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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言30 [趣味・カルチャー]

「高みの見物」

 自分には関係がないという場合に、よくこんな言葉を聞くことがあります。何か騒動が起こっている最中ですが、「私は高みの見物だよ」と落ち着いて騒動の鎮まるのを見つめている人を見たりします。

 政治の世界などでは、絶えずこんなことがありますね。

 「保守派と革新派の主導権争いが山場へ差し掛かっているけど、もともと私は中立派だから、高みの見物だよ」

 如何にもその人は、如何にも高いところから見ているという風に聞こえるのですが、この「高見」の「見」は当て字なのだそうで、「白い」というのを「白さ」とか「厚い」を「厚さ」と言ったり、「深い」を「深み」という風に形容詞に「さ」とか「み」をつけて名詞の方たちを取ることがあるそうで、「高見」は本来「高み」であって、高いこと、高い所の意味なのです。

 つまりあの常套句は「私は高いとこるにいるので、騒ぎ儀巻き込まれないでどう落ち着くかを静観しています」というようなことになるのです。

 なかなか厄介なのが日本語ですね。

 これを使えば「甘味」「苦味」「辛味」の「味」は当て字で形容詞に接尾語の「み」がついているので「甘味」といって「味」が付いているのは当て字なのですね。

 もう一度文法を勉強しなくてはと思ったりします。


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嵯峨天皇現代を斬る その十の四 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」(  


        課題「四十歳の祝いと初老を知ること」


 四十歳は初老の始まりです。ここから新たな人生が始まると言っていいでしょう。これは古代も現代もないのではありませんか。ここを起点としてこれからどう生きようとされるのでしょうか。


為政者・淳和天皇


天長二年(八二五)十一月二十八日のこと


発生した問題とは


「人生、いつまでも若くはない。その時その時やって置かなくてはならないことがある、新たな人生が始まるということを知るべきだ」


そんなことをおっしゃって淳和(じゅんな)天皇に譲位されたのですが、その皇太子には御子の正良(まさら)親王が就いていらっしゃいます。嵯峨天皇から太上天皇となられて間もなくのことです。


そんな十一月二十八日のこと、四十歳を祝賀する宴が太上(だじょう)天皇ご夫妻がお住いの、冷然院(れいぜんいん)で行われることになりました。


そのことについては、すでに二年前の淳和天皇に譲位された後、身軽になられた太上天皇は、幼少の頃乳母を務められ、その後侍読としてもお仕えになっていらっしゃる、今は後宮の(みかどのいし)という地位に就いている笠朝臣道成(かさのあそんみちなり)を呼んで、太上天皇の在位中の為政について振り返ってみようとなさったことがありました。その時道成は思わず四十歳の祝いについて触れたことがありました。


堯・中国古代の伝説の聖王は星の運航をみて農耕の暦を定め、舜(中国古代の説話に出る五帝の一人)は暴雨、雷雨に迷わず天子の位に就きました。孔子は『天命を受けた王者が出た後一世代三十年を経て仁の世になる』と述べています。漢の高祖より恵帝・少帝・孝文帝まで四代、四十年となりますが、祖霊桓武聖帝から淳和天皇まで、暦を調べますと四十年、天皇は四帝であり、嵯峨太上天皇と淳和天皇の年齢は四十歳におなりになられます。真に立派な政治によるめでたい(しるし)です。伏して考えますに、陛下の四十の算賀の後は、これまでの四十年が終わり、陛下を初代とする新しい四帝の時代が始まりますということでした。


 多分祝いの日には、皇太子がそんなことを唐国の篆書(てんしょ)から学ばれてお祝いを言葉を述べられるでしょうと説明されたことがありました。


為政者はどう対処したのか


 盛大な宴は華やいだ雰囲気に包まれ、朝から延々と続けられて太陽が西に傾くと燭を(とも)し、更に興趣を盛り立てるように雅楽寮の者たちが音楽を奏し続けています。そんな中を中納言良岑安世(よしみねやすよ)が、冷然院の正殿の南の階から降りて舞い、群臣もそれに続きます。これまでの形式に則った宴とは違った、形式通りというものではなく、楽しむということを優先して考えられた、大変気持ちが解放された、いわゆる遊宴といわれるものなのでしょう。嵯峨太上天皇が今上であったころから行われるようになったもので、これまでにない新しい宴の形でした。


