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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆言32 [趣味・カルチャー]

「ビヤホール誕生」

 夏になると直ぐに思い出すのはビヤホールです。

 仕事の帰りはいうにおよばず、一寸立ち寄りたくなってしまいたくなるところです。しかしこうしたビヤホールが日本に誕生したのは、いつ頃だったのだろうかと調べてみる気になりました。

実は明治32年8月4日に、ビヤホールが誕生したという広告が出たようです。

「今般欧米の風に倣い、8月4日改正条約実施の吉辰を卜し、京橋区南金六丁目五番地(新橋際)においてビール店BEER HALLを開店し、常に新鮮なる樽ビールを氷室に貯蔵致置、最も高尚優美に一杯売仕候間大方諸彦賑々しく御光来、恵比寿ビールの真味を御賞玩あらんことを願う。売価半リーテル 金拾銭 四半リーテル 金五銭 日本麦酒株式会社」

こんな広告です。

まだこの頃、ビヤホールという名前がありませんでしたから、会社ではかなり迷ったようです。そんな苦心の末についに誕生したのがビヤホールという和製英語だったということです。この年には資生堂からは、はじめてアイスクリームが発売されたということもあったようで、どちらも夏では忘れることの出来ない、飲食の代表と言っていいのではないでしょうか。不快指数80を超えると厚さから逃れるために、ビールやアイスクリームが特別な嗜好品になるようで、それは現代でも充分に通用する話ですね。


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嵯峨天皇現代を斬る その十一の一 [趣味・カルチャー]

     第十一章「落書きの思いを知るために」(一)


       課題「藤原雄田麻呂の画策」


    課題「策士あり」


あまり聞こえはよくありませんが、策士ということがよくいわれます。判りやすい言葉で言うと、やり手ということでしょうか。一般的には気の許せない人ですが、時にはそういった人があって、困難な状況が突破できるということもありますね。


為政者・光仁天皇


宝亀元年(七七〇)八月四日


発生した問題とは 


宝亀元年(七七〇)のころのことです。


 女帝の称徳(しょうとく)天皇の体調がひどく悪くなっていたこともあって、群臣たちの間では、やがて践祚(せんそ)することになる皇太子を誰にするかということで、密かに激論が交わされていました。


 天武天皇系から候補を立てようとしていらっしゃる右大臣吉備真備(きびのまきび)に対して、天智天皇系の大納言白壁王(しらかべおう)を推していらっしゃる左大臣藤原永手(ふじわらながて)、内大臣藤原良継(ふじわらよしつぐ)が対立してしまって、なかなか決着がつきそうもありません。しかし結局は、結束して迫る藤原氏の勢いには勝てずに、真備は敗退してしまったのです。そうした朝廷内での激しい主導権争いが行われている間に、さまざまな人脈を使って奔走していたのが、同じ藤原一族の雄田麻呂(おだまろ)という人物でした。彼にはかなり豊富な人脈があったようで、和気清麻呂(わけのきよまろ)という人物もその中の一人でした。彼は吉備国美作(みまさか)の下級官人であったころ、播磨(はりま)国県境の坂越(さこし)というところで、飛鳥から蘇我入鹿(そがのいるか)に追われて逃げてきた、秦河勝(はたかわかつ)と出会っているのです。その清麻呂の人脈は雄田麻呂の暗躍に、かなり活かされていたのではないかと思われるのです。


 このころ巷では、世相の風刺歌といわれる次のような童謡というものが歌われていました。これは現代でいいますと、日常の鬱憤を晴らす落書きのような落書きだったのですが、このころのものは現代の町の中で見かける落書きとは違って、世相を反映した庶民の心情を訴える鋭い主張があって、かなり広がりがある庶民の共感を得た伝達手段でもあったのです。影響力ということでは、現代のそれとは大きな差がありますが、それは大変的を射たものが多かったように思います。


 葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや


 おしとど としとど


 桜井に白璧しづくや 好き璧しづくや


 おしとど としとど


(葛城寺の前だろうか 豊浦寺の西だろうか 桜井の井戸に白璧が沈んでいる 好い璧が沈んでいるよ)


 然すれば 国ぞ昌ゆるや 吾家らぞ昌ゆるや おしとど としとど


(そうすれば 国が栄えるか われわれの家が栄えるだろうか)


