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嵯峨天皇現代を斬る その十の六 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()

        為政者の課題・「有能な直言居士・篁・復職」

 相手が時の権力者であっても、言うべきことはきちんというという性格の、篁のような人物は現代でも必要なのではないでしょうか・・・。

為政者・仁明天皇

承和八年(八四一)九月十九日のこと

発生した問題とは

 「天は公平で、その奥深い働きにより人を(すく)い、聖人は自分の利害を忘れて優れた徳を広め、仁政を行うものである。神霊の咎めには実があり必ず悪政に応ずるものである。過去を顧みて、恥じ入る次第である。古典に、人が国の本であり、本が固まって国が安定するといっているではないか。朕は心から人民の養育を切に思っている。そこで今、格別の思いで、宮中からの使人(しじん)(命を受けて使いをする人)を派遣して慰問し、住居が破壊し生業が失われた者については、使人と所在国司が検討を行い、今年の租調を免除し、併せて物を恵み与え、家屋の修理を援助し、死者は努めて埋葬せよ。政化に内地と蝦夷地の違いはなく恩恵の施しは中外共に同じである。内地民であろうと夷であろうと普く手厚く対処し、度量の広い慈愛の方針を隅々まで伝え、朕の思いやりの心に適うようにせよ」(続日本後紀)

 今上の思いの背景には、嵯峨太上天皇の施策の在り方を進言した、右大臣源常(みなもとのときわ)の存在があったに違いありません。どうやらそれには勢いを増してきている中納言良房に対する牽制の意図が感じられるのですが、彼はそんなことをすればたちまち不遇になるということに対しても、まったく頓着せずにしきりに政庁の改革を訴え続けてきているのです。今上の務めが厳しくなってきているというのに、天はさらなる試練を課してくるように思えます。今回はいつもの干天とは違って、おびただしい雨が降り続けるので、それを止めるための祈りを捧げなくてはならなくなったりするのです。洪水のために百姓の家屋が流されたり、京中の橋や山崎橋が全て壊れてしまったりしているという報告があって、気分的に落ち着かないでいるというのに、官衙には規律の乱れが表われてきているのです。今上はそのためもあって、小野篁の存在に注目されたようでした。ある日彼に正五位下を授けるとおっしゃるのです。

 「篁は国命を承け期するところがあったものの、失意の状況となり悔いている。朕は以前の汝のことを思い、また文才を愛する故に、優遇処置を取り特別にこの位階に復することにする」(続日本後紀)

 清廉潔白な生き方をすることで知られている彼を、官衙の粛正に役立たせようとしたのでしょう。間もなく正五位下刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆ)にも任命されました。かつて今上が即位されると嵯峨太上天皇は将来を予見して、今上の周辺を近臣で固めるように指示されたことがありました。あれは結局このような時を予見していらっしゃったからかも知れません。もともと今上は虚弱体質でもありましたので、病に倒れることが多いものですから、篁はそんなところへお邪魔して、気の置けないお話などをしながら、官衙での動きなどについての情報を伝えたり、さまざまな進言をしていたように思われるのです。

 はじめに右大臣が藤原三守(ふじわらのみつもり)から源常に変わったのも、帝を支える援護者が、藤原氏に傾き過ぎたのを修正し始めたのではないかと思われるのです。それと同時に嵯峨は、桓武から平城という皇統の流れが、いよいよ嵯峨から仁明(にんみょう)へと繋がり、嵯峨王朝を確立する時がやって来ているのではないかと思わせる雰囲気がありました。帝の周辺には、嵯峨とのかかわりの濃い者が集められてきています。その時に備えるための、力をたくわえつつある藤原氏との間には、ついに確執が生まれ始めていたようにも思えるのです。間もなく赦されて隠岐島から戻る小野篁についても、嵯峨にとっての近臣であった小野岑守(おのみねもり)の子として、その才帝はその能力を高く評価されていたのです。野狂(やきょう)といわれる直言居士という変わった性格ではありましたが、配流を解かれ旧職にも復帰させて、帰京させることにしたのです。

為政者はどう対処したのか

官人として復活することになれば、目をかけてくれた嵯峨に対しては当然ですが、死罪になってもおかしくない、朝命に背いた篁を救ってくれた右大臣の藤原三守(ふじわらのみつもり)に対しても、申し訳が立ちません。

あの年はじめに長いこと嵯峨院へお務めしたあと、右大臣に昇任された三守に対して、その娘と結婚したいという文書を送っていたのです。その時の文面は名文として「本朝文粋」に残されているくらいで、その甲斐あって結婚も出来たのですが、それから数か月後に起こしてしまった事件では、岳父(妻の父)が嵯峨と昵懇であったということもあって、死罪を逃れることになったと思われるのです。

 上京するにあたって、再び迷惑はかけられないという思いはあるはずです。きっとその強運と英才ぶりを発揮してくれることになれば、時代の変化に翻弄されている、御子仁明天皇の政庁を支える者として働いてくれることを期待したのではないでしょうか。

 「篁は命を承け期するところがあったものの、失意の状況となり悔いている。朕は以前の汝のことを思い、また文才を愛する故に、優遇処置をとり特別にこの位階に復することにする」(続日本後紀)

 今、天皇にとって為政者としての生命を維持するために、はずせない存在であると考えていたのです。あの直言居士という性格も貴重だと思うようになっていらっしゃったのでしょう。間もなく天皇は更に篁に対して正五位下刑部少輔(ぎょうぶのしょうふ)任命しました。さまざまなことに気配りをしていらっしゃった嵯峨太上天皇は、病を得て伏してしまわれ、政庁は使者を大寺へ送って誦経(声を上げて経文を読む)を行わせ、皇太子(恒貞(つねさだ)親王)、親王以下五位以上の者が左右の陣頭(宮中の衛士の詰所)に控えさせたりしました。

 温故知新(up・to・date)でひと言

 現代では私利私欲で発言する人はいるかもしれませんが、自らの死を賭しても正論が吐ける人がなかなか現れてきません。古来「撥乱反正(はつらんはんせい)という言葉があります。乱れた世を治め正しい平和な世界に返すことをいいます。そんな時にはどうしても「用行捨蔵(ようこうしゃくら)という言葉どおり、出処進退の態度が立派で、巧みな人の登場を願うしかありません。たとえ自分が用いられるなら、理想を追求して行動し、捨てられるなら一時理想を仕舞いこんでチャンスを待つという我慢のできる人でもいいのです。その時その人の評価である「毀誉褒貶(きよほうへん)」は決まります。つまり何が良くて何がよくなかったのかが決まるのですが、先ずは篁のように行おうとする決意と決断が必要なことで、それに対してはあくまでも真摯で清冽な思いが籠められていなくてはならないでしょう。

 

 

  


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