その日の宴はやがて夕暮れになったころ、雪が降り出したのですが、今度はその中を妓女たちが、舞器を持って舞います。豪華で大変華やいだ宴になりましたが、やがて皇太子正良親王が進み出て、太上天皇に対して挨拶を致します。


 かつて道成が予言したように、皇太子は太上天皇の前に進み出て、こうご挨拶いたします。 


「私は『礼の極致にあっては格別責めることなく天地が互いに合致し、大音楽にあっては個別楽器の音や声は弁別できないものの法則に適っている』と聞いております。堯(中国古代の伝説の聖王)は星の運航をみて農耕の暦を定め、舜(中国古代の説話に出る五帝の一人)は暴雨、雷雨に迷わず天子の位に就きました。「孔子は『天命を受けた王者が出た後一世代三十年を経て仁の世になる』と述べています。漢の高祖より恵帝・少帝・孝文帝まで四代、四十年となります。桓武聖帝から淳和天皇まで、暦を調べますと四十年、天皇は四帝であり、嵯峨太上天皇と淳和天皇の年齢は四十歳におなりになられます。真に立派な政治によるめでたい徴です。伏して考えますに、陛下の四十の算賀の後は、これまでの四十年が終わり、陛下を初代とする新しい四帝の時代が始まります。天子としての良き運が集中し、至徳はますます盛んになり、陛下の行いは虞舜に一致し、仁は漢の文帝よりも敦く、いよいよ礼楽につとめ寿命は長くなりましょう。私は皇太子として、陛下の長寿を仰ぎ見、天下が歓びを同じくし、人々が慶んでいるのが判ります。私も大変幸せであり、心からの喜びです。わずかな贈り物で陛下を汚すことになりますが、謹んで衣・琴などを献上いたします。これは物というより私の誠意を示すものです。およそ聖人の寿命は天から受けるもので、臣下がそれを祝福しても利益はありません。しかし心中の思いを言葉に表さずにはいられません。願わくは陛下が日月星辰と共に皇位の坐を守り、遠く長寿を仰ぎ、変わらぬもののたとえである南山(比叡山を北というのに対して高野山をいう)と同様でありますことを」(日本後紀)


 確かに四十歳は人生の内で一つのくぎりです。古代も現代もありません。


温故知新(up・to・date)でひと言 


 


 昨今は全体的に長寿になっているようなので、四十歳といってもまだ青年といった印象で、昔で言う初老という印象はまったくありません。しかしそれだからと言って、まったく年齢というものを意識せずにのんびりとしていることには疑問を感じます。時は知らぬうちに過ぎ去っていきます。いろいろなことで、間違っている余裕はありません。取り返すことが出来ない時間が過ぎていくのです。前車覆轍(ぜんしゃふくてつ)などという言葉をご存知でしょうか。 前の車のひっくり返った轍の跡は、あとから行く車にとって良い戒めであると言います。先人の失敗はよい教訓になるということです。虚心平気(きょしんへいき)です。先入観やわだかまりを持たず、人の意見も素直に聞ける心穏やかな気持ちになって進んで行きましょう。竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)いう言葉があるように、竹の切れ端木の削りくずのような、取るに足らないつまらない物でも、何らかの役に立つことがあるということを頭に置きながら、注意深く周囲を観察して、学べるものは学んで心豊かな人になっていきましょう。


 


 


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑30 [趣味・カルチャー]

「浮足立つ」

なにかそわそわとして、落ち着かない状態を「浮足立つ」といいますが、そんなことはよくあるのではありませんか。特に憧れの人と会えると判った日などがそうで、何か今にも飛び立って生きそうな受胎になったりします。