 この時白壁王の妃は、聖武天皇と光明子の皇女であった井上(いのえ)内親王であったので、識者は「井」というのは井上内親王の名のことであり、「璧」とは天皇の(いみな)のことだと指摘しています。恐らくこれは、彼が即位するであろうということを風刺したものであったのでしょう。


 称徳天皇は八月四日のこと、五十三歳で崩御してしまわれましたが、その日先帝の遺言によって直ちに皇太子となられた白壁王は、さらに十月一日には即位なさって光仁(こうにん)天皇となられたのです。


 後ろ盾を失ってしまった道鏡(どうきょう)坂上刈田麻呂(さかのうえのかりたまろ)様の讒言(ざんげん)もあって、造下野国薬師寺別当(べっとう)として平城京から追われてしまい、宝亀二年(七七一)には、天武天皇系の後押しをしてこられた右大臣の吉備真備も引退させられてしまいます。その結果これまで朝廷を支配してきた、天武天皇の縁者たちによる影響力は排除されてしまい、天智天皇の縁者による為政の形が整えられていったのです。 


為政者はどう対処したの 


 圧倒的であった天武天皇系の皇統は、ここで天智天皇系に変わっていきます。群臣たちの支持も厚く評判の光仁天皇は、さらに慎重に身辺を整えられて、即位すると同時に皇后には天武天皇系の井上内親王様を迎えるのです。一触即発状態になっていた天智、天武両天皇の系列にかかわる方々の確執を、それによってさりげなくかわしてしまわれたのでしょう。


一月二十三日に、皇后との子である他戸(よそべ)親王様を皇太子に立てられると、沈滞しきっていた朝廷の姿を思い切って立て直そうとし始められました。


称徳天皇の体調を整えるといって信任を得ていた僧の道鏡が、皇位を奪おうとして宇佐八幡宮の信託があったとして策略下のを見抜いたために、大隅国へ流されていた和気清麻呂(わけのきよまろ)備後(びんご)国へ流されていた姉の広虫(ひろむし)も、許されて京へ戻り、朝廷の中には為政の姿を歪めてしまった、平城京から一刻も早く抜け出して、新たな京で再出発しようという気分が高まっていったのです。たちまち廷臣たちから出される長岡京への遷都という建議も、真剣に取り上げられるようになっていました。


 そんな空気の中で、天皇は為政者としてある切実な問題に直面しておられました。長いことつづいている陸奥(みちのく)国の蝦夷との抗争のために、それに費やす財が膨れ上がっていて、国の財政が逼迫してきていたのです。財を立て直すために、まず内裏の経費の節約を行い、官衙の出費も極力抑えるために、膨れ上がった官人の数も整理していかれました。しかしそれは言葉でいいきれるほど容易なことではありません。官衙の機構の改革を行うなかで、若手の登用を妨げている名前だけの博士も排除して、大学寮の改革もしていかれたのです。


 ようやく政庁は本来の姿に立ち戻りつつあったように思われましたが、そんなある日のことです。舎人(とねり)の一人が密かに訴えてきたのです。このころ藤原雄田麻呂様は、名も藤原百川(ふじわらももかわ)と変えられて参議という要職にも就いていらっしゃるのですが、近ごろ皇太子の他戸親王様よりも、年長である山部(やまべ)親王と盛んに接触していたといわれます。天皇は朝廷の改革も着々と進めていらっしゃるのですが、百川は他戸皇太子を無視して、山部親王に接触していらっしゃるというのです。常識的にいえば、皇統は皇太子が践祚(せんそ)することになるはずです。しかし百川が頻繁に通うところというのは、天皇の妃といっても百済系帰化氏族である和史乙継(やまとのふひとおとつぐ)の娘で、皇后の井上内親王とは比べようがない高野新笠(たかのにいがさ)のところです。しかもそこには、才能を認められている山部親王がいらっしゃるのです。


 いかにも強引な百川の動きです。


 天皇は即位して一年もしない宝亀二年(七七一)に、これまで頼りにしていた左大臣藤原永手の死に遭遇してしまったために、そうした百川(ももかわ)の動きを止めさせることもできなくなっていたのでした。やがて光仁天皇は退位して、山部親王が皇位に就き桓武天皇となったのでした。


