の責任であると受け止めていらっしゃったのです。


天皇はそんな傾向を知っていらっしゃったので、神仏に関しての思いを政庁の中で徹底していかれたのでした。兎に角神仏に関しては、いい加減に扱ってはならないということです。


 「近頃は疫病と日照りが続き、人民は穏やかではない生活を送っている。静かにこのことを思うと、人民の苦しみが思いやられる。ところで、神祇には禍を転じて福となす働きがある。願わくは、神助けによりこの災禍を消滅できることを。そこで天下の名神に速やかに奉幣せよ」(日本後紀)


 天皇は指示をされると、大極殿へ出られて伊勢大神宮に奉幣されました。疫病と日照りからの救済を祈ってのことである。


これまで夢中で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのように受け止めているのだろうかと、気にされるようにもなっていらっしゃいます。すべて満足な状態にはなっていないことは、充分に承知していらっしゃいますが、不満であることはすべて為政者の責任だと思いがちなものです。


天皇はそんな傾向を知っていらっしゃったので、


 「聖人は怪力乱神を語らず。世を惑わす妖言の罪は重大であるが、諸国は民の狂言を信じて、しきりに報告してきたりするのだが、それらは天皇を批判する言葉であったり、濫りがましい吉凶の予言に関わったりしている。これ以上法や秩序を乱しているものはない。今後、百姓が濫りに神託を称するようなことがあれば、男女を問わず処罰せよ。ただし神託が明白で、しっかりした証拠があれば国司が調査の上で、事実を上申せよ」(日本後紀)


 いつの時代でもそうなのですが、不安が広がったりすると、なぜか神頼みの気分が生まれ、そんな心理状態を利用して怪しげな神様が、あちこちに誕生してしまいます。これは決して古代の問題ではありません。現代の我々の問題でもあるのです。


 いつの時代になっても、何かと不安を抱えている庶民を巻きこんで行ってしまう怪しい神様が登場します。よく噂の真相を突き止めないと、神を使った者の話術に騙されて、その渦の中に巻き込まれていってしまいます。


温故知新(up・to・date)でひと言


 よく話題になることですが、四字熟語では「街談巷説(がいだんこうせつ)といって、巷に渦巻く噂話。根も葉もない噂などに慌てふたむいて、「周章狼狽(しゅうしょうろうばい)してしまって適切に処置できなくなってしまったりしたら、まさに「矮子看戯(わいしかんぎ)ということになってしまいます。物事を判断する見識のないまま、付和雷同してしまうということです。噂の渦に巻きこまれてしまって、偽の神様の思うが儘に利用されてしまいます。兎に角時代が不安になった時には、インチキ神様が絶えず登場して、迷っているものを探してさまよい歩きます。どうか迂闊にその魔力にひっかからないで下さい。地道に努力を積み重ねることが大事です。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑19 [趣味・カルチャー]

「つつがなくお過ごし?」

コロナ、オミクロンと、次々厄介な病原体が襲いかかってきて、親しい人とも気軽に会えませんし、まして遠方にいらっしゃるかとは、わざわざ出かけて行くことも不安になって、ついご無沙汰ということになってしまいます。兎に角消息が知れないのは不安になるものです。

 そんなことからせめて手紙を出そうと思うのですが、その冒頭の書き出しのところなのですが、私などはつい「暫くご無沙汰してしまっていますが、つつがなくお過ごしでしょうか」という、典型的なご挨拶で始まる手紙を書くことになるのですが、よく考えるとこの「つつがなく」というのはどういう意味なのかということに突き当たりました。

そこで一寸調べてみることにしましたので、その結果をお知らせしておこうと思いました。

 これが何と聖徳太子の時代から、これは「つつが虫」という虫の名前で、原因不明のきわめて恐ろしい病気として恐れられていたというではありませんか。変に専門的なお話になりますが、これはダニ目のツツガムシ科の節足動物なのだそうで、野ネズミなどに寄生していてつつが虫病を媒介するというのです。

