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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言14 [趣味・カルチャー]

「異議あり名称変更!」

 史跡の名称がだんだん時代に合わないということで、歴史的な意味のあったところの名称まで、無造作に当たり前なものに変えてしまうことが多くなっています。かなり昔から不満に思っていたので書くことにいたしました。

 もうかなり前のことになりますが、わたしはゴールデンウイークや夏のシーズンの間は、軽井沢の山荘へ赴いて休養しながら仕事をしてきました。 もちろん仕事ということもありますから、あまり仕事に時間は割かないようにしてきましたが、気が向いた時に気の向くままに出かけていったりしていたのです。そんな中でいつも気になっていた史跡の一つが、この軽井沢にある長倉神社でした。

追分へ向かう国道18号線沿いの、軽井沢役場が近くにあって、中軽井沢の交差点に近い湯川の縁にあるので、大変目につく神社なのですが、どうもこの「長倉神社」という名称には、まるで興味がわかなくてあまり深入りしないできたのですが、歴史に興味をもっていましたので、中軽井沢から碓井峠を目指す道筋の近くに、「沓掛(くつかけ)神社」というものがあったはずなのですが、近くを通ってもまったくそれらしいものがみあたらないので、それ以上追求しないでいたのですが、兎に角昔は、旅人が険しい碓氷峠を越えて行く男街道と、この沓掛の宿場(中軽井沢)から女街道を通って草津方面へ向かい、東北、関東へ向ったり、追分へ向かったり、北国街道へ向かったりする大事な拠点だったのですが、多くの旅人は、ここ・・・沓掛にあったはずの「沓掛神社(くつかけじんじゃ)」へ沓・・・つまり草鞋を納めて、旅の安全を祈るのが習慣だったはずなのです。

 それほど大事な、有名であった神社なのに、現在はどこを探しても、「沓掛神社」などというところは見当たらないのです。

それが一気に解決したのは、数年前のことだったのでした。

 親戚の者の車で軽井沢方面へ旅をした時のこと、彼の友人がこの中軽井沢の青年実業家として活躍しているということから、「沓掛神社」のあるところを聞いてきてくれたのです。幸いなことにその友人は、ここで観光事業にかかわっているということだったので、大変土地の事情には詳しく、わたしの問いかけた疑念についてもあっという間にお答え頂いたと言う訳でした。

問題の「沓掛神社」は、先刻出てきた「長倉神社」と名称を変えただけで、同じところだというのでした。

 (やっぱり・・・!)

 石碑には延喜式内と彫られていますから、かなり古いものだとは思っていたのですが、「長倉神社」というのは、まったく歴史上登場してきません。

 それではどうして、このような無味乾燥な名称に変えてしまったのでしょうか。

答えは簡単なことでした。

時代に合わせて古臭い雰囲気を改め、土地を活性化する一環として地名の変更をした結果だというのです。昔、このあたり一帯を「長倉」といっていたそうで、その象徴として「沓掛神社」を「長倉神社」と改称したということだったのでした。

むしろ現代は、昔の旅人が、この宿場から追分へ向かうにしても、草津へ向かうにしても、あの「沓掛神社」へ沓を納めて、旅の安全を祈っていったということが判ったら、きっと中軽井沢が軽井沢宿と追分宿を結ぶ街道の要所である沓掛宿であったことも判るし、町に対する興味も生まれてくるはずだと思うのですが・・・。時代小説にも、「沓掛時次郎」という長谷川 伸の名作があるくらいです。上州は貧しい所であったということもあって、農村の次男・三男は働く場を求めて任侠道の世界へ走る者が多かったようですが、現在こういった歴史的な素材を、ほとんどネグってしまって、お洒落な近代的な町というイメージで売りたいようなのですが、いささか力の入れ方が間違っているのではないでしょうか。まして、昨今は、新幹線も停まらない駅になってしまって、中軽井沢が元気になったとは言えないように思います。もう一度歴史街道の町であったということで、素材を掘り起こしてみるほうがいいのではないでしょうか。昔、旧碓氷峠を越えて行くことは険しかったし、峠を越えたあたりに関所があったりして関東へ行くには大変な苦労をしました。そんなこともあって、商人たちはもちろんのこと、市民たち・・・特に女などは、この沓掛宿を基点にして旅をしたり、草津あたりへ湯治に出かけたりして行ったのです。そんなことを想像しながら、あたりを散策する楽しみを知って貰うためにも、もう一度史跡保存という視点で考え直して貰いたいものです。