こんなことは現代にもかなりありそうです。内閣の交代には複雑な政界の人間関係によって決定されていくように思えてなりません。策士というのはいつの時代にも存在するように思われて仕方がありません。


温故知新(up・to・date)でひと 


 暫く前のことですが、文部科学省を巡ってフィクサーが暗躍した話があって、汚職事件にまで発展してしまっています。相手に失礼なことにならないように注意しなくてはいけませんが、いい状態にあるものを陰謀によって覆ることを知って動く者がるのを知ると、警戒してしまいますが、時にはそうした策士が大変役に立つ人物で、大いに助かるということもあったり、あまり疑い過ぎて、頼りになる人を失ってしまうということもあります。


 


兎に角人を籠絡(ろうらく)してその術中に陥れるということでは、「朝三暮四(ちょうさんぼし)という言葉があります。口先で人を騙したり、言いくるめることを言いますが、気を付けなくてはいけないのは、「狡兎三窟(こうとさんくつ)といって、悪賢い兎は、隠れる穴を三つも持っていて、万一の場合、そのどれかに逃げ込んで身の安全をはかるということ。危機に際して、身を守るのは上手いことをいいます。いずれにしても策士という人は、「隙穴之臣(げきけつのしん)といって、秘かに目的の相手に通じたり、隙を窺がうことが出来る人です。利用しようと思っても、こちらも賢明でいないと、却って利用されるだけになってしまいます。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑32 [趣味・カルチャー]

 「太陽暦」

 現在我々が使っている暦は、太陽暦というものだということは、ほとんどの方が承知していらっしゃると思いますが、これと対照的な暦も存在しているということはご存知でしょうか。こちらは太陰暦といって、月の満ち欠けの周期を使った暦ですが、農業関係の方は、現代でも旧暦という太陽暦とは対照的な暦に従って、農作業を進めていらっしゃる方々はかなり多いのではないでしょうか。

しかし今回は太陽暦の紹介をしたいと思います。

 作られたのは享和年間(1801-2年)でしたが、中井利権履軒(いりけんりけん)山片蟠桃(やまかたばんとう)たちが立春を年始めとする暦を作ったのですが、問題にされませんでした。長いこと太陰暦を使ってきた日本が、太陽暦に改めたのは明治六年からのことでした。明治五年十一月に「朕思うに・・・」で始まる時代がかった調子で始まる証書で改暦のことが発表され、同年の十二月三日が明治六年一月一日と切り替えられました。

 いきなり暦がかわったので、月給をどう払おうかと困ったということが言われていますね。何よりも影響が大きかったのは年中行事だったようです。兎に角今でも旧正月の風習が残っているようで、時刻の呼び方が午前○○時、午後〇〇時となったのもこの改暦の時からでした。

 

 こういうことでも暮らしの風習は変わっていくものですね。

 


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嵯峨天皇現代を斬る その十の七 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()


        課題「知識を競う楽しさ]


 これまでは複雑な政治の世界で成功したり、悲劇を味わわされたりといって、様々な激しい変化を味わいながら生きてきた人々の話をしてきましたが、今日はちょっと雰囲気のがらりと変わったお話をしたいと思います。それは


社会的にまったく違った立場にある、嵯峨天皇と僧の空海の楽しみについてです。


 天皇と空海は、お互いが吸収しているさまざまな知識を基にして楽しんでいらっしゃいますが、このような機会を得ることで、更に不足している知識を得ることが出来ます。いわば知的なゲームとでもいいましょうか・・・。 


為政者・天皇と空海・嵯峨天皇


弘仁十一年(八二〇)


発生した問題とは


 年の始まりに当たって、天皇は文武の王公や渤海使節などの朝賀を受けた後、近くに仕える臣下たちと豊楽殿で宴を催して、天皇を支えてきている藤原氏を称えて列席している者たちを喜ばせると、やがて渤海使節との歓談をする中で、天皇は国王の近況を聞きながら、思い出にある印象についてお話になりました。