 この病原体が突き止められたのは明治時代あたりになってからのようで、それまでは死亡率が40パーセント以上という、極めて恐ろしい病だった

のでした。

 事件の発生地として知られているのは、明治以降では新潟県の阿賀野川、信濃川・山形県の最上川、秋田県の雄物川が知られているのですが、大雨などが降った時などに水をかぶってしまう、草原や耕地に人が入るとつつがむしの餌食になるようです。ところで思わず思い出したことがあります。

聖徳太子の住んでいらっしゃった奈良県の飛鳥あたりは、湿地帯だったということなのです。古代の大きな戦争として知られる物部氏と蘇我氏の戦いは、湿地帯に暮らして雨季にはいつもあたりに洪水に見舞われる蘇我氏に対して、大阪の八尾市という乾燥した地域に暮らす物部氏は、極めて農産物にも恵まれていたということを考えますと、いつかはその有利な支配地を取ろうとする蘇我氏と、それを拒否する物部氏との間での戦いになることは、止む追えない状況でした。

言うまでもなく聖徳太子は蘇我氏と共に戦いました。

称徳太子はつつが虫を大変警戒していたという話がありましたが、その話が切実に迫ってきます。

どうぞみなさんは充分に知識を頭に置いて、警戒をしながら地方への観光旅行にお出かけ下さい。

つつがなきことを切にお祈りいたしております。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の六 [趣味・カルチャー]

     第六「運気の悪戯だと思うために」(六) 


       課題「物の怪についての見解を覆す」


 先進的な嵯峨天皇のものの怪についての考え方に対して、それを覆してしまう現実主義というものがあります。現代でもこうした処理が行われるようなことがあるのでは・・・。


為政者・仁明天皇


承和十一年(八四四)五月のこと


発生した問題とは


五月のことです。


飢饉の影響でしょうか淡路国では他国の漁師たちが三千人もやって来て、土着の人たちを痛めつけたり、山林も伐採して立ち去るということが起こったりします。今上は七月には左大臣に源常を就け、今上の近親である橘氏公が右大臣に就いて、少しでも為政の方向を糺そうとするのですが、時代は徐々に荒んで行くように思われます。政庁は京や畿内で耕作すべき田をそれぞれに分け与えるという班田を実施したりするのですが、結局いい結果は出せず、平安京はもちろんのことその周辺や諸地方の治安も、あまりよくない状況になってきていました。


政庁には前年から、あまりいい情報が集まって来ていませんでした。嵯峨太上天皇の諒闇中ということもあって、このところ近隣の新羅国なども朝貢にもやって来なくなってきていた上に、四月には神功(じんぐう)皇后の山稜(みささぎ)から雷鳴のような山鳴りがあって、赤色の気体のようなものがつむじ風のようになって、南へ飛んだという不気味なことが起こったりすると、陸奥国からは、城柵に籠って警備に当たっている兵士たちの中から、生業に就けないという不満が募って逃亡する者が増えているという知らせがあったりするのです。七月に祖霊嵯峨天皇の一周忌を迎えるのですが、それから間もなく祖霊桓武天皇以来為政に尽してくれた藤原緒嗣が亡くなってしまい、朝廷は公卿が百官を率いて朱雀門において祓いを行って喪を解いたのでした。ところがそれから間もない八月には、大宰府から連絡が入ってきます。対馬島上県郡竹敷埼の防人らが「去る正月中旬から今月六日まで、遥か新羅国の方から鼓声が聞こえ、耳を傾けますと日に三度響いてきます。常に午前十時頃に始まり、それだけでなく黄昏時になると火が見えます」というのです。何か不安を感じさせることが重なり過ぎます。


 「治にいて乱を忘れずとは、古人の明らかな戒であり、将軍が驕(おご)り兵が怠けるようなことは、軍事の観点からあってはならない。たとえ事変がなくても,慎むべきことである」(続日本後紀) 


