☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑16 [趣味・カルチャー]
「チマタ考
かつて私たちが暮らしていた日常は、連帯ということが基本になっていましたが、そういう社会常識と言うものは、昨今は時代の変化が激しいこともあって、大きく変化してきました。
昨今は「孤」の時代が浸透してしまったようで、若い人もほとんどはごく少ない友人との交遊という状態で生活しているようです。
そんなこともあるのでしょうか、最近の若い人は「人見知り」傾向で、なかなか新たな人には馴染まないところがあるようなのです。
かつて京都の美大で教鞭を執っていた経験があるのですが、生徒が多くの人と交流している様子があまり見かけられませんでした。
藝術とは言っても、主に映像関係とかイラスト関係に進もうというのであれば、少なくとも人見知りという性格では、多くのアーテイストがかかわる作業には、とても加わることができませんし、多くの人の支持を得てその業界で成功することは出来なくなります。さまざまな人間の喜怒哀楽を知り、人を知らなくては、もの作りに携わることは難しいと思うのですが、人間と出会うことを忌避してしまっていては、はじめからもの作りを拒否してしまうに等しいことになってしまいます。
そこでわたしは入学時に、彼らにこんな言葉を贈りました。
(大学というところは、自分探しの旅をするところだ)
さまざまな人やものが行き来する賑やかな町の通りを、現代では「巷」と言いますが、昔々人々は、「知未多」という字を当てて呼んでいました。
「未だ知ること多し」とは、言い得て妙だとは思いませんか。
そこへ行けばさまざまな人、さまざまな出来事に出会うこともできるし、
最新の情報も飛び交っています。だから年齢に関係なく、人は「知未多」へ出ていって、世の中と接するということが大変大事な心がけであったのです。
古代も現代もありません。家に篭っているだけでは、時代の流れ、世間の空気と遊離してしまうし、移ろいやすい人の心の動きも、まったく掴めないままになってします。時にはそういった性格のために人に接することを拒否して、得意な世界を作りあげる人もいるにはいましたが、それはあくまでも異例なことです。
やはり若者などは、「知未多」へ出ていって揉まれてくることが、大人になっていく大事な通過儀礼だったのです。時には道を誤ってしまう者も出たりしますが、多少は嫌なことも、裏切られることも、あきれさせられることも経験させられることがあった方が、将来の成長のためにはなるような気がいたします。可愛い子には旅をさせろというのは、こんなところから生まれた言葉なのでしょう。
大学生活も自分探しの旅に出ているようなものです。
いろいろな教授、いろいろな友達とであいながら、これまでとは違った世界を吸収していくところです。
大学という「知未多」も、いつも動いていて、見るもの、聞くこと、試すことが、すべて新鮮で、刺激的で、期待感に満ちたところです。
きっとそんな中で、いち早く自分探しに成功する者もいるでしょう。
反対になかなか見つからずに苦闘する者もいるでしょう。しかし大事なのは、今は真の自分探しの旅に出ているのだということを、決して忘れないということだと思います。
こんな挨拶を送ったことを思い出します。
人と接することに憶病な若者が、一人でも減って欲しいと思っています。
そのためにも、古代の人の残した示唆に富んだ言葉、「知未多」ということを、一人でも多くの人に知って貰いたいと思っているのですが・・・。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の六 [趣味・カルチャー]
第五章「決断の時を誤らないために」(六)
為政者の課題・「陰謀・密告・承和の変」
承和九年(八四三)、長いこと平安時代の平穏な暮らしを維持することに貢献してきた嵯峨太上天皇も、病床から復帰することが出来ないまま、天命の時を迎えようとしていました。
太上天皇の最期が迫って来ていた時から、政庁を中心に、いや、その内外を中心に、次の時代へ向かった動きが進められていたのです。
よく未開発国世界では、為政に対する不満が頂点に対して起こるテロ行為とは一寸違います。あくまでもこれまでの為政に大きな力を発揮してきた人が、政治の世界から去らざるを得なくなるという時が迫った頃から、新たな方向へ向かった為政の指導者を押し立てようという動きが、密かにうごめき始めていたのです。
それに歩調を合わせるかのように、宮殿の中だけでなく巷にも「物の怪」などという得体のしれないものが現われたりし始めます。
病床にある嵯峨太上天皇の様子が、まったく芳しくありません。暫く前から太上天皇の最後を予想して、藤原良房を中心とした政庁と、春宮の皇太子の恒貞親王を中心とした人々の間には、実に不気味な動きが生まれていて、いつそれが暴発するかと、近くにいた者たちは不安になっていたのです。
そんな最中の太上天皇が最後を迎えようとしている時に、祖霊平城天皇の御子である阿保親王が、皇太子たちの動きについて仙洞御所の嘉智子皇太后に密告してきたのです。
そんな緊迫した中で、承和九年(八四三)七月十五日。ついに嵯峨太上天皇が崩御されたのです。
すでに太政天皇は生前に遺訓(遺書)を残しておられたことから、葬儀は即日薄葬で済まされ、直ちに仙洞御所の裏山である嵯峨山上に埋葬されました。ところがそれで、すべてが平穏なまま御子である仁明天皇の統治されることになったのかというと、あまりにも大きな存在が亡くなったために、とてもそうはいきませんでした。
すでに暫く前から進行していた政庁とそれに抵抗する若い官人たちの動きが一気に火をふきだしてしまったのです
為政者・仁明天皇
承和九年(八四三)七月十五日のこと
発生した問題とは
皇太子を中心とした東宮の者たちは、葬儀を待って皇太子を連れて東国へ向かい、そこで新たな政庁を興そうとしていたのですが、それを密かに企てていた中心人物の、橘逸勢、伴健岑が次々と逮捕されてしまうことになったのです。
政庁は阿保親王の密告を基にして六衛府に宮城門と内裏を守らせると、それと同時に左右京職に平安京内の街衢(ちまた)の警護をさせた良房は、山城国の五道を閉鎖して、宇治橋、大原道、大枝道、山崎橋、淀橋を守らせていたのです。
拘束した健岑、逸勢の尋問が、直ちに始められましたが、なかなかその真相がはっきりと致しません。笞杖(笞と杖)による拷問も行われているようです。
嵯峨太上天皇の崩御から七日もしたころ、良房の弟、勅使左近衛少将藤原朝臣良相は、近衛兵四十人を率いて、皇太子の直曹(内裏内の控え所)を包囲して武装を解除させると、武器を勅使の前に積み上げて置かせ、皇太子恒貞親王に従がう者たちを幽閉してしまいました。
すると間もなく良房の叔父に当たる、藤原愛発をはじめ、藤原吉野、文室秋津という、淳和太上天皇以来の重臣たちを、次々と呼び出すと八省院へ閉じ込めてしまったのです。実に素早い処理です。
仁明天皇は良房の進言に基づいて詔を発し、首謀者とされた健岑、逸勢を謀反人として断定すると、その責任を皇太子恒貞親王に負わせて、彼を援護してきた愛発の栄職を解いて直ちに京外へ放逐。藤原吉野、文室秋津をそれぞれ太宰員外帥、出雲員外守に左遷してしまいます。
どうやら良房は同じ藤原一門でありながら、邪魔になる有力な二人を政界から放逐してしまったのです。
間もなく今上は伴健岑、橘逸勢は合力して国家を傾けようと謀ったと述べられて、健岑を隠岐の国へ遠流。逸勢は姓を非人とされて伊豆国へ流されることになりました。
いずれは政庁を支えて行くであろうと期待されていた英邁の士であったのですが、藤原氏から警戒されて弁明も許されないまま、激しい拷問を受けた彼の体は腫れ上がってしまっていて、護送途中の遠江国板築(現浜松市三ヶ日町本坂)辺りで亡くなってしまったといいます。