 「渤海(ぼっかい)王は生まれつき信義を身に付け、礼儀をもって処している朝廷に仕える蕃国としての立場を守り、以前からの友好関係を継承して、雲の様子を観察し、風のさまを窺がい、誠意をもって使節を送り出した。使節は適切な時期に来航し、朝廷の倉がいっぱいになるほどの素晴らしい贈り物をもたらしてくれた。更に前使感徳(ぼかんとく)らは船が難破して渡海出来なくなり、朕が一艘の船を与え帰国させたところ、その恩恵を忘れることなく前代のよき例に倣い、謹んで使いを出立させ、遠方から感謝の意を述べたのであった。ここに汝の誠意を思い深く喜ぶものである。渤海国は大海により隔てられた遠方の地域であるが、朕には渤海を望み見て遠い国と思われない。施設の帰国にあたり贈り物を託す。種類は別紙に記した。春のはじめでまだ寒さが残っている。いま息災である。汝の国内が平安であるように。ほぼ意を述べたが、充分に尽くしていない」(日本後紀)


 異国の使節に対する丁寧な応対をされたりして、政務に就かれるのですが、その間には親交のある僧の空海がやって来て、気楽な歓談を楽しまれます。


 そんな時には芸術論、文化論を楽しまれるのですが、その時の様子は古書の「古今著門集」などで紹介されています。


空海が高雄山寺へ落ち着いたころのことです。平安宮と近くなったこともあって、ふらりと立ち寄られた時のことです。天皇はそんな時のために、かねてから用意していたのでしょうか。訪ねて来た空海に対して、特に大事にしているものだとおっしゃって、ある書を取り出されたのです。


 


「これは唐人の手跡である。誰の書か判らないが、なかなかこのように書くことは出来ないものだ。実に素晴らしい重宝である」 


 自慢げにおっしゃるのです。


すると空海はいつもの天皇の悪戯だなと感じて、


 


「それは私の書ですが、それがどうしたとおっしゃるのですか」 


笑顔で答えていました。


ところが天皇は真顔になられて、空海の返答には不満げで、まったく信用いたしません。 


「あなたの今の手跡と違うではないか。何だかこの書は、


あなたの書よりずいぶん上であるように思われる」


しかし空海もまったく納得致しません。天皇の追及にいささかも動じる様子を見せずに 


「その軸をお放し下さい。その上で合わせ目のところをご覧下さい」


 指示をされるのです。


天皇もいわれるがままにやってみます。すると折り曲げてあったところを開いてみると、そこには「某日某月、青龍寺に於いて之を書す。沙門空海」という空海の署名が出てきたのです。


それでも天皇はまだ納得されません。また別の書を持ち出されたのです。そしてあまりに書が大きすぎるので、梯子を立てても読めないではないかとおっしゃるのです。ところが空海もまったく動じませんでした。


為政者はどう対処したか


 天皇と空海は橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に、平安時代の三筆といわれる書の達人でしたが、これまで書を交換しあったりすることもあったのです。そんなある日のことです。天皇は特に大事にしているといって書を取り出したのですが、あまりに書が大きすぎるので、梯子を立てても読めないではないかとおっしゃるのです。ところが空海はそれでもまたまったく動じる様子がありません


「筆跡が違うのは、国によって手跡を変えたからです。唐のような大国では、それにふさわしいように、勢いよく大きく書いたためです」


空海の説明を聞かれた天皇は大いに恥じられたということです。


何といっても空海は、篆書、隷書、楷書、行書、草書というあらゆる書体を自由に書きこなせることから、唐国の皇帝から五筆和尚という称号を与えられたほどで、更に彼はうねるように書くという、飛白体という新しい書体も考案していたのです。帝は学ぶということが如何に大事だ


ということを、強く心に刻んでいらっしゃったのでした。


 時代の頂点に立つ大人同士が、意外にもこのようなことをして楽しんでいらっしゃったということなのですが、あなたはこのようなことをしながら楽しめる友人を、何人持っていらっしゃいますか。お互いに切磋琢磨できる友人は仮にわずかでも持っていたいですね。


温故知新(up・to・date)