 ところがそんなところへ、文室宮田麻呂が謀反を起こそうとしているという事件が持ち上がるのです。文室宮田麻呂が謀反を起こそうとしているという事件が持ち上がるのです。弾正台と京職が対立していて、平安京の取り締まりも思うように行われない状態になっているということが背景にあったのでしょうか。直ちに朝廷は勅使を送って難波にある彼の邸宅を調べると、そこにはかなりの武具が揃えられていたことが判り、逮捕するといった事件もありました。そんな不安の積み重ねでしょうか、年が変わって承和十一年になると、今度は宮中に物の怪が現れるというのです。すると大納言藤原良房の指示を受けた文章博士たちが集められて、嵯峨天皇時代の政庁の見解を覆すような発表をするのです。


為政者はどう対処したのか


「先帝嵯峨太上天皇の遺戒に『世間では、物の怪が出現するたびに亡者の霊の祟りだとしているが、はなはだ謂れのないことである』とありますが、今、物の怪の出現のままに役所に卜わせてみますと、亡者の祟りであると明瞭に出ています。私たちが卜いの結果を信じれば遺戒の旨に背き、依らなければ現状に対する戒めである祟りを忍ばねばなりません。進退ここに窮まりどうしたらよいか判りかねます。あるいは遺戒は後の者が改めるべきでしょうか。私たちは検討を行い、改めるべきか否かについて、古典の文章を引用して典拠としたいと思います」(続日本後紀)


 中国古代のさまざまな例を取り上げて検証すると、


「君子は何事につけ適・不適を予断せず、筋道を立てて考えるものだと述べています。これらに依り考えてみますに、卜筮の告げるところは信じるべきであり、君父の命令は適宜取捨すべきものでして、これより改めるべきは改めることに、なんら疑問はありません」(続日本後紀) 


まだ祖霊嵯峨太上天皇の崩御から二年だというのに、その理性と博識に基づいた遺訓は、大納言の指示で変えられることになってしまうのでした。


ここで敢えてこのような話題を持ち出したのは、現代のような先進的な科学力もない時代に示された、あの古代という時代では実に新しい嵯峨天皇のものの怪についての考え方でしたが、それを覆してしまう藤原氏の現実主義というものでした。しかしこうしたことは、現代でもあることだとはありませんか 


温故知新(up・to・date)でひと言


 先進的な先見性が受け入れられずに、現実主義的な処理によって葬られていってしまうということは、現代でもよく行われることではないでしょうか。それが果たしていいことなのかどうかを官衙手観る必要がありそうです。姿・形が尋常ではない異類異形(いるいいけい)でこの世のものとは思われない怪しい姿をした化け物、妖怪の類はあくまでも創作上の工夫ということとしては認められますが、それが如何にも大問題というような捉え方をして不安を掻き立てるような者によって利用されるようなことがあるのがしばしば見受けられます。しかしそんなものは見逃しておくわけにはいきません。雲烟過眼(うんえんかがん)といって、雲や霞が眼前を過ぎ去って行くのを見るように、物事を深く心に留めないことがいいのかどうか、考えなくてはならないのではないでしょうか。


 



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ7 [趣味・カルチャー]

                   「原稿執筆中」1.jpg

                「更新変更のおしらせ」

 


 次週の3月19日の日曜日が更新日ですが、その次の26日は都合により当日更新ができませんので、19日に26日の分も一緒に更新させて頂きます。


 どうぞよろしくお願いいたします。


 


                          藤川桂介


 


令和四年三月十二日



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言18 [趣味・カルチャー]

          

「冬至余談」


新しく太陽が甦る日として重要視されている日が冬至の日です。この日を境にして日が伸びたり短くなったりするのを知った人間は、この日を境にして日脚が伸び出すこともあって、どうも夏至よりもこちらの方を大事にする傾向がありますね。


日本はもちろんですが、世界各地でも、その日のためのいろいろな行事が行われたりしますが、日本では柚子湯につかって体を温めるようなことが、日常的に行われていますが、日あしの伸びるこの日を年の始まりと考えた結果、冬の最中にお正月を迎えることになりました。欧米諸国が孤陽当たりをクリスマスの行事の始まりにしているのはそのためなのでしょう。