それこそが、観光資源の開発にもなると思うのですが・・・。どうか旅をする人の発見する楽しみを、せめて無造作に奪わないで貰いたいものです。

東京でも時代の進化に合わせて、行政の簡便化のために由緒ある土地の名称を、無造作に記号化してしまいましたし、今でもそれをやりたいところがあるようですが、もちろん中には住民たちの反対でそれを阻止することができたところもあります。しかしこうした歴史的にもよく知られた、街道の重要な拠点にあったところまで、無造作に変更してしまうことが、本当に意味があるのか考えてしまいます。

 私の住んでいる世田谷のある地域には、駒留、駒沢、深沢、奥沢、等々力(かつて滝が落ちていてその音が響いていた)、上馬、下馬、池尻、五本木、三軒茶屋というように、山・谷・沢があって馬を生産していた農村で、ところどころに旅する人のための茶店があるというような土地であったということが想像できるところです。しかし最近は開発が進んで行きますから、どんどんそういった雰囲気は失われて行きつつありますが、せめてその地の原点であった歴史が辿れる地名だけは残しておきたいものです。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の三 [趣味・カルチャー]

      第五章「決断の時を誤らないために」(三)

        為政者の課題・「サボる役人を取り締まれ」

 

 弘仁二年のことです。

 嵯峨天皇が即位してから二年目にあたりますが、ある意味では世代交代の時代であったのかもしれません。

参議従三位宮内卿兼常陸守朝臣真道が、官職の辞任を求めて次のような書面を提出してきました。

 「私は『官人は早朝に出仕して日暮れて退き、(やす)むのが分際であり、壮年期に仕え老いて休むのが礼の通則である。この故に人は良い評判を得るようにつとめて主に仕え、身を保ったまま終えるようにするものである』と聞いています。私は元来凡庸で才質を欠き、学問は甲科に及ばず恥じいっているのですが、禄を求めて下級官人として出仕し、功績はないものの運よく早くから先朝(桓武・平城)にお仕えしました。かくして平城天皇が皇太子から皇位に就き、早朝から夜遅くまで勤務し、年月が経ちました。この間、大変な推奨を受けて高位高官の仲間となり、文武の顕職(けんしょく)について、京あるいは外国で厚い俸禄を賜り、今日に至っております。何度も朝廷の恩恵に浴し、顧みて、功のないのに禄を貪り、伏して、深く慄くばかりです。さて、私は桓武・平城・嵯峨の三朝にお仕えして、年齢が七十になりました。年々病気が募り、意欲も体も衰えています。年老いて官を罷めることに未練がないわけではありませんが、昼の時間が過ぎてなお夜行するのは、分に応じて満足すべきであるという心からの気持ちに背くことになります。伏して、老いたる身を郷里へ戻し、粗末な屋舎に身を置き、病を養いながら余生を過ごし、文を閉ざして最期を待つことを請願致します。心からの思いを抑えがたく謹んで参内し、表を奉呈致します」(日本後紀)