為政者はどう対処をしたのか
老獪な良房はこうした事件も、自分にとって有利な展開となるように企み、邪魔になると思われる有力氏族の勢いを削ぐことにも利用しました。
その一つの標的であったのが、嘉智子太皇太后の一族である橘氏です。逸勢の処罰をきっかけにして、一気にその勢いを奪ってしまったのです。
内裏に引きこもってしまわれた仁明天皇は、気持ちが優れません。確かな容疑も固まらないまま拷問で痛めつけられた逸勢を、伊豆国へ流罪としてしまったために、旅の途中で亡くなったということを聞いて、彼はやがて怨霊になって襲ってくるのではないかと、怯えるようになってしまったのでした。
改革を夢見て、事を起こした東宮坊の官人六十余も、一度は逃亡したものの自ら出頭してことごとく流刑となってしまい、八月十三日には、宮中に拘束されていた恒貞親王は、四振りの剣を袋に入れて、勅使右近衛少将藤原富士麻呂に託して蔵人所へ差し出しました。
今上は直ちに参議朝野鹿取を嵯峨山へ遣わして、皇太子が健岑、逸勢が企てた悪しきことに関係していたことが判りましたので、国法に従って皇太子の位から退けることにしましたと、祖霊に対して報告致しました。
廃太子です。
かつて「薬子の変」の結果、皇太子としていた平城上皇の第一子であった高岳親王を、父の起こした事件に連座ということで廃太子としなければならなかった苦い経験をしていたことから、嵯峨天皇は在位中にあのような形で皇太子を廃太子とするようなことはしないと決心しておられたのですが、あれから三十数年した今、廃太子となられたのが、何と淳和天皇の御子である恒貞親王だったのです。
祖霊にとって考えもしない悲劇が襲い掛かってきたのでした。
少なくとも平安時代の弘仁・天安・承和という三十年もの間特別に大きな騒動もなく平穏な時代にして、民の暮らしの安定を図ってきた天皇が病の床に就かれた時から、政庁の内部から、次の権力者を巡る戦いが始まってしまったのです。
こんなことは現代でもよくあることで、同じ派閥から起こった政変を経験しています。時には政庁に批判的な勢力によって、政権を奪取したこともありましたが、このところにはどうもそうした動きは見られません。しかしはるか二千年前には政庁の実権者を巡る戦いを、現実の問題として経験しているのです。
しかし現代の日本では、今回の「承和の変」に等しいような事件は起こらないでしょう。
しかしこの時の死を目の前にした嵯峨太上天皇の心得について、現代を生きる者として感動させられたのは、実に現代的な判断をして、死後の処理について遺言を残していらっしゃったということなのです。
これまでの慣例であったら、平安京を挙げた大きな葬儀になるであろうと思われていた巨星の最期ですが、意外にもその葬儀は薄葬で済まされたことです。
太上天皇は天命の尽きるのを知って、その葬儀についての思いを、かなり綿密に言葉として残していらっしゃったのです。それを読みますと、これが実に現代的な考えに基づいたものではないかということが理解できます。
現代でも昨今は遺産相続の手続きを、本人の健在なうちに住ませましょうという呼びかけが熱心に行われていますが、平安時代の太上天皇は、実に克明に遺紹(遺書)を仔細に書き止めさせていらっしゃったのでした。
「私は不徳ながら、長期に渡り皇位を忝くし、朝早くから夜遅くまで恐れ慎み、人民の生活を済すことを思ってきた。天かは聖人の治める者であり、愚かで微小な者が当たるものではない。そこで私は皇位を懸命な人物に委ね、視線の風致を愛し無位・無号のまま山水を尋ねて散策し、無事‣無為のなかで琴や書物を楽しみ、物に捉われない生活をしようと思ったのであった。(中略)そこで太上天皇としての葬儀は行わず、平素の願いを遂げたいと思う。故事にちなんで、送終(使者を送る)とすればよい。死は天地の定めで、自然の理である。送終は、人を煩わすことはないだろう。私は若い頃から病になりやすく、はなはだ薬石の世話になり常に、いつ死ぬかと恐れてきた。これまで口をつぐみ言葉にしてこなかったが、ここで私の思いを述べておこうと思う。およそ人の愛する者は生であり、嫌うのは死であるが、いかに愛しても生を延ばすことはできず、嫌っても死を免れることは出来ない。人の死とは精神は亡び、肉体は消滅して魂の去ることであり、身体の活動の根元力である気は天に属し、肉体は地に帰ることになるのである(後略)」(続日本後紀)
いずれその全容をお伝えする機会があると思いますが、
古代の為政者としては、極めて革新的な感性の持ち主であることが判ります。
天皇の諒闇中ということもあって、このところ近隣の新羅国なども朝貢にもやって来なくなってきていた上に、四月には神功皇后の山稜から雷鳴のような山鳴りがあって、赤色の気体のようなものがつむじ風のようになって、南へ飛んだという不気味なことが起こったりするのです。そんな時に陸奥国からは、城柵に籠って警備に当たっている兵士たちの中から、生業に就けないという不満が募って、逃亡する者が増えているということが知らされたりします。
それから間もない八月のことです。
大宰府から連絡が入ってきます。対馬島上県郡竹敷埼の防人らが、
「去る正月中旬から今月六日まで、遥か新羅国の方から鼓声が聞こえ、耳を傾けますと日に三度響いてきます。常に午前十時頃に始まり、それだけでなく黄昏時になると火が見えるというのです。海の向こうで何が行われているのか不安になります。(続日本後紀)
大きな存在を失った後だというのに、国の内外からは不安な話が持ち上がったりします。
温故知新(up・to・date)でひと言
大きな存在を失った時には、手薄になったところを狙って、様々な勢力がその支配権を広げようとしてきます。
正にこの時にどう対応するのかということは、日ごろから準備していなくてはいけませんね。無関心でいてはいけないということは当然です。昔から「内憂外患」という言葉があるように、周辺の事情にもよく注意をしていないと、予期せぬ大事件。大変動が起こるかも知れません。まさに「晴天霹靂」というものです。事態の動きによっては「急転直下」全ての事情が突然変わってしまって、事のきまりが急に片付いてしまうということもあるのです。自分だけ置いてきぼりにならないようにいたしましょう。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言15 [趣味・カルチャー]
「千秋楽考」
恐らく多くのみなさんは、「千秋楽」といえば、きっと大相撲の最期の日、最後の取り組みを行う時に、行司が「○○山と○○川との一戦をこの一番で千数楽にございます」と宣言いたします。
恐らくほとんどの方は相撲の世界で使われている言葉であると思っていらっしゃったのではないでしょうか。しかし調べてみたところ日本では長いこと芸能の世界で使われてきたので、その世界で生きていた方々は、興行の最期の日などに「今日は楽日ですから」とか「ようやく何後もなく楽を向かえることができました」という風に使われてきました。しかし本当は法会の雅楽の最期に、必ず「千秋楽」という曲が演奏されたことから生まれたことのようなのです。
大体芸能・音楽などの大きなパトロンで、宮廷の雅楽が断絶してしまった後でも、これを伝えていたのは大阪の四天王寺などが伝えていたもので、これによって、今日これによって再興されたものだといわれているのだそうですが、法会の時に奏される額の順は決まっていたそうで、回向が終わった時の楽が「千秋楽」でした。これが芸能の世界で興行の最期を意味するものとして使われるようになって、歌舞伎や大相撲で使われるようになって、一般の人の耳になじまれてきたということです。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の五 [趣味・カルチャー]
