☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ13 [趣味・カルチャー]
「更新日変更のおしらせです」
来週の四日の日曜日はブログの最終回の公開日になりますが、それを都合により、急遽明日、十一月月一日に変更させて頂くことになりました。
突然の変更通知で申し訳ありません。
いよいよ「嵯峨天皇現代を斬る」も終わります。
改めてご挨拶いたします。
藤川桂介
令和五年中秋
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆閑36 [趣味・カルチャー]
「またたく星」
冬になると空気が澄んでくることもあって、夜空を見上げると、星が鮮やかに見えるようになります。
都会暮らしていると、あたりは超高層ビルの林が多くて、
満天の星空を見上げることもなくなりましたが、たまたま都会から離れて田園地帯へ行って、そこで遮るもののない広々とした荒野の中で見上げる夜空の世界は、実に神秘的でロマンに満ちています。
満天の星は未知の世界へ招くように、ちかちかとまたたいていています。
まさにロマンの世界です。
これは星の光が密度の異なる厚い空気の層をくぐり抜ける時に起こる一種の屈折現象で、空気がなければ、または起こらないのだそうです。仮に空気があっても非常に希薄な大気圏を飛ぶ人工衛星からは、星のまたたきも見られなくて、死の世界を見るような気持ちになるかもしれません。かつて人は夜空から神を感じたり、美しい物語を想像して眺めていたのでしょう。
秋から冬へと変わっていく季節では、思わず未知の政界へ誘い込まれるような夜空があります。
時には現実を忘れて田園に出向いて、夜空が繰り広げている広大な神秘とロマンの世界に、しばし見とれていたいものですね。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆お知らせ14 [趣味・カルチャー]
「ブログ完結に当たって」
長いことお付き合い頂きましたが、十月をもって「嵯峨天皇現代を斬る」を完結することもなりましたので、これから先につきましては、しばらく考えたいと思うことが多々ありますので、しばらくブログはお休みにさせて頂き、これからについてゆっくりと考えたいと思いました。
これまでのご支援に感謝したいと思いますが、年齢的な問題もありますので、来年春までは、ゆっくりと休養しながら今後について考えたいと思っています。しかし時には思いつくままに投稿することがあるかも知れませんので、これまでどおり日曜日には雑談めいたことにお付き合いして頂くことになるかも知れません。
それではこれで、暫くお休みさせて頂くことにさせて頂きます。
どうぞ充実した年末をお過ごしください。
来年は少しでもいい年になりますようにと、祈りを秘めてお過ごし下さい。
藤川桂介
令和五年秋
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆言35 [趣味・カルチャー]
「大寒小寒のわらべうた」
昔の「わらべうた」の中にこんなものがありました。
大寒 小寒
山から小僧が泣いて来た
何といって泣いて来た
寒いといって泣いて来た
岩波文庫によると、こんなわらべ歌が歌われてきたのは、山形、福島、茨城、群馬、千葉、東京、静岡、愛知、岐阜、岡山、愛媛だといわれていたといいます。
そんな「わらべうた」の中でも三重、香川では、
山にずっきん(頭巾)おいて来
というのもあるそうです。
これを見ると、これらの「わらべうた」が多くの場合太平洋がわの地方で歌われていたそうで、その理由を調べた結果ある理由が判りました。冬の寒い風はシベリヤやモンゴルの方から、日本海を越えて日本に吹き込んで来るので、そのために日本海側の地方では寒さが海からやってくることになるようなのですが、寒い風は日本列島を縦断する山脈を吹きこえて太平洋側の地方に吹きおろすのですので、そのためにこの地方では寒さが山からやって来るので、この風は乾いているために肌に突き刺さるといいます。
山を越える時に雪を降らせて乾いてしまうからだそうで、その雪が「わらべうた」では「頭巾」と表現されたのだろうということです。