 天皇は真道の辞官を許可したが、常陸守だけはもとのままとしたのでした。

 新年早々ですが、来訪していた渤海国使(ぼっかいこくし)高南容(こうなんよう)たちが帰国するというので、天皇は渤海国王の大元瑜(だいげんゆ)に親書を託しました。

 「もたらした渤海国王の啓は異彩を尽くしていた。思うに王は資質が豊かで、人柄に広く深みがあり、国内には恩恵を(あつ)くして治め、外国に対しては、慎みを持って仕えている。代々北の涯に居住して、同盟国である日本と友好関係を結んでいる。陽光を浮かべる大海を渡って来朝することを企て、使節は天まで至る波を越えて、小舟ながら到来し、真心を尽くして珍しい品物を貢献し、礼儀をもって朕の即位を慶賀している。王の懇ろな心を思うと、嘉賞の思いの尽きることがない。朕は皇位を継ぎ、天子としての計略を受け、自制して国内に臨み公明正大な態度で人民を治めているが、朕の徳では近くにいる者さえ懐けず、教化をどうして遠方まで及ぼすことが出ようか。渤海国王は善隣関係を打ち建てることにつとめ、心に大国である日本に仕えることを大切にし、労苦をものともせず、先代以来の日本との友好関係を継承している。さらに、南容は再度来朝し使人としての任務を怠らず、傷んだ船に乗りながら忠貞の心を励ましている。従って、王の要請がなくても帰国の船の手当てをするのはとうぜんである。そこで、別のン船を提供し、送使(送渤海使(そうぼっかいし))を添えて送らせることにした。また、少しの賜り物を託すので、帰着したら受領せよ。春とはいえ寒い。思うに王は,寧日を過ごしていることであろう。朕の思いを述べて書を送る。十分に意を尽くしていない」(日本後紀)

 友好関係を結んでいる国への気配りをしたりしている時に、同じ頃平城宮の警備を担うはずの衛府の官人たちが、規律を守らずに勝手に出入りしたりしていて、宿直の警備も当てにならないという情報が飛び込んできます。

為政者・嵯峨天皇

弘仁二年(八一一)七月十三日のこと

発生した問題とは

今は諸国に疾病が流行している上に旱害に見舞われ、百姓たちは疲弊していて、回復していないことに痛切な思いを抱かれて、生活が困難になっている者には、速やかに物を恵み与えよと、慈悲のある配慮を指示したりいたしました。

気遣いは多方面にわたります。天皇は蝦夷との紛争にも立ち向かいながら、人智では解決のしようもない天災とも戦わなくてはなりません。

為政者はどんな対処をしたのか

この年四月には、陸奥国の太平洋岸沿いの十駅を廃止しました。その代わりに、陸奥国から常陸国へ通じる駅路を開削して、長有(ながあり)(福島県白川郡あたり)高野(たかの)(福島県東白川郡あたり)の二駅を置きました。危急の連絡に備えるためでした。

 そんなさまざまな困難の処理をしなくてはならない日常の中で、信頼する廷臣とも別れなくてはならないことも起こります。

五月には祖霊桓武天皇以来、朝廷のために尽くしてくれた武人の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の死が伝えられました。

帝にとって忘れられなかったのは、戦いで投降してきた蝦夷の勇者の阿弖流為(あてるい)盤具公母礼(ばぐのみみもれ)について、助命してほしいと嘆願してきたのが、戦った田村麻呂自身だったのです。しかし彼の必死の助命の訴えも受け入れられずに、二人は処刑されてしまいましたが、そんなこともあったためでしょう。彼はこれまでの幾多の戦いで犠牲となった者の供養もしたいと、京の鳥辺野(とりべの)に清水寺を創建して、十一面観音立像を祀るのです。

 「清水寺山門」.JPG 「平安京・清水寺・阿弖流為記念碑」.JPGz

  (京都清水寺の舞台の下の道にある記念碑)

武人でありながらどこか人間らしい情を感じさせる逸話です。

仁を基本にした為政を行おうとされる文人政治家の天皇は、そうした人情の機微にも通じておられて、過ぎ去ったことでも決して忘れるようなことはありませんでした。

 そんな五月の或る日のこと、天皇は征夷大将軍の文屋綿麻呂たちに命じました。

 「城作の周辺に居住している俘囚らは、かなりな数になっている。将軍らが出兵すると(よこしま)な気持ちを生ずる恐れがあるので、綏撫(すいぶ)を加えて騒ぎ乱れることのないようにせよ。恩恵と威厳で臨み、朝廷を讃えさせよ」(日本後紀)