にほんでもブラ里などでは神の子が村の中を巡るという行事を行うところが大分あるように思いますので、クリスマスのような行事はすべて外国からの輸入品ということでもなさそうです。


昔から言われる言葉の中に、「冬至冬なか冬はじめ」というのがあるようですが、暦の上で冬至は立冬から立春の丁度真ん中にあたるのですが、実際は寒さの厳しくなり出すのが,冬至の頃からだという意味でしょう。


一月一日から二月十日までは最低気温が氷点下になったりしますが、こうした寒さが新年の始まりとなるのは古代人の太陽信仰の名残だということになりますね。


余談になりますが、日本の神社ではこの当時の日に「一陽来復(いちようらいふく)」というお札を出すところがかなりありますが、こうした事のためだと思います。


平安時代では桓武天皇(かんむてんのう)がこの当時の日でも朔旦冬至(さくたんとうじ)といって、ほぼ十九年に一回巡って来る十一月一日の冬至を大変大事にしていたという記録があるのです。


これからいよいよ一年が始まるのだという新鮮な気持ちになって正月を迎えたのでしょうね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の五 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(五)

    為政者の課題・「ものの怪、またまた内裏へ」

 承和七年(八四〇)仁明天皇(にんみょうてんのう)の治世になってから、もうかなりの年月を経てきていますが、お気の毒に一生懸命勤めてはいるのですが、世の中の空気は一向に良くなりません。

すでに第六章「運気の悪戯だと思うために」「その三の三」「ものの怪、内裏へ現る」の閑談で触れましたが、またまた同じような不可解なものの登場と戦わなくてはならないようです。父嵯峨太政天皇が健在であれば、何らかの考え方を示してくれるかも知れないと思う公卿も多かったでしょう。

 兎に角平安時代では、神仏に対する信仰によって、その霊威によって危機をかわすことが唯一の手立てであったのです。

 政庁は年明けの二月に、六衛府に対して特別に平安京の夜間の巡邏を行わせました。群盗が各所に跋扈したことによります。

勅命に背いたということで隠岐の島へ配流されていた、小野篁が帰還させることになったことから、町民たちには多少でも明るい話題にはなったのですが、天皇には世相の乱れが気になっている最中のことでした。

「朕は人民を治める方法に暗く、人民を豊かにし教化をすすめる点に掛けるところがあり、政治は人民に安楽を齎+さず、十分な貯えを有するに至っていない。これまで日照りの害で秋稼(しゅうか)が稔らず、賑給(物を恵み与える)が広く行き渡っていないので、服御の費えを減らし、公卿らも食事の削減を志、適切な臨機応変のしょちを取り、封禄の一部を差し出し、公の費用を助勢することになった。これは疲弊状態を救い、国家を交流させるための時宜に応じた方策である。朕は公卿らの我が身を顧みない誠に応じしているが、なお、人民を豊かにできない恥の思いを抱いている。いま、時は秋で穀物はすこぶる豊熟となっている。国用を支えることができると判ってきたので、削減した封禄をすべて旧に復するのがよいと思う。司の者は子のことをよく理解し、朕の思いにそうようにせよ」(続日本後紀)

 「聞くところによると、悪事をする者が真に多く、暗夜に放火したり、白昼物を奪うことをしている。静かにこの悪しき風潮を思うと、人を溝に押し込め、苦しめている思いをつよくする。左右京職・五畿内・七道諸国に命じて、厳しく取り締まり、村里を創作して、身柄を捕えかつすすめ、遅滞のないようにせよ」(続日本後紀)

 不安に対する指示をされると、平安京内の高年で隠居(生業がなく生活する)している者と飢え病んでいる百姓らに物を恵み与えるように指示をされると、やがてこんなこともおっしゃるのでした。

