☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑27 [趣味・カルチャー]
「イモリとヤモリ」
私も戦争時代には、茨城県の潮来にある潮来旅館に集団疎開をしていたことがあったのですが、それから暫くして東京大空襲があってから、母と弟、妹を岐阜県の山にある親族の別宅を貸してもらって疎開しましたので、私と長女の妹も、潮来から引き揚げて、岐阜県の山へ移転していた母たちと合流して、いわゆる山里での暮らしを始めることになったのですが、ここでびっくりしたのは、天上に這っている数匹のヤモリを見た時でした。
しかしこの時はまだその名称ははっきりと知りませんでした。しかもその後で、壁を這っているのも見つけたのですが、どちらにしても気持ちが悪い存在でいた。
ところがそれから間もなくびっくりしたのは、先刻天井にいたのは「ヤモリ」で壁を這っていたのは「イモリ」だということを教えられたことでした。
母屋の若者たちはまるで私がびっくりして話すのに興味がなさそうで、あっさりと私たちが天上に這っているものは「ヤモリ」壁を這っているのが「イモリ」だと答えただけでケロッとしていたのです。
まだ私も小学校4年生の頃の体験です。
これまでの東京での暮らしとはまったく違った、山の中での暮らしに興味半分、びっくり半分の暮らしをしたことがありました。
「イモリ」と「ヤモリ」は当然ですが違う存在だったのです。
「イモリ」は池や沼、小川、田んぼ、井戸などに住んで、ミミズや小さな虫などを食う両生類なのですが、「井戸」を守っているところから「イモリ」と呼ばれるようになったのだそうです。特徴はお腹のあたりが鮮やかな赤で黒い斑点があって、背中は黒か暗褐色です。
それに対して、「ヤモリ」は家に住み着いているもので、天井や壁、戸袋の中などに張り付いているものなのです。蚊や蛾、ハエ、クモなどの人間にとっては害になる虫などを食べてくれる存在なのです。
まさに家を守ってくれる「やもり」出会ったのでした。「ヤモリは「イモリ」よりも扁平で、体は暗褐色の斑点がある灰色で爬虫類です。
大東亜戦争のお陰で、「イモリ」と「ヤモリ」の違いを知った、思い出の一つでした。
嵯峨天皇現代を斬る その九の三 [趣味・カルチャー]
第九章 「人間関係をうまくやるために」(三)
為政者の課題・「朔旦冬至と神霊の不可思議」
延暦二十三年(八〇四)十一月一日に、はじめて桓武天皇が行ったと「続日本紀」に記されているのですが、現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるのではありませんか・・・。
為政者・桓武天皇
延暦三年(七八四)十月三十日のこと
発生した問題とは
天応元年(七八一)四月三日。光仁天皇はほぼ十年というワンポイントリリーフの役割を果たされて、四十五歳の山部親王へ譲位して桓武天皇として即位されるのですが、きわめて困難な時代でした。その年の十二月二十三日に、上皇は崩御してしまわれると、葬儀を終えたばかりだというのに、延暦元年(七八二)には朝廷の要人であった氷上川継が、兵を率いて朝廷の転覆を図ろうとしていることが発覚しましたし、三方王もそれに関したりで、長いこと国の為政を支配してこられた天武天皇という伝説的な皇統と違って、まだ皇統としては歴史の浅い天智天皇の系列の方々にとっては、平城京というところはかなり住み難いところであったのです。
「朕は天下に君主として臨んで、人民を慈しみ育んできたが、官民ともに疲れ衰えて、朕は誠に心配している。ここに宮殿の造営などを中止して農業につとめ、政治は倹約をこころがけて行い、財物が蔵に満ちるようにしたい。今、宮の住居は住むのに充分であるし、調度品も不足していない。また寺院の造営も終了した。貨幣の流通量もふえ、銭の価値がすでに下がっている。そこで造宮省(宮城の造宮修理を司る)と、勅旨省(勅旨の伝達と皇室用品調達を司る)の二省と造法花寺司(法華寺造営を司る)と、鋳銭司の両司を止めることにするそれで蔵の宝を婦や市、無駄を省いた官位の政治を尊ぶようにしたい。ただし、造宮省と勅旨省の各種の技術者はその能力によって、木工寮・内臓寮などに配属し、余った者はそれぞれ配属以前のもとの役所に還せ」(続日本紀)
この二年後そんな延暦三年(七八四)ついに十一月十一日には、七十年もの間都として栄華を誇った平城京を去って遷都を行うことにしたのです。しかし遷都を実のある形にするために、政情の安定を願っていたのですが、蝦夷(えぞ)の抵抗が激しいために、その討伐、鎮圧にかなりの財を費やさなくてはならないという問題を抱えていました。その頃は平城京中では盗賊の数が市外に増えるという、物騒な世の中になっていて、街路で物を奪い取ったり、家に放火したりしているという。担当の役所が厳しく取り締まることができないために、暴徒が盗賊となってこのような被害を起こしているのです。
