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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑16 [趣味・カルチャー]

         「チマタ考 


かつて私たちが暮らしていた日常は、連帯ということが基本になっていましたが、そういう社会常識と言うものは、昨今は時代の変化が激しいこともあって、大きく変化してきました。


昨今は「孤」の時代が浸透してしまったようで、若い人もほとんどはごく少ない友人との交遊という状態で生活しているようです。


そんなこともあるのでしょうか、最近の若い人は「人見知り」傾向で、なかなか新たな人には馴染まないところがあるようなのです。


かつて京都の美大で教鞭を執っていた経験があるのですが、生徒が多くの人と交流している様子があまり見かけられませんでした。


藝術とは言っても、主に映像関係とかイラスト関係に進もうというのであれば、少なくとも人見知りという性格では、多くのアーテイストがかかわる作業には、とても加わることができませんし、多くの人の支持を得てその業界で成功することは出来なくなります。さまざまな人間の喜怒哀楽を知り、人を知らなくては、もの作りに携わることは難しいと思うのですが、人間と出会うことを忌避してしまっていては、はじめからもの作りを拒否してしまうに等しいことになってしまいます。


そこでわたしは入学時に、彼らにこんな言葉を贈りました。


(大学というところは、自分探しの旅をするところだ)


 さまざまな人やものが行き来する賑やかな町の通りを、現代では「巷」と言いますが、昔々人々は、「知未多(ちまた)」という字を当てて呼んでいました。


「未だ知ること多し」とは、言い得て妙だとは思いませんか。


そこへ行けばさまざまな人、さまざまな出来事に出会うこともできるし、


最新の情報も飛び交っています。だから年齢に関係なく、人は「知未多」へ出ていって、世の中と接するということが大変大事な心がけであったのです。


古代も現代もありません。家に篭っているだけでは、時代の流れ、世間の空気と遊離してしまうし、移ろいやすい人の心の動きも、まったく掴めないままになってします。時にはそういった性格のために人に接することを拒否して、得意な世界を作りあげる人もいるにはいましたが、それはあくまでも異例なことです。


やはり若者などは、「知未多」へ出ていって揉まれてくることが、大人になっていく大事な通過儀礼だったのです。時には道を誤ってしまう者も出たりしますが、多少は嫌なことも、裏切られることも、あきれさせられることも経験させられることがあった方が、将来の成長のためにはなるような気がいたします。可愛い子には旅をさせろというのは、こんなところから生まれた言葉なのでしょう。


大学生活も自分探しの旅に出ているようなものです。


いろいろな教授、いろいろな友達とであいながら、これまでとは違った世界を吸収していくところです。


大学という「知未多」も、いつも動いていて、見るもの、聞くこと、試すことが、すべて新鮮で、刺激的で、期待感に満ちたところです。


きっとそんな中で、いち早く自分探しに成功する者もいるでしょう。


反対になかなか見つからずに苦闘する者もいるでしょう。しかし大事なのは、今は真の自分探しの旅に出ているのだということを、決して忘れないということだと思います。


こんな挨拶を送ったことを思い出します。


人と接することに憶病な若者が、一人でも減って欲しいと思っています。


そのためにも、古代の人の残した示唆に富んだ言葉、「知未多」ということを、一人でも多くの人に知って貰いたいと思っているのですが・・・。





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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の六 [趣味・カルチャー]

      第五章「決断の時を誤らないために」(六)


        為政者の課題・「陰謀・密告・承和の変」


承和九年(八四三)、長いこと平安時代の平穏な暮らしを維持することに貢献してきた嵯峨太上天皇も、病床から復帰することが出来ないまま、天命の時を迎えようとしていました。


 太上天皇の最期が迫って来ていた時から、政庁を中心に、いや、その内外を中心に、次の時代へ向かった動きが進められていたのです。


 よく未開発国世界では、為政に対する不満が頂点に対して起こるテロ行為とは一寸違います。あくまでもこれまでの為政に大きな力を発揮してきた人が、政治の世界から去らざるを得なくなるという時が迫った頃から、新たな方向へ向かった為政の指導者を押し立てようという動きが、密かにうごめき始めていたのです。


