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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑17 [趣味・カルチャー]

「妖怪今昔物語」

 

 怪しい話というものは、いつの時代にも誕生するものです。

 平安時代で嵯峨天皇の息子で仁明(にんみょう)天皇の時ですが、世の中が落ち着かない時代だというのに、かつて盛んに表れたという怨霊ではなく物の怪という得体の知れないものが現われるということが話題になっていました

するとそんな噂を証明するように、承和四年(八三七)年正月の十六日のことです。

恒例によって皇太子を伴って紫宸殿へお出でになられた天皇が、踏歌をご覧になられると、翌日は豊楽殿で射礼(じゃらい)(六衛府から選ばれた者で行われる宮中の正月の儀式)を観覧されるのですが、その翌日も殿上に設けられた天皇の座の近づこうとした時、突然得体の知れない物の怪が出現したのです。

天皇は慌てて出席を諦めて大臣を遣わしたりいたしましたが、それにしてもなぜか仁明天皇が即位してから、ほとんど日常的に物の怪が現れるようになっているのです。

 同じ仁明天皇の為政者・仁明天皇の承和七年(八四〇)六月五日のことです。政庁は年明けの二月に、六衛府に対して、特別に平安京の夜間の巡邏を行わせました。群盗が各所に跋扈したことによります。

勅命に背いたということで隠岐の島へ配流されていた、小野篁が帰還させることになったことから、町民たちには多少でも明るい話題にはなったのですが、世相のほうは乱れが気になっていたのです。

 「聞くところによると、悪事をする者が真に多く、暗夜に放火したり、白昼物を奪うことをしている。静かにこの悪しき風潮を思うと、人を溝に押し込め、苦しめている思いをつよくする。左右京職・五畿内・七道諸国に命じて、厳しく取り締まり、村里を捜索して身柄を捕え、遅滞のないようにせよ」(続日本後紀)

 このような指示をしたりしました。

 不安に対する指示をされると、平安京内の高年で隠居(生業がなく生活する)している者と飢え病んでいる百姓らに物を恵み与えるように指示をされると、やがてこんなこともおっしゃるのでした。

 「国家が盛んになるために肝心なのは、民を富ますことであり、倉が充ち足りるようになるには、(まこと)に稔りがあればである。この故に耕作時には作物が盛んに繁るようにし、農作時に適切に対処しないと、飢饉の心配が生ずるのである。すなわち農の道に励まなければならない。去年は干害となり、穀物は稔らず百姓は飢え、国用に不足をきたした。災異の出来は天によるとはいえ、人民が愚かで怠惰であることを恐れる者である。現在、季節は春で、農事の始まる時期に当たる。今が勧農を行う適時なので、五畿内諸国に命じて、農事につとめて戒(いまし)め、時宣に応じた対処をし、怠ることのないようにせよ」(続日本後紀)

 為政の混乱か、世相の混乱を象徴するかのように、為政の頂点に立つ天皇のお暮しになられる宮中に、得体の知れないものが現れるようになったのです。

時代が変化を求めるようになったのでしょうか。そのために起こる混乱に乗ずるのか、今年正月に、またまた内裏に「ものの怪」が現れるのです。

それは柏原山稜・・・つまり祖霊桓武天皇の祟りだというので、朝廷は慌てて使者を送って祈させたりしました。

 何か不安な雰囲気が漂う年明けでしたが、三月には陸奥(むつ)国から援兵を二千人も頼んできたりしました。

 時代に乱れがあると、そこに生きている民にとっては不安な気持ちが生じるのでしょう。これらは何といっても今から1100年以上も魔の話ですが、それから八百年ほどたった江戸幕府の五代将軍綱吉将軍の時の出来事はこうでした。或る夜のこと、何者か怪しいものが近づいてきたと思うと、御台所の寝殿まで来ると、緞帳を掲げ上げて中を覗いていたというのです。

御台所は気がつきましたが、少しも騒がずに、

「誰か私の枕元へきていたようだね。捕らえよ」

と言って平然としていらっしゃいました。

大騒ぎとなって、御台所は御広敷の方の役人に来てもらって、やっとその得体の知れない潜入者を捕らえたのですが、その怪物は何と葛西(かさい)の百であったといいます。

奥女中たちが化け物ではないかと怖がっているのを聞いて、「天狗か何かに誘われて飛んでいるうちにここへ落されてきたのだろう。こんな正気でないものが何もできるものではない」