「今後はもっぱら令の規定にあるように、隣組(五戸で作る。相検察させ違反を防ぐのが狙い)を作り、間違ったことを検察するようにせよ。職に就かず暮している者や、博打内の輩は、蔭や贖(高官の孫や子の特典)からはずし、杖百叩きの罰とせよ。放火や略奪・恐喝の類は必ずしも法律に拘らず、死刑の罰を持って懲らしめよ。つとめて賊を捕え悪者を根絶せよ」(続日本紀)
厳しい指示をしていらっしゃいます。
天皇にとって忘れられない大事な日がもう目の前に来ているのです。それは交野の百済王から聞いた朔旦冬至という吉日だったのです。
為政者はどう対処したか
桓武天皇は若いころから親族とも思っていた、百済王のところへ長岡京からよく通ってきていたのですが、そんな時に十九年に一回巡って来る、朔旦冬至といって、陰暦十一月一日が冬至に当たる日が吉日になると言って、その日に大事な祀りごとの日であると言って、郊天祭祀(こうてんさいし)に招かれたことがありました。皇統が正しいかどうかが決まるというのでした。もし即位した者の徳が無くて、天が認めないようなことになったら、政変が起こるというのです。桓武天皇はその時のことを忘れてはいませんでした。そしてこうもおっしゃるのでした。
「人民は国の根本であり、本が難ければ国は安らかである。人民の生活のもととしては、農業と養蚕がもっとも大切である。この頃諸国の国司たちはその政治に不正が多い。人民を慈しみ治める道の方法に背いていることを恥じず、ただ人民からの収奪が上手くいかないことを畏れている。林野を広く占有して人民の生活手段を奪ったり、多くの田畑を経営して人民の生業を妨げたりしている。人民が弱り憑かれるのはこれが原因である。これらの行為を禁止し、貪りと汚れた心を懲らしめ改めさせるべきである。今後、国司らは公廨田(地方官の俸給として支給される田)の他に水田を営んではならない。また私に欲深く開墾して人民の農業や養蚕の地を侵してはならない。もし違反する者があれば、収穫物と開墾した田はすべて官が没収し、ただちに現職を解任して違勅の罪を科す。国司の同僚と郡司らがそれを知って罪をかばいかくしたならば、ともに同罪とする。もし糾弾して告発する人があれば、その罪を犯した者の田の苗を糾弾告発した人に与えることにする」(続日本紀)
そうこうするうちに、朝廷にとって大事にされている朔旦冬至の十一月一日がやって来ます。
「神の霊妙な働きは功をなしても自らの手柄とせず、万物は声明を全うすることを楽しみ、その聖徳は広大無辺で、多くの民がその隠れた働きを明らかにしている。こうして広く天下に徳が及び、陰陽を治め整え、生物を守り育て、偉大な手柄を世に現すのである。朕は拙い身をもって皇位に就き治世に当たっているが、薄氷を踏み奔馬に乗る思いで、常に恐れの気持ちを抱いている。ところで最近、役所の者が、『今年十一月は朔旦冬至です。一の時代が終わり、新しい時代が始まる区切りとなります。冬至に至り寒気が極まると、陽気が少しづつ起こるようになるのでして、この慶びには謂れがあります』と報告してきた。朔旦冬至のもたらす寿福については以前から聞いている。徳の少ない朕一人のみこの幸運に浴せようか。天下と共にこの幸せを承けたいと思う」(続日本紀)
天皇はそこで、弘仁十三年十一月二十四日の夜明け以前の、懲役刑以下軽重を問わずすべて免すと、蔭の途絶した者と才能・功績の顕著な者には、特に高位を授け高い地位につけ、内外の文武官の主典以上の者に位一階を与え、在京の上位の官人たちには物を与え、朔旦冬至の有り難い巡り合わせを天に感謝するようにと布告しました。
天災による苦闘の中から、民のためにということを先行する姿勢を打ち出し、朔旦冬至という貴重な吉日を使って、様々な階級の者にも幸運を分け与えようとされたのでした。
天災による被害は古代だけの問題ではないことが、昨今の天災の被害を見ると、決してそれは古代のものではなく、現代の問題としても取り上げる価値があるのではないかと思われてきます。
古代の為政者たちのように、天災に打ち勝とうとする必死な思いが、現代の為政者はあるのだろうかと考えてしまいます。天災なんだから仕方がないと割り切って、あとは予算次第で援助と割り切れているのでしょう。為政者の思いが伝わりません。こんな時は、むしろ国民が自発的に動き出すことのほうが大事です。
温故知新(up・to・date)でひと言