それぞれの地方で、おかれた環境の特徴を反映した季節の現象を、わらべ歌に反映して歌っていたわけで、科学全盛の時代では生まれない「わらべうた」かも知れませんね。
嵯峨天皇現代を斬る その十一の七 [趣味・カルチャー]
第十一章 「落書きの思いを知るために」(七
課題「結びの言葉」
長いことお付き合い下さって有難うございました。
未整理のまま読みずらいことも多々あったと思いますが、兎に角四苦八苦しながら最後まで辿り着きました。
古代と現代を、政治・経済・文化を通して何らかの接点があるのではないかという思いがあって、平安時代の中で一番安定した時代であったという評価を得ていた、嵯峨天皇の治世であった年月を選んで、どんな生活をしていたのか、為政者はその時の事象にどう対処してきたのかということを取り上げて、現代との接点の中で評価してみました。兎に角古代と現代を比較するということは、すべてが同じ条件で比較しないと無理だと思っていたのですが、あまり窮屈に考えないで、思い通りにやってみようとして書いてきました。
お互いに厳しい制約の中で仕事をしてきた人々が、そろそろそうした制約された時間から解放された状態になられてきています。そうした自由な時間を獲得されたみなさんと、気楽に雑談をしてみませんかという思いから始めた企画でした。聞くところによりますと、まったく自由に使える時間を獲得したものの、その自由時間の使い方に苦慮していらっしゃる方もかなりあると聴いていますので、是非この企画に参加して頂けたらと思って書いてきました。素材としては大変地味なもの嵯峨天皇現代を斬る その十一の七でしたが、お陰様でブログの中での人気は、かなり予想外の人気を維持してこられました。本当に長いお付き合いをして頂き有難うございました。
今回はまったく創作的なところは極力さけて、その時の現実を取り上げることに専念いたしましたが、次回は創作を原点にしたお話で楽しんで頂こうと考えております。
しかし私も来年は卒寿という高齢に達しますので、ブログの終わり方についても、いろいろと思案しているところです。これからのことはじっくりと考えてみたいと思います。
取り敢えず長いこと「嵯峨天皇現代を斬る」にお付き合い頂いたことに感謝いたします。
有難うございました。
どうぞいい年をお迎えになられますようにお祈りいたします。
藤川桂介
令和五年秋
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑35 [趣味・カルチャー]
「天気予報のはじまり」
最近は気象状況が不安定になっている関係もあって、天気予報の放送を見たり聞いたりする状態が、昔とは大分違った気持ちになっているのではないでしょうか。それと最近大変目立つことといえば、女性の気象予報士が大変多くなったということでしょうか。
そんなことから、特に「天気予報」というものの始まりに興味を持って、あの予報という習慣はいつごろからのものなのか調べて見ることにいたしました。
一寸した気象状況の変化が、時に予想もしない災害を及ぼしてしまうといいことがありますから、大変大事な職業ですが、それだけ天気予報士という職業には期待も寄せられますし、それなりに緊張感もあるのです。そんなことからこの職業を目指す人が多くなっているのではないでしょうか。
そこで「天気予報」というものは、いつごろ始まったのかといったことを調べてみたくなったのですが、どうも6月1日というのが、気象史上にとってはかなり出来事の多い日であったようですね。
1860年の桜田門外の変があった年には、オランダが世界ではじめて暴風警報事業などというものを始めたそうですし、新しいところでは明治八年・・・1875年に東京で気象観測が始められ、それが今日の気象記念日になっているようなのです。更に昭和三十一年の6月1日は中国が大陸の気象資料を公開しました。そして日本で天気予報が最初に発表されたのも、明治17年6月1日が始まりでした。
現在は政治、経済に大いに関係がありますし、日常生活でも天気予報は欠かせないものとなりましたね。