こんな状態になった話が、日本の歴史の中にないかとさがしていたら、やっぱりありました。典型的な例として有名な「浮足立つ」話が残っています。

治承四年十月・・・1180年にあった源平合戦の時のことです。

平家の東征軍と源氏の頼朝・武田信義連合軍が、富士川を挟んで対峙した時のことです。勢力はほぼ互角といわれていたのですが、その頃平家側はその地盤である西日本が飢饉で苦しんでいたり、京都を出発する時に、幹部クラスの将軍同志が喧嘩してしまったりして、軍の士気は落ちてしまっていましたし、どうも軍の士気は浮足立っていたのです。そんなところに、水鳥が一斉に飛び立つ音にびっくりして、兵士たちはわれ先に逃げ出してしてしまったりしてしまいました。それが有名な富士川の合戦でした。

そんなことから、水泳で足を浮かせて泳ぐテクニックが浮足立つ感じがあるとも言いますし、相撲では爪先立って勝負する時などに浮足立つ感じを活かした技があったりしますが、通常はあまりご縁のない世界・・・つまり証券界でも株の取り引き相場の値が不安定であることを「浮足」というようになった様ですね。

いいことで「浮足立つ」のはいいのですが、よくないことでこんな状態になるのだけは避けたいものです。


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嵯峨天皇現代を斬る その十の三 [趣味・カルチャー]

      第章 「いい人生を生き抜くために」()


        課題「朔旦冬至(さくたんとうじ)と神霊の不可思議」


延暦二十三年(八〇四)十一月一日に、はじめて桓武天皇が行ったと「続日本紀」に記されているのですが、現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるのではありませんか・・・。


為政者・桓武天皇


延暦三年(七八四)十月三十日のこと


発生した問題とは


天応元年(七八一)四月三日。光仁天皇はほぼ十年というワンポイントリリーフの役割を果たされて、四十五歳の山部親王へ譲位して桓武天皇として即位されるのですが、きわめて困難な時代でした。その年の十二月二十三日に、上皇は崩御してしまわれると、葬儀を終えたばかりだというのに、延暦元年(七八二)には朝廷の要人であった氷上川継が、兵を率いて朝廷の転覆を図ろうとしていることが発覚しましたし、三方王もそれに関したりで、長いこと国の為政を支配してこられた天武天皇という伝説的な皇統と違って、まだ皇統としては歴史の浅い天智天皇の系列の方々にとっては、平城京というところはかなり住み難いところであったのです。


「朕は天下に君主として臨んで、人民を慈しみ育んできたが、官民ともに疲れ衰えて、朕は誠に心配している。ここに宮殿の造営などを中止して農業につとめ、政治は倹約をこころがけて行い、財物が蔵に満ちるようにしたい。今、宮の住居は住むのに充分であるし、調度品も不足していない。また寺院の造営も終了した。貨幣の流通量もふえ、銭の価値がすでに下がっている。そこで造宮省(宮城の造宮修理を司る)と、勅旨省(勅旨の伝達と皇室用品調達を司る)の二省と造法花寺司(法華寺造営を司る)と、鋳銭司の両司を止めることにするそれで蔵の宝を婦や市、無駄を省いた官位の政治を尊ぶようにしたい。ただし、造宮省と勅旨省の各種の技術者はその能力によって、木工(もく)寮・内臓寮などに配属し、余った者はそれぞれ配属以前のもとの役所に(かえ)せ」(続日本紀)


 この二年後そんな延暦三年(七八四)ついに十一月十一日には、七十年もの間都として栄華を誇った平城京を去って遷都を行うことにしたのです。しかし遷都を実のある形にするために、政情の安定を願っていたのですが、蝦夷(えぞ)の抵抗が激しいために、その討伐、鎮圧にかなりの財を費やさなくてはならないという問題を抱えていました。その頃は平城京中では盗賊の数が市外に増えるという、物騒な世の中になっていて、街路で物を奪い取ったり、家に放火したりしているという。担当の役所が厳しく取り締まることができないために、暴徒が盗賊となってこのような被害を起こしているのです。


