☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆お知らせ12 [趣味・カルチャー]
「ブログ更新の変更をお知らせいたします」
本日はまだ15日ですが17日と24日の更新を同時に行い、祝祭日のこともあって、多少余裕を持った形でお読み頂けたらと思っているところです。
これには最近体調を整えるのに腐心しておりましたので、その回復を願う気持もあります。どうかみなさんにもご協力をお願いすることなりました。
すでにお知らせしましたが、日本脚本家協会が主催している「作家のリレーエッセイ」に関してもですが、すでに10日から私が書いたものも登場しましたので機会がありましたらご覧下さい。「作家リレーエッセイブログ」のドメインは、
です。
時間がありましたら是非ご一読下されば幸いです。
藤川桂介
令和五年九月十五日
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆お知らせ11 [趣味・カルチャー]
「ブログ更新のお知らせです。
日を変更するお知らせです
「ブログ更新の変更をお知らせいたします」
本日はまだ15日ですが17日と24日の更新を同時に行い、祝祭日のこともあって、多少余裕を持った形でお読み頂けたらと思っているのです。
これには最近体調を整えるのに腐心しておりましたので、その回復を願う気持もあります。
どうかみなさんにもご協力をお願いすることなりました。
更に大分前にお知らせしたのですが、「作家のリレーエッセイ」ですが、遂にブログに登場しました。協会の「作家リレーエッセイブログ」のドメインは
です。
時間がありましたら是非ご一読下さい。
藤川桂介
令和五年九月十五日
」
本日はまだ15日ですが17日と24日の更新を同時に行い、祝祭日のこともあって、多少余裕を持った形でお読み頂けたらと思っているのです。
これには最近体調を整えるのに腐心しておりましたので、その回復を願う気持もあります。
どうかみなさんにもご協力をお願いすることなりました。
更に大分前にお知らせしたのですが、「作家のリレーエッセイ」ですが、遂にブログに登場しました。協会の「作家リレーエッセイブログ」のドメインは
です。
時間がありましたら是非ご一読下さい。
藤川桂介
令和五年九月十五日
申し訳ありませんが、17日、24日の更新を同時に15日に行いたいと思います。このところいささか体調をくずすことが多く、夏の疲れが負担になっているのが明らかです。そこでこのところ連休があったり祝祭日があるのを利用して、しばらく休養に向けたいと思っています。
大変申し訳ありませんが、ご協力をお願いいたします。
予告してある「作家のリレイエッセイ」の件もいずれお知らせしますが、かなり作業に時間がかかっているようで、もうしばらく発表は遅れるようですが、整った時には直ぐにお知らせいたします。
藤川桂介
令和五年九月十五日
「またブログの更新日を変更するお知らせです」
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑34 [趣味・カルチャー]
「転生」
宗教界、特に仏教の世界でいわれる言葉に、新しい別の世界で生きるという「転生」ということがあります。
それに対して現在私たちがの暮らしている社会・・・つまり現世は、苦界ということが言われています。言うまでもなく、この世は楽しく、嬉しい、幸せを感じる時間よりも、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、厳しいこと等々、耐えられないようなことを味わわされることが多い世界です。
私たちは次の世界・・・つまり何の苦しみもない安穏な暮らしの出来る世界で生きられる時がきますようにという願があって、苦界で修業しているのです。しかしその辛さに耐えられずに、やけを起こしたり、無茶苦茶をやったりしてしまうというようなことをしてしまうと、苦界から別の世界へ移って、別の命として生きることは出来なくなってしまいます。