現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるでしょう。まさにそれが朔旦冬至の行事なのです。それは一つの時代が終わり、新たな時代が始まるという区切りともなる儀式をあらわしているのです。平安時代では宮中へ文武百官が集結して盛大な祝宴が行われます。つまり冬至に至って寒気が極まると、陽気が少しずつ起こるようになるので、寿福をもたらすということを知っていらっしゃった嵯峨天皇は、その幸運は独り占めせずに天下と共にその幸せを分けたいとおっしゃって、刑罰を受けている者を赦したり、才能のある者を顕彰したりして、恩沢と栄誉を施して、朔旦冬至という有難い巡り合わせを広く知らしめたのです。まさに「経世済民」です。国を治め人民の暮しを整えて。管理するということです。それにも「吉日良辰」・・・よい日柄というわけです。まさに大安吉日です。これぞと思うことを「熟慮断行」しましょう。よく考えて充分に検討した上で、思い切って実行することです。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言26 [趣味・カルチャー]
「全然」
若い人が話す言葉には、とても理解できないような子流行語らしいものがありますが、これ以外に年配者としては、どうもどうしても不可思議儀思えて仕方がないのは、「全然」という言葉の使い方です。
私たち年配者は、「全然」問えば、否定的な意味で使われることが多かったのですが、若者はそれを極めて反対の意味で使っていることが多いのです。
映画を観た時でも、気に入らなかった時などは、「あれはまるで感動てきではなかったな」というのが年配者の感想でしょうが、同じ映画を観ても稚も出会ったら「あれは全然感動だったよ」となるでしょう。これは本人の受け止め方の違いによる表現の違いではなく、ごく日常的にテレビなどに登場する年配者と若者の「全然」というという言葉の使い方なのです。つまり我々年配者は否定的なことの時に使うのが「全然」で「とても満足できなかった」とか「とてもとても我慢できなかった」というふうに、否定の意味で使ってきたのですが、若者のように肯定的には使いません。しかし若者はそれをまったく我々とは違った「肯定」の意味で使うのです。
「全然いい」とか「全然助かった」という風にです。しかも・・・テレビなどではそれに対して、訂正するような様子を見せません。
どうしてなのだろうかと思いだしてから、大分たつので、ついに調べてみましたが、どうやら私の受け止め方に間違いがあったらしいのです。
東京などでは「とてもきれいだ」とか「とても満足です」という風に
「大変に」とか「非情に」という時に使ってきたのですが、これは本来否定的な表現として使われてきたものであったのに、別の使い方をしたためだということなのです。
どうやら明治時代ごろからのようですが、実に紛らわしい使い方をしたもののようです。
したがって若者が「全然」とい言った時は、決して否定的ではなく「とっても」とか「非情に」とかいう皇帝の意味での表現に使っているので、
それを間違っているというのは、明治時代ごろから「否定」の言葉を「肯定」として使ってきた我々の先人に間違いがあったということでした。
話は藪蛇でしたね。
嵯峨天皇現代を斬る その九の二 [趣味・カルチャー]
第九章「人間関係をうまくやるために」(二)
為政者の課題・「生き方の違いを理解せよ」
嵯峨天皇が治世を託されてから、これまでと違って刻々と蝦夷に対する意識は明確になってきています。これまで戦いを行いながら、蝦夷の人間の生き方を理解しようという心境に達していたのでした。そして・・・。
為政者・嵯峨天皇
弘仁七年(八一六)八月一日のこと
発生した問題とは
夏のある日のこと、皇太弟の大伴親王と共に、皇后のいらっしゃる後宮で宴が催されると、親王に宝琴を下賜なさり、彼にそれを演奏させたりして皇后と共に楽しまれました。こんなことを催して、後宮と皇太子とを近づかせようとされたのでしょう。こうして身近なところでは、気遣いも充分に発揮できるのですが、民との接点を円滑に作り出すのは大変困難です。地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。天皇はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、
「夷俘の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡、伯耆両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)
俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。帝は彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように、指示をしていらっしゃったのです。