嵯峨天皇現代を斬る その十一の六 [趣味・カルチャー]
第十一章 「落書きの真意を知るために」(六
課題・「皇太子決定を揶揄して」
平安時代になる前までは、かなり皇太子を巡る悲劇が繰り返されてきたのですが、嵯峨天皇が即位した時から、もう皇太子にした者は絶対に悲劇の人にはしないという決心をされたのです。第二章「安穏な暮らしを保つために」「その一」「戦力の不足を知る」で嵯峨天皇が味わった無念な思いについて詳しく書いてありますので、機会を見て是非ご覧ください。
ところが文徳天皇が即位してまもなく、嵯峨天皇の念願の思いは、また覆されてしまったのです。
文徳天皇が皇太子に就けようと熱望していらっしゃった、第一子の惟喬親王を無視して、この年に、右大臣が推す親族の惟仁親王を皇太子にしてしまうことになってしまったのでした。
為政者・文徳天皇
嘉祥三年(八五〇)十一月二十五日のこ
発生した問題とは
嵯峨王朝も次第に力を失い、藤原氏の勢いだけが強くなってきていました。文徳天皇はその第一皇子である惟喬親王を皇太子につけたかったのですが、右大臣にとって政敵であった、紀名虎の娘静子が生んだ子であったことからなかなか承知されません。政庁で起こっていることについてはまったく知らされないことから、民にとっては謎でしかありません。実は文徳天皇にはすでに三人の皇子がいたのですが、そこへ第四皇子として惟仁親王が誕生するのです。実はその母が、実力者藤原良房の娘明子であったのです。そんな事情についてはまったく知らされない民は、文徳天皇が即位して時が経つというのに、政庁で起こっていることについてはまったく知らされないことから民にとっては謎でしかありません。一向に皇太子が立てられないという異常事態が続いていることに異様なものを感じるようになっていたのです。ついにその異常事態を解消しようとした公卿たちから、現代ではとても考えられない苦肉の解決策が打ち出されたのでした。
為政者はどう対処したのか
公卿たちから思いがけない提案が行われたというのは、競馬、相撲で勝負して勝った者の推す者を皇太子とするという、奇想天外な提案だったのです。結局競馬は惟仁親王側が勝ち、相撲の勝負となった時、惟喬親王側の代表として怪力の紀名虎が登場して惟仁親王側を圧倒するのですが、あわや負けになりそうであった時に、惟仁親王側の者が彼らの勝利を祈っていた僧正に危機を知らせます。すると僧正は突然、手に持った独鈷を脳天にぶち当てて砕くと火の中に放り込んで祈るのです。その結果、一気に形成は逆転して、惟仁親王側が勝利してしまうのです。皇太子問題はこの年十一月に、ついに今上の意に反して、右大臣が推す親族の惟仁親王を立てることで決着してしまったのでした。その勝負による決着という話は、あくまでも伝承に過ぎないとしても、その不自然な皇太子の決定は、直ぐに世間に広がって「三超」と揶揄されるのでした。
「大枝を超えて、走り超えて、騰がり躍どり超えて、我が護もる田にや、捜あさり食む志岐や、雄々い志岐や」(日本三代実録)
(大枝・・大兄惟喬親王・・から私が大切にしている田に、勝手に飛び込んだ鴫は思うにまかせて餌をついばんでいる)
つまり更衣の紀静子は文徳天皇に一番愛されていて、惟喬親王、惟条親王、惟彦親王をもうけているのですが、その三人の兄弟を飛び越えて、第四皇子でしかも生後九か月にしかならない幼児を立太子としたというのです。明らかに右大臣藤原良房を揶揄した童謡です。
やがて彼は強引に惟仁親王の立太子を強行しますが、文徳天皇は意欲を失って宮中を離れて暮らすようになり、天安三年(八五八)に三十二歳という若さで崩御してしまいます。
やがて惟仁親王は清和天皇となるのですが、「朝廷は遷都を実のある形にするために、政情の安定を願っていたのですが、それが容易に叶えられないのは、蝦夷での抵抗が激しいために、その討伐、鎮圧にかなりの財を費やさなくてはならないという問題を抱えていたからです。清和天皇はあまりにも幼すぎることから、すべての政務は、藤原良房が摂政太上大臣として取り仕切るようになってしまったのです。
