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嵯峨天皇現代を斬る その十の五 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()


        課題「最後の不羈放縦(ふきほうしょう)の男業平」


 正義のために戦い続けた小野篁(おののたかむら)とも通じていて、官衙へ務めながらその姿勢を貫くことは、かなり不利になるのですが、それでも業平は・・・。


為政者・文徳天皇


斉衡(さいこう)元年(八五四)のこと


発生した問題とは


 嵯峨天皇が崩御されてからも、その治世に希望を感じる者が現れます。その一人が死を覚悟して勅命に背いて直言した小野篁であり、もう一人が父の平城天皇が巻き込まれた「薬子(くすこ)の変」で連帯責任を問われるところであった皇太子阿保親王(あぼしんのう)は、嵯峨天皇の配慮によって遠流として処罰さるだけで済まされたのですが、そんな親王の子として生まれたのが在原業平(ありわらのなりひら)です。勿論彼は父が巻き込まれた「薬子の変」などについては知りませんでしたが、やがて嵯峨天皇のお陰で父は政界に復帰することができましたし、子供たちは在原朝臣(ありはらのあそん)という称号を頂いて天皇の恩情を受けて暮らすようになるのです。しかし業平は本来不拘(ふく)といわれる性格で政治を動かす藤原氏に反発して不遇な暮らしを強いられてしまいますが、彼はいつか嵯峨天皇の民を思う為政の姿勢に憧れ、小野篁とも通じるようになり、二人は嵯峨天皇の行った為政の理想を追っていこうとするようになるのです。


嵯峨天皇の後、淳和(じゅんな)天皇、仁明(にんみょう)天皇から文武(もんむ)天皇となると、祖霊の理想を目標にしながら、藤原氏の妨害にあってしまって思うような為政ができません。間もなく文武天皇は病で倒れ、言語不能な状態になってしまい、数日後にはわずか三十二歳で崩御してしまわれます。噂では暗殺されたのではないかということも囁かれたのですが、元来今上(きんじょう)が虚弱体質であったということで、結局はうやむやになってしまうのでした。


斉衡(さいこう)元年(八五四)に左大臣源常(みなもとのときわ)が亡くなり、さらに三年後には祖霊嵯峨天皇の内親王で彼に嫁いだ源潔姫(みなもとのきよひめ)も、鬼籍へ入ってしまったこともあって、藤原良房はそれを機会に一気に存在感を際立たせるようになりました。それにしてもこのころ、短期間のうちにたびたび年号が変えられるのはその呪力によって危惧する世の中の不安を解消しようという政庁の焦りがあったのかもしれません。ところがこの頃から十三年という間、業平の消息がはっきりとしなくなってしまうのです。原因は単純なことです。藤原氏に対して不拘の姿勢を変えようとしないので、完全に嫌われてしまったのでしょう。嵯峨王朝の残照の中で、その世界をわが物にしようとする右大臣と、それに批判的な業平の秘かな戦いは、ますます熾烈になっていたのです。


 


為政者はどう対処したのでしょう 


頼りにしている温和な左大臣源常も亡くなってしまって、天皇は宮中を去って冷然院(れいぜんいん)へ移ってしまわれます。しかし本来なら皇太子として君臨することになるはずであった天皇の第一子である惟喬(これたか)親王も藤原氏の妨害で皇太子の候補から外されてしまうのです。業平はそんな皇子をずっと庇いつづけていったのです。


業平は理想とする為政の実績を残された祖霊嵯峨天皇の業績を追おうとした文武(もんむ)天皇の遺志を受け継ぐように、嵯峨王朝の残照を見届けようと決心しました。これまで業平は「伊勢物語」によって、もっぱら女好きの歌詠みで喧伝されてきたのですが、二十五歳になった業平は、「体貌閑麗なり」(日本三代実録)といわれるほどの美貌の貴公子は、ただの女狂いだけの男ではありませんでした。本来はその正義感のために、権力者の藤原良房に嫌われて出世の道筋を閉ざされるのですが、彼はそんなことに一向に構わず、女官たちの援護射撃を受けながら、理不尽な政庁と戦いつづける人だったのです。


大嘗祭(だいじょうさい)を飾る「五節(ごせち)の舞」を縁にして、高子姫との束の間の出会いを楽しんだ業平は、その二年後に母の伊都(いと)内親王を失うという不幸に遭ってしまったり、官人としては相変わらず不拘(ふく)という性格を貫いているために、出世とは縁遠い生活をしていたのですが、それでも彼はこれまでごうり、藤原氏のために不遇な境遇に置かれている、祖霊文徳天皇の御子である幼い惟喬(これたか)親王の心の支えになろうとし続けていたのでした。その姿勢の在り方は、親しい友のために自らは清貧に甘んじながら援助していたという、小野篁(おののたかむら)の心意気を受け継いだのかもしれません。しかしその頃の政庁は次第に緊張感を失ってしまっていて、官人は保身のためだけに腐心するという状態になっていますし、民もそういった風潮にすっかり失望しています。そんな間隙(かんげき)を縫うようにして、野盗が跋扈(ばっこ)するようにもなっていたのです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 すべてが権力者の忖度(そんたく)で動くような官人が多く、それがうまくできる者が出世していくという現代の政界、官庁の様子は、古代も現代もないのですね。すべて民の願う官人とはなってくれないようです。そんな時いつも小野篁、在原業平という二人を思い出してしまいます。二人は自分の私欲や私情、つまり我が儘を抑えて、社会の規範、礼儀に従がって行動する克己復礼(こっきふくれい)の人であると思いますし、虎に対して素手で立ち向かったり、黄河を歩いて渡るような無謀な者とは行動を共にすることは出来ないと思われる暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)人といわれながら、しかしその勇気を称賛したくなってしまう人に、秘かに憧れを抱いてしまいます。もしそんな人がいるとしたら、助長補短(じょちょうほたん)です。長所を伸ばし短所を補って生き残っていて欲しいと切望いたします。


 


 世界の中での日本という存在が、どういう方向を目指していこうとするのか、無関心ではいられませんね。


 


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