信濃国が「去年は不作となり、国内は食糧不足です。伏して、穀一万穀を払い下げて商布を買い上げ百姓の窮状を救うことを請願します」と訴えてきたので許可を与えましたし、延暦二十年の客強化では「強化に馴染んでいない俘囚らは、内国の風俗に馴れていないので、田租を収納しないことにする。徴収開始については後の詔を待て」と指示している。いま夷俘らは帰化して年数が経ち、教化に馴染んでいるので、口分田を授けて六年後から田租を収めよといい、また大宰府が「新羅人清石珍ら百八十人が聞かして来ました」と訴えて来たので、「時服と路次の間で必要とする食料を提供して、幸便の船で入京させよ」と指示しました。
嵯峨天皇が治政を率いるようになってから、もう七年にもなります。
大分為政についても落ち着きを持って運営していらっしゃるのですが、政庁を悩ませてきた蝦夷を俘囚(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として連れて来て、各国の民と共に暮らせるようにすることはできないかと、いろいろな面で廷臣たちと腐心していらっしゃいました。伊勢神宮司の大中臣朝臣清持という者が、規則を守らずに仏事を行ったという問題が取り上げられ、神祇官が卜占したところ、そのようなことをすると祟りを招くというのです。天皇は直ちに大祓いをするように命じて彼を解任したりしました。
神祇官が「高畑山稜の樹木を伐採したので、亀卜を行たところ、祟りの予兆が現われました」と訴えてきましたので、天皇は次のように答えられました。
「朕は心から山稜を敬っているが、官司が監督を怠り、今回の咎徴の出現となった。法を調べると、山稜内のに木の伐採は軽罪ではない。今後は厳しく禁断せよ」(日本後記紀)
風雨が不順で、田畑が損なわれるのは、国司が祭礼を大切にしないからである。ところで、「いま青々とした苗が繁茂している」と耳にしたが、神祇を敬い、おおいに豊作をもたらすようにすべきである。願わくは、良い穀物が畝に満ち、人民が豊かになることを、畿内・七道の職に指示して、官長が慎み物忌をして名神に奉幣し、風雨の止むことを祈願し、手抜かりの内容にせよとおっしゃいました。
為政者はどう対処したのか
さまざまな方面に細心の注意を払っていらっしゃるのですが、地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。天皇はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。天皇はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように指示をしていらっしゃったのです。
民の中で抵抗民族であった蝦夷がいるが、朝廷に従がった以上民と差別をしてはいけないと諭すのです。
嵯峨天皇の博識による先見性による指摘です。つまり相手を理解せよというのです。
こんな問題はまさに現代的な問題でしょう。気の抜けない問題が山積です。さまざまことに気遣いをなさる天皇は、それだけ目に見えない疲労が蓄積してしまうのでしょう。諸問題の処理に疲れて、とうとう病臥してしまわれたのでした。
しかし天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。蝦夷との共存をするために、その生き方を理解しようという心境に達していたのです。
正に異民族との共存ということでは、まさに現代的な問題提起に、なっているのではないでしょうか。
確かに人にはそれぞれ違った暮らしのスタイルがあります。まして今回の問題のような違った文化をもった民族の場合は、その暮らし向きについての理解をするということは、容易なことではありません。しかしそれだからと言って、お互いの無理解をそのままにしてしまっていては、永遠に対立は解けないでしょう。先ずはそれぞれの生活の情報を手に入れておいて欲しいということが大事ですが、先ずはマジョリテイ側のマイノリテイに対する度量が必要です。広く包容力が求められるような気がします。
温故知新(up・to・date)でひと言
理解し合うということを、四字熟語ではどのようなことを言っているでしょうか。「清濁併呑」といって、すべてを飲み込んで向かい合う、気持ちの広さが必要です。しかし古来「磨斧作新」という言葉があり\ますが、どんなに難しいことでも、忍耐強く努力すれば必ず成功するということが云われます。人間生来の善意でもって、打算抜きの安らかな気持ちが無くてはなりません。そして「生知安行」という言葉を思い出しましょう。人間生来の善意でもって、打算抜きのやすらかな気持ちで行うことで、困難な問題も解決の道が開かれます。