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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の一 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(一)

    為政者の課題・「身を立てるには学べ」

弘仁三年(八一二)ですから、嵯峨天皇が即位されてから三年目に当たります。

 つまり為政者としての思いが新鮮な頃のことです。それでなくても、これまでとは様々ことで、旧来のあり方に拘らないところをお示しになられる方ですが、公卿たちもアッと思うような提案をなさいます。

 今回も学ぶなどということには、まったく縁のない農民に対しても、嵯峨天皇は敢えて「学ぶ」ということ勧めたのです。

彼らにはとてもそんなことが出来る余裕などが無いことは判っているはずです。公卿たちはみなそう思ったに違いありません。

 平城天皇から皇位を受けついて即位された嵯峨天皇は、まだ在位三年であったことから、為政についてもやる気満々です。感性の鋭い文人政治家であった天皇は、かねてから社会の乱れが、やがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃったこともあって、これまで秘めておられた心情を朝議において発表されたのでした。

為政者・嵯峨天皇

弘仁三年(八一二)五月二十一日

発生した問題とは

「国を治め、家を整えるには、文章が何より大事であり、身を立て、名を上げるにも、学問が何より大切である。平城天皇時代のはじめから、諸王、貴族の十歳以上の者は、みな大学へ入り、専門に分かれて学問を習得するようにした。これで優れた者を大学に集め、才能ある者による、学問興隆を意図したのだが、朽木(きゅうぼく)(みが)き難いという(たとえ)どおりで、愚かな者は長年月を経ても学業が一つも成就しない状態である。今後は先の決まりを改めて、各自の意向を尊重して、現実に合わせるようにせよ」(日本後紀)

 先取の気風をお持ちであった天皇にはそれなりに訴えたいことがあったのです。時に学ぶということが大事と、民に心掛けを説かれるのです。

それに応えて公卿からも次のような発言がありました。

私たちは「法律を定めて人を指導するのは世を(すく)うことを目的とし、制度を改め風俗を匡正(きょうせい)するのは、時勢に適合するようにするためである」と聞いております。政道においては適切な改革が重要であり、それにより制化が達成されることが判ります。仮にも政化が広まらないならば、琴柱(ことじ)を膠で固定するがごとく融通を利かせなくともよいものでしょうか。柵定令条は去る神護景雲三年に作成されましたが、施行を許されないまま数十年たち、その後頒下した(続日本紀)延暦十年三月内寅条)ところ、かえって訴訟が頻発し、不便で常に守るべき規則とはなしがたいことが判りました。そこで、この柵定令の長所と短所と食え悪しく遣唐使、改正することを請願いたします。時と処に適合し長く順守するに足る法として、教化を広め弊害をなくし、人民が恩恵に浴して悪い風習が消滅し、家業を滞りなく果たせるようになることを要望します」(日本後紀)

結局この訴えについては協議した上で裁可いたしました。

長いこと法が決められたまま、まったく変更されないままでいると、かえって不便なことが起こってしまいます。天皇はその意を受けて法の正しい運用ができるようにと、糺すべきものはきちんと糺そうとされるのでした。

為政者はどう対処したのか

ある日天皇が指示をしました。

 「諸国に移住させた夷俘らは朝廷の法制に従わず、犯罪を犯す者が多い。彼らの野蛮な心性を強化するのがこんなんだとは言え、教諭が十分行き届いていなことが原因なので、夷俘の中から有能で仲間の推服を受けている者一人を選び、その長とし、取り締まりに当たらせよ」(日本後紀)

 それから間もなく、はじめてですが、参議従四位した紀朝臣広浜・陰陽頭正五位下阿部朝臣真勝ら十余人が参席し、散位従五位下多朝臣人長が博士として『日本書記』の講義を行った。

 為政の基本となることを糾そうということをなさろうとしたところ、問題となるようなことが次々と取り上げられましたが、そのきっかけを作られたのが天皇でした。

伊勢国から次のようなことが訴えられました。

伝馬(てんま)の利用は、新任国司の送迎に充てるのみで、他に乗用する者はおりません。いま、東海道は桑名(くわな)郡の榎撫(えなつ)駅(三重県桑名市)から尾張国へ至っていますが、ここはもっぱら水路となっていて、伝馬を置いてはあるものの利用されず、民に負担をなすばかりです。伏して、桑名郡の伝馬を廃止して、永く百姓の負担を軽減することを請願いたします」(日本後紀)