第五章「決断の時を誤らないために」(五)
為政者の課題・「旱魃に泣く民のこと」
弘仁九年(八一八)。
嵯峨天皇は即位してから九年が経過しています。
正月を迎えたのですが、年賀に集まって来た臣下に対して、次のようなことを申し渡しました。
「年来、年賀の儀に参列する臣下らは礼法を覚えず、動作を誤る者がいる。これにより威儀を欠くことがあるが、長い間の慣いとなって、改められていない。そこで、毎年十二月になったら担当宮司に指導させて、身のこなしや進退が整い、決まりに従うようにすべきである」(日本後紀)
天候に関しては、為政の力でどうにもなることではありません。雨が降ることを願う祈りを行い、神仏に加護を託するしかないのです。この頃の天皇の苦闘は、近松門左衛門によって「嵯峨天皇甘露雨」という作品で劇化されていますが、水害・旱害がつづいて、百姓たちが少なからず被害を受けています。公卿たちは申し出ます。
「臣下の俸禄を削減して、朝廷の経費の不足に充てることを要望します。穀物が豊稔となりましたら、旧例に復することにしたいと思いますと申告いたします」(日本後紀)
勿論それには天皇も賛成しましたが、政庁はにその運営に腐心している最中でした。そんな時であるからこそ、天皇は気持ちの乱れを引き締めるのです。
為政者・嵯峨天皇
弘仁九年(八一八)正月十五日のこと
発生した問題とは
いつの時代もそうですが、決まりというものは注意していないと乱れていくようです。責任のある地位にいる者はまだしも、そういったことから遠ざかっている者は、ついつい決まりを守ろうという気持が希薄になりがちなものです。
「朝廷における儀式の時の礼や服装、また低位の者が高位の者に合ったときの跪く作法は、男女を論ぜず改定して唐の法に従え。ただし五位以上の者の礼服とすべての朝服の色、および警衛の任に就く者の服は、現行どおりとして、改めてはならない」(日本後紀)
朝廷はその指示に従って、細かな作法を指示したのですが、天皇が改めてこうした厳しい作法についておっしゃるのは、先年起こった宮中での(殺人事件という)不祥事があったからに違いありません。あれは明らかに、宮中での暮らしに緊張感が薄れているからだとお考えになられたからです。年頭に当たって、そうした空気を引き締めるようとなさったのでしよう。
雨が降って欲しいという思いは、神仏に祈るしかありません。
為政者はどんな対処をしたのか
四月に入ったある日、天皇は朝議の時次のようなことをおっしゃいました。
「去年は旱魃で秋朱収が損なわれ、現在は日照りで田植えを行うことができなくなってしまった。これは朕の不徳の所為で、百姓に何の罪があろうか。今、天の下す罰を恐れ、内裏正殿を避けて謹慎し、使人を手分けして派遣し、速やかに群神に奉幣しようと思う。朕と后の使用する物品および常の食膳などは、いずれも削減すべきである。また、左右馬寮で消費する資料の穀物もすべてしばらく停止することにする。そこで左右京職に指示して道路上の餓死物を収めて埋葬し、飢え苦しむ者には特に物を恵み与えよ。監獄の中には冤罪の者がいると思われるので、役所(ここでは刑部省、左右京職)に今回の処置の主旨を述べさせた上で釈放せよ。近頃不順な天候がつづき、浮名の二日照りが頭花にもなっている。今月二十六日から二十八日までの三日間、朕と公卿以下百官がもっぱら精進の食事をとり、心を仏門に向けようと思う。僧綱も精進して転経を行い、朕の平生の思いに副うようにせよ」(日本後紀)
天皇は直ちに被害の様子を調べに行かせ、その様子に応じて援助をさせたりいたしましたが、そんなところへまた地震も起こるのです。天皇は兎に角山城國の貴船神社、大和国の室生の山上の龍穴などへも、使者を送って、祈雨を行わせたりしたのでした。
相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野などで地震があり、山が崩れて数里もの谷が埋まり、圧死した百姓は数えきれないほどでした。
天皇は使いの者を食へ派遣して、地震の被害を巡視させ、はなはだしい被損者にはものを恵み与えることにしたのですが、思わずこのようなことを呟かれるのです。
「朕は才能がないのに、謹んで皇位につき、民を撫育しようとの気持ちは、わずかの間も忘れたことがない。しかし、徳化は及ばず、政治は盛んにならず、ここに至りはなはだしい咎めの徴が下ろされてしまった。聞くところによると、「上野国等の地域では、自身による災害で、洪水が起こり、人も物も失われている」という。天は広大で、人が語れるものではないが、もとより政治に欠陥があるため、この咎をもたらしたのである。これによる人民の苦悩は朕の責任であり、徳が薄く、厚かましいみずからを点火に恥じる次第である。静かに今回の咎のことを思うと、まことに悲しみ痛む気持ちが起って来る。民が危険な状態にあるとき、君一人を安楽に過ごし、子が嘆いている時、父が何もしないようなことがあろうか。そこで、試写を派遣して、慰問しようと思う。地震や水害により、住居や生業を失った者には、現地の役人と調査した上で、今年の祖・調を免除し、公民・俘囚を問うことなく、正税を財源に恵与え、建物の修復を援助し、飢えと露宿生活を免れるようにせよ。圧死者は速やかに収め葬り、できるだけ慈しみ恵みを垂れる気持ちで接し、朕の人民を思う気持に沿うようにせよ」(日本後紀)
この頃の為政者が、天の戒めとして受け止めて、自らの努力ではどうにもならない天災を凌ごうとしていらっしゃいます。しかし為政者はそのお陰で苦しむ民、百姓の苦難をいくらかでも和らげたいと努めるのですが,国を統治する者が、それだけでにできる限りの救済をすればいいという訳にもいきません。
たとえどのような困難があろうとも、国を治める努力は怠るわけにはいきません。それには天皇が理想とされる世界を、実際に形にして見せなくてはならないのではないかと発言する者がありました。
かつて遣唐大使まで務めたほどの重臣であったのですが、「薬子の変」の時、彼女との関係を疑われて、廷臣から外されていた藤原葛野麻呂です。
このところようやく名誉を回復して為政にかかわるようになっていたのですが、天皇はすでに何年も前から宴を唐風にしつらえさせたりしていることもありましたので、この際町を唐にならって作り上げ、気分を一新しようという提案をしたのです。
天候異変がつづいていて、どこか閉塞感のある気分を一掃したいという気持ちは誰にもありましたから、天皇もそれには大乗り気で、その先頭に立って指示を与え始められました。
平安京はにわかに唐風で彩られるようになりました。
間もなく大内裏(平安宮)の門号は唐風に改められるのですが、帝は自ら大内裏東面の陽明門、待賢門、郁芳門の額を書かれ、南面の美福門、朱雀門、皇嘉門の額は空海が書き、北面の安嘉門、偉鑒門、達智門の額を橘逸勢が書きました。まさに平安時代の三筆といわれる方々が、健筆を揮われたのです。
宮中の寝殿も仁寿殿として、南殿を紫宸殿と呼ぶことになりましたが、衣服も唐風に改めて、町の坊条も唐風の名称にしたのでした。
京の規模は大別して、左京を洛陽城、右京を長安城と呼ぶようにもいたしました。
しかしこの時はとてもこれで民百姓が満足できる状態ではなかったのです。現代の話題としてこれを取り上げる理由は納得して頂けるでしょう。
後進国としては、こうして先人の世界の作り方を学んで、やがて自国の文化によって町も国も作りあげる時がやって来ます。古代においては、中國の政治・文化・芸術の姿は、一つの見本だったことは間違い在りません。・
今は日本も欧米並みの町づくりをしていますが、国民の暮らしというものが、すべて欧米並みになっていつかどうかが問題です。更に浴を言えば、所謂日本らしい生活を生み出せるようになるのか、大問題です。