「転生」というのは、別の世界で、別の命を貰って生きつづけるということです。時には別の姿、別の命となって生きて行くということです。苦界での徳の積み方によるようなのですが、歴史上の人物たちも現代に転生して、別の姿で生きているということも考えられますが、時には人間でないかもしれません。昆虫に転生することもあるかもしれないのです。兎に角理想の世界へ転生するには、この苦界である現世で、どう生きて行くかが大事なことのようです。
一生懸命に生きて行きましょう。結果を考えないで、真っ直ぐに生きて行きましょう。そんなことが出来難い世の中ですが、それであろうとして頑張ることが大事なのです。
果たして、あなたはどんな世界、どんな命として「転生」することが出来るのでしょうか。
嵯峨天皇現代を斬る その十一の四 [趣味・カルチャー]
第十一章 「落書きの真意を知るために」(四)
課題「帝も知っている童謡」
最近の落書きを見ると、ただ悪戯がしたいだけであって、古代のように主義主張があるものは、ほとんど見あたりません。古代のものにはかなり真実を訴える文学的な資質もあったように思えてなりませんが・・・。
為政者・嵯峨天皇
弘仁十二年(八二一)
発生した問題とは
「弘仁八年、九年には水害・旱害があり、穀物が稔らず、官の倉庫も次第に空洞化してしまった。弘仁九年の公卿の報告によると、しばらくの間五位以上の者の俸禄の四分の一を割き、公用に充てるようにしたが、現在、五穀がよく稔り、国の支出を支えることが可能である。俸禄などの数を旧例に戻すべきである」(日本後紀)
昨年のことです。天皇が災害について思うことをお話になると、それに対して公卿は、次のような返答をいたしました。
「私たちは、臣らが議定して削減した俸禄等を、みな恩旨により旧例に復することになりました。伏して陛下の御膳も同様に常例に復しますことを要望いたします」(日本後紀)
弘仁九年に四月に、天皇と皇后の用途に充てる物品や日々食事を省減した記録がある。
状況に応じて天皇もその日常にも気を使っていることが判るのです。しかしいつの時代にも、庶民の感覚と為政者の感覚にはずれがあって、すべてについて満足などということはあり得ないようです。嵯峨天皇にしても、常に民のための為政を行なおうと努めていかれる方なのですが、それでも中には、皮肉をいってみたくなる者はいたようです。
「宇治拾遺物語」や「江談抄」にも紹介されているのですが、文人政治家といわれるだけあって、嵯峨天皇には文筆関係の方とのお付き合いもかなりありましたが、そんな中の一人である小野岑守が、ある日天皇には思いがけないお願いをしてきたのです。岑守の子息である篁が、十代の頃に蝦夷討伐に遠征する朝廷軍に加わってから、それ以来戦うことにばかり興味を持って弓馬に夢中で、すっかり大学の文章生であることを忘れてしまったような毎日だというのです。まったく学問に勤しむということがなくなってしまっているので、岑守は天皇からお叱り頂けないでしょうかというのです。そこで天皇は直ちに篁を呼び出して、様々な問題を繰り出すのですが、篁はまったく動揺するようなこともなく答えてしまうのです。そこで天皇は、これは答えようがないだろうと、意地悪な問題を出します。
内裏に立てられていた木片を取り出されると、「無悪善」という落書きを差し示めされて、それを読むようにおっしゃられたのです。
恐らく篁はそこで息を飲んでしまうのではないかと、その表情を見つめていらっしゃいます。ところが篁はまったく表情を変えるようなところもなく、即座に「サガなくてよからん」と読んだというのです。
為政者はどう対応したのか
実はこのころ、世の中を諷刺したり批判したりするようなことがかなり多かったのですが、それもその落書の一つだったのでしょう。天皇はそんなものまでも、しっかりと集めていらっしゃったのです。篁はそれに対して、実に機知に富んだ返答をしたのです。つまり悪をサガと読むのと、天皇の嵯峨という名とを重ねて答えたのです。普通であったら、天皇に対する不敬な返答でお咎めを受けても仕方がないところです。しかし帝はそれにはこだわりませんでした。
嵯峨天皇も在位十二年にもなります。
最近時期はずれの大雨があって河水が氾濫して災害をお越し、河内国で被害が大になっている。秋の稼ぎがこれによって損なわれ、そのため人民が苦しんでいる