 それに歩調を合わせるかのように、宮殿の中だけでなく巷にも「物の怪」などという得体のしれないものが現われたりし始めます。


 病床にある嵯峨太上天皇の様子が、まったく芳しくありません。暫く前から太上天皇の最後を予想して、藤原良房を中心とした政庁と、春宮(はるのみや)皇太子の恒貞親王(これさだしんのう)を中心とした人々の間には、実に不気味な動きが生まれていて、いつそれが暴発するかと、近くにいた者たちは不安になっていたのです。


 そんな最中の太上天皇が最後を迎えようとしている時に、祖霊平城天皇の御子である阿保(あぼ)親王が、皇太子たちの動きについて仙洞御所(せんとうごしょ)の嘉智子皇太后に密告してきたのです。


 そんな緊迫した中で、承和九年(八四三)七月十五日。ついに嵯峨太上天皇が崩御されたのです。


すでに太政天皇は生前に遺訓(遺書)を残しておられたことから、葬儀は即日薄葬で済まされ、直ちに仙洞御所の裏山である嵯峨山上に埋葬されました。ところがそれで、すべてが平穏なまま御子である仁明天皇の統治されることになったのかというと、あまりにも大きな存在が亡くなったために、とてもそうはいきませんでした。


すでに暫く前から進行していた政庁とそれに抵抗する若い官人たちの動きが一気に火をふきだしてしまったのです 


為政者・仁明(にんみょう)天皇


承和九年(八四三)七月十五日のこと


発生した問題とは


皇太子を中心とした東宮の者たちは、葬儀を待って皇太子を連れて東国へ向かい、そこで新たな政庁を興そうとしていたのですが、それを密かに企てていた中心人物の、橘逸勢(たちばなのはやなり)伴健岑(とものこわみね)が次々と逮捕されてしまうことになったのです。


政庁は阿保親王の密告を基にして六衛府に宮城門と内裏を守らせると、それと同時に左右京職に平安京内の街衢(がいく)(ちまた)の警護をさせた良房は、山城国の五道を閉鎖して、宇治橋、大原道、大枝道、山崎橋、淀橋を守らせていたのです。


拘束した健岑、逸勢の尋問が、直ちに始められましたが、なかなかその真相がはっきりと致しません。笞杖(ちじょう)(笞と杖)による拷問も行われているようです。


 嵯峨太上天皇の崩御から七日もしたころ、良房の弟、勅使左近衛少将藤原朝臣良相(ふじわらのあそんよしみ)は、近衛兵四十人を率いて、皇太子の直曹(内裏内の控え所)を包囲して武装を解除させると、武器を勅使の前に積み上げて置かせ、皇太子恒貞親王(つねさだしんのう)に従がう者たちを幽閉してしまいました。


すると間もなく良房の叔父に当たる、藤原愛発(ふじわらのあらち)をはじめ、藤原吉野(ふじわらよしの)文室秋津(ぶんやのあきつ)という、淳和太上天皇(じゅんなだじょうてんのう)以来の重臣たちを、次々と呼び出すと八省院へ閉じ込めてしまったのです。実に素早い処理です。


仁明天皇は良房の進言に基づいて詔を発し、首謀者とされた健岑、逸勢を謀反人として断定すると、その責任を皇太子恒貞親王に負わせて、彼を援護してきた愛発の栄職を解いて直ちに京外へ放逐。藤原吉野、文室秋津をそれぞれ太宰員外帥(だざいのいんがいのそち)出雲員外守(いずものいんがいのかみ)に左遷してしまいます。


どうやら良房は同じ藤原一門でありながら、邪魔になる有力な二人を政界から放逐してしまったのです。


間もなく今上は伴健岑、橘逸勢は合力して国家を傾けようと謀ったと述べられて、健岑を隠岐の国へ遠流。逸勢は姓を非人とされて伊豆国へ流されることになりました。


いずれは政庁を支えて行くであろうと期待されていた英邁の士であったのですが、藤原氏から警戒されて弁明も許されないまま、激しい拷問を受けた彼の体は腫れ上がってしまっていて、護送途中の遠江国板築(現浜松市三ヶ日町本坂)辺りで亡くなってしまったといいます。


