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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の三 [趣味・カルチャー]

      第五章「決断の時を誤らないために」(三)

        為政者の課題・「サボる役人を取り締まれ」

 

 弘仁二年のことです。

 嵯峨天皇が即位してから二年目にあたりますが、ある意味では世代交代の時代であったのかもしれません。

参議従三位宮内卿兼常陸守朝臣真道が、官職の辞任を求めて次のような書面を提出してきました。

 「私は『官人は早朝に出仕して日暮れて退き、(やす)むのが分際であり、壮年期に仕え老いて休むのが礼の通則である。この故に人は良い評判を得るようにつとめて主に仕え、身を保ったまま終えるようにするものである』と聞いています。私は元来凡庸で才質を欠き、学問は甲科に及ばず恥じいっているのですが、禄を求めて下級官人として出仕し、功績はないものの運よく早くから先朝(桓武・平城)にお仕えしました。かくして平城天皇が皇太子から皇位に就き、早朝から夜遅くまで勤務し、年月が経ちました。この間、大変な推奨を受けて高位高官の仲間となり、文武の顕職(けんしょく)について、京あるいは外国で厚い俸禄を賜り、今日に至っております。何度も朝廷の恩恵に浴し、顧みて、功のないのに禄を貪り、伏して、深く慄くばかりです。さて、私は桓武・平城・嵯峨の三朝にお仕えして、年齢が七十になりました。年々病気が募り、意欲も体も衰えています。年老いて官を罷めることに未練がないわけではありませんが、昼の時間が過ぎてなお夜行するのは、分に応じて満足すべきであるという心からの気持ちに背くことになります。伏して、老いたる身を郷里へ戻し、粗末な屋舎に身を置き、病を養いながら余生を過ごし、文を閉ざして最期を待つことを請願致します。心からの思いを抑えがたく謹んで参内し、表を奉呈致します」(日本後紀)

 天皇は真道の辞官を許可したが、常陸守だけはもとのままとしたのでした。

 新年早々ですが、来訪していた渤海国使(ぼっかいこくし)高南容(こうなんよう)たちが帰国するというので、天皇は渤海国王の大元瑜(だいげんゆ)に親書を託しました。

 「もたらした渤海国王の啓は異彩を尽くしていた。思うに王は資質が豊かで、人柄に広く深みがあり、国内には恩恵を(あつ)くして治め、外国に対しては、慎みを持って仕えている。代々北の涯に居住して、同盟国である日本と友好関係を結んでいる。陽光を浮かべる大海を渡って来朝することを企て、使節は天まで至る波を越えて、小舟ながら到来し、真心を尽くして珍しい品物を貢献し、礼儀をもって朕の即位を慶賀している。王の懇ろな心を思うと、嘉賞の思いの尽きることがない。朕は皇位を継ぎ、天子としての計略を受け、自制して国内に臨み公明正大な態度で人民を治めているが、朕の徳では近くにいる者さえ懐けず、教化をどうして遠方まで及ぼすことが出ようか。渤海国王は善隣関係を打ち建てることにつとめ、心に大国である日本に仕えることを大切にし、労苦をものともせず、先代以来の日本との友好関係を継承している。さらに、南容は再度来朝し使人としての任務を怠らず、傷んだ船に乗りながら忠貞の心を励ましている。従って、王の要請がなくても帰国の船の手当てをするのはとうぜんである。そこで、別のン船を提供し、送使(送渤海使(そうぼっかいし))を添えて送らせることにした。また、少しの賜り物を託すので、帰着したら受領せよ。春とはいえ寒い。思うに王は,寧日を過ごしていることであろう。朕の思いを述べて書を送る。十分に意を尽くしていない」(日本後紀)

 友好関係を結んでいる国への気配りをしたりしている時に、同じ頃平城宮の警備を担うはずの衛府の官人たちが、規律を守らずに勝手に出入りしたりしていて、宿直の警備も当てにならないという情報が飛び込んできます。

為政者・嵯峨天皇

弘仁二年(八一一)七月十三日のこと

発生した問題とは

今は諸国に疾病が流行している上に旱害に見舞われ、百姓たちは疲弊していて、回復していないことに痛切な思いを抱かれて、生活が困難になっている者には、速やかに物を恵み与えよと、慈悲のある配慮を指示したりいたしました。

気遣いは多方面にわたります。天皇は蝦夷との紛争にも立ち向かいながら、人智では解決のしようもない天災とも戦わなくてはなりません。

為政者はどんな対処をしたのか

この年四月には、陸奥国の太平洋岸沿いの十駅を廃止しました。その代わりに、陸奥国から常陸国へ通じる駅路を開削して、長有(ながあり)(福島県白川郡あたり)高野(たかの)(福島県東白川郡あたり)の二駅を置きました。危急の連絡に備えるためでした。