 「国家が盛んになるために肝心なのは、民を富ますことであり、倉が充ち足りるようになるには、(まこと)に稔りがあればである。この故に耕作時には作物が盛んに繁るようにし、農作時に適切に対処しないと、飢饉の心配が生ずるのである。すなわち農の道に励まなければならない。去年は干害となり、穀物は稔らず百姓は飢え、国用に不足をきたした。災異の出来は天によるとはいえ、人民が愚かで怠惰であることを恐れる者である。現在、季節は春で、農事の始まる時期に当たる。今が勧農を行う適時なので、五畿内諸国に命じて、農事につとめて(いまし)め、時宣に応じた対処をし、怠ることのないようにせよ」(続日本後紀)

為政者・仁明天皇

承和七年(八四〇)六月五日のこと

発生した問題とは

そんなある日のこと、散位従五位上文室朝臣宮田麻(ふんやのみやたまろ)の従者陽候氏雄(やこのうじお)が、宮田朝麻呂が謀反を起こそうとしていると訴えてきたので、内豎(ないじゅ)を遣わして宮田麻呂を召喚した。すると宮田麻呂は使人と一緒に蔵人所(くろうどところ)へやって来たので、左衛門府に禁獄しました。

勅使左中弁(さちゅうべん)正五位下、長岑(ながみね)朝臣木連(いたび)・右中弁五位下伴宿祢成益(とものすくねなります)・少納言従五位下清滝朝臣河根(きよたきあそんかわね)左兵衛大尉(さひょうえのだいじよう)藤原朝臣直道らを京および難波の宅へ派遣して、謀反に関わる武具を捜索した。

 その日は宮城の諸門を閉鎖しました。

 訴え出た陽候氏雄を左近衛府に収監した。(罪ありと訴え出た者は誣告罪(ぶこくざい)の容疑者扱いとなる)

勅使らは宮田麻呂の京宅を捜索して、かなり沢山いろいろな沢山の武具を得、難波の宅の捜索で、更に兜二枚・壊れた甲二領・剣八口・弓十二張・やなぐい十具・鉾三柄からなる兵器を得、右近衛陣に棄て置いた。

 参議滋野朝臣貞主(しげのあそんさだぬし)左衛門佐藤原朝臣丘雄(さえもんのすけふじわあそんおかお)を遣わして、文屋宮田麻呂を尋問した。

 やがて謀反人文屋宮田麻呂の罪は斬刑に当るが、一等降ろして伊豆国に配流と下。その男二人のうち内舎人忠基は佐渡国へ流し、無官の安恒は土佐国へ流すことにした。従者二人のうち和邇部福長(わにべのふくなが)は越後国へ、井於枚麻呂(いのえのひらまろ)は出雲国へ流すことにし、連座した従者神叡(じんえい)枚麻呂と同所へ流すことにした。

訴え出た陽候氏雄は特別に大初位(だいそい)下を授け、筑前権少目(ちくぜんのごんのしょうさかん)に任じた。その告言(こくげん)により、犯罪の一端が明らかになったからである。

  為政の混乱か、世相の混乱を象徴するかのような事件は運よく未然に処理できたのでした。しかし為政の頂点に立つ天皇のお暮しになられる宮中に、得体の知れないものが、またまた現れるようになったのです。

 平城京時代ではよく表れたのがはっきりとした相手に対する怨念を秘めて現れたのですが、今は何が原因となっているのか得体の知れない「ものの怪」などという妖怪が登場してきます。それが激しく話題になってきたのは、まさに仁明天皇の時代だったように思われます。

時代が変化を求めるようになったのでしょうか。そのために起こる混乱に乗ずるのか、今年正月に、またまた内裏に「ものの怪」が現れるのです。

それは柏原山稜・・・つまり祖霊桓武天皇の祟りだというので、朝廷は慌てて使者を送って祈させたりしました。

 何か不安な雰囲気が漂う年明けでしたが、三月には陸奥(むつ)国から援兵を二千人も頼んできたりするのです。

 それに対して天皇は次のように答えた。

「治にいて乱を忘れずとは、古人の明らかな戒めであり、将軍が驕り、兵が怠けるようなことは軍事の観点からあってはならない。たとえ事変がなくても、つつしむべきことである」(続日本後紀)