 歌うことでもいい、走ることでもいいでしょう。親しい人と競い合いながら高まっていって欲しいものです。そういった刎頚之友(ふんけいのとも)を見つけましょう。相手のためには、自分の首が切られても悔いはないと思える友人です。そんな人と、理路整然(りろせいぜん)とした議論を楽しむのもいいのではありませんか。その結果筋道がよく通っていて、整然とした話ができるようになります。そんな友人と出合えたら、きっともつれた麻糸も快刀乱麻(かいとうらんま)です。もつれた麻糸もすぱっと断ち切るように、物事を明快に処理することもできるようになるでしょう。


 


お互いの智識というものを高めていくためにも、より豊富な知識、知恵を持った者と、競うことを楽しみにしながら、自らの能力を更に高めていくということを楽しんでいたというお話でした。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆言31 [趣味・カルチャー]

                     「斟酌」


「斟酌」という言葉は、一時期新聞・報道などマスコミで政治面の話題を扱う時に、盛んに使われました。誰の耳にもお馴染みになってしまったでしょう。特に故安倍内閣総理大臣の頃には、そのお友達といわれる人々との間に、厄介な書類がやり取りされる取引などが行われる時などに、どうしても厳しい取り決めがあっても、総理大臣という立場の人との関係が判ると、たちまち「斟酌」というものが働いて、困難な取引も意外にたやすく許可が出てしまうということが起ったりしました。つまり取り調べも手加減されてしまうことがあったらしいといわれていました。しかしこの「斟酌」という文字は、酒などを酌み交わすことを表わすもののようです。杯をかさね、周囲の人とも酒を酌み交わして関係が深まり、縁が深まります。そんなことから、先方の事情を汲み取るということで使われるのが「斟酌」だったというのです。


 


こういう思いやり、気づかいというものは、自然に日本人には備わっているらしいのですが、時代が進むにつれてこの美徳も、悪用されてしまうようにもなってしまっています。せめてこうした気遣いをする気風だけは、いつまでも大事にしておきたいと思うのですが、政治家のみなさんには、是非「斟酌」を悪用しないようにお願いしておきたいと思いました。


 


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嵯峨天皇現代を斬る その十の六 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()

        為政者の課題・「有能な直言居士・篁・復職」

 相手が時の権力者であっても、言うべきことはきちんというという性格の、篁のような人物は現代でも必要なのではないでしょうか・・・。

為政者・仁明天皇

承和八年(八四一)九月十九日のこと

発生した問題とは

 「天は公平で、その奥深い働きにより人を(すく)い、聖人は自分の利害を忘れて優れた徳を広め、仁政を行うものである。神霊の咎めには実があり必ず悪政に応ずるものである。過去を顧みて、恥じ入る次第である。古典に、人が国の本であり、本が固まって国が安定するといっているではないか。朕は心から人民の養育を切に思っている。そこで今、格別の思いで、宮中からの使人(しじん)(命を受けて使いをする人)を派遣して慰問し、住居が破壊し生業が失われた者については、使人と所在国司が検討を行い、今年の租調を免除し、併せて物を恵み与え、家屋の修理を援助し、死者は努めて埋葬せよ。政化に内地と蝦夷地の違いはなく恩恵の施しは中外共に同じである。内地民であろうと夷であろうと普く手厚く対処し、度量の広い慈愛の方針を隅々まで伝え、朕の思いやりの心に適うようにせよ」(続日本後紀)

 今上の思いの背景には、嵯峨太上天皇の施策の在り方を進言した、右大臣源常(みなもとのときわ)の存在があったに違いありません。どうやらそれには勢いを増してきている中納言良房に対する牽制の意図が感じられるのですが、彼はそんなことをすればたちまち不遇になるということに対しても、まったく頓着せずにしきりに政庁の改革を訴え続けてきているのです。今上の務めが厳しくなってきているというのに、天はさらなる試練を課してくるように思えます。今回はいつもの干天とは違って、おびただしい雨が降り続けるので、それを止めるための祈りを捧げなくてはならなくなったりするのです。洪水のために百姓の家屋が流されたり、京中の橋や山崎橋が全て壊れてしまったりしているという報告があって、気分的に落ち着かないでいるというのに、官衙には規律の乱れが表われてきているのです。今上はそのためもあって、小野篁の存在に注目されたようでした。ある日彼に正五位下を授けるとおっしゃるのです。