社会が全体的に沈み込んでいる時には、何か庶民の関心を、他のことに向けて気分の転換を図るのが、組織を率いる者には必要不可欠な資質になるのかもしれません。しかしそれを我々はどう受け止める心構えでいるべきなのでしょうか。
温故知新(up・to・date)でひと言
あくまでもその時の対処の仕方が問題なのだと思います。気構えをしっかりとして努力を積み重ねなくてはならないということでしょう。「両鳳連飛」という言葉があります。努力を忘れずに積み重ねて、やがて目標とした国と並び立つ国になることほど昇華した姿を見せることです。今は大変苦しい生活の状態で、訪ねる者もないという状態を「門前雀羅」というのですが、為政者は努力によって、いつまでも靴を履いたまま足の裏を掻くようなもどかしい状態をいう、「隔靴掻痒」の状態を国民に味わわせない施策というものを考え出して貰いたいものですね。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑15 [趣味・カルチャー]
「八幡神社の謎」
わりに地味なのですが、数だけは圧倒的にある神社の一つに、八幡神社というものがあります。
有名なところと言えば、九州の宇佐八幡、京都の石清水八幡、鎌倉の鶴岡八幡などというものがありますが、とにかく調べたところその数は、四万社を超えるとも言われているのです。しかしこの神様は、ちょっと日本古来の神様たちとは様子の違うところがあるとは思いませんか。
この神様も一応日本古来の神様だと言われているのですが、どうも様子の違うところがあるのです。そのきっかけを作ったのは、明治時代に行われた、廃仏稀釈という命令です。江戸時代の国学者であった、平田篤胤が提唱した日本神道を徹底するということで、仏教を排除しようとしました。そのために京都などの大きな寺は別として、ほとんどの寺では、仏像、仏具を破棄しなくてはならなくなってしまったのです。中には、釣鐘にいたるまで処理されてしまいました。
異国の神である仏教を排除しようとした動きだと思うのですが、こういうことが行われて行くうちに日本は危うい方向へと突き進んでいってしまいました。そうした動きのために、この八幡神もちょっとおかしな扱いをされてしまうのです。どうもこれは異国から入って来た神だったからです。つまり仏教の神だったからなのです。日本では古代から為政者は日輪を信仰していましたが、この八幡神の祭神は月なのです。日輪ではありません。菩薩の光背が月だとすると仏ではありませんか。
昔、武士たちが神に祈る時、「南無八幡大菩薩」と唱えて、斬ったり弓を射ったりして戦いに向かいました。しかし確かに仏の印字である大菩薩ということが最後についています。これは明らかに仏教の神であることの証です。つまり日本の神ではないということにもなるのです。
そんなことがあるので、明治政府は八幡神の神号を唱えてはならないという命令も発しました。
現在は八坂神社と言っている京都の人気の神社ですが、昔は牛頭天王を祭る祇園社と言っていました。その残骸が庭園の石の杭に残っているのを見つけたことがありました。しかしかつて廃仏毀釈のあった時に八坂神社と名称を変えたのです。祭神の須佐男命はかつて牛頭天王と呼ばれていたこともあって、昔は新仏習合の神といわれていて、釈迦の生誕地である祇園精舎の守護神ともいわれていたこともあったのです。須佐男命は別に蘇民将来説話の武塔天神と同一のようにも言われていて、魔除けのお守りにもなっていますが、かなり厄介な存在だったのですね。その証として四条通りから西楼門を入ったところには、牛頭天王の霊力である「疫神社」が置かれているのはそのためです。
観光旅行のついでに、そんなことも知っていらっしゃると、一層楽しくなるのではありませんか。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の四 [趣味・カルチャー]
第五章「決断の時を誤らないために」(四)
為政者の課題・「連携して取り締まれ!」
承和六年(八三九)の話です。
仁明天皇にとって即位から六年後のことです。
正月を迎えたばかりだというのに、前年の暮れに、海難にあって破損した遣唐使船への参加を拒否した小野篁に対しては、天皇の命に背いたことで死刑という声もありましたが、極刑は逃れたものの佐渡国への流刑ということになってしまいました。
天皇にとっては、あまり気持ちのいい年明けではありません。
「聞くところによると、諸国に疫病が発生し、百姓が若死にしているという。天下の国分寺に命令して、七日間『般若経』を転読し、併せて僧侶と医師を遣わし、それぞれの手段により治療と養生に当らせよ。また、郷里に指示して、季節ごとに敬しんで疫神を祀らせよ」(続日本後紀)
報告があると直ちに指示をしたり、その後の遣唐使船の様子も気になります。
「遣唐使の乗る三船が風波の難に遭う恐れがあるので、五畿内・七道諸国及び十五大寺に命じて『大般若経』および『海龍王経』を転読させ。遣唐使が帰朝するのを待って、転読を終えよ」(続日本後紀)
気にしなくてはならない問題がかなりあります。
馬寮に出火があったり、器物が破損して落下するということが起ったりするのです。
そんなところには、兵部省からは次のようなことを言ってくるのです。
「年来競馬の際に、王や非参議、また四位以上の者の競争馬が順番によらずそれを飛び越えて出走することがあります。人が順番を無視することがあれば、馬が勝手に出走してしまうこともあります。前後を乱して馬が走り出すのは抑えがたいことです。そこで、競走馬が馬場の南端に来ましたら、馬牽の者に馬の轡をとらせ、出走の順序に従って発進させ、その馬が失踪中は次の馬を留めおくようにすることを要望します。まずは勝手に動く馬を糾し、動き止めれば秩序立ち朝廷の儀礼がしっかりしたものになります」(続日本後紀)
世の中の落ち着かない世相に合わせるような馬の動きも気になるのでしょう。諸国に疫病が発生して、百姓が若死にしているともいいます。その対策に腐心しなくてはならなかった上に春になると災異が起こるといわれている災星がしばしば現れ、地震もしきりに起こります。
そんなところに遣唐使船から、何人もの逃亡者が現れたという困った知らせが飛び込んできたりします。ところが四月には陸奥国で朝廷に背く動きがあり、千人を超える兵を動員しなくてはならないようなことが起こったりします。
為政者・仁明天皇(にんみょうてんのう)
承和六年(八三九)六月六日のこと
発生した問題とは
気の休まらないことが多すぎます。世の中がどこか鬱陶しい雰囲気に包まれていました。そのためかこのところ平安京にも、頻繁に物騒な事件が起こっているのです。
今上は騒がしい世の中を鎮めようとするために、次のような指示をされます。
「弾正台(京内の官人の綱紀粛正を司る所)と検非違使はそれぞれ異なる官司であるが、法律違反者を捕え裁判する点で相違しない。ただし逃亡する犯人や逃げ隠れる悪者を追捕するとなると、弾正台は力不足である。今後は違反者を追捕する時は、弾正台と検非違使が通報し合い、検非違使の看督長らを遣わして実情に応じ追捕することとして、これを恒例にせよ」(続日本後紀)
厳しい指示をしたのでした。
この頃平安時代ではどうだったのでしょうか。取り締まりをする者同士の協力という問題です。
現代ではそれは警察に頼るしかありませんが、時に地域の縄張り争いで、協力し合えないという問題が浮上したりすることがあります。
為政者はどんな対処をしたのか
天皇は畿内の国司に対して蕎麦の栽培を奨励したりもされるのですが、そんな八月に、頼りにする嵯峨太上天皇が病臥してしまわれたのです。
時代は承和七年に変わりました。
世相は次第に荒れてきていて、平安京では群盗が跋扈するために、朝廷は六衛府に対して夜間の巡邏を命じたりするようになっていたのです。