奥地の民がみな庚申待ち(庚申の夜、寝ないで徹夜する習俗)だと言って、みだりに出回るのを制止することが出来ないというのです。前はこのような行為は懲粛してきたのですが、国の力なくしては、こうした民の騒動を抑えることはできません。そこで援兵を動員して事態に備えるべきです。その食料には陸奥国の穀を充てたいと思います。但し、上奏への返報を待っていますと、時期を失う恐れがありますので、上奏する一方で動員致しますとあったのでそれを許可し、よく荒ぶれた民を制止し、併せて威と徳をもって臨むべきであると指示をしたのでした。

 得体の知れない物の怪などが現れることは、あくまでも為政者に対する神々による罰の暗示であると考える天皇は、更にこんな指示をいたします。

「神は居ますが如く祀り、民には自分のこの如く対処するのが、国司のとるべき古今の法則である。この故に従前、しばしば法令を出してきた。しかし国司の治政をみると、役人は公平ではなく民は疫病に苦しみ、穀物は稔らず、飢饉がしきりに発生している。政治のあり方として懲らしめ糺す必要がある。何につけ怠るのは人情であるから、五畿内・七道諸国に命じて、これまでの怠慢を改め、今後はしっかり勤務するように仕向け、部内を巡行して神社を修造するようにすべきである。禰宜(ねぎ)(あふり)らが怠務すれば、前格に従い職を解き処罰せよ。年間の神社修造数は書類にして申告せよ。三年の内に使いを遣わして調査し、神社が壊れているようであえば、国司・郡司は違勅罪に処すなどと指示します(続日本後紀)

為政者はどう対処したのか

遣唐使船の第二船が帰国の途中で航海中に逆風に遭って、治安の不安な南海の土地へ漂着して戦うことになった時敵は数が多く私たちは少なく、敵よりははなはだ弱体でしたが、運よく克てましたのは大神の御助けによると思われましたというのですが、今落ち着いて考えると、去年出羽国が報告してきた、大神が十日間戦う音を聞いたあと、兵器の形をした隕石が降ってきたというのと、遣唐使たちが南海の賊地で戦っていた日時とがまさに一致しているというのです。大神の神威が遠く南海まで及びましたことに驚き、かつ喜び、従四位の爵位を授け、二戸の神封を充て奉りますと申し上げよと申し上げます。捕獲した兵器を帰国後献上したのだが、それは我が国のものとは違うものであったと衝撃的な話が付け加えられました。

 こんなことは形が違っても、決して現代とは関係がないといって、一蹴してしまうことはできないのではないでしょうか。古代では天皇をはじめ為政に関わる者にとって、極めて不安な不気味な存在でしたが、現代社会においては誰もそんなものが登場したということはいいませんが、実際はその後まったく見せない物の怪よりも不気味なものが、(うごめ)いているかもしれません。

温故知新(up・to・date)でひと言

 現代では神仏の存在ということについての思い込みは、とても古代の人とはその思い込みに差がありますが、それでも祖霊嵯峨天皇は、極めて覚めた視点でそうした得体の知れないものを見ようとしていました。祖霊は「局天蹐地(きょくてんせきち)といって、恐れてびくびくすることはないとおっしゃいました。一つの月を見るにしても、「一月三舟(いちげつさんしゅう)といって、三隻の舟から眺めるとそれぞれ異なって見えるように、人によって異なった受け取り方をするというたとえ通りで、兎に角奇奇怪怪(ききかいかい)なものが登場しても、仰天不愧(ぎょうてんふき)というもので、心の中にやましいところがなければ、天に対しても少しも恥じるところはないのです。みな胸を張って自信を持って生きていきましょう。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑18 [趣味・カルチャー]

       

   「出勤風景今昔」


 


 テレビで朝の出勤風景を見ることがあります。


 東京駅などから、人、人、人が、まるで洪水のような勢いで、丸の内を目指して流れていきます。


 思わずご苦労さまと声をかけたくなってしまいますが、一体古代ではどうだったのだろうかと考えてしまうことがあります。


古代の中の大きな王朝といえば、平城宮があげられると思うのですが、農民は別として、王宮の官衙(かんが)で働く官人たちも、現代のサラリーマンと同じように、時間に遅れないように出仕しなくてはなりませんでした。