と、平然と言われたということです。

 怪物とは言っても、時代については、実に現実的で、神秘性のかけらもない話になってしまいますね。

時代の差は歴然としています。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の二 [趣味・カルチャー]

      第六章「運気の悪戯だと思うために」(二)

        為政者の課題・「凶兆も受け止め方次第」

 天長三年(八三五)ですから、もうすでに嵯峨天皇は政庁を退いて、淳和天皇に治世を託して太上天皇としての悠々とした日々を楽しまれていました。これまでの為政のあり方は高く評価されていて、今でもその存在は畏敬の対象として存在しています。

 先年ですが、その嵯峨太上天皇の四十歳を祝賀する祝宴があって、それに出席した右大臣の藤原緒嗣(ふじわらおつぐ)が、その時の様子について淳和天皇に報告いたしております。

 天皇が酒を取り群臣に進め、日暮れに至り、宴はたけなわとなりました。琴歌(きんか)を共に奏して、(かん)を極めて終わり、身分に応じて禄を下賜しました。

 太陽が西に傾くと、燭を(とも)して続行します。

雅楽寮(うたりょう)が音楽を奏し、中納言正三位良岑(よしみね)朝臣安世(やすよ)冷然院(れいぜんいん)正殿南階(みなみのきざはし)から降りて舞い、群臣もまた連れ立って舞います。

日暮れになると雪が降り出し、その中を妓女が舞器(ぶき)をもって舞いましたが、夜になって終わり、身分違応じて録を下賜されました。

詔があって解由を得ていない四、五位の者たちにも録を賜った。また参議以上の者には冷然院の御被(みふすま)を賜った。

 やがて皇太子正良親王(まさらしんのう)進み出ると、次のように申し上げました。

 私は、「礼の極致にあっては格別責めることなく天地が互いに合致し、大音楽にあっては個別楽器の音や声は弁舌できないものの法則に適っている」と聞いております。

堯は星の運航を見て農耕の暦を定め、舜は暴雨・雷雨に迷わず天子の位に即きました。孔氏は「天命を受けた王者が後一世代(三十年)を経て仁の世になる」と述べています。

この講師の言葉は真実を穿っています。漢の高祖より恵帝(けいてい)小帝(しょうてい)孝文帝(こうぶんてい)まで四代、四十年となります。桓武聖帝から淳和帝、暦を調べますと四十年、天皇は四天皇である。嵯峨太上天皇と淳和天皇は四十歳で、総計すると百二十歳となり、真に立派な政治によるめでたい(しるし)です。伏して考えますに、陛下の四十の算駕の後は、これまでの善き運が集中し、至徳(しとく)はますます盛んになり、陛下の行いは虞舜(ぐしゅん)に一致し、仁は漢の文帝よりも(あつ)く、いよいよ礼楽につとめ、寿命は長くなりましょう。わたしは皇太子として、陛下を仰ぎ見、天下がを同じくし、人々が慶んでいるのが判ります。私も大変伊合わせであり、心からの喜びです。わずかな贈り物で、陛下を汚すことになりますが、謹んで衣・琴等を献上いたします。これはものというより私の誠意をしめすものです。伏してねがいますには、陛下がこの衣服を着して無為にして治績を上げ、大琴をとり、舜と同様によく治まった世を(うた)った南風の詩を謳歌しますことを。四十の算賀には前例がないわけでなく、臣下のまことして、黙っていることは出来ません。およそ聖人の寿命は天から受けるもので、臣下がそれを祝福しても利益はありませんが、心中の思いを言葉に表わさずにはいられません。願わくは、陛下が日月星辰と共に皇位の坐を、遠く長寿を仰ぎ、変わらぬものの(たと)えである南山(なんざん)と同様でありますことを。

 私は幼いころから抜きんでて陛下の恵みを受けかたじけなくも皇太子となっていますが、これまで君・親・年長者に仕える三善を欠いております。しかし陛下の思い()

は重ね重ねに及び、他の者より深く厚い栄誉と恵みを与えられ、極まりない南山の竹を用いても、恩を書き尽すこができません。東海の大亀であっても、恩徳を担わせることができましょうか。そこで、群臣と共に伏して、心中の思いを表わしました。恐れかつ祝う気持ちのままに、謹んで表を奉呈いたします」(日本後紀)

