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嵯峨天皇現代を斬る その十一の一 [趣味・カルチャー]

     第十一章「落書きの思いを知るために」(一)


       課題「藤原雄田麻呂の画策」


    課題「策士あり」


あまり聞こえはよくありませんが、策士ということがよくいわれます。判りやすい言葉で言うと、やり手ということでしょうか。一般的には気の許せない人ですが、時にはそういった人があって、困難な状況が突破できるということもありますね。


為政者・光仁天皇


宝亀元年(七七〇)八月四日


発生した問題とは 


宝亀元年(七七〇)のころのことです。


 女帝の称徳(しょうとく)天皇の体調がひどく悪くなっていたこともあって、群臣たちの間では、やがて践祚(せんそ)することになる皇太子を誰にするかということで、密かに激論が交わされていました。


 天武天皇系から候補を立てようとしていらっしゃる右大臣吉備真備(きびのまきび)に対して、天智天皇系の大納言白壁王(しらかべおう)を推していらっしゃる左大臣藤原永手(ふじわらながて)、内大臣藤原良継(ふじわらよしつぐ)が対立してしまって、なかなか決着がつきそうもありません。しかし結局は、結束して迫る藤原氏の勢いには勝てずに、真備は敗退してしまったのです。そうした朝廷内での激しい主導権争いが行われている間に、さまざまな人脈を使って奔走していたのが、同じ藤原一族の雄田麻呂(おだまろ)という人物でした。彼にはかなり豊富な人脈があったようで、和気清麻呂(わけのきよまろ)という人物もその中の一人でした。彼は吉備国美作(みまさか)の下級官人であったころ、播磨(はりま)国県境の坂越(さこし)というところで、飛鳥から蘇我入鹿(そがのいるか)に追われて逃げてきた、秦河勝(はたかわかつ)と出会っているのです。その清麻呂の人脈は雄田麻呂の暗躍に、かなり活かされていたのではないかと思われるのです。


 このころ巷では、世相の風刺歌といわれる次のような童謡というものが歌われていました。これは現代でいいますと、日常の鬱憤を晴らす落書きのような落書きだったのですが、このころのものは現代の町の中で見かける落書きとは違って、世相を反映した庶民の心情を訴える鋭い主張があって、かなり広がりがある庶民の共感を得た伝達手段でもあったのです。影響力ということでは、現代のそれとは大きな差がありますが、それは大変的を射たものが多かったように思います。


 葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや


 おしとど としとど


 桜井に白璧しづくや 好き璧しづくや


 おしとど としとど


(葛城寺の前だろうか 豊浦寺の西だろうか 桜井の井戸に白璧が沈んでいる 好い璧が沈んでいるよ)


 然すれば 国ぞ昌ゆるや 吾家らぞ昌ゆるや おしとど としとど


(そうすれば 国が栄えるか われわれの家が栄えるだろうか)


 この時白壁王の妃は、聖武天皇と光明子の皇女であった井上(いのえ)内親王であったので、識者は「井」というのは井上内親王の名のことであり、「璧」とは天皇の(いみな)のことだと指摘しています。恐らくこれは、彼が即位するであろうということを風刺したものであったのでしょう。


 称徳天皇は八月四日のこと、五十三歳で崩御してしまわれましたが、その日先帝の遺言によって直ちに皇太子となられた白壁王は、さらに十月一日には即位なさって光仁(こうにん)天皇となられたのです。


 後ろ盾を失ってしまった道鏡(どうきょう)坂上刈田麻呂(さかのうえのかりたまろ)様の讒言(ざんげん)もあって、造下野国薬師寺別当(べっとう)として平城京から追われてしまい、宝亀二年(七七一)には、天武天皇系の後押しをしてこられた右大臣の吉備真備も引退させられてしまいます。その結果これまで朝廷を支配してきた、天武天皇の縁者たちによる影響力は排除されてしまい、天智天皇の縁者による為政の形が整えられていったのです。 


為政者はどう対処したの 


 圧倒的であった天武天皇系の皇統は、ここで天智天皇系に変わっていきます。群臣たちの支持も厚く評判の光仁天皇は、さらに慎重に身辺を整えられて、即位すると同時に皇后には天武天皇系の井上内親王様を迎えるのです。一触即発状態になっていた天智、天武両天皇の系列にかかわる方々の確執を、それによってさりげなくかわしてしまわれたのでしょう。