そのころ平城京には、二十万人という人が住んでいたといいますが、その中の平城宮で働く官人は、高級役人百五十人、中、下級役人五百人、位を持たない下働きがほぼ六千人、宮中の人夫などがほぼ千人、合わせて八千人ぐらいだったといいます。彼らは夜明けとともに作業が始まるので、早朝から丸の内へ向かって出勤する人、人、人という光景に、似たような姿があったのではないかと思います。


上級の官人たちは官衙に近いところに住んでいましたから、かなりゆっくりと出仕できました。特に大臣クラスの高貴な方々は、牛車などに乗って出仕して来ても、日の出前までには間に合いますが、下級の官人たちは官衙から遠いところに住んでいましたから、夜明けまでにやって来るには、まだ夜明けにはほど遠い、きらきらと星が輝いている空を仰ぎながら、出かけて来なくてはなりません。


農民たちも夜明けと共に農作業をはじめますが、もうその頃には官人たちは平城宮の前に着いて、午前三時に門が開くのを待っていたのです。もちろん左大臣、右大臣、大納言、中納言、小納言、参議という、所謂太政官(だじょうかん)と呼ばれる、政治を動かして行く為政者である上級の官人たちも、執務が行われる朝堂院(ちょうどういん)の門が開くには六時半と決まっているので、その南にある朝集殿というところで開門を待っていたのです。もしそれに遅れた時は、朝堂へ入ることは許されません。それでもこうした上級の官人たちは、午前中だけ仕事をして退出して行ってしまいます。


そうなるとこのあとの余暇は、趣味を追及して行ったり、親しい者と交流したり、学術の習得や追究をしたりすることにあてられる余裕も生まれました。しかしこれに対して、下級の官人たちは夜明けから日没まで、せっせと働かなくてはなりませんでした。


どんな時代になっても、下支えをする人たちはかなり大変な努力を強いられるもののようですね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の四 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(四)


    課題「ものの怪と太陽の異変」


 まだ現代科学のような先進的な知識のない古代では、天空に起こる現象については、神仏に祈る意外にまったく手出しのできないことでした。中でも月と太陽については驚異の現象でしかなかったのですが・・・。


為政者・仁明天皇


承和十年(八四三)五月八日のこと


発生した問題とは


 三月に神功皇后(じんぐうこうごう)楯別山稜(たてなみさんりょう)陵守(みささぎもり)が次のようなことをいってきました。


 「先月十八日の午前八時頃、山稜が二度鳴りました。雷鳴のように響き、それと共に赤色の気体状のものがつむじ風のように南を指して飛んでいきました。午後四時頃再度音がし、気体状のものが西を指して飛んでいきました。参議の正躬(まさみ)王を遣わして調べてみると、山稜の木七十七本と無数の若枝等が伐られていました。そこで陵守長百済春継(くだらはるつぐ)を処罰して天皇に報告しました。それからまもなくのことです。陸奥(みちのく)国からこんなことをいってきました。


 諸軍団の軍毅らが、


「兵士は一年に六十日兵役につき、六番に分かれて、十日ごとに交代しています。食料は自弁で城柵に詰めるに当たり、遠方から出仕しますので、常に往復に疲弊し、在宅日数も少なく、生業をこなすことができません。このため逃亡する者が多く、民は動揺しています。そこで兵士を千人加増し、元の兵士と併せて八千人とし、八番に分け、六番から八番へ番の数を増やすことにより、疲弊した兵士の負担の軽減を要望いたします。ただし、軍団数を増やすことなく、増員した兵士は従来の軍団にあまねく配分したく思います」(続日本後紀)