 政庁はそれを許可しました。

 まだ始まったばかりの政庁ですが、そうしたさまざまなことで持ち上がる問題に応えていかなくてはなりません。そんな中で天皇は考えました。

この頃雨の降らない日がもう十日も続いていたために、農作業が思うに任せず、その影響で京中でも米価が高騰してしまいます。

政庁は官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたしましたが、天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって早くいい雨が降ってほしいと願って、急いで畿内の神社に奉幣せよと指示されます。

神仏の霊威に対して、絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。ここまで必死で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのように受け止めているのだろうかと、気にされるようになっていらっしゃったのです。すべて満足な状態にはなっていないことは、充分に承知していらっしゃいますが、不満であることはすべて為政者の責任だと思いがちなものです。天皇は民がどう考えているのかと知りたくなっていました。こんなことは現代でも現実的にあるのではありませんか。

為政者の思いと被為政者の受け止め方に齟齬(そご)があることは、永遠の課題です。いつの時代であっても、為政者は理解を求めなくてはなりませんが、被為政者たちの方も、為政者たちが何をしようとしているのかを理解できなくてはいけないのではないかと思うことがあるのです。

それにはどうしても学ぶということの必要なのではないでしょうか。もしそうでなければ、社会がどんな方向へ向かっているのかということについても、特別関心もなく時の過ぎるままに生きていることになってしまいます。仮に法律に不足するところがあっても、それに対してまったく何もすることがなく、たた不満を云いながら暮らしていくだけになってしまうでしょう。

 ある日大納言正三位兼皇太子傳民部卿勲五等藤原朝臣園人が次のようなことを進言されました。

「私は平凡で才能が内にもかかわらず、しきりに諸国の官人となり、西から東まで経巡(へめぐ) 十八年になります。人民の苦労や政治の得失を見聞きして、正しい判断ができるようになりました。天皇の命令を受けて地方官として赴任し、統治の原則を守ってきましたが、民に親しみ行政に当るのは郡領(ぐんりょう)の譜代(家柄)から採用するという旧例に復帰しました。これにより、終身官である郡領に人を得れば、国司は安心して国内を治めることが可能になり、代々群領の家柄であっても才質のない者を任用すれば、責任を問われることになりました。このため、群領の任に堪え得る人物を精選して申告させることにしたのですが、在京する者が譜弟の優劣を争い諸国の国司が選考した候補者をおしのけて任命される次第となっています。これでは                                                                                                   行政に当らせても風化が広まらず、一体誰が推戴しましよか。国司が指令を出しても理解せず、郡内は年々疲弊するばかりです。これによる不治の責はかえって国司に及び、いっこうに嘆くばかりです。現在、朝廷の仁徳は遠方に届き、恵みを与える特性がしきりに行われていますが、衰弊は止まず、百姓が苦しんでいますのは、ことに当たる人財を欠いていることによります。伏して、推戴された人物が適任でなく政績があがらないときは、推薦書にのみよることを請願します。もし、推薦された人物が適任でなく政績があがらないときは、推薦書に連署した官人(国司の四等官)はみな解任して、永く叙用せず将来への戒めとすれば用意でしょう。陛下が配慮されて、私の請願をお許しいただけるならば、今年の補任予定者は、すべて白紙にもどし、改めて来年春に選衡を開始するようにしたいと思います。願わくは、よく治まっているという評判が今年中に起き、人民が富み、安楽であることを称える

富康(ふこう)の歌謡が後代にまで歌い継がれますことを。主人に懐く犬馬の思いで、謹んで上表し、死を冒して申し上げます。

 天皇はその申し出を許可した。

学ぶことによって人生は変わります。これから何をすべきなのかということを、自ら見つけ出すことが必要ですがどうでしょう。

今は学ぶより、先ず実践することの方が喜ばれるようですが、意外にも学習塾の現状を調べると、どんどん通って来る世代が早くなってきているということです。しかし今風になんでもまずやってみるということも、同時に認めて進めているというのが現代のようですね。

 温故知新(up・to・date)

 そのためにも、思うところを人に訴えるためにも、先ず「意到随筆(いとうずいひつ)です。つまり文章が自分の意のままに書けるということが必要ですし、意気込みを持って「進取果敢(しんしゅかかん)です。意気込みを持って、積極的で決断力や実行力を発揮しなくてはなりません。目指すことに向かって走らなくてはなりません。「俊足長阪(しゅんそくちょうはん)です。才能のある優れた人物が困難にあうと、自分の力を実地に試そうとして走り出すということです。俊足に優れた駿馬は険しい坂にあうと、これを速く走って越そうと試みるといいます。それによって、広く才能を示す機会となるかもしれません。あなたも長所を生かして突っ走ってみませんか。


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