為政の世界の強引な権力闘争ですが、庶民は決してそれを見逃してはいないよという意志表示を、童謡という形で批判したのです。それにしてもあの童謡は、良房の行為を鋭く見つめて、鋭い批判の矢を放っています。しかもその童謡の中では、皇太子になるはずの惟喬親王に対する同情を漂わせながら、権力を思うがままにしている良房を痛烈に批判しているのです。
すべてのことにまだまだ意識が遅れている時代であったころなのに、あの落書きの鋭さは異質です。ひょっとすると政庁に近いものが、良房への批判を籠めて世に流したのかもしれません。しかし落書きといっても、古代と現代のそれには、それに籠められている意識に、あまりにも差があるので愕然としてしまいます。はっきりとした為政に対する意志表示であったのに対して、現代の落書きの意味のない自己中心ぶりに呆れるばかりです。ただの落書きで古代のそれとはあまりにも違い過ぎて言葉を失います。
温故知新(up・to・date)
天皇の第一皇子でありながら、天皇以上の権力を持った藤原氏の「生殺与奪」の横暴な権力のために、皇太子になれなかった惟喬親王はそれから後、風雨にさらされた「櫛風沐雨」という状態で、非情に苦労する苦難の道を過ごすことになるのでした。彼はやがて大原の里へ引っ込み静かに暮らします。
政治に対する批判精神は、まださまざまな点で遅れていた時代であった中では、実に鋭いものの芽生えを感じます。 しかし彼はまさに不自由な身の上で、籠の鳥である「池魚篭鳥」だったのでした。
彼に同情した在原業平は公務の忙しい中を、大原の里まで親王を慰めに行っています。政治の世界にはこうした非情な境遇に出会う親王のような人が、沢山いるような気がいたします。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言34 [趣味・カルチャー]
「やにわに」
穏やかに話し合いは済むと思っていたところ、矢庭に相手は、過去に世話をしたことがあるので今回はそれに応えて貰うといって、話し合いの途中で「とても大幅には譲れない」などという風に予想もしないことを言い出したりする時などに使われます。交渉事の始まりなどに、矢庭に思いもしないことを持ちだされたというよな経験はなかったでしょうか。
漢字で書くと、「矢庭」と書くのですが、これは単なる当て字をしたわけではなく、実際に即して使われているのです。つまり「庭」という概念が、現在考えられるように、ごく狭い範囲の庭で放たれたものらしいのですが、昔はかなり広い範囲で、家の近くの場所といったくらいの漠然とした意味で使われたようで、突然矢が飛んでくる可能性もあったのです。つまり矢の射程距離内の場所ということでしょうか。突然矢が飛んで来る予想外なこともあったのでしょう。
交渉事で矢庭に問題を持ちかけられることの方が多かったことから使われるようになったのかも知れません。何とか話し合いで穏やかに治めることができるかもしれないと期待しているところなのに、「矢庭に」矢を打ち込まれたりしては大迷惑ですね。
兎に角、交渉事の最中に、いきなり結論を急ぐような、思いがけない条件を持ち出したりすることは止めることです。時には相手の意表をつく作戦として「矢庭」な発言をすることもあるかもしれませんが・・・。
嵯峨天皇現代を斬る その十一の五 [テレビ]
第十一章 「落書きの思いを知るために」(五)
課題・「廃太子淳和院へ送る」
この件については、すでに第五章「決断の時を誤らないために」「その六」「陰謀・密告・序和の変」で細かに紹介しておりますので、ご覧頂きたいと思います。
敵味方が共に秘策を練って戦う、政庁内での権力争いが原因で、その結果がもたらした噂です。
政庁内で起こることは、その前から町の人々はさまざまな微妙な動きから情報を得ているようで、政庁では全てを内密に済ませようとはしているのですが、町の者はすでにほとんどの出来事に敏感で、事件のすべてについて知っているようでした。そしてやがて事件についての庶民の痛烈な批判精神が、童謡となって現れてきました。落書きではありましたが、現代の落書きとの大きな差を感じざるを得ません。政界に起こっている事件を、いち早く世間の者に知らしめようとして、実にその事件の真相を落書きで訴えていたのですが、現代の落書きは、ただただいたずら書きをしただけで、迷惑でしかありません。