と言ってきた。


 政庁はそれを許可したのですが、今度は式部省からこんなことが訴えられたのです。


 「従前勘籍人(かんじゃくにん)(戸籍により身許を調査した者)を諸司の番上や諸衛府の舎人に任用してきましたが、事情を検討しますと、官人身分取得を目的に任用を求めているのが実情です。官人身分の取得が困難なのは久しい以前からのことですが、当今に置いては、任用されていた者は一選(勤務成績による叙位のために必要な年限。選叙令に規定されている)を勤務した後、他の官職へ遷ることができるようにしますよう、要望します」(続日本後紀) 


 政庁はそれも許可いたしました。


 するとまた陸奥鎮守の御春(みはる)浜主が、次のようなことを訴えてきたのです。


 「健士(けんし)は元来爵位を有する者です。調庸の負担がなく鎮守府では、これまで武芸に優れた者を選び健士と名づけ、食料を支給して田租を免訴し、番をなして兵役に当たらせてきました。しかし現在、勲位は一人もおらず、建士に充用することができません。そこで、格旨により白丁を動員し食料を支給して調庸を免除扱いとしたいと思います。人にはそれぞれ役割がありますので、射が下手な健士は、下手な兵士に准じて、城の修理に使役したいと思います」(続日本後紀)


 人事的な問題が次々と持ち込まれている政庁ですが五月になると、また人智ではどうにもならない、気になることが報告されるのです 


為政者はどう対処したの 


 太陽に光りがなく、終日回復しなかったのです。雲でも霧でもない黒い気体状のものが天に広がり、正午過ぎになって時々日が射したが、陽光は黄色がかった赤色でした。神祇官(じんぎかん)陰陽寮(おんようりょう)に命じて、昨日の気体状のものに謝せしめた。本日正午ごろ陽光が明るさを取り戻したのでした。しかしそれから数日後に内裏の物の怪と太陽の異変を鎮めるために、百人の僧を呼んで三日間「薬師経」を清涼殿で読み、薬師法を常寧殿で修し、「大般若経」を大極殿で転読(経文の初・中・終わの要点だけを略読する)した。


 何も起こらなければいいのですが、用心しているのにそれから間のなく、犬が天皇の座の前の参議以上の者の座の近くまで上がると、反吐を吐き尿をしたりしてしまったといいます。


 何か異常なことが起こっています。


 不安が現実になったのは、一ヶ月ほど経った頃のことですが、伊賀、尾張、参河(みかわ)、武蔵、安房(あわ)上総(かずさ)下総(しもうさ)、近江、上野、陸奥(みちのく)、越前、加賀、丹波、因幡、伯耆(ほうき)、出雲、伊予、周防など十八国に飢饉が発生して、天皇の命によって物を恵み与えた。七月には嵯峨太上天皇の一周忌が行われました。しかし祖霊の遺詔によって、民間の俗事に拘泥してはならないということで、葬儀には三日以上かけてはならないというのです。丁度この頃仁明天皇は発熱しているために相談するわけにもいきません。 天空の異常現象の影響が及んできているのでしょうか、不安が広がったのでした。


 こんな現象自他が、現代ではただ単に話題になるだけで、それで治国を危うくしてしまうようなことはありません。天文マニアを喜ばせるだけでしょう。


温故知新(up・to・date)でひと言


 しかし昨今の異常気による被害の広がりがつづく状態は、人智では解決のしようのない問題で、それは古代と何の変りもありません。流金焦土(りゅうきんしょうど)ということがいわれますが、炎暑の激しいたとえです。金属をとかし、大地を焦がすような暑さだということですが、すでにほとんどの方が実感されたのではないかと思います。卵をかさねたように非常に不安定で、危険な状態であることをいう累卵の危(るいらんのき)という言葉がありますが、そんなことが引き金になるのでしょうか、古代では物の怪が出没するのです。正に神出鬼没(しんしゅつきぼつ)です。正に神わざで、どこでも自由自在に出没してきます。現代では地球規模という広がりの中で、地球温暖化に向かい合わなくてはならなくなっているように思います。兎に角天空に起こる異変が、あくまでも地球を危うくするようなものでなく、天文ショウとして楽しめるようになって欲しいと思うのですがどうでしょう。



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