「朕は今被災地を通過して、状況を目にして、悲しみを増している。人民にいったい何の罪があろうか。損害を被った諸郡に三年の課税免状を行なえ。最も貧しい者に対しては、去年貸し付けた出挙租税の未返済分と今年の租税を免除せよ。山城・摂津両国は、国境が入り込み、河内国と接している。河内国で起きた反乱の被害は両国でも起きているに違いない。水辺の百姓で、財産を流失した者は今年の租税を出すに及ばない。三国共被害を受けた貧窮の者には、事情に応じてものを恵み与えよ」(日本後紀)
苦闘していらっしゃったのですが、庶民にとっては皮肉もいってみたくなる日常だったはずです。普通ならそのような者は無視するか、破棄してしまうはずなのですが、それも民の声として受け止めていらっしゃったのです。あの落書きにしてもその一つだと思うのですが、現代の為政者に対して、洒落た短文で痛烈に批判するような者は出て来ないでしょうか。
温故知新(up・to・date)でひと言
在野の立場からの、政府に対する激しい批判。為政者や行政に対する民間の厳しい批判を「草茅危言」と言いますが、先ずは「千思万考」です。いろいろと考えを巡らす必要があります。それはあくまでも「黄絹幼婦」でなくてはなりません。黄絹は色糸であるから、この二字を偏と旁に置くと「絶」の字になる。また幼婦は少女で、この二字を偏と旁に並べると、「妙」の字になる。「絶妙」の意味です。この意味を判読したことも見事ということですが、このように批判された本人も、思わず唸ってしまうようなものであって欲しいものですね。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言33 [趣味・カルチャー]
「須佐能尊」
須佐能尊に関しては、様々な調査研究があって、それこそ様々な話が伝えられています。その分だけこれが最も正しいということも言い難いのですが、日本の歴史資料である「古事記」「日本書記」という代表的な史書でも、すべてが間違いないかどうかというと、須佐能尊の略歴を書くにも大変困難が伴ってしまいます。
私はこれまで彼が記録した足跡を整理しながら、おおむねこのような方であろうと思って、その足跡をまとめてみました。
天照大神に対する非礼な行為があったということで、天上界から追放されることになってしまうのですが、その時から須佐能尊はかなり破格の性格をお持ちの神であったようです。彼が追放されて去っていくのに合わせて雨が降ったり、風が吹いたりして、水霊神としての奉仕をしたり、やがてやって来た出雲の八岐大蛇を退治して、クシナダヒメを娶って宮づくりをしたり、「八雲立つ・・・」という祝婚歌を歌っての豊穣神としての働きを示したりしていきます。しかしこんな働きの中でも一寸変わっているのは、備後風土紀に書かれる蘇民将来の主人公である武闘神は・・・客人神の須佐能尊だと名乗っていたようで、どうも異国の神めいた客人神のような性格を持っていらっしゃったところもあるようです。
実に複雑で、農神、疫神として新興する者も多く、この神を祀る祭事は大体夏祭りを主にしますが、あの京都の八坂の牛頭天王の発祥は韓国の神で、疫病を封じる力のある神なのですが、それも須佐能尊であるとも言われているのです。天王(祇園社)系の祭りの中心は疫神送り、御霊信仰によるものです。そして夏祭りは春・秋の祭り(氏神)系の祭りとは違って、山車・鉾・風流ものなど派手な祭りであるのが特徴です。
貴族の祭りである葵祭に対して、疫病を封じる祭りである祇園祭はそれを願う庶民の祭りとして、今でも盛んに行われていますね。その神は何と須佐能尊なのです。
興味深い神ですね。
嵯峨天皇現代を斬る その十一の三 [趣味・カルチャー]
第十一章 「落書きの真意を知るために」(三)
課題「衝撃の記憶」
誣告といわれる事件は、おおむねその真相を突き止めることもなく、うやむやになって消滅してしまうことがほとんどでした。訴えといっても、すべてが真実とは言えない時代でした。
為政者・平城天皇
大同二年(八〇七)十月二十八日のこと
発生した問題というのは