為政者・仁明天皇
承和九年(八四二)八月十三日のこと
発生した問題とは
嵯峨天皇の孫である、仁明天皇の皇太子、恒貞親王を中心にして、東宮に勤める若い官人たちを中心にして、大納言藤原良房を中心とした政庁の権力者たちが、あくまでも現実主義的な為政を行なうのに反発して、今は病床にある嵯峨太上天皇の為政を理想として改革を行おうとしているのですが、彼らは橘逸勢、伴健岑と共に、大納言藤原良房の元で弟の左近衛少将藤原良相が指揮をする近衛などに急襲されて逮捕され、政権の交替を狙った皇太子の謀反は挫折してしまうのです。そのきっかけとなったのは、かつて「薬子の変」で連座したのを、嵯峨太上天皇の恩情によって官衙へ復活させてもらった阿保親王が、病臥していらっしゃる太上天皇の病状を考えて、知っていた皇太子の企てを嘉智子太皇太后に密告したのがきかけでした。それは直ちに良房にされてしまって、彼に利用されて先手を打たれてしまったのです。世にいう「承和の変」というものです。恒貞親王は廃太子とされ、新たに右大臣の親族である道康親王が皇太子となってしまいました。その結果を知った恒貞親王の母である淳和天皇の正子皇太后は、嵯峨院へ向かわれると、「震怒され、悲号して母の太后を恨む」と史書「三代実録」に書き止められているほどで、阿保親王から謀反の企てがあるという密告があった時に、なぜそれを押しとどめることもしないまま、軽挙妄動して大納言の藤原良房に事態の収拾を託してしまったのかと、母の嘉智子太皇太后に激しい怒りをぶっつけたといいうのです。
同じころ一時は暗雲が漂っていた大納言は、一気に心配事を払拭することができて安堵の吐息をついています。やがて即位することになるであろう道康親王に、娘の明子を嫁がせることができることにでもなれば、彼女は皇后となり天皇の外舅(妻の父)となって、絶対的な権力が振るえるはずです。野望実現のための布石は間違いなく敷き終えることができたことに満足しているのでした。そんな様子はたちまち巷での格好な話題となって、風刺歌の童謡として謳われたのでした。
天には琵琶をぞ打つなる、玉児の裾牽くの坊に、
牛車は善けむや、辛苣の小苣の華
(殿上で音楽を楽しんでいるはずの人が、着飾った女性が行き来する京の大路を、牛車に乗っていくのは快いものであろうか。苦味のする苣のように辛いことだろう)
為政者はどう対応したのか
承和九年八月十三日。廃太子として恒貞親王は小車に乗せられて宮中を出ると、神泉苑の東北の隅で牛車に乗り移り、淳和院へ送られることになったのです。
廃太子が宮中から退出されるという噂を聞きつけた不拘の人在原業平は、神泉苑の近くへ駆け付けると、じっとその様子を見つめていました。
政治の世界の醜い権力闘争というものが、こんな風にして収められていくのかと思うと、ますます政庁との間には距離が生まれていくのを抑えられませんでした。
朝廷からは淳和院へは誰も行ってはならないという命が出され、万一それを犯す者があれば、処罰されるという厳しいお達しまで出されました。恒貞親王は淳和院の中にある東亭子という御殿に幽閉され、悲嘆に打ちのめされたまま暮らすことになったのでした。
そんな承和十四年(八四七)十二月のある日のことです。政庁の動きとはまったく縁のない、淳和院の東亭子御殿に幽閉されていらっしゃる恒貞親王は、思いがけない方の訪問を受けることになったのです。
祖霊平城天皇の第三皇子で、祖霊嵯峨天皇の皇太子であった高岳親王です。薬子の変で連座したために廃太子となってしまったために、失意のうちに宮中を去って僧衣をまとう人となるのですが、その後嵯峨太上天皇の配慮があって空海の弟子真如法親王と名のり、政治の世界とは無縁の存在になっていた彼は、正子皇太后から連絡でもあったのでしょうか、親王の甦りのために手を貸そうとしてやってこられたのです。
すっかり望みを絶たれて生気を失った恒貞親王を誘って、東亭子御殿を出られると、苑池を巡りながら静かに語り掛けられました。
「廃太子となられて、現世での生命は終えられたとしても、新たに生きる道はございます。自然に還りませんか」