「今後はもっぱら令の規定にあるように、隣組(となりぐみ)(五戸で作る。相検察させ違反を防ぐのが狙い)を作り、間違ったことを検察するようにせよ。職に就かず暮している者や、博打(ばくち)内の輩は、(おん)(しょく)(高官の孫や子の特典)からはずし、杖百叩きの罰とせよ。放火や略奪・恐喝の類は必ずしも法律に拘らず、死刑の罰を持って懲らしめよ。つとめて賊を捕え悪者を根絶せよ」


 厳しい指示をしていらっしゃいます。


 天皇にとって忘れられない大事な日がもう目の前に来ているのです。それは交野(かたの)百済王(くだらおう)から聞いた朔旦冬至(さくたんとうじ)という吉日だったのです。


為政者はどう対処したか


 桓武天皇は若いころから親族とも思っていた、百済王(くだらおう)のところへ長岡京からよく通ってきていたのですが、そんな時に十九年に一回巡って来る、朔旦冬至といって、陰暦十一月一日が冬至に当たる日が吉日になるので、その日に大事な祀りごとの日であると言って、郊天祭祀(こうてんさいし)に招かれたことがありました。皇統が正しいかどうかが決まるというのでした。もし即位した者の徳が無くて、天が認めないようなことになったら、政変が起こるというのです。桓武天皇はその時のことを忘れてはいませんでした。そしてこうもおっしゃるのでした。


 「人民は国の根本であり、(もと)が難ければ国は安らかである。人民の生活のもととしては、農業と養蚕がもっとも大切である。この頃諸国の国司たちはその政治に不正が多い。人民を慈しみ治める道の方法に背いていることを恥じず、ただ人民からの収奪が上手くいかないことを畏れている。林野を広く占有して人民の生活手段を奪ったり、多くの田は竹を経営して人民の生業を妨げたりしている。人民が弱り憑かれるのはこれが原因である。これらの行為を禁止し、貪りと汚れた心を懲らしめ改めさせるべきである。今後、国司らは公廨田(くげでん)(地方官の俸給として支給される田)の他に水田を営んではならない。また私に欲深く開墾して人民の農業や養蚕の地を侵してはならない。もし違反する者があれば、収穫物と開墾した田はすべて官が没収し、ただちに現職を解任して違勅の罪を科す。国司の同僚と郡司らがそれを知って罪をかばいかくしたならば、ともに同罪とする。もし糾弾して告発する人があれば、その罪を犯した者の田の苗を糾弾告発した人に与えることにする」(続日本紀)


延暦二十三年(八〇四)十一月一日に、はじめて桓武天皇が行ったと「続日本紀」に記されているのですが、現代でもお正月に「一陽来復」などというお札を頂いて来る方がいらっしゃるのではありませんか・・・。


 そうおっしゃった後で、様々なしがらみがあって生きにくい平城宮から長岡宮に移られたのです。


 これほどまで天皇が大事にする日は、現代ではどうかと調べたら、今日でもそれは生きていました。


温故知新(up・to・date)でひと言


現代でもお正月に「一陽来復」というお札を頂いて来る方がいらっしゃるでしょう。まさにそれが朔旦冬至の行事なのです。それは一つの時代が終わり、新たな時代が始まるという区切りともなる儀式をあらわしているのです。平安時代では宮中へ文武百官が集結して盛大な祝宴が行われます。つまり冬至に至って寒気が極まると、陽気が少しずつ起こるようになるので、寿福をもたらすということを知っていらっしゃった嵯峨天皇は、その幸運は独り占めせずに天下と共にその幸せを分けたいとおっしゃって、刑罰を受けている者を赦したり、才能のある者を顕彰したりして、恩沢と栄誉を施して、朔旦冬至という有難い巡り合わせを広く知らしめたのです。まさに「経世済民(けいせいさいみん)です。国を治め人民の暮しを整えて。管理するということです。それにも「吉日良辰(きちじつりょうしん)・・・よい日柄というわけです。まさに大安吉日です。これぞと思うことを「熟慮断行(じゅくりょだんこう)


 


しましょう。よく考えて充分に検討した上で、思い切って実行することです。


 


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