「聞くところによると、悪事をする者が多く、深夜に放火したり白昼でも物を奪っていくという。静かにこの悪しき風潮を思うと、人を溝に押し込め、苦しめている思いを強くする。左右京職・五畿内七道諸国に命じて、厳しく取り締まり、村里を捜索して遅滞なく身柄を捕えよ」(続日本後紀)
天皇は犯罪の取り締まりを指示なさる一方、高齢で隠居(生業がなく生活する)している者や飢え病んでいる百姓たちに、物を恵み与えたりしていらっしゃったのです。
「国家が盛んになるために肝心なのは、民を富ますことであり、倉が充ち足りるようになるのは、真に稔りがあればである。去年は干害となり穀物は稔らず百姓は飢え、国用に不足をきたした。災異の出来は天によるとはいえ、人民が愚かで怠惰であることを恐れるものである。現在、季節は春で、農事の始まる時期に当たる。今が、勧農を行う適時なので、五畿内諸国に命じて、農事について戒め、時宣に応じた対処をして、怠ることのないようにせよ」(続日本後紀)
天皇は身近なところにも怠惰な暮らしぶりを感じられて、三月には気持ちの引き締めを図ろうと檄を飛ばされました。
「近頃、風俗はすたれ、衰微の様相となっている。物を消費するにあたっては、倹約が大切である。今後は、女子の裳(スカート)は、夏の紗を用いたものと冬の中裳(裳の下に着用する下着)は身分の高下を問わず、すべて禁止すべきである。裳は一つ着ければよく、重ねて着用してはならない。京および五畿・七道に対し、右の指示に従い、禁断させよ」(続日本後紀)
宮中での贅沢を戒めたり、陸奥国では朝廷に背くような動きがあって援軍二千人の兵を送らなくてはならないようなことが起こったりしていましたので、鎮守将軍に対しても指示をしなくてはなりませんでした。
この頃庚申の夜には、人身の中にいる三尸(道教で腹中に棲む虫)というものが、寝ているうちにその者の罪を天上の神に報告するというので、その被害に遭わないようにするには寝ないでそれを阻まなくてはならないのです。
ところがこの庚申信仰をいいことにして、このところ深夜に出回る者が多くなっていて、その取締りのために苦労したのです。
ひと言でいえば実にいやな時代ですが、ここで注目したいのは、犯罪に対する監視です。世の中がどこかすっきりとしない時には、とても常識では考えられないような事件が発生するものです。現代で取り上げる問題として充分に納得できるでしょう。
昨今の世の中を見ていると、とても常識では考えもしないような事件を起こす者が次々と現れています。時代が悪の温床となっているのか、歪んだ時代が悪魔的な人間を送り出すのか判りません。
世界を震撼とさせるような犯罪者が現われないことを祈りたいと思います。
この年左近衛府からこのようなことが進言されました。
近衛の補任のことについて申し上げます。春宮坊・皇后宮・中宮(ここでは皇太后宮)の舎人や内匠・木工・雅楽寮の考人(四等官より下の下級職員で、成績評価の対象となる人たち)は見な内考(叙位に要する考課年限が内官(京官)扱いされているもの、内考の対が外考で、外考は内考より考課年限が二年長い)扱いとなっています。近衛府ではこれらの人の中から才能の有無を試験して近衛に任用してきましたが、今回、兵部省はこれまでの近衛採用方式による任用を差し戻して、大同元年挌によれば、蔭子孫(五位以上の子・孫)・式部・兵部両省詰めの散位・位子(内八位以上の嫡子)・留省・勲位等については近衛府試験して採用してよいが、外考・白丁は勅使が試験した人たちは、格が挙げている蔭子孫以下とは異なっており、外考・白丁に準じて勅使が再度試験することにする、と言ってきました。しかし、三宮(太皇太后、皇太后、皇后宮)舎人と種々の戸籍による身元調査をした上で採用する勘籍人は、すでに内考扱いとなっていますので、どうして白丁に準ずることになりましょうか。また、格では大体を定めて、細かな事項については言っておりませんのに、兵部省は格の文字面に拘泥して、従来の慣行に背いています。太政官は、武術に優れた者について、従来どおりの方法で近衛府が試験し、近衛に任用してよいと決定しました。
役所による人材の採用についての功名争いの一端が知れる資料です。現代でもよくあることではありませんか。古代においても、優秀な人材は欠かせない時が訪れてきていたようです
温故知新(up・to・date)でひと言
現代では町の安穏のために尽くしていらっしゃる警官が襲われて死亡したり、通学する小学生を守ってくれている警備員が狙われたりと、嫌な事件がつづきました。
そうでなくても、誰でもいいから襲いたかったなどという、身勝手なことをいう不心得者が登場してきます。
社会ルールからはみ出てしまう者については、ただ放置しておくしかないのでしょうか。ごく限られた人ということで、放置していることはできませんが、社会が生み出したものだという非現実的な論調では済まされない問題ですね。
温故知新(up・to・date)でひと言
四字熟語では「天網恢恢」というように、天は必ず悪人を逃さないと言いますが、天の法の網も広大で目も粗いとしか言いようがありません。しかしそれでも決して漏らさず悪人は捉えられます。「波乱万丈」で事件などの変化が激しい、変転極まりない人生ですが、あくまでも「勧善懲悪」であり続けたいですね。善行を勧め励まし、悪事を懲らしめるということです。正しい公正な世の中にするには、是非ともこれを実践しなければならないのですが、しかしこの当然のことがなかなかできないのが現実です。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言14 [趣味・カルチャー]
「異議あり名称変更!」
史跡の名称がだんだん時代に合わないということで、歴史的な意味のあったところの名称まで、無造作に当たり前なものに変えてしまうことが多くなっています。かなり昔から不満に思っていたので書くことにいたしました。
もうかなり前のことになりますが、わたしはゴールデンウイークや夏のシーズンの間は、軽井沢の山荘へ赴いて休養しながら仕事をしてきました。 もちろん仕事ということもありますから、あまり仕事に時間は割かないようにしてきましたが、気が向いた時に気の向くままに出かけていったりしていたのです。そんな中でいつも気になっていた史跡の一つが、この軽井沢にある長倉神社でした。
追分へ向かう国道18号線沿いの、軽井沢役場が近くにあって、中軽井沢の交差点に近い湯川の縁にあるので、大変目につく神社なのですが、どうもこの「長倉神社」という名称には、まるで興味がわかなくてあまり深入りしないできたのですが、歴史に興味をもっていましたので、中軽井沢から碓井峠を目指す道筋の近くに、「沓掛神社」というものがあったはずなのですが、近くを通ってもまったくそれらしいものがみあたらないので、それ以上追求しないでいたのですが、兎に角昔は、旅人が険しい碓氷峠を越えて行く男街道と、この沓掛の宿場(中軽井沢)から女街道を通って草津方面へ向かい、東北、関東へ向ったり、追分へ向かったり、北国街道へ向かったりする大事な拠点だったのですが、多くの旅人は、ここ・・・沓掛にあったはずの「沓掛神社」へ沓・・・つまり草鞋を納めて、旅の安全を祈るのが習慣だったはずなのです。
それほど大事な、有名であった神社なのに、現在はどこを探しても、「沓掛神社」などというところは見当たらないのです。
それが一気に解決したのは、数年前のことだったのでした。
親戚の者の車で軽井沢方面へ旅をした時のこと、彼の友人がこの中軽井沢の青年実業家として活躍しているということから、「沓掛神社」のあるところを聞いてきてくれたのです。幸いなことにその友人は、ここで観光事業にかかわっているということだったので、大変土地の事情には詳しく、わたしの問いかけた疑念についてもあっという間にお答え頂いたと言う訳でした。
問題の「沓掛神社」は、先刻出てきた「長倉神社」と名称を変えただけで、同じところだというのでした。
(やっぱり・・・!)