 まさに嵯峨太上天皇も、淳和天皇に譲位なさって悠々自適の暮しを始められているころのことです。

これまでもそうなのですが、人智では解決しない現象が起こった時などは、その正体、その意味を陰陽寮(おんようりょう)博士の判定に委ねていましたが、七月に入ったある日のこと、豊楽殿で相撲を観覧した時、慶雲が西の空に出現したのです。

五色の色彩が混ざり合って、夾纈染(きょうけちぞめ)(古代の染色の一つ)の絹の模様のような瑞雲だったのですが、つい先日のことですが、五月に淳和天皇の第一皇子であった恒世親王が亡くなったという訃報がもたらされて、大変悲しんでいらっしゃったところでした。

三年前の即位にあたって、皇太子として指名されながらなぜか親王はそれを辞退され、再三の説得にも応えないまま行方知れずになっていたところだったのです。

二十二歳という早い親王の死だったので、当時から病を得ていたのかも知れないということになり、やっと皇太子辞退の真相が納得できたところでもあったのです。

 天皇はその知らせが入ると、暫く喪心してしまわれて政務に就くこともできずに、気分の優れない日々を過ごしていらっしゃったのです。

そんなところへ慶雲という知らせが届きました。

失意の底に沈んでいらっしゃった天皇を、多少でもお慰めできるのではないかと、公卿たちはもちろんのこと、京の者はみなほっとして祝賀の気分に浸りみな安堵しました。ところがその頃嵯峨太上天皇には、吉兆とは真逆の知らせがあったのです。

為政者・嵯峨太上天皇

天長三年(八三五)七月十六日のこと

発生した問題とは

これまで為政の片腕として、太上天皇にとっては欠かせない有能な政庁の左大臣藤原冬嗣が、療養の甲斐もなく五十二歳という年齢で鬼籍へ入ってしまったというのです。政庁からは使いの者を深草の別荘に送って、丁重に哀悼の言葉を贈り弔いました。

為政者はどう対処したのか

 まだ嵯峨太上大臣が皇太子神野親王(かみのしんのう)といっていた頃のことです。政庁の実力者であった伊予親王に、平城天皇の呪詛という疑いがかかって大きな事件になって政庁の中は大騒ぎになっていた頃のことです。

不安な気持ちでいる神野をほっとさせてくれたのが、右大臣藤原内麻呂(ふじわらうちまろ)の指示によって東宮へ送られてきた真夏(まなつ)冬嗣(ふゆつぐ)という兄弟だったのです。彼らは事件が落着まで神野に誠実につき従い、誠心誠意尽くしてくれたのです。

あれから十九年。

彼らは能力を発揮して仕え、やがて即位して政庁を率いるようになられた嵯峨天皇のために、その安定を保ち、維持していくために貢献してきてくれました。

その後神野親王は文人政治家嵯峨天皇として君臨することになるのですが、天皇とは違った考え方をする彼らは、理想的な朝廷のあり方にも協力しながら、極めて現実的な施策をして、民・百姓からは大変世論で受け入れられてきた貢献者でした。

冬嗣は嵯峨の支持もあって能力を発揮して公卿たちにも信頼を得ていくと、ついに左大臣という政庁の頂点へ上り詰めていくのです。

あの瑞雲さえも為政の片腕であった藤原冬嗣を送る、葬送の前触れであったのだと受け止めざるを得なくなったのでしたが・・・。太上天皇は彼との日々を思い巡らしていましたが、やがて冬嗣の死もあくまでも天命であって、冷静に受け止めなくてはならないことだと諦められたのでした。

それよりも、これから受け継がれていくであろう嵯峨王朝の足跡の中に、家父長として果たさなければならない責務があるということを、真摯に思い巡らしていらっしゃったのです。

冬嗣の死についての思いを整理された太上天皇にとって、冬嗣の子息である良房と、臣籍降下させた一人である潔姫(きよしひめ)とが結婚していて、藤原の新たな道筋を開き始めていたことについてはご存知でしたので、祝福すればこそ不安を感じさせるようなことは微塵も感じておりませんでした。

もう現在はそのころ淳和天皇の御子である恒世親王(つねよしんのう)の辞意を受けて、皇太子には太上天皇の御子である正良親王(まさらしんのう)が就いていらっしゃるのです。