為政者はどう対処をしたのか


老獪な良房はこうした事件も、自分にとって有利な展開となるように企み、邪魔になると思われる有力氏族の勢いを削ぐことにも利用しました。


その一つの標的であったのが、嘉智子太皇太后の一族である橘氏です。逸勢の処罰をきっかけにして、一気にその勢いを奪ってしまったのです。


内裏に引きこもってしまわれた仁明天皇は、気持ちが優れません。確かな容疑も固まらないまま拷問で痛めつけられた逸勢を、伊豆国へ流罪としてしまったために、旅の途中で亡くなったということを聞いて、彼はやがて怨霊になって襲ってくるのではないかと、怯えるようになってしまったのでした。


改革を夢見て、事を起こした東宮坊の官人六十余も、一度は逃亡したものの自ら出頭してことごとく流刑となってしまい、八月十三日には、宮中に拘束されていた恒貞親王は、四振りの剣を袋に入れて、勅使右近衛少将藤原富士麻呂に託して蔵人所(くろうどところ)へ差し出しました。


今上は直ちに参議朝野鹿取(あさのかとり)を嵯峨山へ遣わして、皇太子が健岑、逸勢が企てた悪しきことに関係していたことが判りましたので、国法に従って皇太子の位から退けることにしましたと、祖霊に対して報告致しました。


廃太子です。


かつて「薬子の変」の結果、皇太子としていた平城上皇の第一子であった高岳親王(たかおかしんのう)父の起こした事件に連座ということで廃太子としなければならなかった苦い経験をしていたことから、嵯峨天皇は在位中にあのような形で皇太子を廃太子とするようなことはしないと決心しておられたのですが、あれから三十数年した今、廃太子となられたのが、何と淳和天皇の御子である恒貞(つねさだ)親王だったのです。


祖霊にとって考えもしない悲劇が襲い掛かってきたのでした。


 少なくとも平安時代の弘仁・天安・承和という三十年もの間特別に大きな騒動もなく平穏な時代にして、民の暮らしの安定を図ってきた天皇が病の床に就かれた時から、政庁の内部から、次の権力者を巡る戦いが始まってしまったのです。


 こんなことは現代でもよくあることで、同じ派閥から起こった政変を経験しています。時には政庁に批判的な勢力によって、政権を奪取したこともありましたが、このところにはどうもそうした動きは見られません。しかしはるか二千年前には政庁の実権者を巡る戦いを、現実の問題として経験しているのです。


しかし現代の日本では、今回の「承和の変」に等しいような事件は起こらないでしょう。


 しかしこの時の死を目の前にした嵯峨太上天皇の心得について、現代を生きる者として感動させられたのは、実に現代的な判断をして、死後の処理について遺言を残していらっしゃったということなのです。


これまでの慣例であったら、平安京を挙げた大きな葬儀になるであろうと思われていた巨星の最期ですが、意外にもその葬儀は薄葬で済まされたことです。


 太上天皇は天命の尽きるのを知って、その葬儀についての思いを、かなり綿密に言葉として残していらっしゃったのです。それを読みますと、これが実に現代的な考えに基づいたものではないかということが理解できます。


 現代でも昨今は遺産相続の手続きを、本人の健在なうちに住ませましょうという呼びかけが熱心に行われていますが、平安時代の太上天皇は、実に克明に遺紹(遺書)を仔細に書き止めさせていらっしゃったのでした。


「私は不徳ながら、長期に渡り皇位をかたじけなくし、朝早くから夜遅くまで恐れ慎み、人民の生活をわたすことを思ってきた。天かは聖人の治める者であり、愚かで微小な者が当たるものではない。そこで私は皇位を懸命な人物に委ね、視線の風致を愛し無位・無号のまま山水を尋ねて散策し、無事ぶじ無為むいのなかで琴や書物を楽しみ、物に捉われない生活をしようと思ったのであった。(中略)そこで太上天皇としての葬儀は行わず、平素の願いを遂げたいと思う。故事にちなんで、送終そうしゅう(使者を送る)とすればよい。は天地の定めで、自然の理である。送終は、人をわずらわすことはないだろう。私は若い頃から病になりやすく、はなはだ薬石の世話になり常に、いつ死ぬかと恐れてきた。これまで口をつぐみ言葉にしてこなかったが、ここで私の思いを述べておこうと思う。およそ人の愛する者は生であり、嫌うのは死であるが、いかに愛しても生を延ばすことはできず、嫌っても死を免れることは出来ない。人の死とは精神は亡び、肉体は消滅して魂の去ることであり、身体の活動の根元力である気は天に属し、肉体は地に帰ることになるのである後略)」(続日本後紀)