石碑には延喜式内と彫られていますから、かなり古いものだとは思っていたのですが、「長倉神社」というのは、まったく歴史上登場してきません。
それではどうして、このような無味乾燥な名称に変えてしまったのでしょうか。
答えは簡単なことでした。
時代に合わせて古臭い雰囲気を改め、土地を活性化する一環として地名の変更をした結果だというのです。昔、このあたり一帯を「長倉」といっていたそうで、その象徴として「沓掛神社」を「長倉神社」と改称したということだったのでした。
むしろ現代は、昔の旅人が、この宿場から追分へ向かうにしても、草津へ向かうにしても、あの「沓掛神社」へ沓を納めて、旅の安全を祈っていったということが判ったら、きっと中軽井沢が軽井沢宿と追分宿を結ぶ街道の要所である沓掛宿であったことも判るし、町に対する興味も生まれてくるはずだと思うのですが・・・。時代小説にも、「沓掛時次郎」という長谷川 伸の名作があるくらいです。上州は貧しい所であったということもあって、農村の次男・三男は働く場を求めて任侠道の世界へ走る者が多かったようですが、現在こういった歴史的な素材を、ほとんどネグってしまって、お洒落な近代的な町というイメージで売りたいようなのですが、いささか力の入れ方が間違っているのではないでしょうか。まして、昨今は、新幹線も停まらない駅になってしまって、中軽井沢が元気になったとは言えないように思います。もう一度歴史街道の町であったということで、素材を掘り起こしてみるほうがいいのではないでしょうか。昔、旧碓氷峠を越えて行くことは険しかったし、峠を越えたあたりに関所があったりして関東へ行くには大変な苦労をしました。そんなこともあって、商人たちはもちろんのこと、市民たち・・・特に女などは、この沓掛宿を基点にして旅をしたり、草津あたりへ湯治に出かけたりして行ったのです。そんなことを想像しながら、あたりを散策する楽しみを知って貰うためにも、もう一度史跡保存という視点で考え直して貰いたいものです。
それこそが、観光資源の開発にもなると思うのですが・・・。どうか旅をする人の発見する楽しみを、せめて無造作に奪わないで貰いたいものです。
東京でも時代の進化に合わせて、行政の簡便化のために由緒ある土地の名称を、無造作に記号化してしまいましたし、今でもそれをやりたいところがあるようですが、もちろん中には住民たちの反対でそれを阻止することができたところもあります。しかしこうした歴史的にもよく知られた、街道の重要な拠点にあったところまで、無造作に変更してしまうことが、本当に意味があるのか考えてしまいます。
私の住んでいる世田谷のある地域には、駒留、駒沢、深沢、奥沢、等々力(かつて滝が落ちていてその音が響いていた)、上馬、下馬、池尻、五本木、三軒茶屋というように、山・谷・沢があって馬を生産していた農村で、ところどころに旅する人のための茶店があるというような土地であったということが想像できるところです。しかし最近は開発が進んで行きますから、どんどんそういった雰囲気は失われて行きつつありますが、せめてその地の原点であった歴史が辿れる地名だけは残しておきたいものです。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の三 [趣味・カルチャー]
第五章「決断の時を誤らないために」(三)
為政者の課題・「サボる役人を取り締まれ」
弘仁二年のことです。
嵯峨天皇が即位してから二年目にあたりますが、ある意味では世代交代の時代であったのかもしれません。
参議従三位宮内卿兼常陸守朝臣真道が、官職の辞任を求めて次のような書面を提出してきました。
「私は『官人は早朝に出仕して日暮れて退き、息むのが分際であり、壮年期に仕え老いて休むのが礼の通則である。この故に人は良い評判を得るようにつとめて主に仕え、身を保ったまま終えるようにするものである』と聞いています。私は元来凡庸で才質を欠き、学問は甲科に及ばず恥じいっているのですが、禄を求めて下級官人として出仕し、功績はないものの運よく早くから先朝(桓武・平城)にお仕えしました。かくして平城天皇が皇太子から皇位に就き、早朝から夜遅くまで勤務し、年月が経ちました。この間、大変な推奨を受けて高位高官の仲間となり、文武の顕職について、京あるいは外国で厚い俸禄を賜り、今日に至っております。何度も朝廷の恩恵に浴し、顧みて、功のないのに禄を貪り、伏して、深く慄くばかりです。さて、私は桓武・平城・嵯峨の三朝にお仕えして、年齢が七十になりました。年々病気が募り、意欲も体も衰えています。年老いて官を罷めることに未練がないわけではありませんが、昼の時間が過ぎてなお夜行するのは、分に応じて満足すべきであるという心からの気持ちに背くことになります。伏して、老いたる身を郷里へ戻し、粗末な屋舎に身を置き、病を養いながら余生を過ごし、文を閉ざして最期を待つことを請願致します。心からの思いを抑えがたく謹んで参内し、表を奉呈致します」(日本後紀)
天皇は真道の辞官を許可したが、常陸守だけはもとのままとしたのでした。
新年早々ですが、来訪していた渤海国使高南容たちが帰国するというので、天皇は渤海国王の大元瑜に親書を託しました。
「もたらした渤海国王の啓は異彩を尽くしていた。思うに王は資質が豊かで、人柄に広く深みがあり、国内には恩恵を敦くして治め、外国に対しては、慎みを持って仕えている。代々北の涯に居住して、同盟国である日本と友好関係を結んでいる。陽光を浮かべる大海を渡って来朝することを企て、使節は天まで至る波を越えて、小舟ながら到来し、真心を尽くして珍しい品物を貢献し、礼儀をもって朕の即位を慶賀している。王の懇ろな心を思うと、嘉賞の思いの尽きることがない。朕は皇位を継ぎ、天子としての計略を受け、自制して国内に臨み公明正大な態度で人民を治めているが、朕の徳では近くにいる者さえ懐けず、教化をどうして遠方まで及ぼすことが出ようか。渤海国王は善隣関係を打ち建てることにつとめ、心に大国である日本に仕えることを大切にし、労苦をものともせず、先代以来の日本との友好関係を継承している。さらに、南容は再度来朝し使人としての任務を怠らず、傷んだ船に乗りながら忠貞の心を励ましている。従って、王の要請がなくても帰国の船の手当てをするのはとうぜんである。そこで、別のン船を提供し、送使(送渤海使)を添えて送らせることにした。また、少しの賜り物を託すので、帰着したら受領せよ。春とはいえ寒い。思うに王は,寧日を過ごしていることであろう。朕の思いを述べて書を送る。十分に意を尽くしていない」(日本後紀)
友好関係を結んでいる国への気配りをしたりしている時に、同じ頃平城宮の警備を担うはずの衛府の官人たちが、規律を守らずに勝手に出入りしたりしていて、宿直の警備も当てにならないという情報が飛び込んできます。
為政者・嵯峨天皇
弘仁二年(八一一)七月十三日のこと
発生した問題とは