やがて彼が皇統を受け継ぐことになるのは自然の流れです。嵯峨王朝は理想的な形で始まり、太上天皇の夢はやがて正良親王の時代に開花することになるはずでした。

その時の為にも、家父長として健在でいなくてはなりません。自らの進むべき道筋が過ちでないことを、何度も自問しながら納得されると、忠臣冬嗣の死を境に現れた瑞雲も、決して凶兆ではなくむしろ吉兆と受け止めて進もうとしていらっしゃったのでした。

これに似たような話は、現代でもよくあるのではありませんか。

 ものは考えようというものです。

同じ現象でも、吉兆なのか凶兆なのか、それを見た人の境遇によってその受け止め方が変わってしまうものです。そのことは充分に承知しておくべきでしょう。

 温故知新(up・to・date)でひと言

 人間にはいい時も悪い時もあります。「死中求活(しちゅうきゅうかつ)といって、窮地の中で工夫を巡らして活路を見出すことが必要です。その結果、「斉紫敗素(せいしはいそ)といって、災いを転じて福となすこともあるのではないかと思うのです。古事を引っ張りだすと、斉紫というのは斉の国名産品で紫色の絹地なのですが、素は白絹で、敗素は廃物の白絹のことです。斉紫は大変高価なものだが、もとを糺せば使い古した白絹を染め直したものに過ぎなかったもので、一度駄目になったものを、立派なものに仕立て上げることのたとえに使われます。どちらにしても吉凶を材料にしておかしなことに引っ張り込まれないことが大事です。「破邪(はじゃ)顕正(けんせい)です。悪い見解を打ち破って正道をいきましょう。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言16 [趣味・カルチャー]

「夢占い」

 「今日は夢見が悪かったな」

 朝起きた時、何だかすっきりとしないことがあります。そしてその日一日、

「どうしてあんな夢を見たんだろうか」

その原因がはっきりとしないまま、何か重苦しい気分で過ごすことがあります。

占いの本に「夢占い」というものがあります。どうしてあんなものを見たのか、その原因がはっきりとしないことが多いのではないでしょうか。それはどうも古代も現代もないようです。それだけに現代のような、ある程度の精度で精神的な解析ができる時代となったとは言っても、なお不可解な部分があります。

超科学時代であってもこのような状態なのですから、まだとても科学というものが存在しない古代ということを考えると、それはある暗示を与えるものとして大事にされてきたことが考えられます。特に為政者たちの関心事は大変なものでしたが、その最高位にある天皇にとっては、権力だけではどうにもならないものが夢の暗示が不気味だったのです。

夢は神々と交信するために人間が見るものなので神々は見ないといわれます。

古事記、日本書紀にでも、夢の記述が出てくるのは初代天皇といわれる神武天皇からでしたが、はじめは巫女による神懸かりの宣託を得るということでしたが、天皇が神託を得るために見た夢は、三十一文字の和歌でお告げがくると言われていました。

やがてはあの聖徳太子も、「夢殿」という夢託を受けるための特別なところを持ったくらいで、夢は自然に見るものではなくて、乞い願って見るものであったのです。

そんなことから、古代の貴族などは、そうした夢から何かお告げを得たいということで、寺社のような聖地がお告げを受け易いということで、京都の清水寺、石山寺、奈良の長谷寺のようなところへ籠って、夢を見ようとしたのでした。

しかし悪い夢を見てしまった時はどうすればいいのかというと、法隆寺にある夢違え観音のように、その観音様に祈れば吉に変えてくれるということで信仰を集めていました。

後の時代になると、その夢の意味することがどんなことなのかを、解析することを商売にする者が現れたり、更にいい夢を見た人から、それを買い取るなどということを考えた者が現れたりするようになってしまいました。大体いつの時代でもそうですが、ここまでくるといい夢見を願う風潮も終わってしまうのでした。

 


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の一 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(一)

    為政者の課題・「身を立てるには学べ」

弘仁三年(八一二)ですから、嵯峨天皇が即位されてから三年目に当たります。

 つまり為政者としての思いが新鮮な頃のことです。それでなくても、これまでとは様々ことで、旧来のあり方に拘らないところをお示しになられる方ですが、公卿たちもアッと思うような提案をなさいます。