 「篁は国命を承け期するところがあったものの、失意の状況となり悔いている。朕は以前の汝のことを思い、また文才を愛する故に、優遇処置を取り特別にこの位階に復することにする」(続日本後紀)

 清廉潔白な生き方をすることで知られている彼を、官衙の粛正に役立たせようとしたのでしょう。間もなく正五位下刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆ)にも任命されました。かつて今上が即位されると嵯峨太上天皇は将来を予見して、今上の周辺を近臣で固めるように指示されたことがありました。あれは結局このような時を予見していらっしゃったからかも知れません。もともと今上は虚弱体質でもありましたので、病に倒れることが多いものですから、篁はそんなところへお邪魔して、気の置けないお話などをしながら、官衙での動きなどについての情報を伝えたり、さまざまな進言をしていたように思われるのです。

 はじめに右大臣が藤原三守(ふじわらのみつもり)から源常に変わったのも、帝を支える援護者が、藤原氏に傾き過ぎたのを修正し始めたのではないかと思われるのです。それと同時に嵯峨は、桓武から平城という皇統の流れが、いよいよ嵯峨から仁明(にんみょう)へと繋がり、嵯峨王朝を確立する時がやって来ているのではないかと思わせる雰囲気がありました。帝の周辺には、嵯峨とのかかわりの濃い者が集められてきています。その時に備えるための、力をたくわえつつある藤原氏との間には、ついに確執が生まれ始めていたようにも思えるのです。間もなく赦されて隠岐島から戻る小野篁についても、嵯峨にとっての近臣であった小野岑守(おのみねもり)の子として、その才帝はその能力を高く評価されていたのです。野狂(やきょう)といわれる直言居士という変わった性格ではありましたが、配流を解かれ旧職にも復帰させて、帰京させることにしたのです。

為政者はどう対処したのか

官人として復活することになれば、目をかけてくれた嵯峨に対しては当然ですが、死罪になってもおかしくない、朝命に背いた篁を救ってくれた右大臣の藤原三守(ふじわらのみつもり)に対しても、申し訳が立ちません。

あの年はじめに長いこと嵯峨院へお務めしたあと、右大臣に昇任された三守に対して、その娘と結婚したいという文書を送っていたのです。その時の文面は名文として「本朝文粋」に残されているくらいで、その甲斐あって結婚も出来たのですが、それから数か月後に起こしてしまった事件では、岳父(妻の父)が嵯峨と昵懇であったということもあって、死罪を逃れることになったと思われるのです。

 上京するにあたって、再び迷惑はかけられないという思いはあるはずです。きっとその強運と英才ぶりを発揮してくれることになれば、時代の変化に翻弄されている、御子仁明天皇の政庁を支える者として働いてくれることを期待したのではないでしょうか。

 「篁は命を承け期するところがあったものの、失意の状況となり悔いている。朕は以前の汝のことを思い、また文才を愛する故に、優遇処置をとり特別にこの位階に復することにする」(続日本後紀)

 今、天皇にとって為政者としての生命を維持するために、はずせない存在であると考えていたのです。あの直言居士という性格も貴重だと思うようになっていらっしゃったのでしょう。間もなく天皇は更に篁に対して正五位下刑部少輔(ぎょうぶのしょうふ)任命しました。さまざまなことに気配りをしていらっしゃった嵯峨太上天皇は、病を得て伏してしまわれ、政庁は使者を大寺へ送って誦経(声を上げて経文を読む)を行わせ、皇太子(恒貞(つねさだ)親王)、親王以下五位以上の者が左右の陣頭(宮中の衛士の詰所)に控えさせたりしました。

 温故知新(up・to・date)でひと言

 現代では私利私欲で発言する人はいるかもしれませんが、自らの死を賭しても正論が吐ける人がなかなか現れてきません。古来「撥乱反正(はつらんはんせい)という言葉があります。乱れた世を治め正しい平和な世界に返すことをいいます。そんな時にはどうしても「用行捨蔵(ようこうしゃくら)という言葉どおり、出処進退の態度が立派で、巧みな人の登場を願うしかありません。たとえ自分が用いられるなら、理想を追求して行動し、捨てられるなら一時理想を仕舞いこんでチャンスを待つという我慢のできる人でもいいのです。その時その人の評価である「毀誉褒貶(きよほうへん)」は決まります。つまり何が良くて何がよくなかったのかが決まるのですが、先ずは篁のように行おうとする決意と決断が必要なことで、それに対してはあくまでも真摯で清冽な思いが籠められていなくてはならないでしょう。