 そんなさまざまな困難の処理をしなくてはならない日常の中で、信頼する廷臣とも別れなくてはならないことも起こります。

五月には祖霊桓武天皇以来、朝廷のために尽くしてくれた武人の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の死が伝えられました。

帝にとって忘れられなかったのは、戦いで投降してきた蝦夷の勇者の阿弖流為(あてるい)盤具公母礼(ばぐのみみもれ)について、助命してほしいと嘆願してきたのが、戦った田村麻呂自身だったのです。しかし彼の必死の助命の訴えも受け入れられずに、二人は処刑されてしまいましたが、そんなこともあったためでしょう。彼はこれまでの幾多の戦いで犠牲となった者の供養もしたいと、京の鳥辺野(とりべの)に清水寺を創建して、十一面観音立像を祀るのです。

 「清水寺山門」.JPG 「平安京・清水寺・阿弖流為記念碑」.JPGz

  (京都清水寺の舞台の下の道にある記念碑)

武人でありながらどこか人間らしい情を感じさせる逸話です。

仁を基本にした為政を行おうとされる文人政治家の天皇は、そうした人情の機微にも通じておられて、過ぎ去ったことでも決して忘れるようなことはありませんでした。

 そんな五月の或る日のこと、天皇は征夷大将軍の文屋綿麻呂たちに命じました。

 「城作の周辺に居住している俘囚らは、かなりな数になっている。将軍らが出兵すると(よこしま)な気持ちを生ずる恐れがあるので、綏撫(すいぶ)を加えて騒ぎ乱れることのないようにせよ。恩恵と威厳で臨み、朝廷を讃えさせよ」(日本後紀)

 天皇は同じ国で暮らしている異民族との摩擦を、少しでも早く解決したいと苦慮していらっしゃるのです。

 その間で天皇の心の中には、皇統を巡る思いの擦れ違いから、長幼の序という教えに背いて争うことになってしまった、平城太上天皇との騒乱事件のことが脳裏に焼きついていました。今ではその時の経緯を忘れて、兄と弟という関係に立ち戻られて、引退後のお世話をしていたのです。ところがその太上天皇が暮らしていらっしゃる平城宮の警備を担うはずの衛府の官人たちが、規律を守らずに勝手に出入りしたりしていて、宿直の警備も当てにならないという情報が、飛び込んでくるのです。

天皇は直ちに真相を調べさせると、厳しく取り締まらせることにしたのでした。

いったいこの話題から、どんな問題を取り上げればいいのでしょうか。同じ官人であっても、それぞれがまったく違った心構えでかかわっている者がいるということです。

 それは現代でも同じでしょう。

 上司の指示していることを、承知の上で勝手なことをして税金を私用に使っていたキャリア官僚が二人が現われたりしています。いて、税金を悪用して私の費用として使っていたというものが現われたりしています。組織はそんなところから崩れていくものです。糾すべきことは糾して、真っすぐになっている必要があります。

 平城宮に勤めていたあの官人たちは、目下政庁が蝦夷(えみし)との問題に腐心しているのを承知していて、官人は監視が行き届かないのを利用して手抜きをしていたのです。

平城宮にいらっしゃる太上天皇も、権力を失ってしまって蟄居していらっしゃるのですから、恐らく咎める者はないと高を括っていたのでしょう。よくある話ではないでしょうか。

 世の中冷たくなったとはいっても、これまで仕えていた方が力を失ったからといって、それまでの関係を無視して、まるで関係が無かったかのような態度に出てくるようなことは、とても許されるものではありません。それまでの付き合い方がどうであったのかということも気になりますが、少なくとも一度は主従関係にあった人間関係であったのですから、仕える人が力を失ったからと言っても、突然態度を変えて接するということは、見苦しいとしか言いようがなくなってしまいます。

温故知新(up・to・date)でひと言

夜警などということは古代でも「抱関撃柝(ほうかんげきたく)」といって、卑しい役目の者といわれていた時代ですが、ある地位に就いていながら、何もしないで給料だけを貰っているというような、「尸位素餐(しいそさん)であってはなりません。つまり職責を果たさずに給料だけを貰って、ぬくぬくと暮らしているような姑息な生き方をするような者は、見逃しておくわけにはいきません。「綱紀粛正(こうきしゅくせい)」です。規律を正しくした上で、それぞれやりたいことをすればいいのではないでしょうか。


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