 いずれその全容をお伝えする機会があると思いますが、


古代の為政者としては、極めて革新的な感性の持ち主であることが判ります。


天皇の諒闇中(りょうあんちゅう)ということもあって、このところ近隣の新羅(しらぎ)国なども朝貢にもやって来なくなってきていた上に、四月には神功皇后(じんぐうこうごう)の山稜から雷鳴のような山鳴りがあって、赤色の気体のようなものがつむじ風のようになって、南へ飛んだという不気味なことが起こったりするのです。そんな時に陸奥国からは、城柵(じょうさく)に籠って警備に当たっている兵士たちの中から、生業に就けないという不満が募って、逃亡する者が増えているということが知らされたりします。


それから間もない八月のことです。


大宰府から連絡が入ってきます。対馬島上県郡竹敷埼の防人らが、


「去る正月中旬から今月六日まで、遥か新羅国の方から鼓声が聞こえ、耳を傾けますと日に三度響いてきます。常に午前十時頃に始まり、それだけでなく黄昏時になると火が見えるというのです。海の向こうで何が行われているのか不安になります。(続日本後紀)


大きな存在を失った後だというのに、国の内外からは不安な話が持ち上がったりします。


温故知新(up・to・date)でひと言


 大きな存在を失った時には、手薄になったところを狙って、様々な勢力がその支配権を広げようとしてきます。


正にこの時にどう対応するのかということは、日ごろから準備していなくてはいけませんね。無関心でいてはいけないということは当然です。昔から「内憂外患(ないゆうがいかん)という言葉があるように、周辺の事情にもよく注意をしていないと、予期せぬ大事件。大変動が起こるかも知れません。まさに「晴天霹靂(せいてんへきれき)というものです。事態の動きによっては「急転直下(きゅうてんちょっか)全ての事情が突然変わってしまって、事のきまりが急に片付いてしまうということもあるのです。自分だけ置いてきぼりにならないようにいたしましょう。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言15 [趣味・カルチャー]

「千秋楽考」

 恐らく多くのみなさんは、「千秋楽」といえば、きっと大相撲の最期の日、最後の取り組みを行う時に、行司が「○○山と○○川との一戦をこの一番で千数楽にございます」と宣言いたします。

 恐らくほとんどの方は相撲の世界で使われている言葉であると思っていらっしゃったのではないでしょうか。しかし調べてみたところ日本では長いこと芸能の世界で使われてきたので、その世界で生きていた方々は、興行の最期の日などに「今日は楽日ですから」とか「ようやく何後もなく楽を向かえることができました」という風に使われてきました。しかし本当は法会の雅楽の最期に、必ず「千秋楽」という曲が演奏されたことから生まれたことのようなのです。

 大体芸能・音楽などの大きなパトロンで、宮廷の雅楽が断絶してしまった後でも、これを伝えていたのは大阪の四天王寺などが伝えていたもので、これによって、今日これによって再興されたものだといわれているのだそうですが、法会の時に奏される額の順は決まっていたそうで、回向が終わった時の楽が「千秋楽」でした。これが芸能の世界で興行の最期を意味するものとして使われるようになって、歌舞伎や大相撲で使われるようになって、一般の人の耳になじまれてきたということです。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の五 [趣味・カルチャー]

      第五章「決断の時を誤らないために」(五)

        為政者の課題・「旱魃(かんばつ)に泣く民のこと」

弘仁九年(八一八)。

嵯峨天皇は即位してから九年が経過しています。

正月を迎えたのですが、年賀に集まって来た臣下に対して、次のようなことを申し渡しました。

 「年来、年賀の儀に参列する臣下らは礼法を覚えず、動作を誤る者がいる。これにより威儀を欠くことがあるが、長い間の慣いとなって、改められていない。そこで、毎年十二月になったら担当宮司に指導させて、身のこなしや進退が整い、決まりに従うようにすべきである」(日本後紀)

 天候に関しては、為政の力でどうにもなることではありません。雨が降ることを願う祈りを行い、神仏に加護を託するしかないのです。この頃の天皇の苦闘は、近松門左衛門によって「嵯峨天皇甘露雨(かんろあめ)」という作品で劇化されていますが、水害・旱害がつづいて、百姓たちが少なからず被害を受けています。公卿たちは申し出ます。

