SSブログ

嵯峨天皇現代を斬る その九の三 [趣味・カルチャー]

 


   第九章 「人間関係をうまくやるために」()


    為政者の課題・「朔旦冬至(さくたんとうじ)と神霊の不可思議」


延暦二十三年(八〇四)十一月一日に、はじめて桓武天皇が行ったと「続日本紀」に記されているのですが、現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるのではありませんか・・・。


為政者・桓武天皇


延暦三年(七八四)十月三十日のこと


発生した問題とは


天応元年(七八一)四月三日。光仁天皇はほぼ十年というワンポイントリリーフの役割を果たされて、四十五歳の山部親王へ譲位して桓武天皇として即位されるのですが、きわめて困難な時代でした。その年の十二月二十三日に、上皇は崩御してしまわれると、葬儀を終えたばかりだというのに、延暦元年(七八二)には朝廷の要人であった氷上川継が、兵を率いて朝廷の転覆を図ろうとしていることが発覚しましたし、三方王もそれに関したりで、長いこと国の為政を支配してこられた天武天皇という伝説的な皇統と違って、まだ皇統としては歴史の浅い天智天皇の系列の方々にとっては、平城京というところはかなり住み難いところであったのです。


「朕は天下に君主として臨んで、人民を慈しみ育んできたが、官民ともに疲れ衰えて、朕は誠に心配している。ここに宮殿の造営などを中止して農業につとめ、政治は倹約をこころがけて行い、財物が蔵に満ちるようにしたい。今、宮の住居は住むのに充分であるし、調度品も不足していない。また寺院の造営も終了した。貨幣の流通量もふえ、銭の価値がすでに下がっている。そこで造宮省(宮城の造宮修理を司る)と、勅旨省(勅旨の伝達と皇室用品調達を司る)の二省と造法花寺司(法華寺造営を司る)と、鋳銭司の両司を止めることにするそれで蔵の宝を婦や市、無駄を省いた官位の政治を尊ぶようにしたい。ただし、造宮省と勅旨省の各種の技術者はその能力によって、木工(もく)寮・内臓寮などに配属し、余った者はそれぞれ配属以前のもとの役所に(かえ)せ」(続日本紀)


 この二年後そんな延暦三年(七八四)ついに十一月十一日には、七十年もの間都として栄華を誇った平城京を去って遷都を行うことにしたのです。しかし遷都を実のある形にするために、政情の安定を願っていたのですが、蝦夷(えぞ)の抵抗が激しいために、その討伐、鎮圧にかなりの財を費やさなくてはならないという問題を抱えていました。その頃は平城京中では盗賊の数が市外に増えるという、物騒な世の中になっていて、街路で物を奪い取ったり、家に放火したりしているという。担当の役所が厳しく取り締まることができないために、暴徒が盗賊となってこのような被害を起こしているのです。


「今後はもっぱら令の規定にあるように、隣組(となりぐみ)(五戸で作る。相検察させ違反を防ぐのが狙い)を作り、間違ったことを検察するようにせよ。職に就かず暮している者や、博打(ばくち)内の輩は、(おん)(しょく)(高官の孫や子の特典)からはずし、杖百叩きの罰とせよ。放火や略奪・恐喝の類は必ずしも法律に拘らず、死刑の罰を持って懲らしめよ。つとめて賊を捕え悪者を根絶せよ」(続日本紀)


 厳しい指示をしていらっしゃいます。


 天皇にとって忘れられない大事な日がもう目の前に来ているのです。それは交野(かたの)百済王(くだらおう)から聞いた朔旦冬至(さくたんとうじ)という吉日だったのです。


為政者はどう対処したか


 桓武天皇は若いころから親族とも思っていた、百済王(くだらおう)のところへ長岡京からよく通ってきていたのですが、そんな時に十九年に一回巡って来る、朔旦冬至といって、陰暦十一月一日が冬至に当たる日が吉日になると言って、その日に大事な祀りごとの日であると言って、郊天祭祀(こうてんさいし)に招かれたことがありました。皇統が正しいかどうかが決まるというのでした。もし即位した者の徳が無くて、天が認めないようなことになったら、政変が起こるというのです。桓武天皇はその時のことを忘れてはいませんでした。そしてこうもおっしゃるのでした。