 

 

  


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ9 [趣味・カルチャー]

                    

                      「原稿執筆中」1.jpg    

                   「更新日の変更」

 

本日14日急遽ブログの更新をすることになりました。明日から三連休となりますので、そのまえに16日の更新予定を繰り上げて更新することにしました。

連休の間を利用してお読みください。

 

                                             藤川桂介



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑31 [趣味・カルチャー]

   「火ぶたをきる」

歴史物が好きであったり、戦国時代が好きな方でしたら、タイトルを見ただけで、火縄銃の話だろうと見当をつけてしまうでしょう。まさにその通りなのですが、最近は歴史物に限らず、スポーツ界でも、まるで関係のない政界でも、予算委員会などでは、野党が総理大臣に対して新予算の真の目的を吐き出させようとして、論争を挑もうとしている時などに、

「いよいよ立憲民主党は、野党の第一党として論戦の火蓋をきろうとしています」

 こんな風に盛んに使われます。

 戦争やスポーツの戦いの幕開けの表現として、常套句となっているようにも思えます。

 特にスポーツ界での試合の始まる時、相撲などにも大関○○は、優勝と横綱を賭けた千秋楽などに盛んに使われます。

 サッカー・ラグビーなどでは

 「いよいよ日本とベトナムとの最終戦の火蓋が切られました」

 「いよいよ南アフリカとの第一戦の火蓋が切られました。この勝敗の結果がリーグ戦の優勝を約束するゲームとなるでしょう」

という風に使われます。

 この語源となっているのは、日本に最初に入って来た鉄砲・・・つまり種子島銃にあるのです。

 兎に角当時の銃は所謂火縄銃で、銃身についている縄に火をつけて、それを火皿に盛った起爆薬に点火して弾を発射するようになっていることから、この銃身には蓋があって、その蓋を「火蓋(ひぶた)」と呼んだのです。

 「火蓋」を操作してはじめて発射可能になるのですから、それが戦闘開始のキーワードとなったのも無理がありません。ミサイルを打ち合うよりは、どこか牧歌的な響きが伝わってくるような感じがしてしまいませんか。


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嵯峨天皇現代を斬る その十の五 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()


        課題「最後の不羈放縦(ふきほうしょう)の男業平」


 正義のために戦い続けた小野篁(おののたかむら)とも通じていて、官衙へ務めながらその姿勢を貫くことは、かなり不利になるのですが、それでも業平は・・・。


為政者・文徳天皇


斉衡(さいこう)元年(八五四)のこと


発生した問題とは


 嵯峨天皇が崩御されてからも、その治世に希望を感じる者が現れます。その一人が死を覚悟して勅命に背いて直言した小野篁であり、もう一人が父の平城天皇が巻き込まれた「薬子(くすこ)の変」で連帯責任を問われるところであった皇太子阿保親王(あぼしんのう)は、嵯峨天皇の配慮によって遠流として処罰さるだけで済まされたのですが、そんな親王の子として生まれたのが在原業平(ありわらのなりひら)です。勿論彼は父が巻き込まれた「薬子の変」などについては知りませんでしたが、やがて嵯峨天皇のお陰で父は政界に復帰することができましたし、子供たちは在原朝臣(ありはらのあそん)という称号を頂いて天皇の恩情を受けて暮らすようになるのです。しかし業平は本来不拘(ふく)といわれる性格で政治を動かす藤原氏に反発して不遇な暮らしを強いられてしまいますが、彼はいつか嵯峨天皇の民を思う為政の姿勢に憧れ、小野篁とも通じるようになり、二人は嵯峨天皇の行った為政の理想を追っていこうとするようになるのです。


嵯峨天皇の後、淳和(じゅんな)天皇、仁明(にんみょう)天皇から文武(もんむ)天皇となると、祖霊の理想を目標にしながら、藤原氏の妨害にあってしまって思うような為政ができません。間もなく文武天皇は病で倒れ、言語不能な状態になってしまい、数日後にはわずか三十二歳で崩御してしまわれます。噂では暗殺されたのではないかということも囁かれたのですが、元来今上(きんじょう)が虚弱体質であったということで、結局はうやむやになってしまうのでした。