 今回も学ぶなどということには、まったく縁のない農民に対しても、嵯峨天皇は敢えて「学ぶ」ということ勧めたのです。

彼らにはとてもそんなことが出来る余裕などが無いことは判っているはずです。公卿たちはみなそう思ったに違いありません。

 平城天皇から皇位を受けついて即位された嵯峨天皇は、まだ在位三年であったことから、為政についてもやる気満々です。感性の鋭い文人政治家であった天皇は、かねてから社会の乱れが、やがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃったこともあって、これまで秘めておられた心情を朝議において発表されたのでした。

為政者・嵯峨天皇

弘仁三年(八一二)五月二十一日

発生した問題とは

「国を治め、家を整えるには、文章が何より大事であり、身を立て、名を上げるにも、学問が何より大切である。平城天皇時代のはじめから、諸王、貴族の十歳以上の者は、みな大学へ入り、専門に分かれて学問を習得するようにした。これで優れた者を大学に集め、才能ある者による、学問興隆を意図したのだが、朽木(きゅうぼく)(みが)き難いという(たとえ)どおりで、愚かな者は長年月を経ても学業が一つも成就しない状態である。今後は先の決まりを改めて、各自の意向を尊重して、現実に合わせるようにせよ」(日本後紀)

 先取の気風をお持ちであった天皇にはそれなりに訴えたいことがあったのです。時に学ぶということが大事と、民に心掛けを説かれるのです。

それに応えて公卿からも次のような発言がありました。

私たちは「法律を定めて人を指導するのは世を(すく)うことを目的とし、制度を改め風俗を匡正(きょうせい)するのは、時勢に適合するようにするためである」と聞いております。政道においては適切な改革が重要であり、それにより制化が達成されることが判ります。仮にも政化が広まらないならば、琴柱(ことじ)を膠で固定するがごとく融通を利かせなくともよいものでしょうか。柵定令条は去る神護景雲三年に作成されましたが、施行を許されないまま数十年たち、その後頒下した(続日本紀)延暦十年三月内寅条)ところ、かえって訴訟が頻発し、不便で常に守るべき規則とはなしがたいことが判りました。そこで、この柵定令の長所と短所と食え悪しく遣唐使、改正することを請願いたします。時と処に適合し長く順守するに足る法として、教化を広め弊害をなくし、人民が恩恵に浴して悪い風習が消滅し、家業を滞りなく果たせるようになることを要望します」(日本後紀)

結局この訴えについては協議した上で裁可いたしました。

長いこと法が決められたまま、まったく変更されないままでいると、かえって不便なことが起こってしまいます。天皇はその意を受けて法の正しい運用ができるようにと、糺すべきものはきちんと糺そうとされるのでした。

為政者はどう対処したのか

ある日天皇が指示をしました。

 「諸国に移住させた夷俘らは朝廷の法制に従わず、犯罪を犯す者が多い。彼らの野蛮な心性を強化するのがこんなんだとは言え、教諭が十分行き届いていなことが原因なので、夷俘の中から有能で仲間の推服を受けている者一人を選び、その長とし、取り締まりに当たらせよ」(日本後紀)

 それから間もなく、はじめてですが、参議従四位した紀朝臣広浜・陰陽頭正五位下阿部朝臣真勝ら十余人が参席し、散位従五位下多朝臣人長が博士として『日本書記』の講義を行った。

 為政の基本となることを糾そうということをなさろうとしたところ、問題となるようなことが次々と取り上げられましたが、そのきっかけを作られたのが天皇でした。

伊勢国から次のようなことが訴えられました。

伝馬(てんま)の利用は、新任国司の送迎に充てるのみで、他に乗用する者はおりません。いま、東海道は桑名(くわな)郡の榎撫(えなつ)駅(三重県桑名市)から尾張国へ至っていますが、ここはもっぱら水路となっていて、伝馬を置いてはあるものの利用されず、民に負担をなすばかりです。伏して、桑名郡の伝馬を廃止して、永く百姓の負担を軽減することを請願いたします」(日本後紀)

 政庁はそれを許可しました。

 まだ始まったばかりの政庁ですが、そうしたさまざまなことで持ち上がる問題に応えていかなくてはなりません。そんな中で天皇は考えました。

この頃雨の降らない日がもう十日も続いていたために、農作業が思うに任せず、その影響で京中でも米価が高騰してしまいます。

政庁は官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたしましたが、天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって早くいい雨が降ってほしいと願って、急いで畿内の神社に奉幣せよと指示されます。