 「人民は国の根本であり、本が難ければ国は安らかである。人民の生活のもととしては、農業と養蚕がもっとも大切である。この頃諸国の国司たちはその政治に不正が多い。人民を慈しみ治める道の方法に背いていることを恥じず、ただ人民からの収奪が上手くいかないことを畏れている。林野を広く占有して人民の生活手段を奪ったり、多くの田畑を経営して人民の生業を妨げたりしている。人民が弱り憑かれるのはこれが原因である。これらの行為を禁止し、貪りと汚れた心を懲らしめ改めさせるべきである。今後、国司らは公廨田(くげでん)(地方官の俸給として支給される田)の他に水田を営んではならない。また私に欲深く開墾して人民の農業や養蚕の地を侵してはならない。もし違反する者があれば、収穫物と開墾した田はすべて官が没収し、ただちに現職を解任して違勅の罪を科す。国司の同僚と郡司らがそれを知って罪をかばいかくしたならば、ともに同罪とする。もし糾弾して告発する人があれば、その罪を犯した者の田の苗を糾弾告発した人に与えることにする」(続日本紀)


 そうこうするうちに、朝廷にとって大事にされている朔旦冬至の十一月一日がやって来ます。


 「神の霊妙な働きは功をなしても自らの手柄とせず、万物は声明を全うすることを楽しみ、その聖徳は広大無辺で、多くの民がその隠れた働きを明らかにしている。こうして広く天下に徳が及び、陰陽を治め整え、生物を守り育て、偉大な手柄を世に現すのである。朕は拙い身をもって皇位に就き治世に当たっているが、薄氷を踏み奔馬に乗る思いで、常に恐れの気持ちを抱いている。ところで最近、役所の者が、『今年十一月は朔旦冬至です。一の時代が終わり、新しい時代が始まる区切りとなります。冬至に至り寒気が極まると、陽気が少しづつ起こるようになるのでして、この(よろこ)びには謂れがあります』と報告してきた。朔旦冬至のもたらす寿福については以前から聞いている。徳の少ない朕一人のみこの幸運に浴せようか。天下と共にこの幸せを承けたいと思う」(続日本紀)


天皇はそこで、弘仁十三年十一月二十四日の夜明け以前の、懲役刑以下軽重を問わずすべて(ゆる)すと、蔭の途絶した者と才能・功績の顕著な者には、特に高位を授け高い地位につけ、内外の文武官の主典以上の者に位一階を与え、在京の上位の官人たちには物を与え、朔旦冬至の有り難い巡り合わせを天に感謝するようにと布告しました。


 天災による苦闘の中から、民のためにということを先行する姿勢を打ち出し、朔旦冬至という貴重な吉日を使って、様々な階級の者にも幸運を分け与えようとされたのでした。


 天災による被害は古代だけの問題ではないことが、昨今の天災の被害を見ると、決してそれは古代のものではなく、現代の問題としても取り上げる価値があるのではないかと思われてきます。


 古代の為政者たちのように、天災に打ち勝とうとする必死な思いが、現代の為政者はあるのだろうかと考えてしまいます。天災なんだから仕方がないと割り切って、あとは予算次第で援助と割り切れているのでしょう。為政者の思いが伝わりません。こんな時は、むしろ国民が自発的に動き出すことのほうが大事です。


温故知新(up・to・date)でひと言


現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるでしょう。まさにそれが朔旦冬至の行事なのです。それは一つの時代が終わり、新たな時代が始まるという区切りともなる儀式をあらわしているのです。平安時代では宮中へ文武百官が集結して盛大な祝宴が行われます。つまり冬至に至って寒気が極まると、陽気が少しずつ起こるようになるので、寿福をもたらすということを知っていらっしゃった嵯峨天皇は、その幸運は独り占めせずに天下と共にその幸せを分けたいとおっしゃって、刑罰を受けている者を赦したり、才能のある者を顕彰したりして、恩沢と栄誉を施して、朔旦冬至という有難い巡り合わせを広く知らしめたのです。まさに「経世済民(けいせいさいみん)」です。国を治め人民の暮しを整えて。管理するということです。それにも「吉日良辰(きちじつりょうしん)」・・・よい日柄というわけです。まさに大安吉日です。これぞと思うことを「熟慮断行(じゅくりょだんこう)」しましょう。よく考えて充分に検討した上で、思い切って実行することです。



nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。