 天皇は同じ国で暮らしている異民族との摩擦を、少しでも早く解決したいと苦慮していらっしゃるのです。

 その間で天皇の心の中には、皇統を巡る思いの擦れ違いから、長幼の序という教えに背いて争うことになってしまった、平城太上天皇との騒乱事件のことが脳裏に焼きついていました。今ではその時の経緯を忘れて、兄と弟という関係に立ち戻られて、引退後のお世話をしていたのです。ところがその太上天皇が暮らしていらっしゃる平城宮の警備を担うはずの衛府の官人たちが、規律を守らずに勝手に出入りしたりしていて、宿直の警備も当てにならないという情報が、飛び込んでくるのです。

天皇は直ちに真相を調べさせると、厳しく取り締まらせることにしたのでした。

いったいこの話題から、どんな問題を取り上げればいいのでしょうか。同じ官人であっても、それぞれがまったく違った心構えでかかわっている者がいるということです。

 それは現代でも同じでしょう。

 上司の指示していることを、承知の上で勝手なことをして税金を私用に使っていたキャリア官僚が二人が現われたりしています。いて、税金を悪用して私の費用として使っていたというものが現われたりしています。組織はそんなところから崩れていくものです。糾すべきことは糾して、真っすぐになっている必要があります。

 平城宮に勤めていたあの官人たちは、目下政庁が蝦夷(えみし)との問題に腐心しているのを承知していて、官人は監視が行き届かないのを利用して手抜きをしていたのです。

平城宮にいらっしゃる太上天皇も、権力を失ってしまって蟄居していらっしゃるのですから、恐らく咎める者はないと高を括っていたのでしょう。よくある話ではないでしょうか。

 世の中冷たくなったとはいっても、これまで仕えていた方が力を失ったからといって、それまでの関係を無視して、まるで関係が無かったかのような態度に出てくるようなことは、とても許されるものではありません。それまでの付き合い方がどうであったのかということも気になりますが、少なくとも一度は主従関係にあった人間関係であったのですから、仕える人が力を失ったからと言っても、突然態度を変えて接するということは、見苦しいとしか言いようがなくなってしまいます。

温故知新(up・to・date)でひと言

夜警などということは古代でも「抱関撃柝(ほうかんげきたく)」といって、卑しい役目の者といわれていた時代ですが、ある地位に就いていながら、何もしないで給料だけを貰っているというような、「尸位素餐(しいそさん)であってはなりません。つまり職責を果たさずに給料だけを貰って、ぬくぬくと暮らしているような姑息な生き方をするような者は、見逃しておくわけにはいきません。「綱紀粛正(こうきしゅくせい)」です。規律を正しくした上で、それぞれやりたいことをすればいいのではないでしょうか。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑14 [趣味・カルチャー]

「進化する通信網」

 昨今の通信技術の進化は、実に驚異的なものがあります。それは若い読者のほうが良く知っているでしょう。すべてがデジタルで行われているのですから、古代は緊急の連絡があった時どうしていたのでしょうか。

 近くの人に連絡する場合は別として、遠隔地の人に連絡する場合はどうしていたのだろうかということが問題です。日本の通信法の原点であった狼煙(のろし)というものは一体いつごろ入って来たのかということなのですが、それは七世紀半ばに中国からもたらされ、はじめは「(とぶひ)」と呼ばれていたということが判りました。そのきっかけになったのは、朝鮮半島で起こった騒乱がきっかけだったのです。

親しかった百済(くだら)が、唐・新羅(しらぎ)の連合軍のために滅ぼされてしまった時のことなのですが、その時我が国にいた百済の王子を呼び戻そうという動きがあって、近江朝廷は二万七千という大軍を出して、救援に乗り出したのです。ところが白村江(はくすきのえ)の戦いで壊滅的な敗北を喫してしまったことがあったので、その敗戦によって唐の軍がいつ襲撃してくるか判らなくなってしまったのです。我が国は急いで国土防衛をしなくてはならなくなってしまったのです。大宰府を移転させたり、高安(たかやす)屋嶋(やしま)()大野(おおの)などに築城をして、防人(さきもり)を配備しました。