今は諸国に疾病が流行している上に旱害に見舞われ、百姓たちは疲弊していて、回復していないことに痛切な思いを抱かれて、生活が困難になっている者には、速やかに物を恵み与えよと、慈悲のある配慮を指示したりいたしました。
気遣いは多方面にわたります。天皇は蝦夷との紛争にも立ち向かいながら、人智では解決のしようもない天災とも戦わなくてはなりません。
為政者はどんな対処をしたのか
この年四月には、陸奥国の太平洋岸沿いの十駅を廃止しました。その代わりに、陸奥国から常陸国へ通じる駅路を開削して、長有(福島県白川郡あたり)高野(福島県東白川郡あたり)の二駅を置きました。危急の連絡に備えるためでした。
そんなさまざまな困難の処理をしなくてはならない日常の中で、信頼する廷臣とも別れなくてはならないことも起こります。
五月には祖霊桓武天皇以来、朝廷のために尽くしてくれた武人の坂上田村麻呂の死が伝えられました。
帝にとって忘れられなかったのは、戦いで投降してきた蝦夷の勇者の阿弖流為と盤具公母礼について、助命してほしいと嘆願してきたのが、戦った田村麻呂自身だったのです。しかし彼の必死の助命の訴えも受け入れられずに、二人は処刑されてしまいましたが、そんなこともあったためでしょう。彼はこれまでの幾多の戦いで犠牲となった者の供養もしたいと、京の鳥辺野に清水寺を創建して、十一面観音立像を祀るのです。
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(京都清水寺の舞台の下の道にある記念碑)
武人でありながらどこか人間らしい情を感じさせる逸話です。
仁を基本にした為政を行おうとされる文人政治家の天皇は、そうした人情の機微にも通じておられて、過ぎ去ったことでも決して忘れるようなことはありませんでした。
そんな五月の或る日のこと、天皇は征夷大将軍の文屋綿麻呂たちに命じました。
「城作の周辺に居住している俘囚らは、かなりな数になっている。将軍らが出兵すると邪な気持ちを生ずる恐れがあるので、綏撫を加えて騒ぎ乱れることのないようにせよ。恩恵と威厳で臨み、朝廷を讃えさせよ」(日本後紀)
天皇は同じ国で暮らしている異民族との摩擦を、少しでも早く解決したいと苦慮していらっしゃるのです。
その間で天皇の心の中には、皇統を巡る思いの擦れ違いから、長幼の序という教えに背いて争うことになってしまった、平城太上天皇との騒乱事件のことが脳裏に焼きついていました。今ではその時の経緯を忘れて、兄と弟という関係に立ち戻られて、引退後のお世話をしていたのです。ところがその太上天皇が暮らしていらっしゃる平城宮の警備を担うはずの衛府の官人たちが、規律を守らずに勝手に出入りしたりしていて、宿直の警備も当てにならないという情報が、飛び込んでくるのです。
天皇は直ちに真相を調べさせると、厳しく取り締まらせることにしたのでした。
いったいこの話題から、どんな問題を取り上げればいいのでしょうか。同じ官人であっても、それぞれがまったく違った心構えでかかわっている者がいるということです。
それは現代でも同じでしょう。
上司の指示していることを、承知の上で勝手なことをして税金を私用に使っていたキャリア官僚が二人が現われたりしています。いて、税金を悪用して私の費用として使っていたというものが現われたりしています。組織はそんなところから崩れていくものです。糾すべきことは糾して、真っすぐになっている必要があります。
平城宮に勤めていたあの官人たちは、目下政庁が蝦夷との問題に腐心しているのを承知していて、官人は監視が行き届かないのを利用して手抜きをしていたのです。
平城宮にいらっしゃる太上天皇も、権力を失ってしまって蟄居していらっしゃるのですから、恐らく咎める者はないと高を括っていたのでしょう。よくある話ではないでしょうか。
世の中冷たくなったとはいっても、これまで仕えていた方が力を失ったからといって、それまでの関係を無視して、まるで関係が無かったかのような態度に出てくるようなことは、とても許されるものではありません。それまでの付き合い方がどうであったのかということも気になりますが、少なくとも一度は主従関係にあった人間関係であったのですから、仕える人が力を失ったからと言っても、突然態度を変えて接するということは、見苦しいとしか言いようがなくなってしまいます。
温故知新(up・to・date)でひと言
夜警などということは古代でも「抱関撃柝」といって、卑しい役目の者といわれていた時代ですが、ある地位に就いていながら、何もしないで給料だけを貰っているというような、「尸位素餐」であってはなりません。つまり職責を果たさずに給料だけを貰って、ぬくぬくと暮らしているような姑息な生き方をするような者は、見逃しておくわけにはいきません。「綱紀粛正」です。規律を正しくした上で、それぞれやりたいことをすればいいのではないでしょうか。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑14 [趣味・カルチャー]
「進化する通信網」
昨今の通信技術の進化は、実に驚異的なものがあります。それは若い読者のほうが良く知っているでしょう。すべてがデジタルで行われているのですから、古代は緊急の連絡があった時どうしていたのでしょうか。
近くの人に連絡する場合は別として、遠隔地の人に連絡する場合はどうしていたのだろうかということが問題です。日本の通信法の原点であった狼煙台というものは一体いつごろ入って来たのかということなのですが、それは七世紀半ばに中国からもたらされ、はじめは「烽」と呼ばれていたということが判りました。そのきっかけになったのは、朝鮮半島で起こった騒乱がきっかけだったのです。
親しかった百済が、唐・新羅の連合軍のために滅ぼされてしまった時のことなのですが、その時我が国にいた百済の王子を呼び戻そうという動きがあって、近江朝廷は二万七千という大軍を出して、救援に乗り出したのです。ところが白村江の戦いで壊滅的な敗北を喫してしまったことがあったので、その敗戦によって唐の軍がいつ襲撃してくるか判らなくなってしまったのです。我が国は急いで国土防衛をしなくてはならなくなってしまったのです。大宰府を移転させたり、高安、屋嶋、椽、大野などに築城をして、防人を配備しました。
その上で異変を直ちに飛鳥へ知らせ、迎え撃つために兵を集めたり、安全なところへ避難したりするために、情報が少しでも早く届けられる必要があったのです。
北九州から飛鳥まで、隣が直ぐに見える見晴らしのいい山に、「烽」を置いて監視していたのです。
唐軍が北九州に現れれば、直ちに対馬で狼煙を上げ、それを見た壱岐で狼煙を上げ、そういったやり方で、知らせを順につないでいって飛鳥へ報告が届くのです。
おおむね「烽」は二~三十キロ間隔でおかれていましたが、その伝達の内容は、敵兵の数によって煙、火の数も違っていましたが、昼間は蓬、藁、生柴を燃やして煙を立て、夜は乾いた葦を芯にして、油の多い草木の先端を組み合わせた松明を組み合わせて火を焚き、隣のところへ知らせたということでした。