神仏の霊威に対して、絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。ここまで必死で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのように受け止めているのだろうかと、気にされるようになっていらっしゃったのです。すべて満足な状態にはなっていないことは、充分に承知していらっしゃいますが、不満であることはすべて為政者の責任だと思いがちなものです。天皇は民がどう考えているのかと知りたくなっていました。こんなことは現代でも現実的にあるのではありませんか。

為政者の思いと被為政者の受け止め方に齟齬(そご)があることは、永遠の課題です。いつの時代であっても、為政者は理解を求めなくてはなりませんが、被為政者たちの方も、為政者たちが何をしようとしているのかを理解できなくてはいけないのではないかと思うことがあるのです。

それにはどうしても学ぶということの必要なのではないでしょうか。もしそうでなければ、社会がどんな方向へ向かっているのかということについても、特別関心もなく時の過ぎるままに生きていることになってしまいます。仮に法律に不足するところがあっても、それに対してまったく何もすることがなく、たた不満を云いながら暮らしていくだけになってしまうでしょう。

 ある日大納言正三位兼皇太子傳民部卿勲五等藤原朝臣園人が次のようなことを進言されました。

「私は平凡で才能が内にもかかわらず、しきりに諸国の官人となり、西から東まで経巡(へめぐ) 十八年になります。人民の苦労や政治の得失を見聞きして、正しい判断ができるようになりました。天皇の命令を受けて地方官として赴任し、統治の原則を守ってきましたが、民に親しみ行政に当るのは郡領(ぐんりょう)の譜代(家柄)から採用するという旧例に復帰しました。これにより、終身官である郡領に人を得れば、国司は安心して国内を治めることが可能になり、代々群領の家柄であっても才質のない者を任用すれば、責任を問われることになりました。このため、群領の任に堪え得る人物を精選して申告させることにしたのですが、在京する者が譜弟の優劣を争い諸国の国司が選考した候補者をおしのけて任命される次第となっています。これでは                                                                                                   行政に当らせても風化が広まらず、一体誰が推戴しましよか。国司が指令を出しても理解せず、郡内は年々疲弊するばかりです。これによる不治の責はかえって国司に及び、いっこうに嘆くばかりです。現在、朝廷の仁徳は遠方に届き、恵みを与える特性がしきりに行われていますが、衰弊は止まず、百姓が苦しんでいますのは、ことに当たる人財を欠いていることによります。伏して、推戴された人物が適任でなく政績があがらないときは、推薦書にのみよることを請願します。もし、推薦された人物が適任でなく政績があがらないときは、推薦書に連署した官人(国司の四等官)はみな解任して、永く叙用せず将来への戒めとすれば用意でしょう。陛下が配慮されて、私の請願をお許しいただけるならば、今年の補任予定者は、すべて白紙にもどし、改めて来年春に選衡を開始するようにしたいと思います。願わくは、よく治まっているという評判が今年中に起き、人民が富み、安楽であることを称える

富康(ふこう)の歌謡が後代にまで歌い継がれますことを。主人に懐く犬馬の思いで、謹んで上表し、死を冒して申し上げます。

 天皇はその申し出を許可した。

学ぶことによって人生は変わります。これから何をすべきなのかということを、自ら見つけ出すことが必要ですがどうでしょう。

今は学ぶより、先ず実践することの方が喜ばれるようですが、意外にも学習塾の現状を調べると、どんどん通って来る世代が早くなってきているということです。しかし今風になんでもまずやってみるということも、同時に認めて進めているというのが現代のようですね。

 温故知新(up・to・date)

 そのためにも、思うところを人に訴えるためにも、先ず「意到随筆(いとうずいひつ)です。つまり文章が自分の意のままに書けるということが必要ですし、意気込みを持って「進取果敢(しんしゅかかん)です。意気込みを持って、積極的で決断力や実行力を発揮しなくてはなりません。目指すことに向かって走らなくてはなりません。「俊足長阪(しゅんそくちょうはん)です。才能のある優れた人物が困難にあうと、自分の力を実地に試そうとして走り出すということです。俊足に優れた駿馬は険しい坂にあうと、これを速く走って越そうと試みるといいます。それによって、広く才能を示す機会となるかもしれません。あなたも長所を生かして突っ走ってみませんか。


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