一月二十三日に、皇后との子である他戸(よそべ)親王様を皇太子に立てられると、沈滞しきっていた朝廷の姿を思い切って立て直そうとし始められました。


称徳天皇の体調を整えるといって信任を得ていた僧の道鏡が、皇位を奪おうとして宇佐八幡宮の信託があったとして策略下のを見抜いたために、大隅国へ流されていた和気清麻呂(わけのきよまろ)備後(びんご)国へ流されていた姉の広虫(ひろむし)も、許されて京へ戻り、朝廷の中には為政の姿を歪めてしまった、平城京から一刻も早く抜け出して、新たな京で再出発しようという気分が高まっていったのです。たちまち廷臣たちから出される長岡京への遷都という建議も、真剣に取り上げられるようになっていました。


 そんな空気の中で、天皇は為政者としてある切実な問題に直面しておられました。長いことつづいている陸奥(みちのく)国の蝦夷との抗争のために、それに費やす財が膨れ上がっていて、国の財政が逼迫してきていたのです。財を立て直すために、まず内裏の経費の節約を行い、官衙の出費も極力抑えるために、膨れ上がった官人の数も整理していかれました。しかしそれは言葉でいいきれるほど容易なことではありません。官衙の機構の改革を行うなかで、若手の登用を妨げている名前だけの博士も排除して、大学寮の改革もしていかれたのです。


 ようやく政庁は本来の姿に立ち戻りつつあったように思われましたが、そんなある日のことです。舎人(とねり)の一人が密かに訴えてきたのです。このころ藤原雄田麻呂様は、名も藤原百川(ふじわらももかわ)と変えられて参議という要職にも就いていらっしゃるのですが、近ごろ皇太子の他戸親王様よりも、年長である山部(やまべ)親王と盛んに接触していたといわれます。天皇は朝廷の改革も着々と進めていらっしゃるのですが、百川は他戸皇太子を無視して、山部親王に接触していらっしゃるというのです。常識的にいえば、皇統は皇太子が践祚(せんそ)することになるはずです。しかし百川が頻繁に通うところというのは、天皇の妃といっても百済系帰化氏族である和史乙継(やまとのふひとおとつぐ)の娘で、皇后の井上内親王とは比べようがない高野新笠(たかのにいがさ)のところです。しかもそこには、才能を認められている山部親王がいらっしゃるのです。


 いかにも強引な百川の動きです。


 天皇は即位して一年もしない宝亀二年(七七一)に、これまで頼りにしていた左大臣藤原永手の死に遭遇してしまったために、そうした百川(ももかわ)の動きを止めさせることもできなくなっていたのでした。やがて光仁天皇は退位して、山部親王が皇位に就き桓武天皇となったのでした。


こんなことは現代にもかなりありそうです。内閣の交代には複雑な政界の人間関係によって決定されていくように思えてなりません。策士というのはいつの時代にも存在するように思われて仕方がありません。


温故知新(up・to・date)でひと 


 暫く前のことですが、文部科学省を巡ってフィクサーが暗躍した話があって、汚職事件にまで発展してしまっています。相手に失礼なことにならないように注意しなくてはいけませんが、いい状態にあるものを陰謀によって覆ることを知って動く者がるのを知ると、警戒してしまいますが、時にはそうした策士が大変役に立つ人物で、大いに助かるということもあったり、あまり疑い過ぎて、頼りになる人を失ってしまうということもあります。


 


兎に角人を籠絡(ろうらく)してその術中に陥れるということでは、「朝三暮四(ちょうさんぼし)という言葉があります。口先で人を騙したり、言いくるめることを言いますが、気を付けなくてはいけないのは、「狡兎三窟(こうとさんくつ)といって、悪賢い兎は、隠れる穴を三つも持っていて、万一の場合、そのどれかに逃げ込んで身の安全をはかるということ。危機に際して、身を守るのは上手いことをいいます。いずれにしても策士という人は、「隙穴之臣(げきけつのしん)といって、秘かに目的の相手に通じたり、隙を窺がうことが出来る人です。利用しようと思っても、こちらも賢明でいないと、却って利用されるだけになってしまいます。


 


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