その上で異変を直ちに飛鳥へ知らせ、迎え撃つために兵を集めたり、安全なところへ避難したりするために、情報が少しでも早く届けられる必要があったのです。

北九州から飛鳥まで、隣が直ぐに見える見晴らしのいい山に、「烽」を置いて監視していたのです。

唐軍が北九州に現れれば、直ちに対馬で狼煙を上げ、それを見た壱岐(いき)で狼煙を上げ、そういったやり方で、知らせを順につないでいって飛鳥へ報告が届くのです。

おおむね「烽」は二~三十キロ間隔でおかれていましたが、その伝達の内容は、敵兵の数によって煙、火の数も違っていましたが、昼間は(よもぎ)(わら)、生柴を燃やして煙を立て、夜は乾いた葦を芯にして、油の多い草木の先端を組み合わせた松明を組み合わせて火を焚き、隣のところへ知らせたということでした。

通信技術については日進月歩でその技術的なことの進化が加速的に進んでいるようで、古代のそれは夢の中の出来事のように思えたりします。しかしあまり激しい勢いで進んで行ってしまうと、それについていくのに追いまくられて、大事なものをついうっかりして忘れてしまったり、時代の濁流が前へ前へと勢いよく進む中で、つい押し流してしまった宝石のようなものを、一生懸命に探し出していかなくてはならないと思っているところです。

今や5G通信の時代ですが、あえて知恵を磨きながら、不便を乗り越えていった時代のお話にしました。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の二 [趣味・カルチャー]

      第五章「決断の時を誤らないために」(二)


        課題「備えることの大事」


長い平和な状態に馴染んでしまっていることもあって、万一の時の備えということなどには無頓着になりがちかもしれませんが、今は・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁元年(八一〇)十二月二十七日のこと


発生した問題とは


 嵯峨天皇による政庁が発足したばかりだというのに、平城上皇の復活を企てた「薬子の変」が始まってしまいましたが、迅速な対処で処理したある日のこと、天皇は心ならずも皇太子の高岳親王を廃して中務卿(大伴親王)を皇太子に立てて、政庁の体制を組み立て直しました。そしてやがてこうお話になりました。


 「飛鳥朝(皇極天皇)まで年号はなく、難波に朝廷を置いた孝徳朝にはじめて大化の年号を定めた。以来、それに倣い代々今日に至るまで、年号を使用しており、天皇が即位すると代の初を称し、時々に相応しい年号を定めている。朕は小人物で才を欠くが、皇位を継承し、支配者として臨んで、ここに二年になる。日月が経過したしたが、新しい元号を立てていない。現在、穀物は豊作となり、人々は稔りを称えているが、まことに皇室の祖先の霊と土地と穀物の神である社稷(しゃしょく)の助力によるのであって、不徳の朕のよくするところではない。朕は、天下とこのめでたいしるしを喜びたいと思う。そこで大同五年を改めて光仁(こうじん)元年とせよ。遠方にまで布告して、朕の意を知らせよ」(日本後紀)


 即位した嵯峨天皇はその後で行う大嘗祭のために、松崎川で禊をして備えると、渡島(津軽半島の北端化、北海道南部)の蝦夷二百人が陸奥国の気仙郡にやって来ました。この人たちは陸奥国の管轄ではないので、戻るようにいったところ、「今寒い時期で海路は困難ですので、来年の春を待って帰郷したい」と願い出てきました。天皇は直ちにその要請を許可し、滞在中は気仙郡が衣と食料を支給することにしました。