通信技術については日進月歩でその技術的なことの進化が加速的に進んでいるようで、古代のそれは夢の中の出来事のように思えたりします。しかしあまり激しい勢いで進んで行ってしまうと、それについていくのに追いまくられて、大事なものをついうっかりして忘れてしまったり、時代の濁流が前へ前へと勢いよく進む中で、つい押し流してしまった宝石のようなものを、一生懸命に探し出していかなくてはならないと思っているところです。
今や5G通信の時代ですが、あえて知恵を磨きながら、不便を乗り越えていった時代のお話にしました。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の二 [趣味・カルチャー]
第五章「決断の時を誤らないために」(二)
課題「備えることの大事」
長い平和な状態に馴染んでしまっていることもあって、万一の時の備えということなどには無頓着になりがちかもしれませんが、今は・・・。
為政者・嵯峨天皇
弘仁元年(八一〇)十二月二十七日のこと
発生した問題とは
嵯峨天皇による政庁が発足したばかりだというのに、平城上皇の復活を企てた「薬子の変」が始まってしまいましたが、迅速な対処で処理したある日のこと、天皇は心ならずも皇太子の高岳親王を廃して中務卿(大伴親王)を皇太子に立てて、政庁の体制を組み立て直しました。そしてやがてこうお話になりました。
「飛鳥朝(皇極天皇)まで年号はなく、難波に朝廷を置いた孝徳朝にはじめて大化の年号を定めた。以来、それに倣い代々今日に至るまで、年号を使用しており、天皇が即位すると代の初を称し、時々に相応しい年号を定めている。朕は小人物で才を欠くが、皇位を継承し、支配者として臨んで、ここに二年になる。日月が経過したしたが、新しい元号を立てていない。現在、穀物は豊作となり、人々は稔りを称えているが、まことに皇室の祖先の霊と土地と穀物の神である社稷の助力によるのであって、不徳の朕のよくするところではない。朕は、天下とこのめでたいしるしを喜びたいと思う。そこで大同五年を改めて光仁元年とせよ。遠方にまで布告して、朕の意を知らせよ」(日本後紀)
即位した嵯峨天皇はその後で行う大嘗祭のために、松崎川で禊をして備えると、渡島(津軽半島の北端化、北海道南部)の蝦夷二百人が陸奥国の気仙郡にやって来ました。この人たちは陸奥国の管轄ではないので、戻るようにいったところ、「今寒い時期で海路は困難ですので、来年の春を待って帰郷したい」と願い出てきました。天皇は直ちにその要請を許可し、滞在中は気仙郡が衣と食料を支給することにしました。
しかしそれを迅速な対処で処理したある日のこと、戦いの勝利に貢献した僧の空海は、高雄山寺からわざわざ宮中へやってきて、嵯峨院へ「五覚院」という帝の持仏堂を建立したいという請願をしたのです。天皇の要請もあって変の鎮静化に貢献した空海の頼みですから反対はありません。しかもそれが帝の安泰であることを祈願し、鎮護国家を願うためのものであるというのでなおさらのことです。申し出は直ちに許可されると同時に、空海は南都の東大寺の別当にも任じられました。北都といわれる平安京の仏教とは生き方の違いから生まれている平城京仏教との溝を、彼の力で埋めようとする朝廷の苦肉の策でもありました。朝廷は十二月になると、伊勢の神に次ぐ高い地位を得ている石清水八幡宮へ、戦いの終結を報告すると同時に、守護に対する感謝を伝えるために、参議となった巨勢野足を送ると変に関しての論功行賞も行い、嵯峨天皇は本来の為政の務めへ立ち戻られたのでした。
為政者はどんな対処をしたのか
即位された時から、偉大な祖霊の為政を参考にされながら、改革すべきことは大胆に行っていくという意欲をお見せになりましたから、臣民からも信頼され期待も寄せられていた天皇は、自らの新たな課題を自覚していらっしゃったのです。あの変は上皇が仕掛けたことでしたし、それに立ち向かったのは、為政を預かる者としての抗議であったのです。しかし古来守られてきた長幼の序という秩序を無視して戦ってしまったのです。その問題はこれから為政の中で、絶対に糺していかなくてはならないと心に秘められたのでした。そんなある日のこと、播磨国から、次のような訴えがあったのです。
「日月・星辰がものの道理やあり方を示していると思うが、北斗七星が北極星を守っているように親衛軍が皇宮の守備についている。地域ごとに機能する武力が有用なことは、古典にも記されている。武力が兵乱を鎮め朝廷への侮蔑を防ぎ、これによって全国が従うようになる。今、左右近衛府の近衛の員数を削減しているが、もし緊急事態となったら、どうしてすぐに対処できるだろうか。人員の増加・削減は文武共に第一に留意すべきことであり、時々の情勢に応じて、廃止や設置をしなくてはならない。左右近衛(このえ)(宮中の警備)に関しては旧来の員数に戻すべきである」(日本後紀)
ここでの現代への問いかけは、あまり無視していられない問題を秘めているのではないかと思うのです
温故知新(up・to・date)でひと言
空海による政庁に対する備えということに対して、我々はどう受け止めればいいのでしょうか。現在の世界はそうすべてが手放しで平穏な状態でいられる状態にはありません。それは今日的な問題とも思えてきたのです。
万一の時に備えるということに無頓着になりがちかもしれませんが、現在の世界はそうすべてが手放しで平穏な状態でいられる状態にはありません。本来は世界が平和を維持するために結成しているはずの国際連合・・・とまり国連なのですが、どうも一党一派に偏ってしまうために、困難な問題が山積で、危機回避に絶対的な力を発揮出るとは云い切れません。私たちはそんな中での平和を保っているわけで、少なくとも国の安穏を維持するための問題については、真剣に考えておかなくてはならないなと考えさせられてしまったわけです。勿論、その備えは過剰防衛に走ってしまうことは避けなくてはなりません。却って周辺の国々に警戒心を煽ってしまうことになってしまっているのは大変です。昔から居安思危ということがいわれています。平穏な時にも万一の事を思って、常に用心を怠らないことが必要であるという諌めです。気になることは、大事にならないうちに片付けておく必要があります。陶犬瓦鶏といって、焼き物の犬は吠えないし、素焼きの鶏は夜明けを告げない。形だけで実際には役には立たないもののたとえですが、剛毛斧柯ということも言われます。災いは小さいうちに取り除いておくべきで、大きくなってからではどうにもならないということを言っているのです。しかし現実にはどうしてもそれができないことが多くて、気がついた時には取り返しがつかないことになってしまっている場合がかなりあります。安穏を維持するには、それなりの努力が必要だということです。きわめて判断の困難な問題だと思います。