「臣下の俸禄を削減して、朝廷の経費の不足に充てることを要望します。穀物が豊稔(ほうねん)となりましたら、旧例に復することにしたいと思いますと申告いたします(日本後紀)

勿論それには天皇も賛成しましたが、政庁はにその運営に腐心している最中でした。そんな時であるからこそ、天皇は気持ちの乱れを引き締めるのです。

為政者・嵯峨天皇

弘仁九年(八一八)正月十五日のこと

発生した問題とは

いつの時代もそうですが、決まりというものは注意していないと乱れていくようです。責任のある地位にいる者はまだしも、そういったことから遠ざかっている者は、ついつい決まりを守ろうという気持が希薄になりがちなものです。

 「朝廷における儀式の時の礼や服装、また低位の者が高位の者に合ったときの(ひざまず)く作法は、男女を論ぜず改定して唐の法に従え。ただし五位以上の者の礼服とすべての朝服の色、および警衛の任に就く者の服は、現行どおりとして、改めてはならない」(日本後紀)

 朝廷はその指示に従って、細かな作法を指示したのですが、天皇が改めてこうした厳しい作法についておっしゃるのは、先年起こった宮中での(殺人事件という)不祥事があったからに違いありません。あれは明らかに、宮中での暮らしに緊張感が薄れているからだとお考えになられたからです。年頭に当たって、そうした空気を引き締めるようとなさったのでしよう。

雨が降って欲しいという思いは、神仏に祈るしかありません。

為政者はどんな対処をしたのか

 四月に入ったある日、天皇は朝議の時次のようなことをおっしゃいました。

 「去年は旱魃で秋朱収が損なわれ、現在は日照りで田植えを行うことができなくなってしまった。これは朕の不徳の所為で、百姓に何の罪があろうか。今、天の下す罰を恐れ、内裏正殿を避けて謹慎し、使人を手分けして派遣し、速やかに群神に奉幣しようと思う。朕と(きさき)の使用する物品および常の食膳などは、いずれも削減すべきである。また、左右馬寮(めりょう)で消費する資料の穀物もすべてしばらく停止することにする。そこで左右京職(きょうしき)に指示して道路上の餓死物を収めて埋葬し、飢え苦しむ者には特に物を恵み与えよ。監獄の中には冤罪の者がいると思われるので、役所(ここでは刑部省、左右京職)に今回の処置の主旨を述べさせた上で釈放せよ。近頃不順な天候がつづき、浮名の二日照りが頭花にもなっている。今月二十六日から二十八日までの三日間、朕と公卿以下百官がもっぱら精進の食事をとり、心を仏門に向けようと思う。僧綱(そうごう)も精進して転経を行い、朕の平生の思いに()うようにせよ」(日本後紀)

 天皇は直ちに被害の様子を調べに行かせ、その様子に応じて援助をさせたりいたしましたが、そんなところへまた地震も起こるのです。天皇は兎に角山城(やましろ)國の貴船(きふね)神社、大和国の室生(むろお)の山上の龍穴などへも、使者を送って、祈雨(あまごい)を行わせたりしたのでした。

 相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野などで地震があり、山が崩れて数里もの谷が埋まり、圧死した百姓は数えきれないほどでした。

 天皇は使いの者を食へ派遣して、地震の被害を巡視させ、はなはだしい被損者にはものを恵み与えることにしたのですが、思わずこのようなことを呟かれるのです。

 「朕は才能がないのに、謹んで皇位につき、民を撫育しようとの気持ちは、わずかの間も忘れたことがない。しかし、徳化は及ばず、政治は盛んにならず、ここに至りはなはだしい咎めの徴が下ろされてしまった。聞くところによると、「上野国等の地域では、自身による災害で、洪水が起こり、人も物も失われている」という。天は広大で、人が語れるものではないが、もとより政治に欠陥があるため、この咎をもたらしたのである。これによる人民の苦悩は朕の責任であり、徳が薄く、厚かましいみずからを点火に恥じる次第である。静かに今回の咎のことを思うと、まことに悲しみ痛む気持ちが起って来る。民が危険な状態にあるとき、君一人を安楽に過ごし、子が嘆いている時、父が何もしないようなことがあろうか。そこで、試写を派遣して、慰問しようと思う。地震や水害により、住居や生業を失った者には、現地の役人と調査した上で、今年の祖・調を免除し、公民・俘囚を問うことなく、正税を財源に恵与え、建物の修復を援助し、飢えと露宿生活を免れるようにせよ。圧死者は速やかに収め葬り、できるだけ慈しみ恵みを垂れる気持ちで接し、朕の人民を思う気持に沿うようにせよ」(日本後紀)