しかしそれを迅速な対処で処理したある日のこと、戦いの勝利に貢献した僧の空海は、高雄山寺からわざわざ宮中へやってきて、嵯峨院へ「五覚院」という帝の持仏堂を建立したいという請願をしたのです。天皇の要請もあって(へん)の鎮静化に貢献した空海の頼みですから反対はありません。しかもそれが帝の安泰であることを祈願し、鎮護国家を願うためのものであるというのでなおさらのことです。申し出は直ちに許可されると同時に、空海は南都の東大寺の別当にも任じられました。北都といわれる平安京の仏教とは生き方の違いから生まれている平城京仏教との溝を、彼の力で埋めようとする朝廷の苦肉の策でもありました。朝廷は十二月になると、伊勢の神に次ぐ高い地位を得ている石清水八幡宮へ、戦いの終結を報告すると同時に、守護に対する感謝を伝えるために、参議となった巨勢野足(こせののたり)を送ると変に関しての論功行賞も行い、嵯峨天皇は本来の為政の務めへ立ち戻られたのでした。


為政者はどんな対処をしたのか


 即位された時から、偉大な祖霊の為政を参考にされながら、改革すべきことは大胆に行っていくという意欲をお見せになりましたから、臣民からも信頼され期待も寄せられていた天皇は、自らの新たな課題を自覚していらっしゃったのです。あの変は上皇が仕掛けたことでしたし、それに立ち向かったのは、為政を預かる者としての抗議であったのです。しかし古来守られてきた長幼の序という秩序を無視して戦ってしまったのです。その問題はこれから為政の中で、絶対に糺していかなくてはならないと心に秘められたのでした。そんなある日のこと、播磨(はりま)国から、次のような訴えがあったのです。


「日月・星辰がものの道理やあり方を示していると思うが、北斗七星が北極星を守っているように親衛軍が皇宮の守備についている。地域ごとに機能する武力が有用なことは、古典にも記されている。武力が兵乱を(しず)め朝廷への侮蔑(ぶべつ)を防ぎ、これによって全国が従うようになる。今、左右近衛府(きんえふ)の近衛の員数を削減しているが、もし緊急事態となったら、どうしてすぐに対処できるだろうか。人員の増加・削減は文武共に第一に留意すべきことであり、時々の情勢に応じて、廃止や設置をしなくてはならない。左右近衛(このえ)(宮中の警備)に関しては旧来の員数に戻すべきである」(日本後紀)


ここでの現代への問いかけは、あまり無視していられない問題を秘めているのではないかと思うのです 


温故知新(up・to・date)でひと言


 空海による政庁に対する備えということに対して、我々はどう受け止めればいいのでしょうか。現在の世界はそうすべてが手放しで平穏な状態でいられる状態にはありません。それは今日的な問題とも思えてきたのです。


万一の時に備えるということに無頓着になりがちかもしれませんが、現在の世界はそうすべてが手放しで平穏な状態でいられる状態にはありません。本来は世界が平和を維持するために結成しているはずの国際連合・・・とまり国連なのですが、どうも一党一派に偏ってしまうために、困難な問題が山積で、危機回避に絶対的な力を発揮出るとは云い切れません。私たちはそんな中での平和を保っているわけで、少なくとも国の安穏を維持するための問題については、真剣に考えておかなくてはならないなと考えさせられてしまったわけです。勿論、その備えは過剰防衛に走ってしまうことは避けなくてはなりません。却って周辺の国々に警戒心を煽ってしまうことになってしまっているのは大変です。昔から居安思危(きょあんしき)ということがいわれています。平穏な時にも万一の事を思って、常に用心を怠らないことが必要であるという諌めです。気になることは、大事にならないうちに片付けておく必要があります。(とう)(けん)()(けい)といって、焼き物の犬は吠えないし、素焼きの鶏は夜明けを告げない。形だけで実際には役には立たないもののたとえですが、剛毛斧柯(ごうもうふか)ということも言われます。災いは小さいうちに取り除いておくべきで、大きくなってからではどうにもならないということを言っているのです。しかし現実にはどうしてもそれができないことが多くて、気がついた時には取り返しがつかないことになってしまっている場合がかなりあります。安穏を維持するには、それなりの努力が必要だということです。きわめて判断の困難な問題だと思います。



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