それこそが、祖霊嵯峨天皇が長年心に秘めていらっしゃった思いに通じることではないでしょうかと話し掛けます。
一度は現世での道は断たれても、甦るための道筋まで断たれたわけではないのだと訴えるのです。そのためにも仏道修行をしてみませんかというのです。それによって自らの世界を切り拓くこともできると熱心に訴え続けるのでした。
頑なになっていらっしゃった恒貞親王も、いつか新たな生きる世界が開けるという説得に、心を動かされていきました。
(私が生きることで、幾多の命が活きることに・・・)
「恒貞親王はその言葉の一つ一つを、母の正子皇太后の思いとして受け止めるようになっていらっしゃいました。仏道修行を決断されると、真如法親王の手によって髪を落とし、沙弥戒(修行僧として護るべき規則)を受けられて衣を僧衣に変えられると、法名も贈られた恒寂となさって、修行の世界へ飛び込んでいかれる決心を固められたのでした」(後拾遺往生伝)
(多くの生を活かすために、新たな道を切り拓く・・・)
その思いを成し遂げる道を歩き始めようとしていらっしゃる恒寂親王は、立ち去っていかれる真如法親王の後ろ姿に、清冽な美しさを感じ取っていらっしゃいました。そして二十五歳の親王はこの時から、十一年の間秘かに消息を絶つようにして仏道修行を積み重ねていかれ、その後大覚寺の門跡として復活するのです。
人生の変転は、今も昔も変わりません。
まったく人生がどういう形で終わることになるのか、誰も判りません。しかしそれぞれが自ら選んだ道筋が平たんであるか、茨の道であるのかは、誰も予測して選ぶことができません。
どう生きるのか。それはその人、その人が決めることです。成功もあれば、しくじりもあるでしょう。しかし人生の最期を決めるのは、所詮あなたでしかありません。
温故知新(up・to・date)でひと言
人生。最後まで諦めてはいけないという教訓です。いつか甦る機会が巡って来るかもしれません。昔からいわれる「禍福糾纆」の言葉どおりの世の中です。幸福と不幸は表裏一体で、昨日まで皇太子であった者が、企みの象徴に祭り上げられていたために廃太子となってしまうのです。世の中は常に移り変わり留まることがありません。「有為転変」です。非常にその立場境遇をも変えていってしまいます。加害者、被害者の立場を冷静に見届けている目が必要です。そんな中で一時不遇であっても「百折不撓」いく度挫けても志を曲げずに、信念に従ってやがて復活して貰いたいと祈りたいと思います。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑33 [趣味・カルチャー]
「ご馳走様」
親しくお付き合いしているお宅へお招き頂いた上に、美味しい手料理などで接待して下さったりした時など、「ごちそうさまでした」とお礼を言うのは当たり前の挨拶でしたが、たまたま「五右衛門風呂を作ったので、使ってみてくれない?」などと誘われた時などは、思わず遠慮しながらも初使いをさせて頂いたことがありましたが、この時お風呂へ入った後で、何といってお礼を言うべきなのだろうかと戸惑ってしまったことありました。私は「いいお湯でした」と、当たり前の挨拶をしましたが、その日一緒に行った友人は、私の後で出てくると、実に落ち着いた口調で、「ごちそうさまでした」と挨拶したのです。
私は思わず「あれ?」と怪訝な表情になりましたが、それから暫く戸惑ったままだったことがありました。しかし調べて見ると、「馳走」というのは、本来「走りまわる」とか「駆け巡る」という意味で、食事を作るためにそのお宅の奥様が、材料集めをしたり、煮たり、焼いたり、かなり体を動かすことになることから、そんなことを推察して「ご苦労様です」というようなことを伝える意味があったのでしよう。確かに貰い風呂をした時などは、火を付けたり、その面倒を見たり焚き木を集めたりで大変でしたねという意味を含めて、「ごちそうさま」というになったのではないでしょうか。
しかし昨今は、すべてスイッチ一つですんでしまうようなことばかりです。そんなことを考えると、現代ではお風呂に「ご馳走様でした」などという挨拶は、一寸不釣り合いになったような気がいたしますね。