この頃の為政者が、天の戒めとして受け止めて、自らの努力ではどうにもならない天災を凌ごうとしていらっしゃいます。しかし為政者はそのお陰で苦しむ民、百姓の苦難をいくらかでも和らげたいと努めるのですが,国を統治する者が、それだけでにできる限りの救済をすればいいという訳にもいきません。

たとえどのような困難があろうとも、国を治める努力は怠るわけにはいきません。それには天皇が理想とされる世界を、実際に形にして見せなくてはならないのではないかと発言する者がありました。

かつて遣唐大使まで務めたほどの重臣であったのですが、「薬子の変」の時、彼女との関係を疑われて、廷臣から外されていた藤原葛野麻呂(かどのまろ)です。

このところようやく名誉を回復して為政にかかわるようになっていたのですが、天皇はすでに何年も前から宴を唐風にしつらえさせたりしていることもありましたので、この際町を唐にならって作り上げ、気分を一新しようという提案をしたのです。

天候異変がつづいていて、どこか閉塞感のある気分を一掃したいという気持ちは誰にもありましたから、天皇もそれには大乗り気で、その先頭に立って指示を与え始められました。

 平安京はにわかに唐風で彩られるようになりました。

間もなく大内裏(平安宮)の門号は唐風に改められるのですが、帝は自ら大内裏東面の陽明門(ようめいもん)待賢(たいけん)門、郁芳(いくほう)門の額を書かれ、南面の美福(びふく)門、朱雀(すざく)門、皇嘉(こうか)門の額は空海が書き、北面の安嘉(あんか)門、偉鑒(いけん)門、達智(たつち)門の額を橘逸勢(たちばなのはやなり)が書きました。まさに平安時代の三筆といわれる方々が、健筆を揮われたのです。

宮中の寝殿(しんでん)(にん)寿(じゅ)殿(でん)として、南殿を紫宸殿と呼ぶことになりましたが、衣服も唐風に改めて、町の坊条も唐風の名称にしたのでした。

 京の規模は大別して、左京を洛陽城(らくようじょう)、右京を長安城(ちょうあんじょう)と呼ぶようにもいたしました。

しかしこの時はとてもこれで民百姓が満足できる状態ではなかったのです。現代の話題としてこれを取り上げる理由は納得して頂けるでしょう。

後進国としては、こうして先人の世界の作り方を学んで、やがて自国の文化によって町も国も作りあげる時がやって来ます。古代においては、中國の政治・文化・芸術の姿は、一つの見本だったことは間違い在りません。・

 今は日本も欧米並みの町づくりをしていますが、国民の暮らしというものが、すべて欧米並みになっていつかどうかが問題です。更に浴を言えば、所謂日本らしい生活を生み出せるようになるのか、大問題です。

 社会が全体的に沈み込んでいる時には、何か庶民の関心を、他のことに向けて気分の転換を図るのが、組織を率いる者には必要不可欠な資質になるのかもしれません。しかしそれを我々はどう受け止める心構えでいるべきなのでしょうか。

温故知新(up・to・date)でひと言

あくまでもその時の対処の仕方が問題なのだと思います。気構えをしっかりとして努力を積み重ねなくてはならないということでしょう。「両鳳連飛(りょうほうれんぴ)という言葉があります。努力を忘れずに積み重ねて、やがて目標とした国と並び立つ国になることほど昇華した姿を見せることです。今は大変苦しい生活の状態で、訪ねる者もないという状態を「門前雀羅(もんぜんじゃくら)」というのですが、為政者は努力によって、いつまでも靴を履いたまま足の裏を掻くようなもどかしい状態をいう、「隔靴掻痒(かっかそうよう)の状態を国民に味わわせない施策というものを考え出して貰いたいものですね。


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