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嵯峨天皇現代を斬る その九の二 [趣味・カルチャー]

      第九章「人間関係をうまくやるために」(二)

        為政者の課題・「生き方の違いを理解せよ」

 嵯峨天皇が治世を託されてから、これまでと違って刻々と蝦夷に対する意識は明確になってきています。これまで戦いを行いながら、蝦夷の人間の生き方を理解しようという心境に達していたのでした。そして・・・。

為政者・嵯峨天皇

弘仁七年(八一六)八月一日のこと

発生した問題とは

 夏のある日のこと、皇太弟の大伴親王と共に、皇后のいらっしゃる後宮で宴が催されると、親王に宝琴を下賜なさり、彼にそれを演奏させたりして皇后と共に楽しまれました。こんなことを催して、後宮と皇太子とを近づかせようとされたのでしょう。こうして身近なところでは、気遣いも充分に発揮できるのですが、民との接点を円滑に作り出すのは大変困難です。地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。天皇はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、

 「夷俘(いふ)の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(おっそ)(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚(ふしゅう)担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)

俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。帝は彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように、指示をしていらっしゃったのです。

 信濃国が「去年は不作となり、国内は食糧不足です。伏して、穀一万穀を払い下げて商布を買い上げ百姓の窮状を救うことを請願します」と訴えてきたので許可を与えましたし、延暦二十年の強化では「強化に馴染んでいない俘囚らは、内国の風俗に馴れていないので、田租を収納しないことにする。徴収開始については後の詔を待て」と指示している。いま夷俘らは帰化して年数が経ち、教化に馴染んでいるので、口分田を授けて六年後から田租を収めよといい、また大宰府が「新羅人清石珍ら百八十人が聞かして来ました」と訴えて来たので、「時服と路次の間で必要とする食料を提供して、幸便の船で入京させよ」と指示しました。

 嵯峨天皇が治政を率いるようになってから、もう七年にもなります。

大分為政についても落ち着きを持って運営していらっしゃるのですが、政庁を悩ませてきた蝦夷(えみし)俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として連れて来て、各国の民と共に暮らせるようにすることはできないかと、いろいろな面で廷臣たちと腐心していらっしゃいました。伊勢神宮司の大中臣朝臣清持(おおなかおみあそんきよしじ)という者が、規則を守らずに仏事を行ったという問題が取り上げられ、神祇官(じんぎかん)卜占(ぼくせん)したところ、そのようなことをすると祟りを招くというのです。天皇は直ちに大祓いをするように命じて彼を解任したりしました。

神祇官が「高畑山稜の樹木を伐採したので、亀卜を行たところ、祟りの予兆が現われました」と訴えてきましたので、天皇は次のように答えられました。

「朕は心から山稜を敬っているが、官司が監督を怠り、今回の咎徴(きゅうちょう)の出現となった。法を調べると、山稜内のに木の伐採は軽罪ではない。今後は厳しく禁断せよ」(日本後記紀)

風雨が不順で、田畑が損なわれるのは、国司が祭礼を大切にしないからである。ところで、「いま青々とした苗が繁茂している」と耳にしたが、神祇を敬い、おおいに豊作をもたらすようにすべきである。願わくは、良い穀物が畝に満ち、人民が豊かになることを、畿内・七道の職に指示して、官長が慎み物忌(ものいみ)をして名神(みょうじん)に奉幣し、風雨の止むことを祈願し、手抜かりの内容にせよとおっしゃいました。

為政者はどう対処したのか

さまざまな方面に細心の注意を払っていらっしゃるのですが、地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。天皇はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。天皇はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように指示をしていらっしゃったのです。

民の中で抵抗民族であった蝦夷がいるが、朝廷に従がった以上民と差別をしてはいけないと(さと)すのです。

嵯峨天皇の博識による先見性による指摘です。つまり相手を理解せよというのです。

こんな問題はまさに現代的な問題でしょう。気の抜けない問題が山積です。さまざまことに気遣いをなさる天皇は、それだけ目に見えない疲労が蓄積してしまうのでしょう。諸問題の処理に疲れて、とうとう病臥してしまわれたのでした。

しかし天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。蝦夷との共存をするために、その生き方を理解しようという心境に達していたのです。

正に異民族との共存ということでは、まさに現代的な問題提起に、なっているのではないでしょうか。

 確かに人にはそれぞれ違った暮らしのスタイルがあります。まして今回の問題のような違った文化をもった民族の場合は、その暮らし向きについての理解をするということは、容易なことではありません。しかしそれだからと言って、お互いの無理解をそのままにしてしまっていては、永遠に対立は解けないでしょう。先ずはそれぞれの生活の情報を手に入れておいて欲しいということが大事ですが、先ずはマジョリテイ側のマイノリテイに対する度量が必要です。広く包容力が求められるような気がします。

温故知新(up・to・date)でひと言

 理解し合うということを、四字熟語ではどのようなことを言っているでしょうか。清濁併呑(せいだくへいどん)といって、すべてを飲み込んで向かい合う、気持ちの広さが必要です。しかし古来磨斧作新(まふさくしん)という言葉があり\ますが、どんなに難しいことでも、忍耐強く努力すれば必ず成功するということが云われます。人間生来の善意でもって、打算抜きの安らかな気持ちが無くてはなりません。そして生知安行(せいちあんこう)という言葉を思い出しましょう。人間生来の善意でもって、打算抜きのやすらかな気持ちで行うことで、困難な問題も解決の道が開かれます。


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