平城天皇が即位した頃、祖霊桓武天皇時代から、政庁でその実力を評価されて天皇からも大事にされていた伊予親王は、藤原氏の中で南家に属するために、同じ藤原氏の北家に属する者にとっては邪魔な存在でした。祖霊の死後即位した平城天皇を支える主要な人物でしたが、十月下旬のことです。すっかり注目を浴びる存在となってきていた伊予親王について、突然いやな噂が流れ始めたのです。彼の家人である藤原宗成という者が、親王に対して謀反をそそのかしているということを、伊予の母吉子の兄である、大納言の雄友のところへ密告してきた者がいたというのです。それはただちに右大臣の内麻呂に報告され、それは間もなく帝の耳にも入り、皇太子の神野にも伝えられました。
いつかこんなことが・・・と思っていた不安が、ついに現実のものとなってしまったのです。先帝の足跡を辿る作業の中でも、その時代その時代できわめて重要な存在であった、皇后井上内親王、皇太子他戸親王、早良親王が、疑いをかけられたままそれを晴らす機会も与えられずに、断罪されて悲劇的な死を遂げてしまった前例があるのです。
(伊予親王に危機が・・・)
神野は驚愕で体に震えがきましたが、皇太子が動き回るようなこともできません。
伊予はただちに天皇に釈明をいたしました。
宗城が私に勧めたのは己の立身出世のためであって、私のためでもなんでもないと真摯に釈明をいたしました。しかしそれは認められず、二日後には左近衛府へ捕らわれた宗城が、謀反の首謀者こそは伊予親王その人なのだといいはりつづけたというのですそれを知った天皇は一気に怒りを爆発してしまわれて、皇族で侍従であった中臣王を捕えると、伊予と共に謀をしたのではないかと疑い、厳しい詰問と拷問を指示して取り調べを行わせたのです。容赦なく大杖で打たせつづけさせたために、彼の背中はただれて、ついにはこと切れてしまったといいます。
為政者はどう対処したのか
朝廷は左近衛中将安倍兄雄、左兵衛督巨勢野足と共に百五十人の兵士を送って、伊予の邸を包囲すると、母の吉子ともども逮捕してしまいました。しかし取り調べにあたった兄雄は、帝に対してかなり伊予の潔白を論じたといいます。ところがこれまでの習性で、一度疑いをかけられると、それを覆すことはほとんど叶わないのが通例です。母子は十一月二日に、大和の川原寺へ幽閉されてしまうと、一切の飲食も許されないまま、緊迫した時を過ごした後、十一日には帝が結論を下して事件の関係者の役職を解き、伊予については親王の称号を廃号として、祖霊桓武天皇の陵に報告したというのです。
衝撃的な事件でもあったことから、平城天皇は即位後の大事な儀式である大嘗祭を中止されました。その報告が川原寺へ伝えられた翌日、二人は名誉を守るために、夜明け前に近くの法興寺(飛鳥寺)、橘寺から打ち鳴らされる鐘の音を、この世の別れと聞きながら毒をあおって自害してしまったということでした。
それにしてもあまりにも誣告による訴えから起こる事件が多すぎます。しかもいったん怪しいと思われてしまうと、どう釈明してもそれを払拭することはできなくなり、最後は自らの名誉を守るために自殺するという結末を辿ってしまうことになるのです。現代の問題として取り上げるにはそれなりに意味があるのではないでしょうか。事件の取り調べで冤罪といわれるものもかなりあり、社会の関心も高いのですが、せめて古代のような誣告のために犠牲になるようなことが起こらないようにしたいものです。果たして現代では、このような事件は皆無ということができるのでしょうか。
現代ではもっと巧妙な手立てで、権力を奪う熾烈な戦いが行われているかもしれません。
温故知新(up・to・date)で一言
真相追及の目は閉じてはいけないということです。古代のようにいつの間にか真相追及の声が鎮まり、やがて事件についての関心が消え失せてしまうようなことにはしたくありません。現代でも事件をうやむやにしてしまうようなことがかなりありました。世の中には、「権謀術数」に長けている者がかなり存在しています。口先ではうまいことを言うが、内心では悪い心を抱いている「綿裏包針」という言葉があります。つまり柔らかい綿の裏に鋭い危険な針を包んでおくように、巧みに人を欺くはかりごとが横行しています。しかし「市虎三伝」といって、事実でないことも多くの者が言うと、いつか信じるようになってしまうもののようです。そんな加害者にならないという自信を持って生きて貰いたいものです。