SSブログ

嵯峨天皇現代を斬る その十一の六 [趣味・カルチャー]

   第十一章 「落書きの真意を知るために」( 


    課題・「皇太子決定を揶揄して」


平安時代になる前までは、かなり皇太子を巡る悲劇が繰り返されてきたのですが、嵯峨天皇が即位した時から、もう皇太子にした者は絶対に悲劇の人にはしないという決心をされたのです。第二章「安穏な暮らしを保つために」「その一」「戦力の不足を知る」で嵯峨天皇が味わった無念な思いについて詳しく書いてありますので、機会を見て是非ご覧ください。


ところが文徳天皇(もんとくてんのう)が即位してまもなく、嵯峨天皇の念願の思いは、また覆されてしまったのです。


 文徳天皇が皇太子に就けようと熱望していらっしゃった、第一子の惟喬親王(これたかしんのう)を無視して、この年に、右大臣が推す親族の惟仁親王(これひとしんのう)を皇太子にしてしまうことになってしまったのでした。


為政者・文徳天皇


嘉祥三年(八五〇)十一月二十五日のこ 


発生した問題とは


 嵯峨王朝も次第に力を失い、藤原氏の勢いだけが強くなってきていました。文徳天皇はその第一皇子である惟喬親王を皇太子につけたかったのですが、右大臣にとって政敵であった、紀名虎(きのなとら)の娘静子(せいし)が生んだ子であったことからなかなか承知されません。政庁で起こっていることについてはまったく知らされないことから、民にとっては謎でしかありません。実は文徳天皇にはすでに三人の皇子がいたのですが、そこへ第四皇子として惟仁親王が誕生するのです。実はその母が、実力者藤原良房(ふじわらよしふさ)の娘明子(あきらけいこ)であったのです。そんな事情についてはまったく知らされない民は、文徳天皇が即位して時が経つというのに、政庁で起こっていることについてはまったく知らされないことから民にとっては謎でしかありません。一向に皇太子が立てられないという異常事態が続いていることに異様なものを感じるようになっていたのです。ついにその異常事態を解消しようとした公卿たちから、現代ではとても考えられない苦肉の解決策が打ち出されたのでした。


為政者はどう対処したのか


 公卿たちから思いがけない提案が行われたというのは、競馬、相撲で勝負して勝った者の推す者を皇太子とするという、奇想天外な提案だったのです。結局競馬は惟仁親王側が勝ち、相撲の勝負となった時、惟喬親王側の代表として怪力の紀名虎が登場して惟仁親王側を圧倒するのですが、あわや負けになりそうであった時に、惟仁親王側の者が彼らの勝利を祈っていた僧正に危機を知らせます。すると僧正は突然、手に持った独鈷(どっこ)を脳天にぶち当てて砕くと火の中に放り込んで祈るのです。その結果、一気に形成は逆転して、惟仁親王側が勝利してしまうのです。皇太子問題はこの年十一月に、ついに今上の意に反して、右大臣が推す親族の惟仁親王を立てることで決着してしまったのでした。その勝負による決着という話は、あくまでも伝承に過ぎないとしても、その不自然な皇太子の決定は、直ぐに世間に広がって「三超(みつごえ)」と揶揄されるのでした。


 大枝(おおえ)()えて、走り超えて、()がり()どり超えて、我が護もる田にや、(さぐり)あさり()志岐(しぎ)や、雄々(おお)い志岐や」(日本三代実録)


(大枝・・大兄(おおえ)惟喬親王・・から私が大切にしている田に、勝手に飛び込んだ鴫は思うにまかせて餌をついばんでいる)


 つまり更衣の紀静子は文徳天皇に一番愛されていて、惟喬親王、惟条親王、惟彦親王をもうけているのですが、その三人の兄弟を飛び越えて、第四皇子でしかも生後九か月にしかならない幼児を立太子としたというのです。明らかに右大臣藤原良房を揶揄した童謡(わざうた)です。


 やがて彼は強引に惟仁親王の立太子を強行しますが、文徳天皇は意欲を失って宮中を離れて暮らすようになり、天安三年(八五八)に三十二歳という若さで崩御してしまいます。


やがて惟仁親王は清和天皇となるのですが、「朝廷は遷都を実のある形にするために、政情の安定を願っていたのですが、それが容易に叶えられないのは、蝦夷(えぞ)での抵抗が激しいために、その討伐、鎮圧にかなりの財を費やさなくてはならないという問題を抱えていたからです。清和天皇はあまりにも幼すぎることから、すべての政務は、藤原良房が摂政太上大臣として取り仕切るようになってしまったのです。


 為政の世界の強引な権力闘争ですが、庶民は決してそれを見逃してはいないよという意志表示を、童謡という形で批判したのです。それにしてもあの童謡は、良房の行為を鋭く見つめて、鋭い批判の矢を放っています。しかもその童謡の中では、皇太子になるはずの惟喬親王に対する同情を漂わせながら、権力を思うがままにしている良房を痛烈に批判しているのです。


すべてのことにまだまだ意識が遅れている時代であったころなのに、あの落書きの鋭さは異質です。ひょっとすると政庁に近いものが、良房への批判を籠めて世に流したのかもしれません。しかし落書きといっても、古代と現代のそれには、それに籠められている意識に、あまりにも差があるので愕然としてしまいます。はっきりとした為政に対する意志表示であったのに対して、現代の落書きの意味のない自己中心ぶりに呆れるばかりです。ただの落書きで古代のそれとはあまりにも違い過ぎて言葉を失います。


 


温故知新(up・to・date)


天皇の第一皇子でありながら、天皇以上の権力を持った藤原氏の「生殺与奪(せいさつよだつ)」の横暴な権力のために、皇太子になれなかった惟喬親王はそれから後、風雨にさらされた「櫛風沐雨(しっぷうもくう)」という状態で、非情に苦労する苦難の道を過ごすことになるのでした。彼はやがて大原の里へ引っ込み静かに暮らします。


 政治に対する批判精神は、まださまざまな点で遅れていた時代であった中では、実に鋭いものの芽生えを感じます。 しかし彼はまさに不自由な身の上で、籠の鳥である「池魚篭鳥(ちぎょろうちょう)」だったのでした。


 彼に同情した在原業平は公務の忙しい中を、大原の里まで親王を慰めに行っています。政治の世界にはこうした非情な境遇に出会う親王のような人が、沢山いるような気がいたします。


 



nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。