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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑14 [趣味・カルチャー]

「進化する通信網」

 昨今の通信技術の進化は、実に驚異的なものがあります。それは若い読者のほうが良く知っているでしょう。すべてがデジタルで行われているのですから、古代は緊急の連絡があった時どうしていたのでしょうか。

 近くの人に連絡する場合は別として、遠隔地の人に連絡する場合はどうしていたのだろうかということが問題です。日本の通信法の原点であった狼煙(のろし)というものは一体いつごろ入って来たのかということなのですが、それは七世紀半ばに中国からもたらされ、はじめは「(とぶひ)」と呼ばれていたということが判りました。そのきっかけになったのは、朝鮮半島で起こった騒乱がきっかけだったのです。

親しかった百済(くだら)が、唐・新羅(しらぎ)の連合軍のために滅ぼされてしまった時のことなのですが、その時我が国にいた百済の王子を呼び戻そうという動きがあって、近江朝廷は二万七千という大軍を出して、救援に乗り出したのです。ところが白村江(はくすきのえ)の戦いで壊滅的な敗北を喫してしまったことがあったので、その敗戦によって唐の軍がいつ襲撃してくるか判らなくなってしまったのです。我が国は急いで国土防衛をしなくてはならなくなってしまったのです。大宰府を移転させたり、高安(たかやす)屋嶋(やしま)()大野(おおの)などに築城をして、防人(さきもり)を配備しました。

その上で異変を直ちに飛鳥へ知らせ、迎え撃つために兵を集めたり、安全なところへ避難したりするために、情報が少しでも早く届けられる必要があったのです。

北九州から飛鳥まで、隣が直ぐに見える見晴らしのいい山に、「烽」を置いて監視していたのです。

唐軍が北九州に現れれば、直ちに対馬で狼煙を上げ、それを見た壱岐(いき)で狼煙を上げ、そういったやり方で、知らせを順につないでいって飛鳥へ報告が届くのです。

おおむね「烽」は二~三十キロ間隔でおかれていましたが、その伝達の内容は、敵兵の数によって煙、火の数も違っていましたが、昼間は(よもぎ)(わら)、生柴を燃やして煙を立て、夜は乾いた葦を芯にして、油の多い草木の先端を組み合わせた松明を組み合わせて火を焚き、隣のところへ知らせたということでした。

通信技術については日進月歩でその技術的なことの進化が加速的に進んでいるようで、古代のそれは夢の中の出来事のように思えたりします。しかしあまり激しい勢いで進んで行ってしまうと、それについていくのに追いまくられて、大事なものをついうっかりして忘れてしまったり、時代の濁流が前へ前へと勢いよく進む中で、つい押し流してしまった宝石のようなものを、一生懸命に探し出していかなくてはならないと思っているところです。

今や5G通信の時代ですが、あえて知恵を磨きながら、不便を乗り越えていった時代のお話にしました。


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