斉衡(さいこう)元年(八五四)に左大臣源常(みなもとのときわ)が亡くなり、さらに三年後には祖霊嵯峨天皇の内親王で彼に嫁いだ源潔姫(みなもとのきよひめ)も、鬼籍へ入ってしまったこともあって、藤原良房はそれを機会に一気に存在感を際立たせるようになりました。それにしてもこのころ、短期間のうちにたびたび年号が変えられるのはその呪力によって危惧する世の中の不安を解消しようという政庁の焦りがあったのかもしれません。ところがこの頃から十三年という間、業平の消息がはっきりとしなくなってしまうのです。原因は単純なことです。藤原氏に対して不拘の姿勢を変えようとしないので、完全に嫌われてしまったのでしょう。嵯峨王朝の残照の中で、その世界をわが物にしようとする右大臣と、それに批判的な業平の秘かな戦いは、ますます熾烈になっていたのです。


 


為政者はどう対処したのでしょう 


頼りにしている温和な左大臣源常も亡くなってしまって、天皇は宮中を去って冷然院(れいぜんいん)へ移ってしまわれます。しかし本来なら皇太子として君臨することになるはずであった天皇の第一子である惟喬(これたか)親王も藤原氏の妨害で皇太子の候補から外されてしまうのです。業平はそんな皇子をずっと庇いつづけていったのです。


業平は理想とする為政の実績を残された祖霊嵯峨天皇の業績を追おうとした文武(もんむ)天皇の遺志を受け継ぐように、嵯峨王朝の残照を見届けようと決心しました。これまで業平は「伊勢物語」によって、もっぱら女好きの歌詠みで喧伝されてきたのですが、二十五歳になった業平は、「体貌閑麗なり」(日本三代実録)といわれるほどの美貌の貴公子は、ただの女狂いだけの男ではありませんでした。本来はその正義感のために、権力者の藤原良房に嫌われて出世の道筋を閉ざされるのですが、彼はそんなことに一向に構わず、女官たちの援護射撃を受けながら、理不尽な政庁と戦いつづける人だったのです。


大嘗祭(だいじょうさい)を飾る「五節(ごせち)の舞」を縁にして、高子姫との束の間の出会いを楽しんだ業平は、その二年後に母の伊都(いと)内親王を失うという不幸に遭ってしまったり、官人としては相変わらず不拘(ふく)という性格を貫いているために、出世とは縁遠い生活をしていたのですが、それでも彼はこれまでごうり、藤原氏のために不遇な境遇に置かれている、祖霊文徳天皇の御子である幼い惟喬(これたか)親王の心の支えになろうとし続けていたのでした。その姿勢の在り方は、親しい友のために自らは清貧に甘んじながら援助していたという、小野篁(おののたかむら)の心意気を受け継いだのかもしれません。しかしその頃の政庁は次第に緊張感を失ってしまっていて、官人は保身のためだけに腐心するという状態になっていますし、民もそういった風潮にすっかり失望しています。そんな間隙(かんげき)を縫うようにして、野盗が跋扈(ばっこ)するようにもなっていたのです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 すべてが権力者の忖度(そんたく)で動くような官人が多く、それがうまくできる者が出世していくという現代の政界、官庁の様子は、古代も現代もないのですね。すべて民の願う官人とはなってくれないようです。そんな時いつも小野篁、在原業平という二人を思い出してしまいます。二人は自分の私欲や私情、つまり我が儘を抑えて、社会の規範、礼儀に従がって行動する克己復礼(こっきふくれい)の人であると思いますし、虎に対して素手で立ち向かったり、黄河を歩いて渡るような無謀な者とは行動を共にすることは出来ないと思われる暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)人といわれながら、しかしその勇気を称賛したくなってしまう人に、秘かに憧れを抱いてしまいます。もしそんな人がいるとしたら、助長補短(じょちょうほたん)です。長所を伸ばし短所を補って生き残っていて欲しいと切望いたします。


 


 世界の中での日本という存在が、どういう方向を目指していこうとするのか、無関心ではいられませんね。


 


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